サンカ生活体験記「第七章」
伊 勢 湾
<天の古代史研究>にも書いておいたが、私の祖母後藤さだは居附の生まれらしく、サンカのツナガリはあったようである。祖父の不動貯蓄銀行からの金を、月末になると封筒に入れて匿しておき、
裏口から決まった男が来ると、その封筒の他に五銭玉を一つ駄賃にわたしていた。
今は名古屋の広小路裏でキャバレーやパチンコ屋が並んでいる賑やかな通りだが、米軍のジュウタン爆撃で焼野原になるまでは、三メートル巾ぐらいの碁盤割りの桝目のような路地があった一画で、
鶴重町に曲がる角に共同便所があって、薬師寺とよぶ紺屋の横に輪にした竹束をおき、ムシロを敷いて下駄の歯入れ屋のヨツさんが来ていた。
今みたいに玩具のない時代なので、奇麗に削られた切れっ端しを貰って、家を組み立てたりして一日中よく遊んでいたものである。
さて、私の生母「ふさ」は、前に産んだ節夫が亡くなった後、私を身ごもった。現代ならば水子にするというか手術ができたであろうに、当時は有名な女優の志賀暁子でさえ堕胎罪で実刑三年で懲役刑の時代だった。
だから産まれてこなくてもよい私が産み落とされ、父は満州のハルピンへ行っていたので、亡兄の名を戸籍もろとも引き継がされて、全く無用な存在として育っていた。
母の兄の吉之助が東京へ行き四谷で菓子店を開いたが巧くゆかず、祖母は祖父より金を出させて東京へ行き、母と二人きりの生活が始まった。
さて、この母が当時まだ二十六歳ぐらいなので、歯医者へ行けばそこの助手を引っ張って来て、私はその間は表で見張り番役だった。
牛乳屋のおっさんの時には何時間も起きて帰らないので、木っ端を家の前まで持って来て、時間潰しをしていたものである。今思えば四、五人ぐらいの男が次々と来ていたようだ。
町内では美人だと言われて、金もとらないらしいのに、どれもなぜ長続きしなかったかといえば、顔馴染になってしまった牛乳屋のおっさんが、したり顔で、
「あんな好い顔しているくせに何時間も上に乗りっぱなしでは、わしなんかはヘトヘトだもん、いかすか‥‥」と言っていたのが思い出される。
さて、私の生母「ふさ」は、前に産んだ節夫が亡くなった後、私を身ごもった。現代ならば水子にするというか手術ができたであろうに、当時は有名な女優の志賀暁子でさえ堕胎罪で実刑三年で懲役刑の時代だった。
だから産まれてこなくてもよい私が産み落とされ、父は満州のハルピンへ行っていたので、亡兄の名を戸籍もろとも引き継がされて、全く無用な存在として育っていた。
母の兄の吉之助が東京へ行き四谷で菓子店を開いたが巧くゆかず、祖母は祖父より金を出させて東京へ行き、母と二人きりの生活が始まった。
さて、この母が当時まだ二十六歳ぐらいなので、歯医者へ行けばそこの助手を引っ張って来て、私はその間は表で見張り番役だった。
牛乳屋のおっさんの時には何時間も起きて帰らないので、木っ端を家の前まで持って来て、時間潰しをしていたものである。今思えば四、五人ぐらいの男が次々と来ていたようだ。
町内では美人だと言われて、金もとらないらしいのに、どれもなぜ長続きしなかったかといえば、顔馴染になってしまった牛乳屋のおっさんが、したり顔で、
「あんな好い顔しているくせに何時間も上に乗りっぱなしでは、わしなんかはヘトヘトだもん、いかすか‥‥」と言っていたのが思い出される。
どうも母は、どの男にも馬乗りになって自分が何度でも酷使するので、男の方は二回か三回で逃げてしまうらしかった。そのくせ母は私に向かって、
「お前さえいなければ、おかあさんの処へは色んな縁談が来ているけれど、コブつきだから駄目になる」と、男に逃げられると、その腹いせか鯨尺の物差でピシャリピシャリと殴りつけた。
というのは、やはり母の重みに堪えかね、父は別の母を連れて満州へ行っていたせいもある。だから幼かった私としては、どう自分を処置してよいか判らぬままに、
「そんなものを口に入れたら死んでしまうぎゃあ」と、よく祖母に言われていた箪笥の中のナフタリンを、死ねるものと思い込んでいたから、持ち出してきて十四個まで囓った覚えがある。
祖母がびっくりして東京から戻って来て、四谷へ連れていかれた時には、飛び込めば死ねると、今はコンクリート蓋のした暗梁の狭い川を大河のつもりでとびこみ、
悪戯をして落ちたと思った通りがかりの人に襟首を掴み出されて戻されて来て、祖母を泣かした覚えがある。
「お前さえいなければ、おかあさんの処へは色んな縁談が来ているけれど、コブつきだから駄目になる」と、男に逃げられると、その腹いせか鯨尺の物差でピシャリピシャリと殴りつけた。
というのは、やはり母の重みに堪えかね、父は別の母を連れて満州へ行っていたせいもある。だから幼かった私としては、どう自分を処置してよいか判らぬままに、
「そんなものを口に入れたら死んでしまうぎゃあ」と、よく祖母に言われていた箪笥の中のナフタリンを、死ねるものと思い込んでいたから、持ち出してきて十四個まで囓った覚えがある。
祖母がびっくりして東京から戻って来て、四谷へ連れていかれた時には、飛び込めば死ねると、今はコンクリート蓋のした暗梁の狭い川を大河のつもりでとびこみ、
悪戯をして落ちたと思った通りがかりの人に襟首を掴み出されて戻されて来て、祖母を泣かした覚えがある。
汽車にひかれて死のうと考えついたのはよいが、じっと線路に寝ていればよいのに、誰も教えてくれないから、闘牛みたいに、進行して来る当時のデゴイチにぶつかっていって、
風圧でふっとばされ、絵本で得た知識で、とびつく蛙とばかり四回も体当たりしたが側までゆけず、土手下に落ちて気を喪って失敗してしまった。
この汽車以外の失敗談は「英雄誕生」の中で、信長の幼児の事としてナフタリンとは書けぬから青梅にした。続けて七回はトライして失敗した。
祖母もそのうちに川へ飛び込んだ私を先に帰してから戻ってきて、留守中に烈しくなった母の男漁りに困惑して再婚させる肚になったらしい。
祖父は、待合をやらせているオクニさんの許へ私を養子に出し身軽にして、母を嫁に出す算段をしたが、祖母としてはそれではおもしろくない。
そこで私を下駄の歯入れ屋をしているヨッさんに頼んだのである。
風圧でふっとばされ、絵本で得た知識で、とびつく蛙とばかり四回も体当たりしたが側までゆけず、土手下に落ちて気を喪って失敗してしまった。
この汽車以外の失敗談は「英雄誕生」の中で、信長の幼児の事としてナフタリンとは書けぬから青梅にした。続けて七回はトライして失敗した。
祖母もそのうちに川へ飛び込んだ私を先に帰してから戻ってきて、留守中に烈しくなった母の男漁りに困惑して再婚させる肚になったらしい。
祖父は、待合をやらせているオクニさんの許へ私を養子に出し身軽にして、母を嫁に出す算段をしたが、祖母としてはそれではおもしろくない。
そこで私を下駄の歯入れ屋をしているヨッさんに頼んだのである。
ザボといって三代[の間]は直系のハラコの下の位置付けに養子はなるのだが、なにしろ毎月の奉納金も多かったし、
小さな子なのでハラコの一人にしてくれるとの尾張一(はじめ)の許しが出たので決まったのである。
まだサンカのサンカたる事など知らないが、生母から、よくしなう鯨の三尺指でピシピシ殴られるのは痛いから、祖母の言いなりに水筒と乾パン四袋と金包らしい封筒を渡されて、
ヨッさんについていったが、竹の輪を首に担がされた。
カマドの煙突がススでつまった時につつく具なので、首筋に黒いススの塊りが入ってきて変な厭な思いだったが、川のある処まで行くと、ヨッさんが裸になって浸かれというので、
そうするとさっぱりして気持ちがよくなった。これからが、私の山窩生活体験記である。
小さな子なのでハラコの一人にしてくれるとの尾張一(はじめ)の許しが出たので決まったのである。
まだサンカのサンカたる事など知らないが、生母から、よくしなう鯨の三尺指でピシピシ殴られるのは痛いから、祖母の言いなりに水筒と乾パン四袋と金包らしい封筒を渡されて、
ヨッさんについていったが、竹の輪を首に担がされた。
カマドの煙突がススでつまった時につつく具なので、首筋に黒いススの塊りが入ってきて変な厭な思いだったが、川のある処まで行くと、ヨッさんが裸になって浸かれというので、
そうするとさっぱりして気持ちがよくなった。これからが、私の山窩生活体験記である。
参謀本部の五万分の一の地図を今みてもどうしても見当がつかないが、初めて行ったセブリには小さな沼があった。
[ヨッさんには]私より年上の十二、三の娘を上に子供が四人いた。夜はどうして寝たか覚えていないが、朝になると野ぜり草摘みが子供の仕事なので私もついて行った。
持ち帰って鍋に入れて汁にして朝飯がすむと、ヨッさんは道具を担いで仕事に出かけた。子供らは沼みたいな池の周りに輪になった。
年上の娘が、着ているものを脱いで素っ裸になると、下の三角形のところに、薄いが陽に光る産毛が生えだしていたのが今でも私の脳裏に焼き付いている。
なんだか薄かったが金色の針みたいに視えた記憶がある。
[ヨッさんには]私より年上の十二、三の娘を上に子供が四人いた。夜はどうして寝たか覚えていないが、朝になると野ぜり草摘みが子供の仕事なので私もついて行った。
持ち帰って鍋に入れて汁にして朝飯がすむと、ヨッさんは道具を担いで仕事に出かけた。子供らは沼みたいな池の周りに輪になった。
年上の娘が、着ているものを脱いで素っ裸になると、下の三角形のところに、薄いが陽に光る産毛が生えだしていたのが今でも私の脳裏に焼き付いている。
なんだか薄かったが金色の針みたいに視えた記憶がある。
他の子達も素っ裸になって沼へとびこんだので、私だけがパンツをはいた侭とはゆかず脱いだところ、あまり少女の産毛ばかり見つめていたせいか、まだ子供なのに、
おしっこを堪えていた時みたいに直立し勃起しているのが恥かしく、背を向けて冷たい水にとびこんだものだ。
まだ戦前で減反政策などなかった頃で、米のモミを汲いあげて選別する箕は大事な農家の調度だった頃である。
温めたまま火灰に埋めてあった焼石の火力を強めて大鍋を乗せ、朝の残りものと前夜の魚を一緒にした薄いオジヤが、沼から上がってきた子供らの食う昼飯であった。
「ミカラワケ」と、箕の事を呼んでいたが、これの材料の青竹を細く裂き曲げやすいように焼石で熱くなった地面に差し込んで、母親に編みやすくさせるのが子供らの午後の仕事だった。
おしっこを堪えていた時みたいに直立し勃起しているのが恥かしく、背を向けて冷たい水にとびこんだものだ。
まだ戦前で減反政策などなかった頃で、米のモミを汲いあげて選別する箕は大事な農家の調度だった頃である。
温めたまま火灰に埋めてあった焼石の火力を強めて大鍋を乗せ、朝の残りものと前夜の魚を一緒にした薄いオジヤが、沼から上がってきた子供らの食う昼飯であった。
「ミカラワケ」と、箕の事を呼んでいたが、これの材料の青竹を細く裂き曲げやすいように焼石で熱くなった地面に差し込んで、母親に編みやすくさせるのが子供らの午後の仕事だった。
「アー」とお日さまに叫んで、歳順に沼の上から次々と飛び込んで、顔を洗ったり頭の毛を棘草のタワシで互いにこすり合っていた順番が青竹割りの際も同様で、
青竹を四つ割りにするのは桃色の割れ目を視せていた姉娘で、それを分け与えられて編めるようにするのは歳の順でやり、私は焼け土の中へ差し込めるように棒で突いて地面に孔を掘るような仕事だった。
なにしろ父親(カド)が戻ってくるまでには一つは作っておかねばならぬと、母親(メメ)は枠になる外側をこしらえつつ子供らを監督していた。
が、無言で睨みつけているのではなく面白そうに、
「上(サキ)の父母(オヤ)の爺っちゃまや婆さまの、そのまたサキチチも、てんでに別にセブリはっとる‥‥お前らも父母(チチ)の兄弟(ハラカラ)で今だけは一緒
にこうして働いてチカラだが、大きうなりゃ別々じゃ‥‥そうそう、大石主税って知っとるんか‥‥そうか知らんか。忠臣蔵の芝居で内蔵介の伜の名だ」
「ふむ、そうすると大石の父子もセブリもんか。わしらと同じで昔はスダチして行ったんか?」
「さあ、赤穂城の家老だったと聞いた事があるで、三代前から居附になって侍になっとんや」
青竹を四つ割りにするのは桃色の割れ目を視せていた姉娘で、それを分け与えられて編めるようにするのは歳の順でやり、私は焼け土の中へ差し込めるように棒で突いて地面に孔を掘るような仕事だった。
なにしろ父親(カド)が戻ってくるまでには一つは作っておかねばならぬと、母親(メメ)は枠になる外側をこしらえつつ子供らを監督していた。
が、無言で睨みつけているのではなく面白そうに、
「上(サキ)の父母(オヤ)の爺っちゃまや婆さまの、そのまたサキチチも、てんでに別にセブリはっとる‥‥お前らも父母(チチ)の兄弟(ハラカラ)で今だけは一緒
にこうして働いてチカラだが、大きうなりゃ別々じゃ‥‥そうそう、大石主税って知っとるんか‥‥そうか知らんか。忠臣蔵の芝居で内蔵介の伜の名だ」
「ふむ、そうすると大石の父子もセブリもんか。わしらと同じで昔はスダチして行ったんか?」
「さあ、赤穂城の家老だったと聞いた事があるで、三代前から居附になって侍になっとんや」
まさか大石内蔵介や主税がサンカのイツキの出とは、当時の新聞は総ルビで子供にも読めたから討ち入りの話は知っていた。が、塩作りの土地の家老ゆえ、そうかもしれぬと思った。
思ったよりはかがいって、後は母親一人で出来上がるとみてとったか、キダチをふりあげ、
「もうええ。遊んでこ」と、箕作りから開放され、てんでに又、丘の陰の沼の方へ行った。
どうあっても、もう一度金色に輝いていた産毛が見たくてしょうがなく、思い切って、「これ、やる。見せんか」
と着物の帯のところに、タクシあげといって背丈が伸びた時に糸を抜いて下へ降ろせば長くなるよう、ぐるっと溝みたいな袋になっているところから五銭玉を一つ摘まみ出して、おずおずと、
だいぶためらってから、甘えるみたいに姉娘に頼んでみたのである。
といって私が母の血を引き早熟だったからでもない。
名古屋の東本重町の隣家が松乃湯とよぶ銭湯だった。なにしろ広小路(名古屋市中区)から入ってくる角に浪越連の検番があったから、町内にも芸妓置屋が六軒あったが、
蒲焼町へかけては十軒もあり、昼下がりにはゾロゾロと姐さんたちが入浴にくる。
まず掛湯を浴びて湯槽に入って身体を温めて出てくると、持ってきたガーゼを一番長い中指に巻きつけ、屈みこんで体の奥の方を丹念に何度もすすぎ、しごくみたいにして洗う。
思ったよりはかがいって、後は母親一人で出来上がるとみてとったか、キダチをふりあげ、
「もうええ。遊んでこ」と、箕作りから開放され、てんでに又、丘の陰の沼の方へ行った。
どうあっても、もう一度金色に輝いていた産毛が見たくてしょうがなく、思い切って、「これ、やる。見せんか」
と着物の帯のところに、タクシあげといって背丈が伸びた時に糸を抜いて下へ降ろせば長くなるよう、ぐるっと溝みたいな袋になっているところから五銭玉を一つ摘まみ出して、おずおずと、
だいぶためらってから、甘えるみたいに姉娘に頼んでみたのである。
といって私が母の血を引き早熟だったからでもない。
名古屋の東本重町の隣家が松乃湯とよぶ銭湯だった。なにしろ広小路(名古屋市中区)から入ってくる角に浪越連の検番があったから、町内にも芸妓置屋が六軒あったが、
蒲焼町へかけては十軒もあり、昼下がりにはゾロゾロと姐さんたちが入浴にくる。
まず掛湯を浴びて湯槽に入って身体を温めて出てくると、持ってきたガーゼを一番長い中指に巻きつけ、屈みこんで体の奥の方を丹念に何度もすすぎ、しごくみたいにして洗う。
番台のおばちゃんに、初めはわけが判らないので、「何で、あんなとこ、よぉ洗うの?」ときくと、
「今日のお客さんが拡げてみやあた時、前の日のお客さんのが中に入って残っていて、白いのが滲み出てきたら具合が悪いぎゃあ‥‥そんだで、商売道具をみんなが大切にしやぁすのやろ」
と笑いながら教わった事があるので、姐さん達が中に入り込んだのを出すために腰を振り、「拡げてみせるのは、主さんばかり、チントンシャン」
と鼻唄をうたいながら、下っ腹を左右から押して、奥深くにくっついている白い痰みたいな塊りを下へ落とす姐さん達も見た。
「今日のお客さんが拡げてみやあた時、前の日のお客さんのが中に入って残っていて、白いのが滲み出てきたら具合が悪いぎゃあ‥‥そんだで、商売道具をみんなが大切にしやぁすのやろ」
と笑いながら教わった事があるので、姐さん達が中に入り込んだのを出すために腰を振り、「拡げてみせるのは、主さんばかり、チントンシャン」
と鼻唄をうたいながら、下っ腹を左右から押して、奥深くにくっついている白い痰みたいな塊りを下へ落とす姐さん達も見た。
当時、「毛切り石」というのが上り湯の欄干の並ぶ台の上に乗せてあった。今のファッションモデルやビニ本のモデルさんは安全剃刀でジャリジャリ剃ってしまうそうだが、昔は違っていた。
「剃ったり鋏で剪ると後から硬い毛がはえてきて、お客に毛切れさせては商売上申し訳ない」
といったプロ意識が、火打ち石みたいな二つの石で、伸びた毛を叩き切って短くするので、これが跨倉なので自分では巧くやれぬからと、
向き合って湯桶に腰掛けて互いにやるのだが、照れ臭がって双方で笑ってしまいはかがゆかないけれど、私のような子供だときわめて便利である。
「剃ったり鋏で剪ると後から硬い毛がはえてきて、お客に毛切れさせては商売上申し訳ない」
といったプロ意識が、火打ち石みたいな二つの石で、伸びた毛を叩き切って短くするので、これが跨倉なので自分では巧くやれぬからと、
向き合って湯桶に腰掛けて互いにやるのだが、照れ臭がって双方で笑ってしまいはかがゆかないけれど、私のような子供だときわめて便利である。
カチカチ山みたいな姐さんたちの繁茂した森みたいな小山の不揃いなところを、毛切り石で丹念に叩き切ると、湯上がりの時にお駄賃に一銭玉が貰えた。
屈みこんで仰いで無気味な物を石で叩いたとて、栗のイガと違って食べられる実が口に入るわけではない。だから、一日に五人だけにして紐の通る穴あきの五銭玉に番台で換えてもらうと、
それで止めにしていたものである。
その時に差し出した五銭玉も、いわば稼いだ自分の金である。なにしろ松乃湯で覗いてきたのは、紫色に変わって小陰唇がはみだしたのもいて、
まだ、五厘玉で飴が買えた当時の一銭の仕事。だから子供心にも醜悪に思えたが、銭になるのでやっていただけの話。
それが、金色に輝く薄い産毛の、それは今まで見た事もないものなので、何としてでも、改めてよく見たかった。
当時の五銭玉は娘にも初めて見る大金だったらしく、裏返したり透かしてして眺めてから、
「玩具じゃのうて、本物の銭じゃね」と溜め息をついた。
屈みこんで仰いで無気味な物を石で叩いたとて、栗のイガと違って食べられる実が口に入るわけではない。だから、一日に五人だけにして紐の通る穴あきの五銭玉に番台で換えてもらうと、
それで止めにしていたものである。
その時に差し出した五銭玉も、いわば稼いだ自分の金である。なにしろ松乃湯で覗いてきたのは、紫色に変わって小陰唇がはみだしたのもいて、
まだ、五厘玉で飴が買えた当時の一銭の仕事。だから子供心にも醜悪に思えたが、銭になるのでやっていただけの話。
それが、金色に輝く薄い産毛の、それは今まで見た事もないものなので、何としてでも、改めてよく見たかった。
当時の五銭玉は娘にも初めて見る大金だったらしく、裏返したり透かしてして眺めてから、
「玩具じゃのうて、本物の銭じゃね」と溜め息をついた。
これまで松乃湯でキンツバを二つに割って、アンがはみ出したようなのばかり見馴れているゆえと、よく説明をすればよかった。
姉娘は弟や妹達に野ぜり摘みを言いつけておいて、私を窪地へ連れて行くと寝かしつけ、
「初潮(さそい)がまだないでハタムラには背かんじゃろが、カドやメメのやってる事を子供がすると、皮の肉が裂けるまでキダチで殴られ、お仕置きされるで‥‥だで、ちょっとだけだぞ‥‥」
ことわりながら前をまくって、上へかぶさってくると、花ラッキョウのような私の突起物を、ぬるぬるしたところへ上からはめ込んだ。
私は慌てて、見たいだけだったと泣きべそをかいた。
しかし、そのうちに妙な心地になってしまい、思わずオシッコを洩らしてしまったらしい。「ししかけたらいかんぎゃあ‥‥」
と、自分の体内に迸った黄色い液体を、私の臍の下のところになすりつけ、「臭うと叩かれるぎゃあ」
と、短い着物の裾をまくったまま沼の方へ行った。
姉娘は弟や妹達に野ぜり摘みを言いつけておいて、私を窪地へ連れて行くと寝かしつけ、
「初潮(さそい)がまだないでハタムラには背かんじゃろが、カドやメメのやってる事を子供がすると、皮の肉が裂けるまでキダチで殴られ、お仕置きされるで‥‥だで、ちょっとだけだぞ‥‥」
ことわりながら前をまくって、上へかぶさってくると、花ラッキョウのような私の突起物を、ぬるぬるしたところへ上からはめ込んだ。
私は慌てて、見たいだけだったと泣きべそをかいた。
しかし、そのうちに妙な心地になってしまい、思わずオシッコを洩らしてしまったらしい。「ししかけたらいかんぎゃあ‥‥」
と、自分の体内に迸った黄色い液体を、私の臍の下のところになすりつけ、「臭うと叩かれるぎゃあ」
と、短い着物の裾をまくったまま沼の方へ行った。
だから私は、祖母から預けられたとはいえ、ここのセブリの父親のヨシが下駄の歯入れ道具と竹樋を肩に戻って来ると狼狽した。しかし、娘は五銭玉の手前から別に何も言わずだった。
「ハライ」とよばれる仕置きは、草を口へねじこんで声を立てられぬようにして、後手にして天幕に縛りつけて、箕作りのキダチで散々に尻を打ちすえるから、思わず
天幕を払うようにひっくり返してしまうので又も余計に折檻される。(これで子供を殺してもセブリの掟では許される)
とは前に聞いていたので、祖母が預けたのは何も下駄の歯入れ屋の修行のために小僧奉公に出したのではなく、男っ気がなくては最早どうともならなくなった女盛りの母の再婚のためだぐらいは、
子供心でも判っていたから、きっとキダチで殴り殺されるだろうと、それまで散々自殺を企てていたくせに、他人に殺されるとなると覚悟がつかず、おどおどしきっていた。
しかし、沼で獲れた魚を竹に刺したのを肴にしてドブロクを呑み、子供達にも飯を喰わせていたヨシは、まだ何も気づいていないのか、機嫌のよい顔で芹(ゼンコ)の煮つけをつまみつ、
「今夜はここでハラウ」と言い出した。さては、勘で判ったのかと私はドキっとした。「なんぞあったのかのう」と母親がきくと、それにニタっとして父親は娘の方へ顔を向け、
「シシとこの娘にサソイ(初潮)があって祝ったで、国カズさまのお指図で明後日に矢田で祝言じゃ‥‥同じテンジン仲間じゃ。一日早う行ってやって、サチノリしたり祝言の手伝いじゃ」
「そうか。あすこのカミコが女になったのかや。国カズさまのツナギが名古屋のあんたの仕事場へ告げにきたのは同じ五ハリのテンジン仲間だから、仕事を休んで手伝うてやるじゃろか」
「うん、相手は三重カズんとこのセアナだとよぉ‥‥他国との縁組みで作法に欠けちゃぁ尾張カズ様の面目にかかわる。そんだで、うちだけじゃのうて、同じテンジンの
他の三つのセブリも今晩から明朝にかけて集まって、みんなで粗略のないようにやれとの事だがね」と言った。
「そうか。だったら飯すんだら早う寝て、明日は夜明けに払って行かすか。矢田までなら昼には着こうが‥‥」
と、ゆっくり呑んでいる父親を急かすようにドブロクの瓶を取り上げた。「‥‥矢田って何処?」ときくと、姉娘が箸を休めて、
「三重じゃが、遠くねえ。近いがねぇ」と、先刻の事などもう忘れたように、したり顔で答え、弟や妹に、「早う済まさんか」と急かした。
「ハライ」とよばれる仕置きは、草を口へねじこんで声を立てられぬようにして、後手にして天幕に縛りつけて、箕作りのキダチで散々に尻を打ちすえるから、思わず
天幕を払うようにひっくり返してしまうので又も余計に折檻される。(これで子供を殺してもセブリの掟では許される)
とは前に聞いていたので、祖母が預けたのは何も下駄の歯入れ屋の修行のために小僧奉公に出したのではなく、男っ気がなくては最早どうともならなくなった女盛りの母の再婚のためだぐらいは、
子供心でも判っていたから、きっとキダチで殴り殺されるだろうと、それまで散々自殺を企てていたくせに、他人に殺されるとなると覚悟がつかず、おどおどしきっていた。
しかし、沼で獲れた魚を竹に刺したのを肴にしてドブロクを呑み、子供達にも飯を喰わせていたヨシは、まだ何も気づいていないのか、機嫌のよい顔で芹(ゼンコ)の煮つけをつまみつ、
「今夜はここでハラウ」と言い出した。さては、勘で判ったのかと私はドキっとした。「なんぞあったのかのう」と母親がきくと、それにニタっとして父親は娘の方へ顔を向け、
「シシとこの娘にサソイ(初潮)があって祝ったで、国カズさまのお指図で明後日に矢田で祝言じゃ‥‥同じテンジン仲間じゃ。一日早う行ってやって、サチノリしたり祝言の手伝いじゃ」
「そうか。あすこのカミコが女になったのかや。国カズさまのツナギが名古屋のあんたの仕事場へ告げにきたのは同じ五ハリのテンジン仲間だから、仕事を休んで手伝うてやるじゃろか」
「うん、相手は三重カズんとこのセアナだとよぉ‥‥他国との縁組みで作法に欠けちゃぁ尾張カズ様の面目にかかわる。そんだで、うちだけじゃのうて、同じテンジンの
他の三つのセブリも今晩から明朝にかけて集まって、みんなで粗略のないようにやれとの事だがね」と言った。
「そうか。だったら飯すんだら早う寝て、明日は夜明けに払って行かすか。矢田までなら昼には着こうが‥‥」
と、ゆっくり呑んでいる父親を急かすようにドブロクの瓶を取り上げた。「‥‥矢田って何処?」ときくと、姉娘が箸を休めて、
「三重じゃが、遠くねえ。近いがねぇ」と、先刻の事などもう忘れたように、したり顔で答え、弟や妹に、「早う済まさんか」と急かした。
セブリの子は三歳になると薪拾い、五歳になると食せるものを見つけて歩くから、男は十六ぐらいでも、初潮のあった娘と女夫(マグヒ)となって独立したセブリを持つ。
なにしろ二人きりの家族(うかり)ゆえ、生計には困らない。年老いて両親(セブチ)が生計に窮するような事があっても、国一が皆から集めて蓄えた金の中から面倒をみるから、
子供には負担が一切かからぬような仕組みがサンカ社会なのである。
なにしろ、暗くなると他にする事はないし、先に産まれた子は早く女夫となって独立してゆくから、気兼ねなく母親が父親に迫るというより、進んで上に乗っかってゆくものだから、
「第一子はカミコ」「第二子はツギコ」「第三子はミツメ」「第四はヨツメ」「五番目はイツメ」次いで、六目、七目、八目、そして九番目(トマエ)、十番目(トウ)、
十一番(トイ)、十二番(トニ)、十三番(トサ)、十四番目(タシ)、十五番目(トイツ)、十六番目(トム)、十七番目からの子は、ノグソと男の子でも女の子でもよぶ。
が、セブリの中では兄はロセ、弟はロト、姉はネ、妹はロモというが、地方によって中に「ン」を入れたり、近畿や中国地方ではロセとは言わずにロエで、こうなると
セブリ独特な言葉ではなく、古代の大和言葉になってしまう。
女の子の初潮をみると、小豆粥で「サキハエ」というのも、祝うのではなく一人前の女として生きてゆかねばならぬから、行き先に栄えあれかしとの祈り。
そんな話を聞かされながら、いくらちょこまか駆け足をしても、一番小さな子供にも遅れる自分に、今で言えば自己嫌悪に陥っていた。矢田河原に着いた時には、
他の子と違ってズックを履いていたのに、孔がいくつもあいて足にマメができ、それが潰れて血が黒くなっていた。
サンカは世界一の純血民族
「婚礼はヨツギ結ビだが、式はウキアブラと言うんよ。みんなで酒盛りするこったがね」
自分も初潮さえ過ぎたら式を挙げて父や母のセブリから出て一人前になるんだとばかり、己の実の妹や弟よりも、私に娘は話しかけてきた。
だから他のセブリの婚礼の手伝いに来ているとは承知しながら、まるで自分が娘の婿にされ、また馬乗りにされてチビる恐怖を感じた。ただオロオロして言われる侭に地ならしを私はしていた。
三重の津からのクズシリがここへ婿を連れて、独立の宣言をしに来たのは次の日の朝だった。新しいセブリの布を張ると厳かに、
「身負布(ミオヒヌナ)、揺張(ユサバリ)、移リ居(コモ)り為セ」と唱える。
自分も初潮さえ過ぎたら式を挙げて父や母のセブリから出て一人前になるんだとばかり、己の実の妹や弟よりも、私に娘は話しかけてきた。
だから他のセブリの婚礼の手伝いに来ているとは承知しながら、まるで自分が娘の婿にされ、また馬乗りにされてチビる恐怖を感じた。ただオロオロして言われる侭に地ならしを私はしていた。
三重の津からのクズシリがここへ婿を連れて、独立の宣言をしに来たのは次の日の朝だった。新しいセブリの布を張ると厳かに、
「身負布(ミオヒヌナ)、揺張(ユサバリ)、移リ居(コモ)り為セ」と唱える。
唱えながら四方を斬って邪気を払い、そして新しいウメガイ一本を押し戴いて、伴ってきた新郎の頭の上に高く捧げ、さて、おもむろに四方拝をして、
「このウメガイ持て、隅肩(スミカタ)盛る穀物寿(タナツモノイノチナガク)、身殻別(ミカラワケ)の一族(ヤカラ)となれ」
と厳かに宣告(のりつげ)して、ウメガイを授ける。
「このウメガイ持て、隅肩(スミカタ)盛る穀物寿(タナツモノイノチナガク)、身殻別(ミカラワケ)の一族(ヤカラ)となれ」
と厳かに宣告(のりつげ)して、ウメガイを授ける。
この宣告は神代の昔、穴から地上に出て、布張(ヌナバ)りになった時の勅命の「史言(フミゴト)」として、セブリに伝承されている「宣告(ノリツゲ)」である。
かしこまって、この席には、それぞれクズコ、ムレコと、それにエラギ(カミ)の一(フキタカ)が竹笛を持って列席する。
私や他の子供はもちろん、ヨシやその女房や他の天神から手伝いに泊りがけで来た連中も、式が終わるまでは遠巻きにして、酒盛りになると、ムレコが手招きするので、それを待っていた。
この矢田河原は、最近桑名へ行ったついでに昔懐かしさに寄ってみたら、「矢田磧町」と名も変わり、県営住宅や市営住宅のマンションがずらりと並んでいて、もはや、
すっかり昔の河原の面影はどこにもなかった。戦前、この辺りはが移ってきて住み着いたが、四日市よりの公害の丁度風下になっていたので、悪臭がひどく咳き込まぬ者はいなかった。
が、昭和四十年過ぎから公害防止の県条例で防止法ができたと思ったら、県有地と河川線流域の国有地なので、それまで住んでいた者らは追い払われてしまい、
後になって県営住宅が次々と建ち並んだのだと教わった覚えがある。
しかし、新郎が新しく切り出した青竹に白い酒をついでクズシリに捧げているユサバリは、はたはたと川風に音させて河原のススキが薙ぐみたいに左右に烈しく動いていた。
やがて、幕のたれをめくってムレコが出てきた。何か捧げるみたいな格好で物を持っていた。
「花嫁(メツレ)迎えじゃ」と娘は囁いて教えてくれた。そして捧げ持ってゆくのが引出物(ハニモノ)と話して、「塩魚(シオウナ)、蓮根(アナネ)、米酒(マサカ)、箕(ミカラワケ)」
と菰にくるんで、向こうの林の中で待っている花嫁や、その親のところへ持ってゆくのだと説明したが、また同じ様な菰包みをムレコが持ち戻ってくるので、
「ワヤになったんか?」つまり、縁談が不調に終わってしまったのかと、せっかく足をマメだらけにしてついてきたのが無駄になったのかと、子供心にも気になって低い声できいてみた。
かしこまって、この席には、それぞれクズコ、ムレコと、それにエラギ(カミ)の一(フキタカ)が竹笛を持って列席する。
私や他の子供はもちろん、ヨシやその女房や他の天神から手伝いに泊りがけで来た連中も、式が終わるまでは遠巻きにして、酒盛りになると、ムレコが手招きするので、それを待っていた。
この矢田河原は、最近桑名へ行ったついでに昔懐かしさに寄ってみたら、「矢田磧町」と名も変わり、県営住宅や市営住宅のマンションがずらりと並んでいて、もはや、
すっかり昔の河原の面影はどこにもなかった。戦前、この辺りはが移ってきて住み着いたが、四日市よりの公害の丁度風下になっていたので、悪臭がひどく咳き込まぬ者はいなかった。
が、昭和四十年過ぎから公害防止の県条例で防止法ができたと思ったら、県有地と河川線流域の国有地なので、それまで住んでいた者らは追い払われてしまい、
後になって県営住宅が次々と建ち並んだのだと教わった覚えがある。
しかし、新郎が新しく切り出した青竹に白い酒をついでクズシリに捧げているユサバリは、はたはたと川風に音させて河原のススキが薙ぐみたいに左右に烈しく動いていた。
やがて、幕のたれをめくってムレコが出てきた。何か捧げるみたいな格好で物を持っていた。
「花嫁(メツレ)迎えじゃ」と娘は囁いて教えてくれた。そして捧げ持ってゆくのが引出物(ハニモノ)と話して、「塩魚(シオウナ)、蓮根(アナネ)、米酒(マサカ)、箕(ミカラワケ)」
と菰にくるんで、向こうの林の中で待っている花嫁や、その親のところへ持ってゆくのだと説明したが、また同じ様な菰包みをムレコが持ち戻ってくるので、
「ワヤになったんか?」つまり、縁談が不調に終わってしまったのかと、せっかく足をマメだらけにしてついてきたのが無駄になったのかと、子供心にも気になって低い声できいてみた。
「ううん。あれは花嫁さん側で用意して持ってきた花嫁手製の箕、花嫁が米を噛んでコウジにした酒。男のものの格好をしとるゴンボかニンジン。それにやっぱし塩漬けの鯖か鮭で同じ」
それを聞いて、では蓮根が女のあそこのシンボルだと判ったので、穴があんなにいくつもあいていたかと、ろくによく覗きこまなかったのを悔やむように娘の下腹部へ眼をやった。
やがて、セブリの中では、クズシリとクズコの豪いさまが立会いで花嫁側からの引出物を受け取ると幕の外へきて、立っている花嫁を中へ招き入れて新郎の両親に挨拶の目見えをさせると、
「アマツリのサヅケ‥‥を今、これからやっとるんだぎゃあ」と、娘は知ったかぶりをして、ここからでは、てんで見えぬ幕の中の有様を、興味深げな私に低い声で続けて教えてくれた。
「アマツリって、上から吊るす自在鉤(テンジン)だろ。それの新しいのを豪い様から貰うんかねぇ」
そういえば、昨日ここへ着いた時、新郎の父親が、グミか山シュユのまっすぐな木を伐りだしたのを持ってきて、立弓にするため焼石で何度も熱くしては曲げているのをみかけてはいた。
2メートル30センチぐらいだが、上から25センチぐらいの個所を焼いて湾曲ができていて、そこから藤で編んだ吊縄がまきつけられ、吊鉤をひっかけまわして使うのだが、
(すべての食物は天からの授かりもの)といった神業(カンワザ)の言い伝えからアマツリと称するのだが、実際に使用する時には天幕に吊るすわけにはゆかぬから、
下の方を50センチぐらい土中へさしこんで固定させ、45度の角度に斜めにし、鉤の藤蔓に薬かん・鍋などをつるし、沸かしたり煮る。
「新生(あらある)、揺張(ゆさばり)の夫婦(めおと)に、天津吊鉤(あまつつりかぎ)下がる、心結いて、受け召せ」とか、
「慈(めぐみ)、畏(かしこ)み、平穏(たいらか)に、堅固(かたらか)に、寿命(いのち)を持続(く)します」といった、厳かというか、まるで神主様の祝詞みたいな一本調子だが、
そのくせよく透る太い声が風に吹かれて、こちらまで幕布を通してはっきり聞こえてきた。
「三重のクズシリ様のお声じゃ‥‥あれがすむと、アワズフタノを嫁さんが貰うんじゃ」娘はまた教えてくれた。
(すべての食物は天からの授かりもの)といった神業(カンワザ)の言い伝えからアマツリと称するのだが、実際に使用する時には天幕に吊るすわけにはゆかぬから、
下の方を50センチぐらい土中へさしこんで固定させ、45度の角度に斜めにし、鉤の藤蔓に薬かん・鍋などをつるし、沸かしたり煮る。
「新生(あらある)、揺張(ゆさばり)の夫婦(めおと)に、天津吊鉤(あまつつりかぎ)下がる、心結いて、受け召せ」とか、
「慈(めぐみ)、畏(かしこ)み、平穏(たいらか)に、堅固(かたらか)に、寿命(いのち)を持続(く)します」といった、厳かというか、まるで神主様の祝詞みたいな一本調子だが、
そのくせよく透る太い声が風に吹かれて、こちらまで幕布を通してはっきり聞こえてきた。
「三重のクズシリ様のお声じゃ‥‥あれがすむと、アワズフタノを嫁さんが貰うんじゃ」娘はまた教えてくれた。
昔は藤蔓やコウゾの樹皮を石で叩いて柔らかくしたもので手編みにしたが、今では木綿を二巾に合せ縫いして、それを赤田の泥で染めて茜色にしたのを腰巻にしているが、
嫁女となると夏でも赤のリンネルのに変わるから、新郎の母が「嫁として認知した」という証拠に、その腰巻をわたすところだというのである。
貰った花嫁はそれまでのをはずして新しいのに変え、これまで腰に巻いていたのは畳んでムレコが川へ流しに行くのを「処女(ウブメ)流し」というのだそうだが、
腰巻の取り換えの時に、下半身をむき出しにして、ぐるりと一廻りして見せねばならぬのだが、毛の多いのは「むさい」と言われるから、まだ陰毛の少ない、
初潮があったらすぐというのが多いと、恥ずかしそうに娘は言い、声を低くして、「わしのは、まんだたんと生えとらんから、サソヒの月のものがあったら、早いとこ嫁入りじゃ」
と、二十歳を越し陰毛が森みたいになると、爺さまの許へしか行けなくなるとも言った。
やがて、天幕の中から、花嫁は上衣(アワギ)は茜木綿の裏をつけた絣の袖なし。
帯は手ぱシゴキと呼ぶ、手の掌をひろげた巾の藤織りの紺色のを締め、髪は銀杏の葉型の青竹の櫛でひっつめ髪をとめ、左右に竹で割った二股かんざしをさした侭の花嫁衣装で、幕の外のこちらへ深々と頭を下げた。
新郎の花婿衣装は、紺の股引きに盲目縞のタクリとよぶ筒袖はんてんで、腰には白さらしの帯をきりっと締めて、頭は七三に分けていたが、鉢巻きなどはしていなかった。
クズシリ、クズコ、ムレコの豪い様は、長帯を左横でノコシ結びに上へはね、その右脇に祝いのしるしに新しい縄っこをぶらさげ、左腰にはウメガイを吊るして後から出てきた。
何を言っているのか意味は判らなかったが、多分、これで二人の婚礼は無事に済んだ。みんな御苦労だったというようなことを言ったらしい。
そこで地べたへ座って、みんなでお祝いと、豪い様へ両手をついて礼を言った。私もわけが判らぬまま土下座してお辞儀の真似をした。
また幕の中へ戻って行った。竹笛が聞こえてきた。サンカの婚礼には、花嫁側の両親や兄弟は縁切りだといって一人も出席してはならぬ事になっているので、一人きりで連れてこられた花嫁の後見役みたいに、
一つのテンジンの他の四つのセブリが代わりに来ているのだが、幕の内へは入れてもらえず、挨拶を受けるだけである。
竹筒で三三九度みたいな事をするのだが、これが終わってクズシリ様が納めに、「イヅモウ」と号令、みんなもそれに合唱する。
すると在郷の床入りというのか、新郎は毛布かコモの巻いたのを花嫁に持たせ、自分はウメガイの柄をしっかりと握って、二人で山の方へ「去づもう」と消えて行ってしまうのである。
これからがウキアブラの宴会で、双方で交換した引出物の他に、余分に塩鯖や鮭や目刺しもあるし、大根、人参、ごぼうの野菜類も山ほどあって、酒や芋アメもあるからセブリに分配される。
火をおこして待っていた母親達は子供等に手伝わせて、男共の集まりへは酒と肴。
子供等にも馳走を食わせるので、私はそちらの食う方にだけ気をとられてガツガツしていた。
しかし、天幕の中のクズシリや新郎の親達は、山入りした婿が、蕗の葉か、柏の葉にくるんだ物を持って来てムレコにわたすまで待っているのである。
ティッシュペーパーなどなかった大正時代ゆえ、キヌタで叩いた藁の柔らかなものか、奢って白木綿を使って包んでくる事もあるが、
「寿(イノチナガシ)‥‥」とムレコが開けてみせて処女膜出血が付着していると、
「イザナミ」だと言って皆が喜び、ムレコはそれを花嫁の両親のセブリまで見せに出かけていくが、ほっとしたように、クズシリ様や新郎の父も集まったセブリの男どものウキアブラの酒盛りに加わってきて、
一緒に呑めや唄えをやって日没まで続け、やがてそれぞれにテンジンを畳んで散ってゆく。
これは後で聞いた話だが、どんな酒でも伐りだしたばかりの青竹の一節に入れて、焼石で燗をすると、アクが青竹の内側の甘皮に吸い取られて芳醇な美酒になって申し分ないとのこと。
現代では、「過去の事にはこだわらぬ」と、がっついて遂行だけを願望とする男はいる。女も二十歳過ぎてまだ処女というのはドブスしかなく、
古臭いみたいだが、戦前の一般家庭は、嫁は家に貰うものだから、その家の跡継ぎを残すためには、前の男のザーメンが体内に少しでも残っている女は拒んだものである。
いくら血統書つきの名犬や名馬でも、さかりがきた際に、他の相手と一度でも交合したのは、もはや純血種はとれぬと毒殺してしまうゆえ、今ではザーメンをとって人工受胎という利益本位の事が現実に行われている。特にサンカ社会は、「純血主義」
という誇りが千三百年も続いている。車が中古より新車がよいといった趣向と違って、混血児を産まされる事なく、純日本人として、居附になってもツナギの手によって同じ純血人種としか結婚せぬ彼らにとっては、
初潮以降つまり子宮が発達してからの非処女だった娘は、婚礼の時にもし花婿によって露見すれば殺されても[可という]クズシリの許可があったという。
「戯れに恋はすまじ」というが、世界的にだらしがないと定評のある日本女性にも、一割何分かはこうした純血型がいるし、花嫁の親兄弟を絶対に見送らせぬのは、
もし非処女の時は殺して埋めてしまわねば部族のハタムラが守れぬゆえ、肉親の情で邪魔されてはと、絶対に参列禁止と掟にしたのであるらしい。
当節は若い人の心中沙汰は滅多になく、七十代や八十代の老夫婦の心中記事がよく新聞に出るが、あれはみな居附サンカの人達であるらしい。
ティッシュペーパーなどなかった大正時代ゆえ、キヌタで叩いた藁の柔らかなものか、奢って白木綿を使って包んでくる事もあるが、
「寿(イノチナガシ)‥‥」とムレコが開けてみせて処女膜出血が付着していると、
「イザナミ」だと言って皆が喜び、ムレコはそれを花嫁の両親のセブリまで見せに出かけていくが、ほっとしたように、クズシリ様や新郎の父も集まったセブリの男どものウキアブラの酒盛りに加わってきて、
一緒に呑めや唄えをやって日没まで続け、やがてそれぞれにテンジンを畳んで散ってゆく。
これは後で聞いた話だが、どんな酒でも伐りだしたばかりの青竹の一節に入れて、焼石で燗をすると、アクが青竹の内側の甘皮に吸い取られて芳醇な美酒になって申し分ないとのこと。
現代では、「過去の事にはこだわらぬ」と、がっついて遂行だけを願望とする男はいる。女も二十歳過ぎてまだ処女というのはドブスしかなく、
古臭いみたいだが、戦前の一般家庭は、嫁は家に貰うものだから、その家の跡継ぎを残すためには、前の男のザーメンが体内に少しでも残っている女は拒んだものである。
いくら血統書つきの名犬や名馬でも、さかりがきた際に、他の相手と一度でも交合したのは、もはや純血種はとれぬと毒殺してしまうゆえ、今ではザーメンをとって人工受胎という利益本位の事が現実に行われている。特にサンカ社会は、「純血主義」
という誇りが千三百年も続いている。車が中古より新車がよいといった趣向と違って、混血児を産まされる事なく、純日本人として、居附になってもツナギの手によって同じ純血人種としか結婚せぬ彼らにとっては、
初潮以降つまり子宮が発達してからの非処女だった娘は、婚礼の時にもし花婿によって露見すれば殺されても[可という]クズシリの許可があったという。
「戯れに恋はすまじ」というが、世界的にだらしがないと定評のある日本女性にも、一割何分かはこうした純血型がいるし、花嫁の親兄弟を絶対に見送らせぬのは、
もし非処女の時は殺して埋めてしまわねば部族のハタムラが守れぬゆえ、肉親の情で邪魔されてはと、絶対に参列禁止と掟にしたのであるらしい。
当節は若い人の心中沙汰は滅多になく、七十代や八十代の老夫婦の心中記事がよく新聞に出るが、あれはみな居附サンカの人達であるらしい。
郭ムソウ(藤原鎌足)が進駐してきて占領下となり、「桃源=藤原」のあて字で彼らが公家となり、原住民は地家とか「賎」として、女は絶対に要求を拒めぬと、選ぶ権利がないまま何世紀かたった。
が、マッカーサー進駐時代から、女は細いのより太いのが好いとなって変わり、「隣の車や男は大きく見えます」とかいって妻も蒸発してしまい、
亭主がテレビの画面で、「戻ってこいよ」と頭を下げるのは、サンカ系の純血民族でない、混血させられて生まれた娘がまた混血児を生んだ奴隷血脈の方の末孫であろう。
何しろ、サンカ社会は一度婚礼を挙げれば、重婚どころか、他の男女と一度でも過ちを犯せば、どちらの側でも殺されてもやむを得ぬハタムラがある。
だからサンカが尼寺へ次々と押し込んで処女の尼僧を犯すようなのは、為にするための作り話でしかあり得ない。
が、マッカーサー進駐時代から、女は細いのより太いのが好いとなって変わり、「隣の車や男は大きく見えます」とかいって妻も蒸発してしまい、
亭主がテレビの画面で、「戻ってこいよ」と頭を下げるのは、サンカ系の純血民族でない、混血させられて生まれた娘がまた混血児を生んだ奴隷血脈の方の末孫であろう。
何しろ、サンカ社会は一度婚礼を挙げれば、重婚どころか、他の男女と一度でも過ちを犯せば、どちらの側でも殺されてもやむを得ぬハタムラがある。
だからサンカが尼寺へ次々と押し込んで処女の尼僧を犯すようなのは、為にするための作り話でしかあり得ない。