新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

正説 石田三成

2020-09-28 16:56:25 | 新日本意外史 古代から現代まで

              正説 石田三成   

(NHK放映「真田丸」では、石田三成が登場し、好意的に描かれている。しかし徳川体制では
「権現様に敵対したふとどきな奴」という観点から、三成の評判は悪い。だが豊臣家からすれば、裏切ったり、日和見した武将の多い中、最期まで豊家安寧を目指して戦った三成は大忠臣である。
ここでは誤解されている彼の実像に迫る。)
 
石田三成、幼名を佐吉という。
父親は石田藤右衛門(後に改名して石田正継を名乗る)
この正継には三人の息子が居たが、上の二人は早世して一人残った兄が
三成と六歳違いで正澄という。

 この兄は後、三成の取り持ちで秀吉の家臣となり、石田木工頭に任官し堺町奉行になる。

 父親の石田籐右衛門が後妻に迎えた妻との間に生まれたのが三成で、
夫婦の折り合いが悪かったのか、今では原因は定かではないが、幼い(佐吉)三成を置いて
出奔し行方不明となる。(従って、三成の母や本当の父親の名は不明なのである。三成を名門の血筋と書かれている歴史書は信じられない。
しかし、名門だろうが、怪しい血筋だろうが、当時にあっては立派な武将だったことは間違いのない事実である。)
 
従って義理の父籐右衛門は、妻への憎しみからか、三成に愛情が持てず、随分と苛めや虐待をしたらしい。
そして腹違いの兄の正澄も父の尻馬に乗って辛く当たったらしい。

この石田家というのは、現在の滋賀県、琵琶湖近くの石田郷で、石田川の浜崎から今津にかけては
石田の本貫地であり、かっては妙見山に城構えをしていた由緒ある家門である。
三成を名門の出身とする歴史書があるが、前記したように石田家そのものは由緒正しい名門と言えるが、三成自身の出生は疑問符がつく。
しかし、足利期から守護として残っていた今川、島津、武田、毛利氏等と違い、戦国期を通して下克上でのし上がってきた新興大名達の出自は
日本原住民の血脈で、下賎の生まれなのである。
だが彼らこそが旧体制を打破し、信長、秀吉、家康と続く「日本原住民体制」を作った、その努力と活力をこそ認められて然るべきだろう。

 さて、こうした家庭の事情から三成を邪魔として、父の籐右衛門は石田郷近くの延寿院へ三成七歳の時、寺の色小姓として売ってしまうのである。

 おそらく三成は母親に似て色白の美少年だったと想われる。そうでなければ色小姓には売れなかったからである。この当時にあって京の色小屋(男色専門の売春宿)へ売れば、寺よりは高く売れたろうが、
 寺へやっておけば行く末は坊主になるだろう、さすれば、一人出家すれば九族昇天すると謂われ、
家族は極楽浄土へ行けると言う、後生楽を願った思惑もあったと想われる。それは石田家は仏教徒だからである。

この後、近江長浜城主に出世していた木下藤吉郎が佐吉(三成)を見出し、小姓として家臣に召抱える。
また福島市松、加藤虎之助、とその他縁辺の者と一緒に元服をさせ、三成という名も貰う。

 天正八年、播磨へ国替えとなり、羽柴秀吉と名乗りを変えた藤吉郎から、二十歳になった三成は 播磨似東郡の内で300石を与えられる。
 天正十年本能寺の変があり、翌年の四月、賤が岳合戦後、三成は秀吉の側に付きっ切りだったため、
「七本槍」の中に名を連ねていなかったが、加藤孫六、平野権六、片桐助作らと同格の三千石になる。
 この内訳は、近江高島郡百瀬、川上、饗庭三ケ村、近江今津を中心に琵琶湖西の村々で、 石田郷もすっぽりとその三千石の領地に入っている。

 秀吉とすれば天下を取った喜びを分かつため、幼児から手元において我が子同然に扱ってきた、 三成に対しての愛情から、石田家先祖からの地を選んでやったのだろう。
三成にすれば故郷に錦を飾ったことになる。
 そして三成は散々苛め抜かれ、奴隷に売られた父や兄のために、南新、弘川、石田荘の分は、 父と兄の台所入りとして与えている。
 この行為から窺えるのは、三成の心根の優しさと、良質な人間性を現しているとみてとれる。

天正12年7月、秀吉が関白太政大臣に就任すると、お裾分けの大判振る舞いで、 三成は「従五位下冶部少輔」に任官する。
 そして秀吉は新たに五奉行を設け、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長塚正家と石田三成を 加えて、三成には美濃北方五万石を、これまでの三千石に加増され、一躍25歳で五万三千石の 大名となる。
 この後、文禄四年には従来の石高に加えて琵琶湖の周辺、伊香、坂田、浅井をそっくり加増され、 一躍二十一万石になった。
 そして秀吉から「東国、北陸から上洛してくる軍勢の関門じゃ、しっかり守れよ」と海抜300mの佐和山に城も築いてもらった。

 そして籐右衛門は三成の父ということで秀吉に謁見を許され、その場で滋賀一郡三万石を賜り、 名も厳しく「石田隠岐守正継」と改めることになった。
そして兄正澄も父との兼ね合いで加増され、二万五千石になり「堺町奉行」を命ぜられる。
余談になるが、この堺町奉行というのは、現代で言うなら、火薬輸入長官と特殊秘密警察にも当る重大な役目なのである。
豊臣政権の銃砲火薬を一手に堺港から輸入し、さらには秀吉の中国大陸遠征中の 原住民系ササラ衆の反乱防止取締官庁でもあった。
だからこの役目は余人では信用できず、我が子同然の三成の兄に託したのである。
  茶道で有名な千宗易一派を根こそぎ弾圧し、刀狩さえ断行して後顧の憂いを絶っている。石田正澄は秀吉の命令で、宗易の妻、宗恩を蛇攻めで殺している。
   
こうした三成の親兄弟へ対する深い愛、親らしいことは何もしなかった父に対してさえよく気配りし、大名にまでしてやった三成の律儀深さは、戦国時代にあっては特質すべき 美点であって、それが後年、家康と戦う原動力となったものとみられる。

 なにしろ三成は、生前の秀吉の事を親とも想い忠義を尽くし、その死後は豊臣家の 安泰を一心に念願していたのだから、海千山千、すれっからしの狸親父の家康とは人間の質があまりにも違いすぎた。
 さて、この徳川家康を描いた書物は汗牛充棟、現在までに山岡荘八を初め400点を くだらないが三成を書いたものは極少ない。
 何故なら徳川史観が其の儘定着している現在だから「権現様に刃向かった不届きな奴」 という観念から三成を嫌っているから仕方の無いことかもしれない。

 しかし、豊臣から見れば裏切った大名や家臣の多く居る中、只一人孤軍奮闘、無私の心で 豊臣家を護る一念で戦った大忠臣である。
 また三成を文臣派という括りにして、武将としての素質を低く見る読物も多いが、 これはとんでもない間違いである。
 平和な時代なら行政官としての文臣は必要だが、時は戦国時代である。

  武将というのは戦略戦術はもとより、経理や財政、人事庶務などにも精通していることが求められ、三成は朝鮮の役で渡海しなかったので、その武勇は伝わらないが、 国内に在って後方支援、物資調達など、
即ち遠征するための軍需大臣の役を 立派にこなしている優れた武将であった。これは例えるならナチスドイツの軍需大臣シュペアーにも匹敵する手腕を発揮している。
 この後三成は、家康が勝手に入り込んでいた伏見城を、「太閤殿下が築いた城を勝手に横領するとはけしからん、早急に明け渡せ」と強行に要求する。
   しかしこの家康の行動は家康が仕掛けた巧妙な罠なのである。 上杉景勝が先代影虎が開発した佐渡金山を奪い返そうと兵を挙げたので、家康は諸大名を 率いて東へ下向した。
 その留守中の伏見城へ三成が攻め寄せてくるように、留守を預かった家康の家臣 鳥居元忠に「三成から抗議が来るだろうから、強行に反抗せよ」と云い含めての東下だった。
 老獪な家康はその以前から、伏見城を明け渡してもよい口ぶりを、故意に残していったので、
正直な三成は、それにまんまと引っ掛かってしまったのである。

 そして少人数の伏見城は鳥居らの激しい抵抗の末全員討ち死にしたが、何とか落城した。
そしてこれを口実に家康は、鳥居元忠らの弔い合戦ということで、関が原合戦となる。
さて此処で少し上杉景勝の挙兵と三成の関係についての考究をしてみたい。

        <<<上杉景勝>>>
 
 上杉謙信とされている長尾影虎(於虎)の姉の「於亀」から生まれて幼名を喜平次という。
父は長尾政影である。スペインのトレドにある教会図書館の1600年の部には、スペイン語の華文字で「カゲカツは叔母の佐渡金山を奪還せんとして決起した」と書かれている。
 
この文章は当時日本に来ていた宣教師が、本国のフェリッペ王に送った報告書であり、王はスポンサーだったため宣教師が間違いを書くことは考えられない。
 於亀が叔母ということは、於虎、即ち謙信は女だったということである。
 ちなみに謙信とは死後の戒名なのである。影虎は長尾から、関東官領上杉の名乗りを貰ったので今では上杉が通り名になっている。
  日本歴史では、石田三成と上杉景勝が共謀して家康を挟み撃ちをしての謀叛としている。
<日本歴史資史料集大成>の168頁には、 「越後新領主堀秀治の老臣、堀監物より、会津の景勝が異図ありと変状を上訴」と記載がある。
 
この「異図」の意味だが、景勝があたかも天下を狙ったような解釈を現代はしているが、果たして どうだろう。
  秀吉は佐渡金山が欲しくて召し上げてしまい、越後の代わりに会津百万石を与えた。
 そして何故秀吉はこの日本一の金山を欲したかの訳は解明されていないが、要は火薬輸入の決済にスペインやポルトガルに金本位を求められたからである。
 従って景勝は、越後を取り上げられたことが不満で、秀吉の死を待ちかねて、奪還しようと旗揚げしたのが真相と想われる。
何故なら三成と共謀してのことなら、三成は21万石なのに景勝は100万石だから先ず景勝を大将に立てて、江戸攻めをさせ、駿府まで攻略させるのが軍略である。
 だったら家康としても三成を潰す前に、後顧の憂いを断つために、先ずは景勝の成敗をするべきである。
 処が前述の資史料の174頁には「家康は六月十六日に大阪を発し伏見に留まる事一日、十八日に出発し、回り道して鶴岡八幡宮に詣り、七月一日に江戸へ入って下野の栃木小山に陣をたてる」と、実にのんびりした様子が出ている。

 つまりは景勝が勝手に単独で旗揚げしたことを家康は見抜いていて、敢えて会津まで攻め込まず、ただ恰好付けしていたに過ぎないのである。

 三成は秀吉の忠臣だが、景勝は金山を取り上げられたことを怨んでいたのを熟知していたから、 二人が示し合わせ、連携していないと問題にしていなかったである。

というのは、現代でこそ金は高騰していて1グラム6000円もしているが、16世紀の日本では、 秀吉が硝石を外国から輸入の為に鋳たのを天正大判小判として、国内でも流通させようとしたが
結局は京の銀を足利時代から押さえていた蜷川道斎に阻止され失敗している。だから家康は金山などは問題にしていなかった。
 
 後には家康も伏見で金の小判を鋳造したが、江戸幕府を開くに当たっては、箱根以東だけは金本位にし、以西つまり九州の果てまでは銀本位制にすることで蜷川と折り合いをつけている。
さて、秀吉は小早川秀秋の領地であった筑後国・筑前国を石田三成に下賜しようとしたが、三成は辞退している。
この理由は判然としないが、もしこれらの領地があったら五十万石はゆうにあったから、 動員できる兵の数も三成一人でも三万人はできたろう。
そうなれば西軍の大将として指揮も取れたはずで、さすれば豊臣家の運命も変わったと想われる。


   関が原合戦 石田三成 徳川家康 西軍 東軍

「関が原合戦、西軍が負けたのは雨が原因」


現在の通説として、関が原の戦いは徳川家康の東軍が、岐阜の大垣城から出てきた西軍の石田三成らを九月十五日に撃破したとなっている。

 その為に豊臣秀頼は摂津河内和泉で僅か六十万石の大名に成り下がってしまった。
その後大阪夏の陣でも負け、豊臣家は滅亡してしまう。このことは史実としては正しい。

 但し戦略的には、家康は京の蜷川より多額献金を受け、西国大名に与え、裏切りや積極的に戦わなかった事が大きい。
まあ勝負は戦う前から決まっていたといえる。だから後に江戸幕府を開いた家康は蜷川に遠慮し、箱根以東は金本位制、西は九州の果てまで銀本位制と定めたのである。
 このことは学校歴史では教えない。しかし戦は水物。戦術的な西軍の敗戦は「雨」なのである。
 

 現代では、関が原でせっかく美濃大垣城に西軍の兵を入れていた石田三成が、 何故に前日は篠突く大雨だったといわれる悪天候の中、折角城に篭っている兵を連れ出し 徳川方が布陣している関が原へと討って出たのは何故なのかと怪しまれ、
現在様々な諸説が氾濫している。曰く「一気に雌雄を決する為ではなかったか」 「石田三成が若かったから焦った」等など。
 勿論戦術を有利にするためには沛然と降りそそぐ雨の中を厭わず、折角大会戦のため 食料や武器弾薬を集積していた城を出て関が原へ向かったのだということは頷ける。
だが問題は、現在では全く知られていないが『雨』なのである。
 つまり、戦国時代から江戸時代でさえも合戦という行動は雨の日は休みだったのである。
即ち「雨天順延」で、現代の運動会のようなものだった。 後段でこの訳は解き明かすが、ここのところをよく理解しておかなければこの謎は解けない。

当時は今のようにビニールやレザーの無い時代だから、武者達の鎧は金具や糸布を使っていたが、 陣羽織は「紙衣」(かみこという)だったし、武者が背に指す旗指物や馬印さえもが、
 こうぞから作られる紙、即ち和紙だったのである。だから雨に濡れるとべとべとと溶けてしまい目印が判らなくなってしまうのである。
 当時木綿も貴重品で絹布などは高嶺の花。大将ともなれば流石に純綿を使ったが、 一般の武者共は紙製の旗指物だったのである。このことは<兵法雄鑑>や<雑兵物語>に明確に記述されている。
 原文は難解だから次に平文に訳しておく。

「もののふは名こそ惜しむ。よって雨が降りきたれば、折角の己の目印の旗指物も濡れ、印も文字も滲みて見えなくなり、何の為に働き高名をたつるや判らず、よって皆樹陰に入り、雨の晴れるのを待ち、互いに
戦は共に休みになして、左右に別れ去るものぞ」と、明確に書かれている。

 さらに「空を仰ぎ見て、今日は曇りにて雨になるらんと、戦は休みなるべしゆえと朝飯は抜き、しもじゅうて、皆は早く晴れたらええと、腹が臍くくりになりひもじさに皆ぶうぶう言い合う」等とも書かれている。

江戸中期の兵法家大道寺遊山は「落穂集」で有名だが、「武道初心集」も書いていてこれは現代岩波文庫で刊行されているが、その「岩淵夜話」の本の中にも、
 「雨天休戦は武士の相身たがいの為なり」とある。

 また武士たるものは「忠臣は二君に仕えず」などと現代は言うが、これは奉公先の大名が徳川の施政方針のため次々と取り潰され、武士の就職難の江戸時代からの話で、
戦国時代は全く逆で、槍の才蔵と謳われた有名な可児才蔵のごときは、生涯戦場を駆け回り死ぬまでに十余回も主君を変えている。

さて「瀬戸際」という言葉がある。

 この言葉の語源は、関が原合戦で雨中で三成の軍勢に包囲され、 切羽詰った家康が必死猛死に脱出して、合戦の勝敗を逆転させたわけだが、こういう状況の場合に使ったものなのである。

 さて、可児才蔵の如く、戦場で己を大いに宣伝し、今までより扶持、即ち給料を多く出してくれる奉公先が見つかれば、直ちに条件次第で其方へ移る。
これを武士言葉で「鞍替え」という。この言葉は後には武士の多くは源氏系だったから、源氏の女しか遊女になれなかった江戸時代になると、これが転用され、遊女や芸者が借金を多くさせてくれる方へ住み替えることにも
この鞍替えという言葉が使われた。だから、始まりは武家言葉なのである。
  
 さて話を戻すが、戦国期の合戦で、武者達は今日で言う条件のよいところへスカウトされるためには、遠くからでも見分けが付く旗指物は前記したように紙だから、それゆえ雨が降ってきたら濡れ、 使い物にならない訳である。
 だから「これでは鞍替えの機会が無い」と武士は戦わず、したがって戦は休みだったのである。
 現代ではこれは奇異に思われるだろうが、この行動は江戸時代の幕末になっても、慶応二年五月は大降りで上野戦争の際の彰義隊(幕臣の次男三男を募集して作られた武士の部隊)は、

 「今日は雨だから薩摩(官軍)の奴らも攻めて来んだろう」と、上野の山から近くの湯島や神田明神や吉原に女買いに繰り出し、当日は部隊の半数も残っていなかった。
これを見てとった周防人で武士ではなく、医者上がりの大村益次郎は、そんな古い武士の不文律など知りもしないから、「この機会だからやってしまえ」と各藩の官軍に命令を出した。
しかし「こんなに雨が降っているのに、古来武士は雨戦はせぬものぞ」「まさか間違いであろう」となかなか兵が集まらず、止む無く薩摩の西郷隆盛が、
 蓑をつけ草鞋履きで先頭に立って出かけていったぐらいのものなのである。

 維新の志士などという美名を奉られている明治期の薩長の大物は、医者や身分の低い武士ともいえない郷士上がりが多く、正規の武士の習慣も知らず、従って慣習に捕われない発想が逆に功を奏したのであろう。

 つまり、関が原の話に戻るが、「この大雨では明日も戦になるまい、だったらその前に今の内に東軍の退路を絶っておこう」と石田三成が秘かにタブーを破って大垣城を出てきたところを、
桃配り山東軍本陣の徳川家康が、雨の中を濡れぬように、旗も幟も仕舞って迫ってくる石田方を、
物見の者から報告されると、家康はすぐさま大きく合点して包囲に任せた。
そして家康は「この雨では、敵の武者共も紙旗が濡れるゆえ、働いても損だと目覚しい戦いはしないぞ」と、先に開戦命令を出したのである。
 そして渋紙塗り(油塗り)の金色の幟に「五」の字を捺した徳川本体の使番を各陣営へ出し、まさかと思っていた三成の西軍へ不意打ちをして勝ったのである。


戦国の名将 斎藤道三 (第三部) 道三は絶世の美男子だった

2020-09-19 16:54:03 | 新日本意外史 古代から現代まで

   戦国の名将 斎藤道三 (第三部)

    道三は絶世の美男子だった


 そして、この時から自分がその後をおそって美濃の国主になっている。だからといって、これを指して、「国盗り」となし、道三を悪者としてしまう皮相的な見方もとられるらしいけれど、
「道三が絶世の美男で、土岐頼芸とはかねて衆道の結びつきがあったのだ」という真実があり、まことに大切な繋りが、それでは黙過され見逃がされてしまうのである。
 つまり道三が一介の油売りから、頼芸に寵用されて次々と出世させられてゆくのも、なにも道三が武勇抜群だったというわけではなく、二人の交情からそうなっていたのである。
 といって道三が悪い人間で己が美貌を餌にして、それで頼芸を籠絡したのでもなかろう。
 「三つ子の魂は百まで」というけれど、幼い時から己が身体を他へまかせるのが、当然のような育ち方をしてきた彼にすれば、
 「これ云うことをきけ」と国主だった頃の土岐頼芸に求められれば、否応なしに、「はい」と素直に抱かれてしまったのだろう事は、想像できるというものである。
 頼芸が愛妾の三好野を譲ったというのも、本当のところは奪ったり貰ったりで、俗にいう何んとか兄弟になる為ではなく、愛欲の果てでもなく、
 「やくな……あの女と寝ては居らん。よし、わしの操をみせるため、あの三芳野は其方にくれてやらんず、煮てくうも焼いて粉にするのも汝のよきように致せ」と、頼芸が、道三の機嫌をとるために、
 「念友」とよばれた衆道の結びつきの方を重じた結果、疑われたくないと彼女を与えたのが、実際のところであったろうと想われる。
 その濃厚な二人の間柄にやがてひびが入ったのは、道三が四十歳の折りに美濃の豪族、明智の三女小見の方を迎え、妻帯してしまった辺りからであろう。
「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」と、その因果関係の深さをとくけれど、ゲイ関係は昔はもっと重大なものとみられ、
「衆道は来世永劫」つまり無限にはてることない繋りがあるものだとという厳しい掟があった。
 だからでもあろうか。道三が仲違いした大桑城を一万余の兵をもって包囲し、城を落してしまう段階において、普通ならば、
 「後々のこともある。災いの種とならぬように、土岐頼芸どののお命は、思いきって絶ってしまうことこそ好もしからん」と、ばっさり首をはねてしまうべきなのに、
彼は頼芸を助けて馬まで与え、近習までつけてやって逃がしてやっているのである。
 「国盗り」といわれるからには後でいざこざの憂いなどが起きないように、その前国主は包囲したからには捕殺してしまわない事には意味かない。
 なのに見逃がして落したばっかりに、二年後には、頼芸のために先に追い落したその兄の土岐盛頼を、押したてた越前勢七千の侵攻をうけたり、
頼芸をおしたてた織田信秀五千の進入をこうむり、道三は悪戦苦闘させられる羽目においこまれる。
 もちろん、それくらいの先見の明は道三にだって有ったであろう。
 しかし道三が捕えた頼芸を、どうしても殺せず逃がしたのは、念友なる衆道の関係があったからこそであろうか、これでは悪人失格で、
 「まむしの道三」とか「悪党」などと呼ばれる資格は、てんでないようである。
 「油壺から出たような良い男」は道三のこと

 なお頼芸が尾張の織田信秀からも見放されて、現在の千葉県に当る上総大多喜(一説には万喜)へ逃げこんだが、そこで眼病をやんでいると聞き伝えた道三は、
すっかり同情し、「お気の毒である」と、その臣稲葉一鉄に命じて仕送りをさせていた話が、『江濃記』の中には明らかにでている。
 事実、稲葉一鉄は頼芸のため五百貫の土地を、道三から預かっていたので、後に盲目となった頼芸を美濃へ引き取って、曾根城内で安穏に生涯を終えさせた旨の記載が、
岐阜県史料の『稲葉家記』の中にみられるそうである。どうもこれでは、ますますもって、
 「悪党」といったイメージからは遠ざかってしまう。国盗りといっても、それは念友どうしの三芳野譲りと同じ程度のものだったらしい。
 そして良きにつけ悪しきにつけ、すべての事柄の原因たるや、まったく前述の、「斎藤道三が、世にも稀れな美男だった」ことに起因しているらしいとみるべきだろう。
後に近松門左衛門が、その、〈女殺し油地獄〉の中で、「しんろとろりと油壺から出たような良い男ぶり」
 といった表現をしているが、その弟子の近松半二の<ひとり判断>に、
「芝居者は自堕落のなれのはてで」とまで書かれた門左衛門ではあるが、
<井筒業平河内通>の九右衛本においては、「人に交らう程ならば、その氏系図は欲しいきもの」と、世間で権威とみられているものへ、きわめて憎悪と反感を書いているが、
 「むかし美濃のさいとうというは油売りにてあれど、ぬめやかな肌と人目をひく器量艮しにて、
男なれどもその容姿にて一国の主となりしとか、氏なくして玉のこしにのるは、あえて女のみとは限らざるべし」とも、その後につけたして居る。だから、
 「油壺から出たような良い男」といった言葉は、近松門左衛門以前からすでに有ったらしい。

 この例証からみても、斎藤道三というのは傾国の美女にも匹敵する程の、国取りの美男だったらしく、はっきりと『美濃旧記』には、
 「道三入道は若き頃、土岐頼芸と衆道のきこえあり」とさえでている。
 こうなると油壺の口へ一文銭をのせ、そこから油をたらしこんで見せたのだが、
 「武道の心得があると見込まれたゆえ、それが立身のいと口」などというのは、後世の作り話で眉唾ものと断定せざるを得ない。
 鉄は熱せられると油をはじくのは、フライパンで揚げものをしても判ることで、一文銭を熱しておけば、その孔からすいすい吸いこむごとく流れこむように視えるのは当り前のことである。  
 つまりこうなると、土岐頼芸がその愛妾の三好野(深芳野)を道三に与えたところ身重になっていたらしい形跡があったので、生まれた豊太丸が長じて義竜となってから、
 「実は、あなたさまの御実父は、足利公方さまの頃より美濃一国の守護職であった土岐頼芸さまでございますよ」と吹きこまれると、
 「そうか。わが実父は油売り上りの道三ではなく、まことは土岐の殿の方であったと申すのか、そりゃ良い……そちらの方が恰好が良いな」
 と若いだけにすぐその気になったのも、道三にすれば可哀そうな話である。
 
「他所者の道三や京から流れこんできて召し抱られているその一味を追い出して、昔ながらの格式ある土岐家のお国に致しましょうぞ」と煽動されると、
すぐさま義竜は悪のりして、「よっしゃ、そうしてこまそ」
 と、道三が鷹狩りに出かけた後を見計らって異母弟二名を始末させてから、「これまで不遇であった土岐家の旧臣を、これからは厚く手当てしてとらせよう」
 と城内の人々をあつめ、挙兵したというのも、上岐の旧臣にたきつけられてとはいえ、
 (そんな伜をもったり、叛意をいつも抱いていた家来ばかりだった)という点において、道三が不運であったという他はない。どこを調べてみても、「斎藤道三が悪人であった」の証拠などにはなりはしないのである。
   

戦国の名将斎藤道三 第二部 道三は他国を侵食したことは一度もない

2020-09-16 16:55:28 | 新日本意外史 古代から現代まで

戦国の名将斎藤道三 第二部
道三は他国を侵食したことは一度もない

 なにしろこれまでは織田信長を立役者にする関係上でもあろうが、「悪役」ということに、どうも斎藤道三はされているようである。
 何故かといえば、幼児は絵本や童話をみるときに、善玉と悪玉が明白に判りやすくしてないと、理解力がこんがらかってプロッ卜の展開についてゆけなくてしまうし、
 「黄色いリボンをなびかせた騎兵隊や白人たちは良い方で、色の黒いインデアンは悪者である」とする年少者向きの、昔の西部劇の設定が、誰にも判りやすかろうというので、
 「義務教育で皆が文字を一応は読めるという事は、脳が弱い者でも本を読むことになるのである」とする見解によって、すべからく、
 「善玉、悪玉のからみ合い」といった方式が利用され、それが一般的に、「読者への説得力」として通用しているのである。
 だからして、あわれ斉藤道三も、「まむしの道三」とか「悪党道三」といった具合に、信長の敵役に作られてしまい、それを鵜呑みにして書いている歴史屋も居る。
 なにしろ日本人の短絡思考なるものが問題にされるが、極端にすぐ右か左かはっきりさせたがるし、丁か半かにすぐ決めたがる性癖が国民に有るものだから、
 「善でなければ惡」と、いと単純に頭ごなしに決めつけてしまうような結果となり、
 「信長が良い側におかれるなら、どうもその反対に道三は悪い方へおかねばなるまい」とされているのであろう。しかし考えてみれば、こんな馬鹿げた話はない。
 読者など問題にせず良い本を出すだけに数十年にわたり努力してきたと、自叙伝を出して物議をかもした出版社の経営者も居たが、
読者を胝めきって程度の低いものと見下し、「ただ判りやすいから」というだけで、善玉悪玉式に歴史上の実在の人物を扱ってのけるのも、
これまた無暴というか無茶としかいえない。
 だいたい善と悪の二つに分けて、極端に対比させて、これを単純に、「惡は滅びやがて善は栄える」とする勧善懲悪方式で結ぶのは、
明治になってから、義務教育が施工されだした時点からのものなのである。
それゆえこれから一歩も出ていない現状では、書く方も怠慢としかいいようがないだろう。
だいたい、道三は史実として「他国への侵入」といった領土的野心を示した事実は、ぜんぜん一度もないのである。
『信長公記』をみても、村木砦へ今川方が押し寄せてきたときに、「救援のために美濃より斎藤道三は、安東伊賀、物取新五ら千余名を派遺す。
信長おたいに喜びたまいて礼せられる」といった個所があるくらいであって、
「斎藤道三が尾張を併合しようとして、兵を進めた」といった事実はまったくない。
                                         
 ただ一度、天正二十年三月に、道三みずから二千の兵をひきいて、美濃と尾張の境目まで出ばってきた事が、『美濃旧記』の〈道三出陣〉にはある。
 しかし、これは、その年の三月三日に織田信秀が流行性の病いで、ころりと急死してしまった時。
 かね道三は、織田信秀の三男三郎信長を尾張の跡目にさせる約定で、その一人娘の奇蝶を嫁入らせていたのに、
 「美濃の勢力が侵透してきては困る」とする尾張の重臣や豪族共が、丹羽長秀の舅に当る信秀の二男信広を立てようとしたり、
信長の異母弟で土田久安の孫に当る四郎信行をもって、次の跡目にしようとした。
 そこで道三は一人娘可愛さに、銭を尾張へ運ばせてばらまかせたり、やむなく己れが兵をひきいて境目まで出てきたのである。
 だから、仰々しく出陣などとなっていたところで、これは尾張へ攻めこむ為でなく、
 「娘が可愛いから、もし二郎や四郎を担ぐ勢力が那古屋城へ攻めこんだら美濃の軍勢を使う」と、それを牽制するために出てきたきりである。
そして、このバックアップのおかげで三郎信長が、尾張の跡目につけることになり、挫折した四郎信行は林美作兄弟らに担がれて挙兵したが、
篠木合戦で美作が殺され、翌、弘治三年にはその異母弟信行も母もろとも処分された。
 
二郎信広の方は、のち三郎五郎と改名し鳴かず飛ばずだったが、道三を殺した斎藤義竜が、
 「どうも信長が煙たい。貴殿が尾張の国主になられたい」との密使をうけ、
 「美濃が力をかしてくれるならば、わしが信長に取って代ることも難しゅうはない」と、おおいにハッスルして、娘婿の丹羽長秀に計画をうちあけたところ、
 「はあ、はあ」と聞いてはいたが、長秀はすぐさま裏切ってこの事を信長に密告した。そのため信長は異母兄の信広も、やはり処分して後顧の憂いをなしにしてしまった。
 つまり道三は嫁にやった娘可愛さに、その婿の信長を庇護し、尾張の跡目につけてやったり、今川から侵略されると助勢をだして、おおいに力をかしたもので、唯それだけである。
つまり、だからといって信長に何の要求もしていなければ、礼にと領土の割譲をもさせてはいないのである。ただ岳父として娘いとしさに娘婿に尽しているだけのことである。
 これでは信長を善玉になし、道三を悪玉にしたりするのは、どだい無理としかいいようがない。もし、どうしてもそうしたければ、
 (道三が義竜に叛かれて、末子新五郎に美濃一国の譲り状までつけ、ぜひともと救いを求めたとき。
千余の兵を率いて加勢におもむきながら、双方の激戦を目前にみながら河州の葦原の茂みに兵を匿し、自分も隠れ通しで葉隠れしたまま、
ついに突撃せずさっさと戻ってきてしま二年四月二十日の、信長の行動)をこそ問題にすべきである。
 ドライといってしまえばそれまでであるが、従来の義理を無視してしまい己れの兵力の温存をはかって、岳父道三をみすみす見殺しにしてのけた信長こそ、
 「悪玉」とみるのが至当ではなかろうかといいたい。なのに、そうした事実には頬冠りして、
 「結婚しても入籍ということのなかった当時は、尾張から嫁入りしてきたのは尾張御前とよばれたように美濃から縁づいてきた奇蝶も、
美濃御前といわれていたけれど、みは敬称に通ずると、上を取って濃御前とよばれていたのを、個人名と誤って、濃姫とか甚しきに到っては、こいとよんで、
こいこいとやってのけるような読み物」の類では、あくまでも、道三を悪玉にする必要も別にないのに、わざわざ、
 「悪党」「まむし」としたがるのは何故だろうかと首を何度も傾げざるをえないものがある。
なお、奇蝶を「帰蝶」と書いている歴史書もあるが間違いである。信長の長男「信忠」が、側室から生まれると引き取って、己の一字(奇)を付け「奇妙丸」と名付けて育てている。

さて、なにしろ京に近い西岡に住み御所に仕えていた北面の武士、松波基宗の長男として明応三年(一四九四)に生まれ、十一歳から妙覚寺へ入って僧となったのが、
斎藤道三の来歴なりと、これまでの通説は作られている。
 しかし、その頃の西岡は、後の細川幽斉の祖先から代々の所領で、明応の頃は、「長岡」とよばれていて、西岡と呼ばれるようになったのは天正以降のことで、
これは、『お湯どのの上の日記』の中にもある。
 つまり長岡家代々の土地の中に、北面の武士の所領があったりするわけはない。
 そして松波基宗といった、もっともらしい名が出てくるのは、『勧修院記』に、「弘治二年二月、松波下向し、四月に討死」
 とあるのから誤られているのが、原因ではなかろうかと想われる。
 この松波というのは、左近将監の名も伝わっているが、斎藤道三が、北竜華見山妙覚寺の手をへて、当時窮乏していた御所へ、
銭千貫文の献納をしたのに対し、当時のことゆえ公卿の代りに、北面の侍所へ勤めていた松波が、女房奉書を賜って、それを伝えに美濃へ下向したのである。
一説には、山城守の称号と従五位下の宣下をもたらせて使いにきたものという。
 道三宛にもたらしてきたものか、その子の義竜へ届けにきたのか判らないが、せっかく京から美濃路へ入ってきたのに、
 「親子喧嘩も珍しくはないが、伜の義竜が自分の父親は道三入道ではなく、土岐頼芸の落し種だといいはって、戦をしあって居るのでは御思召の沙汰も伝達できぬ」
と、すっかり弱らされて、双方の取り持ち役をかって出ようと滞在していたところ、二ヶ月後の決戦に捲き添えとなって討死をした。
 つまり北面の武士の松波某が、道三入道と一緒に死んでしまったので、父子といったことに作られてしまったのではなかろうか。
 それでは道三の父親は誰だったか、といえばこれは本当のところは、判からないのか事実といえよう。
なにしろ明応三年の頃は、京は応仁の乱で焼野原の時代である。
「召しませ」「召しませ」と、河原から草の茂みには、多くの女がむしろを臥床にして客をよび、己が身体をもって一個の餅や、ひと握りの粟にかえ、飢えをしのいでいたと、
『応仁私記』にも、その情況が詳しく出ているくらいだから、道三の姉妹やことによったら母も、やはりそうした生き方をして困難な時代に堪えていたのかも知れない。
 というのはいつの世でもそうだが戦乱の巷になれば、軍関係か特殊なコネの有る者の他は、みな押しなべて窮乏するものゆえ、「身を売り」「子を売り」ぐらいは珍しいことではなかったろう。
 なんでも銭に換えねば生き延びられなかったのは、終戦後の満州と同様だったろう。
 つまり、そうした当時の特殊環境が判かっていないことには、綺麗事では道三の出自なぞ、とてもつかみようもないだろう。
 さて民は飢え、食うに物なく住かに家などなかった京にあっては、とても、「わが子の将来を考え寺へ入れて修業させ、やがては名僧智識にもしよう」
 などとゆったりした世相ではなかったのを考えると、親は当時のことゆえ焼け出され三条から七条の河原に、むしろ掛けしていた難民の群れの一人と見るのか妥当であろう。
 妙覚寺へ入れられたのも、行末のことを思って出家させたのではなくて、
 「稚児」とよばれるゲイボーイとして、いくばくかの銀によって身売りさせられたものと考えるしかなかろう。という事は、奴とよばれる雑役用に売られたのではなく、
愛玩用だったのだから、幼い時から人なみはずれた令質だった事になる。もちろん直接に妙覚寺へ売られたものか、はたまた、「色子屋」とよばれていた当時のゲイバーヘ先に身売りしたのか、
そこまでの記録はないけれど、その美貌によって客をとる仕事に、幼ない時から従わされたのは事実だろう。

 なにしろ一向宗つまり今日の浄土真宗が、勢力をおおいにもつようになって、
 「僧侶といえど本能の処理に悩まされるのは、御仏の慈悲にそむくものである」
 とご都合主義で妻帯が認められるようになるまで、一切の女色は寺では禁じられていたから若い時は煩悩と戦っていても、やがて、
 「お上人さま」とよばれるような身分になってくると、どうせ老齢でもう行末もないことゆえ、
「女人の代りに眉目よき、肌の艶やかな稚児こそ抱きて、極楽の思いいをせん」
 となり、その欲望の処理用に美しい少年を求めたのは、これは何処の寺でも当り前みたいなことで、それがしたさに若い僧は修業をつんで豪くなろうとしたくらいだから、
 「峯丸」とよばれた頃の道三は、月夜でなくともかまをぬかれるような境遇だったのだろう。
 
まあ色子屋から妙覚寺の上人さまの専用に身うけされていったにしろ、その身体が銀に換算されて次々と転売されていったということは、
 「斎藤道三は、せんだんは双葉より芳しで、幼時から世にも稀れな美童であったし、大きくなっても絶世の美男であった」とする証拠でもあろう。
現在、道三の画像は、坊主頭に虎髭の厳めしいものがあるが、あれは後世の想像画にすぎない。
 この美少年から美男になってゆく間違いない事実が見逃がされてしまい、つまり、ここか判らないでは、
 「何故に斎藤道三が土岐頼芸に重用されて、やがて取って換って、自分が美濃一国の国主に、すんなりなってしまうか」の謎ときも出来なくなるのである。
 天文十一年五月二日に、たしかに道三は大桑城の土岐頼芸を包囲して、ついに城を落してしまい、頼芸を追い出している。
 
   第三部へ続く




坊主丸儲け

2020-09-15 19:02:36 | 新日本意外史 古代から現代まで
 坊主丸儲け

 ここ2ヶ月の間、近親者等の法事が6回もあった。会社勤めの頃は地元不在が多く、家人代理で済ませていたが、
 退職後事業を立ち上げてからは、そうもいかず、全部出席した。
人は多くても寒寒した葬儀、「親子は泣き拠り」と謂う如く、悲しみの中にもシットリと肉親の情が溢れる葬儀と様々だった。
そして、通夜の後に必ず行われるセレモニーで、変わり映えのしない坊主の「説教」には毎度のことながら辟易させられた。
仏教の歴史を自派に都合よく歪曲し、宣伝臭ぷんぷんの有難い?下手糞な説教を30分も唸られては、「コヤツ、質問しておたおたさせたろか」と何度思ったか。
 日頃から末香臭い所が大嫌いな私は一瞬、狂暴な気にさせられる。
これも私の体内に沸々と流れ脈打つ日本原住民の怨念と反骨精神のゆえだろう。
元来日本人は仏教など全く無縁の民族だった。
それが中国勢力が日本に入って来た時、強制的に仏教信仰と漢字使用を命じた時から始まる。
それまでの日本人は自然崇拝で、拝火教、拝水教、山を恐れ敬う白山信仰などだった。
原住民は強制仏教を嫌い、形を変えながらあくまで己の宗教を捨てずに抵抗した者たちは、明治までは人口の七割は居たのである。
だから日本史の大きな側面はヨーロッパと同じように、宗教戦争と捉えるべきなのである。
神と仏は「太古、物部と曽我の争いから、壬申の乱、信長時代から秀吉の天正十一年合祀令。
家康の神仏判別令、綱吉による神仏混合令と続き、明治になって廃仏毀釈」と目まぐるしく変遷している。
 同じ宗教と言っても仏信心と神道派は、互いに血みどろになって争い続けていたのである。

さて、言い回しと言うのは、うっかり聴いても納得してもいけない。例えばである。「日本は法治国家である」という。
だから「そうか。我々は法治国家の国民ゆえ、お上の法律によって守り助けてもらえるのだ」と、安心している人は幸せである。
しかしよく頭を冷やして考えてみると、これがまた全然逆なのである。六法全書を読んでも、民法にしろ刑法にしても、
これことごとく全条にわたって厳しくも冷酷に皆「何々をしたりなさねば何条によってこれこれの刑罰に処する」との罰則だけの羅列である。
国民を守ってくれる法というのは、憲法の中にある言論の自由だけと言っても過言ではない。
  しかし、ある作家は旧徳川公爵家の出自や、生類憐れみの令の真実を読売新聞に随筆として書いたら大変な目にあったという。こうなればこれとても怪しくなる。
さて、日本人には無宗教が多いとはよく言われる。私も何も信心はしていない。知人や友人も似たり寄ったりで適当なもんである。
 日本人は生まれる前は安産祈願の水天宮。七五三はお宮詣り。受験合格祈願は天神様。免許証をとると交通安全の成田山。結婚式は教会が流行。
 暮れになるとジングルベルと馬鹿騒ぎはキリスト国より騒がしく、信者でもないのにクリスマスケーキを誰もが求める。
 死ねば葬儀屋が伴ってくる坊さんでこれは仏教。全く無節操極まりなく地球上こんな国はどこにも無い。
「ひとつの民族とは、ひとつの宗教を持つ者らの集合体である」これが世界の常識である。
しかし大和民族単一説の日本ならば、皆が同一宗教同一信仰であるべきなのに、実態は仏教神道、天理教、創価学会、大本教からPL教と数えきれぬ程多くあり、無信心者も多い。
テレビでも「神仏に縋って」とか「神仏を拝して」と神と仏をごっちゃにしている。
そして今は神の方は「初詣」の対象だけだし、仏教は京都の拝観停止騒動を見ても、信心より銭儲けの現世利益が主である。
近頃は檀家も減り、寺の上りも少なくなったので、広い境内に駐車場や、酷いのはラブホテルまで建てて儲けている始末である。
 さて、私は子供の時から「殺生禁断」とか「葷酒不許入門」の標識が立っている禅寺の傍で育ったのだが、そこの住職はニンニクの味噌漬けやニラを肴に庫裡でいつも酒をよく飲んでいたのを覚えている。
殺生した牛肉のスキヤキも食べていた。
標石は建前だけで、寺の本音は全然違うのだと想っている。
だから、「三つ子の魂百までも」というように、子供の頃に坊主の内実を見て育った私は、こんな嘘つき生臭坊主の「説教」など片腹痛くてちゃんちゃら可笑しいのである。

 NHK虚実の「麒麟が来る」を正す。真実の斎藤道三 戦国の名将「斎藤山城守道三」 第一部

2020-09-13 16:51:15 | 新日本意外史 古代から現代まで
 NHK虚実の「麒麟が来る」を正す。真実の斎藤道三

   戦国の名将「斎藤山城守道三」 第一部

NHKでは「大河放送」と銘打って「麒麟が来る」では明智光秀を取り上げている。
劇中、光秀とともに重要な役で、本木雅弘は斎藤道三を演じている。
私はこの「麒麟が来る」そのものを全く評価しないし、歴史などとおこがましく言わないで貰いたい。真実に迫ろうとする真摯な姿勢が皆無で、だから「講談的劇画時代劇」や「電子紙芝居」と位置づけている。
一方、NHKは「NHKスペシャル」という秀逸な番組も制作している。この番組は製作者の大変な意気込みと努力の跡が感じられる。
特に2009年8月放送の三夜連続「開戦、海軍あって国家なし」「特攻、やましき沈黙」「戦犯裁判、第二の戦争」は、多くの人が現代日本で起きている問題、自分たちの問題と重ね合わせて考えさせられ、大きな反響を呼んだ。こうした歴史を受け継ぐ決意の横溢した番組も作れるのに、日本史関係や、大河番組には全く泣かされる。
以下に真実の斎藤道三の実像を考察してみたい。
(名将というのは戦に強い事ではない。侵略せず、自国を富まし、民の生活をを安らかにする者を言う。戦国期道三はその数少ない一人だった。
地図のように美濃は、越前、信濃、三河、尾張、伊勢、近江と、七か国に囲まれていた。
そして彼は隣の尾張からはたびたび攻められたが、他国を一度も攻めたことがなく、生涯数十度の戦で一度も負けたことのない戦術に長けた武将であった。
これは現代にも通じる国家指導者の特質で、(他国を侵略せず、自国民の雇用を増やし、産業を興して国民を幸せにする事)に通じる。
       真実とは
前記と重複するが、NHKの大河放送は「時代劇チャンバラ」にすぎない。そして、確定史料のどれにも載っていない道三像を描いている。
在ろうことか、道三は、主筋の土岐頼純を毒殺するような稀代の悪党として描かれている。
しかし、道三はマムシだ、悪党だと喧伝されているがその実像は全く違うのである。本篇では真実の道三を描いた。どちらを信じるかは読者の自由である。
巷間、あちこちのブログでも、この番組のファンの様々な歴史解釈がなされているが、どれをとっても、まともなものは皆無。
原作者が「歴史を楽しむ・・・・・・」と言っているのだから、もうなにおか言わんやで、ファンは勝手に楽しんだり嬉しがって、「虚実の蟻地獄」に落ちている。
人は「真実」を求め、容易に話しもするが、真実とは難しいものである。よく、本にのっていたから、皆がそういうから「それは真実なんだ」という。
甚だしいのは「テレビでやっていたから」という手合いも多い。これもつまり類従制の多数決である。
 だが「真実」とは、そんなものだろうか。選挙や評議会の投票みたいな形式で選ばれるしか、この世に実存しないと言うのでもあろうか。他人に教えられ押しつけられるものでしか、私たちは〈真実〉を掴めないものなのか。
 まるで一人ずっが持っていては、霧のようにはかないもので、多数の人間にわたって凝固し、やっと雲になって、空間に漂える存在なのであろうか。
そして「真実」は一つきりだというが、それが雲なら、一つということはない。
入道雲ではない限り漂っているものだ。綿雲や鰯雲はいくつも散らばって漂っているものだ。そして光の色を浴びればそれは、夕やけ空では、モチーブ色の茜がかった朱色にさえ視えるものなのである。
 すると、「真実」にあたる「雲」とは「白いものだ」と想っていた観念が崩れてしまい、真実とは「一つではなく、いくつも分かれて漂ったり」 [白い筈だが、蒼くも桃色にも視えもする]ということになるだろうか。
 雨天は休んでも、晴れている日には蒼穹にアドバルーンみたいに浮かぶのが「真実」というものだったら、誰もが、もっと安心して、生きとし生きてゆける筈なのだ。
 「真実は、雲ではない」と私は想うのだ。十人の目が、そうだと視て、十人の手が、あれだ、あれだと指をさしたところで、それが、なんだと言うのだろう。多数制で採決されるものか真実なら、
もはや個人の真実などと言うものは認められもしない。また通用もしなくなり虚しすぎる。
 だが、真実というものは、国家が握ったり、多数の人間が、その都合によって守り通すものではない。それは一人ずつの個人が、自分自身の中に持ったり、また私のように、それを、なんとか見つけようと、
索し求めようと、それだけで生きている者だって、きっといる筈なんだ。一と一をたせば二となるというのは定理だが、真実というものは黒板にチョークで書けるものではない。
それは、自分の心に描くものなのだと思う。
前説が長くなったが、これまでの歴史の嘘から脱して、その時代の有りの儘の実相を、何とか解ってほしかった事と、草葉の陰の道三のためにその真実を描く。
先ず、斎藤道三も、明智光秀同様その実態は不明なのである。
桑田忠親などは、山城国、藤原鎌足六代目の子孫、松浪基宗の息子だとしているが、祖先を有名人に結び付け、権威づける、系図屋的発想で信じられない。
その点、故高柳光寿博士は<本法寺文書><美濃国緒家系譜>等の良質史料によって、出生は不明となっていて私もこの説をとる。


     日蓮宗は平和主義の戦闘教団
 日蓮宗は他の仏教諸派とは違い、きわめて戦闘的なものをもっている。
 祖師日蓮のときから、時の北条体制に反抗し竜の囗で殺されかかったり島流しにされて、他の天台宗や浄土宗、真宗のごとく国家権力に結びつき、
迎合して栄えてきた京派仏教とはまったく体質が相違している。つまり、「法難」と呼ぶ他の宗派にはない弾圧下に、日蓮宗はいっもおかれているようである。
 斎藤道三も、まむしとか悪党よばりする前に、彼が熱心な法華信者だった角度から改めて見直す必要があるのではあるまいか。
そして、道三が美濃国主になってから、数十度の戦をしているが、只の一度も他国へ攻め込んだことがなかった事実を何と見るか。
     美男だった道三
 初めはその美貌をかわれ、今日でいうゲイで、当時のおチゴとして京の妙覚寺へ入ったが、やがて青年になると、アジテーター法蓮坊として彼は知られるようになったという。
 他の宗教なら本魚をポコポコ叩いて、「なんまいだ、なんまいだ」と、お布施の金勘定でもして居れば良かろうが、日蓮宗には、「立正安国」という確固たるテーゼがある。
 死んだ人間の葬式や供養をし、戒名をつくって銭儲けをするより、生きている人間の衆生済度という大使命がまずあるのである。
この思想は現在「日蓮正宗」を標榜し、「万人の幸福」と「世界平和」を目標とする創価学会に受け継がれている。
しかし「反体制」であるべき日蓮宗の崇高な精神を忘れた学会は、今や自民党という体制にすり寄り、まるで下駄の雪の如く纏わりついて離れない厄介な政党に堕落している。
そして「世界平和」などという空虚な党是で国民を欺いている。こういうのを「空念仏」という。
だから本来「反体制」でなければならない学会が、体制に迎合しては、草葉の陰の日蓮に申し開きはできまい。
自民党にすれば、数合わせで止む無く、学会(公明党)を取り込んではいるが「何処までもついていきます下駄の雪」で、いずれは蹴り捨てる肚だろう。
    閑話休題。

 さて斎藤道三が、おチゴとして入った妙覚寺にしても、これはまた普通の寺とは違う。
 今では「池上の木門寺」として知られる武州の池上右衛門の屋敷で、その生涯を法難と戦い抜き、国家権力に屈することなく頑張り通してきた日連が、弘安五年十月十三日。
 「御臨終です」となった際、当時まだ十四歳だった経一麿をその枕許へよびよせて、
 「成人したら京の帝都解放をなせ」と遺言をした。そこで彼はそれから四十年間にわたり三度も、京から追放されるような法難にあいつつも不撓不屈に戦った。
 ようやく北条体制が崩落しかけた元亨二年(1322年)になって、ときの後醍醐帝の北条氏への反体制運動援助の思召しによって、
初めて建立を許され、討幕の拠点となったのが妙覚寺なのである。それゆえ、
「三具足山」の一つとされ、本山ともなっているけれど、反体制的であって江戸時代に入っても、
「不受不施」つまり教義の違う他の宗派とは共に供物は受けず、また施しもしないという主張を曲げず、寛永七年(1630年)四月二日には、日奥上人らが遠島にされている。
 なにしろ日蓮宗には昭和になっても井上日昭らのグループなどがあり、
 「死のう団」といった激烈な結成もあった。だから以前、べ平連が盛んだったころは、その集会などに参加して平和行進の先頭に立っていた宗教者は、団扇太鼓を叩く法華信者だけである。
前述したが現在、日蓮正宗を標榜する創価学会だが、ちゃっかり自民党と組んで政権の中で安住しているが、衆生済度の精神とは程遠い。
 それだから斎藤道三を考える前に、この、「不受不施派」をうみ明治まで続いた戦闘的な宗教集団から注目してゆかねばならぬ。
 当時はヨーロッパでも魔女裁判が各地でおこなわれ、教会と国王が結託して、
 「金持ちの女を摘発して処分すれば、その財産か没取でき折半できる」というので天正十二年にドイツのトレーヴスで七千人、ザクセンではその五年後に、
一週間で六百人ずつ、かためて集団火刑にされていた。
 イべリヤ半島でもスペインのトレドでに三千二百人が蒸し焼き、ポルトガルのリスボンでも二千三百人が、現在のジェロニモ修道院の前の砂浜へ生きながら埋められた。
 だからスペインとフランスに挾まれた山岳地方のバスク人たちは、初めは火刑執行人として使われていたが、なんとかして真の魔女を見つけ、庶民の苦しみを助けようとして、
法王庁のポーロ二世の勅書を貰い、

「Regimini militantis Ecelesix」つまり戦闘教団の称号をうけ、東洋へきたのがフランシスコ・ザビエルで知られているイゼズス派だが、
斎藤道三の育った妙覚寺も、応仁の乱このかた荒れはてた京にあったから、「このままではいけない。この乱世をなんとかせねば」と、若い学僧たちは時勢を憂えたのだろう。
 「御祖師さまの北条政権の頃も、何年分も前取りした税金をみな棒引きの無効扱いして、人々を塗炭の苦しみに追いやった地獄のような世ゆえ、御祖師さまは庶民を救わんとし立正愛国の悲願
をたてられたのじやが……」「そうだ今の京もすべて焼野原で難民が溢れている……吾々はこのままで腕をこまぬいて傍観していて、それでよいのだろうか」
 と学堂の中では、あけくれ激越な議論がたたかわれて居ただろう。
 つまり他の宗教であるならば、歴史書がよく引用する『美濃国諸旧記』の中の、
「道三は妙覚寺で修業をつみ、ついに学問は仏教の奥儀をきわめ、その弁舌は、釈迦の弟子の中で一番といわれた富婁那にも劣らず、内外の仏書や儒書にも精通し名僧となりぬ」
 の一節のようなことにもなったろうが、日蓮宗は机上の空論よりも、現世の衆生を救おうとする日本では唯一の戦闘教団である。だからして、
 「書を捨てて辻へ出よう、まず実行だ」「そうだ寺内で云い争っているより、一人でも哀れな民を救うことこそ法華のみ教えだ」
 と、妙覚寺のヤングパワー達は、三条から六条川原に野宿する難民の救済にあたり、
 「室町御所番衆」とよばれていた紺色の、藤蔓おりのお仕着せをきた当時の機動隊が棒を振り、楯で殴ってきて苛めにくると、それから民衆を守るため、
 「やってこまそ」とばかり、若き日の斎藤道三も、寺では法蓮坊の名で呼ばれていたが
 「坊主頭に鍋や釜をかぶりて法師ばらは、それにて身を守り河原の石ころを投げ打つ」
 と『応仁私記』に書かれてあるような有様で、これと戦っていたものとみられる。
(室町御所の機動隊との争いで、道三は戦の駆け引きを会得し、ために武将となっても、生涯一度も負けたことのない戦巧者になったと想われる)
つまり、法蓮坊と念友の仲であった南陽坊のごときは、この機動隊との衝突で身柄を逮捕されかけ、その素性がばれて本国送還になっているくらいである。
 だからして当時の騒然たる世情を抜きにして、その後の道三の行為を面白可笑しく、国盜りなどといった安易な見方はしてはならない。
 道三が十七歳の永正七年三月には、財政窮乏を理由にして足利将軍義植は、昔の北条氏を見習って、「徳政」を発布した。
 現在の歴史教育では誤って教えていて、
 「借金にあえぐ、百姓や貧乏人が、それを棒引きにするため一揆を起してかちとった政策」
 といった具合に徳政をしているが、いつの世の中でも借金をしたいような貧しい者には、誰も貸してくれてはないものである。                              
 北条時代は元寇のための軍事予算で、何年分も先へ先へと前取りしていたのが重なって、ついに貢祖の収支がつかなくなり、それまでの前納分を御破算にして、
改めて徴集するようにと、北条氏の徳になるように発布したのかそれである。つまり歴史家がとくように、
 「百姓一揆や土一揆によって、権力者を押えつけて徳政を発布させたのだ」とするのは大問題いであって、百姓や土民は、
 「そんな無茶な棒引きは困る」と、レジスタンスをなし、権力に弾圧されただけである。
 足利末期の徳政も、それまでの将軍義澄が取れるだけの地子銭や年貢を集めて近江へ逃げてしまい、せっかく大内氏の力をかりて都入りしてきた新将軍は、徴集したいにも集めようがないから、布令をだして、
 「これまで払った税金は一切無効である。改めて、新規に上納すべし」と、得になるように税制改革をしたのであって、歴史家は、「損得の得」でなく「仁徳の徳」の字になっているからして逆に誤っているようである。
 が、日本では明治中期までは、漢字はおおむね当て字として使用されてきたから、「新選組」も「新撰組」も同じであるし、
「徳政」もはっきりしたところ得政なのである。
 さて、祖師日蓮が、執権北条時宗に睨まれたが、やはり万民の側に立っての、徳政施行への反抗だったから、このときの妙覚寺の学僧たちも、やはり足利政権の徳政に、
 「反対」ののろしをあげて大衆動員で、「ふんさい」「ふんさい」と、棒や楯で殴られっつ渡り合ったものだろう。
 小説では、道三の美男ぶりや爽やかな弁口が見込まれて、山崎の油商人奈良尾又兵術にスカウトされ入り婿になったとするが、実際のところでは、今でいう指名手配になり、
 「寺内に居ては、まずかろう」という事になって、室町御所番衆の探索の眼を逃がれるために、アジトとして奈良屋へ匿れたらしい。
 その証拠には、油屋の婿におさまっても、「召しませ、油」と京の町など廻らず、遠い美濃まで行商におもむき、そちらで追手の目をくらまし油を売って居る。今でいえば、「地下へ潜った」という事になろう。
 が、さて美濃へ行っても、やはり、
現代風に言えば、「暴動教さ罪」とか「公務執行妨害」といった手配が、道三にはつきまとって居た。
 それゆえ最初の峯丸から法蓮坊までは仕方かないとしても、松波庄九(五)郎、西村勘九郎、長井新九郎、そして斎藤道三と次々と名を変えてゆくのも、原因たるやこれによるらしい。
 変名をたえずしていないと捕まる危険があったから、そのせいゆえだろう。
 さて、高松古墳のできた頃。つまり、それまでのコマやクダラ、シラギの張っていた日本列島での勢力を、弁髪姿の藤原氏が追い払って、新しい王朝の制度をもうけた(平安)時代。           
  道三、担がれて美濃の国主になる
 騎馬民族より古く住みっいていた天の朝の遺民らも、反体制の徒輩として執拗に討伐された。
 しかし日本は島国なので他へ逃げようもないそれら原住民は、降参するしかなくて捕えられ奴隷とされた。
が、農耕民族だった天の朝の残党は、それから奴百姓として扱われたが、「遊牧民族」として一切の農耕を拒否する騎馬民族の子孫もまた、山者とか、
 「しゆくの者」とよばれて、土をこねて土器を作って火でやいて生計を立てたりしていた。(江戸時代になると、このしゅくの者達の、溜まり場が「宿場」となっていく)
 そこで、この部族を「土器」とか「土師」の名称でよぶ。が、藤原時代の末期になって公家の力が弱まってくると、それらの、「地家」とよばれる連中が武装蜂起して、いわゆる後の武家や豪族になった。
 それゆえ、足利時代に入ると、美濃も、「土器」の一族が「土岐氏」の名で守護職をつとめるようになった。しかし、
 「上のなすところ下もこれを見習う」というけれど、土岐氏も足利氏の真似をして、何年分もの地子銭や貢祖を散々先取りしてから、
「これまで上納した分は一切、徳政して帳消しとなる。よって新規にまた納入すべし」
 ということになって、道三が美濃へ入ったきた頃、困窮した人々は離反し揉めていた。
「釜ゆで」の悪名が後になって道三にたつようになる大釜を、鋳工して献納したのは、「刀工関の孫六」の名称で知られる関の者たちだが、
ここから源氏野と呼ばれる原住民限定住居地の間に、今も「鋳掛」の地名がある。
 だからその一帯に住むかっての俘囚の子孫の一大勢力と、大垣地区に巣くっていた修験者集団と、
そして日蓮宗の美濃における戦闘教団の三派連合が、「住民のための新しい国作り」をというので力をだしあって、道三を担ぎあげたものとみるのが妥当であろう。
なにしろ講談の類では、「文武兼備の大豪傑ゆえ、おのれとばかり敵を眼よりも高くさし上げてぶん廻し」
 というような個人のバイタリティによってのみ話をつけたがる。しかし、いくら強くても一人の力では何ともなるものではない。
 組織力というか現在の選挙みたいに地盤がないことには、いくら道三が傑物であったとしても、実際は不可能だったろう。
 今日的表現をかりれば、連合三派ということになるだろうが、前述の被圧迫階級の関から源氏野へかけての限定居住の連中、そして拝火教の修験者。
 これらの者が道三に眼をつけ、「あなたは姿やかたちは油売りにやつして居られるが、京では名高い妙覚寺のオルグだそうじやありませんか」と近か寄ってきた。
「とんでもおへん。うちは山崎男八幡さま御免許の油売りどす」と道三は用心したが、
 「お隠しなさらんでもよろしいでしょう。わたしらは土岐家の圧政から、美濃の者らを解放しようとする人民戦線のものです」
 と打ち明けてきた。そして、
 「厚見郡今泉にある常在寺へ参りましょう」と誘った。さて連れられてゆくと、
 「おう懐しの法蓮坊よ……」と姿をみせたのが、かってホモの間柄で仲良したった南陽坊である。
 「京では室町番衆の弾圧にもろくもやられ、すっかり挫折させられた吾らであるか、此方は山国ゆえ土岐の侍共も、馬を使っての機動力もきくまい。
よって、まずこの美濃を、まず立正安国の実験地にしてみぬか」と顔をみるなりいいだしてきた。
 「そうか、この美濃を吾らの法華信仰をもって、解放区に致そうと……いいやるのか」と道三は唸った。すると南陽坊は、
 「今でこそ越前一国は白山神徒を率いた朝倉のものになっているが、かっては一向宗の木崎道場が制圧し、法燈の国として厳然と存続していたし、
この近くでも尾張長島は、一向宗門徒が占領し今や独立して居るではないか」
 しっかりやろうといわんばかりに、その手をぐっと握りしめてきた。そこで道三は、
 「お祖師さまの教義の妙諦を、この美濃にて新しい世作りにしまするのか」とうなずいた。
 さて、かって加賀一国を統治していた一向宗は、いまの大阪城の原点である石山本願寺城が総司令部であって、長島一向宗の城砦へも武器や糧食の供給をしていた。
 つまりバックアップがあればこそ一向宗は信徒を集め、それぞれに武器を持たせ、「仏敵を葬れ、もし討死しても極楽往生は間違いないぞ」と士気を鼓舞して戦わせていた。
   道三土岐頼芸に仕え武士となる
「しかし、われら日蓮宗には、武器や糧食を援助してくれる総本山もない。といって托鉢したり辻説法して軍資金集めもできまい」
 考えこんでから道三は励しをいう南陽坊へいい返した。すると同行してきた修験者や関の者らは、
「だからこそ、われら三派が互いに力を合せて戦いますのじゃ。一本の藁は弱くても三本よじりにすれば、強い繩となりますぞ」左右から、はっきり協力を誓いあった。
 だが、そうだからといって、すぐさま挙兵などできる訳はない。そこで道三は、
「敵を知り己れを知るか戦に勝つ道……ともいうから、ひとまずわしは城奉公でもしてみたい」と、土地者の南陽坊に申し込んだ。
「よっしゃ、委せておけ」と、そこで当時の美濃国土岐盛幀の弟頼芸に世話された。

 さて、土岐家は先代政頼の時にも兄を越前へ追い出して、弟がその跡目を奪っている。
 それゆえ頼芸もやはり、兄に取って代わりたいものと念じていた。だから、その時の用意にもと考えたので、坊主から油屋だったような男でも、
「兵は一人でも多い方がよかろう」と、召し抱えたものらしい。が、手許で使ってみると京育ちゆえ、知識豊富で、てきぱきしていて役立つ。
 そこで吝なくせに疑りっぼい頼芸も、その頭の良さと美男ぶりにはすっかりほれこんでしまった。しかし、
 「あれ程の男なら油屋をしていても、大成する筈なのに何故、安扶持でわが許へ奉公しくさったのか?」と気になって、そっと身辺を探らせた。すると、
 「……修験者とか関の者らが僧にまじって、よくあの者の許へ尋ねて参ります」
 といった報告が入ってきた。頼芸は、疑いをもつよりそうと聞くと、
 「そうか、わが兵だけではとても兄と戦えぬが、あの油屋めをおだてて修験や関の者らを集めさせれば、なんとか巧くやれよう」
 と、かねての腹案を実行しようと考えすっかり喜んでしまい、道三をよぶなり、「其方の許へは雑多な人間が寄り集るそうじゃが、いったい何を話し合うのか」
 さり気なくカマをかけて尋ねてみた。
「はい、いい憎いことですが土岐盛頼さまの税の取り立てがひどく、みな困りきってそれで相談にくるのでございます」と答えられた。
「そうか。わしの許へも泣きを言ってくるのが多い、まったく弱ったものだ……」頼芸は故意に当惑してみせてから、
「もし汝らの手で兄を追い出せば、わしが代って万民の喜びそうな施政をするのだが」と、さも無念そうに溜息をついてみせた。
 そこで道三が、この話を伝えたところ、
 「皆の暮しむきが良くなるのであれば、われらに取っては弟の頼芸さまが、国主になられても差し支えはない。手をかそうではないか」
 修験者軍団も関衆もすぐ話にのってきた。
 だから大永七年(一五二七)八月。
 
土岐盛頼の川手城を不意に包囲したから、ふいをつかれた盛頼は、まさか取り巻いたのか修験者や鋳掛け屋を従えた日蓮宗の僧侶共とは知る由もなく狼狽して逃げだした。
 そこで自動的に切り替るように、国外へ逃亡した兄に弟の頼芸が代る事となった。が、今も昔もえらい人は公約を守らない。
 土岐頼芸は己れの兵は一人も損せずに、美濃一国をまんまと国盜りしたくせに、国主になると兄の頃より税の取り立ても激しく、暴君ぶりをしめしてきた。そこで、
 「これでは話が違うではないか」
 と修験者たちを息まいたが、南陽坊らの日蓮軍団の者らも道三に向かって、
 「坊主だませば七代たたるというのに、われらをまんまと利用しなされ、ひどいではありませぬか」と訴えてきた。道三も椹りかね、
「やむを得ぬ。庶民の苦しみを見棄てておけぬのが、われら日蓮上人の御教えを守るものの勤め……いざ討ってこまそ」
 と天文十一年(一五四二)五月二日に、土岐頼芸の大桑城を取りかこんだものの、
 「人を殺すは、み仏の教えにある殺生戒をおかすことになる」と、かって川手城を襲った時と同じように、頼芸も殺さず逃がしてやった。
 そして、ところてんの押し出しみたいに、土岐兄弟が美濃を棄て国外へ逃亡してしまったので、道三が新しい国主に推挙された。
 しかし道三は税を安くするため、他の戦国大名と違って軍事費を極度におさえた。
 だから、その生涯に十余回の出陣をしたものの、一度も誤っても他国へ侵略などしていない。
戦ったのは、占領しに押し寄せた尾張勢や越前勢を、自領内の軽海(のちの各務ガ原)で追い散らしたきりである。
 これで悪党呼ばわりをされたり、国盗りなどいわれたのでは、まったくたまったものではない。
 だから判りやすく、どうしてそんなことにされ、今ではまるで間違われてしまったかを探ってみたいものである。
         道三油断して美濃を追われる
 弘治二年(一五五六)四月二十日。
 うっかり鷹狩りに出かけた留守を狙われ、旧土岐系の家巨団のクーデターにあい、まだ幼ない二人の子を殺され城まで奪われてしまった道三は、とうとう切羽詰って、
「もはや、これまでなり」と覚悟した。
 そこで城外に居て危うく命拾いした十歳の末子新五を、その姉である信長の妻奇蝶の許へ落してやる際に、いっも肌身離さずに持っていた持仏とよぶ、小さな仏体をもたせ、
「わしの領国である美濃一国のことは、婿に当る織田信長へ、国譲り状をつけて処置は委せてあるゆえ、どうか幼ない新五は侍にはせず、
その昔わしが修業した京の妙覚寺へ入れて僧侶にし、安らかに一生おくらしてやってほしい」と遺言をつけてやったという。
                                        
 その頃は衣棚小路にあった日蓮宗の三具足本山の一つである妙覚寺は、現在、烏丸中学と、
鞍馬口の中間の前に移っているか、そこへ頼むと、道三が新五につけたという遺言書のコピーを送ってくれる。
 もちろん真偽の程は保証できないが、日蓮宗の本山の一つに、そうした文書か伝わってきたということは、道三が妙覚寺に修業中に名僧だったからに他なるまい。
よく、「十歳で神童、十五で才子、二十歳すぎれば唯のひと」というが、「二十歳まで名僧で、それからは悪人、死ぬ前後は到って善人」といったのは聞いたこともない。
 なのに、美濃一国の譲り状をうけて、兵千人余りをひきつれ出陣しながら信長が、「この乱世に、お人好しと判かっている道三入道に味方するのは、己れを危うくするものでしか
ありえまい」というのだろうか。
 せっかく木曾川と飛弾川が二又になって、長良川となって流れる川州の戸島舞坊構えまで行きながら、そこのたけなす葦草の茂みに兵も自分も匿れっ放しのままで、
 「一石も投げず一矢も飛ばず、早々にして、道三の死が伝わるや引きあぐ」といった行為をとった織田信長の振舞いをみると、首を傾げたくなる。それゆえ、
 『信長公記』なる彼の侍臣太田午一の書いたと伝わるものの中に、
「道三は、悪逆無道の者で、罪もない者でも大釜に入れて下から火を燃して、ゆで章魚のごとくにして成敗するなど悪業の限りをした」の一節があるからとて、
道三をそれで、「悪党」だったと決めつけてしまうのは、とんでもない誤りではなかろうか。
 なにしろ信長は出陣しながら道三を見殺しにして戻ってきたくせに、永禄三年の桶狭間の戦いで、当時の最新武器だった今川方の鉄砲を数多く入手すると、
その翌年から年中行事のように美濃へ兵を進めた。そして、
 『今は亡き道三から美濃一国の譲り状を受けている自分こそ、正当の国主である』と、その権利を主張して四年目にとうとう占領するや、それまでの井の口の城を、
 「岐阜城」と改名してのけ、やがて安土城を築き引き移る際、妻の奇蝶から、
 「どうか美濃の国は、道三の遺児である新五改めて斉藤玄蕃允にやって頂きたい」
 と懇願されたが、生駒将監の後家娘にうませた織田信忠を領主にすえ、斉藤玄蕃允はその家老にして残こしただけだった。
 つまり『信長公記』の記事などは、信長をかばって、故意に道三を誹謗したでっち上げにすぎない。だから、それをうのみにして書いたようなものは信ずるにたらない。
 また信長殺しが光秀とされていたのも、『斎藤道三の子が明智光秀』とされていたから、道三の恨みを彼がはらしたとして、
「親の仇討ち」と扱われたからだろうともみられる。
 もともと美濃は山国で、米もろくにとれぬ所だったのだが、それを京からきた斎藤道三が治めるようになってからは、まず紙すきを奨励し、おおいに製紙業をおこし、これを、
 「美濃紙」と名づけ諸国へ売りひろめて、国内をうるおした。
 また美濃にも多い蜂屋者に、柿の渋ぬきを教え、とった柿渋は、作った美濃紙に塗ってこれを防水用の渋紙に拵えて売りだした。
 また渋をぬいたあと大柿は乾しかためて、これを「蜂屋柿」と名づけ、甘味用に遠国へまで、斎藤道三は運んで売りさばかせた。
更に、尾張にはない金山も在った。だから信長が美濃をを盗ったことによって、以後の信長の財政的利益は計り知れないものがあったろう。
第二部へ続く