真説 織田源五郎長益
真説 織田源五郎長益
大江戸四方山話
白村江で負けたのは百済
多武峰(とうのみね)の歴史
平安京になってからも現在の京都は、表面では京は、大陸勢力の四十六坊の寺の多い仏教の都だった。 が、それなら藤原氏は何処に実力を蓄えて当時の日本を、武力で支配していたかという謎が今まで隠されているが、誰も解明していない。 だがそれは大和の多武峰と思われる。さて、その前に、 「日本の歴史家と称する者で、これまでで誰一人として『歴史の解明』を志した者はいない」と、史学の泰斗の久米邦武がみずから〈日本歴史資史料集大成〉の〈日本幅員(列島)の沿革〉の初めに述べている。 ですからでしょうか、その論文のしめくくりの終りの個所に○○をつけて、「義によって百済を助けんとして援兵をだしたものの、白村江の氏礼城の戦いに敗けて兵をひきあげ、百済の臣民をわが内地に移して扶助、 九州の筑紫の防禦に力を尽し、唐には使を遣り旧好を修められしに、唐もまたあえて犯さず、全く無事に結びたり」としているのが、それでもあります。
その西暦六六三年は日本列島では、古代クダラ語で「国」を意味するナラ朝の時代。つまりクダラ人が日本列島のオーナーだった頃ゆえ、さながらチャンバラものみたいに、 「義によって助け太刀いたす」と日本国が出かけたようになっている。しかしこれは大きな間違いである。 先日もテレビの解説で、ジャーナリストの桜井よしこ氏が、同じことを言っていた。 私は日本の女性論客の中で、桜井氏と中林美恵子氏は大いに評価しているが、彼女ほどの才媛で碩学といえども「日本書紀」と「古事記」を信じ、その呪縛から脱し切れていないのである。 先ず、当時の日本列島に、大唐国を相手に、他国を軍事援助出来たような強国が成立していたという認識が間違いなのである。 白村江で敗戦したのは朝鮮半島の百済で、母国救援に奈良人は吾々庶民の先祖を防人に召集して出かけただけの話。 だから、前線指揮官は百済人だったろうが、強制徴兵された、二万七千人とも三万人とも謂われる日本原住民が、勇敢に戦うはずはない。 また敗戦して、すぐ引きあげて来られる筈はありません。武装解除され抑留ということになる。当時のことゆえ奴隷に売られてしまっていて、まともには、出かけた壮丁のシコの民達は、 異国の朝鮮半島に拘束されてしまったのが真実。
なのにクダラの臣民まで、どうして日本へ移送できるような、巨力な艦隊があったり、21世紀末の現代でさえ福祉のよろしくない日本が、そんな扶助行為などを、はたしてしたものでしょうか。 実際はナラ王朝時代、つまりクダラの都だったのですから、男がいなくなった老幼婦女が、あるだけの物をやむなく牛車に積んで疎開して行っただけの話でして、扶助したのは当時の牛であります。 つまり韓国より内地へ移したのではなく、内地の都から安全な土地へ疎開という事態になっただけです。それに九州の筑紫とありますが、最近重要文化財に指定された金田城を始め高安城その他数多くの築城にしても、それを築く命令を誰がしたと言うのでしょう。 自村江で大勝をし、余威をかって九州へ進駐し、無人の王宮へ翌年五月十七日に姿を現わした唐の劉将軍や郭将軍は、対馬、壱岐に信号用のノロシ台を作らせ、 築紫には上陸用舟艇をつける水城を構築させて来ていたのですが、原住民のゲリラの蜂起を心配してか、翌六六五年八月には答体春初に長門の今の下関にも築城させ、 四比福夫らには築紫の大野城、椽城の二つを築城させるに際し、郭将軍は諸国といっても日本国内ですが、城の積石の供出搬出の命令をだしているのです。 まさか唐の将軍が、唐軍を防ぐ城などを己が部将に命じて築かせる訳はないでしょう。
「大唐郭務淙ラ、二千余人ヲ我ニ送ル」の意味
そのまた翌年二月二十五日に百済帰化人男女四百余人を近江神前郡へ移すとあります。こうなると帰化人とは郭将軍らへ帰順帰化の意味ということになる。 というのも同年九月二十三日には、司馬法聡、令上柱国、劉徳高といった施政官までが大挙してきて十一月十三日に戦勝大パーティーが催されているからである。 そして翌々年になりますと、劉将軍の金田城など大掛りなものが構築されたのであります。
さて西暦六六九年には、「是歳、大唐は郭務淙ラ二千余人ヲ我ニ送ル」と、日本書紀にはでています。 もし自村江の戦いに負けたにしても日本には強力な国があって、進駐してきた唐軍を降参させてしまい、彼らに築城工事を次々とさせて頑強に防備をかためてしまったので、 もはや大唐国も、よって諦めて匙をなげて、「郭将軍らみたいな連中は放ってしまえ」と、我に送ったというのが、今の日本の歴史の解釈であります。 しかし贈ると送るとでは発音は日本では同じですが、まるで意味が違います。 これはどうみても、「送りこむ」とみねばなりません。百済人は向こうで捕虜にされている者らを戻して欲しいし、王宮も占領されているので皆が帰順帰化したようですが、 新羅系や高麗系はその当時はまだ抵抗をしたのでしょう。 翌六七〇年に高安城に塩や食糧を積みこんだり、また今の下関や九州に二城を新しく構築し食糧や塩を積みこんだのも、唐本国は二千余の援軍を送ってよこしたきりで、 以降は自給自足せよとの通達だったから、被征服民がもし叛乱をどんどんしだしたら、籠城でもするしかないから、そのための用意だったとみるべき。 つまり西暦六六九年の時点での「我ニ送ル」の我は、もう我は昔の我ならずであったのでしょう。
多武峰に居たのは唐の武装軍団
それを学校歴史では、「高安城などを築いて防備したゆえ、唐軍は攻略不能とみて撤収した」としますが、防禦なら穀物や塩の他に武器を多量に積みこまねば、話の筋が通りませんし、 唐軍のことを「我」とする日本書紀もこうなれば、大陸系の人によって書かれた事が明白な証拠になるのです。 「唐に使をやり旧好をあたたむ」とあるのも、やはりどうにも変てこです。日本へきている弁髪の人が、故国の友人へ使いをだしたのでなくては、まったく意味が通じません。 しかし、これが学校教育の盲点でありますからして、〈日本歴史資史料集大成〉の原文に頼るしか仕方かありません。 ですからして久米幹文が、やはり「藤原氏論」において「基経大臣が陽成帝は御失徳おわしますとて、御位をおろし奉り己が縁故する処の藤系の光孝帝に取り換えてより、 藤氏と王室の間ますます密となり、より盛んにして、天下になびかざるものなし」として、従来は親王とか諸王宮が大臣摂政となって王政をとっていたのが、 この時から藤原氏がすべて独占のようになった……といいます。
しかし、もっと前から王政を独占していなくては、清和帝を早く退位させ、その御子の僅か十歳の陽成さまを人皇57代にたて、僅か17歳になられた時に、御失徳おわしますなどと勝手なことをいって、 さっさと廃立などできるものでしょうか。常識で考えてみても直ぐ判りうる事であります。 白村江の戦いの後は藤原氏がすべてを押さえていて、着せかえ人形の首でもすげ換えるよう、帝位をほしい儘にしていたのですから、宇多帝が菅原道真を登用されても何年も保だなかったのです。 それゆえ〈日本歴史資史料集大成〉の535頁にある明治史学会雑誌第十号掲載の「多武峰告文使の事」に、 「昔は朝廷に何か変事があれば、藤原鎌足の木像が破裂する事ありて、勅使を派遣して祀られる慣習があったのは、初めは鎌足を摂津阿成山に葬ったのであるが、 定慧が唐よりきて大和多武峰に改葬。肖像をまつり後世になって国家にまさに変事あらんとすれば、その像が破壊すと言われ、時の朝廷はすぐさま勅使を急ぎ送って謝ったものである」となし、 これは〈談峯記〉にでています。 本来なら変事があったら、伊勢神宮へでもすぐに勅使をだして謝るべきなのに、何故に大和の多武峰へ御所から飛んで行ったのかといえば、大化改新のフィクサーで後の天武帝からの、 大陸王朝ともいえる処の基礎をひらいた豪い御先祖さまだからであると言ってしまえばそれまでですが、「坊」といっても今の意味で言えば「防」とよばれる武装隊がここに陣取っていて、 「坊主」とよぶ大将の率いる進駐軍がそこにいたから、それで朝廷では怖れておられたのではあるまいかと想えます。
楠木正成の若い頃、ここへ攻めこんだら、青竜刀や戈をもち鉄具の道具をもった軍勢が居て、びっくりしたという話すら残っている程であります。 が、なにしろ後冷泉院の永承元年正月に、大内記で作らせた上告文をもって、祈謝の使者としてから、何か事あるたびに多武峰へは行っているのです。 ただ詫びに行っだのではなく変事がありそうな時には、多武峰の「匿し軍団」の来援を前もって京から迎えに行っていたのではないでしょうか。 と中しますのも、その538頁の終りの方に、多武峰より、時の関白殿下への進物としての内訳が、 「布千疋」とあるからです。なにしろ綿の木は中国大陸から藤原時代に仏教の宣教用にと輸入され、栽培も監理されていましたから、僧侶の他に武装兵らが勢揃いし、 相当の勢力が多武峰にはいて、日本原住民を捕えてきては使役に用い、たちに綿の実をつませ紡がせ織らせていた模様です。
ウイキペディアには次のように書かれている。 多武峰(とうのみね)は奈良県桜井市南部にある山、および、その一帯にあった寺院のこと。 飛鳥時代に道教を信奉していた斉明天皇が、『日本書紀』に、「多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いて両槻宮(ふたつきのみや)とした」とある。 『日本三代実録』に、858年(天安2年)「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」と記されている。平安時代中頃の成立と見られる『多武峯略記』に、 「最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市大織冠神社、阿武山古墳か)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。 日本史では隠しこまれているが、多武蜂は音読みでは「たぶほう」だが前記したように、ここには「唐からの人間が居た小山」であり、唐から来た武装勢力が多く居たという証拠でもある。
真説上杉謙信物語
戦国時代越後には、磯部には上田長尾、古志郡栖吉の長尾、鍛冶で名高い三条の三条長尾が居た。 そして栖吉の長尾於虎御前と三条の長尾為景の間に五人の子が居て、 長男 長尾晴景、 二男長尾景房、 三男長尾景康、 長女長尾阿亀、 次女長尾阿虎となっていた。
この中の次女である長尾阿虎が、後の上杉謙信となる。ここでは呼称を「長尾阿虎」として進める。
さて、正確な名前は、前記したように長尾政景に嫁いだ姉が阿亀で、阿虎は生涯独身を通した。 母がやはり於虎の方といい、祖母は大虎御前というが、この大虎は、「今板額」と呼ばれるくらい豪力な女性で、当時の日本馬は矮小だったせいもあるだろうが、大鎧を着けて出陣したときなどは、「米山さんから雲が出た」の俗謡で有名な峠を担ぎ降りたという話さえもある。
(注)板額とは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての女性武将の名。 この長尾家は母系家族の家柄で、長尾為景の妻となった母の於虎も、やはり夫を助け出陣し、天文五年四月の、今は直江津市に入っている夷守郷三分一原合戦では、春日山のある府中を守るために戦っている。 またその夫の死後の天文十一年三月十三日に、家臣の黒田和泉守が謀叛したおり、長男の晴景が不意のことゆえ頸城へ逃げた後、城内に乱入した反乱軍によって、次男平蔵景康、三男左平次景房らの男児はこれことごとく討ち取られたが、「女児には指一本なりとふれさせぬぞ」と、於虎の方は、姉妹の阿亀と次の阿虎だけは守り通した。
やがて反乱は治まったが、長男晴景がのち病弱のため、春日山城主としてとても無理とみてとると、今の新潟県長尾市にあった城から 阿虎を迎え入れてこれを春日山城の女城主となした。 母の於虎の目からすれば末女の阿虎の方が女丈夫であったから立てたものらしいが、姉の阿亀がこれでは承知をせず駄々をこね、ずっと城に残っていたもようである。この女人のことは、「北越軍記」という講釈本では西暦1528年生まれとしてあるから、上杉家の長尾系図では、それを採用しているが、その系図で没年を逆算していくと、四年違って上田板戸城の長尾政景の許へやっと縁付づいたのは二十八歳となる。 現在と違って十四、五歳が嫁入りの適齢期だった時代としては、大変な晩婚である。
いかに戦国時代は女城主が多かったか これは上杉景勝の母として「仙洞院」の名で今も伝わっている阿亀が、妹が女城主になったのにつむじをまげて居座っていた例証にもなる。 さて徳川時代になってからは、大名の取り潰しを図るために、今日のような男子相続制に限られてしまったが、戦国時代は女大名は沢山居て珍しいことではなかった。美濃岩村城など織田信長の伯母の尾張御前という女人が城主だったが、信長に対していつも陣頭に立って抗戦したから、しまいに信長も腹を据えかね捕虜にして岐阜城へつれてくると、自分で打ち首にしたと「当代記」にでているし、秀吉時代も「伏見城普請割当帖」などでみると、「池田せん三万石」を筆頭に女大名の数は多い。有名なのは九州の立花道雪の一人娘。これは三歳年下の宗茂を養子に迎えるまで、女大名として竜造寺勢と幾度も戦い武名を上げている。
のち関が原合戦の時でさえ、加藤清正が攻めにはいったが、彼女が前線に頑張っていると聞くと逃げてしまったくらいである。 何しろ戦国期の女は凄まじかった。 竜造寺の寧子も凄まじい猛女だったが、大友宗麟の母や妻は、男を丸裸にして竹筒を男の一物に嵌めて折らせて愉しんだといわれている程である。 だから大友宗麟の老臣立花道雪の娘げんのごときも、日本最初の女鉄砲隊を編成し、 「はな(最初)は立花の娘軍」とか「はなは立花、チャの香り・・・」と言われる程九州の山野に活躍したものである。
いまはお茶の茶摘唄に転化しているが、チャーとはポルトガル語で硝煙の事で、最初の戦端を開く立花げんの鉄砲隊が撃ちまくる硝煙の臭いで、戦闘は始まる、という意味なのである。 が、後に年下の婿の立花宗茂を迎えたげんは、夫に良く尽くしたので悪女ではなかったらしい。 しかし大友の姑や嫁はめちゃくちゃで、直接裸にされ吊り殺しにされた男は十余名というが、 そのために起きた「耳川合戦」で死傷した男女は一万の余にものぼると、これはローマ法王庁のイゼズス派の記録にも残されている。 二十一世紀はモノ・セックスの時代となって、男が女性化し、女が男性化するといわれているが、歴史は繰り返すというか、十六世紀、つまり戦国時代というのは、男も女もなく、ただ強いのが実力者だったのである。 この「阿虎」は父の為景の後を継ぐと、「景虎」と呼称し、そして足利義輝の母や妻と、女同士で仲がよかったので、義輝の一字をもらって「輝虎」とも名乗りをつけていた。そして鎌倉八幡の北条政子の廟所へ詣った時からは、先輩の彼女にあやかろうというつもりか「政虎」とつけている。 武田信玄が生前は「晴信」と呼んでいたように、彼女も内輪では「阿虎」さんだったが、公式には「景」や「輝」「政」の字を上につけていたのが本当。 しかし、死後の名の「上杉謙信」が頼山陽によって一般化してしまって現在はこれが定着している。
ただ一騎で武田信玄を襲った荒川伊豆守 さて、混戦中の川中島合戦の際、僅か一騎がけで武田の十二段構えの陣中を突破し、武田信玄の本陣へ斬り込み、信玄に手傷を負わせたのが、謙信の家臣荒川伊豆守である。外国でも女性が権力者の時、英国エリザベス一世女帝の時のトラファルガー海戦のネルソン提督然り。ワーテルロー大会戦の時のウェリントンがいて、またロシアでもエカテリーナ女帝の時、群雄が競って戦場で覇を称えた記録がある。 男というのは、とかく女人に良いところを見せたがるものだから、上杉家の武者共が強くて、荒川伊豆守のように単身で信玄の許へ突き込むような大胆なことをしたのも、そのせいかも知れない。 なお武田軍に主眼を置いた「甲陽軍鑑」では、信玄に二度までも斬りつけ、一騎打ちをしたのは、謙信その人であると作ってあるが、「上杉年譜」では、この荒川伊豆守となっている。常識で考えても、負け戦になって一挙に退勢を挽回するためになら、謙信が捨て身になって敵軍の中へ一騎で突入するのも判るが、勝っている時にそんな非常識なことをするわけがない。話としては、その方が面白いが、女人というものは、今も昔も危険なことや嫌なことは、自分は引っこんでいて男を使いたがるものである。
つまり川中島合戦のヒロインが謙信であるなら、やはり男の荒川伊豆守が、 (阿虎さまに良いところをば、お目にかけん)と単騎でおもむき信玄と渡り合ったというのが本当だろう。 謙信は「愛」の為に戦ったのか? さて、信濃に村上義清という大名がいた。この村上というのは、もともとは信濃更級郡葛尾の城主で、初めは信濃六郡越後一郡の領主だったから、一郡を三万石と見ても約二十万石の大名である。初め武田信玄が信濃を蚕食する時には、この村上と同盟を結んでいたが、やがて邪魔になると、昨日の友も今日の敵と攻めだした。天文十七年二月には、この村上義清は、信州上田原合戦で武田信玄を大敗させた。しかし負けたからといって信玄は閉口たれなかった。 何度も何度も次々と攻めたため、堪りかねた村上義清が春日山へ救援を求めた。そこで謙信が今日伝わるところでは・・・・ 「義をみてせざるは勇なきなり」と承諾。
すぐさま川中島へ兵を出して、天文二十二年を皮きりに三年後の弘治元年。これまででも三回。「川中島五個度合戦之次第」という上杉資料からは抜かれているが、永禄四年九月の、この時の大激戦の後、また三年後の永禄七年、そして翌八年。 前後を通して六回も、猫の額のような川中島を争そって、謙信は信玄と戦い続けるのである。 武田方は正式に「信濃守護」となっていたから、信濃を守って戦うのは当然だが、謙信の方は執拗に川中島に兵を入れて悪戦苦闘する理由は何もない。 いくら「義によって」とはいっても限度がある。それに謙信は村上義清とは以前に何の係わりもない。 すると何の間柄でもないのに、助けを求められるや応諾して前後六回も、当時の日本武将として最強の武田信玄との戦を敢えてしたのは、これは謙信を男と見ると理解しがたいところである。そこで、「謙信敵に塩を送る」とか、「信玄の死が伝わるや、謙信は食事中だったが箸を取り落とすと、よき敵を失ったと落涙し、三日間にわたって春日山での音曲を停止した」といった話が作られ、「上杉謙信は義にあつい人間だった」と今ではされてしまっている。 だがこれらは全くの与太話で、戦争というのは勝つためにやるのであって、向こうへ義理立てなどしていては勝てっこない。
塩を送ったという話も本当は、「武田信玄がその嫡男太郎義信に今川氏直の娘を嫁に貰っているくせに、それを離縁してよこし、太郎も殺して駿河へ攻めてきた暴挙」に対抗して、今川と北条が連合して、駿河湾や小田原海岸からの塩の輸出を禁止したとき、上杉は今川や北条と連合していたわけではないから、勝手に越後西浜の塩を「こりゃ、高値で売れて儲かるから」と、姫街道を通って弥知谷から信州へ送荷して莫大な利潤をあげ、大儲けしたという話に過ぎない。 また、「信玄が死んだ」と聞いた時、箸は取り落としたが、これはすぐ、 「好機を逸するな。直ぐ出陣せい」と用意させるために、食べかけのところを中止しただけのことである。
本当の話とは実も蓋もないものなのである。 映画、テレビ、歴史紛い小説に毒されてる日本人は真実の「歴史」について考えるべきである。 さて、ここに一つの見方として小説家的発想で述べておくが、つまり村上義清が美男子だったからではなかろうか。だから謙信は義のためでなく、信玄が憎いためでもなく、義清の歓心を求めるべく、愛すればこそ戦った。というのは、村上と共に上杉へ助けを求めにきた信濃の大名は彼の他にも多かったのに、謙信は彼だけを春日山に住居を与えて住まわせたり、上杉の名乗りさえ与えている。後には越後弥知谷城主にまでしたのもこのせいなのである。 女というのは、惚れた男の為ならばたてをひく。だから何の利益もない川中島合戦を五度も六度もやったのだと判ると、この不思議な川中島の執拗な戦ぶりも、その謎が解けてくる。だから、村上義清が死ぬと現金なもので、謙信はぴたりと川中島の戦をそれっきり止めにしてしまっている。 こうした発想で大河小説を書けば、近頃の軟弱小説の氾濫の中では、大向こうに受けることは間違いなかろうが、残念ながらその気にはなれない。
おばすて山だった川中島 さて、明治の尊敬すべき史学者田中義成博士が「甲越事蹟考」を発表している。現代文に直し冒頭だけを引用してみると、 「古今東西の英将を語れば必ず甲越二氏を誰もがおす。共にその兵を出し戦うこと二十余年に及び、その中でも特に双方が戦った川中島の合戦は、最も有名で、後世、絵になったり講釈師の張り扇で広まっている。よって児童走卒もその雄風を慕わざるはない。しかし武田方の甲陽軍鑑は虚を前に伝え、上杉方の川中島五戦記は後から妄を加えたもので、それらをもとに末書の類はいい加減に出鱈目を書いているに過ぎない。そして誤りを重ねた結果、全く史実とは遊離した講談となり、それは蜃城海市とほかならない。そこで明治二十二年八月。余は斯界の第一人者星野恒教授と共に実地を踏査し、古寺旧家を訪ね、集められるだけの資料をここに収め、もって通説の上杉謙信像の甚だしき誤りなる事をここに説き、よって俗説を改むるを得るは余の至願なり」 といった全面的な俗説の否定である。
これではとても心ある者は、川中島合戦など書けなくなった。そこで明治大正期は大阪から出版された「赤本」とよぶ俗悪書だけが、 「川中島合戦」や「上杉謙信」の講談本を出したに過ぎない。さながらタブーのように扱われていたのが謙信である。 そして現在もこうした俗悪書を下敷きにした通説が、まるで正史のごとくまかり通っているのである。 特に、なまじ歴史をかじっている者達の頑迷固陋ぶりは目に余る。生兵法は大怪我のもと、というが、この者達は、記紀及び、徳川史観や皇国史観を天壌無窮のものとする史観から決別し、正しい歴史観を身に付ける努力を怠ってはなるまい。 だからここからは、通説俗説を否定した歴史的考察を展開する。
中世はヨーロッパも日本も宗教戦争だった そもそもこの川中島という土地を考えてみたい。 ここは、年寄りを食べさせてゆけぬから背負っていって棄ててくるという話の元祖の「おばすて山」というのは、川中島の激戦地の八幡野にある山のことだし、その合戦から八十年後の徳川秀忠の頃、福島正則が、監禁されていた江戸城から流罪処分にされた処刑地が川中島なのである。 徳川時代になっても、八丈島同様だったこの土地を、何故信玄と謙信は何度も取り合ったのか。 なにしろ、幕末になってさえ「田毎の月」と、そこは呼ばれ、千曲川の氾濫で平地は耕せず、山まで田畑にしていた荒地なのである。 講談では、謙信と信玄は「義のため」と称して戦ったというが、そんなことで尊い人命を何千と失いながら、繰返し双方とも血を流したという事には納得できない。 日本列島に天孫民族と称する中国大陸の人間が入ってきた時、それまで住んでいた原住民と戦い、負けた原住民は、寒冷の東北の僻地へ追い払われた歴史がある。が、追われた方はそこが沼沢地であれ、山であれ、必死に防衛しなければ生きてゆけなかった。 『和名抄』に信州埴科郡佐木郷と出ているところも、やはりそうした貧しい土地らしく、足利氏(北朝、中国大陸系)が興隆してくると、村上彦四郎義光や弟の信貞は、信濃防衛のために後醍醐帝(南朝、即ち朝鮮系)の側について戦った。 しかし、南風競わずで、村上義光やその子義隆は吉野で討死した。だが、郷里を守っていた信貞は無事で、孫の満信が、足利氏が差し向けてきた小笠原長秀の軍勢を、更科郡大塔で撃破している。そしてその孫が村上義清なのである。
【注】南北朝の争いというのは、中国大陸系勢力と朝鮮半島勢力が日本列島を舞台に、原住民を巻き込んだ代理戦争だったのである。 さて、現在でこそ神も仏もないものかといった具合に、元禄期以降は徳川綱吉の政策で神仏を混合されてしまい、「安産、七五三、交通安全」といったように生きている間は神社の領域。死後は、お寺さん、仏教のお世話になるという、世界でも珍しい分業制度で共存共栄している。しかし、戦国時代は「輪廻」という説を誰もが信じていて、仏派と神派は厳然と分かれていて、不倶戴天の仇どうしだった。 明治時代まで村上義清の城跡といわれる板城の白山神社には、大の男が五人で抱えなければならないといった大木のケヤキが残っていたというが、村上一族はずっと昔からの白山神信仰なのである。 そして「越の国」とよばれた謙信の方も、今の新潟県を昔は「白山島」と呼んでいたくらいで、今も春日山へかけては上に「白」のつく神社が多い。 つまり村上義清ら信濃の豪族と上杉謙信は同じ白山神社の氏子である。 これに対し、武田信玄は「権大僧正」の位を持つれっきとした仏門で、当時の妻は一向宗本願寺顕如上人の義姉。 そこで武田方へは一向宗の僧兵が同盟軍として加わっていた。 (この本願寺の説教僧を近隣はおろか三河や尾張にまで派遣し「甲斐のごんそじょ鬼より恐い。どどっと来たればどどっと斬る」と大いに宣伝して武田信玄を恐れさせたのは有名。
幕末これがヤクザの親分、竹井のども安が真似して「竹井のども安鬼より恐い。どどっとどもれば人を斬る」に転化されている) なにしろこの当時、ヨーロッパもキリスト教徒が十字軍を組織し、異教徒との戦いにあけくれしていたが、日本もまた宗教戦争の時代だったと見れば判りやすい。 織田信長も初めは武田を恐れて、その長子信忠に武田の姫を迎えていたほどである。 だが、信長もれっきとした神派だったから、延暦寺を焼き払い、高野山の僧侶数千人を殺戮して、天正八年(1580)に本願寺を降参させると、もう恐いものはなくなったから、武田からの嫁は離縁して、甲斐へ攻め込み、武田勝頼を滅ぼしている。 「つまり、奪っても仕方のないような川中島」を両軍が血みどろになって争った真相たるや、 「義のためでもなく、領土的野心でもなく、恋でもなくそれは信仰のせいだっ」といえる。 これが今日まで謎に包まれてきたのは、徳川五代将軍綱吉の徹底的な神徒弾圧政策のためで、のち大岡忠相が、その関係の古文書記録を強制焼却し、 出版統制令をしいたから『越後軍記』や『北越太平記』といった講談本の中でしか、川中島合戦が伝わらなかったせいなのである。