新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

プラモデルの断捨離 大砲による戦場の変化

2021-12-29 20:04:03 | 新日本意外史 古代から現代まで


   プラモデルの断捨離


 老生、男の終い支度として、身の回りの物をほとんど捨てた。
その中に趣味で作ったプラモデルが数百点在る。
その他、高価なポケールの金属模型やウッディジョーの帆船模型も、一括して業者に綺麗さっぱり全て引き取ってもらった。
「高価だから」「思い入れがある」と迷って残すと、死後に家人や子供に負担がかかる。未練を残さないことが大切。
プラモデルなどというシロモノは興味のない人間にとってはただのプラスチックの厄介なゴミにすぎない。
 ただ、比較的印象に残っている作品は画像としてクラウドサーバーにUPし保存してある。
これはその中の数点だが、当ブログの「小難しい文章」の合間の一服としてお許しいただきたい。
武器はどんな綺麗ごとをいっても紛れもない「殺しの道具」でしかない。しかし小は拳銃やナイフから戦艦大和まで、その機能と美しさが一致した究極の造形美は事実であり、なんとも不思議で皮肉な人間の性(さが)である。
なお、作品のほとんどはリアルさを追求する「汚れ技法」は陰影のみしか使っていない。武器が綺麗だということは、戦争がないということだから。


    大砲による戦場の変化
 第一次大戦時1915年以降になると、ドイツ軍と連合国両陣営は、陣地戦に備えて砲兵戦術を改良し始めた。
なかでも進歩したのは間接射撃である。これは周知の如く、観測班によって、砲兵それ自身には見えない目標の位置を特定し、砲撃を加える戦法は、すでに日露戦争で日本軍が
旅順艦隊攻撃などで使用していた。それが西部戦線の塹壕陣地攻撃に応用され完成を見たのである。
 ちなみに、現代砲兵の間接射撃も基本的にこの第一次世界大戦で確立された方法を用いている。


 また、当時、主として野砲が使っていたシュラブネル式砲弾(日本ではこれを榴弾と言っている)も、野戦で暴.露されている敵に対してならともかく、鉄条網を破壊したり、塹壕を…壊すことはできなかったが、
炸薬量を増やした砲弾を使ってみるといった工夫がほどこされていった。シュラブネル弾を活用するために、フランス軍が採用した砲兵戦術が「斉射」である。
 これは味方が突撃する瞬間に、敵陣にシュラブネル弾を集中的に打ち込み、敵の対応を困難にさせる方法である。
もっともこの戦術は1915年ごろから高性能爆薬を用いた砲弾が大量に使えるようになったため、放棄された。
続いて現れたのが「弾幕射撃」である。上記のような砲弾を集中使用し、炸裂する砲弾の幕をつくて敵陣に浴びせる準備砲撃の一種である。
敵帥に浴びせる、準備砲撃の一種だ。それによって、攻撃対象となる陣地帯に敵が兵員を配置するのを防ぎ、また別の弾幕を敵陣後方に向けて、
増援部隊の応援を妨げるということがなされた。


この弾幕射撃を一歩進め、より直接的な攻撃支援としたのが「移動弾幕射撃」だった。読んで字のごとく、突撃発起時に味方部隊前方に張った弾幕を、歩兵の進撃につれて、100ないしは200メートルずつ動かしていくのである。
 また、敵砲兵に対する砲撃戦法も進歩した。むろん敵砲兵も、捕捉されないよう、砲撃を加えては陣地転換を行う。それを、射撃時の発射炎や煙を観測し、位置を特定する火点観測や、
敵の砲撃音より位置を割り出す音響測定によってあぶりだし、砲弾の雨を降らせる手法が使えるようになってきたのだ。
 
  天文学的な弾丸の浪費

 かくの如き計画の基に、ドイツ軍は、2250万発の砲弾と1700門の大砲を集め、1916年2月21日、ヴェルダン攻略を開始した。
ドイツ軍の戦果はめざましく、四日間で防御陣第二線まで到達、ドゥオーモン堡塁を奪取したのである。
しかしながら、フランス軍には、この要塞を譲り渡す気などなかった。指揮を執ったフィリップ・ペタン中将は、他の要塞から引き拉いてきた大口径砲を使い、ドイツ軍砲兵隊と一大砲撃戦を展開した。
ドイツ軍は2200万発の砲弾を撃ち込み、フランス軍は1500万発を撃ち返したといわれる。かかる火力戦では、生身の兵隊の犠牲が甚大になることはいうまでもない。両軍いずれも、30万におよぶ死傷者を出し、
そのほとんどが砲撃によるものだと推定されている。しかし、このような損害を出しながらも、ペタン率いるフランス第2軍はヅエルダンを守り抜き、ファルケンハインの企図をくじいたのであった。
 ただし、こうした超物量戦ともいうべき集中砲撃は、ドイツ軍の専売特許ではない。むしろ、連合軍のほうが多用したといえる。たとえば、イギリス軍は、1916年7月のソンム戦で、1週間にわたる準備
砲撃を行い、150万発の砲弾を敵陣に放っている。
                       
 ちなみに日本軍は、大砲千門単位の会戦などは皆無で、ノモンハンでは火砲僅か70門だった。
 一方のソ連は火砲542門、戦車438輌、装甲車385輌を投入し、日本軍が大敗している。
これの意味するところは、日本国の絶対的な「鉄不足」と「火薬不足」があげられる。内実は少ない鉄を海軍と陸軍で分捕り合いをしていたのである。
 画像の28㎝榴弾砲は、旅順攻撃で有名だが、乃木将軍の馬鹿の一つ覚えの銃剣突撃で、日本兵のあまりにも犠牲の多いのに驚いて、投入された砲である。


   (以下はウイキペディアからの転載)


二十八糎榴弾砲は1884年(明治17年)に大阪砲兵工廠がイタリア式28cm榴弾砲を参考に試製したものであり、1886年(明治19年)に大阪府信太山にて射撃試験を行ったところ非常に優秀な性能を誇ったため、
1887年(明治20年)の海岸砲制式審査を経て、1892年(明治25年)に制式制定され量産された。砲身は鋳鉄製で、砲身後半に鋼鉄製の箍を二重に嵌めていた。砲弾は鋳鉄製で弾頭部を焼き入れした(堅鉄弾)。


本砲の英語文献などでは「クルップ11インチ攻城榴弾砲(Krupp 11-inch siege howitzers)」と表記されることが多いが、実際にはクルップ社の砲の孫コピーに当たり、クルップ製ではなく大阪砲兵工廠の手による国産である。
原型となったクルップ社の砲は「280mm榴弾砲(280mm Haubitzen)」と称し臼砲ではなく、帝国陸軍における制式名称も「二十八糎榴弾砲」で榴弾砲と明示しているが、
その大口径と砲身形状から一般的に臼砲に分類されることも多い。
大口径砲かつ19世紀末の火砲であるため、砲弾の装填は砲身を水平にしてクレーンで吊り上げた砲弾を人力で押し込んでから装薬を入れる後装式であり、発射速度は高くない。閉鎖機は砲身と連結されておらず、
装填等のために閉鎖を解かれた閉鎖機は、砲身・砲架とは別部品である撑転架に乗せたうえで砲身から分離される。


前述のように元々は対艦用の海岸砲として日本内地の海岸に配備されていたもので、例えば東京湾要塞第一海堡には、建設当初、14門の同砲が設置されていた(ほか、十二糎加農砲が隠顕砲架・攻城砲架各2門、一九糎加農砲1門)。日露戦争においては攻城砲として使用された。まずはバルチック艦隊の極東派遣が現実のものとなった1904年(明治37年)8月5日、大本営は朝鮮海峡の制海権を確実にするために、東京湾要塞・芸予要塞に設置されている同砲を、朝鮮半島鎮海湾と対馬大口湾に移設することを決定した。
その後の8月21日に旅順要塞総攻撃が失敗したため、寺内正毅陸軍大臣はかねてより要塞攻撃に同砲を使用すべきことを主張していた有坂成章技術審査部長を招き意見を聞き、この意見を採用することを決断し、
山縣有朋参謀総長と協議して、先に移設予定の同砲のうち6門を旅順に送ることを決定した。この6門は9月上旬に第三軍に送られた。
その後9月23日に満州軍総司令部から6門の追加要請、更に10月3日に6門が追加要請され、合計18門が旅順に送られた。


新撰組異聞 間違いだらけの新選組「原田左之助」

2021-12-27 10:30:12 | 新日本意外史 古代から現代まで


   新撰組異聞
間違いだらけの新選組「原田左之助」



先日12/20(月) 11:30配信ヤフーニュースに、生き延びて中国に渡り馬賊の頭目になった男 “原田左之助”が載っていた。
(文中黒字はヤフーの記事。青字が調べ上げた記事)

 剣術に加え槍術を得意としていたと伝わる原田左之助。事実無根だが、坂本龍馬暗殺の犯人として疑われたこともあった。甲州勝沼の戦いのあと、永倉新八ともに新選組を離脱する。
新選組結成時からの生え抜きで、常に第一線で活躍した原田左之助(はらださのすけ)。剣客特有の暗さや政治的な動きとは無縁の直情径行な男の生涯に迫る。
 新選組には、奇妙な体験や人生を歩いた隊士が数人いる。原田左之助もそうした1人であろう。
 原田は、伊予松山藩の江戸屋敷で足軽の長男として生まれた。天保11年(1840)5月のことである。子どもの頃から頭が良く、読み書きもできたことから、江戸屋敷で足軽・中間として勤めるようになると、先輩などから苛められた。
ある時、上司ともいえる武士と口論になり「腹を切る作法も知らない卑しい奴」と罵られた原田は、カッとなってその場で刀を抜くと自らの腹を右から左に切り裂いた。
大騒ぎになったが、幸いに傷は浅く、命を取り止めた。この傷は、原田にとって自慢の種になったが、新選組に入隊後は「丸に一ツ引き」を自分の紋にするほどであった。

 伊予宇和島伊達十万石が正しい。
足軽、中間として勤めたというが、親は原田右エ門。石高12石取りの親代々の無役の徒士だった。国元で生まれ、そこで育って元服をしている。
そもそもこの人は、足軽、中間、小者の意味が解っていない。戦国時代からの制度で、先ず小者として働き、見込みのあるものが小者と、足軽の真ん中だから「中間」になれるのである。
豊臣秀吉も最初は信長に小者として仕え、れっきとした武士である木下家の出戻り娘「寧々」と結婚したため一躍三階級特進で武士になれ「木下藤吉郎」と名乗ることができた。


 この切腹騒ぎが元で脱藩した原田は、武者修行と称した旅に出て後、近藤勇の試誠館に転がり込んだ。原田は近藤よりも6歳年下であり。近藤を兄のように慕った。
試衛館を挙げて浪士隊に入り、京都を目指した後、新選組として出発した近藤らに加わっていた原田は、新選組の戦いの中心で活躍した。

 口論の後切腹したというのも与太話にすぎない。近藤勇の江戸牛込試誠館(試衛館は間違い)
 -俗説では『両雄士伝』にあるからと、〈試衛館〉としているが、牛込柳町にあった勇の養父近藤周助の道場は、試誠館である。
 この一帯の地所は前中大総長升本喜兵衛の祖父が、維新のどさくさ紛れに買い占めているが、そこは升本酒店土地台帳でも、「試誠館あと四十二坪五合三勹」とある。
 また、新選組となってから壬生の屯所が手狭になり、京都市左京区堀川七条の西本願寺へ移っていたことがあるが、その頃の遺物として、近藤勇が出動時に使ったという、
「誠」一字きりの角旗の他に、新隊士の訓練用に使ったといわれる新選組の、「試誠」の小旗も大正時代までは残されてあった。これからしても、試衛館というのはあくまでも誤りであろうと思われる。
この試誠館に転がり込んだのは文久二年で、原田は子供のころから宝蔵院流槍術を習ったが、筋が良かったか十五歳で元服した時には免許皆伝を受けている。だからその腕を買われ新選組では十番隊長を勤めている。
出奔して京へ出たが、京でも、これという仕事ももなく、出奔した当座は岩国の住吉町の遊郭で女郎屋の牛太郎(客引き)までやっている。が、いつまでもこんなことは続かず、
「では江戸へでも行ってみるか」と東下りしてきたのが、万延元年の五月。
その三月に桜田門外で井伊大老が首にされるといった殺伐な空気だったので、刀槍の稽古をする者も多くなり、
 「これなら本芸の槍の指南でも食ってゆけようか」と、左之助も張りきったか、自分で空店をかりて道場を開くだけの才覚はない。
 そこで牛込二十騎町の天然理念流の刀術道場へ、槍術を習いにくる者がある時だけ、一人いくらで頼まれて出稽古をしていた。
 その内に近藤勇、土方歳三、山南敬助らと貧乏徳利の回し呑みをする仲間となった。「浪士組募集」の話が伝わってきたとき、
 「京には二年近く居ったから、路地の裏々まで詳しゅうによお知っとる」と、まるで案内役をかって出るごとく、西国を知らぬ近藤勇や土方歳三を説き伏せ、京へ引張り出したのも原田左之助である。
 脱藩の原因も「切腹騒ぎ」なんかのカッコいいことではない。若気の至りから「人の家婦に間媱」というが、女関係で失敗し国に居られなくなったのである。

 
 芹沢鴨(せりざわかも)一派の粛清や池田屋事件、禁門の変、油小路での伊東甲子太郎(いとうかしたろう)暗殺など、主要な事件、戦いの現場に必ず10番組隊長の原田がいて、激しく戦っている。
 元治2年(1865)、26歳になっていた原田は、京都で町娘と知り合い正式に結婚した。菅原まさ、という女性である。新選組屯所の近くに居を構えた原田とまさに、長男が生まれる。「茂」と名付けて可愛がったが、
大政奉還などによって新選組の立場が変わってきた。原田は、妻・まさに軍用金として分配された200両をすべて手渡し、「茂を立派な武士に育て上げてくれ」と言い残して別れた。
その後、鳥羽・伏見の戦い、新選組の江戸帰還などもあって、原田と妻・まさは再会することはなかった。

 原田の妻は一緒になった経緯は判らぬが、長州藩百石取り山中幸子である。
元治元年の長州軍進発上洛に当り、山中家は成年男子がいなかったため、彼女は男姿でヘーゲル銃を担いで、備前尾ノ道より上陸し、来島又兵衛の銃隊に加わり、嵯峨天竜寺の陣で戦ったと、
叔父の山中喜平が書き残している。おそらく乱戦の中新選組に助けられ、新選組屯所へ連れていかれ、女好きの原田が世話したものだろう。
その後幸子の生死は不明だが、原田は彰義隊戦争で、爆死を遂げている。

この五月十五口の彰義隊戦争の一月前の四月八日に、流山で擂えられ板橋で刑死した近藤勇が、土佐藩谷干城の訊問に、
 「証拠品に原田左之助の鞘が残留されたのは、自分が刺客として差し向けた為である」
 と口供書をとられていたから、原田の首は斬られて土佐藩邸へもって行かれた。処が二年後。明治三年二月に兵部省で、「坂本竜馬殺しは見回組の手の者である」
 と今井信郎が自白したあとは、幸子の遺骨と共に、最後まで夫であった原田の骨は、山中喜兵衛の知行地の下関の吉見ヘ一緒に葬られた。川棚温泉の近くである。


 原田は永倉新八らと図って、近藤との確執・不信感を顕わにしたが、結局近藤の「甲陽鎮撫隊」による勝沼の戦い、さらには近藤と袂を分かった後の「靖兵隊」に加わったが、会津に向かう途中で原田は「所用あり」として江戸に戻った。
その後、彰義隊に参戦して戦死したと伝えられる。とすれば、原田は28歳の生涯だったことになる。原田の最期を妻・まさに伝えたのは、原田の同僚・岸島芳太郎であった。
その後、まさは、茂を連れて再婚し、昭和5年(1930)に83歳で亡くなった。
ところが、原田の死には異説がある。運良く生き延びた原田は、中国大陸・満洲に渡り、そこで馬賊(馬に乗って襲撃・掠奪する群盗)の頭になったというのだ。
 後日談はまだある。明治40年(1907)頃、松山に戻った原田は弟や甥たちに会って、満洲でのことなどを語ったという。日清・日露戦争では後方から日本軍を支援して戦った、とも語った。
そして原田はまたすぐに満洲に戻っていったと伝えられる。しかしながら、その真偽のほどは不明である。

満州に渡って馬賊になったなどは、義経ジンギスカン説、秀頼薩摩落ち説の亜流に過ぎない。
 新選組を扱ったものはほとんどが故子母沢寛か平尾道雄氏の著を下敷きにしている。それから一歩も出ていない。
今回この記事の投稿者は歴史小説作家、時代小説作家、ノンフィクション作家だというが、可哀そうだから氏名は伏せるが、私は全く別個の立場で考究してみた。
 人間の一生などは、英雄的でも特別なものでもない。もっといやらしく下らないものではなかろうか。そして真実とは途方もないものである。
どちらの説を信じるかは読者の良識に任せるしかない。


 岸田総理を「姓の法則」から考察する 岸田総理は鵺(ヌエ)になれるのか

2021-12-26 11:47:09 | 新日本意外史 古代から現代まで

 岸田総理を「姓の法則」から考察する


  岸田総理は鵺(ヌエ)になれるのか



 第百代と区切りのいい内閣総理大臣に「岸田文雄」氏が選出された。
 奇しくも同じ時期、野党立憲民主党党首には「泉健太」氏が選出された。
この姓のイキヒチニヒミが付く人は、人間的に比較的温厚である。この姓を例によって日本史から考察してみましょう。
 後段で岸田総理の政治姿勢について記してみたい。


この第二横列(アイウエオのイ姓列)のイキシチニを編戸の民(稲束を渡され田夷となって穴居の入り口に目印に筵をはっていた民)とする根本資料は、
『延喜式』の授苗腸表及び、太田南畝編『杏花園随筆』及び『寛政家伝指出史料』を参考として、もっとも早く農耕部族となった「原住農耕系」とみなすものです。




 原住農耕系(仁徳王朝系)─イキシチニヒミ姓列


 関東では「イカン」「イケマセン」というのを、関西では「アカン」「アキマヘン」といいます。本辞と修辞の差といいますが、これはやはり民族別の発音の違いなのです。
 つまり、イが上についても、茨城県の水郷地帯のイタコから以東のイ姓はアと同じなのです。また、拝火教の末裔が多い関係でヒは炎のホと結びつきますので、
第五横列(オコソトノホモヨロ姓列)に入ります。また北と白という文字の場合はキとシでもこの列から外します。(北は第五横列、白は第一横列に昔は入れていたからです)


 何故この姓列はそんなにややこしいのかといいますと、もともとは縄文時代からの日本原住民なのですが、彼らは西部劇にでてくる騎馬隊の軍属のインディアンのごとく、
早いとこ大陸系の藤原氏に降伏してしまった要領のよい連中です。それと、藤原基経に廃立させられ上州のハルナ系の山中へ連合赤軍のごとく逃げ込まれた陽成帝のお供をして山中アジトへ逃亡し、
あくまで藤原氏に対してレジスタンスを続けたものとに分かれるからなのです。


 反抗派は、第一横列(ア姓列)や第五横列(オ姓列)とその血を混ぜて今日に至っていますから、それらと同じ民族と見てもよいのですが、しかしいち早く藤原側について、
種米のモミの束を与えられて、「田夷」と呼ばれ、編戸の民となった方の彼らは、江戸時代になっても寺百姓と呼ばれて、各壇那寺に人別帖なる戸口簿で総括取締りをうけていたので、
 士農工商の中でも、昔は軽くみられ、「奴百姓」とも呼ばれました。
 しかし、唐から渡ってきた連中のだらっとした弁髪をみて、「権力に逆らっては命がない。だから長いものには捲かれろ」と、いち早く転向した目先のきく先祖の血をひいた彼らは、
「百姓は滑稽だ」といわれつつも明治まで逞しく生き抜き、今では土地成金になった人も多く、その要領のよさと頭の良さではでは他に肩を並べる者はなく、現代のエリートがこの姓をもつ人々なのです。


 昭和になっても敗戦後、東北から農家の次男三男が「ああ上野駅」と東京へ集団就職し、中小企業や工場労働者となり、日本経済の復興を支えました。
こうした庶民の中から有名な石原慎太郎氏やその息子たち、作家の水上勉、五木寛之氏、新庄監督(戦国時代でも、秀吉の馬回りや各地の地侍に、新庄、白井、白江、白川、白堅、新川、新宮、新藤、神保、
など三十名が散見される)などが出ています。ジャーナリストでは木村太郎氏、演出家の宮本亜門、アナウンサーの宮根誠司。ソニーの創業者井深大氏も有名。


 また現在政治家の中にもこの姓は比較的多く、立憲民主党では泉健太、城井祟、稲富修二、石橋通宏、水岡俊一、井坂信彦、芝博一、重徳和彦、下条みち、と衆参議員140人中19人もいる。
一方自民党では衆参320人中60人もいる。共産党に至っては志位和夫委員長はじめ衆参19人中5人となっている。

イ姓列の場合、イキシチニ・・・・・の横列のリズムに動く例証。
 <小笠原流とは別派な古式作法の水島流の水島伝弥について、享保十一年に伊藤甚右衛門が書き残した伝書≪享保十一年伊藤甚右衛門指出書≫から例を引用してみましょう>
  
◆大坂落城後・・・・城から逃げだし捕らえられたが、首代を払えば助命するといわれ、″イの池田武蔵守〟家来の″ミの水島助佐衛門〟が実兄だといった処、銀子一貫匁なら助けようとなって使をだした。
処が長く陣中に居て手許不如意ゆえ七百匁に負けろとの返事。
 
  そこで三百匁は信用貸しにして後廻しになさんとの双方での話し合いになったが、どうあっても捕えた方は一貫匁というので、話はこじれて決裂。
   そこで首を落とされる羽目になったが、″二の西尾主水正〟陣屋に駆けこみ訴えした処、武者奉行
  ″ミの水野但馬〟が、同姓なればと掛け合ってくれ、前銀三百匁、後百匁ずつ五回払いの八百匁で、
  落とし前の話がつき、身柄は西尾陣屋へ移された。
   
その後、八百匁のかたに奉公している内に、伝弥が産まれたのだが眉目麗しく、二百匁の仕度銀にて
  ″ミの三浦主膳〟の仲立ちで、″イの井伊掃部頭〟へ小姓奉公した。
   やがて小笠原右近太夫が井伊家出入りで、その作法をやがて伝弥は習得した。
   だが、右近太夫は「姓が異る」と小笠原流奥儀は許さなかった。
   そこで、″キの木股仁太夫〟、″シの清水次郎助〟、″チの千葉五郎太〟ら同姓の肝入りで殿に願い出て御暇を頂戴して、″ヒの日野右膳〟の娘を妻とし、
新しくミの水島流指南〟の一家を設立することがようやくできたのである。
といった経緯を門人の伊藤がしたためたものですが、イキシチニの発音をひっくるめ、″同姓〟と呼んでいる点に留意していただければ、すべて納得がいかれることでしょう。
 首を落とされる前に金を払って話しをつけるのを「落とし前」というのも、この頃の名残りです。
 また、他の横列もそうですが、イキシチニの横のつながりが強固な例として、室町時代の守護職を、ついでにあげておきましょう。


   イ 今川氏=駿河   伊勢氏=伊勢   一色氏=丹後
   キ 吉良氏=三河   木曾氏=信濃   菊地氏=肥前
   シ 斯波氏=尾張   島津氏=薩摩   
   チ 千葉氏=上総   長曽我部氏=土佐
   二 仁科氏=信濃   蜷川氏=丹波
   ヒ 日野氏=摂津   土岐氏=美濃
   ミ 三好氏=阿波   三浦氏=下総

 といった具合に、この系列にのみ限定されていたのをみても判ることです。
ちなみに足利時代というのは、中国(明国)と「勘合貿易」を行っていたと日本史では説くが、実態は金を輸出し、同量の粗悪な「鉄のビタ銭」を輸入していたのである。
現在でも金と鉄の価値は圧倒的に金が高い。それを当時同量交換だったといういうことは日本が大損していたことになる。
だから、決して対等の関係ではなく、明国に臣従していた時代だったことを忘れてはなるまい。
 その証拠に足利氏は明国に「臣、源の義満」とへりくだっていた文書も現存している。
 だから上記の守護たちは全て大陸の血を引く者たちなのである。

さて、である。いくら義満が「臣」とへりくだっても、明国がそれだけで満足して「よしよし」とビタ銭と呼ぶ鉄銭を、公式記録では六十万枚だが、その後日本では幕末まで一文銭として全国的に通用していたのだから、
実数はその百倍の六千万枚にも及ぶ莫大な物を「日本王は臣として朝貢してきているのだから、どんどん呉れてやれ」と果たして気前良く送荷してくれたであろうか。
今の歴史は、臣従したことへの報酬と極めて安直に解釈するが、常識的に判断して、こんな事が果たして有り得るだろうか。今まで誰も解明していない。
鉄貨流入は臣従と関係ない貿易による物と思推される。
では日本からの輸出品は何かとなる。学校歴史では漆器、蒔絵、甲冑、日本刀の類と言うが、向こうに日本人が居ないのにこれはおかしい。隠されているが、それは黄金である。
当時の日本列島にどんどん産出された山金や砂金を大陸に送り込んでいた。黄金で同じ重さの粗悪なビタ銭と引き替えていたものらしい。
実数を六千万枚と見ても、ビタ銭一枚七十五グラムとして、四十五万キロもの夥しい黄金がむざむざと足利氏によって、明国へ、貿易とも言えぬ、割の合わない、朝貢という美名で搾取をされていた。


 関東の”イ”は関西の”ア”と同じゆえ、これと”ヒ”は別ですが、他は一応は、体制協力型で要領が良い。
またエリート型できわめて順応方ですので人付き合いも良い。男性は直情径行型で信念を持った者が多く、女性にも好かれる。


 ミ姓―カラ神信徒の流れをくむ恐れ知らずの部族 


 この姓には、三、水、宮の三つを上につける姓が殆どを占め、後は、南、峰、湊、光、緑、瑞といったのに分かれています。
 もともとは、騎馬民族で神さんを拝んでいたかカラ神信徒の流れだが、進取の気性にとんでいて、終戦時にアメリカ兵の側によって行き、すぐさま商売した人種のように、
恐れを知らず馴々しく近づいて、国際親善をした勇敢さが今も伝わっているのか、海外へ雄飛している邦人にもこのミの姓の人がかなり多い。
 
そしてミのつく姓の人も、やはりイ姓列やウ姓列の二つの姓列の人と結びついている限りは、事業の運営もうまくいくし、交友関係もそつがなく、安全第一ということがいえます。


 一般にあっても、この姓は比較的穏健そのものであって、警察協力会の会員になったり、防犯連絡所になっている家にこの姓が多いのも、法を守るという穏当な常識人が多い例証といえましょう。
 ですから、企業側にあっては、こういう姓のつく部下かを管理職の要所要所に配置しておけば、社運が興隆することは間違いありません。
 また、部下のほうも、この姓の持ち主が上司であった場合は、なるべく気に入られるようにしておけば、自分もしたがって栄進の道が辿れるというものです。


 しかし、この姓の弱さは、自分自身が一派をリードし、全体の統率者にはなったりできないということです。
どうしても、脇役とか番頭役であるにとどまることが多いようです。
 しかし、何もリーダーになって苦労するだけがいいことではないですから、セカンドの位置にあって、己の能力を発揮していくとなれば、
それはそれなりに立派でこれはきわめて堅実な生き方といえます。
 しかし、大きな会社の場合では、すべての幹部が皆、イとウの二つの姓だけでまとめていくということはまずできません。
 ですから、ベンベルグの旭化成工業などでは、社長の宮崎輝は、専務にはクの久保田正雄、イの磯部一充を置き、副社長には他の姓列のものを統率してゆくためア姓列のカがつく刈谷享を据えて、全部の人事を取しきって、
波風を立てることなく、きわめてうまく事業を伸ばしています。
 これはまた、丸善石油の宮森和夫社長にもいえることで、同姓列のイの石渡健二、シの清水菊一、ア姓列のマの松田重一、ワの脇坂泰彦を専務にし、
二つの姓の流れをスタッフに置いて、一時は潰れかけた会社なのに、それをなんとか努力して、もって現在のような隆盛さに持ち直してきています。


 ミの姓をもつ人は当たりがやわらかいというか、他とすぐ親しくなれる特性をもっているので、それをうまく活用すれば事業においても成功するということです。
 これは女性にもいえることで、銀座のバーのマダムや一流の料亭の女将にもこの姓が意外と多い。


 つまりこうなりますと、われら日本人は決して単一の民族ではなく、最低でも四つの複合民族であるということを、はっきり把握して、
主脳部はうまが合うからと自分と同じ姓列だけで周囲をかためず、他姓列を押さえてゆくためには、どうしても、その姓の者をしかるべく序列におくことが、
なんといっても会社の運営をうまくやってゆく人事問題の要諦ともいえるようです。これはすぐにも実行すべきでありましょう。


こうしてみると、様々な問題はあったとはいえ、前政権の安倍内閣もア列が主導権を握り、オ姓列の大臣や副大臣、政務官を配し、原住民系で手堅く運営していた。
 内閣の女房役ともいえる官房長官に菅氏という、契丹系の頭の良いのを配し睨みを利かせていた。人事としては大成功である。だから長期政権を維持できたのである。
そして、党の運営には、イキシチニヒミ横列のニの付く二階幹事長だから、安倍一強として長く続いているのである。
 会社でも政府でも組織は全て人間が動かしているので、複雑多岐に渡り、果てしなき不毛な現代は円滑な人間関係がより一層大切になるのである。


 さて、岸田総理の政策に戻るが、発足してまだ半年にもならぬうち、早くも十万円給付で迷走した。国交省職員の統計書き換え不祥事も起きた。
が、こんなことで揚げ足取り、粗さがしに汲々としているマスコミや識者の言葉に踊らされてはいけない。
何処の政府も間違いはやっている。
 
 また中国問題でも難しい対応を迫られている。さらに米国のバイデン政権は中国ロシアに対する危うい政策が見受けられる近頃でもある。
中国は間違いなく尖閣を盗りに来ているのは明確だし、日本周辺を軍艦で一周し日本を脅し、領空侵犯は日常茶飯事。この国は「戦争」を仕掛けているのである。
こんな現状を鑑みて、平和ボケし、惰眠をむさぼる国民に覚醒を促し、「どんなに血を流しても中国と戦おう!!」と檄を飛ばせるのか。
 国民がこぞって「戦う意思」を示すなら、老驥櫪に伏すとも志千里に在りと布衣草莽の士を任じる私も、「若者だけを死なせない」と、老骨に鞭打って銃を取る覚悟はある。


フォークランド紛争の際、イギリスのサッチャー首相は「この国に男は居ないのか?」と檄を飛ばし、空母機動部隊を投入し激戦のあげく、多くのイギリス艦船が轟沈され、戦死者256人を出しても島を奪還した。
それまでさして人気の無かった彼女は、この戦争の勝利で一気に人気が出、「鉄の宰相」の異名も奉られた。
 翻って、日本にはマスコミや言論人の中に対中国強硬論と、話し合い解決論が同居し、国の方針が定まらない。勿論温厚な岸田総理は「状況を見極める」とその態度を曖昧にしている。
前段で「イキシチニヒミ横列姓」は「要領が良い人間が多い」と記したが、要領がよいということは、「風を読む力」でもあり、時と状況に応じて「自己利益を最大化」する優れた能力があるということである。
現代のように「答えのない時代」には、こういう人たちは、思考回路が柔軟だから、順応力が強いほうが危機に際しても適している。


だから、日本国は中国の攻勢を、米国と共に自衛隊の機動反撃により撃攘し、尖閣列島危機を脱する戦略をとるのか、はたまた鵺の如く米中どちらにも旗色を鮮明にせず、「バルカン政治」の姿勢をとるのか、
その岐路に立たされている現在(いま)、岸田総理の「要領の良さ」が吉と出ればと願うばかりである。

『英知定まりし者、如何にして歩むか』



赤穂義士討ち入り 忠臣蔵

2021-12-08 12:44:15 | 新日本意外史 古代から現代まで
赤穂義士討ち入り 忠臣蔵

【前書き】
 毎年この十二月の時期になると決まってテレビで放映される「赤穂浪士討ち入り」物語がある。
元禄十二年十二月十四日、浅野牢人が吉良邸に討ち入って吉良上野介の首を取ったという史実は正しい。
しかし、その原因や内容は相も変わらず全く、講談の域を出ていない。
そろそろ真実の赤穂事件が出てもよさそうだが、期待できないので、ここにその真相を暴露する。
当ブログの十月二十八日の記事「憐れなり赤穂浪士、赤穂義人纂書」と併読して貰えば感幸である。

 江戸という町は、京の真似をして各町毎に町木戸を作り、番屋を置き
番人を置いて、厳しく町人の通行を監視管理し、日没から夜明けまでは鼠しか通られぬようにしていたのである。

京は都として碁盤の目のように区切って町並みを作った訳だが、この碁盤という構造は何も住民の便利のために作ったのとは訳が違う。
大陸勢力が京に君臨していて、原住民を捕らえてきて沢山奴隷として働かせていて、彼らが逃亡しても、前後左右全て、直ぐに見通せるように作ったのである。

江戸も町毎に木戸や番屋を設けたのも同じ事で、奴隷労働者の逃亡を防ぐためなのである。
江戸の度々唄に「奴さんは辛いね」と当時歌われていたというのも、奴とは奴隷のことだから豆腐を四角く切って冷や奴というのも、此処からきている。

日本には「奴隷」という言葉は無く、奴とかと呼んでいたのだが、明治になってノルマント号事件の清国奴隷の惨状に初めて接して、「日本奴隷史辞典」を書いて、奴隷と言う言葉を使ったのが阿部弘蔵そのひとが嚆矢なのである。

さて、赤穂浪士の討ち入りは江戸で決行された訳だが、浪士が勢ぞろいしたのは紀伊国屋文左衛門の材木町の長屋で、これは紀伊国屋が無償で提供している。

 ここから吉良邸までの間の町木戸は二つある。だからあるいは舟に乗っていったという事も考えられるが、引き上げの際は吉良邸から、芝高輪の泉岳寺までは、元禄版江戸切絵図では四十三箇所もある。

そして奇怪なことにその日に限って全部が開いていた。
この夜に限って、番太郎たちはまさか43人全部がストをやっていた訳ではあるまい。
だから同じ時代の絵師、安藤広重はこんな事はありえないことなので、赤穂浪士討ち入り図には往復とも小舟に分乗してゆく浪士たちの姿を描いている。
この番太郎たちは大番屋所属で、従って江戸町奉行所の配下である。

 そして丁、つまり偶数月の十二月は前京奉行から柳沢大老によって栄転させてもらった 南町奉行の松前伊豆守である。

12月14日には吉良の妻(米沢上杉家の姫)が江戸に居ては夫である上野介が危険だと 案じて、実家の米沢に匿うことにして、それまでも匿われていた麻布狸穴の上杉家中屋敷から、旧旗本近藤登之助の古い本所屋敷で、別れの茶会をすることになった。

 この情報は幕府に知られることになり、茶席が開かれる日時と場所を、赤穂浪士の大高源吾に教えたのは、四方庵山田宗偏であり、この男は前の京所司代から、これも柳沢に一万石加増されて老中にしてもらった小笠原備後守の親代々からの家来である。
さらには、討入りの晩に、わざわざ生卵の箱を恭しく持ってゆき、浪士たち皆に配ってから励ますように「これは殿よりの下されものなるぞ。しっかり精をつけなされ」と言った 細井広沢は、これまた柳沢吉保の三百石の家臣である。

討入りする浪士たちに「ご助力申そうか」と紀文長屋へ駆けつけた堀内源太左エ門は松前伊豆守お抱えの捕方共に、棒術指南として扶持を受けていた人物である。これが、時の体制が仕組んだヤラセといわずに何と言う。
みんな柳沢の一味徒党で、幕府中枢の巨大な人脈で繋がっていてマフィアなみの組織である。

 そして浪士達が吉良の首を取ってしまうと、柳沢らの態度は一変してしまう。
この浪士達の処分を巡って、まさか柳沢の陰謀とは、知らぬものも多かったから、幕閣でも 随分揉めて、助命するべしの意見もあった。
しかし、「全員みな賜死あってしかるべし」と進言したと言われるのも柳沢吉保の五百石の家臣である荻生徂徠である。

進言してそれが取り上げられたように受け取れるが、この時代の扶持を貰っている侍に意見などあるはずも無く、みな殿の言いなりだから、結局は柳沢その人の強硬意見となる。
この柳沢一味のマフィアが寄ってたかって吉良を生きたまま米沢へやりたくなかった理由というのが、
一体何故なのかという疑問だが・・・・・・。

      贋金造りの大陰謀

学校では教えないが、日本の貨幣制度の矛盾に在る。
 江戸時代箱根以西は銀何匁で関東から蝦夷地までは金一両で、鉄銭のビタ銭だけは全国共通だった。
 これは銭何匁、何貫と勘定する。
そして京では金はオカネではないのを良い事にして、金の含有量の多い良質古金の大判小判を流通禁止にし、それを京へ送り込んで、これを京で顔の効く吉良上野介に宰領させ、堺の中村内蔵助に命じて銅を半分以上混ぜた元禄小判を鋳造した。

(注)現在慶長大判などと違って混ざり物が多いため、古金としても値が安いのはこの為である。

こうして悪貨の元禄小判を鋳造して、当時の警察庁長官に当たる大目付の仙石伯耆守ら幕閣に この小判を大盤振舞いをしたのである。

 普通賄賂というのは貰うものだが、柳沢は収賄せず、逆に与えたので、誰からも足を引っ張られることも無く、
晩年も江戸の三大庭園といわれる六義園で悠々自適できて、子孫は明治まで続き、何も判らぬ馬鹿な明治政府は清潔な政治家だったとして、追贈正三位にまでしている。 
この将軍綱吉に繋がる、柳沢のインフレ政策によって、物価高が酷く庶民の窮乏は酷いものだった。
 江戸でも食えなくなって行き倒れが多かったという。
現代、元禄時代を艶やかな元禄花見踊りに象徴される、庶民にとって平和で町人文化の百花繚乱時代だったと説く歴史屋が多く、NHKでも大河ドラマでこの時代をやっていた。船橋聖一原作だからあれは小説の世界である。
 
贋金同様の小判をどんどん作って、私服を肥やしていた中村内蔵助が祇園の一力茶屋を連夜買いきり、女を総揚げしてドンチャン騒ぎ、
夫がやるなら負けじと女房は、京嵐山で衣装比べに大金を使っていた。
 これが日本最初のファツションショーである。

この様子を絵師が描いたものが現在残っていて、これを見て元禄時代の世相を平和で華やかだったという歴史屋の頭は「かにミソ頭」。 
そして勘定吟味方にすぎなかった萩原は勘定奉行に出世し、柳沢マフィア一家は、それぞれ膨大な金も貰ったが出世させてもらえた。
しかし吉良だけは「お手前は高家でござるから」と金は貰えたが、望んだ大目付は断られ、その 不満から、辞めて隠居すると口外した為、生かしておいて贋金作りを暴露されては具合が悪い、殺すしかないとなた。

だから勅使下向の京へ帰る日になって、ちょうど饗応役だった田舎大名の浅野匠守を呼びつけ、
「吉良を如何様にしても抜刀させい。そちには何の咎めも無い。成功すれば加増してやる」と、 理由も告げずに命令すると、浅野が返事をする暇も与えずに、小笠原らを伴って、勅使饗応の能の席へ行ってしまた。

(注)武家諸法度によって、当時の武士は刀を差していても、殿の命令が無い限り絶対に抜いてはいけないという抜刀禁止の法律が厳然とあった。
 現在では「殿中で抜いたから」と理解されているが、間違いで、何処であっても 抜刀できないことになっていたので、吉良を浅野が切りつければ、否応無く抜くだろう、そうすれば抜刀罪で吉良に切腹を言い渡すことが出来るという計画なのである。


事は大老自らの命令である。小藩の浅野としては忠犬の如く吉良を探し回り、見つけると何とか抜刀させようと、殺すのが目的ならグサリと刺すのだが、チョイナチョイナと額を切ったり、肩を軽く突いたぐらいで「吉良殿抜けッ」と怒鳴り、
そして「武士の情けじゃ、抜いて下され」とまで叫んでいる。

吉良は「さては柳沢が殿中で抜刀させ、仕置きする魂胆だな」とみてとった吉良は、 その手は食わぬと、相手にならず、この計画は不成功に終わる。

よって浅野は、すぐさま江戸城の坊主部屋へ入れられ、そこから唐丸籠に入れられて、
運び出され、口を利かれては困るので、田村邸に着いて籠から降りようと首を出したところをバッサリと背後から打ち首にされた。
だが当初から抹殺が目的の肝心の吉良は生きているから、この後始末は何とかしなくてはならない。
そこで柳沢の次の計画は、甘言をもって浅野の浪人共にやらせるべしと考えた。
そして、折角妻の実家上杉家より二万両も出させて造らせた頑丈な呉服橋の吉良邸は、これはれっきとした私邸なのに、強引に取り上げ、その代わりに辺鄙で貧弱な本所のボロ屋敷が柳沢によって与えられた。
そして浅野の浪人たちには、首尾よく殺せば再仕官させてやるとの巧餌で、討ち入りの便宜も計ったのである。

これではまさしく公儀公認の討ち入りだから、吉良の首を取った後、吉田忠左エ門達は泉岳寺へ行く途中で、大目付の仙石伯耆守の役宅へ、わざわざ経過報告に行っている。
江戸の町民は、徳川幕府の数々の陰湿で汚いやり口は身に滲みていて、今度の討ち入り事件とて、きっと裏があるだろうと、

 「主君の浅野も使い棄て、その家来の浪士達も使い棄て」
これではあまりにも可哀想過ぎると、すぐさ風刺をこめて芝居にした。

 主人公の浅野は塩谷判官として上演したが、大入りが続いた。
この塩谷というのは、播州赤穂は良質の塩の産地として江戸でも有名だから、 浅野とそのままには付けられないが、塩屋とすれば幕府に睨まれ、上演禁止を免れるための作者の知恵である。
ここから「判官びいき」という言葉は生まれたのである。

「春本壇ノ浦合戦」の主人公にされた九郎判官義経とは全然違うので間違えないで貰いたい。

 さて上杉家も前は長尾姓で、れっきとしたサンカの出身だし、赤穂の大石内蔵助も やはりサンカのトケコミで、こうなると米沢のサンカの頭も播州サンカの頭も困惑したらしく、丹波に居たサンカ統帥部の御裁可を仰いだ。
しかしまさか柳沢吉保がそこまで壮大で巧妙な筋書きを立てての陰謀とは知らなかったらしい。
何しろ、吉良邸内に斬り込んだ時は、三名一組ずつが斬りこみ、吉良を見つけると、邸外に曳きずり出して斬首した。

だが、それまでは大身の者や老人は外部に居て、中には入っていない。
それどころか近所の旗本屋敷で寒いので手焙りを借りたり、白湯を所望してのんびりしていたに すぎない。

 だがそれらも皆一緒くたにして死罪にしてしまうとまで思っていなかったので呆気にとられた。
だが哀れ、踊らされて再就職の甘言の罠にかかった大石たちより、用心のため吉良に乞われて上杉家より派遣されていて、同夜運悪く吉良邸の入り口で不意に突き殺された家老の小林平八郎もサンカだったので、せめて彼の名誉だけでも回復せねばと、サンカ社会に言い伝えさせ、幕末になって貸本のベストセラーになった式亭三馬の「女忠臣蔵」の中では、若くて美男とさせたうえで、華やかな女衣装で庭の泉水の 石橋の処で、浪士の一人を凍る水中へ蹴落とすような武勇伝に仕立て上げさせたのである。

 どうも当時のサンカ統帥部は大石よりも大野九郎兵衛の方に、自ら悪役を買って出ただけに同情して、大石が失敗した際の第二段部隊として鉄砲で武装して、吉良が米沢へ向かう時必ず通る庭子峠に立てこもっていた一党十七名の食料や装備を秘かに運ばせていた 模様である。

 さて、この赤穂事件というのは、現在の講談そのままの単純な事件と違い、徳川幕府の陰謀に、原住民である紀伊国屋やサンカ集団が複雑に絡み合った壮大だが悲壮で残酷な事例である。浅野が賄賂を渋ったとか、塩の利権、女の恨みなどと、単純化した読物も多いが、全て間違いである。

 何時の世も権力側は庶民の事など絶対に考えては居ないのである。



古代史考察   帰れ縄文へ

2021-12-01 10:19:53 | 新日本意外史 古代から現代まで


古代史考察
  銅文化



石斧や石槍だけが武器だった弥生時代に、何人種が日本列島へ銅器をもちこんできたのか、各地で銅鐸が発掘されるたび問題視される。
しかし考古学者も歴史学者も正解は出せないでいる。どうやら従来の通史は、みな誤りなのではないか。


土地ブームで宅地開発が進み、宅地造成の際発掘されて、各地で縄文期や弥生時代の物が発見される。
 土器類はさすが破片として出てくるが、銅鐸だけは金属性の物なので、そのままの型で埋もれていて、考古学上から改めて従来の日本通史が、誤りだらけであったとしきりに糾弾されています。


 これまでは「弥生時代の青銅器にして、鐘型で5㎝からlmの巨大な物まで中部地方から北九州迄の地域で発掘される。単なる楽器というよりは呪詛的な司祭宝器」というのが歴史家達の説です。
 そして紀元前15世紀の中国の殷は、青銅文化をもっていたから、紀元前7世紀頃の中国の難民が、衣服と共に銅鐸をも吾国へもたらした物とするのが定説で、
沖縄経由説と、山東省から韓国へ入って九州渡来との二説が、おおまじめに検討されています。


だが春秋時代の終りの呉や越が滅ぼされた時に、そこの難民が日本列島へ入ってきて銅鐸をもちこんできたという裏付けは、考古学的には何もなく、ただ布地を「呉服」とよぶ事からの、言いがかりみたいな事柄にすぎない。
 仮に日本列島に弥生文化をもちこんだのが、国を失って流入してきた呉や越の流民だったら、銅鐸の他に銅剣や他の銅製品も一緒に発掘されなければ、まるで話として辻つまが合いません。
というのは当時の日本列島は、馬韓・辰韓・弁韓の朝鮮半島の三韓の植民地の時代でして、今もその名残りが越前・越中・越後とか、備前・備中・備後といった三段式地名になって今日でも伝わっています。
 ですから銅鐸をもって祭祀などする前に、当時の権力者の三韓人を征服せねばなりませんから、まず銅の穂先のついた槍とか剣をもちこんで来なくては、常識的に考えてもまったく意味なしです。
「倭人のルーツ」はインドだと主張した浜田説は、日本列島へ銅鐸をもたらしたのは歴史家の説く、中国大陸呉越の人々ではなく、マレーシアからインド、海南島に分布していた、「モン・クメール族」としている。

なにしろマレーシアの古典スジャラ・ムラユの〈マレー神代紀〉では、白象に跨った三人の神がシグンタッーマ(メルの高峰に天下りたもうて水田耕作を、焼畑耕作しか知らない住民に教え、彼らを率いて革命寫一言。
そこで到底もはや石斧や竹の弓では防戦できぬと観念したパレンバンのドマン・レバル・ダウンは、渡来の天ッ神に国土を譲って己れは地ッ神となって退位したのだとあります。
 「この三人の天ッ神は何を隠そう、かつてアラブのスサを陥落させ、そこの住民をマレーシア(英語読みではバハン、ラテン語ではヤバアン)のニコバルへ集結させて極東植民地にした、アレキサンダー大王が
土地の娘に生ませた息子の子孫であって、名をピチトラム、パルダダニ、ニラタナムという」
 と神がかりではなく、理論的に説得性をもたせた碑文が、パレンバンの西のセーグンタンの丘に立つシュリーヴィジャ石碑の文面で、西暦6世紀の六八三年の建造と、それには彫られています。
 しかしそのインドネシアからベトナムまで、版図をひろげて勢力をふるったシュリーヴィジャヤ王国も13世紀に入るとジャワのマジャパピト王国に、
そして次の世紀に入ると完全にジャワのマジャパヒトによって、だんだんと襲われて変わってゆき亡国となっていく。雲南も山奥へ移らされます。
 この過程で日本へは元の来攻がくり返されていますが、インドネシアやベトナムの難民が、黒潮に乗って流入してきた事も充分に考えられます。


ベトナムの褌姿が日本では六尺で残っています。ジャワに連れてゆかれたシュリーヴィジャ人が、やはり逃がれて日本列島へきたのが、今でも各地に残るジャワ模様や、
黄色人種化にては茶っぽい日本人で、ジャワの被圧迫民共も流入していた。
つまり韓国史観では、自己優越性を示したがって、日本人はみんな大陸や半島系だという。だから今の学校歴史も其の儘ですが、実際はアラブ、ベトナム、雲南、インドネシア系で、
吹き溜まりのように日本列島に定着して住んでいたのです。


何でもかんでも中国や半島経由で入ってきたと言って「有難がり史観」は改めるべきです。
日本人の血のルーツも、文化も大陸ではないのです。縄文時代から住み着いていた勤勉で頭の良い日本原住民が独自の素晴らしい文化を作り上げ現在に至ってます。
「中国四千年の歴史」と豪語するかの国は、夏、殷、周、春秋戦国時代と王朝同士の戦争と謀略に明け暮れ、人民などは虫けらでした。しかし縄文時代は一万年も続いた素晴らしい時代でした。
こんなに長く続いたのは人間の心が綺麗だったからです。
争いや、独占、強欲、差別、権力のない「良質な精神性」の時代だったのです。
だから私は「人類よ、縄文の精神へ帰れ」と提唱しているのです。