武家女性史
織田信秀の妹 「貞女尾張御前」
戦国時代 産まない女たちの考察
頼朝の妻政子、信長の妻奇蝶、秀吉の妻ねね
身分ある女は出産しなかった
「鎌倉に縁切り寺というのかあった。一度縁づいた女はどんな事があっても、離婚できない悲しい運命に泣かされていたので、此処へ飛びこんで俗世と縁を切り、 三年経つと寺から許し状が貰えて、初めて夫と別れられたのである」と、『日本女性史』なる本に書かれている。
しかし、織田の父の織田信秀の妹で美濃岩村城を味方にするため、そこへ縁づいた女性は、夫が若い女中を己が床へ連れこむのを知るやいなや、 「……わらわという者がありながら」と、激怒した。
が立腹して尾張へ戻ってしまっては、兄の織田信秀に叱られる。そこで天井の梁に松皮丸太を何本も積ませ、夫が女中と重なり合っている時に切って落させ圧死させ、代って自分が女城主となった。 さてその後、尾張では信秀が死に三男の織田信長が跡目をつぐ事となった。 しかし岩村城は大切ゆえ御坊とよばれる末弟の源三郎を跡取りにとさしむけた。 ところが武田信玄もさるもので、その家来の中で女好きのしそうな秋山伯耆という者を、岩村城へ使者の形でおくりこんだ。 いつの世でも女性というのは、見てくれのよい男には弱いものである。尾張御前も、「まあ好いたらしい」と、一目みてなってしまった。 すると信玄は、しめたとばかり、座光寺三郎と大島勘解由の両名を次いで送りこんだ。「二人とも秋山どのに劣らぬ容姿の佳き方」と尾張御前は参ってしまった。 つまり、食前、食間、食後といった具合に三人と仲良くなった。 早速、信玄は御坊源三郎を人質にとって、岩村城を自分のものにしてしまった。 そこで織田信長も驚き、叔母にあたる彼女に意見の使いをだした。が、男の中年からの浮気はやまないというが、女も同様。 しかも両手に花どころか、三位一体では、「いやじや」という事をきかなかった。 やむなく信長は天正三年十二月に攻めた。ところが尾張御前は三人の男を守るため、「おのれ甥っ子の分際で生意気な……」 とばかり、赤髭をうえた鉄面頬を顔に、緋縅の大鎧をつけ織田勢めがけ突入した。
さて、相手が故織田信秀の妹ゆえ主筋に当るから、これには困った織田勢が、「まさか槍を突きつけられもしまい」 と、おたおたしている処を、次々と鉄砲で仕止めては首をあげた。 これが何日も続いたから信長も堪りかね、 「秋山伯、座光寺三郎、大島勘解由の三名を助命しよう」と和平の使者を送った。 そして三名を長良川畔へっれてゆき、岩村城をあけ渡して出てきた尾張御前を、岐阜城へとつれ戻った。が、これを謀略と勘づいた尾張御前は、さながら気でも狂ったように、 「この身はどうなっても構わぬ。あの三名の者の無事な姿がみたや」とばかり喚き眸んだ。 いくら肉親の叔母でも、こう取り乱されては家臣のてまえ恰好かっかず、「ならば叔母上、おまえさまの御命頂戴す」 信長が自身で彼女を斬首しようとしたが、いくら刀をふりかぶっても、まるで鉄筒のように刃先が跳ね返って斬れない。そこで戦国期一級史料の、 『当代記』には、この情景を、「刀きれずして死にかねらる。信長公の御佩刀はもとより業物なれば、見る者みな愕き、不死身とはかかることをいうのかと囁く」と出ている。
これは当時有名な話だったらしく、太田牛一の『信長公記』にもあるが、しまいに信長が癇癪を起して、 「三名の者は既に長良川原にて張付けぞ」と本当の事を教えると、尾張御前は、 「……げえ」とばかり眼をむいて信長を振返り、「よくも瞞したな……」凄い形相をみせた。 しかしである。やがて、「もはや揃ってあの世へ行ってしまった、ものならば……この身ひとりが残ってなんとしよう」と囗走り、やがて静かに目をとじた。 すると、それまでは、いくら斬っても落ちなかった首が、初めてすとんと前へ転げ落ちた。 そこで人々は、男を想う尾張御前の女心に感じ入って、その亡骸を河原で処刑された三人と共に、一緒に埋めたと記載されてある。
現在のように一夫一婦制でなかった昔は、一夫多妻だったりその逆であったらしいが、その内に女大学や夫唱婦随の時代となり、「想夫恋」として鬼神をも哭かせるこの夫婦愛の話も、一婦多夫とい うのかまずいのか。 確定史料のどれにも載っている戦国悲話であるのに、あえて誰もこれをとりあげてはいない。 それを、あえて此処で挙げたのは、戦国時代の女性のあり方を、これまでの歴史の嘘から脱して、その時代のありの盡の実相を、なんとか判ってほしかったからである。 余談として記しておくが、イギリスのエリザベス女王だとて、肖像画のような美人とは程遠い容貌だったし、 若くて見目良い壮健の家来を夜毎ベッドへ引っ張り込んでの乱行三昧だった。 夜専門のセックス専用御奉公だからこれを「ナイト」と格好つけていた位のもので、洋の東西を問わず性欲は男の専売に限らないというこれは証拠である。 女は石のごとく
さて、いよいよ本題へ話は入るのだが、歴史上有名な英雄の夫人たち、たとえば源頼朝の妻政子、織田信長の妻奇蝶、豊臣秀吉の妻ねね、といった女性たちは、どうして自分の子をうまなかったのか という事である。 『吾妻鏡』は、筆写されている内に、不自然さを紛らわす為か、政子の子は生れてすぐ死んだようになっているが、頼朝は五十三歳まで生きたのだから、一度でも受胎させえたものなら機会は他に何千 回とあった筈である。 『玉葉』又は『玉海』ともよばれる当時の九条兼実の日記には、はっきりと、 「子なきをもって、左大臣藤原道家の子三宝二歳を迎え、将軍家藤原頼経となしこれを助く」と政子の本当の処が書かれている。 信長の妻奇蝶は美濃の斎藤山城守の一人姫で、いわば美濃の国力をもって信長を、信秀なき後の尾張の跡目にしたようなものだが、彼女は一人も子をうんでいない。 生駒将監蔵人の後家娘にうませた長子を、引取って吾が子としたのが奇妙丸で、のちの織田中将信忠。 次子で幼名三介の織田信雄も同腹で、三番目の三七のちの織田信孝が、伊勢神戸の神戸具盛の妹ですでに子持ちであった板御前が信長のためにうんだ子。 四男以下もみな異腹だが、奇蝶自身がうんだ子はまったく一人もいない。 豊臣秀吉の正室は木下藤吉郎時代からの、「ねね」だが、淀君には子ができたが彼女は一度も腹をいためていない。こうなると、「石女」といった呼称かあるけれども、有名武将の正夫人である彼女達は いずれ揃って皆不妊症だったのだろうか。
誰々は何歳の時に嫁したとかヽ何歳の時に結ばれたといった記載は残っているがヽ頼朝と政子は月に何回致したとか、信長と奇蝶における夫婦生活の実体といった、臨床的データーは残念ながら伝わっていない。 秀吉も藤吉郎とよばれた頃には、他に相手もなくもっぱら妻一人を慈しみ、「ねね、ねよう」とばかり求めていたろう事は、想像にかたくないが、だからといって一日に何回したかといったような記録は、その祐筆の『豊鑑』の類にも記されてはいない。 しかし子作りでは大器晩成と云っても、実際の方は相当に早くから人並み以上では、なかったろうかとも想われる。 なのに、ねねが産んでいないのは、彼女に受胎能力がなかったものとみるべきなのか。
淀君の産でいる子が秀吉の種とすれば、そうした見方も成立つ。その点、信長は堂々と十有余の他の女に、十二名の子供を産ませているゆえ、彼に受胎させる能力が十分に備わっていた事は歴史が 証明している。 となると、この場合もやはり奇蝶の方に、受入れ態勢が整っていなかった事になる。 この点は頼朝の場合も同じで彼に能力が立派にあったのは、なにしろ最初に他の女に子をうませたのを、政子が無慈悲にも七里ヶ浜へ遺棄させている事実でも判る。 それに、まだ彼女の頃はコロンブスも生れておらず、従って不妊の原因ともなる性病など、各地に伝播もされていなかったから、それによる受胎障害などなかった筈である。 こうなると政子はもとより、ねね、奇蝶らは、冷静にみて冷え症だったか、子宮後屈などの発育不全ではなかったかと考えざるをえなくなる。 しかし歴史上あまりにも有名な武将夫人が、みな打ち揃って子宮がいびっだったとは、どうも話が変ではあるまいか。 とはいえ先天的不妊症が原因でないとしたら、やはりどうしても性病か婦人病とみるしかない。 そこでコロンブス以前であっても南蛮人が怪しいと睨んでみても、種ケ島ヘバスク人が渡来した天文十二年には、源平時代の政子はとうの昔に死んでいる。 信長の妻奇蝶は、その当時八歳。秀吉の妻ねねは、まだ五歳だった。 そして、南蛮人が多く入ってきだした頃には既に二人とも結婚している。身分柄まさかよろめいて病気を貰ったとも思えない。 では英雄ともなるような男は、違ったもので彼ら、つまり頼朝や信長や秀吉は、「子供など生れたら煩わしいから、子を生まぬ女を探すにしかず」と彼女らを選んだものであろうか。ここが判らないところである。 なにしろ、現実において子をはらむかはらまないか、これは実験してみなくては、前もって知りようもないと思える。 すると、その時代にも五味康介氏のごとき女体鑑別の大家がいて、髭をなぜなぜ、「これならば荻野流の術の必要もなく」と、彼女らを選んだというのであろうか。 が、実際はそういう事はなかったろう……となると、きわめて奇怪至極にすぎる。では、この謎はどうしたら解けるのであろうか。
下請け産業
『医学天正記』の著で知られる曲直瀬道三の書き残したものに、 「雖知苦斉」と題するのが残されているが、その中に、 「お産はそれ婦人の大役にして、産褥にて亡くなるものすくながらず、よって、腹は借りものと称して、身分家柄の高き女性は己が子を産むの煩わしさを避け、身分低き女子をもって代りをさせる」 と、あるのがでている。また、その伜の曲直瀬正紹は、 『玄朔道三配剤録』とよぶ、後年編纂された「医学天正記」の神記を書き残した他に、「延寿院記」なる日記も伝えている。
その中に、身分の低い女に、奥方が子うみをさせることを、彼は、「産業は女の大役にて子を助けんとすれば、その身を失う事も珍しからず、よってこの、下請け産業というは女子といえど一死を賭して、その毆に奉公することであれば、家臣の中にても良き家柄の、 志操固きものこそ選ばれねばならぬ」と書いている。 これをみると、頼朝の妻であれ、信長や秀吉の妻も、うっかり妊娠して臨月となり、産業の大役で命を失っては大変とそれを避けていたからして、石女扱いを後年になってされたのではなかろうかとも想像される。 もちろん奇蝶のように、生駒の後家娘に下請け生産させた児を、産褥の床からすぐ取りあげてしまい、これを、 「乳人」とよばれた乳出し女に養育させて、わが子としてしまい、自分は、「妻の座」を守って、女房業に専念していれば良かったのだから、云わば現在の妻一人の仕事を三人で分担するシステムで、これなら、 (女性か男性と伍し一個の人間として生きてゆくのには、これまでのような出産育児といった煩わしさから、解放されねばならない) といったボーボワールの『第二の性』の、先取りといったことにもなるのである。
つまり以前流行したウーマンリブが、プラカードを立て、ヘルメッ卜姿で竹竿を振り回し、アメリカ輸入のつもりで新しがっていても、歴史を正確に見直せば何の事もないようである。 日本では既に四百数十年前に、竒蝶やねねは、ヴァージュアウルフのいうごとき、 (女は社会的存在として生きてゆく為には、独自の時を持たねばならない)を、さっさと実践していた事になるのである。 つまり信長の妻とか秀吉の妻といった当時の進歩的婦人たちは、出産育児に煩わされることなく、一個の人間的生き方をしていたということである。 源頼朝の妻であった政子が、頼家、実朝と殺させて実家の北条氏に政権をとらせ、己れは、死に際しては果然と源姓を拒み、「平の政子」として死んだごとく。 奇蝶にしても亡父斎藤道三の城たった岐阜城を回復するために、その異母弟斎藤玄蕃允をもって城主にせんとして拒まれるや、美濃三人衆稲葉一鉄の縁辺に当る内蔵介を使嗾して、本能寺を爆発させ 信長を髪毛一本残さず、噴き飛ばしてしまったように。
ねねの場合も秀吉の死後、東西陣営に分れて関ヶ原合戦となるや淀君への憎さから、故秀吉の大坂方を滅ぼす手助けをして、徳川家康より、 「お骨折り過分であった」と、河内で一万六千石の報酬を受取っている。が、だからといって家康に心服していたわけではなかったらしく、彼を呼び棄てたり云うことをきかず楯をつき、 「憎々しき老婆かな」と家康を何度も立腹させていたのは、徳川史料の、『当代記』の慶長六年から十九年迄の、随所にそれは記載されている。 「子はカスガイ」といった諺もあるが、彼女らには子がなかったせいか、みな、夫の死後や死ぬ時には、それぞれが裏切ったような恰好をとっている。だからして、 (子をうまなかったのは、名目だけの夫婦で交渉は何もなかったのではあるまいか) と勘ぐられもする。しかし奇蝶にしろねねにしろ、生涯禁欲していた女性にしては、生々しすぎる感がしないでもない。さて、この謎ときはもうすこし後にして、 『徳川十五代記』の記載を先に引用すれば、 「十三代将軍家定の正室澄心院は、一条左大臣忠香の猶子明姫となっているが、畏き辺りの御落胤といわれている。姫は身長一メートル十セソチにみたぬ短身で、唐紙の把手まで頭が届かぬ幼女のごと き有様にて足袋は七文。こびと姫と申上げた」とある。これが、 「奇体な難病療治」と題される国芳描くところの三枚続きの錦絵では、(中央に明姫らしい幼女のような御簾中の姿と、その周りをとり囲む医師たちが手を伸ばし、指を挿入させている)ような具合で描かれていて、
「これ位がおよろしいようで……」と、卜書き迄がっけ加えられている。がまた、よみ本の、 「柳亭桃水作御伽草紙小指姫」になると、 「せっかく貰うた嫁女じゃ。もしもやり殺してみいな、向うの親ごさまと気まずうなる。じゃによって本番は、下女でもよんで用をたしておけ。ええか判ったかや」 「というて、おやじさま。柄はこまうても十八の女盛り。もしむずかってしたがったら、何としましょうぞ、のう……」 「はてはて才覚のない伜めじゃて。そういう時は太指ではまずいから、そっと小指でも用い手ずまを使うてやるのじゃわい」 洒落本とか黄表紙ともよばれた江戸時代のポルノグラフゆえ、書いていることが露骨だが、家定将軍が遠慮して触れなかった事への諷刺であろう。しかし小指でこそぐる位なら、なにも将軍みずか らしなくとも、お側の女中衆でも、その用はたりたのではあるまいか。 さて、これは京から室を迎えた将軍家の場合だが、将軍家の姫君を貰った大名はどうかといえば、 十一代家斉のごときは子女五十四人ともいわれ、その姫を賜わった家は多い。が、うっかり将軍さまの娘を妊らせ、お産をさせて、もし産褥熱でも出されたら、ペニシリンもアクロマイシンもなかった 頃のことゆえ、 「お産は女の大役、不幸にも御逝去」では、恐れ多くて将軍家に申訳がたたない。 といって、明姫のようなミニミニ型なら、 「小指の思い出」だけでも済むだろうが、成熟しきった姫君の場合は親指でも無理ゆえ、この問題をどう処理したものかとなる。
信州松代藩の真田幸貫は松平定信の息子で養子に入って、のち、やはり将軍家の姫の御降嫁を恭のうした一人だが、この人の日記の『松影抄』に、 「昔は稚児小姓というは衆道の為にありしときくが、当節は奥向きに召仕われるが多し」の一節がある。これを推理すると、まだ受胎させる能力のない十三、四の少年が選ばれて、女装をさせられてそ の用つまり御降嫁の嫁さまの相手をしていたものかとなる。
「湯島でもお城下りは前も売り」の川柳かある程だから、陰間とよばれた中でも、色子の方は後ろが専門だが、屋敷奉公の小姓くずれは、年上の女にその方で商いをしていたらしい。 となると現在、江戸城の女中が孤閨に悩んで用いたものと袮せられるベッコウ細工や、鯨骨の張形も、本当は将軍家の姫が嫁入りの際に自慰用にと持だされたものかも知れぬ。 なにしろ葵の紋は入っていないが精巧な品が多く、頗る高価な物らしいから、女中風情が自力で購入できたとは考えられない。 さて、貝原益軒の門人樫原重軒の、『養生訓読解令集』によれば、 「子を産まぬ為に梅干の種をつけし水にて洗うを良しとするも、もし経血滞りたる後にしあれば、ほおずき、いたどりの根を……」といった。バスコソ法までが書かれている。 信長や秀吉時代の公家である山科言経の日記は、岩波から上下二巻刊行されているが、「月さらえ薬、遡月丸」といったような、妊娠中絶薬を家伝薬として商っていた旨の記載があるし、滝沢馬琴の 『椿説弓張月』にも、
「子おろし一服丸。経通散」の広告が、その裏表紙には堂々とでている。 明治軍部が人的資源確保こそ、富国強兵策であると、堕胎を厳しく取締り、そうした漢方薬を一斉に摘発してしまったから、今では伝わってもいないが、がっての日本にはピルにもまさる避妊薬や、 中条流のごとき簡便な堕胎術が昔からあったのではあるまいか。 だからこそ、政子、ねね、奇蝶といった夫人たちも、接して洩らさずではなく、接しても産まず、 そうした産業は、それしか能かないといった女にやらせ、後は引取って乳人をつけ、自分は一個の人間として、「脱・女」の立場から、おおいに働いて夫に天下取りするような大仕事をさせ、やがてそ れがエスカレートしてその成果を自分で、引っくり返してしまうようにもなったのだろう。というのは、子を産まなかったとはいえ、彼女らの勇ましさは、張形をこそこそ使用し遣瀬なさを紛らわせて いたような陰鬱さはない。きわめて闊達である。だから、する事は充分にしても唯うまなかっただけだと想う。つまり、 「女は、それを我慢できない」と云われる程だから、化学薬品ではない安全確実な、避妊薬や中絶薬が昔は昔なりにあったのであろうと推理するのである。 なのに江戸時代から、インフレがひどくなって生活難となり、女性が一人で子をうみ乳をやり、そして女房業をと、がっての三人役を一人で済ますようになったから、「素幃らしかった日本女性」も、 哀れ昔日の面影を今では喪失してしまったのだろうと愚考される。