新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

十手の由来 居合と抜刀の違い 銭形平次誕生秘話

2019-05-24 11:53:32 | 古代から現代史まで
本篇は長文である。日頃、通説俗説を常識として信じている向きには、奇異に思われるだろう。しかし、信頼できる史料によって「常識」で解明すると真実が見えてくる。どうか、プリントアウトしてじっくり読んで頂くのも結構と思っている。なお、推敲に間違いがあればお許し願いたい。


十手の考案者とその役目について記しておく。
十手は、悪鬼邪気を引き拔くとされる千手観音から出た言葉なのである。
そして、十手そのものを考案したのは、江戸時代の儒学者、高橋至時や間重富の師の麻田剛立である。
〈播磨印南記〉には、各村の番太が十手を大きな樫の枝で作り召捕りをなし、元旦には新しい朱房をつけ、一人が四つ竹一人は三味線をならしながら受持の村の戸ごとから米銭を徴集、これを大黒という。
〈福井昔噺〉には、今坂の者が捕縄、十手棒をもち、坂の者とよばれ城下の非道を取締ったとある。
今も地方の古道具屋でたまにみかける十手は鋳物で、テレビのごときジュラルミン製ではない。江戸中期以降は抜刀させれば起訴できる現行犯ゆえ、召捕りの時に、刀の鯉口こじあけに使われた道具で、武器ではなく木製の物さえあったのである。

銭形平次誕生秘話                
日本警察発祥の捕物論考  
  十手の役目                 
武術を習ったのは捕方だった
十手は道具で武器ではない
 村八分の起こり
武道は誰のために
 居合と抜刀術 の違い 
白は逃がせ黒は捕らえろ
二足草鞋やくざと源氏屋

  力の法則
「捕物」は江戸期のものには「捕者」とある。これを「物」にしてしまったのは泉鏡花の弟の泉斜汀の題名からであるというが、「半七捕物帳」からこの種の読み物は多い。
しかし、可笑しなことにこれは「大岡政談」が中国ものの翻訳であるように、海外ものの焼き直し以外の何物でもなく、本質的なことは何一つ解明されていない。
誰かが不思議に想って、これを正面から取っ組んでいないかと調べてみたが、何処にも見当たらない。
だから、これから述べる事は、捕物の原点みたいなもので、初め多少は奇異に感じられても、「常識」をもって、そうであったかと判って頂ければ、労多く大変だったが私も満足である。
そこで、「捕物の話」のような興味本位なものや、奉行所目録犯科帳のごとき通りいっぺんな空虚なものは、これをとらない。従来の捕物観は白紙に戻し、あくまでも常識をもって、
それがこれまでの概念からいって、可笑しく考えられるとしてもここに論評を進めねばなるまい。
まず、その道具。携帯用捕物用具であるが、反対例として引用するのはどうかと想うが、まず念頭に浮かぶものとしては、学生運動が盛んだった頃、全学共闘会議派連中の、「完全武装」という恰好である。
これは、「ヘルメットにタオルの覆面」であり、武器は、これは今の所赤軍派以外は、「ゲバ棒」とよばれる角材と、火炎瓶や投げる為の石である。
処が、これに対する捕 物陣営のいでたちは、「ヘルメット」は同じようだが材質が堅牢で、タオルのマスクのようなちゃちなものではなく、厚いプラスチック性のマスクをもってしている。
そして角材に対してはジュラルミンの大楯、警棒、ガス銃、放水車、装甲車まで揃えている。
いつの時代でもそうだろうが、国家権力を背景にした捕物側というのは、被捕物者である連中よりも常にその装備において、格段の優秀性をもっているものである。
またこうでないと、「捕縛する」という目的に支障をきたす。つまりこれは一般は拳銃など持っているだけでも不法所持として逮捕されるが、捕物側は未成年でも公然と携行が許される差異でもある。
処がこの明白な区別が、明治以前となると、まったく反対のように今日では見られている。たとえばテレビにしろ小説にしろ「御用」「御用」とかかってゆく捕物側が、
「おのれ参るかッ」とバッタバッタと斬られてゆく。なにしろ被捕物側は抜身の刀をふりまわしているのに、召し捕る方は十手の他には樫の六尺棒。
切羽詰って持ち出すのが梯子。目つぶし用の砂か灰。大捕物となってようやく現れてくる器材は、「さす叉」「からみ棒」の類でしかない。
しかし、これらも棒の尖端にU字型の鉄がはまっているか、いぼいぼが出ている程度で、ゲバ棒の尖端に五寸釘が打ち付けてあるのと大差はない。
すると江戸時代というのは、「国家権力の捕方のほうが、極めて良心的かつ平和愛好型であったのか」ということになる。
そして、今日でこそ「警察官募集」のポスターをよくみかけるけれど、昔は次々とあんなに斬られてしまう捕方の補充をどうしたのだろうか?人手不足ではなかったらしいが、
よくもそれにしても、ばった、ばったと殺される方の側になり手があったものであると、素朴な疑問がどうしても起きてくる。
何しろ、いくら樫の六尺棒が固いからと言っても、これが日本刀と激突した時切断されるのは木質の方であるべきだし、又十手という鉄製捕物道具も、重量は二キロしかない。
鍔と柄の付いた抜き身の重さを平均二キロとして、日本刀が打ち下ろしてくる太刀先を二キロの物体で受け止めた時、切線加速度をa、刀の重量をMとすれば、「a+M」の衝撃つまりFの力が、
二キロの十手にかかってくる計算になる。
さらに刀を構えるのが頭に直立の型なら九十度。大上段にふりかぶってこられたなら、百八十度の加速度の力が、さらに十手に掛かってくる。
すると江戸時代の捕方の平均身長が百六十センチ以下なら、肩の付け根から、十手を握る手までは六十センチ間隔だから、その衝撃波に対し肩までの距離は瞬間的に四分の一に短縮される。
すると力学上、手元で八十センチの刀身を受けたときは、十手を持つ側の肩先へ二十センチの切り込みを生じる。これは一般的な力の法則であって、いわゆる武道や刀法にはなんら関係はない。
だれがやっても同じ結果が出るのである。
仮に十手が固定していても「弾性限界の荷重度位の法則」があるから、刀より十手が重量のある鉄棒でもない限り被害は免れ得ない。
相手が剣豪や名人でなくとも、捕方は、もし十手で受け止めようものなら絶対に殺傷を受ける。ということはどうしても、概念的には国家権力の武器が劣ることになってしまう。
ところが明治九年三月二十八日に佩刀禁止令が発布され、一般が丸腰になった後の邏卒の捕物道具も、不思議な話だが全く江戸期と変わらない。今までこれに疑問を抱いた者は居ないらしいが、
果たして真実はどうであったのか。

銭形平次誕生秘話
映画やテレビで岡っ引きの銭形平次は有名で、その飛び道具の「投げ銭」は噴飯ものである。
ここで、何故に銭形平次が投げ銭を武器として、捕物をしたかのかという疑問の考察をしてみたい。
かって、月刊となった「オール読物」に1931年4月号から野村胡堂の「銭形平次捕物控」が人気作品として継続的に掲載された。
その際野村は新しい捕物帳を連載するに当たって、十手がはたして刀と戦った場合 どんな具合だったかを調査した。
何故なら当時白黒の映画が隆盛で、チャンバラ物が人気だったし、捕り方は六尺棒や、梯子、刺又を武器として、犯人を捕らえていて、同心や岡っ引きは十手で、大刀と戦っていたのに疑問を抱いたからである。
だから、当時はまだ東京の日暮里や蒲田にあった古物商の店先で売っていた、旧幕時代の十手を何本も買い求めて実験をしてみたのである。
現代のテレビに出てくる十手は、ピカピカ光ったジュラルミン製だが、本来江戸時代の物は砂の上に鋳型を置き、砂鉄や屑鉄を溶かして流し込んだ鋳物なのである。
だからどれも赤錆が酷く、風化しかけていた。
こんな十手に大刀ではなく木刀で打ち込んでくるのを受け止めようとすると、どれもこれも十手が折れ飛んでしまった。
これには野村も驚いて「木刀でさえこんなんじゃ、真剣だったら死んじゃうな」と納得し、 映画は全く信じられないと、それではと新機軸の活劇として、飛び道具を考案したのである。
そして「寛永通宝」のような鉄分の多い良質の貨幣ではなく天保以降のビタの一文銭を平次が投げる飛び道具にしての「投げ銭」として、十手の弱さを補うための「銭形平次」がここに誕生したのである。

 村八分の起こり
頼山陽が門下生になり、教えを受けたこともある備後神辺の儒者にして、詩人でもあった菅茶山は、文政十年八月死去する前に、「福山風俗」「福山志料」を書き残した。
その中に備後福山市東の三吉村に、「三八という者らの住む地域あり。これ水野侯が福山十万石を賜るとき、三河より伴いきたりし八の者なれば、今も三八と名づく」と出ている。
この水野侯というのは「汝も明智光秀にあやかるべし」と家康から光秀遺愛の槍を貰った寵臣で、大阪夏の陣の大和街道の指揮官をつとめ、
のち島原の乱に討死にした板倉重昌に代わって松平伊豆守が指揮をとっても不落ときくや、老躯に鞭打ち福山から駆けつけ島原を落城させた水野勝成で、その三男も旗本に取り立てられていたが、
この倅が旗本白柄組の水野十郎左衛門である。なおそのとき、
(光秀にあやかれ)と家康が言ったのは、その時代には誰も、「光秀が信長殺し」と認めていなかったせいでもあろう。
さて、この福山の三八について、「六郡志」に「三八は常に両刀を腰におび、牢番、警吏、拷問、処刑をなし、深津村専故寺の前にて斬首をせしが、のち榎峠にてこれを行っていた」同地方のことを誌している。
また「備後御調史料」では、「当地にては茶筅は竹細工をなすが、勧進ともよばれ代官役所の稲の坪切りをなし、普段は捕縄術剣術の練習をなし常時代官の検覧をうく。
また鎮守の祭礼には神輿の先払いをなし、陣笠ぶっさき羽織にて両刀を帯び、手に六尺棒腰に十手をさした。三八または八部衆ともいう」とでている。
これは(おどま勧進勧進)の五ツ木の子守歌で知られているように、いわば、「乞食」扱いを蔭ではされながら、表向きは刀を二本差し代官直属として、気にくわぬ者はすぐ召し捕ってしまい、
でっちあげで牢屋へ放りこんで断罪していた三八の風俗である。今でもいわれる「嘘の三八」とか「嘘っぱち」の語源はこれからだという。
さてなぜ百姓が彼らを乞食視したかといえば、正規の扶持米ではなく、百姓から役得のごとく米をまきあげ、それで寄食していたせいである。
明治維新で薩摩の川路利良が邏卒総長となり、外遊後新しい制度を設けてから、それまでの警察官であった三八が村内からつま弾きされてしまったのが、いわゆる今も伝わる「村八分」の起こりなのである。
また、裏日本の「因幡志」にも、
「伯耆や因幡にては、元旦、盆の十三日にはハチヤが唱門師のごとく各戸を廻り米穀を貰いうく。平時は御目付役宅に出入りし、棒や十手をもって警邏をなし、軽罪はハチヤ預けといいて、
彼らに歳月を限ってハチヤの奴僕とされた」とあるし、出雲などでは、「文化四年(1807)松平出羽家書上書」と名づける公儀へ提出の公文書もあり、
それに「当家が雲州を拝領せし後、各郡ごとに『郡廻り鉢屋』をもうけ郡牢を一個所ずつおき、この鉢屋の頭は尼子時代の牢人の素性ゆえ『屋職』とよばれその下に『村受け鉢屋』があって、
これが各村ごとに数戸ずつ配置され、担任区内の村民の非違を司っていた。これは天領の大森町も同じで、他に一定地ごとに鉢屋の聚落居住地があり、
ここでは常時、抜刀、柔術、棒術を修練していた。山陰地方にて名ある武芸者はみな此処の出身なり」堂々と書かれている。
しかし明治七年に警察制度が変革してからは、やはり村八分として追放された者が多く、大正六年調査表の『島根県分布一覧』には僅かに、
「鉢屋一八六戸、一七三戸、番太五六戸、得妙三戸、茶筅三十戸。計四四八戸」とある。
また尼子の残党が、村受け鉢屋や郡代鉢屋になったことの裏付け史料としては、「昨十九日の合戦にて、鉢屋掃部ら鉄砲をもって敵を討取りし段は神妙に候」
「はちや、かもんら永々と籠城のところ、このたびも敵勢取りかかり押し寄せし時もおおいに力戦奮闘、武辺をかざりしは神妙也」といった永禄八年四月二十日、同十月一日付の尼子義久の花押のある感状が、
はちや衆かもん衆頭の、河本左京亮宛で今も現存している。
「掃部頭」というと、今では井伊大老のことをすぐ連想するが、彼が公家を弾圧し安政の大獄を指揮したのは、彼個人のバイタリティーのみでなく、
「公家に対する地家」つまり俘囚の裔が武家であるという民族の血からの、反動的な圧迫だったともみられるのである。
それにもともと公家というのは「よき鉄は釘にならず、よき人は兵にならぬ」というのを金科玉条となし、彼らが征服した原住民の末裔をもって兵役を課し、これが武家の起源であるが、
差別のためか蔑視の理由によるかそこまでは解明できぬが、「掃部頭」とか「内膳」「弾正」といった官名しか武家には与えていない。清掃人夫取締りとか、配膳係のボーイといったのが前者の意味であり、
後者は「糺」という文字もあてられ「ただす」と訓をされていた。これは唐から輸入された制度で天智帝の時に始まり、大宝令で法文化され延暦十一年に、
「弾正例八十三条」という当時の刑事訴訟法が発布されたが、公家は、「兵になることを嫌った」ごとく、ただす役割もまた嫌って、これを原住系に押しつけた。「千 金の子は盗賊に死せず」の精神なのである。
だから、よく映画や芝居で「おのれ不浄役人め」とか「不浄な縄目にかかるものか」と軽蔑した言葉がでてくるのは、つまり、俘囚の子孫が役人だったことに起因している。
だからして公家が、織田信長の父信忠に「御所に献金したのは奇特である」と「弾正忠」の官名をやったりしているのも、織田家というのは近江八田別所出身。
昔の捕虜収容所の血統だからである。しかし尾張の織田家を弾正にしたところで京へきて、御用御用と召捕りをやるわけではないから、その後は有名無実になってしまったが、
明治二年五月に、新政府はこれを復興。同年七月に弾正台京都出張本台、四年二月に弾正台京摂出張巡察所と捕物機関を設けたが、のち司法省に吸収合併され、なくなってしまつた。
  武道は誰のために
さて、これに対して被捕物側である一般大衆はどうであったかというと、天正十六年(1588)に秀吉の刀狩りが施行されたが「道中差し」の名目で旅行用服装時に限り帯刀は一般にも江戸期は黙認されていた。
そして幕末の天保から慶応にかけて、黒船騒ぎや国内事情の悪化で護身用の目的から泥棒を見て縄をなうごとく武道が流行した。
さてこうなると、きわめて職業化され生計がなりたったからプロが輩出したのである。『徳川実紀』にもこの記載がある。そして、これに便乗して『本朝武芸小伝』『新撰武術流祖録』の類が木版本で後に刊行された。
そして、さも戦国時代から何世紀にもわたって、武道というものが隆盛をきわめたように、そうした本ではこれをうたいあげた。
だからして現代では、相当の有知識人であっても、ほとんどの人に、「江戸時代というのは、侍はもとより町人でさえ、腰に刀をおびていた。だから各地に道場があって、みんな剣の稽古をしていたもの」
といった概念があるらしい。それゆえ、
「道場の門弟が跡目を望んだり、道場主の娘を狙って争う」といった設定のものや「殿様の前で刀と刀の御前試合があった」「十五歳から町道場へ通った」などという、
天保以前の泰平の世では、有り得なかった荒唐無稽さが、講談やテレビの影響で抵抗無く受け入れられているらしいが、もし一般大衆である被捕物側がそんなに武道鍛錬を励んでいるならば、
これを逮捕する側が、棒と十手だけで太刀うちできただろうか。国家権力の方が武器は優秀でないと治安維持は出来ないものなのに、矛盾してはいまいかと考えざるを得ない。
それによく「刀は武士の表道具」などというから、幕末に輩出したプロは、みな武士クラス出身であるはずと想うのだが、比較的知られている連中をあげていっても
千葉周作・・・・馬医者(猿飼部族)の家筋
男谷精一郎・・・検校の倅
斉藤弥九郎・・・商家の丁稚上り
土方歳三・・・・日野、松坂屋の小僧
近藤勇・・・・・日野、農業
岡田十松・・・・埼玉砂山、農業
浅利又七郎・・・千葉松戸、農業
と、有名剣客で士分の家柄は案外に誰もいない。これははたして何を意味するのだろう。「本を買い込んで、つんどく」のと「読む」というのは違うと言うが、三百年来腰に刀を差している階級から剣客が出ずに、
他の階級からそうしたプロが産まれてきたことは、これは動かし難い事実であり、これまでの概念とは違い、三代将軍家光以降は幕末まで各大名家に、「武術師範」と称される存在はない。
また「何々道場」などといった物も、今では常識化されているが実際のところ、一般化されていたのは虚構ではあるまいか。
忠臣蔵で有名な浅野内匠頭は、松の廊下で吉良上野に刀を抜き二度まで斬りかかっているが、その「浅野内匠頭分限牒」には播州赤穂三万五千石の家臣団が足軽小者から医師や女中の末に到るまで書き出されていて、
「槍奉行」や「御膳方」「餅奉行」といった役職までずらりとあるのに、「武術方」とか「武道師範」などというものは全然ないのである。
講談で有名な高田馬場十八人斬りの堀部安兵衛も、分限牒では無役である。もちろん安兵衛が内匠頭に師範をしていたら、まさか二度も刀をふるって擦過傷ということもなく、吉良上野を斬殺していただろう。
すると赤穂浪士の討ち入事件は起きず、忠君思想の宣伝材料がなくなり、その後の朱子学の儒臣も困ったろうと想われる。
つまり各大名家では幕末になって、流行のように学校や塾を設立し、そこで武道鍛錬をさせたが、それまでは、公儀よりの犯罪予備罪の嫌疑を恐れてか師範など置いてはいない。
また道場というものも、今日の小説や映画に出てくるような民間道場というのはあり得ない。
なにしろ国家が十手と樫の棒で治安を保とうというのに、一般大衆に剣道を普及させるそんな物騒なものは、これを認めるわけなどありえないからである。
では存在していたのは何かというと、これは捕物側のものだけである。これはかってGHQによって武道禁止をされた時、警察関係だけは特に許され存続してこられたのと同じかも知れぬが、
現在は群馬県多野郡吉井町になるが、 昔は上州多胡の馬庭村で、そこに有名な、
「樋口家の馬庭念流」の大きな道場があって、江戸京橋太田屋敷、神田お玉ガ池、小石川の三カ所に出稽古の道場まであった。
といってこれは、一般大衆の青年が習おうとしても、「入門しとうござる」といって行けるところではなく、南町奉行所北町奉行所、小石川の方は火附盗賊改め番所の委託制で、捕物側の指南所であったのである。
のち幕末になって剣道が大衆化して、今日の各種学校のように入学金と月謝で採算がとれるようになると、馬庭念流の樋口定伊は、
「矢留術」を看板に神田明神下から、和泉橋通に一般用の道場を進出させ経営に当たった。それまで馬庭念流が上州で長らく存在しえた理由は、
「岩鼻代官所御用」と「大戸関所御用」の二つを拝命し、そこの捕物側の訓練に当り、また出役に人手不足の時には、西部劇の補助シェリフのごとく門人を出して代官御用を勤めてもいたからこそ、
その道場はさし許されていたもまである。
つまり武道というものは、権力に反抗する恐れのあるものとされたから、伝承のように武士階級によって護持されてきたのではない。
たえずそれを役目柄必要としていた治安維持担当の捕物側によって江戸期には受け継がれてきた。明治三十五年刊の「日本武術名家伝」にも、はっきり、
「捕手は竹内流の小具足の中に起こり、我より仕掛けて敵の不意をうち、これを捕りひしぐの術にて、関口流、川上流、一伝流らみな捕り方を主となし、制剛流も必ず捕手術をもって、その武芸の髄となす」とでている。普通の概念でゆくと、武芸とは、
「刀槍をもって相手を倒すこと」と大衆文学的にどうも考えがちであるが、それらは「武門の意地をたてるため」とか「剣の使命によって」などと漠然とした曖昧模糊の観がないでもない。
きわめて非実用的である。ところが、そういう観念をかなぐり捨て改めて、「捕手術こそ武芸である」とすると、治安維持上目的意識が明確になるし、これはきわめて実用的な技術であるから、
捕縛方がこれに励み伝承することにも、その意義が認められてくるというものである。今でも剣道の道場が何処にもあるのは警察だけである。
   居合と抜刀術 の違い
さて『近世詩儒伝』というのに、「井上石香は江都の詩をよくする者の筆頭。三河松助が本名にして千葉周作をその支配地神田於玉ガ池に招き、その道場をたてて己の輩下に刀術を学ばせる。
石香も同道場師範としてその剣技令名あり」とでている。
これだけ見ると石香というのは千葉周作のパトロンで、どこかの大名のご隠居のごとくも想われてしまう。そして『石香談話』には、
「抜刀術にて吾に比するものなかりき」といった箇所がある。だからどうしても、「北辰一刀流の千葉周作から抜刀術の極意」なるものを授かり、西部劇の早撃ちのごとく、
サアッと刀を抜く術に優れていたもの、と、どうしても解釈しがちである。
ところが拳銃を素早く引き抜き一秒もかからず、引き金を引く所作のごとく、刀の鯉口をきり己の長刀を抜く技術は、山田次郎吉の『日本剣道史』をみても、これは「居合」という呼称をされている。
つまり「抜刀」とはいわれないのである。
が、表向きに「抜刀」をその流派に冠するものもないではない。幕末に金比羅大神宮の御利益で、田宮坊太郎という少年が親の仇討ちを目出度く遂げたという辻講釈が、金比羅講の信者によって宣伝され、
世に広まった後『北条早雲記』という読み本が刊行され、その中に田宮平兵衛成政という長柄の刀をおびた剣豪が興味本位に創造されている。そして、
(柄の長い刀は抜くのに厄介だろう)という想念のもとに、ここに流行に便乗し、「田宮流抜刀術」という名称が生まれた。なにしろ十二歳の坊太郎少年が一メートル余の大刀を、
大地を蹴って飛び上がり、すらりと抜き打ちに出来たというので、講談を本当と思いこむ人士も多く、ついに紀州や水戸にまでこれは広がった。
(松井源水の長刀抜きが大道芸で広まったのもこの影響である)しかし田宮流抜刀といっても、この派の万治元年に死んだ水野新五左は、自分で「水野流居合術」と改めているし、
その派の加藤権兵衛も「水府流居合」と直し、誰も「抜刀」という名称は避けている。
何故「居合と抜刀」とは相違するのであろうか。
これこそ今まで解明されなかった一般武芸と、捕物武芸の分岐点のようなものである。だが、それを解く前に井上石香を本名の三河松助から考究する必要が出てくる。
通称「三松」と呼ばれた彼は『福山志料』に現れる「三八」と同じであって、弾左衛門世襲の手代六人衆の一人なのである。
弾家というのは幕末三田屋敷で御用盗を指揮していた薩摩の益満休之助が、「おはんのところは、源頼朝の直裔ではごわせぬか」と言いに行ったような家門で室町御所の頃は「室町弾左衛門」を名乗っていた。
現在の日本橋室町の三越から日銀までにその居宅があって、麹町平河から左岸は彼の土地だった。
天正十八年に徳川家康が江戸に入った時、土地を譲って隅田川向こうに移ったが、幕末に到るまでその敷地内には、棟割長屋二百三十二棟。
猿飼十五戸。外に品川、代々木、神田、日本橋に飛び地をもち六十棟ぐらいの長屋が あって、慶応三年の調べでは弾左衛門輩家は江戸だけで六千人。これに奥州までの十二カ国に、
六千五百六十二の支配村落を持っていて、そこに散在している人数は女子供を入れると約五十万人。この他に、「道の者」といって、
墨屋、筆屋、獅子舞、鳥追いといった行商や遊芸で旅から旅へと渡り歩く弾左衛門鑑札の者が二十万。
しめて七十万の人間から人頭税をとっていたのが弾家で、一人から年に一両とっても年間七十万両の現金が入る家柄である。
そこで三田村玄竜の考証によると、「江戸の札差しの金は全部、弾家の金で、後世の日本銀行の役割をしていた」という。
だから世襲の手代といっても、実質は何万石の家老位の実権やみいりがあったから千葉周作に道場の一つぐらいたててやるのは何でもなかったらしい。
しかし弾家というのは初めはそれ程の地盤ではなく、これは隅田川の関屋別所を合併してかららしい。といってこれは弾家の意志ではなく、家康入国の時に、
他地方なみに牢獄と刑場を一つにして弾家の責任にしようとしたところ、関屋別所の石出帯刀が三百石どりの武士になってしまって牢屋奉行になり、所属地を一切あげて弾家に委せてしまった故である。
徳川政権の奉行職は次々とお役目替えがあるのに、石出帯刀の子孫だけは三百年にわたって世襲であったのはこの為であった。
また千住関屋の牛田にある千葉山西光院という寺に石出帯刀の石碑があるが、後にその素性の所だけは判読できぬよう石を削り除かれているのも理由はそこにある。
弾家は今の南千住駅前の昔の小塚原刑場だけが担任の仕事なので、破戒僧だとか人別帳をけずられてきた共の払い下げを受け、それを奴隷代わりに処刑人として使用し、ここを六人の手代の一人にやらせていた。
山田浅右衛門、通称「首切り浅右」がそれで、御一新前は門人にやらせて自分で斬首などせず、もっと威張っていたものだとその手記が残っているが、
「山田流居合抜き」と呼ばれて名高い新免流据物斬りは、代々その山田家に伝わって来たものである。
         
 白は逃がせ黒は捕らえろ

では、山田浅右の居合抜きに対し井上石香の抜刀術とは一体なんであったのか。この区別が今日では、まったく判らなくなってしまっているが、
『石香談話』の中に「われ十手をもち刀の下げ緒に引っかけ栗形(鯉口の下にある鞘紐通し)又は反角(腰に差したとき鞘がすべらぬよう引っ掛る所)にこじり通して、
その鞘を抜くはこれ百発百中なり」と言う箇所がある。
これまでの既成概念で考えると、刀を叩き落とすなら判るが、鞘を抜くというのは理解に苦しむ。しかし文字通りでは自分の刀を抜くのが、居合い術。相手の刀を抜くのが抜刀の術。なのである。
だから従来の武芸観からゆくと、どうも「刀法とは相手を早く斬り倒すもの」と考えて判らなくなるが、江戸期に武芸を専門に鍛錬していたのは捕物側なのであることに思いつけば、
「抜刀させる必要性がそこにあったのだ」と、帰納して考えざるをえない。
これは「鯉口三寸抜いたら、お家は断絶、その身は切腹」というのが千代田城内だけのことと今では考えられているが、あれは帯刀する者全部ヘの掟だつたのである。
警官が拳銃を佩用しているが、持っているからと言ってバンバン撃てないないように、刀を差しているからと誰もがやたらに許可無くして抜刀は出来なかったのである。
天保期から幕末にかけ治安が悪化したのはこのタブーが無視され、気儘に抜刀する輩が現れた為で、それまでの世情では国家権力は棒だけで取締まりが可能だったのである。
つまり抜刀の斬り合いが希有だった例証としては、切傷に対する漢方の処置方というものが、幕末まで全くなかった事実がある。
会津軍務局頭取玉虫左太夫が明治二年四月に西軍に命じられて自刃する前に書き残した『官武通紀』にも外科の手当を知らず難渋した旨の記載があるし、
これは子母沢寛の『からす組』や『狼と鷹』にも蘭医松本良順が外科の処置を教えに行くまで、東北諸藩の医者は手当が判らず、てんでに傷口を消毒するどころか温めたり冷やしていた野放図さかげんが出ている。
つまり、「需要があって供給が生まれる」原則からして抜刀して斬合いをよくしていたものなら、漢方医といえど、どうしても切傷手当の外科はやっていたはずである。
なのに、その需要がまったくなかったというのは、とりも直さずチャンバラはなかったことになる。こうなると通俗時代小説などメルヘンでしかない。
では何を被捕物側は振り回し国家側の捕物陣営と争ったかと言えば、それは鞘ごとである。だからして必要上鞘の末端には「こじり」とよぶ鉄の尖った物が冠せられ、
直ぐしたには「責め金具」とよぶ鋭い鉄枠ががつき、鞘が割れぬように「足金物」で厳重にベルトがしめられていた。
それゆえテレビや映画と違い、被捕物側は本当は刀を抜かず八十センチの鞘ごと向かってくるからして、それなら二メートルの樫棒の方が遥かに優位だったのである。
しかし鞘ごと振り回すのを召し捕っても、もし容疑が晴れたら虻蜂とらずである。 一旦捕らえるからには起訴事実を作っておかねば徒労になる。
そこで考案されたのが抜刀術である。十手の下の方の出っ張りは、あの間に刀身を挟むのではなく、鞘をひっかけ無理に鯉口を切らせ、刀身を露出させ罪に落とす為である。
さす叉にしろ、からみ棒にしろ用途は、「抜刀させ、罪にする」目的だった。芝居などでは首へさしこみ挟み込むが、あの幅は十五センチ間隔であるから、Mサイズの頸なら入るが、
Lサイズの相手なら入らない。
また十手それ自身でも三センチの空間に、刀身をすっぽり入れることはパチンコのチューリップへ玉を入れるより難しいし、もし抜身なら十手の方が怪我をしてしまう。
いまならパトカーで運ばれすぐ手当も受けられるが、昔はそうはゆかない。それにクロロマイセチンや抗生薬剤のなかった時代では、小さな怪我でもすぐ傷口がうんで、
「破傷風」と当時は呼ばれたが命取りになってしまう。
だからそうしたことを考えると、捕物道具というのは「棒」が主要武器であって、「十手」も初めは軍配や采配のごとき性質だった物が、点数稼ぎの末端の警吏に抜刀用にと利用されだしたものらしい。
さて話は八一二年戻って文治二年。九郎判官義経が捕らえられぬのに業を煮やした源頼朝が、日本全国六十六国に対する「総追捕使」を自分でかって出た時、各地に警察署を設けるわけにゆかないから、
六十六国に散在している二千有百の同族神徒系の別所のに、逮捕と処罰の警察権をもたせてしまった。ところがこの連中は足利期にはいると、
「白旗党余類」と呼ばれるように、白旗をいつも立てている部族なので、自分らの事を「仁田のしろ」「武田のしろ」と自称するくらいだから、捕らえてきたのが源氏の末裔で、
同じ神信心の部族と判するや、「白じゃ、同族の情けぞ」と放免してしまう。
しかしそうそう見逃していては起訴できぬから、補充の意味で、墨染の衣をまとう仏教系の反源氏の者を代用に捕らえてきては、「黒じゃ」と適当に罪科をつくって処罰してしまった。
あまりにでっちあげが酷いからというので「嘘の三八」という言葉が伝っているのは前述したが、目安箱に投書などして黒の者が白の役人に再審請求することを「黒白を争う」といったのはこのためである。
八世紀に渡って日本全国で、鉢屋とか八部ともいう連中のボスのが、代官手先となって片っ端から捕らえて廻り、番屋の番太郎や目明かし下っ引きの類も、
「白か」「黒か」とやったから、今でもこの用語は「そんなに言うなら白黒つけようじゃないか」などと生きているが、薩摩系に警察権が変わった明治七年からは、今や実際には白黒は反対になったのである。
そして村役人や番太だった八部衆が「村八分」にされたように、も関西では仕返しのため「ん坊」と苛められた。
        
         
  二足草鞋やくざと源氏屋
また今日では「二足草鞋」と言う呼び方をして、博徒で御用聞きをつとめた者を悪くいうが「無職」(ぶしょく)というのは職がないのではなくて、職を持たなくてもよい身分の者のことなのである。
といって豪いというのではなく、これは七世紀に仏教を持って天孫系が日本列島へ入ってきたとき、原住民を捕らえて別所という捕虜収容所へ入れたが『延喜式』といった古記録にもあるように、
給食給衣の宣撫策がとられ、治外法権の民とされた。大江匡房の書き残した『傀儡子記』(くぐつき)にあるような、
「一畝の田も耕さず、一枝の桑も作らず、己らに主君はなしとし、生涯、貢租や課役なきを誇り、夜毎に白神をまつり白酒をあげて鼓舞しあう」といった無職渡世の気儘な伝統を幕末まで持ち越し暮らしていた。
つまり天孫系は各檀那寺に人別帳とよぶ戸籍台本を作られ、そこで年貢をとられたり「助郷」とよぶ労力奉仕にかり出されるから、どうしても職というものが必要だった。
が、原住系は百姓の作った米を、蔭では(勧進)と悪口を言われようが、御用風をふかし、巻き上げ徒食していた。この結果が天孫系は何をやるにしても努力し銭になるよう励まねばならぬから、
勤勉で仕事に直ぐ熟練した。
ところが原住系は何によらず遊び人気質が抜けず慣れないというので、前者を黒人(玄人)、後者を白人(素人)といった区別の仕方すらある。
さて、ぶらぶらしているのが博徒になるのは当たり前だし、その素性からして、代官所の下働きとして御用の十手を預けられるのはこれまた当然である。
つまり、「二足草鞋」の方が主流派の存在であって、今でこそ有名だが清水の次郎長とか、黒駒の勝蔵といった連中の方が「半可打」という反主流はだったのである。
だから次郎長や勝蔵は自分の土地に居られず、旅から旅へと逃げ回っていたのである。ところが、この双方の纏め役を後にかって出た安東の文吉になると、これは二足草鞋の主流派だから、
博徒と言っても今日で言えば警察署長、当時の地方公務員だから、生涯旅がらすなどは一度もせずに畳の上で大往生をしている。
さて、春日局の実子で小田原城主だった稲葉美濃守から、駿府城代大久保玄蕃頭宛慶安四年八月二十七日付書面で「由井正雪の親類を探索のため、江戸から目明かしが来る」というのが現存している。
だがこの場合は、「面通し」の意味で、俗に言う目明かし岡っ引きの類は、地方の八部、三八と同じで江戸では弾左衛門配下の手代井上石香に属していた。
しかし弾家は人頭税はとるが給与は出さない。では何処から貰っていたかというと、吉原が日本橋蛎殻町にあった頃より、ここから支払われていた。
何故かというと遊女屋というのは誰でも出来る商売ではなく、源氏の末裔の原住系の者だけが営める蝋燭の灯芯と同じような限定営業で同族だったせいである。
だから遊女の名を源氏名というし、目明かしの下っ引きなどでぶらぶらしている者を源氏屋と昔はいったものである。
さて日本の学生運動の草分けとも言うべき一八六四年(元治元)水戸の時擁館生徒二十歳の田中源蔵が、学生三百を率いて決起したとき。
今は日立市になっている茨城の助川城に彼らが立て籠もる前から、これを追撃していた公儀機動隊というのが、水戸領鯉淵村他五十三村の八部衆たちで、
彼らは昔ながらの源氏の白旗をたてて総督田沼意尊の命令下に九月二十七日の早朝には水戸額田村の博徒隊寺門組二百、同じく博徒のうこん組の二百ずつと合流した。
つまり源氏屋と呼ばれる二足草鞋の博徒が主力となって、これに奥州二本松の丹羽軍を初め近接諸藩の軍勢が加わり二万の大軍をもって、田中隊の助川城を包囲攻撃したのである。
博徒といっても公儀御用の機動隊だから、みな鉄砲を持っていた。
その銃口の前に立ちふさがって教え子を庇うために、「時習館教授方尾形友一郎」「潮来館教授方林五郎三郎」を始め師と仰がれる多くの先生たちが散華していった。
もちろん結果的には、十三、四歳の少年までが捕われ体が小さいため斬首できぬからと木に吊され撲殺されはした。
だがかっての師には、身をもって教え子を守る気概があったからこそ、三尺下って師の影を踏まずというような考えもあったのである。
今日のように教官や教授がサラリーマン化しては、バカヤロー呼ばわりされるのがいても無理はない。







真相・鳥羽伏見戦争敗戦の訳

2019-05-24 11:10:21 | 古代から現代史まで
真相・鳥羽伏見戦争敗戦の訳
 
 
幕末、「御用盗」の名で江戸八百八町を公然と荒し廻っている強盗団の巣窟が三田の薩摩屋敷、と証拠をつかんだ江戸市中取締りの庄内藩は、慶応三年十二月二十三日夜、 己が屯所へまで鉄砲を打ちこまれたのには立腹した。そこで、「下手人をすぐさまお引渡し願いたい」と交渉したが、三田の薩摩屋敷より、 「そげえなことは知り申っさん」とすげなく拒絶されてしまい、そこで、「えい、もはや、これまで」堪忍袋の緒をきらし、翌二十四日夜。すぐさま支藩の兵まで動員して、 「やってしまえ」と三田の薩摩屋敷を包囲するなり直ちに、これに火をかけて攻めた。この知らせは、年の瀬も迫った二十九日夜。当時大坂城にいた徳川慶喜の許へも届けられ、これに対し、 同行していた老中永井尚志は、「かくなる上は、すべてが薩摩の陰謀と判然しましたゆえ」と申しでて慶喜の許可を貰い、総督に大河内正質をたて、すぐさま淀に本陣をもうけた。  そして「討薩の表」を掲げもった滝川播磨守の本隊は鳥羽街道を進み、竹中丹後守の隊は伏見口から、一気に京へ入ろうとした。
 
 
 しかし、そこには、薩長土三藩の兵がいたから、まず鳥羽口を守っていた薩州の中村半次郎、野津七左衛門(のち鎮雄)が、滝川の部隊に砲火を浴びせかけた。 一月三日の午後五時頃だというが、僅か二千たらずの軍勢に何故、このとき、精鋭であるべき幕軍二万近くがころ負けをしてしまったのか。 「錦旗が出てきたから、それで幕軍は退却したのだ」というけれど単純すぎる。はたしてそんなことが有ったものなのか。  なにしろ錦旗の贋物を岩倉具視が呉服屋に調製させたのは、それより後だというのだから、これではてんで話の辻つまが合わないことになる。  だからでもあろう。伏見奉行所にたてこもって戦い、逃げて船で江戸表へ戻った新選組の土方歳三などに、「もう、これからの戦争は鉄砲だ。いくら刀なんか振り廻したって歯が立たなかった」  などと語らせて、この経緯を説明しようとする小説もある。
 
 しかし新選組には余り銃がそろっていなかったかも知れぬが、滝川播磨守や竹中丹後守が率いて進撃したのは、なにも刀槍を振り廻した連中ではない。 四年前の元治元年に那珂湊で水戸天狗党をば散々に打ち破った光栄ある仏人軍事顧問が、調練して育てあげた公儀歩兵隊なのである。その歩兵隊が鉄砲をもっていない筈はないから、彼らはポンピドー銃を担ぎナポレオン砲を引張った砲兵隊と共に進軍したのである。  二万の内、新選組のようなのを除外しても、大半が歩兵隊だったのなら、まさか二挺拳銃みたいな二挺鉄砲ということはなかろうから、二千たらずの向こうより幕軍の 方が遥かにその鉄砲の数も多いわけである。だから、土方歳三にそんなことをいわせたように書いたとしても、こじつけでしかない事になる。  では個人的に薩摩っぽや長州人が滅法強すぎて、関東者はだらしなく鉄砲を放り出して、みんな逃げてしまったのかともなる。が、そんなに易々と幕軍とても退却はしていない。徳川家伝習隊、会津藩兵も翌四日未明にかけ、一歩も退かずに、「敵は僅少ぞ。頑張れや」と、土方歳三の率いる新選組と共に、伏見奉行所から反撃、 近藤勇の養子周平の他に新幕の隊士二十名近くを失いつつも、なお奮戦敢闘している。しかし明るくなっては防ぎきれず、会津兵は淀まで下って散兵線をしいたが、新選組はそれでも退却せず千本松に陣をしき、 沼地を要害にして、ここで薩長軍をくいとめた。
 
 
 このため、新選組結成以来の仲間だった井上源三郎を初め、探偵諜報役だった山崎烝以下二十余名を、改めてここで失ったのである。  そこで、息のある者もいたが、とても収容などできず、土方歳三は歩ける者だけ纏めて辛うじて引きあげる羽目になった。やがてこのため、富森、橋本、八幡まで進んできていた幕兵までが、まき添えのかたちで敗走。雪崩をうって大坂城へと逃げこんだ。  元日は牡丹雪がふったが、二日、三日、そしてこの四日も、ひどい西北の烈風が吹きまくっていた。だから風に叩きつけられて、京へ向かう行軍は阻まれたが、大坂へ逃げ戻るとなると追風をうけるようなものだから、生き残った幕兵は夕方までにみな 立ち帰った。
 
「緒戦は不運にもしくじり申したが、この大坂城内には、まだ新しき兵が万余も居る。戻ってきて編成し直した者を加えれば、二万いや三万にもなりましょう。 将軍家おんみずから御出馬下されば、将兵は勇気百倍致しまして、関東武士の意気をあげましょう」しきりと周囲の者は慶喜に出陣を求めた。  兵力が十倍近く多いのだから、誰がみても慶喜さえ陣頭に馬を進めれば、これは絶対に勝利間違いなしの筈だからである。処が慶喜は、「この城がたとえ焼土となるとも、死をもって守るが徳川武士の本分というもの。もし吾らが此処で討死したとしても、関東忠義の士がきっと遺志を継ぐであろう」などと、今でいえばおおいにアジっておいて、そっと大坂城の後門(うしろもん)から脱出してしまった。 「もしもし、どちらさまでござるか」警護の兵たちが、ばらばらと駆け出してきて誰何(すいか)したが、「これは、これは、てまえは上様のお小姓でござる」  山岡頭巾をかぶった慶喜は腰を屈めまでしたという。さて、衛兵たちは、雲の上の慶喜の顔や姿など拝んだこともない。それに、まさか前十五代将軍さまが、衛兵の御徒士あたりへ、形ばかりにせよ、 頭を下げる、とは思いもよらぬことだから、「それは、それは‥‥」と通してしまった。慶喜はそこですぐさま、天保山沖に碇泊させてあった軍艦開陽丸へのりこみ、八日の夜に出帆し江戸へと帰ってしまった。
 
 
 歴史家は、この間の事情を、 「慶喜は西軍が錦旗をあげれば官軍になるから、それと戦うと抗命朝敵となる。そこで恭順の意を表するため、騒ぐ家来達を放って戻ったのである」と説明する。  しかし、慶喜は三日の朝には、「討薩の表」を認め、進軍を命じているのである。そしてこの慶喜は、御三家の名古屋城主徳川慶勝をして、「なみの人にあらず、機をみるに敏、その頭脳の切れること、 これは到底、世の凡俗の及ぶところにあらず」とまでいわせているが、その頭の廻転の早さには定評があった。  それ程までに頭のいい男が、三日の朝には、「よし、薩摩を討て、京へ上れ」と命じておきながら、「鳥羽伏見で僅か二千の敵に、向かい風に邪魔され二万近くの幕軍精鋭が敗走してきた」と聞かされただけで、 翌日の夕方には、「恭順せねばならぬ」と途端に気が変ってしまい、己れの家臣を瞞(だま)してまで逃げ出してしまえるものだろうか。 女には、お天気屋というのがあって、くるくるっと気が変るそうだが、慶喜は男、しかも人一倍賢しい男なのである。
 
 従来ここを解明できるものがいなかった。だからみな慶喜をかいても的を逸しているが、真相は、やはり彼の機をみるに敏な賢明さにあったのである。  問題は硝石である。徳川家では島原騒動以来、それを政治的配慮で切支丹一揆といいふらす事によって、「鎖国」政策をとった。  もちろんキリスト教ごときをそれ程までに、小児病的嫌悪をもって徳川家が恐れたのではない。  便所の下を掘って天日に三日も乾してもやっと匙半分もとれるかどうか判らぬ硝石たるや、2018年代の今日でも日本国中、何処にもその鉱山はない。だから幕府はその硝石の存在を恐れたのである。  なにしろ土民にすぎぬ連中でさえ、島原半島の口の津の硝石庫を押さえれば、徳川家の歴戦の勇士が力攻めしても討伐に二年掛ったのである。そこで仰天し、
「これは大変である。硝石を大名共が勝手に入手し謀叛をなしたら、天下の一大事である」と、ここに長崎に出島を築き、硝石の輸入は大公儀のみにと限定してきた。 「鎖国」の本当の理由たるや、つまりは実にこれである。
 
 
 青い目の宣教師を迫害したのは、彼らがマカオやマニラからの、硝石のエージェントを兼ねていたからであり、キリシタン信者を殺させたのも、その手引きで硝石の密輸があったせいで、 九州の半島や島嶼で虐殺が多かったのも、そのわけなのである。江戸時代に「抜け荷」と称し密貿易取締りが厳しかったのも、なにも珊瑚やたいまいが密輸入され女が着飾ったからといって、 それくらいで公儀が大騒ぎする筈はない。気づかわれたのは、日本にはなくすべて輸入に依存している硝石の密貿易だったのである。そしてこの統制が幕末まで励行されていたので、このため、 「徳川三百年の泰平」は続けて来られたのである。しかし馬関戦争の後、長州は井上聞多らを上海へ、薩州は鹿児島戦争のあと五代才助らを海外へ出していた。硝石の買入れにである。 「徳川家は鎖国をして硝石の輸入を独占してきたはよいが、長年積みこんでおいた物ゆえ、湿気をおび使い物にならなかったようだ。それに比して、薩長使用のものは上海から輸入したての最新硝石と判明、 とてもこれでは勝負にならぬ」と咄嗟に慶喜は気がついたのである。
 
だから昔ながらの石頭の老中共が、「わが方は薩長の十倍の兵がありまする。戦というは昔から、兵の多い方が勝つに決まっております」  と口を酸っぱくして諌めても、「鎖国までして、これまで押さえてきた硝石を、こう薩長土が自由にしだしたようでは、もはや徳川の世もこれまでであろう」  と慶喜はあっさり見きりをつけ、さっさと江戸へ戻り、江戸城もやがてあけ渡し、上野寛永寺へ、そして水戸へと引っこんだのである。  つまり慶喜が恭順の意を示さねばならなかったのは、 「硝石だった」ことが、これまで知られていないから、おおかたの歴史の知識を狂わせてしまっているようだ。もちろんその責任は、 「鉄砲の弾丸の原料が日本ではとれないことを国民に知らせては反戦的になる恐れがあろう」と気づかって明治軍部へ忠義を尽すために、すべてを隠してきた歴史家や、その忠実な後継者にある。
 
 

真相・鳥羽伏見戦争敗戦の訳

2019-05-24 11:10:21 | 古代から現代史まで
真相・鳥羽伏見戦争敗戦の訳
 
 
幕末、「御用盗」の名で江戸八百八町を公然と荒し廻っている強盗団の巣窟が三田の薩摩屋敷、と証拠をつかんだ江戸市中取締りの庄内藩は、慶応三年十二月二十三日夜、 己が屯所へまで鉄砲を打ちこまれたのには立腹した。そこで、「下手人をすぐさまお引渡し願いたい」と交渉したが、三田の薩摩屋敷より、 「そげえなことは知り申っさん」とすげなく拒絶されてしまい、そこで、「えい、もはや、これまで」堪忍袋の緒をきらし、翌二十四日夜。すぐさま支藩の兵まで動員して、 「やってしまえ」と三田の薩摩屋敷を包囲するなり直ちに、これに火をかけて攻めた。この知らせは、年の瀬も迫った二十九日夜。当時大坂城にいた徳川慶喜の許へも届けられ、これに対し、 同行していた老中永井尚志は、「かくなる上は、すべてが薩摩の陰謀と判然しましたゆえ」と申しでて慶喜の許可を貰い、総督に大河内正質をたて、すぐさま淀に本陣をもうけた。  そして「討薩の表」を掲げもった滝川播磨守の本隊は鳥羽街道を進み、竹中丹後守の隊は伏見口から、一気に京へ入ろうとした。
 
 
 しかし、そこには、薩長土三藩の兵がいたから、まず鳥羽口を守っていた薩州の中村半次郎、野津七左衛門(のち鎮雄)が、滝川の部隊に砲火を浴びせかけた。 一月三日の午後五時頃だというが、僅か二千たらずの軍勢に何故、このとき、精鋭であるべき幕軍二万近くがころ負けをしてしまったのか。 「錦旗が出てきたから、それで幕軍は退却したのだ」というけれど単純すぎる。はたしてそんなことが有ったものなのか。  なにしろ錦旗の贋物を岩倉具視が呉服屋に調製させたのは、それより後だというのだから、これではてんで話の辻つまが合わないことになる。  だからでもあろう。伏見奉行所にたてこもって戦い、逃げて船で江戸表へ戻った新選組の土方歳三などに、「もう、これからの戦争は鉄砲だ。いくら刀なんか振り廻したって歯が立たなかった」  などと語らせて、この経緯を説明しようとする小説もある。
 
 しかし新選組には余り銃がそろっていなかったかも知れぬが、滝川播磨守や竹中丹後守が率いて進撃したのは、なにも刀槍を振り廻した連中ではない。 四年前の元治元年に那珂湊で水戸天狗党をば散々に打ち破った光栄ある仏人軍事顧問が、調練して育てあげた公儀歩兵隊なのである。その歩兵隊が鉄砲をもっていない筈はないから、彼らはポンピドー銃を担ぎナポレオン砲を引張った砲兵隊と共に進軍したのである。  二万の内、新選組のようなのを除外しても、大半が歩兵隊だったのなら、まさか二挺拳銃みたいな二挺鉄砲ということはなかろうから、二千たらずの向こうより幕軍の 方が遥かにその鉄砲の数も多いわけである。だから、土方歳三にそんなことをいわせたように書いたとしても、こじつけでしかない事になる。  では個人的に薩摩っぽや長州人が滅法強すぎて、関東者はだらしなく鉄砲を放り出して、みんな逃げてしまったのかともなる。が、そんなに易々と幕軍とても退却はしていない。徳川家伝習隊、会津藩兵も翌四日未明にかけ、一歩も退かずに、「敵は僅少ぞ。頑張れや」と、土方歳三の率いる新選組と共に、伏見奉行所から反撃、 近藤勇の養子周平の他に新幕の隊士二十名近くを失いつつも、なお奮戦敢闘している。しかし明るくなっては防ぎきれず、会津兵は淀まで下って散兵線をしいたが、新選組はそれでも退却せず千本松に陣をしき、 沼地を要害にして、ここで薩長軍をくいとめた。
 
 
 このため、新選組結成以来の仲間だった井上源三郎を初め、探偵諜報役だった山崎烝以下二十余名を、改めてここで失ったのである。  そこで、息のある者もいたが、とても収容などできず、土方歳三は歩ける者だけ纏めて辛うじて引きあげる羽目になった。やがてこのため、富森、橋本、八幡まで進んできていた幕兵までが、まき添えのかたちで敗走。雪崩をうって大坂城へと逃げこんだ。  元日は牡丹雪がふったが、二日、三日、そしてこの四日も、ひどい西北の烈風が吹きまくっていた。だから風に叩きつけられて、京へ向かう行軍は阻まれたが、大坂へ逃げ戻るとなると追風をうけるようなものだから、生き残った幕兵は夕方までにみな 立ち帰った。
 
「緒戦は不運にもしくじり申したが、この大坂城内には、まだ新しき兵が万余も居る。戻ってきて編成し直した者を加えれば、二万いや三万にもなりましょう。 将軍家おんみずから御出馬下されば、将兵は勇気百倍致しまして、関東武士の意気をあげましょう」しきりと周囲の者は慶喜に出陣を求めた。  兵力が十倍近く多いのだから、誰がみても慶喜さえ陣頭に馬を進めれば、これは絶対に勝利間違いなしの筈だからである。処が慶喜は、「この城がたとえ焼土となるとも、死をもって守るが徳川武士の本分というもの。もし吾らが此処で討死したとしても、関東忠義の士がきっと遺志を継ぐであろう」などと、今でいえばおおいにアジっておいて、そっと大坂城の後門(うしろもん)から脱出してしまった。 「もしもし、どちらさまでござるか」警護の兵たちが、ばらばらと駆け出してきて誰何(すいか)したが、「これは、これは、てまえは上様のお小姓でござる」  山岡頭巾をかぶった慶喜は腰を屈めまでしたという。さて、衛兵たちは、雲の上の慶喜の顔や姿など拝んだこともない。それに、まさか前十五代将軍さまが、衛兵の御徒士あたりへ、形ばかりにせよ、 頭を下げる、とは思いもよらぬことだから、「それは、それは‥‥」と通してしまった。慶喜はそこですぐさま、天保山沖に碇泊させてあった軍艦開陽丸へのりこみ、八日の夜に出帆し江戸へと帰ってしまった。
 
 
 歴史家は、この間の事情を、 「慶喜は西軍が錦旗をあげれば官軍になるから、それと戦うと抗命朝敵となる。そこで恭順の意を表するため、騒ぐ家来達を放って戻ったのである」と説明する。  しかし、慶喜は三日の朝には、「討薩の表」を認め、進軍を命じているのである。そしてこの慶喜は、御三家の名古屋城主徳川慶勝をして、「なみの人にあらず、機をみるに敏、その頭脳の切れること、 これは到底、世の凡俗の及ぶところにあらず」とまでいわせているが、その頭の廻転の早さには定評があった。  それ程までに頭のいい男が、三日の朝には、「よし、薩摩を討て、京へ上れ」と命じておきながら、「鳥羽伏見で僅か二千の敵に、向かい風に邪魔され二万近くの幕軍精鋭が敗走してきた」と聞かされただけで、 翌日の夕方には、「恭順せねばならぬ」と途端に気が変ってしまい、己れの家臣を瞞(だま)してまで逃げ出してしまえるものだろうか。 女には、お天気屋というのがあって、くるくるっと気が変るそうだが、慶喜は男、しかも人一倍賢しい男なのである。
 
 従来ここを解明できるものがいなかった。だからみな慶喜をかいても的を逸しているが、真相は、やはり彼の機をみるに敏な賢明さにあったのである。  問題は硝石である。徳川家では島原騒動以来、それを政治的配慮で切支丹一揆といいふらす事によって、「鎖国」政策をとった。  もちろんキリスト教ごときをそれ程までに、小児病的嫌悪をもって徳川家が恐れたのではない。  便所の下を掘って天日に三日も乾してもやっと匙半分もとれるかどうか判らぬ硝石たるや、2018年代の今日でも日本国中、何処にもその鉱山はない。だから幕府はその硝石の存在を恐れたのである。  なにしろ土民にすぎぬ連中でさえ、島原半島の口の津の硝石庫を押さえれば、徳川家の歴戦の勇士が力攻めしても討伐に二年掛ったのである。そこで仰天し、
「これは大変である。硝石を大名共が勝手に入手し謀叛をなしたら、天下の一大事である」と、ここに長崎に出島を築き、硝石の輸入は大公儀のみにと限定してきた。 「鎖国」の本当の理由たるや、つまりは実にこれである。
 
 
 青い目の宣教師を迫害したのは、彼らがマカオやマニラからの、硝石のエージェントを兼ねていたからであり、キリシタン信者を殺させたのも、その手引きで硝石の密輸があったせいで、 九州の半島や島嶼で虐殺が多かったのも、そのわけなのである。江戸時代に「抜け荷」と称し密貿易取締りが厳しかったのも、なにも珊瑚やたいまいが密輸入され女が着飾ったからといって、 それくらいで公儀が大騒ぎする筈はない。気づかわれたのは、日本にはなくすべて輸入に依存している硝石の密貿易だったのである。そしてこの統制が幕末まで励行されていたので、このため、 「徳川三百年の泰平」は続けて来られたのである。しかし馬関戦争の後、長州は井上聞多らを上海へ、薩州は鹿児島戦争のあと五代才助らを海外へ出していた。硝石の買入れにである。 「徳川家は鎖国をして硝石の輸入を独占してきたはよいが、長年積みこんでおいた物ゆえ、湿気をおび使い物にならなかったようだ。それに比して、薩長使用のものは上海から輸入したての最新硝石と判明、 とてもこれでは勝負にならぬ」と咄嗟に慶喜は気がついたのである。
 
だから昔ながらの石頭の老中共が、「わが方は薩長の十倍の兵がありまする。戦というは昔から、兵の多い方が勝つに決まっております」  と口を酸っぱくして諌めても、「鎖国までして、これまで押さえてきた硝石を、こう薩長土が自由にしだしたようでは、もはや徳川の世もこれまでであろう」  と慶喜はあっさり見きりをつけ、さっさと江戸へ戻り、江戸城もやがてあけ渡し、上野寛永寺へ、そして水戸へと引っこんだのである。  つまり慶喜が恭順の意を示さねばならなかったのは、 「硝石だった」ことが、これまで知られていないから、おおかたの歴史の知識を狂わせてしまっているようだ。もちろんその責任は、 「鉄砲の弾丸の原料が日本ではとれないことを国民に知らせては反戦的になる恐れがあろう」と気づかって明治軍部へ忠義を尽すために、すべてを隠してきた歴史家や、その忠実な後継者にある。
 
 

日本的下着褌(ふんどし)にまつわるおはなし

2019-05-24 09:49:49 | 古代から現代史まで
 
 現代でこそパンツ全盛で、ふんどしは祭りの時か相撲取り位しかしていない。しかし褌というのは文字通り衣辺に軍(いくさ)と書くようにあれは軍用布である。 ここでは、この褌について考察してみたい。    日本は定期的に歴史ブームだとか言って、沢山の歴史本が出版されている。以前NHKでは「真田丸」が放映され、大変な人気だったという。  しかし、ああいう講談を歴史物として放映する方も問題だが、それを信じて喜んで観ている視聴者のレベルの低さにも辟易する。
 はたしてこういう種類の物は、そのままみな、鵜呑みに信じてよいかとなると、どうも眉唾ものもで著者の肩書きだけが信用されて通っているようなものまである。  なにしろこの国の歴史畑というのは(先生とその弟子)の系列が明瞭ではっきりと学閥もある。 だから(先輩旧恩師の反対や新学説を発表)したものなら、後進者たるや自分の墓穴を掘るに等しく、よく調べた結果が先輩恩師の所論と違ってくると、これは発表などできはしない。  何故かなれば出世が出来なくなるからである。自分の前途が塞がってしまう。 それに取り扱う対象は「死人に口なし」の歴史上の人物である。だから、出鱈目を書いたところで、信長や秀吉が化けて出てくる心配は無い。ゆえに、賢明でおりこうさんは、事実や真相がどうであれ「口のある先輩恩師やお役人」を気にして異説は絶対に立てないのである。 同じことを繰返し、ただ無難に立身のみを心掛けるのである。デカルトは、  「我思い、我疑うゆえに我あり」と言った。 しかし日本という国は、歴史とは暗記するもので、知恵不要の学問でしかない。 つまり考えたり疑ってはいけない学問なのである。 そして教える儘に棒暗記させるものと教育している。
 さて、これがヨーロッパ辺りだと、仮にドイツの国史が間違っていたとしても、隣国のフランスベルギー、オーストリア各国の歴史と対照すると、誤魔化してもすぐに化けの皮がはげる。 処が日本列島は四海に遮断されている。隣接国家があってもそれはせいぜい古代中国の<魏志倭人伝>や<邪馬台国の女王にして卑弥呼>ぐらいしか対照資料が無い。 ただ戦国時代の後半になって、イゼズス派のパードレが、マカオから日本に渡航し、天正十二年の本能寺の変の後は、サンフランシスコ派がマニラからきていて、その見聞録や報告書が残っているにすぎない。 マカオ政府図書館だけでも約五千点の<日本史料>がある。
 これはポルトガル語の華文字で残る日本史と、日本語で現在書店に並んでいる歴史本と違うのは、パードレは歴史屋ではなく自分で書いているし、日本の物は皆他からの引き写しであるせいらしい。 (注)パードレ達は本国の王様や教会がスポンサーで日本に来ているわけで、とても嘘や出鱈目を書いて本国に送る筈は無く、こうした意味からも信頼性は高い。              
 
太古の日本は女人王国だった
 さて、社寺に伝承されている古い文献を次々と読み漁って調べていくと、まず日本は単一民族とされている大和民族だが、その実はまず原住系と、先住系の二種類にはっきり二分され、先住民族は女尊男卑族だったらしい。 そして女の髪の長きをもって、その象徴となし尊い人を「カミ」と敬い「オカミ」とも言ったようである。 勿論戦うための部隊も、彼女達が率いていた。  よって今でも「女将」と書いてこれを「オカミ」と発音する習慣が現存する。
 推定西暦781年。この女が強い女人国へ、大陸から(カミの女)に対する(カミ無しの男)つまりボンズ(坊主)と称する宣教師を先頭にした部族が、徹底的に武装して押しかけてきた。 かれらは女人を裸にして奴隷市場に売る中近東やシルクロードの者達で、女の足を纏足(テンソク)させたり、一夫多妻を誇る、これ即ち男尊女卑民族(これは騎馬民族系)だった。
これまでも大陸からは流れ者が日本列島へ来ていたが、「郷に入っては郷に従え」と神は女神だったし、帝でさえも女の時代で、彼らはその習慣に従っていた。 それが大陸から武力の後援を受けるとたとまち彼らは一致団結した。  日本列島を次々と気候の温暖な地区を占領し、女人王朝を寒冷な東北へ追いやった。 だがこの時代の日本女性は勇敢だった。  二年経った夏。捲土重来の勢いを持って進軍してきた。 かのシャルル太子のために蹶起したオルレアンの少女は、ジャンヌ・ダルク一人だったが、日本女性は一人残らず武器を持って最前線に挺身した。よって堪りかねた外来政権は、山背国の天嶮の地である長岡の山中へ非難した。 渤海国より救援軍事物資を運んできた船舶も彼女達によって拿捕された。
 そこで西暦788年。 外資導入した仏教勢力は延暦寺を建て、援助資材によって兵を武装させ、紀古佐美を征東将総督に任じた。 古佐美は、「女軍コワシ、ワレ立タズ」と謝絶した。 だが、この年十二月七日、また呼び出されて、帝から節刀と勅を賜た。 翌春、兵五万を率いて大進軍をした。しかし六月三日、戦況を奏し、 「敵の頑強ナルコト」を、しきりに訴える。 七月十七日、帝から「シッカリセヨ」の激励を賜る。  八月、奥州平泉にて大会戦。「壮士五万征きて還らず」と、大敗の様子が書かれている。 九月八日、紀古佐美は戻りて曰く、「敗軍の将兵を語らず」と節刀を帝に返還する。 九月十五日、「敗軍の責任ニテ罰スベキナレド、ソノ惨状アワレニツキ、特ニ赦サレル」とある。
 よって、西暦791年1月18日。
 百済王俊哲が軍司令官とし、朝鮮系の坂上田村麻呂を通訳兼道案内として東海道から総攻撃をする。 (但し、敵の女軍イマダ首ヲトル習慣ナキヲ以ッテ、別個ノ物ヲ切断スル。ヨッテ防衛ノ為ニ、軍用ノ布ヲ配リ保護ス。コレヲ衣篇に軍ト作字スルナリ)といった戦いであった。                 
 
   山の神
 つまり、大陸系の軍隊に立ち向かった原住民系の女部隊が、捕らえたり、殺した大陸部隊の兵達の首を取らずに、男の一物を斬り取ったというので、それまではフリチンだった兵達は、急ぎ男の急所を布で防御したという、これは恐怖感からくる報告書なのである。 だから日本最初の和製漢字が 「褌」としてここに現れてくる。
さて、いくら純日本女性が勇壮であっても、結果的には大陸の物量作戦には敗れ去った。 進駐軍は、彼女達を捕らえ山間の捕虜収容所へ入れた。 女は男供を従えて、山へ移住した。 このことが後年の「山のカミ」の語源になるのである。
 これが後年戦国時代になると、山から下りてきた女どもが、東北系ゆえ「北の方」と呼ばれて威張っていたのもこの伝統である。 なにしろ彼女たちは男に貢がせると、昔もその収入を丸ごと供えさた。 だから男たちは金が無く、他の女とセックスも出来ず、好きな酒も飲めずだったから、アル中や梅毒にもなることを免れ、子孫は増えに増え、繁栄して現代でも全国民の大半を占めている。 まことに、神と仰ぐにたるものが純日本女性の「オカミサン」なのである。
   さて、ここからは余談になるが、 今でこそ、男も女も皆パンツをはいている。そして昔は男は褌を常時着用していたと想われている。 そして先述したように褌は軍用布である。 云うなれば、インドネシアの内戦時代、女子共産党員が、スカルノ派の将軍達を片っ端から捕らえ井戸へ放り込んだ時、男の一物をみんなチョン切ってしまった事件は有名だが、日本の女武者も戦国時代までは盛んにやっていたらしい。だから男はその被害を避けるため、貞操帯というより、防護帯として締めていたから、これを「下帯」という程である。                
          ヤクザの褌
 今では誤って理解されているが、やくざが喧嘩出入りに行く時に、 「真新しい晒を六尺に切って下帯にし・・・・」というのも、なにもこれまでのが黄色くなっているから、取り替えるというのではない。普段していないからこそ締めていくのである。 明治初期の悟道軒円玉の講談に、 「この野朗ッ、褌なんかしめてきゃあがって喧嘩支度か」というくだりがある。  つまりやくざが仁義を切るときに股を開くのも、 (決して他意はありません)と、倅(一物)にも挨拶させる為のものだった。  が、大工とか鳶、ガエンの火消しといった高所へ登る職人は、一つ足を踏み外せば命がないから、 そこで万一の時のいわば「死に装束」に褌をしめたが、これは両掛けといって、腹巻から吊る仕掛けになっていた。それでも用心して高所作業の職方は、もしもの時でも露出しないように、 きっちり肉に食い込みそうな、今で言えば細身のズボンをはいたものだが、一般には、普段はしていなかったものなのである。    大正期に入っても士族というのは冬はネルの腰巻で、夏は浴衣みたいな布を巻いていた。 つまり、弓の弦と同じで、いざという時だけに張ってしめ、後は解放して置かないと、何しろ日本は湿気の多い土地柄だから、いつもきちんと包んでおいては、インキンタムシに、昔はなったせいだろう。  勿論衛生上も風通しを良くしておいた方がもちがよく、 「山岡鉄舟は、いつもニギリキンタマで話をしていた」という有名な逸話があるが、  これはなにも無作法だというのではない。 常在戦場の心構えで、治にいて乱を忘れずと、むすこをしごき鍛錬していたのである。  いくら昔でも、開ければ女はオープンで、男だけがキッチリ包むといった男女不平等の話は無い。  ヨーロッパても南欧系の男は今でもノーパンで、ワイシャツの端でカバーしているだけだから、よく冷えていて直ぐ役立つが、イタリアにしろ、スペインにしろ、食前食後といった男も多い。  日本で云う駆けつけ三杯のくちである。
 一方の女の場合も、同様で、洋装が定着する第二次大戦で敗北するまでノーパン時代は続いていた。
昭和十二年、東京の老舗デパート白木屋が火事になった。 当時の女性たちの一般的な服装は、着物姿でノーパンであった。着物では下着はつけないのが普通であり、当時下着に相当するものとして女性たちは腰巻と呼ばれるものをつけていた。
建物は七階建てで、店員や客の女達はロープや、その場で作った命綱を使って上から降りて来たが、 風が吹くと着物がめくれ上がって、何もつけていない下半身があらわになってしまう。
何とか2階3階まで降りて来ても、下には多くの野次馬たちがいた。下には救助ネットがあり飛び降りようとしても 野次馬たちは全員が上を見上げており、 そこへ風が吹くと、とっさに女性たちは着物の裾(すそ)や股(また)の部分を片手で押さえてしまった。 その瞬間、残った片手では体重を支えられなくなり、地上に転落した女性が何人もいたという悲惨な事件も在ったのである。