「清和源氏」はありえない
足柄山の金太郎は源氏
平家は源氏を奴隷として輸出していた
「足柄山の山奥で‥‥」の童謡で名高い坂田の金時は、子供の頃に絵本で散々眺めさせられたが、マサカリ担いで本当に獣を集めて相撲をとらせたり、馬の代わりに熊にのったりしていたものだろうか。 また、五月五日の端午の節句には、「金時」の人形が必ずといって良いほど飾られるのは、(勇壮な男児に育ってほしい)といった親の願望だけでなく、金太郎系の原住民が今もかなり多いせいではなかろうか、などとも想える。
また、坂田の金時のほかに、渡辺の綱、碓井(うすい)貞光、卜部季武(すえたけ)という、源頼光の四天王の名が、治安元年(1021)に初めて現れてきて、 いわゆる源氏の郎党団のはしりをなすのも、それ相応のいわれがあるのでは‥‥と考えられるものがある。 そして一般に、よく、「清和源氏」といわれるが、戦後は、清和帝と源氏は無関係だったとか、誤りであるといいだされてきた。となると、 「清和帝----貞純親王----経基----満仲----頼光」といった従来の、「その頼光の弟の頼信から、頼義。そして八幡太郎義家」とする源氏系図なるものは、 まるっきりの架空のフィクションと化してしまう事にもなる。それでは、「足柄山」の山中で、わざわざマサカリ担いだ金太郎が、熊に跨ってハイシドウドウ、ハイドウドウと馬乗りの稽古をつみ、 「坂田の金時」と改名し、頼光の四天王になったのも意味合いがなくなるような気がしてくる。
では、源氏とはいったい全体、何であったのか‥‥、彼らが自称していたらしい、「みなもとの何某」という表現の仕方は、ミナモトの民、つまり原住民を意味するものとみるしかないから、 彼らがそうであるなら絶対に天孫系の皇統であり得る筈ではないのであるともみられる。つまり、 「清和源氏」というのは、系図歴史屋のフィクションではなかろうかという事になる。 昔は、「は=わ」ゆえ「姓わ源氏」といった歴史の嘘としかみる他はなくなる。
源頼光の弟頼信が、岩清水八幡へ捧げた告文に、「吾は陽成帝の御子元平王の流れをくむ、経基の孫である」とあるのが発見されたとして、戦後になってからというもの、 「これまで清和源氏といわれていたのは、陽成帝では御治世の功績もなく、それに早く藤原氏によって廃帝された御方と伝わり、桓武平氏という称号に比べ、対照上劣るような感じがするからして、 清和帝の子孫が『源』の姓を賜ったことにしたのだろう」と、これまでの、「清和源氏」という呼称は実存しない誤りであったとされるようになった。が、 「陽成帝よりの流れであるならば」というので、今では、木地師とよばれる山者の祖先といわれる御方の祖先と、源氏の祖は同じこととされ、「陽成源氏という呼称に変えるべきだ」 の説も強まっている。しかしである。
「誰が誰の末裔」といった系図的思考は、ひとまずこれを棚上げとして、
「源」という姓だけを考えると、なにも源姓は、清和帝や陽成帝の御子孫に初めて授かったものでもなんでもないようである。もともと、 『日本三代実録』というのは、清和、陽成、光孝三朝の国史であるが、その貞観元年(859)正月の条をみると、清和帝が御即位なさったばかりだというのに、もう、 「左大臣、従二位 源の朝臣真(あそんまこと)」 「縁葬諸司 正三位 源の朝臣定(あそんさだ)」 「参議中納言正三位 源の朝臣弘(あそんひろし)」 「参議左兵衛従四位 源の朝臣多(あそんただし)」 「兵部少輔従五位下 源の朝臣直(あそんすぐる)」 武官系の殿上人には源の姓をつけた者が、ずらりと並んでいる。
これでは清和帝の子孫の授姓でもなければ、その御子陽成帝の御子孫に、初めて賜ったものでもない事が一目で判り得る。 貞観十八年[876]十一月二十九日に陽成帝が、御位を替わられ、年号が、「元慶元年」と改まるが、源融以下左大臣、大納言、参議の源氏の者らの身分はその儘である。 三年後の元慶三年[879]。この二月四日に十七歳の陽成帝は、藤原一門のために二条院へ移され給い、帝位は仁明帝の第三皇子であった五十五歳の時康親王へと譲られ、 この御方が光孝帝とならせられるのだが、正月の宴ではまだ、 「源 融はそのまま左大臣」「源 多が大納言から昇進して右大臣」 「源 能有が、参議から中納言に昇任」そして参議には新しく、「源 冷」「源 光」「源 是忠」の三人が加わっている。 その後、間もなく藤原基経太政大臣の野望によって、藤原一門がこぞって、「帝廃位」の不敬をあえてするようになるのだが、まだ正月には、「源」の姓のつく一族一門は栄えていたのである。 となると、さて、これまでのごとく、「清和源氏」といった名称を公然と用いていた歴史家は、「清和帝のお生まれなされる以前から、源の朝臣某といった連中が、 きら星のごとくいたのでは、説明のつけようがない」 というのであろうか、それにこの時代は、「応天門炎上の伴善男事件があったので、どうしても右大臣や左大臣といった官職をもつ源朝臣の名も表向きになってしまう」 と気をつかってのせいか、これら源の姓をもつ人々を、「王と運命を共にした」というこじつけであろうか、「王氏」とよび、王氏と藤原氏の争いによって陽成帝の廃立を説明しているようである。
そして延喜十三年(913)まで右大臣をつとめた「源朝臣光」を最後にして、源の姓を持つ者は御所から消え失せてゆくのである。 さて、それではこの源姓の者たちの発生はいつからかとなると、 「桓武帝」の次の「平城帝」そして、その後の「嵯峨帝」の御系図によれば、
嵯峨-----仁明帝-----文徳帝-----清和帝-----陽成帝 |___源 信 |__源 多 |__源能有 |___源 常 |__源 光 |___源 融
つまり清和帝の御誕生以前から、源の姓は皇室の御一門の賜姓として既にあった事になっている。 そして、藤原氏の策謀によって、源姓系の天皇さまは追われ、そのクダラ系の御一族も追手の眼をのがれ各地へ逃げられたから、今いう処の、白衣をきたり白旗をたてるところの、 「近江源氏」「村上源氏」といった色々なグループが各地で生まれるようになるのらしい。
しかし、いくら命からがら逃げ落ちられたにしても、そう簡単に何処へでも逃避行できるというものではない。 そこで陽成帝側近の源姓の者らは、かつて嵯峨帝の祖父に当られる桓武帝の延暦の御代に、百済王俊哲や坂上田村麿をして討伐させ、その捕虜を全国二千余ヵ所に分散させた別所へと、 その難をさけられた。そこのは、桓武帝の時からの者だから、「彼処へ入りこめば、われらは助かろう」と、それぞれ各地の別所へと源氏は入りこんだのである。 この「別所」という地名は、今でも柳生但馬守の、柳生の庄にもその儘で残り、「別所小学校」の名もあるが、鯛で名高い備後の鞆の浦へ行く道路の左側も、やはり「別所」の地名で残っている。 名古屋から静岡にかけては「院内(いんだい)」、京では「院地」「印地」、地方では「、山所、産所」ともよばれる。安寿と厨子王の連れてゆかれた所の、 「山所太夫」というのが、そこののことで、そうした地域は、原住民捕虜収容所だった関係上、山奥や辺ぴな地帯だったので、そこに住む奇怪な生物も、「山椒魚」などとよばれる。
さて山の中の別所へ入りこんだ源氏と原住民は、「生きてゆくため」には、原生林を切りひらき、山中の獣を集めてこれを馴らしたり、その肉を食し皮をはいで防寒具にした。 そして、いつの日にかまた再起する時のため、山中で武闘を旨として、その訓練にあけくれていたのである。 だから○金の腹掛けをしていたかどうか判らぬが、金時がまさかりを肩に、熊にのっていたのはその為であり、刀伊族が船団を連ねて来寇してきた国難の時がきて、彼らに徴用令がでて、 「国土防衛の士は集まれ、憂国の者は来れ」それまでは見むきもされなかった敵性の別所へも布令が廻ってきた。今でいえば、さしずめ自衛隊の創設である。 そこで坂田の金時は足柄山別所から、渡辺の綱らは京の羅生門あたりの茅屋から、源の頼光司令官の軍隊へ応募し、やがて、「四天王」とよばれるようになるのである。 そして今も源氏が好きな人が多いのは、金時らの子孫が、現代の吾々日本人の中には、かなり多いことを意味しているのだろう。
エビスとは何なのか
「征夷大将軍」という官名に対しての、これは疑惑であるが‥‥ 永承六年(1051)、奥州平泉の東夷尊長安倍頼良(のち頼時)が反乱を起こした。そこで陸奥守藤原登任が討伐に向かったが、あべこべに撃破されてしまったため、 急遽京へ向け、「乞う援軍、われらとても打ち勝こと能わず」と、 悲壮なSOSを発したので、時の関白藤原頼通(通長の長男で、一条中宮顕子の弟にあたる)が、源頼信の伜の頼義をよび、 「汝を陸奥守に任ずるによって、征きて東夷を討つべし」と命令を下した。そこで源頼義はその子の八幡太郎義家以下家の子郎党を従えて、「勝ってくるぞと勇ましく」とばかり奥州へ向かっていった。
ところが延暦の昔、紀の古佐美が平泉へ討伐に行った時は、「征東大将軍」の官名と節刀を奉じて行ったが、源頼義の場合は、「陸奥守の後任」というだけで、御所へよばれて正式に辞令が出たわけでもなく、 節刀を拝受して行ったものでもない。ただ藤原頼通の代理の右大臣藤原教通から、「確りやってくるがよいぞ」と激励され、送り出されたにすぎぬ。そこで史家の中にはそれを証拠に、
「安倍一族はアイヌの東夷の酋長に当るから、その討伐位に、大げさに征夷(東)大将軍の任命などしなかったのだろう」との説もあるが、はたしてそうだったのだろうかと、これに引っ掛かる。 『東北史料』の<奥羽記要>には、「頼義これ夷なり、そのため昇殿は許されず、もって節刀を賜ることなく東行す。よって土人らはその威に服さず」とあるからでもある。 さて、「征東大将軍」の官名はその当時すでにあった、「征夷大将軍」の方は、この百三十年後の寿永三年(1184)に、源義仲が初めて授けられる官名
だからして、 (まだ、ないものが授与される訳とてなかろう)といってしまえばそれ迄の話だが、これには別の理由があるらしい。
紀の古佐美の時には、東海道東山道各地から召集した壮丁五万をもって、進撃させたのだから、どうしても、いかめしい肩書きが統制上必要だったのだろうが、 「源の頼義の場合」は、奥州の平泉へ行くまでの間に、各地の別所に入れられている原住民と、そこへ紛れこんでいる陽成帝の頃の、落武者みたいな源氏の末裔を、呼び集め統合して行くだけのことだから、 いわば一族一門のことであるとされていたらしい。 つまり、なにもなんとか大将軍などという、肩書きを貰って行かなくても、統制上支障を来さないと見られていたからなのであろうと考えられもする。
なにしろ、この時点から約三十年前に、刀伊(一)の来寇があった。それまで海外から攻めこまれる事など、夢にも考えていなかった藤原氏が、これには周章てふためき、 「これは、えらいこっちゃ、大変どっせ」とばかり、かつての被占領民である俘囚の裔を狩り集めてきて、「剣の鍛造が手間どるなら片刃だけでよいから、量産に励め」 当時のことゆえ、軍需工場は村の鍛冶屋だから、これを総動員して、「その手ゆるめば、戦力にぶる」とか、「産業戦士が国運をささえ握る」と、それまでの双方の剣に代わる、 片一方だけが刃のカタナ(片名)を、どんどん作らせ、これを俘囚の裔にみな持たせ、インスタント武士団である国土防衛戦士を編成したことがある。 「刀伊の来寇」を「刀一」ともかくのは、この時、片刃刀が生まれたせいによるらしい。つまり、源の頼光やその四天王の坂田の金時らも、そのときの一員だったのであるが、
さて俄か作りとはいえ、日本が挙国一致体制をしき、「片刃とはいえ刀まで量産して、迎え撃つ構えをしている」という情報が向こうに伝わったせいなのか、 「では止めとこう」となった模様で、その後は進攻してこなくなった。だから藤原氏は、やれやれとほっとしたものの、 「武器をもたせた俘囚の裔を、ぶらぶらさせておくのは危険だ」クーデターでも起こされては大変と心配したあげく、 「夷をもって夷を征さすべし」となって、これが、「東北進攻」の命令となったのである。 さて、この、「夷」というよび方であるが、これはもともと日本語ではなく、中国の呼称なのである。
つまり、話は横道にそれるが、
「倭」が紀元一、二世紀頃の名だったのに代わって、それを征服して建国した、崇神朝以降の日本に対する中国(後漢から蜀、晋、宋)から見ての呼称であった。 だからインドの矮小民族が群居していたヤバダイや八(はち)ハタ国家群が、「倭」ならば‥‥騎馬民族のたてた国が、「夷」ということになるわけだが、これを「イ」と発音するか、「エビス」と読むかで色々と違ってこようというものである。
昔のことだが、東京の山手線のエビス駅の近くに昭和の初めまで、「エビスビール」の大きな煙突が今はまたリバイバルされたが、その頃は残骸をさらしていた。 もちろん今はないが、このビール会社没落の原因は、大正初年シベリヤ出兵の頃か、その後は、北樺太より沿海州方面へ、ビールをどんどん輸出したのが一本も売れなくて、破産したからである。 なぜ売れなかったかといえば、北樺太や沿海州のツングース系人の間では、「エビス」というのは、日本語の「オ○○コ」と同じような、極めて一般的に普及している女性自身の原語だったからして、 向こうの男共に、「そこは此方から入れる個所であって、此方の咽喉へ通すものではない」とか、「おう不潔‥‥」といった具合に完全な不買同盟をつくられ、総スカンをくったからである。
その内に冬季がくると、零下三十度の寒さに、瓶がみな割れてしまって返品も不能になり、そのビール会社はついに倒産してしまったのである。 江上波夫氏の「騎馬民族説」つまりツングースが日本へ渡ってきたのではないか、という発想も、案外このエビスビールがヒントであるのかも知れない。 さて、「夷」とよばれるのが、ツングース系だったとなると、彼らは、その渡来した当初こそ、矮小民族の国々を馬蹄に踏みにじって、日本列島を押えていたものの、 そのうち文化の進んだ三韓からやってきた軍勢に追われたのか、それともシャモロの仏教勢力によって叩かれたのか、征服され、あくまでその新興勢力に帰順しなかった者らは、 「敵性原住民」として別所へ収容されたり、さもなくば東北の寒い地帯へ追い詰められていたものらしい。
つまり、エビスダイコクといった七福神というのは、「蘇(素)民将来系」という原始宗教の祭神になっていて、特に、(鯛を抱えたエビスと、米俵二つを踏まえたダイコク)の一対は、 今でも縁起物として売られたり飾られているが、双方とも男体というのは変である。あれの原型の、「お白さま」というのが東北に残っていて、今では「こけし」にも転化し、 「おひなさま」にも変化しているが、米俵二つを踏んづけているのは、ホーデンを意味する男性の象徴だからダイコクさまは男らしい。しかし、エビスの方は初めは女らしいのである。
七人の内で弁天さまだけが、唯一の女人で、後はみな男というのでは釣合がとれぬから、すくなくともエビスも、やはり女人の性器名ゆえそうであるらしい。 東海地区は別所をもって上にオをつけて呼ぶが、関西へゆくとエベスの転化をもって呼称する地域もある。しかし仏家は、この原始宗教の七福神を忌み嫌っていたから、 余計にこんがらかせようと意図し「酒をハンニャ湯」といったように、寺の隠し女のことを故意に、「ダイコク」などといわせている。
さて、当時の日本の生き残りの夷で、東北で一大勢力をしめしていた安倍一族は、のち「藤原姓」を金で買った藤原三代の遺体が、ミイラとして残っているので骨格の復元をしてみたところ、 アイヌ系というよりは大頭のツングース系だったといわれている。 こうなると安倍一族に従っていた軍勢の中には、北海道のアシュロ系のアイヌ人も混じっていたかも知れぬが、平泉に砦をかまえていた安倍の一党は、そうではなかったらしい。 しかしアイヌでなくても、公家からみれば、夷と目されるツングース系の騎馬民族であった事に間違いない。 だから、伊勢二見ガ浦と平泉の二ヵ所だけに、「松下社」とよ蘇民将来系の日本土着系の神社がある。彼ら土着民を騎馬民族が押え服従させるために、その神を押えていたものと推理できるのではなかろうか。
源平合戦は奴隷の反乱
「おごる平家は久しからず」とはいうものの、1132年(長承元年)に、三十三間堂建立の建築技術を認められ、内昇殿へ上ることを許された平忠盛の伜の高平太が、 その三十五年後(仁安二年)には、「太政大臣平相国清盛」となり、四年後(承安元年)に、彼は十五歳の娘の徳子を、十一歳の高倉帝に押しつけ奉り、 「平家にあらざれば人に非ず」とばかり「お種頂戴」を強要するまでに専横をほしい儘にし、そして十年後にその清盛入道が死ぬと、あとはバラバラになって転落の一途を辿り、 寿永四年(1185)の三月に平家の一門は、壇の浦の海底へみな沈んだことになっている。 ただ清盛の弟経盛の末子敦盛だけが、一の谷の合戦で船へ逃げこもうとする寸前、波打際で熊谷直実につかまってしまった。
ところが、見ればまだ稚(わか)く美しい身分ありげな公達なので、熊谷直実は、「さあ早うに行きなされ」と見逃して助けようとした。なのに、 「これこれ熊谷どの、何をしておられる」と源氏の兵が近くまで駈け寄ってきたので、敦盛も、もはやこれまで逃れえぬ土壇場と観念してか、けなげにも首を直実の前にさし伸ばし、 「早うに、お討ちなされましょう」と口にした。熊谷直実は不憫とは想ったが、味方の荒武者が集まってくるのでは、もはやなんともならず涙をのんで、
「では、お覚悟ッ」と、その細首を打ち落したが、敦盛の事を忘れかねて戦後は出家し、二十三年後の承元二年(1208)九月十四日に京の黒谷で死去するまで、 「あつもり」「あつもり」といっていたというが、そんなに美少年だったのだろうか。どうも話としては面白いが、あまりに話ができすぎていて、衆道の盛んな頃の作話らしく、 文政五年(1822)刊の黄表紙の、「一谷双葉軍記」では、うつ伏せにねじ伏せた敦盛の鎧の下垂れをめくりあげ、直実がなんしている挿絵まで入っている程である。 とはいえ、だからといって敦盛が絶世の美童だったかどうかは、想像画しか残っていないから判らない。
しかし引っ掛かるのは安芸宮島の厳島神社で、拝観料をとる宝物殿に飾ってある陳列ケースの中の、「平家公達の佩刀」と説明されている刀である。 平敦盛も平家の公達の一人だから、一の谷の戦でもこうした佩刀をおびていただろう。処が、これは日本刀ではない。 全然そりのない棒剣なのである。これはトルコの三日月刀(ヤガタン)と同じような、サラセンの貴族が腰にささず、ぶら下げるものであって、イスタンブールや、ヨルダンの空港では、 同型のものを土産品として米貨15ドルぐらいから並べて売られている。 さて、その宝物殿の入って右側の、採光の悪いガラスケースの上の方に、古い彩色画とミニチュアの模型の船がおかれている。 これを見た時、はて何処かで同じ物にお目に掛ったことがあると考えたら、ポルトガルのリスボンの海岸べりにある海事博物館に、「ムーアの王の船」として陳列されていたモデルシップと、 そっくりそのものなのである。
しかし、このモデルショップたるやガレー船なのである。奴隷が左右に三十人ずつ、交互に漕ぐように櫂が並んでいる船である。 アラビア人とアフリカ人の混血したのがムーア人だが、こうした奴隷船はスペインやポルトガルの古書には、よく挿絵入りであるし、映画でも見られるものである。 しかし日本には、奴隷を鎖でつなぎ鉄笞でぶん殴って漕がせるガレー船は、なかったことになっている。なのに厳島神社宝物殿には、 「平家御座船」の小さな木札とともに、模型が展示され、胡粉がとれ薄ぼんやりとしてはいるが、船が海に浮かんでいる絵までが現存するのである。これは何を意味するのだろう。
それに、もう一つ、 源氏の方は各地の別所へ押しこめられていた原住系の裔だから、近江から尾張からと一斉に蜂起して、武士団を結成するのだが、平氏ときたら、何処彼処から挙兵して、 清盛の許へ駆けつけてきたという話は何もない。対比してみると、源氏には、梶原源太景時とか和田義盛といった一騎当千の家臣団の名が、きら星のごとくに並ぶが、平氏の方はこれといった名も伝わっていない。 みな、「平家の公達」と御一門の名だけである。現代の株式会社には、「同族会社」というのがあるが、武士団で同族きりというのは変である。
だから平家の武士団とは何処からかの、傭兵としか考えられないが、そのせいか壇の浦合戦で、すうっとみな消えていってしまう。日本史では、海底の藻屑となってしまったということになっているが、 それならば、(死体を確認し、その首をもいで)一般に公示しなければ、討ち取った事にはならない。ただ漠然と、見えなくなった海底へ沈んだらしいだけでは、今でいう、「行方不明」にすぎなくなる。
当時の源氏は平宗盛とその子清宗、平時忠だけを捕え、その首を六条河原にさらしただけにすぎない。 謡曲では、平知盛が舟の碇を身体にまきつけ、海底に沈んだように作ってあるが、碇は救命ブイと違って一人一個の割りにはなっていない。 舟一隻に一個しかついていない筈だから、完全に沈んだ者は一隻一人となる。では平家一門がみな死んだのを証明したのは誰かというと、小泉八雲こと外人のラフカディオ・ハーンである。 彼は「耳なし抱一」をかいた時、幼い安徳帝初め平氏の一門の石塔がずらりと並んだ墓所で、抱一が琵琶を弾じたように描写したからして、それからというもの、 (平家の一門のお墓が揃って有ったという事は、皆水死をとげたという証拠であろう)とされている。つまり小説で外人が証明した恰好になって、明治期に墓も揃い、それで日本史はできている。
しかし、この海戦で変なのは、平氏の船団が、小舟の類に到るまで鉄鎖で連絡されていたということである。当時の日本は、今もそうだが鉄の産出はすくなく、鉄鎖など貴重品である。 それに、これから海戦をしようという船群が、そんなふうに行動の自由を自分から束縛するような事をしたら、船合戦など出来よう筈がない。 だから「義経八艘飛び」などといったジャンプもされてしまうのだが、これは何故だろうか‥‥となるのである。
しかし寿永四年三月二十八日というのは、今の太陽暦に直すと五月三日。つまり東南へ季節風が吹きだす時期に当たっている。 平氏の船団は、その季節風に流され、内海から外洋の黒汐にのって、東南アジアへ脱出するため、はぐれぬよう小舟まで繋いだのではあるまいかと考えられまいか。 また海戦の途中で平氏の船団は東南へと流されていってしまったから、平氏一門の大半は取り逃してしまったものの、 (次に、東南の方角から逆の季節風が吹いてくるのは、冬である)という知識は源氏の武者共にもあったから、すぐさま頼朝へ、 「平氏の大半を討ち洩らし逃がしましたが、もし取って返して攻めてきましても、それは半年先のことにござそうろ」 と梶原源太らが、そのことを鎌倉へ注進をしたのだろうことは想像がつく。
『玉葉』や「吾妻鏡』をみても、本来なら平氏の残党狩りを徹底的にやるべきなのに、頼朝は平氏と結託した公卿の追捕は命じているが、てんで平氏の残党狩りなどやっていない。 それどころか頼朝は平氏の方は放ったらかしで、その翌月から義経や伯父の行家を、反革命分子として追うのに憂身をやつしている。 ----だがこれでは日本史は辻つまが合わなくなる。そこで、「平家」とか「秘境」というのが各地に点在するのである。
「おまや平家の公達ながれヨーオーホイ、おどま追討の那須の末ヨー」といった「ひえつき節」が今も唄われているから、 (船にのり損ねたり、浮び上がって陸へはい上った平氏の残党が、源氏の追捕を逃れて山の中へ逃げこんで、そこに秘境を作った)といった具合にされている。 しかしガレー船を漕がせていた海洋民族の平氏が、どうして山の中などへ入りこんで生きてゆけようか。そんな事をしなくても、年に二回交互に季節風が吹き、外洋の黒汐の潮流にのれば、 楽に南支やマレーへ行けるのが判っていたのだから、とっくに彼らは洋上を逃げていた筈である。では、「秘境」とか「平家」と今いわれている所へ、逃げこんでいたのは誰だったかといえば、
それこそ頼朝の死後北条氏に追われた源氏の残党たちである。
彼らは前にいた別所は、北条氏によく知られていたので、「自発的により深い、より安全な山の中へと、 それぞれ彼ら源氏の者らは逃げこんで行った」とみるべきで、「歴史読本」(42年3月号)に、「四国の険しい祖谷(いや)山脈の平家と称される所に、実は源氏の余類が秘かに匿れすみ、 その子孫が引き続き現存しているのはまことに面白い話である」と紹介されているのもその例だが、そうした秘境には、「白山神」が例外なしに祀られているのも、その特徴であるといえよう。
白山神とか白山権現は(所によっては白髯神)は、韓(から)神さまであって、かつてツングース族が騎馬民族として、白衣を纏い白旗をたて日本列島へ渡来してきた時に奉じてきた祖神である。 彼らは平氏とは違い、「山の民」であるから、人跡まれな秘境へ入りこんでも、どうにか生きてゆけたものらしい。
これも----今まで誰も解明しなかった事実で、まさかと首を傾けるむきもあろうが、今の神戸、その当時の福原を清盛が開港し、いった何処と貿易していたかを考えても、この答えはでてくる。
これまでの史家は、朝鮮中国と交易していたものとしているが、 「対馬の国主宗親光」は、平氏を恐れ高麗(こま)に亡命していたが、壇の浦合戦がすむと、高麗王より、「これを進物に」と舟三杯の貢物を頼朝宛にことずかって帰国し、 国交再開の書面を鎌倉に届けているし、南宋孝宗淳煕も、「相国入道の時には国書を遣した者に非礼を加え、往復が絶えていたが今後は旧交を温めん」と使者をよこしている事が、 「宋国史」にも残っている。
そのせいか、頼朝の死後、源実朝は北条政子ら一族の圧迫に堪えかねて、1217年(建保五年)に南宋亡命を企てねばならなかった事実もあるのである。
『吾妻鏡』や『玉葉』にも記載されている宗親光の、高麗よりの国交再開打診の話と並べてみると、平氏が朝鮮中国とは交易通商どころか国交さえ絶っていた事実が、それらでも立証され得る。 となると平氏は、福原港つまり現在の神戸港を作ったのは、いったい何処の国と交易したり国交を結ぶ為だったろうかとなる。 しかしその頃は今のようにアメリカもまだなく、ロシアも有りえないのだから、朝鮮中国と仲違いしていて、それ以外の国といえば、地図をあけるまでもなく、東南アジアとか西南アジアといわれる地域か、 またはその先のインド、パキスタン方面という事になるだろう。 そして日本からは西南方面に吹く貿易風の吹く季節に船出しても、途中で、風の切れ目もたまにはあるだろうから、日本沿岸では珍しい奴隷に漕がせるガレー船も平氏には必要だったのだろう。 そして奴隷といっても、まさか向こうの人間を使うわけはなかろうから、平清盛は、山間に隠れ住んでいた原住系の男を捕えさせ、これを鉄鎖につないで船を漕がせたのだろう。
だから、彼ら原住系の中には酷使に堪えかねて、寄港先のマレーシア方面で脱走を計った者も多かったらしく、 「逃亡奴隷」として案外に早くから、向こうには日本人が潜りこんでいたらしく、それぞれ日本人町といったタウンも、海岸べりに作っていたものと想像される。 また、福原から何を輸出していたかという問題も、ここに出てくる。
史家は、味噌、漬物、織物とか漆器、刀剣甲冑ととくが、それらは江戸初期に向こうに定着した日本人が多くなって、成功した彼らの需要によって、初めて輸出可能になったものであろう。 まだ命からがらに海を泳ぎ渡って陸に辿りつき、掘立て小屋で食うや食わずで乞食みたいな有様だった逃亡奴隷に、そんな物を輸入させ購入するだけの余力があったとは考えられぬ。 では車も電化製品もなかった時代に、何を船積みして送り出していたかといえば、中世紀の交易品は世界中共通であるが、運搬が容易な商品である。 つまりそれは人間である。平清盛は福原から奴隷輸出をして儲けていたとしか推理できぬのである。
そして、その人間資源たるや、原住系つまり源氏の者らである。 さて、日本史では源氏の面々が、「平氏追討」の院宣を賜わって各地から、馬に跨って集まり、やがて平氏一門を倒してしまった‥‥という事になっている。 しかし、院宣という言葉に惑わされるが、ときの帝は、たとえ幼少であらせられても、清盛の孫に当たらせたもう安徳さまである。 だから体制は平氏の側にあり、源氏は反体制として決起し、いわば革命を起こしたのである。
さて今も昔も庶民は、体制には従順なものである。成田三里塚の農民たちが肥やしを頭からかむって抵抗したのも、何処からの至上命令でもなく、あれは吾れと我身を守る自衛でしかないのである。 つまり、源氏が痩せ馬に鞭うち、ゲバ棒担いで集まってきたのも、次々と捕えられ奴隷として積み出され、あの段階ではあれ以上は、もはや堪えられぬ限度へきていたのである。 その当時としては、源(みなもと)と自称する民族は全滅寸前まで追いこまれていたと見るしかない。
という事は、山狩りをされ、身体強健な者はガレー船の漕手にされ、他は数珠つなぎにされ、その船で商品として向こうへ輸出されていたのに他なかろうから、 やむを得なかったのだろう。 つまり絵巻物での源平合戦は、美しくきらびやかであるが、あれは後世の絵空事としか想えぬ。まさかすぐ人目につく、あんなきらびやかな鎧をきていては、実際は、 矢を散々打ちかけられて狙われてしまうから、もっと地味な戦闘服だったろうし、それになんといっても、実質的には源平合戦たるや「奴隷の反乱」だったのだから、 もっと、みじめったらしく寒々としたものだと想うべきで、それを否定したい方は、元禄十五年(1702)十二月に、大石内蔵介以下が、あんな揃いのコスチュームで吉 良邸へ押しかけたとでも思っている、芝居と現実をごっちゃにしている人かも知れない。