新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

真説 織田源五郎長益

2019-04-29 18:43:45 | 古代から現代史まで

 

真説 織田源五郎長益

NHK真田丸で、織田有楽は陰湿で軽薄、猜疑心の強い茶坊主として描かれている。 そして、牢人達を疑い、真田幸村と戦術面で対立する。 だが実際の彼は、淀君や秀頼の相談役ではないし、ましてや軟弱な穏健派でも平和主義者でもない。 源五郎と呼ばれていた十四、五歳の頃から、兄信長の名代として、各地に転戦を重ねていた、武将としても一流であった事を見落としている。 だから、これらは、全くの間違いで有楽の実像とはかけ離れているのも甚だしい。
さらに、毛利勝長、後藤又兵衛、明石全登、長宗我部盛親、片桐且元らの実像も違う。 作者の三谷幸喜は「僕は歴史の面白さを知り、テレビドラマの面白さを知りました」と、のたまって居るが、 歴史は正しい理論に基づいて史実となるのである。面白がっていては、そこから真実など見えてこないし、こういうトンチンカンが歴史ドラマを作るのは困りものである。この男、公共電波を使って、お上の愚民教育の片棒を担いでいることに気付いているのか。
以下は、戦国人名事典(故高柳光寿博士著)による織田有楽の略歴である。
 
 尚、史料出典は次による。『寛政譜』『茶人大系図』『桃山末分限帖』『慶長見聞録』
織田有楽、幼名を源五と云う。後に有楽と名乗り、従四位下、侍従。 尾張の織田信秀の十一男として生まれる。天正十年摂津島下郡味舌二千石を安堵される。 同年六月本能寺の変の際、明智光秀の軍が二条城を包囲したとき、彼は城中にいたが、幸運にも無事だった。 この後豊臣秀吉に従う。晩年は剃髪して有楽と号し秀吉に近侍、お伽衆となる。 慶長三年、秀吉が死ぬとその遺物金から黄金三十枚を受領した。
同年四年十二月八日、徳川家康の摂津茨木での放鷹の時、お伽衆の面々と随従する。 慶長四年五年当時、味舌一万五千石。 同五年、関が原の役には東軍に属し、敢闘する。 後に茶人となり利休高足七人の内に入る。元和元年十二月十三日死す。七十五歳。
【注】高柳博士は昭和四十六年「歴史読本」十一月号で、本能寺で信長を殺したと云われている明智光秀犯人説は疑わしい、と論評されている。    現在、光秀犯人説の史料の数多く存在する中で一つだけ光秀を犯人にしていない「織田軍記」がある。    以下の織田有楽に関しても、これを下敷きにしての考察であることを、ここに、ことわっておく。
 実際は大阪冬の陣の総大将だった有楽。
織田備後守信秀の三男が、かの有名な織田信長である。 信秀の末っ子の十一男とされているのが、織田源五郎長益で、元和二年当時は有楽を名乗っていた。そしてこの春から出府して江戸住まいをしていた。 千利休門下の<七哲>の一人に数えられ、元伯、宗旦と並んで茶の湯の大家ともてはやされていた。 そして自分も有楽流の開祖として、点前などにも新しい流儀を編み出している。 だから当時は茶匠として悠々自適の生涯を過ごしていたように思い込まれていたらしい。 江戸での住まいは数寄屋橋の堀美作屋敷の斜め前に敷地を貰い、己の邸宅を設けると、土佐町わきのこの一角を、人呼んで有楽町という。 次の鍛冶橋まで、ずつと回り道をするのが大儀ゆえ、掛板を渡し酒井右近邸の前へ出られるようにしたところ、これも便利がられて、有楽橋と名付けられ、 これが現代にも到っている。この頃は東国へ移ってから比較的平穏な生活ではあった。 しかし、門塀等に墨黒々と「裏切り有楽」「腰抜け有楽」といった張り札をされるようになった。 (昨年五月八日に落城した大阪方の残党の仕業であろう)と、そのたびに牢人取締の役向きが、小田原口の番所から駆けつけてきた。
    大阪冬の陣
この訳は、慶長十九年十月三日。 徳川家康はいよいよ大阪征伐の布令を出した。これに驚いた大阪城の実質的な城主である淀君は、織田一門で叔父に当たる織田有楽を、大阪城へ招きいれ 関東方への対抗馬にと担ぎ出し、関西側の総大将として軍配を預けたのが事の始まりである。 この戦を俗に、大阪冬の陣と呼ぶ。関が原合戦の時は西軍の総大将は毛利輝元だった。この時の有楽は東軍に加わっている。 有楽は何と言っても織田信長の弟で、格式からいってもふさわしいお方だと、大阪城から大野治長が、夥しい黄金の山を持って、使者に訪れた。
  有楽の指揮で大阪城は陥落しなかった
そして織田一門が、東西に分かれていては、前の関が原合戦の時みたいに具合が悪い。そこで松山から大和へ移っていた常真こと織田信雄も呼んで、 これを大阪城の副大将にした。軍編成としてその下に、新規に入城した、真田幸村、明石全登、毛利勝長、後藤又兵衛、長宗我部盛親を派属させた。 大野修理らの城内衆は、女鎧を纏った淀殿指揮の女武者隊と共に、これは秀頼を守護した。
この織田一門が大阪城の総大将になったのに驚いたのは家康で、今度の戦には、なまじ家名の者は信用出来ない、ということで、前の関が原で手柄のあった者でも、ことごとく江戸残留を言いつけた。 だから、福島正則や黒田長政、平野長泰といった者は、小姓を二名だけを伴っただけで、江戸城へ押し込められて、ていのいい軟禁で留守居をさせられた。
この戦で有楽の指揮で、牢人衆も善戦したが、何といっても大阪城は難攻不落の日本一の城である。どう攻め込まれても負けはしなかった。 その為攻めあぐんだ関東方は、十二月二十日に和議を申し込んだ。そこで有楽は「役目は終わった」として大阪城を出ると上洛して、洛外の建仁寺の塔頭 正伝院に入り、そこで自己流の茶席を建て、織田如庵と号して茶道に専念した。
  大阪城夏の陣で豊臣家は滅亡する
しかし、年が明けると又開戦の知らせが来て、大阪城から再度の招きが来たが、これを断った。これが大阪夏の陣。 ・・・・一年前の総大将のくせに、知らぬ顔をして、みすみす淀君と秀頼を見殺しにした、と洛中洛外に悪名が轟き渡り、挙句のはてに(徳川秀忠の室になっている姪の江与の方の手引きで、有楽が大阪城の総掘を埋めさせて、関東方に勝利を与えた)そして前もって結果が判っていたからこそ(今度は籠城せずに、京の 建仁寺に隠棲していたのだ)とさえ陰口された。
江与の方とは、徳川秀忠の御台所だが、先に尾張の佐治与九郎に嫁ぎ、のち秀吉に連れ戻されて、その養子羽柴秀勝の妻となり、その死後は九条左大臣に嫁入りし、秀吉の為に禁裏の裏工作に骨を折らされ、その後二十三歳の時に又秀吉の養女として、文禄四年伏見城で当時十七歳だった徳川秀忠に、四度目の嫁入りをさせられ、江戸へ与えるのだからと<江与の方>と改名された、淀君の末の妹である。やはり浅井長政へ嫁いだ於市御前の娘だから、織田有楽とは叔姪の間柄になっていた。
人の口に戸は立てられぬ、といっても堪りかねた有楽は今でも大名には違いなく、そこで大和の所領を、上の倅長政に芝村一万石。下の尚長には柳本一万石と等分に分け与え、自分は駿府の家康に進められるまま江戸に出て落ち着いた。 ところが丁度この時、思いがけなく頼みの綱の徳川家康が死んでしまった。
      卑怯者扱いされた晩年の有楽
考えれば、裏切り呼ばわりされたり、腰抜けと嘲られのは何も今に始まったことでもない。 兄信長と、その嫡男信忠が不慮の死を遂げ、一年と経たぬ内に秀吉は、岐阜城に移っていた信忠の弟、三七信孝と仲違いしてこれを攻めた。 そして助力した柴田勝家や滝川将監を討ってから、信孝の異母兄に当たる織田三介信雄をやって、信孝を尾州野間で殺させたが、その時も有楽は仲介に入らず、甥を見殺しにしたからと、「虜外者」と、冷ややかに取り沙汰された。
その翌年の天正十二年四月。今度は、織田信雄と秀吉が手を切って、徳川家康がこれを後押しして、小牧長久手の合戦が尾張であった。 その時も折角参陣して、信雄に味方したのに、ろくに戦をせぬからと、 (あれでも二年前に亡くなられた天下様の実の弟なのか、織田信長様もとんだ不所存者の、げてな弟殿を残されたものよ) と、散々に、嘲笑されたものである。陰口とは嫌なものである。そこで耐えられなくなって頭を丸め、織田長益から有楽と、小田原陣の後からは、とうとう改名もした。十五年たって、次に関が原役が起きた。
岐阜城の跡目を継いだ、嫡男信忠の忘れ形見の三法師が、織田秀信と成人し、西軍に加担した。だが利あらず敗れて、福島正則に捕らえられ、芋洗里に移された。そして剃髪させられ高野山へ追われ、後顧の憂いのないようにと、家康の手の者に二十一歳で殺されてしまった。 ここにはっきりと織田の正統は断絶した。すると、 「命惜しさに、己は東軍に加担して、日和見してござつたとは、まこと卑怯未練な。よくもまあおめおめと生き恥をさらされる」と、 酷評され、まるで人でなしのようにさえ、有楽は爪はじきされた。 いまや織田一門や譜代の者で、生き残れたのはなんといっても有楽一人になってしまったのである。
全ては偉大な兄である織田信長が、突然、本能寺で爆殺されたことに起因するとはいえ、有楽も、数奇な運命を辿った一人と言えよう。 だから晩年は、凄まじい権力闘争に嫌気が差し、その渦中を離れ、虚無的な人生を送る道を選んだのであろう。 「臆病、腰抜け」と永遠の汚名を背負ったため、歴史家に認められない哀れな男、織田有楽へのこれは挽歌であり、 「有楽」「有楽町」と口にするとき、人間それ自体がいかに虚しい存在であるかの証でもあろう。
 
 

大江戸四方山話 身振り手振りの語源

2019-04-29 10:06:35 | 古代から現代史まで

   大江戸四方山話             

 
       手ぶり
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  現代、この言葉は「大袈裟な身振り手振りで話す」等と使われている。だが江戸時代は「棒てぶり」の名前で、江戸日本橋に在ったアマダナと呼ばれ繁盛していた商売で、魚を売り歩く者たちのことを言った。  又、旅人が川を渡るとき、蓮台や肩に乗せて運ぶ者たちを川越人足と呼んだが、彼らのことを「肩てぶり」といった。  そして川の渡守を小舟を長い竹竿で操るから「竿てぶり」と呼んだ。
 
江戸享保年間に、映画やテレビでお馴染みの大岡忠相(越前守)が五街道目付を新設するにあたって、食い扶持、即ち  今で言う給料を払わなくて済む方策として「祇」を信仰する、日本原住民系の内の海洋渡来民族の、流れ職人や旅芸人を堂(道)の者として目付にし、 幕府公認であることの目印に朱鞘の大刀と逮捕、捕縛、処刑の特権をを与えたのである。    (この者たちに幕府は扶持は出さない代わりに博打の権利を与えたのである。そして次第に彼らが日本各地に定住するようになり  博打のてら銭で、西部劇の補助シェリフにも当たる捕り方や子方を養い、やがて日本全国を勝手に区割りして縄張りと称し親分子分の  関係を築きこれがヤクザの源流となる。
 
現在ヤクザを一括して暴力団として排斥しているが、昭和の50年代までヤクザはタカマチで物を売る  テキヤと博打を打つ博徒は厳然と分かれていたし、博打のテラ銭は昔から一割と決まっていた。日本政府は博打のテラ銭ほしさに彼らから  賭博の権利を奪ったので、ヤクザは止む無く様々な裏稼業に手を染めざるを得なくなったのである。そしてお上が開帳する競馬のテラ銭たるや  二割五分もとっているのは周知の事実で、全くヤクザより阿漕なのが現在のお上である。近頃は全国にカジノを作り、国民から更に銭を巻き上げようとしているのだから、全く残酷な話しである)さて、この時代日本各地では凶作で、別所、院内、院地、山所と呼び名は様々あるが現代ではという、被差別の原住民の囲い地から「江戸へ行けば 何とかなるだろう」とこの限定囲い地から次々と抜け出し、西は名古屋、大阪、東は江戸と続々と流入した。
 
この時代から何の産業もない江戸が130万という世界一の人口になったのもこれが原因なのである。  この囲い地を抜け出した部族も、街道目付の部族も同じ「祇」を信仰する同族だったため伝達をつけからの脱出は容易だったらしい。しかし無事に脱出して江戸へ来たものの、そうやすやすと仕事(職)はない。そこで江戸でも同信心で弾佐衛門配下の日本橋アマダナで魚を売るため 天秤棒を借りて江戸町内を売り歩いた。  講談や映画で有名な大久保彦左衛門の腰巾着のような一心太助はベランメイ調でベラベラしゃべっているが、あれはあくまでもフィクションである。日本は往古より六十余州というくらいで、その地方独特の言葉があり、これは現代でも青森と鹿児島ではまるで言葉が通じない。  だから当時でも江戸へ北から南から流入した脱出人間は江戸言葉が上手く使えず、言葉に難儀したらしい。 そこで客に呼び止められ「今日の魚は何があるんだい?」等と聞かれると、天秤棒を下ろし、身振り手振りで魚を売ったのが語源なのである。 ヨーロッパも多くの国が国境を接していて言語もバラバラな所は、意思疎通も大変だから、身振り手振りの大袈裟な所作で会話をするのと同じことである。
 
 
 戦国時代後期の信長、秀吉時代、彼らの出身地である尾張弁が公用語だったから、「ここにきゃーたる」「そうだなきゃも」等の言葉に面食らわされ  地方の大名は慣れるのに随分苦労したらしい。  関が原で多くの大名が徳川に付いたのも、仏教系の三成を初めとする西国大名と、祇や白山(神信心)を奉じる徳川のいわば宗教闘争の側面は正しいが、再度豊臣の天下なればこの尾張弁に又悩まされるのはかなわんと、徳川を勝たせたという大名心理も 大いに関係があるのである。江戸時代、馬で人や物を運ぶ商売は騎馬民族系の末裔で、駕を担いだり大八車で荷物を運ぶ方は、太古飛鳥人と呼ばれた古代海人族の  限定職業で厳しく決まっていた。
 
そして騎馬民族系(源氏)の民族色は白で海洋渡来古代海人族(平氏)は赤とこれもまた決まっていた。  大井川などで蓮台や肩に乗せ人を運んでいた者たちは赤ふんどし、一方街道で雲助とも呼ばれた馬方や荷物運びの人足は白ふんどしで はっきり見分けが付いた。さて、こうした資本や、たいした技術のいらない仕事に各地のを抜け出して就労したが、言葉が上手く通じないため、やはり身振り手振りで話したらしく 苦労したらしい。
 
 今でこそ学校教育で標準語が定まっている。だが江戸時代はそうは行かず、関東のイは中部地方ではシになり、関西ではアとなる。  例として関東の「いかん、いけない」が関西では「あかん、あきしまへん」となる如く。津軽弁と越後弁は同種同族だから、似通った言葉で通じるが、九州となると古代朝鮮新羅系人間が多く住む北部と、 古代朝鮮高麗系人間が多い薩摩ではやはり身振り手振りを入れなければ会話が出来ない。
 
前述したように、人種が入り交じり、国境が錯綜している欧米人が会話の合間に大袈裟なジェスチャーを挟むのもやはり同じことである。  つまり日本原住民を差別し、限定居住地に押し込めていた日本では、この手振りが会話の中で幅を利かすようになったのは、  徳川八代将軍吉宗の時代に日本各地のから大挙して着の身着のままの人間が都市に溢れ出した為である。
      手 妻
奇術の中に「和風奇術」という分野がある。 現在の説では、水芸や南京玉すだれやの手品をなす芸人を手妻使いといったとなっている。これは江戸期近松門左衛門の<三国志>の中の「さらば拙者が手妻を御覧に入れん」という口上からである。 十返舎一九の<東海道中膝栗毛>の中にも、「ありぁ釜七という有名な手妻使いじゃねえか」と出てくるから、これは徳川綱吉以降の用語らい。 というのは、先住民族である日本原住民の女は奴隷とされ、大陸勢力の豪い様は、妻を連れて進駐してきた訳ではないから、単身赴任の彼らに強制的に召し上げられていた。さらに奴隷化された男といえば、生涯嫁とりは出来なかったから、先住民を「セン」として、これが「センズリ」の語源ともなっている、誠に哀しい言葉なのである。
 
処が、若い間は自分の事は自分で済ましても、次第に自分でしては済まされないようになった時。つまり男は、歳をとると中々勃起はしない。しかし、哀しいかな男の性(さが)でそうした要求は無くなりはしない。こうした男達の要求を満たすため、代行してくれる器用なのが出てた。
昭和初期まで浅草や大阪通天閣にも「かきや」とよぶ商売人が居たもので、これは文字を書く代書屋とは違って、他人の一物を舌等を使い、巧く操って用をたたせて銭を取っていたという。 奴隷制が小作百姓とか水呑み百姓の名称で続いた江戸時代までは、手を人間の妻の代わりにする手妻使いが居たというのが、真実なのである。
つまり、シュツシュツと水が噴出す有様が男の射精に似ていたり、ぐんにゃりして頭を垂れている玉すだれが、突如として勃起する如く立つ有様が似ているので、手妻を連想してそうした呼称が始まったものなのである。 だから、私達日本原住民のご先祖様たちの、悲しくも憐れな話なのである。井原西鶴の「俗つれづれ」に、魚釣りの説明のくだりで、「手妻のききし人は、間もおかず次々と数多く釣りける」と、やはり水から魚が跳ねつつ飛沫をあげて釣り上げる情景を説明している。
処が、手妻の本当の意味を隠さなければ、昔の施政者の残酷な原住民差別が解ってしまう。 これでは具合が悪いと、歴史屋共が「手品」「手先の仕事」だと意味を変え、国語学者も同調して辞典もこうなっている。 日曜大工とか、指物師という家具職人なら、それでも当てはまるだろうが、魚釣りは手先の器用さや不器用で数多く釣れるものではない。 これは常識で判りきった事なので、嘘だと理解できるだろう。
 

信長は女も男も平等に殺した 織田信長はホモだった

2019-04-28 18:32:32 | 古代から現代史まで
     武家女性史
  織田信長はホモだった                        
 
 
     信長は女も男も平等に殺した
 
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今でも織田信長に非常に人気があるのは、罰するにしても男女を同等に扱ったからである。 というと、いささか不思議に思われるかも知れないが、通俗歴史家が、 戦国時代の女はとても哀れだった、などと書くから勘違いされるのであって、今とは全く男女の価値観が根本的に当時は違っていたのである。
ということは、その時代の女性たるや今では想像もつかぬくらい強かったのである。 なのに信長は遠慮容赦なく女を差別せずに叩き斬ったりして処分している点が、当時も高く買われて男供に好かれていたらしい。 竹生島へ行った時に無断で抜け出した腰元の女が連れ立って 寺詣りに行ったというだけで、六人ともぶち殺し、神徒側男性の立場を明確にしている。
つまり斬殺でなく撲殺させているぐらい露骨に示している。 勿論人的資源が大切な戦国時代のことゆえ、やむなく前に子を産んだ女達に次々と産ませた子供が十何人いるが、これとて彼としては、いうなれば武将としてやむなく作ったみたいなものである。なにしろ、
「傾城」という言葉があるが、信長は伊丹の荒木村重の小姓で絶世の美少年がいたのであるが、この美少年を一目見て取り上げてしまった為に、摂津、尼崎、伊丹花隅の四つの城を文字通り城を傾け抵抗して村重は戦ったのである。
   戦国美少年の嘘
 
さて日本の美少年であるが......... 先ず天草四郎だが、原城落城後、四郎の首級が三十個も出てきて、その中から細川家の陣左衛門の取った首級が本物と認定されたと伝わるが、三十個も似たりよったりの首が在ったのでは、類い希な美童とはいぬ。
また俗に美少年と言えば森乱丸の名前が出てくるけれども、彼の兄は鬼武蔵という異名があった程で、そんな男の弟に絶世の美少年が生まれる筈はなく間違っている。
『当代記』『信長記』といった史料に、はっきり名前の出てくるのは伊丹の万見仙千代だけで、日本で唯一の美少年だったが、その時にも織田信長は京三条の河原で荒木村重の家臣の妻女や娘達を三百五十人纏めて竹矢来の籠に入れ、当時はガソリンの無い時代であるから、周りに乾芝や薪を積み重ね火を付けて焼いてしまっている。
「村重が男色に走ったのは、女達にてんで可愛気がないからである」と、尼崎の千本松でついで見つけ出した百六十八人の女達は、雪中で張り付け柱にかけて、一人残らず刺殺している。
     
 
         人質は何故女なのか
 
また戦国時代は人質といえば決まって奥方や姫御前に決まっていたが、だからといえまさか交戦中に相手方へ「男子を人質に取ったのでは戦闘用員が減ってお困りでしょうから、女の方で結構です」等と言う訳はない。 これはおかしいし常識で考えてみるべきである。
質というのは、値打ちのある方を比べて取るものなのである。だからその頃は今日とは違い男女同権ではなく、遥かに女性の方が人間的価値が高かったようである。でないと話の辻褄が合わない。 戦は真剣なもの故、女性の位置が低くければ人質に取りはしない。
女というとすぐ性的なことしか考えぬような人が多いので、さぞかし美しい奥方や姫君に目を付け人質にとって、言うことを聞かぬと怒って張付けにかけて殺し腹いせにしたのだろう、哀れな事ではないかといったように、誤伝されている故判らなくなっているようだ。
徳川四天王の一人で本多平八郎という人が、その生前に書きとめておいた物が見つかって今は国書刊行会の<松のさかえ>の中の一章に「本多平八郎聞書」として入っている。だから活字でも読めるが、その中にはっきりと、
「わしがまだ若かった頃は、戦国時代の名残が濃く、女が強かったのは当今の男共と比べようもない。何しろ女の顔で優しげに見える眉はすり落として、炭やたどんで太く描き眉を恐ろしげにつけ、口の中へは、びんろうじゅの実を放りこんで噛み、まるで人を喰ったように赤黒く歯を染めて敵を脅し刃物を持って、男勝りの働きをしたものだ」と書き残している。
江戸期の武家の女房が皆眉をすり落としていたのは、一旦緩急あった際に、すぐ眉が太く恐く描ける為であったし、また「お歯黒」と呼んで口中を黒く染めていたのもその名残りなのであろう。 (注) 以前、黒沢明監督の映画で、当時大女優の京マチ子は眉をすり、お歯黒で出演していたものである。当時は時代考証がしっかりしていたが、現在ではタレントに気兼ねしてか、町屋の女房も武家の女房も一緒くたにしている。 原作が悪いのか、脚本なのか知れぬが、こういうのを”手ヌキ”というのだろう。
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つまり歴史家が何と言おうと、その頃に生きていた本多平八郎が書き残していったのが掛値無しの間違いない武家女性史であるといえる。
が、どうしてそんなに女が強かったのかといえば、先ず言える事は、騎馬民族系やそれ以前に日本へ移住してきた天の朝の残党が、藤原体制に追われて山中へ隠れ住んだ俘囚の裔が武士の本源ゆえ、アマから転じて、「あまッ」「あまっちょ」と呼ばれるように、女尊男卑型のシャクテイ思想が、おシラ信仰と一つになって、
「女なくては夜の明けぬ国」といった風習になっていたものらしい。 それと、まだまだ食糧不足の頃だし、それに騎馬民族系は農耕をしない人種である。 だから入手した穀物や食料は貴重品ゆえ、女が厳重に保管していて男は近づけなかった。今のようにエプロン亭主や、食事の後片付けなと゛男はするものではなく、又したくても用心し、させられなかった。なにしろ戦前までは、 「....男は台所へなど絶対に近づくものではありませんよ」とか、 「男が廚(勝手、台所)へ入って、物探しをするとは何ですか」と、
私も幼少の頃に、祖母からよく叱りつけられたものだが、 それを「聖人は包丁を遠ざける」といった論語からきた道徳観だと思っていたが、 そうではなくて、台所とか食物の保管所は女の場として、男子禁制の「御台所」とか女の神聖な場所とされていた名残であったらしい。
つまり武家の奥方をば崇め奉って敬称として 「北の方」と呼び、恐れられていたのも、冷蔵庫の無かった昔は南や西には置けぬゆえ、北とは食物を保管して置いて有る女の場で、そこを管理するのが、北の御方さまで奥方であったからである。
豪かったのは飢えの時代に、食物を仕切って押さえていた事にこれは起因している。 なにしろ「フロイス日本史」によれば、荷物を妻のために持つ夫に呆れて、「日本へ来て驚いたことは従者かと思ったら夫である」と、魔女狩りの死刑執行人を向こうでは勤めてきたバスク人のイゼズス派の彼らを驚かし、
「城の一切を押さえるだけでなく里方より銀を廻して貰って城や領地の収穫まで取り上げたり、前取りしてしまう北の方も多く、煩わしい事は夫を表面に立て戦とか厄介なことをさせ、実質的に城を確保している者や、女で城主になっている者も多い」と、本国へのレポートへ書き送っている。 しかし、と言って美女は当時の日本には滅多に見られなかったそうである。
死せる子は眉目(みめ)よかりき、等と言うが、どうも故人となった女は、死者への礼でもあろうか誰もがみな美人扱いされてしまう傾向が日本には古来からある。
しかし本当の美女はそうざらには居なかったらしい。が、誰もが異存なく美人と指摘するのはやはり於市の方であろう。
父の織田信秀は勝幡の小城から、尾張八郡を平定するようになる迄、普通では兵も馬も集まらぬから、 「平手の庄の政秀には年頃の娘が居る.....」と聞けばその娘に後の三郎信長を産ませ、「阿古井の豪族土田久安に妙齢な女子」と耳にすれば、それに後の四郎信行を作らせるように、一夫一婦の時代でなかったからその生涯に男子は一郎信常から十一郎長益(織田有楽)まで、女子も於市の他に八人をそれぞれ尾張の豪族の娘達に産ませている。
      信長の妹、於市は美人だった
そしてそれらの親兄弟を味方にして、今で言えば同族会社のようなやり方で、尾張一国を掌握し得たのである。だから信長と於市は異母兄弟の間柄に当たる。 さて、信長は美少年万見仙千代を奪うため、摂津の荒木村重と戦ったような男色のホモ型だが、戦国時代ゆえ人的資源の必要上、生駒将監の後家娘に信忠、信雄を産ませたり、神戸の板御前と呼ぶ未亡人に信孝らを作らせているが、極めて女嫌いで女性には酷かった。
それが於市だけは可愛がり浅井長政へ嫁入りさせる時も、前に居た長政の女はそっくり追放させ、先に当人をとっくり確かめてから信長は己の長の名乗りを与え縁づけている。 信長が他の異母妹には無頓着で、於市一人だけを溺愛したのは、やはり彼女が美少年型の絶世の美女だったからによるのだろう。 この於市に三人の娘が生まれた。長女は「やや」と呼ばれた茶々で後の淀君である。
この人を於市の娘ゆえ美女と誤る向きもあるが、秀吉が彼女を近づけたのは二十二歳になってからの話しゆえ、それまでは放って置かれたという事実は、淀君が美女でなく、あまり男の気をそそる容貌ではなかった事になる。
『当代記』『大阪御陣記』によれば、「騎馬女中三十人ばかりいつも引き連れ、緋威しの大鎧をつけ七寸(ななき)の馬にめされ」と出ているのを見ると、母親似ではなく、
父浅井長政生き写しの骨太な大女であったろうと推理される。次女の京極高次夫人になった常高院は 「細身ながら気性烈しく」と残っているが、まあ十人並だったろう。 処が三女の「ごう」と呼ばれたのは、これは母於市をさえしのぐ抜群の美人だったらしい。
「栴檀は双葉より芳し」というが、十二歳の時すでに母方の尾張大野の佐治与九郎に求められて人形のように嫁ぎ、翌年は連れ戻されて秀吉の養子だった信長の四男於次丸秀勝にめあわされ、十六歳になった時、秀吉がその秀勝を殺して己の甥の秀次の弟小吉に同名を継がせたが、帝位を狙った秀吉の道具として彼女は左大臣九条道房の許へやられ、やがて取り戻され、 「江戸へ与えるのだから、江与と改名せい」と徳川秀忠の許へ又嫁入りさせられる。 まあ、余程の美女でなくては、こうたらい廻しさせられるものではい。 あまり知られていないが美しかったらしく、この為春日局から苛められるようになる。
江与は秀忠との間に、後の駿河大納言忠長を産み、彼を三代将軍にしようとするが 春日局と家康の間に生まれたとされる家光が三代将軍となり、忠長は殺される。これによって織田家の血脈は絶たれ、家光以降の徳川家は神徒系から仏教系に代わり、ここに混沌の徳川史観が続くことになる。
 
 

白村江で負けたのは百済 多武峰(とうのみね)の歴史

2019-04-26 12:14:32 | 古代から現代史まで

白村江で負けたのは百済

多武峰(とうのみね)の歴史

 平安京になってからも現在の京都は、表面では京は、大陸勢力の四十六坊の寺の多い仏教の都だった。 が、それなら藤原氏は何処に実力を蓄えて当時の日本を、武力で支配していたかという謎が今まで隠されているが、誰も解明していない。 だがそれは大和の多武峰と思われる。さて、その前に、  「日本の歴史家と称する者で、これまでで誰一人として『歴史の解明』を志した者はいない」と、史学の泰斗の久米邦武がみずから〈日本歴史資史料集大成〉の〈日本幅員(列島)の沿革〉の初めに述べている。 ですからでしょうか、その論文のしめくくりの終りの個所に○○をつけて、「義によって百済を助けんとして援兵をだしたものの、白村江の氏礼城の戦いに敗けて兵をひきあげ、百済の臣民をわが内地に移して扶助、 九州の筑紫の防禦に力を尽し、唐には使を遣り旧好を修められしに、唐もまたあえて犯さず、全く無事に結びたり」としているのが、それでもあります。

 その西暦六六三年は日本列島では、古代クダラ語で「国」を意味するナラ朝の時代。つまりクダラ人が日本列島のオーナーだった頃ゆえ、さながらチャンバラものみたいに、 「義によって助け太刀いたす」と日本国が出かけたようになっている。しかしこれは大きな間違いである。 先日もテレビの解説で、ジャーナリストの桜井よしこ氏が、同じことを言っていた。 私は日本の女性論客の中で、桜井氏と中林美恵子氏は大いに評価しているが、彼女ほどの才媛で碩学といえども「日本書紀」と「古事記」を信じ、その呪縛から脱し切れていないのである。 先ず、当時の日本列島に、大唐国を相手に、他国を軍事援助出来たような強国が成立していたという認識が間違いなのである。 白村江で敗戦したのは朝鮮半島の百済で、母国救援に奈良人は吾々庶民の先祖を防人に召集して出かけただけの話。 だから、前線指揮官は百済人だったろうが、強制徴兵された、二万七千人とも三万人とも謂われる日本原住民が、勇敢に戦うはずはない。 また敗戦して、すぐ引きあげて来られる筈はありません。武装解除され抑留ということになる。当時のことゆえ奴隷に売られてしまっていて、まともには、出かけた壮丁のシコの民達は、 異国の朝鮮半島に拘束されてしまったのが真実。

 なのにクダラの臣民まで、どうして日本へ移送できるような、巨力な艦隊があったり、21世紀末の現代でさえ福祉のよろしくない日本が、そんな扶助行為などを、はたしてしたものでしょうか。  実際はナラ王朝時代、つまりクダラの都だったのですから、男がいなくなった老幼婦女が、あるだけの物をやむなく牛車に積んで疎開して行っただけの話でして、扶助したのは当時の牛であります。  つまり韓国より内地へ移したのではなく、内地の都から安全な土地へ疎開という事態になっただけです。それに九州の筑紫とありますが、最近重要文化財に指定された金田城を始め高安城その他数多くの築城にしても、それを築く命令を誰がしたと言うのでしょう。  自村江で大勝をし、余威をかって九州へ進駐し、無人の王宮へ翌年五月十七日に姿を現わした唐の劉将軍や郭将軍は、対馬、壱岐に信号用のノロシ台を作らせ、 築紫には上陸用舟艇をつける水城を構築させて来ていたのですが、原住民のゲリラの蜂起を心配してか、翌六六五年八月には答体春初に長門の今の下関にも築城させ、 四比福夫らには築紫の大野城、椽城の二つを築城させるに際し、郭将軍は諸国といっても日本国内ですが、城の積石の供出搬出の命令をだしているのです。 まさか唐の将軍が、唐軍を防ぐ城などを己が部将に命じて築かせる訳はないでしょう。

「大唐郭務淙ラ、二千余人ヲ我ニ送ル」の意味

そのまた翌年二月二十五日に百済帰化人男女四百余人を近江神前郡へ移すとあります。こうなると帰化人とは郭将軍らへ帰順帰化の意味ということになる。  というのも同年九月二十三日には、司馬法聡、令上柱国、劉徳高といった施政官までが大挙してきて十一月十三日に戦勝大パーティーが催されているからである。 そして翌々年になりますと、劉将軍の金田城など大掛りなものが構築されたのであります。

さて西暦六六九年には、「是歳、大唐は郭務淙ラ二千余人ヲ我ニ送ル」と、日本書紀にはでています。 もし自村江の戦いに負けたにしても日本には強力な国があって、進駐してきた唐軍を降参させてしまい、彼らに築城工事を次々とさせて頑強に防備をかためてしまったので、 もはや大唐国も、よって諦めて匙をなげて、「郭将軍らみたいな連中は放ってしまえ」と、我に送ったというのが、今の日本の歴史の解釈であります。  しかし贈ると送るとでは発音は日本では同じですが、まるで意味が違います。 これはどうみても、「送りこむ」とみねばなりません。百済人は向こうで捕虜にされている者らを戻して欲しいし、王宮も占領されているので皆が帰順帰化したようですが、 新羅系や高麗系はその当時はまだ抵抗をしたのでしょう。  翌六七〇年に高安城に塩や食糧を積みこんだり、また今の下関や九州に二城を新しく構築し食糧や塩を積みこんだのも、唐本国は二千余の援軍を送ってよこしたきりで、 以降は自給自足せよとの通達だったから、被征服民がもし叛乱をどんどんしだしたら、籠城でもするしかないから、そのための用意だったとみるべき。  つまり西暦六六九年の時点での「我ニ送ル」の我は、もう我は昔の我ならずであったのでしょう。

多武峰に居たのは唐の武装軍団

 それを学校歴史では、「高安城などを築いて防備したゆえ、唐軍は攻略不能とみて撤収した」としますが、防禦なら穀物や塩の他に武器を多量に積みこまねば、話の筋が通りませんし、 唐軍のことを「我」とする日本書紀もこうなれば、大陸系の人によって書かれた事が明白な証拠になるのです。 「唐に使をやり旧好をあたたむ」とあるのも、やはりどうにも変てこです。日本へきている弁髪の人が、故国の友人へ使いをだしたのでなくては、まったく意味が通じません。 しかし、これが学校教育の盲点でありますからして、〈日本歴史資史料集大成〉の原文に頼るしか仕方かありません。  ですからして久米幹文が、やはり「藤原氏論」において「基経大臣が陽成帝は御失徳おわしますとて、御位をおろし奉り己が縁故する処の藤系の光孝帝に取り換えてより、 藤氏と王室の間ますます密となり、より盛んにして、天下になびかざるものなし」として、従来は親王とか諸王宮が大臣摂政となって王政をとっていたのが、 この時から藤原氏がすべて独占のようになった……といいます。

 しかし、もっと前から王政を独占していなくては、清和帝を早く退位させ、その御子の僅か十歳の陽成さまを人皇57代にたて、僅か17歳になられた時に、御失徳おわしますなどと勝手なことをいって、 さっさと廃立などできるものでしょうか。常識で考えてみても直ぐ判りうる事であります。  白村江の戦いの後は藤原氏がすべてを押さえていて、着せかえ人形の首でもすげ換えるよう、帝位をほしい儘にしていたのですから、宇多帝が菅原道真を登用されても何年も保だなかったのです。  それゆえ〈日本歴史資史料集大成〉の535頁にある明治史学会雑誌第十号掲載の「多武峰告文使の事」に、 「昔は朝廷に何か変事があれば、藤原鎌足の木像が破裂する事ありて、勅使を派遣して祀られる慣習があったのは、初めは鎌足を摂津阿成山に葬ったのであるが、 定慧が唐よりきて大和多武峰に改葬。肖像をまつり後世になって国家にまさに変事あらんとすれば、その像が破壊すと言われ、時の朝廷はすぐさま勅使を急ぎ送って謝ったものである」となし、 これは〈談峯記〉にでています。  本来なら変事があったら、伊勢神宮へでもすぐに勅使をだして謝るべきなのに、何故に大和の多武峰へ御所から飛んで行ったのかといえば、大化改新のフィクサーで後の天武帝からの、 大陸王朝ともいえる処の基礎をひらいた豪い御先祖さまだからであると言ってしまえばそれまでですが、「坊」といっても今の意味で言えば「防」とよばれる武装隊がここに陣取っていて、 「坊主」とよぶ大将の率いる進駐軍がそこにいたから、それで朝廷では怖れておられたのではあるまいかと想えます。

 楠木正成の若い頃、ここへ攻めこんだら、青竜刀や戈をもち鉄具の道具をもった軍勢が居て、びっくりしたという話すら残っている程であります。 が、なにしろ後冷泉院の永承元年正月に、大内記で作らせた上告文をもって、祈謝の使者としてから、何か事あるたびに多武峰へは行っているのです。  ただ詫びに行っだのではなく変事がありそうな時には、多武峰の「匿し軍団」の来援を前もって京から迎えに行っていたのではないでしょうか。  と中しますのも、その538頁の終りの方に、多武峰より、時の関白殿下への進物としての内訳が、 「布千疋」とあるからです。なにしろ綿の木は中国大陸から藤原時代に仏教の宣教用にと輸入され、栽培も監理されていましたから、僧侶の他に武装兵らが勢揃いし、 相当の勢力が多武峰にはいて、日本原住民を捕えてきては使役に用い、たちに綿の実をつませ紡がせ織らせていた模様です。

 

ウイキペディアには次のように書かれている。 多武峰(とうのみね)は奈良県桜井市南部にある山、および、その一帯にあった寺院のこと。 飛鳥時代に道教を信奉していた斉明天皇が、『日本書紀』に、「多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いて両槻宮(ふたつきのみや)とした」とある。 『日本三代実録』に、858年(天安2年)「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」と記されている。平安時代中頃の成立と見られる『多武峯略記』に、 「最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市大織冠神社、阿武山古墳か)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。 日本史では隠しこまれているが、多武蜂は音読みでは「たぶほう」だが前記したように、ここには「唐からの人間が居た小山」であり、唐から来た武装勢力が多く居たという証拠でもある。

 

 

 

 


真説 上杉謙信物語

2019-04-20 15:13:20 | 古代から現代史まで

 

 真説上杉謙信物語 

 戦国時代越後には、磯部には上田長尾、古志郡栖吉の長尾、鍛冶で名高い三条の三条長尾が居た。 そして栖吉の長尾於虎御前と三条の長尾為景の間に五人の子が居て、 長男  長尾晴景、 二男長尾景房、 三男長尾景康、 長女長尾阿亀、 次女長尾阿虎となっていた。

この中の次女である長尾阿虎が、後の上杉謙信となる。ここでは呼称を「長尾阿虎」として進める。

さて、正確な名前は、前記したように長尾政景に嫁いだ姉が阿亀で、阿虎は生涯独身を通した。 母がやはり於虎の方といい、祖母は大虎御前というが、この大虎は、「今板額」と呼ばれるくらい豪力な女性で、当時の日本馬は矮小だったせいもあるだろうが、大鎧を着けて出陣したときなどは、「米山さんから雲が出た」の俗謡で有名な峠を担ぎ降りたという話さえもある。

 (注)板額とは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての女性武将の名。 この長尾家は母系家族の家柄で、長尾為景の妻となった母の於虎も、やはり夫を助け出陣し、天文五年四月の、今は直江津市に入っている夷守郷三分一原合戦では、春日山のある府中を守るために戦っている。 またその夫の死後の天文十一年三月十三日に、家臣の黒田和泉守が謀叛したおり、長男の晴景が不意のことゆえ頸城へ逃げた後、城内に乱入した反乱軍によって、次男平蔵景康、三男左平次景房らの男児はこれことごとく討ち取られたが、「女児には指一本なりとふれさせぬぞ」と、於虎の方は、姉妹の阿亀と次の阿虎だけは守り通した。

やがて反乱は治まったが、長男晴景がのち病弱のため、春日山城主としてとても無理とみてとると、今の新潟県長尾市にあった城から 阿虎を迎え入れてこれを春日山城の女城主となした。 母の於虎の目からすれば末女の阿虎の方が女丈夫であったから立てたものらしいが、姉の阿亀がこれでは承知をせず駄々をこね、ずっと城に残っていたもようである。この女人のことは、「北越軍記」という講釈本では西暦1528年生まれとしてあるから、上杉家の長尾系図では、それを採用しているが、その系図で没年を逆算していくと、四年違って上田板戸城の長尾政景の許へやっと縁付づいたのは二十八歳となる。 現在と違って十四、五歳が嫁入りの適齢期だった時代としては、大変な晩婚である。

いかに戦国時代は女城主が多かったか これは上杉景勝の母として「仙洞院」の名で今も伝わっている阿亀が、妹が女城主になったのにつむじをまげて居座っていた例証にもなる。 さて徳川時代になってからは、大名の取り潰しを図るために、今日のような男子相続制に限られてしまったが、戦国時代は女大名は沢山居て珍しいことではなかった。美濃岩村城など織田信長の伯母の尾張御前という女人が城主だったが、信長に対していつも陣頭に立って抗戦したから、しまいに信長も腹を据えかね捕虜にして岐阜城へつれてくると、自分で打ち首にしたと「当代記」にでているし、秀吉時代も「伏見城普請割当帖」などでみると、「池田せん三万石」を筆頭に女大名の数は多い。有名なのは九州の立花道雪の一人娘。これは三歳年下の宗茂を養子に迎えるまで、女大名として竜造寺勢と幾度も戦い武名を上げている。

のち関が原合戦の時でさえ、加藤清正が攻めにはいったが、彼女が前線に頑張っていると聞くと逃げてしまったくらいである。     何しろ戦国期の女は凄まじかった。 竜造寺の寧子も凄まじい猛女だったが、大友宗麟の母や妻は、男を丸裸にして竹筒を男の一物に嵌めて折らせて愉しんだといわれている程である。 だから大友宗麟の老臣立花道雪の娘げんのごときも、日本最初の女鉄砲隊を編成し、 「はな(最初)は立花の娘軍」とか「はなは立花、チャの香り・・・」と言われる程九州の山野に活躍したものである。

 いまはお茶の茶摘唄に転化しているが、チャーとはポルトガル語で硝煙の事で、最初の戦端を開く立花げんの鉄砲隊が撃ちまくる硝煙の臭いで、戦闘は始まる、という意味なのである。 が、後に年下の婿の立花宗茂を迎えたげんは、夫に良く尽くしたので悪女ではなかったらしい。 しかし大友の姑や嫁はめちゃくちゃで、直接裸にされ吊り殺しにされた男は十余名というが、 そのために起きた「耳川合戦」で死傷した男女は一万の余にものぼると、これはローマ法王庁のイゼズス派の記録にも残されている。 二十一世紀はモノ・セックスの時代となって、男が女性化し、女が男性化するといわれているが、歴史は繰り返すというか、十六世紀、つまり戦国時代というのは、男も女もなく、ただ強いのが実力者だったのである。 この「阿虎」は父の為景の後を継ぐと、「景虎」と呼称し、そして足利義輝の母や妻と、女同士で仲がよかったので、義輝の一字をもらって「輝虎」とも名乗りをつけていた。そして鎌倉八幡の北条政子の廟所へ詣った時からは、先輩の彼女にあやかろうというつもりか「政虎」とつけている。 武田信玄が生前は「晴信」と呼んでいたように、彼女も内輪では「阿虎」さんだったが、公式には「景」や「輝」「政」の字を上につけていたのが本当。 しかし、死後の名の「上杉謙信」が頼山陽によって一般化してしまって現在はこれが定着している。

ただ一騎で武田信玄を襲った荒川伊豆守 さて、混戦中の川中島合戦の際、僅か一騎がけで武田の十二段構えの陣中を突破し、武田信玄の本陣へ斬り込み、信玄に手傷を負わせたのが、謙信の家臣荒川伊豆守である。外国でも女性が権力者の時、英国エリザベス一世女帝の時のトラファルガー海戦のネルソン提督然り。ワーテルロー大会戦の時のウェリントンがいて、またロシアでもエカテリーナ女帝の時、群雄が競って戦場で覇を称えた記録がある。 男というのは、とかく女人に良いところを見せたがるものだから、上杉家の武者共が強くて、荒川伊豆守のように単身で信玄の許へ突き込むような大胆なことをしたのも、そのせいかも知れない。 なお武田軍に主眼を置いた「甲陽軍鑑」では、信玄に二度までも斬りつけ、一騎打ちをしたのは、謙信その人であると作ってあるが、「上杉年譜」では、この荒川伊豆守となっている。常識で考えても、負け戦になって一挙に退勢を挽回するためになら、謙信が捨て身になって敵軍の中へ一騎で突入するのも判るが、勝っている時にそんな非常識なことをするわけがない。話としては、その方が面白いが、女人というものは、今も昔も危険なことや嫌なことは、自分は引っこんでいて男を使いたがるものである。

つまり川中島合戦のヒロインが謙信であるなら、やはり男の荒川伊豆守が、 (阿虎さまに良いところをば、お目にかけん)と単騎でおもむき信玄と渡り合ったというのが本当だろう。 謙信は「愛」の為に戦ったのか? さて、信濃に村上義清という大名がいた。この村上というのは、もともとは信濃更級郡葛尾の城主で、初めは信濃六郡越後一郡の領主だったから、一郡を三万石と見ても約二十万石の大名である。初め武田信玄が信濃を蚕食する時には、この村上と同盟を結んでいたが、やがて邪魔になると、昨日の友も今日の敵と攻めだした。天文十七年二月には、この村上義清は、信州上田原合戦で武田信玄を大敗させた。しかし負けたからといって信玄は閉口たれなかった。 何度も何度も次々と攻めたため、堪りかねた村上義清が春日山へ救援を求めた。そこで謙信が今日伝わるところでは・・・・ 「義をみてせざるは勇なきなり」と承諾。

すぐさま川中島へ兵を出して、天文二十二年を皮きりに三年後の弘治元年。これまででも三回。「川中島五個度合戦之次第」という上杉資料からは抜かれているが、永禄四年九月の、この時の大激戦の後、また三年後の永禄七年、そして翌八年。 前後を通して六回も、猫の額のような川中島を争そって、謙信は信玄と戦い続けるのである。 武田方は正式に「信濃守護」となっていたから、信濃を守って戦うのは当然だが、謙信の方は執拗に川中島に兵を入れて悪戦苦闘する理由は何もない。 いくら「義によって」とはいっても限度がある。それに謙信は村上義清とは以前に何の係わりもない。 すると何の間柄でもないのに、助けを求められるや応諾して前後六回も、当時の日本武将として最強の武田信玄との戦を敢えてしたのは、これは謙信を男と見ると理解しがたいところである。そこで、「謙信敵に塩を送る」とか、「信玄の死が伝わるや、謙信は食事中だったが箸を取り落とすと、よき敵を失ったと落涙し、三日間にわたって春日山での音曲を停止した」といった話が作られ、「上杉謙信は義にあつい人間だった」と今ではされてしまっている。 だがこれらは全くの与太話で、戦争というのは勝つためにやるのであって、向こうへ義理立てなどしていては勝てっこない。

 塩を送ったという話も本当は、「武田信玄がその嫡男太郎義信に今川氏直の娘を嫁に貰っているくせに、それを離縁してよこし、太郎も殺して駿河へ攻めてきた暴挙」に対抗して、今川と北条が連合して、駿河湾や小田原海岸からの塩の輸出を禁止したとき、上杉は今川や北条と連合していたわけではないから、勝手に越後西浜の塩を「こりゃ、高値で売れて儲かるから」と、姫街道を通って弥知谷から信州へ送荷して莫大な利潤をあげ、大儲けしたという話に過ぎない。 また、「信玄が死んだ」と聞いた時、箸は取り落としたが、これはすぐ、 「好機を逸するな。直ぐ出陣せい」と用意させるために、食べかけのところを中止しただけのことである。

 本当の話とは実も蓋もないものなのである。 映画、テレビ、歴史紛い小説に毒されてる日本人は真実の「歴史」について考えるべきである。 さて、ここに一つの見方として小説家的発想で述べておくが、つまり村上義清が美男子だったからではなかろうか。だから謙信は義のためでなく、信玄が憎いためでもなく、義清の歓心を求めるべく、愛すればこそ戦った。というのは、村上と共に上杉へ助けを求めにきた信濃の大名は彼の他にも多かったのに、謙信は彼だけを春日山に住居を与えて住まわせたり、上杉の名乗りさえ与えている。後には越後弥知谷城主にまでしたのもこのせいなのである。 女というのは、惚れた男の為ならばたてをひく。だから何の利益もない川中島合戦を五度も六度もやったのだと判ると、この不思議な川中島の執拗な戦ぶりも、その謎が解けてくる。だから、村上義清が死ぬと現金なもので、謙信はぴたりと川中島の戦をそれっきり止めにしてしまっている。 こうした発想で大河小説を書けば、近頃の軟弱小説の氾濫の中では、大向こうに受けることは間違いなかろうが、残念ながらその気にはなれない。                 

おばすて山だった川中島 さて、明治の尊敬すべき史学者田中義成博士が「甲越事蹟考」を発表している。現代文に直し冒頭だけを引用してみると、 「古今東西の英将を語れば必ず甲越二氏を誰もがおす。共にその兵を出し戦うこと二十余年に及び、その中でも特に双方が戦った川中島の合戦は、最も有名で、後世、絵になったり講釈師の張り扇で広まっている。よって児童走卒もその雄風を慕わざるはない。しかし武田方の甲陽軍鑑は虚を前に伝え、上杉方の川中島五戦記は後から妄を加えたもので、それらをもとに末書の類はいい加減に出鱈目を書いているに過ぎない。そして誤りを重ねた結果、全く史実とは遊離した講談となり、それは蜃城海市とほかならない。そこで明治二十二年八月。余は斯界の第一人者星野恒教授と共に実地を踏査し、古寺旧家を訪ね、集められるだけの資料をここに収め、もって通説の上杉謙信像の甚だしき誤りなる事をここに説き、よって俗説を改むるを得るは余の至願なり」 といった全面的な俗説の否定である。

 

これではとても心ある者は、川中島合戦など書けなくなった。そこで明治大正期は大阪から出版された「赤本」とよぶ俗悪書だけが、 「川中島合戦」や「上杉謙信」の講談本を出したに過ぎない。さながらタブーのように扱われていたのが謙信である。 そして現在もこうした俗悪書を下敷きにした通説が、まるで正史のごとくまかり通っているのである。 特に、なまじ歴史をかじっている者達の頑迷固陋ぶりは目に余る。生兵法は大怪我のもと、というが、この者達は、記紀及び、徳川史観や皇国史観を天壌無窮のものとする史観から決別し、正しい歴史観を身に付ける努力を怠ってはなるまい。 だからここからは、通説俗説を否定した歴史的考察を展開する。

中世はヨーロッパも日本も宗教戦争だった そもそもこの川中島という土地を考えてみたい。 ここは、年寄りを食べさせてゆけぬから背負っていって棄ててくるという話の元祖の「おばすて山」というのは、川中島の激戦地の八幡野にある山のことだし、その合戦から八十年後の徳川秀忠の頃、福島正則が、監禁されていた江戸城から流罪処分にされた処刑地が川中島なのである。 徳川時代になっても、八丈島同様だったこの土地を、何故信玄と謙信は何度も取り合ったのか。 なにしろ、幕末になってさえ「田毎の月」と、そこは呼ばれ、千曲川の氾濫で平地は耕せず、山まで田畑にしていた荒地なのである。 講談では、謙信と信玄は「義のため」と称して戦ったというが、そんなことで尊い人命を何千と失いながら、繰返し双方とも血を流したという事には納得できない。 日本列島に天孫民族と称する中国大陸の人間が入ってきた時、それまで住んでいた原住民と戦い、負けた原住民は、寒冷の東北の僻地へ追い払われた歴史がある。が、追われた方はそこが沼沢地であれ、山であれ、必死に防衛しなければ生きてゆけなかった。 『和名抄』に信州埴科郡佐木郷と出ているところも、やはりそうした貧しい土地らしく、足利氏(北朝、中国大陸系)が興隆してくると、村上彦四郎義光や弟の信貞は、信濃防衛のために後醍醐帝(南朝、即ち朝鮮系)の側について戦った。 しかし、南風競わずで、村上義光やその子義隆は吉野で討死した。だが、郷里を守っていた信貞は無事で、孫の満信が、足利氏が差し向けてきた小笠原長秀の軍勢を、更科郡大塔で撃破している。そしてその孫が村上義清なのである。

 

 【注】南北朝の争いというのは、中国大陸系勢力と朝鮮半島勢力が日本列島を舞台に、原住民を巻き込んだ代理戦争だったのである。 さて、現在でこそ神も仏もないものかといった具合に、元禄期以降は徳川綱吉の政策で神仏を混合されてしまい、「安産、七五三、交通安全」といったように生きている間は神社の領域。死後は、お寺さん、仏教のお世話になるという、世界でも珍しい分業制度で共存共栄している。しかし、戦国時代は「輪廻」という説を誰もが信じていて、仏派と神派は厳然と分かれていて、不倶戴天の仇どうしだった。 明治時代まで村上義清の城跡といわれる板城の白山神社には、大の男が五人で抱えなければならないといった大木のケヤキが残っていたというが、村上一族はずっと昔からの白山神信仰なのである。 そして「越の国」とよばれた謙信の方も、今の新潟県を昔は「白山島」と呼んでいたくらいで、今も春日山へかけては上に「白」のつく神社が多い。 つまり村上義清ら信濃の豪族と上杉謙信は同じ白山神社の氏子である。 これに対し、武田信玄は「権大僧正」の位を持つれっきとした仏門で、当時の妻は一向宗本願寺顕如上人の義姉。 そこで武田方へは一向宗の僧兵が同盟軍として加わっていた。 (この本願寺の説教僧を近隣はおろか三河や尾張にまで派遣し「甲斐のごんそじょ鬼より恐い。どどっと来たればどどっと斬る」と大いに宣伝して武田信玄を恐れさせたのは有名。

 

幕末これがヤクザの親分、竹井のども安が真似して「竹井のども安鬼より恐い。どどっとどもれば人を斬る」に転化されている) なにしろこの当時、ヨーロッパもキリスト教徒が十字軍を組織し、異教徒との戦いにあけくれしていたが、日本もまた宗教戦争の時代だったと見れば判りやすい。 織田信長も初めは武田を恐れて、その長子信忠に武田の姫を迎えていたほどである。 だが、信長もれっきとした神派だったから、延暦寺を焼き払い、高野山の僧侶数千人を殺戮して、天正八年(1580)に本願寺を降参させると、もう恐いものはなくなったから、武田からの嫁は離縁して、甲斐へ攻め込み、武田勝頼を滅ぼしている。 「つまり、奪っても仕方のないような川中島」を両軍が血みどろになって争った真相たるや、 「義のためでもなく、領土的野心でもなく、恋でもなくそれは信仰のせいだっ」といえる。 これが今日まで謎に包まれてきたのは、徳川五代将軍綱吉の徹底的な神徒弾圧政策のためで、のち大岡忠相が、その関係の古文書記録を強制焼却し、 出版統制令をしいたから『越後軍記』や『北越太平記』といった講談本の中でしか、川中島合戦が伝わらなかったせいなのである。