新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

赤穂義士討ち入り 忠臣蔵

2021-12-08 12:44:15 | 新日本意外史 古代から現代まで
赤穂義士討ち入り 忠臣蔵

【前書き】
 毎年この十二月の時期になると決まってテレビで放映される「赤穂浪士討ち入り」物語がある。
元禄十二年十二月十四日、浅野牢人が吉良邸に討ち入って吉良上野介の首を取ったという史実は正しい。
しかし、その原因や内容は相も変わらず全く、講談の域を出ていない。
そろそろ真実の赤穂事件が出てもよさそうだが、期待できないので、ここにその真相を暴露する。
当ブログの十月二十八日の記事「憐れなり赤穂浪士、赤穂義人纂書」と併読して貰えば感幸である。

 江戸という町は、京の真似をして各町毎に町木戸を作り、番屋を置き
番人を置いて、厳しく町人の通行を監視管理し、日没から夜明けまでは鼠しか通られぬようにしていたのである。

京は都として碁盤の目のように区切って町並みを作った訳だが、この碁盤という構造は何も住民の便利のために作ったのとは訳が違う。
大陸勢力が京に君臨していて、原住民を捕らえてきて沢山奴隷として働かせていて、彼らが逃亡しても、前後左右全て、直ぐに見通せるように作ったのである。

江戸も町毎に木戸や番屋を設けたのも同じ事で、奴隷労働者の逃亡を防ぐためなのである。
江戸の度々唄に「奴さんは辛いね」と当時歌われていたというのも、奴とは奴隷のことだから豆腐を四角く切って冷や奴というのも、此処からきている。

日本には「奴隷」という言葉は無く、奴とかと呼んでいたのだが、明治になってノルマント号事件の清国奴隷の惨状に初めて接して、「日本奴隷史辞典」を書いて、奴隷と言う言葉を使ったのが阿部弘蔵そのひとが嚆矢なのである。

さて、赤穂浪士の討ち入りは江戸で決行された訳だが、浪士が勢ぞろいしたのは紀伊国屋文左衛門の材木町の長屋で、これは紀伊国屋が無償で提供している。

 ここから吉良邸までの間の町木戸は二つある。だからあるいは舟に乗っていったという事も考えられるが、引き上げの際は吉良邸から、芝高輪の泉岳寺までは、元禄版江戸切絵図では四十三箇所もある。

そして奇怪なことにその日に限って全部が開いていた。
この夜に限って、番太郎たちはまさか43人全部がストをやっていた訳ではあるまい。
だから同じ時代の絵師、安藤広重はこんな事はありえないことなので、赤穂浪士討ち入り図には往復とも小舟に分乗してゆく浪士たちの姿を描いている。
この番太郎たちは大番屋所属で、従って江戸町奉行所の配下である。

 そして丁、つまり偶数月の十二月は前京奉行から柳沢大老によって栄転させてもらった 南町奉行の松前伊豆守である。

12月14日には吉良の妻(米沢上杉家の姫)が江戸に居ては夫である上野介が危険だと 案じて、実家の米沢に匿うことにして、それまでも匿われていた麻布狸穴の上杉家中屋敷から、旧旗本近藤登之助の古い本所屋敷で、別れの茶会をすることになった。

 この情報は幕府に知られることになり、茶席が開かれる日時と場所を、赤穂浪士の大高源吾に教えたのは、四方庵山田宗偏であり、この男は前の京所司代から、これも柳沢に一万石加増されて老中にしてもらった小笠原備後守の親代々からの家来である。
さらには、討入りの晩に、わざわざ生卵の箱を恭しく持ってゆき、浪士たち皆に配ってから励ますように「これは殿よりの下されものなるぞ。しっかり精をつけなされ」と言った 細井広沢は、これまた柳沢吉保の三百石の家臣である。

討入りする浪士たちに「ご助力申そうか」と紀文長屋へ駆けつけた堀内源太左エ門は松前伊豆守お抱えの捕方共に、棒術指南として扶持を受けていた人物である。これが、時の体制が仕組んだヤラセといわずに何と言う。
みんな柳沢の一味徒党で、幕府中枢の巨大な人脈で繋がっていてマフィアなみの組織である。

 そして浪士達が吉良の首を取ってしまうと、柳沢らの態度は一変してしまう。
この浪士達の処分を巡って、まさか柳沢の陰謀とは、知らぬものも多かったから、幕閣でも 随分揉めて、助命するべしの意見もあった。
しかし、「全員みな賜死あってしかるべし」と進言したと言われるのも柳沢吉保の五百石の家臣である荻生徂徠である。

進言してそれが取り上げられたように受け取れるが、この時代の扶持を貰っている侍に意見などあるはずも無く、みな殿の言いなりだから、結局は柳沢その人の強硬意見となる。
この柳沢一味のマフィアが寄ってたかって吉良を生きたまま米沢へやりたくなかった理由というのが、
一体何故なのかという疑問だが・・・・・・。

      贋金造りの大陰謀

学校では教えないが、日本の貨幣制度の矛盾に在る。
 江戸時代箱根以西は銀何匁で関東から蝦夷地までは金一両で、鉄銭のビタ銭だけは全国共通だった。
 これは銭何匁、何貫と勘定する。
そして京では金はオカネではないのを良い事にして、金の含有量の多い良質古金の大判小判を流通禁止にし、それを京へ送り込んで、これを京で顔の効く吉良上野介に宰領させ、堺の中村内蔵助に命じて銅を半分以上混ぜた元禄小判を鋳造した。

(注)現在慶長大判などと違って混ざり物が多いため、古金としても値が安いのはこの為である。

こうして悪貨の元禄小判を鋳造して、当時の警察庁長官に当たる大目付の仙石伯耆守ら幕閣に この小判を大盤振舞いをしたのである。

 普通賄賂というのは貰うものだが、柳沢は収賄せず、逆に与えたので、誰からも足を引っ張られることも無く、
晩年も江戸の三大庭園といわれる六義園で悠々自適できて、子孫は明治まで続き、何も判らぬ馬鹿な明治政府は清潔な政治家だったとして、追贈正三位にまでしている。 
この将軍綱吉に繋がる、柳沢のインフレ政策によって、物価高が酷く庶民の窮乏は酷いものだった。
 江戸でも食えなくなって行き倒れが多かったという。
現代、元禄時代を艶やかな元禄花見踊りに象徴される、庶民にとって平和で町人文化の百花繚乱時代だったと説く歴史屋が多く、NHKでも大河ドラマでこの時代をやっていた。船橋聖一原作だからあれは小説の世界である。
 
贋金同様の小判をどんどん作って、私服を肥やしていた中村内蔵助が祇園の一力茶屋を連夜買いきり、女を総揚げしてドンチャン騒ぎ、
夫がやるなら負けじと女房は、京嵐山で衣装比べに大金を使っていた。
 これが日本最初のファツションショーである。

この様子を絵師が描いたものが現在残っていて、これを見て元禄時代の世相を平和で華やかだったという歴史屋の頭は「かにミソ頭」。 
そして勘定吟味方にすぎなかった萩原は勘定奉行に出世し、柳沢マフィア一家は、それぞれ膨大な金も貰ったが出世させてもらえた。
しかし吉良だけは「お手前は高家でござるから」と金は貰えたが、望んだ大目付は断られ、その 不満から、辞めて隠居すると口外した為、生かしておいて贋金作りを暴露されては具合が悪い、殺すしかないとなた。

だから勅使下向の京へ帰る日になって、ちょうど饗応役だった田舎大名の浅野匠守を呼びつけ、
「吉良を如何様にしても抜刀させい。そちには何の咎めも無い。成功すれば加増してやる」と、 理由も告げずに命令すると、浅野が返事をする暇も与えずに、小笠原らを伴って、勅使饗応の能の席へ行ってしまた。

(注)武家諸法度によって、当時の武士は刀を差していても、殿の命令が無い限り絶対に抜いてはいけないという抜刀禁止の法律が厳然とあった。
 現在では「殿中で抜いたから」と理解されているが、間違いで、何処であっても 抜刀できないことになっていたので、吉良を浅野が切りつければ、否応無く抜くだろう、そうすれば抜刀罪で吉良に切腹を言い渡すことが出来るという計画なのである。


事は大老自らの命令である。小藩の浅野としては忠犬の如く吉良を探し回り、見つけると何とか抜刀させようと、殺すのが目的ならグサリと刺すのだが、チョイナチョイナと額を切ったり、肩を軽く突いたぐらいで「吉良殿抜けッ」と怒鳴り、
そして「武士の情けじゃ、抜いて下され」とまで叫んでいる。

吉良は「さては柳沢が殿中で抜刀させ、仕置きする魂胆だな」とみてとった吉良は、 その手は食わぬと、相手にならず、この計画は不成功に終わる。

よって浅野は、すぐさま江戸城の坊主部屋へ入れられ、そこから唐丸籠に入れられて、
運び出され、口を利かれては困るので、田村邸に着いて籠から降りようと首を出したところをバッサリと背後から打ち首にされた。
だが当初から抹殺が目的の肝心の吉良は生きているから、この後始末は何とかしなくてはならない。
そこで柳沢の次の計画は、甘言をもって浅野の浪人共にやらせるべしと考えた。
そして、折角妻の実家上杉家より二万両も出させて造らせた頑丈な呉服橋の吉良邸は、これはれっきとした私邸なのに、強引に取り上げ、その代わりに辺鄙で貧弱な本所のボロ屋敷が柳沢によって与えられた。
そして浅野の浪人たちには、首尾よく殺せば再仕官させてやるとの巧餌で、討ち入りの便宜も計ったのである。

これではまさしく公儀公認の討ち入りだから、吉良の首を取った後、吉田忠左エ門達は泉岳寺へ行く途中で、大目付の仙石伯耆守の役宅へ、わざわざ経過報告に行っている。
江戸の町民は、徳川幕府の数々の陰湿で汚いやり口は身に滲みていて、今度の討ち入り事件とて、きっと裏があるだろうと、

 「主君の浅野も使い棄て、その家来の浪士達も使い棄て」
これではあまりにも可哀想過ぎると、すぐさ風刺をこめて芝居にした。

 主人公の浅野は塩谷判官として上演したが、大入りが続いた。
この塩谷というのは、播州赤穂は良質の塩の産地として江戸でも有名だから、 浅野とそのままには付けられないが、塩屋とすれば幕府に睨まれ、上演禁止を免れるための作者の知恵である。
ここから「判官びいき」という言葉は生まれたのである。

「春本壇ノ浦合戦」の主人公にされた九郎判官義経とは全然違うので間違えないで貰いたい。

 さて上杉家も前は長尾姓で、れっきとしたサンカの出身だし、赤穂の大石内蔵助も やはりサンカのトケコミで、こうなると米沢のサンカの頭も播州サンカの頭も困惑したらしく、丹波に居たサンカ統帥部の御裁可を仰いだ。
しかしまさか柳沢吉保がそこまで壮大で巧妙な筋書きを立てての陰謀とは知らなかったらしい。
何しろ、吉良邸内に斬り込んだ時は、三名一組ずつが斬りこみ、吉良を見つけると、邸外に曳きずり出して斬首した。

だが、それまでは大身の者や老人は外部に居て、中には入っていない。
それどころか近所の旗本屋敷で寒いので手焙りを借りたり、白湯を所望してのんびりしていたに すぎない。

 だがそれらも皆一緒くたにして死罪にしてしまうとまで思っていなかったので呆気にとられた。
だが哀れ、踊らされて再就職の甘言の罠にかかった大石たちより、用心のため吉良に乞われて上杉家より派遣されていて、同夜運悪く吉良邸の入り口で不意に突き殺された家老の小林平八郎もサンカだったので、せめて彼の名誉だけでも回復せねばと、サンカ社会に言い伝えさせ、幕末になって貸本のベストセラーになった式亭三馬の「女忠臣蔵」の中では、若くて美男とさせたうえで、華やかな女衣装で庭の泉水の 石橋の処で、浪士の一人を凍る水中へ蹴落とすような武勇伝に仕立て上げさせたのである。

 どうも当時のサンカ統帥部は大石よりも大野九郎兵衛の方に、自ら悪役を買って出ただけに同情して、大石が失敗した際の第二段部隊として鉄砲で武装して、吉良が米沢へ向かう時必ず通る庭子峠に立てこもっていた一党十七名の食料や装備を秘かに運ばせていた 模様である。

 さて、この赤穂事件というのは、現在の講談そのままの単純な事件と違い、徳川幕府の陰謀に、原住民である紀伊国屋やサンカ集団が複雑に絡み合った壮大だが悲壮で残酷な事例である。浅野が賄賂を渋ったとか、塩の利権、女の恨みなどと、単純化した読物も多いが、全て間違いである。

 何時の世も権力側は庶民の事など絶対に考えては居ないのである。




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