新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

日本史に見る「悪女」の系譜   日本悪女考

2021-01-16 16:43:35 | 新日本意外史 古代から現代まで

日本の悪女とは、誰に対して悪い女かという事がまず命題になる。
男と女はまるで違うのであるから、男にとって思うようにならぬ存在として見れば女で悪女でないのは珍しいくらいのものである。
ではその女自身にとって悪いのが、それでは悪女かと云えば、これまたそうでもないらしい。
何しろ女は良い結果は自分の所為にしたがるが、そうでないのは他のせいにするからである(ここは女性には異論の在るところでしょう)では何だろう?となってしまう。
勿論明快にして簡単な区分法もある。
○消極的に他に気兼ねしながら生きたのが、善女。
○積極的に思いの儘に生きたのが、悪女。
といったのが、有りふれた解釈なら、
○無名で埋もれてゆき、忘れられるのが善女。
○有名で死後も取り沙汰されるのが悪女。
こうした判別の仕方もあるだろう。
とは言え、後世にその名が残るという事は、「その人が本当に偉大だったとか、素晴らしかった、又は人間的に立派だった」等にはあまり関係はないのである。
 死後にもその名が残るのは、その名前が後世の人間の銭儲けのタネになるか、否かの問題である。
例えば明治時代でも、夫をこよなく愛し自己犠牲の限度を超し命までも捧げたような女は数限りなく居たであろう。
しかしそれが、おたねやおまさでは、良くても生前その村役場から「節婦」として表彰された位の処が関の山である。
そして死んでしまえば、最早その役場の記録にさえ残されていない。処が、節婦の代わりに毒婦と冠句の上の一字が違うと、話しは全く違ってくる。
時移り星変わっても、高橋おでんの名は三歳の子供では無理だろうが、70歳ぐらいな男女ならおよそ知っていよう。
かっては邦枝完二の名で長崎謙二郎がそれを書き、今も一枚一万円位の原稿料でやはりお伝を書き飛ばす小説家や、それを掲載して三十万部売り捌く小説雑誌や、また単行本にして儲ける出版社があるからである。
つまり彼女は今だに堂々と飯の種になる素材であり、いいかえれば利用価値が有るせいだろう。
といって、彼女が後藤吉蔵と金をとって寝た位のことが、どうというのでもない。
疲れて寝ている処を殺した位の事なら、男の一物を部分的に切断して逃げた阿部定の方がまだはるかに扇情的であるともいえる。
では、何が彼女を毒婦とか悪女といった冠詞の下に有名にしたか、明治大正昭和と時には芝居にまでなって儲けの種になったかと云えば、これは権威の裏づけのせいだろう。
といって、後世のマスコミに寄与した故に、正何位の追贈位を貰ったとか、文化勲章を交付されたのではない。それは何といっても東大の権威によってである。が、何も彼女が名誉卒業生に選ばれたのでもなく、
ただ彼女の肉体の一部が余りにも巨大だったから、それでアルコール漬けとされ東大医学部標本室にあるの、在ったとの噂が広まって、それからして、
「そこは伸縮する筋肉だから、巨大だからといって標本にされるのは可笑しい」とか、
「処刑といっても昔は絞首刑だけでなく、河童が尻子玉を抜く如く、女は彼処まで切り取られるものなのか」と、こうした疑問を抱くより、
 「東大に見本として残されるぐらいなら、さぞかし名器であったろう。虎は死して皮を残すというが、高橋おでんは皮と肉をアルコール漬けで残した、えらいもんである」といった形而下的な浅薄な評価が普及した結果が、
「東京帝国大学責任保証・悪女の鑑」とし、「毒婦高橋おでん」の評判を高め、それゆえ後世の売文業や出版社を潤し、彼らによって流布された小説本によって、ますます人口に膾炙され悪女の見本となったものらしい。
これはおかしな言い方かも知れぬが事実とはつまりそうしたものなのである。
つまり、概念的な悪女は何処にも此処にも居て、男の観察からすれば、女とはどれもこれも悪女でないのは居ないようだが「悪女」としてはっきりそれが公認されるには条件がいるらしい。
つまり、「官許」とでもいうのだろうか、権威による公認か、さもなくば何とはなしに権勢というものが、付き纏っていなくてはならぬようである。
浅茅ケ原で鎌を砥いで旅人を殺し、身ぐるみ剥がして奪ったにしても、何の権力の翳りも無いのではとても悪女の範疇には入れて貰えない。処が、白子屋おくまの場合は、
「奉公人の手代と不義密通をなし、婿を殺害に及びし候段は、稀代の悪女といふ他はなく、引廻しの上獄門仰せつけられ候なり」と、いくら自白させられてしまったとはいえ、はたして真実はどうなのか、
手代が巻き添えにする為、嘘をついたのかもしれぬが、お上のお裁きでこうなってしまえば彼女は天下晴れての、認められた悪女という事にされてしまう。
勿論、これは官許の悪女とはいえ、権力のお仕着せみたいに作られてしまった方だか゜、クレオパトラにしろサロメしろ楊貴妃にしろ、そこに権勢の存在があったから、
 彼女らは晴れがましく「悪女の座」を確保することが出来、不死鳥の如くその名を今に伝えて居られるのである。
   日本悪女考
今でこそ九州女は情があってよいとされている。しかしそれは、「女は三界に家なし」とか「女は幼は親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従え」と徳川後期に入っての儒教で押さえつけられた後の話である。
 戦国期での九州女は実に凄まじかった。竜造寺の妻、ねこも凄まじい猛女だったが、大友宗麟の母や妻は、男を丸裸にして竹筒をある箇所にはめて折らせて愉しんだとも謂われる程である。
だから大友宗麟の老臣立花道雪の娘げんのごときも、日本最初の鉄砲隊を編成し、「最初(はな)は立花の娘子軍」といわれるくらい、九州の山野に活躍したものである。が、のち年下の立花宗茂を迎え仲睦まじく暮らした、げんは悪女ではなかったらしいが、大友の姑や嫁はめちゃくちゃで直接に裸にされて吊り殺しにされた男は十余名というが、その為に起きた「耳川合戦」で死傷した男女は一万の余にのぼると、ローマ法王庁のイゼズス派の記録にも残されている。
南北朝の頃。九州はあらかた宮側についたのに、豊後の大友親世だけが足利尊氏につき、南朝方の菊池武朝らと戦うこと七十二回。その内七十一回までは負けたが、七十二回目には、世の中が足利氏のものになったので勝つことが出来た。このため「頑張る者こそ最後には勝つ」と、ここで豊前、豊後、筑前、筑後、肥前肥後の六国を領国として貰い受けた大友氏は足利将軍家より「九州探題」の任命さえ受けた。
(注)南朝とは朝鮮高麗系の勢力で河野水軍、土井氏、対馬の宗氏、菊地氏などで、宮方。北朝とは中国明国勢力で足利氏は明の後押しで日本で傀儡政権を作った。従って南北の争いとは、日本における明と高麗の代理戦争だったのがが実態。

その72回目には、世の中は足利氏のものになったので、勝つことが出来た。
だから今日の北九州から熊本までの九州半国を従え、大友氏は栄えに栄えた。さて、宗麟は、初めは大友義鎮といい、その生母は「伏見宮貞常親王」の王女であった。現代の感覚でゆくと、皇族の妃殿下が九州の大名へ御降嫁とは変だが、この後の江戸時代になっても、後水尾帝の女御みぐしの局は後西天皇の御生母だが、局の末妹の貝姫は銀子二十貫で陸奥へ身売りして、伊達政宗が購ってその子忠宗の側室の一人にしたところ、生まれたのが己之助。
のち仙台六十二万石の伊達綱宗となった時。従兄の後西様が人皇百十一代で在世中だったので、秘かに共に討幕を謀り、天皇からは伝奏園池中納言が奥州へ下向。伊達家からは原田甲斐が京へ何度も往復している。つまり、
 『樅の木は残った』などの伊達騒動というのは、徳川時代に歪曲され、でっち上げされたものの引き写しにすぎなくて事実ではない。本当は朝廷と伊達藩が組んでの討幕運動だったのである。さて話は戻るが、
大友宗麟の生母も綱宗の生母と同じように売られてきた身で早世した。そこで父の大友義鑑は次々と妻を新しく取り替えた。
やがてその内に到明が生まれた。父義鑑は若い妻が気に入りなので、長男の宗麟を廃して到明を跡目にしようとした。しかし、もうその頃は足利末期の天文の世である。重臣達は、「宗麟様は二十余歳なのに到明様はまだ幼児である。とても、戦火風雲急な今の時勢にこれでは御家がもたない。」
と、斉藤播磨守や小佐井大和守らの良識派は反対した。しかし戦国時代の女人は、儒教で押さえつけられた江戸時代後期のおとなしい女とは違う。到明の母は、かっかとしてしまい、「我が子の跡目に邪魔立て致すとは、なんと憎っくき奴ではないか」と、すぐさま腹心の家来を差し向けてまんまと瞞して捕らえさせた。
そして二人の老臣を裸にひんむいて、これを松の木に逆さ吊りにした。二人とも首筋を腫らして苦しみ、とうとう血を吐き悶絶した。すると、奥方は、すぐ斉藤と小佐井の上の首と下の首をぶった切らせた後、「この両人に一味して、まだ我が子を跡目に立たたんとするを邪魔をしようとする輩が居よう。片っ端から捕らえて一人残らず首を切ってしまえ」と、判っている人名の中から宿老の、津久見美作守、田口蔵人以下次々と名を呼びあげた。
さて、この名を呼ばれた者の近親や縁者で、奥御殿に仕えていた者もいたから「これは大変だ」と、そこで急ぎ知らせた者が居る。だから津久見や田口らは驚き、「ひとかどの武士を殺すのに、丸裸にむいて吊し殺しとは、いくら女人の浅はかさとはいえあまりに残酷すぎる、座してそのような辱めを受けて殺されるよりは、先んずれば制するというゆえ、反対に片づけてやる」
と、どうせ捕らえられて殺されるのは判っていたから逆襲を計った。そして奥御殿へ斬りこみ、奥方や到明だけでなく、ものはついでと、「えい、毒をくらわば皿までじゃ」と、たまたま泊まっていた大友義鑑までを叩っ斬ってしまった。これが有名な「大友家の二階崩れ」で、天文十九年二月の事とされている。

     【バスク人来日】
さて、フランシスコ・ザビエルといえば、通説では、「有難いキリストの御教えを初めて日本へもたらしてくれた聖者」というように評価されて、西欧心酔主義者からおおいに崇拝されている。しかし純血白人主義を標榜して欧州を席巻したナチスが、ザビエルが創めたも同じのイゼズス派の教会を焼き、その師父やシスターまで目の敵にしたのは何故かとなる。
なにしろ日本では当時のイゼズス派も、サンフランシスコ派もごっちゃなので何も判っていない。が、現在のスキーの名所のアンドロ共和国。つまりスペインとフランスの真ん中のバスク地方というのは、古代インドにアンドラ国の地名が歴然とあったごとく、「ヨーロッパの東洋」とか「古代有色人種が逃げ隠れ住んでいた地帯」といった扱いで、まあ日本で言えば全体が落人か、道のない山地といったような特殊地方なのである。
だからヨーロッパで魔女裁判の始まった頃。
彼らバスク人は狩り出されて、高慢ちきな女や残忍な女を捕らえては丸裸にむき、車裂きや火炙りにして、教会の御用をうけたまわっていた。
つまりはザビエルにしても、なにも文字や会話も通じぬ東洋へわざわざ乗り込んできたのは、布教という目的ではなかった。
ローマ法王庁にあっては、白人と同じように扱って貰えぬ彼らとしては、箒に跨って東の空へ逃げたとされる魔女達の行方を追って、それを捕らえて功名をたてんとしたのである。それゆえ一五三四年八月十五日にパリのモンマルトの丘で誓いをたてたロヨラら七人のグループが、教皇ポーロ三世によって、僅かな人数なのにイゼズス会戦闘教団として特に許されたのである。
つまり魔女狩り専門の非白人グループ教団だったゆえ、ヒットラーはその弾圧をさせたのである。
さて、このザビエルが日本へ来たのは、天文十八年八月十五日で、初めは鹿児島へ海賊号とよぶジャンクでインドのゴアから到着した。しかし領主島津貴久と巧く行かず、ザビエルは京へ行こうとして豊後の府内を通りかかり、新城主となった大友宗麟と逢った。そして天文二十年九月にもザビエルは山口からの帰りに又面会している。
どうして二人は意気投合したかと言えば、勿論中国人の通訳を入れての話だが、「女人とは表面では優しそうでも、一皮剥けば恐ろしいもので、愚かしき者の中には美女も居るが、賢いと自認している者の殆どは悪女でしかあり得ない」と、ヨーロッパではその当時魔女狩りの最中ゆえ、ザビエルがしきりと力説すればそれに対して「如何にも、如何にも尤もなことである」と大友宗麟もその継母に散々に不快な目にあっていたから、
 「女人は外面菩薩で、内面夜叉と申すが、口先だけは優しそうで巧いことをいうてもいざ本性を現すとなると女人ぐらい恐ろしいものはない」と賛成したのだろう。
「だったら国中の女の中で、意地の悪いのや可愛げのないのは、片端から捕らえて裸に剥いて丸焼きにしたらよろしい。我らイゼズス派はその方面ではエキスバートゆえ、おまかせ下さい。」と、巧く行けばその中に探し求めるヨーロッパより脱走した魔女が居るかも知れんと思うから、ザビエルはしきりに力説した。
「が、女はとかくうるさいもの、もし焼き殺されると知って、集団で暴動でも起こしたら如何なされますぞ」と宗麟は、大友家代々の家老を二人まで裸で吊し殺した継母やその手伝いをなした侍女共のことを思い出してぞっと身震いした。すると、「大丈夫、そうした暴動には遠くから撃ち払える鉄砲なるものがある」と答えた。「相手が女人では近寄って毒づかれ、その上かじりつかれる心配もあるが、あの鉄砲なるものさえあれば遠くから始末できるからよろしかろう」
と、天文十二年に種ガ島から伝わった鉄砲の評判は知っていたから合点したところ、「宜しい。今はサンプルとして数丁しか持ち合わせていないが、インドのゴアから小銃だけでなく大砲も寄付し、弾丸を飛ばすに欠かせぬ火薬の原料の硝石もつけてお分けしよう」と話は纏まった
          
 【西国盛衰記】
 大友宗麟
平戸の松浦や鹿児島の島津などでは、何とかして火器の方は似せた模倣品が造れたが、肝心な硝石は日本中何処を掘っても産出しない。だから信仰のためでなく硝石欲しさにイゼズス派へ入信した。
今も昔も日本人は資源入手の為には何でもやる国民だった。しかし大友宗麟だけは、継母のお陰で女の怖さが身にしみていたゆえ、直ぐさま本心から「魔女狩り」に協力を誓った。ザビエルはその後直ぐ豊後の大分湾から印度のゴアへ戻り、
マラッカから中国大陸に近い上州島へ行き死んでしまって二度と帰っては来なかった。しかし、
「ブンゴ王の大友宗麟との密約が出来ている」との遺命によって、東洋を押さえていたイゼズス派はポルトガル船をことごとく豊後へつけさせた。つまり、「豊後の繁栄は以前の十倍にも二十倍にもなった。
何故かと言えば博多や鹿児島、平戸に入港していた南蛮船が一隻残らず大分湾に入るようになったからである。
 大友の殿は洗礼を受けていないのにまことに不思議な事である」と『西国盛衰記』に出ているのもこの所為によるらしい。
さて宗麟の最初の妻は丹後の一色氏から来ていたのだが、やがて家老の田原家の娘を見染めてしまって、早速これと入れ換えていた。
しかし彼女は、紀元前八七五年からイスラエルの王であったアラブの妻のイザベラの如く、血を見ること水を見るごとしと、領内の気に入らぬ者は女子供でも大の大人でも片っ端から逆さ吊りにして咽喉をかき切って殺してしまった。
だから、その当時の宣教師の書いた記録である「西教史」には、「東洋のイザベラ」と彼女のことを渾名している。
そしてイゼズス派の宣教師は、
「彼女こそ東洋へ逃亡してきた魔女の化身であろう」と考え、宗麟に対してその身柄の払い下げを求めた。しかし彼女はそれを耳にすると、「この身を魔女としてローマとやらへ連れていくとは何たる事ぞ」
そして直ぐさま兄で、今は家老になっている田原紹忍へ連絡して兵を集めさせると、「キリスト教徒は今やこの臼杵の城下町を占領しようと不穏な企てをしている」と、
イゼズス派の教会を包囲させた。そこで神父らは立て籠もって銃で応戦しようとした。当時日本を管区とするイゼズス司祭は「四つ目のカブラル」と呼ばれる眼鏡をかけた司祭だったが、
直ぐさま臼杵を離れていた大友宗麟へ事件発生の連絡を取った。
(わが妻や田原一族の反乱によって教会を敵とし火薬の原料の硝石が入手出来なくなり、逆にそれが他の大名に渡るようになったらわが大友家は危うくなる)と宗麟も仰天してしまい、背に腹は換えられぬとばかりここで決心して、
 「余は今やすでに他の女を妻にした。其方は離縁である。速やかに城を出て兄の田原紹忍の許へ行け」と、鉄砲隊をつけた使いを直ちに臼杵城へやって脅しすかし説得させた。
さて、いくら婦人が獰猛でも銃口に包囲されては仕方がない。やむなく引き上げていった。これで宗麟はひとまず臼杵の教会を救ったが、日本管区長カブラルの機嫌を損なって、
もし南蛮船が入津しなくなっては困るからと心配して、ザビエルと初めて逢ってから二十七年だが「フランシスコ」と、ザビエルと同じ名を取って洗礼名として、四十八歳で改宗をした。
が、それでもまだ宗麟は安心できなかった。またしても難問題が出てきた。なにしろイゼズス派では攻め込まれたのを根に持ってか、宗麟の言いつけ通りに兄の家へ退去した前婦人を、魔女として引き渡しを求めてきたからである。
「糟糠の妻は堂より下さず」というが、宗麟は前婦人が異国へ連れ去られて丸裸にされ、蒸し焼きにされるのは忍びず、何とかして許しを乞おうとした。そこで教会の機嫌をとるため、
 「彼は日向に兵を出した。そこにキリスト教徒だけの都市を造り、四方に十二の教会を衛星の如く建て、イゼズス派に捧げる目的を持って・・・・・」と、向こうの記録にあるが、三万五千三百の大軍を率いて、神のやさかえを讃え、仏門の異教徒を撃つため出陣した。
日本管区長のカブラル初め、イルマン、ルイ・アルメーダ以下も先頭に立った。「国崩し」と名づけた日本では初めての青銅砲二門も引っ張って、大友宗麟は大進軍したのだ。しかし薩摩から馳せ向かってきた島津義久と、その弟の義弘は強かった。
それに「青い目の南蛮人に国土を荒らされるな」とふれ回ると、何度も外敵の侵入を受けている九州人たちは一致団結して薩摩勢に協力して迎え撃った。そこで後に「耳川合戦」と呼ばれるが、三万五千の大友軍は各所で土民のゲリラに悩まされ敗退した。そしてこの結果島津と大友とは九州での地位が逆転してしまった。このため天正十四年三月、やむなく滅亡しかけの大友宗麟は京の聚楽第へゆき、豊臣秀吉の庇護を求めた。
これで九州征伐の口実の出来た秀吉は二つ返事で承知した。
翌年、秀吉の九州征伐は敢行された。勇猛な島津兄弟も天下の大軍を向こうに廻しては抗しえず、降参をした。
さて、本来ならば日本国内にキリスト教の別世界を作ろうと兵を動かした大友宗麟なのだから「この売国奴め」と罰せられてもしかるべきなのに、何のお構いもなく、彼は悠々と豊後津久見で、五十八歳まで安楽に暮らし得たのは、
 「いくら離縁したとは申せ、長年連れ添った女房を魔女として南蛮人に渡したくなかった気持ちは判る。男として見上げたものよ」と、秀吉が特に許したからだという。しかし大友宗麟の継母といい、その妻といい、男を逆さ吊りにして虐殺する趣味があって、ローマ法王庁にもその名が記録されているのは、日本の悪女としては国際的貫禄であるといえよう。
(注)バチカン図書館は歴史、法律、哲学、科学、そして神学を目的とした研究図書館でもあり、研究に参照が必要である場合や出典の明記に気をつければ誰でも利用できる。
だから興味のある方や疑り深い方は、どうぞ是非現地に赴いて確認して頂きたい。「東洋の部」には日本の戦国期関係の報告書が幾らでもあり、難解な華文字のものも在るが、親切な司書が翻訳してもくれる。


手形の元祖 天王寺屋五兵衛

2021-01-16 11:49:51 | 新日本意外史 古代から現代まで

まるで浪花遊侠伝の一人のようだが、彼は侠客でも何でもない。『日本商業経済史』の中でも「我が国における手形振替による為替制度の創始者、西国浪人にして
旧姓を大眉氏(大眉蔵人)と云い、大阪表へ移って天王寺屋を名乗る」とある。『戦国人名辞典』にも同じように出ている。
しかし、残念ながらその深い内容にまでは触れられていないので、ここでそれを解明してみたい。

そして、手形決済とか、為替振込といういうと、今の人は最初は大阪江戸の間で行われだしたように考えている。
が、実際はそうではなく手形決済の起源は、山陰道と山陽道間が、史実の上でも間違いのない事実のようである。云うなればこの始まりは、山陽道を押さえていた毛利元就方と
山陰地方の尼子晴久との間での、双方決済がこの為替制度の起こりである。
といって、毛利と尼子は明け暮れ戦をしていたのだから、山陽地方の物産を山陰へ送って代銀決済を為替でしたとか、出雲商人が瀬戸内海沿岸の海産物を手形で購入していたと
いうのとでもない。
そもそも手形というと今日では、銀行から分けてもらう手形用紙を考え、約束手形といったものをすぐ考えたがるが、昔は銀行もなかったし、あんな定まったコクヨの物もなかった。
よく小料理屋の壁面に掛かっている相撲取りの、べったり墨や朱で押した手形の紙を、あれを原型とみれば間違いない。
というのは、講談などで、戦国時代というのは「遠からん者は音にも聞けね近くば寄って目にもみよ」と明け暮れ殺し合いばかりしていたようだが、何の恨みつらみの無い者どうしが顔を突き合わせても、そうそう殺傷沙汰など出来はしないものである。
 「やあ、やあ」と矢声だけあげて脅しあっても、なるべく流血沙汰は避けていたらしい。
と書くと、まさかと思われる人も居るだろうが、人口が僅かしか居なかった戦国時代に、本当にそんな酷い殺し合いをしていたら、何処も彼処も無人になってしまう。
では突き合いをした時に、どちらかが優勢で片方が劣勢の場合は、どうしたかといえば、この場合は負けそうな方が手を挙げて、
「頼む」「頼みます」「頼まれてくれ」「頼まあ」と云い方はいろいろだが、略して「たんま」と叫びあげる。そこで「談合」しあう段取りとなる。そして首を落とされる前の話し合いゆえ、
 「落とし前をつける」とこれは言うのである。
昭和の敗戦後になっても、子供たちの遊びでは、鬼ごっこなどで都合が悪くなると、このたんまが訛って「タイム、タイム」とやっていたものである。
落とし前だとて、現在もヤクザは勿論、カタギの人間さえ「お前さん、俺の女となんして、ただで済むとは思っちゃおるめえ、この落とし前はきっちりつけて貰うぜ」等と
 タンカをきり、金で解決しているほどのものである。
 武士に二言はない 武士の一言金鉄のごとし
結局、負けた方が「いくら金を出すか」という事である。勿論持っているだけの「死に金」、「命金」と称されるものは、その場で首をはねられても、強い方には入手できるのだから、
これより多額でなくては話し合いはつかない。しかし持ち合わせていないのだから、こうなると貸しという事になる。
だから矢立でも携帯しているのなら、それで証文でも書く処だが、現在のように誰もが文字を書けるような時代ではなかった。
そこで泥か何かを掌につけて、これを紙にべったりくっつけた。「掌文」「指紋」などは知られていなかったろうが、手の形は後で合わせるとぴったりするから、
「約束手形(てぎょう)」と当時は呼んでいた。
この名残が江戸時代になっても武士が外出する際には、必ず懐紙を二つ折りにして懐中に入れたのも、斬りあいをした後で刀を拭う為に持ち歩いたのではない。
よく映画やテレビ時代劇で、チャンバラをし、何人か斬り殺した後、大刀を鞘に納める前に、刀の血のりを懐から出した懐紙で拭うという、カッコいい見せ場があるが、
あんなのは大嘘。戦場で襲われた時に命が助かるように、手形を押す料紙の名残がいつの間にか習慣となったものである。
何しろ人命、ましてや自分の命は貴重だったせいによるのだろう。
よく武士の言葉に二言はない、武士の一言金鉄のごとしなどと云うのも、紙を持ち合わせぬ時は口約束しかなかったから、助かりたい一心で、良い加減なことを放言し、
 後になって知らぬ存ぜぬでは困るから戒め合って、これがやがて「士道とは、嘘を言ってはならぬ」という鉄則になって出来上がったものらしい。
  相互決済のアイデアを考案する
さて、これだけ命がけの厳しい掟があって、掌を押した手形や固い口約束をしても、咽喉元過ぎれば熱さを忘れるというごとく、助命され国許へ戻れば約束の、
「落し前」を送らぬ者も出てくる。しかし後に天王寺屋五兵衛になる大眉蔵人のような尼子方の武者が居ても、
「あれだけ約束したのに、首代を送って来らんとは怪しからん」と敵方の毛利の領国へ、まさか集金しに行けるものではない。
それに蔵人の場合は毛利方の武者に貸しがあるが、尼子方の武者の中には、毛利方に見逃して貰って、その借りがその儘の者も居る。
「・・・・うん。俺の分を此方の毛利方に負い目のある者と相殺勘定にしたらどうだろう。そうすれば互いに集金せんでも済むし、当座勘定の帳尻も合おう」
 鎌槍をよく使う大眉蔵人は、頭の回転もよかったから、早速尼子家の武者で、毛利方の武者に落とし前をつけて貸しのあるのを調べ上げた。
勿論ついでに逆の方も調べられたら、決済に都合が良かったのだが、実際は「わしはやられかけて、つい手形を渡したのだが・・・」とか、
 「実は助かりたい一心で苦し紛れに法外な額を云ってしまったが、とても払えんので」と、打ち明ける者もあって、いろいろ云われては逆の貸方勘定は出来なかったかもしれぬ。
だから毛利方にも大眉蔵人のようなのがいて、貸方の帳面をちゃんとつけて来て、国境ででも双方の付け合わせでもしたら、今日の手形交換所のような恰好になって、
バランスシートが巧くゆくのだがそうは問屋が卸さない。
それにあらゆる武者が、毛利方への貸しを大眉蔵人に話してくれたら纏まりもよいのだが、山中鹿之介などは尼子家きっての勇士で合戦のたびに、何枚も掌を押し付けた約束手形を
取ってくるのだが、それでも「あんなのはどうでも良いわい」と大眉蔵人が訪ねて行っても見せようともしない。そこで、
「放っておくと不渡りになり申す」と、取り立て方を任せるように言っても、山中鹿之介ときたら平然たるもので、
「気違いや殺人鬼でもない限り、何の恨みもない奴を殺せるものではないわえ、向こうが勝手に落とし前の証文を押し付け口約束してきても、わしは金儲けに戦に行くのではなく、
 尼子家のために働きに行くだけだから・・・・」からから笑って取り立てる気など全くない有様だった。
こんな強いばかりで無欲恬淡ななのが大口債権者にいては、尼子方では堪らない。なにしろ毛利方では個別に尼子武者から、落とし前の掛け取りをしてくるのに、大眉が躍起になっても
尼子武者は山中鹿之介の真似をして、「武士は金のことなど、どうでもよかろう」と、痩せ我慢ばかり張っているから、どうしても尼子方の所有銀は、少しずつ毛利方に吸い取られていく傾向になるのである。
つまり今日で云えば赤字である。だから尼子方の勢力は次第に衰えてきた。
そこで、天文九年九月には安芸吉田の郡山城を包囲し、毛利元就を攻め立てたこともあった尼子晴久だが、永禄三年十二月に亡くなった後は、その子の義久が跡目を継ぎ、
出雲富田城主となったところ。同年七月には先代の頃とは逆に、毛利方に攻められるような結果になった。そこで大眉蔵人は心配して、
 「毛利勢が御城の真近に迫っております。この際一斉に各自お手持ちの手形証文を出されよ」と城内をふれ廻って歩いた。
攻囲軍から一斉に債権の取り立てをすれば、
「必ずや毛利方は、ひとまず退却することは間違いなし」と見たからである。そして、極力大いに説いてみたのだが、山中鹿之介を初め尼子十勇士の面々は、
「城が命旦夕となった際に、取りはぐれてはならぬと攻囲軍側から、手形や証文を持った者が、わいわいいってくるのを、取り付け騒ぎというのは聞いたことがあるが、城内に居る吾々が
敵を追い払うのに、命代の手形や証文を振りかざして見せるのは如何てあろうか。どうも苦しまぎれのようで格好悪い・・・・・!」
といいあって粋がって承知しない。そこで日増しに形勢悪く、その内に城内の食料も心細くなってきた。
だかせ背に腹は換えられぬと、てんでにかって敵から取っておいた約束手形をこれ見よがしに竿先につけて櫓に出て、
「この決済をせい。米でも粟でも届けてくれ、武者の約束は反故にせぬものぞ」と呼ばわる者も出てきたが、それを見た毛利方はせせら笑い、
「そんなのは一時の融通手形じゃ」もう落城寸前と見て取って情け容赦もあらばこそ、「構わぬ。あの証文ごと吹っ飛ばしてしまえ」とばかり、
武士道を守るどころの騒ぎではなく、鉄砲や弓矢で狙撃してくる有様だった。
そこて、やがて永禄九年十一月二十一日、力尽きて出雲富田城は落城し、尼子義久は毛利方に捕らえられる羽目となった。
水島家文書による裏付け
さて、戦国時代は、武者どうしが戦った末に勝敗がつきかけ、命を取られかけの方が、あやまって首の落し前に話をつけ、今で云う信販制度で首代の延払いをしたという事実は、
手形を渡すとはいわずに「切る」といった動詞や頭を割るといった首切り用語からして「手形を割る」と今も使われるが、これは今日の常識では判らなくても、
「月賦」の賦なる和製の漢字が、金を意味する貝篇に武がついているのをみても判る。
そしてこの確定資料の裏付けとしては、明治十四年刊の『史籍雑纂』第三巻中の家伝史料「水島文書」をまずあげておきたい。
これは国書刊行会発行の活字本で、古本屋や図書館でも見られるものだが、その中には、はっきりと、
「水島家の先祖が元和の役に大阪方に加わっていて、落城の時に取り巻かれて、すんでの処で首にされかかった際、命代として銀三百匁をだすからと助命方を申し出た。
寄せ手の徳川方の軍勢の中に、親類も居る事ゆえ信用されて、当座は持参していた銀だけを出し、縛られてその親戚の許へ連れていかれた。
しかし親戚の者も、国許へ帰れば金策はつくが、こうして攻めてきた陣旅では何かと入費が掛かってとてもそれだけは都合できぬ。よって銀二百匁にまけて貰えぬかと交渉したが、
縄尻をもって引っ立ててきた者は、いくら徳川方に組する味方どうしであっても、銀三百匁をこの者が払うといったから助けたのであって、武士の言葉に二言はないというゆえ、
この命代はまけられぬし許せぬと承知せず、止む無く先に二百匁の銀を渡し縄を解かせ、残銀は月賦にして貰ったのである」と、
 礼儀作法水島流の家元が、如何に命拾いしたかの経緯が詳細に出ているのである。
つまり講談的な素養では、読んでびっくりされたであろうが、この方が真実であり、本当だったようである。
 

大本営参謀の情報戦記 第三部

2021-01-12 12:34:05 | 新日本意外史 古代から現代まで

大本営参謀の情報戦記 第三部


参謀本部「ソ連班」はドイツの敗北を分析していた
第二次大戦前、日本は、日独伊の三国同盟を国策として締結した。
そして、ドイツがソ連に攻め込むと、ドイツの勝利を疑わなかった。だがこれは、何々をすればドイツが勝つだろうという、予想と願望を基にした甘い判断だった。
しかし、参謀本部情報課第五課は「ドイツ敗北」の判断をしていたのであるが、参謀総長はこれを無視してしまった。
日本にも正しい情報判断をしていた人や部署があったというのに、惜しみて余りある話である。

以下p-50-からの引用。
 西郷大佐の第十六課の情報への取り組み方は、何といっても大島浩という近来稀な大物武官(のち大使)を持っていて、ドイツの権力の中枢であるヒットラー、ヘス、リッベントロップといった重要人物と、
あまりにも容易に会って意見を聞き得る立場にあり、彼ら中枢の意図することが聞き出せたのと、日独伊三国同盟の同盟国が日本に嘘をつくことはないという認識の甘さと、
日本軍の中枢を占める高級軍人たちのほとんどが盲信的な親独感情を持っていたことなどが基礎になっていたことは否定できない。
従って大島大使から、「リッベントロップが本職に斯く斯く説明せり」と打電してくると、その内容は疑う余地のない絶対性をもつものになっていた。
換言すれば第十六課は大島大使を長とする在独武官室の東京出張所といっても過言ではなかった。
 これに対して林大佐の第五課は、ドイツ課の取り組み方とはまったく違っていた。在ソの駐在武官や大使が、容易にクレムリンに出入りして、スターリンやモロトフや軍の首脳と和気藹々と話をすることは、
ドイツと違って至難中の至難であったから、止むを得ず権力の中枢の考えている意中が、ソ連国内のどこかに、何かの形で徴候として出ていないかを、虎視たんたん克明に探して分析していくことになる。
そのため、国内や隣接国家を旅行したり、シベリヤ鉄道の輸送に何か変ったことはないか、観兵式に出る新しい兵器はどうか、新聞雑誌でソ連の要人が何を喋ったか、以前に喋った内容と、今度の内容に喰い違いはないかなど、
各種の徴候を丹念に積み上げ、る情報を基礎に、「ドイツは三ヶ月以内にソ連軍を席巻してモスコーに進出する」と言い、第五課は「ソ連の戦力は第一次世界大戦のときとは比較にならないほど充実していて、
たとえモスコーやさらにウラル山系まで後退することがあっても、それはソ連特有の遅滞作戦であって、米国からの軍需品補給が続く限り、冬とともにソ連が一大攻勢に転ずる可能性が強い」と主張してソ連に軍配を上げた。
その結果は、翌十八年二月独軍がスターリングラードで惨憺たる潰滅的敗北を受け、それ以来東部戦線はソ連軍の支配的戦勢に変ってしまったことで明らかである。
 大島大使の電報はいまも外務省資料館に残っている。参考までに、昭和十六年十一月十一日の電報では(原文は片仮名、傍点は筆者)、
「(冒頭部省略)今回の大作戦開始までに、既に五百万のソ軍を殲滅し、(中略)今や往電一二二四号の如く、モスコー大包囲戦を展開中なるが、最近のブリヤンスク、ウィヤスマにおける包囲により、
残存せるチモシェンコ軍に更に大打撃を与うべきを以て、モスコーの運命はも早や尽きたりというべく、かくてドイツは計画通り厳冬期前にソ軍に殲滅的打撃を与え、ソ連を再起不能の状態に陥らしむるを得べく(中略)今日と
雖も其の方針に毫も変化なきは、『ヒ』総統、『リ』外相の累次の本使(註、大島)に対する言明に徴しても明らかなり(以下略)」
 というようなものであるから、これを信じない方がおかしいと思われるぐらい電報受領者の心を揺すぶってしまった。しかし冷静に読んでも大島電の中で、傍点を付した部分は明らかに推測または仮定である。
親独という眼鏡をかけて読むと、推測や仮定が真実に倒錯するから、情報は二線、三線と異った複数の視点の線の交叉点を求めないと危険なことをよく示している。
 なお付け加えておくと、第五課では昭和十六年八月(独ソ戦開始後二ヶ月)、すでに諸情報を分析して、ソ連有利の判決を参謀総長に出していた。
以下略
ここで少し、独ソ戦で有名なバルバロッサ作戦について触れておく。
ドイツ軍はソ連侵攻に当たって三個軍集団300万人を終結させた。その内訳は、
北方軍集団(リッター・フオン・レープ元帥)がレニーグラードを目指した。
中央軍集団(フェドール・フオン・ボック元帥)がモスクワを目指した。
南方軍集団(ケルト・フオン・ルントシュテット元帥)スターリングラードを目指した。
そしてこのかってない大規模侵略軍の内容は、戦車3500両、野戦砲7000門、航空機2000機となっていた。

バルバロッサ作戦の兵站計画?
ロシアへの侵攻作戦が決まった時、戦場となる広大な領域での補給路確保が重要な問題だった。過去の戦争に比べて戦場となるロシアは広大であり、ドイツの補給ラインに対するロシア側の脅威が予想された。
ドイツ軍は後方補給線保護に苦心した。アクティブとパッシブの後方警備対策が区別され、状況に応じた警備用の特殊部隊が複数設立された。
一方で警備隊は予備役や退役兵など主に高齢者から構成され最低限の訓練しか受けていなかった。武器の補充も不十分で赤軍から鹵獲したロシア製の武器を利用していた。
ドイツ軍の兵站業務は陸軍参謀本部の兵站総監部が統括していたが、バルバロッサ作戦では広大なロシアの領域をカバーするため各軍集団に現地事務所が設置され補給を担当した。
しかしソ連の広大な領土で整備された街道はミンスク~スモレンスク~モスクワ間の一本しかなく、機甲部隊の通行に適さないデコボコの悪路が果てしなく続いていた。
また雨が降ると地面は泥濘化し、雨季のまともな作戦行動は困難だった。
侵攻開始から一か月で輸送用トラックの3割が故障し、機甲部隊の戦車も稼働率が激減した。
(この当時、ドイツ機甲軍の戦車の多くは、二号戦車、三号戦車、Ⅳ号戦車で、チェコ製のシェコダ戦車も使われていた。ソ連のT-34戦車に苦戦した結果、パンツァーやタイガー戦車の開発に着手している)
ドイツ軍は道路の不整備を鉄道輸送で補おうと試みたがロシアとドイツでは間隔(ゲージ)が異なり、ゲージ変換作業に追われた。鉄道工作部隊が編制されたが補給路への負担は改善されず
物資の積み替え駅では深刻な渋滞が発生した。7月31日時点でドイツ軍は東部の戦闘で21万3301人を喪失していたが補充されたのは4万7000人に過ぎなかった。鉄道網と道路の不備は前線に深刻な物資の欠乏を生じさせていた。
また兵站の優先順位が曖昧であり、運行優先権をめぐって現地部隊が対立し、酷い時は部隊間で物資を積み込んだ列車のハイジャックが行われた。 
ヒトラー対スターリン
 一九四一年十二月初め、モスクワまで十六キロの地点に迫っていたドイツ軍は、新たに出現したソ連極東軍団に押し戻され、独ソ戦開始以来初めて退却に転じた。
これは日本が大きく関係していた。ソ連諜報員ゾルゲによって、日本の国策が南進政策に決定し、満州国境の百万からのソ連軍を転用できると踏んだのである。
ドイツ軍は越冬の準備と戦線の再構築にとりかかり、ソ連軍の士気は上がった。緒戦の電撃作戦によるモスクワ攻略には失敗したものの、しかしドイツ軍は全体としてまだ強大であり、独ソ戦の行方は予断を許さなかった。
 年が明けて一九四二年に入ると、独ソ戦線の様相はいっそうの混迷を深めてきた。ヒトラーとスターリンは軍事の専門家でも何でもなかったが、戦争のプロフェッショナルである軍部の作戦に執拗に介入してきた。
この二人の独裁者はまるで互いの失敗を補い合うかのように、相互に愚行を繰り返した。ヒトラーもスターリンも自国の作戦に不利をもたらし、多大の損害を与えた。
 ドイツでは、ヒトラーの執拗な干渉によって作戦をひっかきまわされる軍部がたまりかね、「ヒトラーはスターリンのまわし者ではないか」という冗談にも、ときどき真剣さが入りまじるほどだったという。
ドイツ陸軍の頭脳とうたわれたマンシュタインユタイン元帥は戦後、その著書『失われ
た勝利』のなかで、もしもヒトラーの作戦干渉なしに自分が戦争指導していたら、ドイツは100パーセント、ソ連に勝っていた、と断言している。
 モスクワ攻略には失敗したものの、ドイツ軍は一九四二年春に戦線を立て直し、攻勢をかけてきたソ連軍を迎え撃った。五月、南部のウクライナ方面に大攻勢をかけたスターリンは、
まずクリミア半島のセバストポリを解放しようとして大軍を差し向けてきた。しかしこれはマンシュダイン元帥の反撃にあってクリミア半島から駆逐され、一八万のソ連軍が捕虜になり、飛行機四百機と戦車三五〇両が捕獲された。
さらにその直後にスターリンがハリコフ奪回のためにかけた大攻勢も、ドイツ軍機甲部隊によって包囲殲滅され、二五万の兵士が捕虜になり、千二百両の戦車と二千門の火砲が捕獲された。
これはドイツ軍の力を過小評価して、無理な攻勢に打って出たスターリンの大失策だった。ドイツ軍はこの戦いの勝利の余勢を駆って、ヴォルガ河とカフカスに殺到した。
そしてこれが、来るべきスターリングラード攻防戦の幕開けとなるのである。
 カフカスは油田地帯である。ここの石油資源を入手できなければ、ドイツの戦争継続は難しくなる。カフカスに向かったドイツ軍は占領に成功したが、ソ連軍は退却に際して油田を徹底的に破壊した
地獄のスターリングラード
 ヴォルガ河に向かったドイツ軍は、スターリングラードに突入した。ここは交通の要衝であり、ここを取られたらソ連は南北に分断されてしまう。戦闘は、最初はドイツ軍が優勢だったが、スターリンはいかなる理由があろうと撤退を許さず、
死守を厳命し、もてる限りの軍事力を投入し、次から次へと補充部隊を送りこんできた。酸鼻を極める市街戦となった。一つの建物をめぐって奪ったり奪い返されたり、同じ建物の中で両軍が階を隔てて占拠したり、
といった混戦になった。当初優勢だったドイツ軍も次第に追いつめられ、軍司令官のパウルス元帥は、ひとまずスターリングラードから撤退して戦線を立て直したいと、ヒトラーに要求した。しかしヒトラーは「断固死守せよ」と厳命し、
撤退を拒絶した。これはヒトラーの大きな誤りだった。進退窮まったスターリングラードのドイツ軍は、ついに一九四三年二月降伏し、十万が捕虜になった。
このスターリングラードの攻防戦が独ソ戦の天王山であり、分岐点になったとよくいわれる。

 スターリングラード攻防戦は辛うじてソ連が勝ったが、独ソ戦は一九四三年いっぱいを通じてまだまだ一進一退の攻防が続いた。七月のクルスクの戦いは、史上最大の戦車戦となった。
ドイツ軍の戦車二千七百台とソ連軍の戦車六千台が激突し、戦闘は一進一退を続けた。局地的な戦闘ではドイツ軍が圧勝したものの、攻撃能力は限界に達し、ヒトラーは作戦中止命令を出して撤退に転じた。
結局ドイツはこの地を占領することができず、この戦いをもって、ドイツがソ連に勝利する最後のチャンスは失われた。そしてまさにこの同時期に連合軍がシチリア島に上陸し、地中海、バルカン方面でドイツ軍を牽制したため、
これはソ連でのドイツの戦いにも暗雲を及ぼしはじめるのである。
 一九四四年六月六日、連合軍がフランスのノルマンディーに上陸して、ヨーロッパ大陸の第二戦線が構築されると、それに呼応するかのようにソ連軍は東部戦線で大攻勢をかけてきた。
これを正面から受けたドイツ中央軍は、すでに弱体化が著しかったため、とりあえず撤退して戦線を立て直すことを要求した。しかしヒトラーはこれを断固として許さず、死守を命じたため、
ドイツ中央軍は総崩れとなり、四十万人が死傷し、十万が捕虜になった。壊滅状態となったドイツ軍はあっという間に三週間でベラルーシを奪還され、ソ連軍はポーランドのヴィスワ川まで迫った。
これはソ連軍の電撃作戦とでもいうべきものだった。これによってドイツの敗北は確定的となり、ソ連軍はその後も戦闘で膨大な犠牲を出しつつも、翌年四月ベルリンに突人するのである。
以上長々と独ソ戦の状況を、バルバロッサ関連史料を元に記述したが、堀参謀が指摘している「兵站(補給)」が如何に大切かを力説したかった故である。
ソ連が勝利できたのも、膨大な兵站、即ちアメリカからソ連に供与された軍事物資が桁外れだったからである。
トラックを中心に、軍用車四十万両、機関車千九百台、ソ連の全タイヤの四三パーセント、鉄道レールの五十六パーセント、使用された爆薬の三分の一などである。
さらに加えて膨大な食料、銅、アルミニウム、航空機用燃料も惜しみなくソ連に与えられた。しかし狡猾なスターリンは、アメリカから援助を受けていることをいっさい公表しなかったが、これらの
 援助がなければ、ソ連はドイツとの戦争をとうてい勝ち抜くことができなかっただろう。
日本がアメリカに負けた大きな要因は、元々圧倒的な国力の差で勝ち目はなかったが、「情報」「兵站」の脆弱性も大きな要素だった。


山本五十六と日本の戦略の失敗

2021-01-10 12:18:45 | 新日本意外史 古代から現代まで

山本五十六と日本の戦略の失敗

年末から正月にかけ、テレビの下らぬ番組に辟易して、古い映画のDVDを観た。そのうちの一つに、映画の山本五十六について。主演の役所はそれなりの演技で無難に演じていました。
しかし脚本は山本を美化しすぎ、形而上的に捉えすぎている。
原作は半藤一利だが、亡くなった阿川弘之著「山本五十六」の方が秀逸といえるだろう。
 この山本を演じた役者は私の知る限り歴代8人居り、時系列では以下となる。
大河内伝次郎、佐分利信、藤田進、三船敏郎、小林桂樹、古谷一行、丹波哲郎、役所広司。一番はまっていたのは小林桂樹ではなかったろうか。
さて、米国の国力を知り尽くしていた山本が、「一年や二年暴れてみせる」等と嘯くのは所詮は軍人の悲しいさがでしかない。
この山本を名将と評価する人も、凡将という人もいる。山本は米軍戦闘機に座乗していた爆撃機が撃墜され、戦死したため元帥となり、軍神と崇め奉られた。
しかし、真珠湾でもミッドウェーでも、数百キロ後方の、大和ホテルと皮肉られた、冷房付きで快適な旗艦大和に座して、陣頭指揮を執っていない。
しかも戦時においてさえ、高級幕僚や幹部士官と昼食時、軍楽隊付きの豪華ディナーを食べていた。これはイギリス海軍の真似をした、貴族趣味の悪しき伝統である。
日露戦争時の東郷のように、危険を顧みず第一線での陣頭指揮を執っていたら海軍の士気はいやおうにも高まったろう。

映画は、開戦にそれほど反対なら、山本の内面の葛藤にもっと迫るべきである。
山本は戦前、山口多門を連れて米国滞在中、彼の国の国力をつぶさに見聞して、米国を恐れ、米国との戦争には反対だった。 
しかし、開戦となったら彼の戦略としてはハワイを徹底的に叩き、太平洋艦隊が二年位活動できない間に早期の和平を結ぶことだったのである。この戦略は正しい。
海軍の有名な参謀で黒島亀人がいたが、彼は緻密な戦術は得意でも戦略思考は全く無い。これは日本軍の参謀に総じて見られる現象である。
山本の戦術では、艦船や飛行場だけでなく、石油タンク、ドック、修理工場、艦隊司令部までも徹底的に叩くつもりであった。
だがこの時の日本の軍令部の戦略は、山本の強いハワイ奇襲作戦の要請に引きずられつつ許可したが、ハワイの艦艇をやったら、自軍の艦艇の損害を恐れて、さっさと逃げて来いという方針だった。
  だから南雲は艦船と飛行場をやったら、もう浮き足立って逃げ腰になって、指揮官としては失格。これは言われた事しかやらないという官僚的体質の最たるもの。
虎の子の空母を沈めて自己の経歴に傷を付けたくないという、責任逃れで海軍軍人といえども所詮は官僚でしかない。山口多門は第二次攻撃を主張したが聞き入れられていない。
 彼が第一航空艦隊の司令官だったら、この後の戦いの展開はかなり日本に有利に働いただろう。
(戦後、ミニッツはその回顧録で「真珠湾の石油タンクやドック、修理工場を爆撃されていたら、ミドウエー海戦は無かった」と言っている。従ってその後の展開は大きく違ってきて、日本は、あんな惨めな負け方はしなくてもよかった)
 米国のように戦時ともなれば人事はガラリと変わり、ハワイ空襲の責任をとらされキンメルが解任されると、
新太平洋艦隊司令長官抜擢されたミニッツ(当時は少将)は26人も飛び越えての大抜擢人事を平気で行う柔軟性がある。
 比べて日本は戦時といえども相変わらずの年功序列主義を棄てきれず、あたら山口のような稀有な勇将の抜擢も出来なかった。
さて此処からは歴史のI F になるのだが、
百歩譲ってどうしても真珠湾をやるのなら、山本は海軍軍令部と陸軍参謀本部を説得して以下のような作戦を日本は採るべきだったと想うのだが。
先ずその戦略だが、正規空母6隻の他に、輸送船団と、小型空母5隻に陸軍3個師団を乗せ、オアフ島の砂浜に乗り上げてでも上陸しハワイを占領する。
勿論、戦艦部隊(山本も大和に座乗し陣頭指揮を執る)は同行して艦砲射撃で援護に当たる。
当時ハワイに居なかった米空母、ヨークタウンやレキシントン等は、占領阻止の為、急遽迎撃して来るだろうから索敵を厳にして、これらと戦闘の末たとえ日本側空母に3隻程度の損害がでてもこれらを撃沈する。
 こうして太平洋艦隊の米空母を全滅させ、太平洋艦隊艦隊司令部も占領、全員を捕虜にしてハワイを占領後、次の作戦は、
(捕虜に関しては後の停戦交渉を有利に進めるため、ジュネーブ条約を遵守する)
 米国西海岸全てのドックや港湾施設の爆撃を周期的に行い、パナマ運河も向こう二年ぐらい使用不能にするため徹底的に爆撃破壊する。
さすれば新造空母や戦艦を建造するのは、東海岸の港湾に限定され、艦隊を太平洋に回航するには南米最南端のドレーク海峡を通るしかない。
 そして日本は、南極大陸最北端のエレファント島に潜水艦基地を造り、伊号潜水艦を網の目条に配置し、通過する米国艦隊(特に空母)を補足雷撃し、網から漏れた艦船を追跡し、
位置や航路を連合艦隊に逐次報告し、情報を分析し、日本空母艦隊はこれを補足殲滅する。これらの全作戦計画をハワイ占領後一年以内に行うのである。
日本が米国と戦ってワシントンに日章旗を掲げること等荒唐無稽なのである以上、これらの作戦は所詮、米国の工業力がフル稼働し、大攻勢をかけて来るまでの時間稼ぎでしかない。
この後の段階として、アジア地区の米英仏植民地を順次開放し、体制は王政でも民主主義でも、その国の民意に委ね、日本軍の軍政は厳に慎む。文字通りの大東亜共栄圏の確立になり、日本はその盟主の位置を確保する。
結果として南方の石油や鉱物資源も手に入り、日本の国力もつく。
 いずれアメリカは最終決戦を仕掛けてくるだろうから、ヨーロッパではドイツに勝たせるため、日本関東軍は満州に置き続ける。
これは極東ソ連軍をヨーロッパ戦線に投入させないためのブラフである。(当時極東ソ連軍は100万が日本のために配備されていた)
 ドイツがソ連に勝てば、それまでにアメリカと講和を成立させておいて、今度は日本は連合軍に参加して、中東の石油資源を確保する。其の為ドイツ軍と戦うためのアラブ作戦も立てておく。
(実際参謀本部はアラブ作戦は立てていた事実がある)
これらの計画を元に米国との休戦又は和平の時期、条件(日本は相当譲歩することになるが、満州も返し、ハワイも捕虜と一緒に返す。負けて国土が焦土になるよりは余程マシである)を探る。
以上が戦争に負けないための壮大な戦略である、というよりこうした方が少なくとも原爆は落とされなかったし戦争には負けなかった。
 戦争とは絶対負けてはならないものであり、次善の策として勝てないなら何処かの時点で終戦か和平に持ち込むしかない。明治の軍部は大国ロシア相手にそれを実践している。
昭和の軍部の仮想敵国は、陸軍はロシア(ソ連)で海軍はアメリカだった。だから海軍は米国太平洋艦隊を日本近海におびき寄せ、艦隊決戦で雌雄を決するという戦略だった。
一方陸軍は、ノモンハンで負けてからは、大陸に百万からの関東軍を展開していた。
この戦略が、日本の南進政策によって、一挙に崩れ去り、陸軍は全く経験のない、太平洋での島嶼防衛に専念せざるを得なかった。
グアム、サイパン、ガダルカナル、ペリリュー島、ニューギニア、沖縄と全てが島の防衛戦争だった。そして激烈な艦砲射撃と爆撃と強襲上陸作戦に完敗した。
こうした日本軍の戦記を見聞して何時も思うのは強い怒りと、深い悲しみである。
戦略を間違った国家が、国民をいかに悲惨な状態に陥らせるか、改めて考えさせられる。
そして、南冥の多数の戦場で、ひたすら祖国を、家族を思い、歯を食いしばって戦い散っていった英霊たちの声なき声にただ涙する現在である。


信長の武将 滝川一益 やくざの発祥ヤシ テキヤ

2021-01-05 12:24:20 | 新日本意外史 古代から現代まで
信長の武将 滝川一益 やくざの発祥ヤシ テキヤ

織田信長の武将達には次の者達が有名である。
羽柴秀吉
前田犬千代
毛利新助
丹羽長秀
蜂屋頼隆
川尻与平
滝川一益
蜂須賀小六
明智光秀
柴田勝家
斉藤内蔵助
森乱丸
この者達は皆、永禄元年から天正年間に活躍しているが、藤吉郎時代の秀吉と同僚だった滝川一益の方はあまり知られては居ない。
秀吉が藤吉郎と呼ばれ、まだ小者だった時代、織田家の長屋で隣同士だったこともあまり知られていない。この二人の出世には後に大きな差がつく。
関東管領として五十万石も取っていたが、最後は三千石にまで落ちぶれた、悲劇の武将にここでは光を当ててみたい。

      山科言継卿日記
<山科言継卿記第六巻>の、
「天文二年七月二日の条」を見ると、何しろ応仁の乱このかた戦国時代で、すっかり生計不如意になった京の公卿が、当時の言葉で言うなら「少しドサ廻りして稼いでくっか」ということになって、
後鳥羽院へお暇乞いに伺って、お餞別に御懐紙一折を頂き、蹴鞠の家元飛鳥井中納言を看板に、自分がマネージャーとなって、手土産に美濃紙一束と包丁一本を荷造りして出立したと出ている。
 そして七日に桑名に出て八日に尾張の津島へ到着。そこで織田信長の父織田信秀の許へ、飛鳥井中納言の家来の速水兵部が、
「これは何処でも評判の見世物で、絶対に当たるが、手打ち興行でいくか、歩打ちにしますか」と、今で言う旅興行の先乗りをしている。
つまり掛け合いに織田信秀の勝幡城へ行っている。
儲かるならば是非とも手前の処で」と、信秀が弟と共に一行を迎えに来たが、その時の原文を引用すると、
即ち、在所名勝幡の彼の館へ罷り向かう。馬に乗る。織田信秀徒歩にて後からついてきたりて夜半に到着す。が、冷や麺吸物で一杯出す」翌々日は、天気晴天。夕方から蹴鞠興行開催。人数がたらぬから、信秀や弟も役者として登場。但し格式から言って自分や飛鳥井らは烏帽子をつけた。見物人は数百人集まった」
 つまり大入り満員で、喜んだ信秀はその夜は晩飯に、とびっきりご馳走したと出ている。
これから八月まで、雨天は休みだが、天気が良いと毎晩この興行を続けている。
入場料をいくら取ったのかの記録はないが、
「京都軍の遠征チームが勝つか。郷里尾張軍が得点するか」といったトトカルチョ式の賭けを盛大にやらせ、大儲けしたらしい。
七月十四日の日記などには明確に、
「織田信秀きたり『盆の料』として飛鳥井中納言へ銭千枚、自分らには五百枚ずつよこした」と、このお公卿さんは書き残している。
従来の歴史では、戦国大名というのは、弓矢を持って戦ばかりしていたように書かれているが、現実は今も昔も先立つものは銭。
 こうして興行したり、客に賭けさせて盆稼ぎをしていたのである。
これは戦国期、現代で謂う戦時公債発行の代わりでもあろう。そして、
<続応仁別記>には「信長が堺に『矢銭』をかけた」つまり戦時割当をしたと出ているが、
歴史書ではこれを「屋銭」つまり棟割税と間違っている。
本当はこうした興行を催す者も「矢師」といっていたので、戦をする費用を徴収したが正しい。
現代用語では「香具師」と当て字している。
後年清水の次郎長が、現在の静岡県一帯の興行権を握っていて、ここで旅芸人に芝居や芸をやらせておいて、さて彼らが興行を打ち上げて出立しようとする時、
「恐れ入りますが割り(出演料)を下さい」と頭を下げ貰いに行くと、
「清水港は鬼より怖い、大政、小政の声がする」の手合いが、どかどかと出てきて、
「なにおッ、銭が欲しいだと、もう一遍いってみやがれ」と追い払ってしまい、旅芸人を泣かせたのは有名な話だが、戦国時代だって同じだったらしい。
飛鳥井中納言のような一行に対しては、気を使ってご馳走もしたし、ちゃんと盆の分け前も払ったらしいが、
名もない連中には「なに銭を所望と申すか。この不届き者めが」と、
郎党どもに弓に矢をつがえさせて、脅かし追い払ったらしい。
 そこで泣きの涙で只働きをさせられた旅の一座が、
「あいつらは・・・・・敵や、てきや」と恨んだ名残りから、今でも興行師やプロモーターの事を「てきや」という。
             滝川一益
 
 さてこの山科言継の七月二十二日の夜の蹴鞠興行のとき、大人数で開催したので、人手不足で俄か仕立てのスターとして「滝川彦九朗」の名が出てくるが、これが「滝川一勝」といって
「滝川左近将監一益」の父である。
勿論この当時は主人の信秀でさえ、自分の馬をお公卿さんに貸してしまうと代わりが無く、津島から勝幡までてくてく後から歩いてついてきたと、山科日記に出ているくらいだから、一勝もたいした事はなく、名門だの良家という程の事はない。
 永禄七年の織田信長美濃攻め四年目のときも、精々滝川一益は馬に乗れる身分が関の山だったろう。
しかし信長にしてみれば父信秀の代から、盆のあかをなめてきた譜代の一勝の倅ゆえ、そこは目をかけられ信用もされていただろう。
 さて滝川左近将監の嫁の名は、奈也という。
<加賀藩史料>には「名益氏の出」とあり、後伊勢峯城で秀吉三万の軍を悩ました滝川儀太夫が、やはり、その名益氏で、この奈也の甥にあたるとでているが、正否は不明で、勿論豪族といった出自でもないらしい。
ついでに蛇足を付け加えておくが、信長のような戦国武者の流れが、江戸の元禄期以降は弾圧されて逼塞していたが、これが天保以降の世の乱れと共に、又勢いを盛り返してきたが、
もはや戦国時代ではないから、もっぱら盆のしろばかり稼いだ。俗に、
「無頼」と書いてこれに(やくざ)と読ませるが、<語句淵源>などという古書には明白に、
「矢屑」とかいてこれに(やくざ)と注が入っている。
 つまり「矢師」の屑扱いで、このため田村栄太郎の著などでは、
「神農さまを祭る高市香具師は、自分らをやくざとは別扱いにする」とある。
とはいえ、現在は味噌も糞も一緒くたにして「暴力団」とか「反社会的集団」などという新語で
括るが、「ヤーコウ」「ヤーサン」と呼ばれる大きな組が、つい何年か前までは全国の興行を押さえていたのも、暴力団の資金源などという、そんな末端的なみみっちいことではなく、
きわめてこれは歴史的な必然性なのである。
       信長の美濃攻略
さて、戦国期、越後の上杉景虎は佐渡金山。武田信玄は増富金山。駿河の今川義元は安陪金山。
みんな鉱山を掘って金銀をえて戦費に当てていた。
 この当時の信長は、今川義元を桶狭間で騙まし討ちにし、五百丁からの鉄砲を分捕った。
これに勢いを得て美濃を占領して武儀金山を奪おうと、毎年のように美濃攻めを敢行したが連戦連敗状態だった。ある日一益は信長に呼ばれ、美濃攻めは正攻法では勝ち目がないから
当時清洲城に住んでいた、斉藤道三の娘、妻の奇蝶に何とか実家である美濃の武将達を調略して貰うため、一益が使いに選ばれた。
          
           美濃御前 奇蝶

 この奇蝶は美濃から来た御新造様なので「美濃御前」とか略して「美濃の方」ともいう。
だが「み」の発音は敬語に通じる。
何で女房に敬語がいるものかと、信長は上を略してしまって只単に「のう」と呼んでいた。
 そして八年前の弘治二年に、父の斉藤道三が、今の美濃国主斉藤龍興の父の義龍に長良川畔で討たれてからというもの、夫婦とは名ばかりのようで、昨今小牧山へ築城すると
信長は、これまでの清洲城へ美濃御前を置いてきていた。
 つまり目下別居中という訳である。
だいたい信長のことを「うつけ」だの「たわけ」だのと馬鹿扱いしだしたのは余人ではなく、もともとこの奇蝶なのである。
十五歳のときに、美濃国主斉藤山城守道三の一人娘として、嫁入りしてきたが、一つ違いの婿殿信長は、てんで野育ちで、当時は部屋住みの身分だった。
 そしてやることなすことが、姫育ちの奇蝶の目からみれば、まこと風変わりである。
しかし信長の方は、金襴緞子の帯締めながら、花嫁は何故に呆れるのだろうと、
全く意にもかえさない。だから腹を立てた姫は平気で面と向かって信長に、「阿呆」とか「ばかたわけ」と罵りだした。
 信長にすれば、姫よりも父親の斉藤道三が恐いから、いくら面罵されても大人しくしていたらしいが、その恐いのが死ぬと話が違ってくる。
 今では小牧の城の方へ堂々と奇妙丸(のちの信忠)三介(のちの信雄)らの御腹様の生駒将監の後家娘、伊勢の荒神山の神戸の小島の後家さんで、三七(のちの信孝)の御腹様の「板御前」という新しい女どもを連れてきている。
 ということは気の強い美濃御前が、清洲に置いてけぼりにされ、いかにかっかと燃え上がって嫉妬の焔を燃やしていることか。
 そこへ行ってこいという命令は滝川一益にしても、すっかり恐れをなした。
しかし恐る々美濃御前の前に行くと、美濃の武将安藤伊賀宛の書面をくれて、美濃へ発てと
送り出してくれた。
この安藤伊賀というのは、先代信秀が時疾(はやりやまい)で一晩で急死した際、
跡目が決まらず内輪もめで大騒ぎになったとき、「姫様の婿殿の三郎信長さまをこそ、尾張の跡目」と千余の軍勢を率いて境目の木曽川べりまで出張ってきたのが、この男である。
また、村木砦の今川勢がどんどん尾張へ侵略してきて、那古屋城が危なくなってきた時、
「斉藤道三名代」として、物取新五らの豪傑を従えて颯爽と乗り込んできて守備したのも彼である。
 斉藤道三の死後も、この伊賀は陰ながらその愛娘の美濃御前をそれとなく守護していた。
この頃の奇蝶は亡き父斉藤山城守道三の居た稲葉山の井の口城を取り戻して道三の供養をしたいというのが悲願だった。
 だから美濃武儀金山の匿し銀をもって、稲葉一鉄、安藤伊賀、氏家卜全らの美濃三人衆の調略に成功した。
これによって美濃一国は併呑でき、信長は家臣たちに所領を増やしてやり、滝川も百貫どりになれた。
この後滝川はおおいに発奮して働き、木下藤吉郎が羽柴筑前となって、「毛利攻めの司令官」に抜擢された時には、滝川左近も「将監一益」の名になって、彼もやはり「武田攻めの指揮官」として
甲州へ出陣した。
 そして武田勝頼を攻め滅ぼすと、上野一国と信濃の内の佐久、小県の二群を与えられ、
「関東管領」五十万石の身分にまで立身出世した。
 しかし天正十六年六月本能寺の変が起きた。
左近は神流川合戦で最期に北条氏と戦って破れ、上州厩橋の城を捨て伊勢長島へ引き上げた。だが秀吉の方は、山崎円明寺合戦で明智を破って日の出の勢い。
 こうなると滝川も面白くなかったろう。というのは、
天正十年の清洲会議に、秀吉は柴田勝家、丹羽長秀、それに池田恒輿だけを招いた。
つまり滝川はてんで無視され、のけ者に扱われたからである。
これでは全く面白かろう筈もない。なのに翌天正十一年の正月。
 滝川一益の部下である伊勢亀山城主の関盛信と一政の親子を調略して、秀吉はこれを
自分の家来にしてしまった。一益は直ぐにその家老の佐治新助を向かわせ亀山城を奪還した。
 ついで甥の滝川義太夫をもって、伊勢鈴鹿の峯城を攻略し、そこの守将にさせた。
こうなると秀吉もすっかり激怒して、二月二十八日になると、土岐多羅越えの左から、秀吉の甥の三好秀次が一万の軍勢。安楽山越えの右から秀吉の弟の羽柴秀長に一万。
 そして秀吉自身も中央の大君ケ畑を突破して、一万五千の兵。
合計三万五千の大軍をもって亀山城と峯城を攻めた。
 <渡辺勘兵衛記>というのによると、
「この時、滝川一益は、その居城の長島の他に桑名城とその付け城の中井城の三つを守り、秀吉の方の中村一氏が先手となって押寄せるや、中井の西の矢田山砦へ一益は鉄砲隊と足軽を向けてこれを奪い返した」と、その敢闘ぶりが書き残されている。
 亀山城の方も<秀吉事記>によれば、
「難攻不落につき、金堀人足数百人を呼んだ秀吉は、この後は地下より石垣を崩して攻撃。よって三月三日に至り、城代佐治新助は滝川一益より見かねて開城するようにいわれ、ここに始めて和平。
 秀吉はその敢闘ぶりを讃えて新助以下五百の将兵が長島へ戻るを許された」とある。
 峯城の方も、正面からの戦では勝っていたが、やはり金堀人足に地下から掘り進められて城が傾斜して倒れかけ、止む無く四月十七日に開城。滝川儀太夫以下は、その武辺を誉められ長島へ引き揚げたと<亀井文書>に残っている。
 しかし、いくら滝川一益やその家来共が勇戦力闘しても、同盟軍の柴田勝家が北の庄で自決してしまっては、もう終いである。
そして七月になって無念だか滝川は秀吉に降参した。
 するとその翌年の天正十二年に小牧長久手合戦が起きた。滝川は秀吉のために尾張蟹江城を奪ったりして手柄を立てたので、秀吉は
「なんせ、昔は信長様の下で隣同志に住んでいたのじゃから、当時の誼もある」と滝川一益に三千石をくれた。
この後秀吉について織田信雄・家康連合軍と戦ったが破れ、降伏する。
一命は許され、妻奈也と共に京へ流れ僧籍に入り漂白の人生を閉じた。