新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

サンカ生活体験記「第七章」 伊 勢 湾

2019-12-23 17:26:54 | 新日本意外史 古代から現代まで

サンカ生活体験記「第七章」 

   伊 勢 湾

 <天の古代史研究>にも書いておいたが、私の祖母後藤さだは居附の生まれらしく、サンカのツナガリはあったようである。祖父の不動貯蓄銀行からの金を、月末になると封筒に入れて匿しておき、
裏口から決まった男が来ると、その封筒の他に五銭玉を一つ駄賃にわたしていた。
 今は名古屋の広小路裏でキャバレーやパチンコ屋が並んでいる賑やかな通りだが、米軍のジュウタン爆撃で焼野原になるまでは、三メートル巾ぐらいの碁盤割りの桝目のような路地があった一画で、
鶴重町に曲がる角に共同便所があって、薬師寺とよぶ紺屋の横に輪にした竹束をおき、ムシロを敷いて下駄の歯入れ屋のヨツさんが来ていた。
 今みたいに玩具のない時代なので、奇麗に削られた切れっ端しを貰って、家を組み立てたりして一日中よく遊んでいたものである。
 さて、私の生母「ふさ」は、前に産んだ節夫が亡くなった後、私を身ごもった。現代ならば水子にするというか手術ができたであろうに、当時は有名な女優の志賀暁子でさえ堕胎罪で実刑三年で懲役刑の時代だった。
だから産まれてこなくてもよい私が産み落とされ、父は満州のハルピンへ行っていたので、亡兄の名を戸籍もろとも引き継がされて、全く無用な存在として育っていた。
 母の兄の吉之助が東京へ行き四谷で菓子店を開いたが巧くゆかず、祖母は祖父より金を出させて東京へ行き、母と二人きりの生活が始まった。
 さて、この母が当時まだ二十六歳ぐらいなので、歯医者へ行けばそこの助手を引っ張って来て、私はその間は表で見張り番役だった。
 牛乳屋のおっさんの時には何時間も起きて帰らないので、木っ端を家の前まで持って来て、時間潰しをしていたものである。今思えば四、五人ぐらいの男が次々と来ていたようだ。
 町内では美人だと言われて、金もとらないらしいのに、どれもなぜ長続きしなかったかといえば、顔馴染になってしまった牛乳屋のおっさんが、したり顔で、
「あんな好い顔しているくせに何時間も上に乗りっぱなしでは、わしなんかはヘトヘトだもん、いかすか‥‥」と言っていたのが思い出される。
 どうも母は、どの男にも馬乗りになって自分が何度でも酷使するので、男の方は二回か三回で逃げてしまうらしかった。そのくせ母は私に向かって、
「お前さえいなければ、おかあさんの処へは色んな縁談が来ているけれど、コブつきだから駄目になる」と、男に逃げられると、その腹いせか鯨尺の物差でピシャリピシャリと殴りつけた。
 というのは、やはり母の重みに堪えかね、父は別の母を連れて満州へ行っていたせいもある。だから幼かった私としては、どう自分を処置してよいか判らぬままに、
「そんなものを口に入れたら死んでしまうぎゃあ」と、よく祖母に言われていた箪笥の中のナフタリンを、死ねるものと思い込んでいたから、持ち出してきて十四個まで囓った覚えがある。
 祖母がびっくりして東京から戻って来て、四谷へ連れていかれた時には、飛び込めば死ねると、今はコンクリート蓋のした暗梁の狭い川を大河のつもりでとびこみ、
悪戯をして落ちたと思った通りがかりの人に襟首を掴み出されて戻されて来て、祖母を泣かした覚えがある。
 汽車にひかれて死のうと考えついたのはよいが、じっと線路に寝ていればよいのに、誰も教えてくれないから、闘牛みたいに、進行して来る当時のデゴイチにぶつかっていって、
風圧でふっとばされ、絵本で得た知識で、とびつく蛙とばかり四回も体当たりしたが側までゆけず、土手下に落ちて気を喪って失敗してしまった。
 この汽車以外の失敗談は「英雄誕生」の中で、信長の幼児の事としてナフタリンとは書けぬから青梅にした。続けて七回はトライして失敗した。
 祖母もそのうちに川へ飛び込んだ私を先に帰してから戻ってきて、留守中に烈しくなった母の男漁りに困惑して再婚させる肚になったらしい。
 祖父は、待合をやらせているオクニさんの許へ私を養子に出し身軽にして、母を嫁に出す算段をしたが、祖母としてはそれではおもしろくない。
そこで私を下駄の歯入れ屋をしているヨッさんに頼んだのである。
 ザボといって三代[の間]は直系のハラコの下の位置付けに養子はなるのだが、なにしろ毎月の奉納金も多かったし、
小さな子なのでハラコの一人にしてくれるとの尾張一(はじめ)の許しが出たので決まったのである。
 まだサンカのサンカたる事など知らないが、生母から、よくしなう鯨の三尺指でピシピシ殴られるのは痛いから、祖母の言いなりに水筒と乾パン四袋と金包らしい封筒を渡されて、
ヨッさんについていったが、竹の輪を首に担がされた。
 カマドの煙突がススでつまった時につつく具なので、首筋に黒いススの塊りが入ってきて変な厭な思いだったが、川のある処まで行くと、ヨッさんが裸になって浸かれというので、
そうするとさっぱりして気持ちがよくなった。これからが、私の山窩生活体験記である。
参謀本部の五万分の一の地図を今みてもどうしても見当がつかないが、初めて行ったセブリには小さな沼があった。
 [ヨッさんには]私より年上の十二、三の娘を上に子供が四人いた。夜はどうして寝たか覚えていないが、朝になると野ぜり草摘みが子供の仕事なので私もついて行った。
 持ち帰って鍋に入れて汁にして朝飯がすむと、ヨッさんは道具を担いで仕事に出かけた。子供らは沼みたいな池の周りに輪になった。
 年上の娘が、着ているものを脱いで素っ裸になると、下の三角形のところに、薄いが陽に光る産毛が生えだしていたのが今でも私の脳裏に焼き付いている。
なんだか薄かったが金色の針みたいに視えた記憶がある。
 他の子達も素っ裸になって沼へとびこんだので、私だけがパンツをはいた侭とはゆかず脱いだところ、あまり少女の産毛ばかり見つめていたせいか、まだ子供なのに、
おしっこを堪えていた時みたいに直立し勃起しているのが恥かしく、背を向けて冷たい水にとびこんだものだ。
 まだ戦前で減反政策などなかった頃で、米のモミを汲いあげて選別する箕は大事な農家の調度だった頃である。
 温めたまま火灰に埋めてあった焼石の火力を強めて大鍋を乗せ、朝の残りものと前夜の魚を一緒にした薄いオジヤが、沼から上がってきた子供らの食う昼飯であった。
 「ミカラワケ」と、箕の事を呼んでいたが、これの材料の青竹を細く裂き曲げやすいように焼石で熱くなった地面に差し込んで、母親に編みやすくさせるのが子供らの午後の仕事だった。
 「アー」とお日さまに叫んで、歳順に沼の上から次々と飛び込んで、顔を洗ったり頭の毛を棘草のタワシで互いにこすり合っていた順番が青竹割りの際も同様で、
青竹を四つ割りにするのは桃色の割れ目を視せていた姉娘で、それを分け与えられて編めるようにするのは歳の順でやり、私は焼け土の中へ差し込めるように棒で突いて地面に孔を掘るような仕事だった。
 なにしろ父親(カド)が戻ってくるまでには一つは作っておかねばならぬと、母親(メメ)は枠になる外側をこしらえつつ子供らを監督していた。
が、無言で睨みつけているのではなく面白そうに、
「上(サキ)の父母(オヤ)の爺っちゃまや婆さまの、そのまたサキチチも、てんでに別にセブリはっとる‥‥お前らも父母(チチ)の兄弟(ハラカラ)で今だけは一緒
にこうして働いてチカラだが、大きうなりゃ別々じゃ‥‥そうそう、大石主税って知っとるんか‥‥そうか知らんか。忠臣蔵の芝居で内蔵介の伜の名だ」
「ふむ、そうすると大石の父子もセブリもんか。わしらと同じで昔はスダチして行ったんか?」
「さあ、赤穂城の家老だったと聞いた事があるで、三代前から居附になって侍になっとんや」
 まさか大石内蔵介や主税がサンカのイツキの出とは、当時の新聞は総ルビで子供にも読めたから討ち入りの話は知っていた。が、塩作りの土地の家老ゆえ、そうかもしれぬと思った。
 思ったよりはかがいって、後は母親一人で出来上がるとみてとったか、キダチをふりあげ、
「もうええ。遊んでこ」と、箕作りから開放され、てんでに又、丘の陰の沼の方へ行った。
 どうあっても、もう一度金色に輝いていた産毛が見たくてしょうがなく、思い切って、「これ、やる。見せんか」
と着物の帯のところに、タクシあげといって背丈が伸びた時に糸を抜いて下へ降ろせば長くなるよう、ぐるっと溝みたいな袋になっているところから五銭玉を一つ摘まみ出して、おずおずと、
だいぶためらってから、甘えるみたいに姉娘に頼んでみたのである。
 
といって私が母の血を引き早熟だったからでもない。
名古屋の東本重町の隣家が松乃湯とよぶ銭湯だった。なにしろ広小路(名古屋市中区)から入ってくる角に浪越連の検番があったから、町内にも芸妓置屋が六軒あったが、
蒲焼町へかけては十軒もあり、昼下がりにはゾロゾロと姐さんたちが入浴にくる。
まず掛湯を浴びて湯槽に入って身体を温めて出てくると、持ってきたガーゼを一番長い中指に巻きつけ、屈みこんで体の奥の方を丹念に何度もすすぎ、しごくみたいにして洗う。
 番台のおばちゃんに、初めはわけが判らないので、「何で、あんなとこ、よぉ洗うの?」ときくと、
「今日のお客さんが拡げてみやあた時、前の日のお客さんのが中に入って残っていて、白いのが滲み出てきたら具合が悪いぎゃあ‥‥そんだで、商売道具をみんなが大切にしやぁすのやろ」
と笑いながら教わった事があるので、姐さん達が中に入り込んだのを出すために腰を振り、「拡げてみせるのは、主さんばかり、チントンシャン」
と鼻唄をうたいながら、下っ腹を左右から押して、奥深くにくっついている白い痰みたいな塊りを下へ落とす姐さん達も見た。
 当時、「毛切り石」というのが上り湯の欄干の並ぶ台の上に乗せてあった。今のファッションモデルやビニ本のモデルさんは安全剃刀でジャリジャリ剃ってしまうそうだが、昔は違っていた。
「剃ったり鋏で剪ると後から硬い毛がはえてきて、お客に毛切れさせては商売上申し訳ない」
といったプロ意識が、火打ち石みたいな二つの石で、伸びた毛を叩き切って短くするので、これが跨倉なので自分では巧くやれぬからと、
向き合って湯桶に腰掛けて互いにやるのだが、照れ臭がって双方で笑ってしまいはかがゆかないけれど、私のような子供だときわめて便利である。
 カチカチ山みたいな姐さんたちの繁茂した森みたいな小山の不揃いなところを、毛切り石で丹念に叩き切ると、湯上がりの時にお駄賃に一銭玉が貰えた。
屈みこんで仰いで無気味な物を石で叩いたとて、栗のイガと違って食べられる実が口に入るわけではない。だから、一日に五人だけにして紐の通る穴あきの五銭玉に番台で換えてもらうと、
それで止めにしていたものである。
 その時に差し出した五銭玉も、いわば稼いだ自分の金である。なにしろ松乃湯で覗いてきたのは、紫色に変わって小陰唇がはみだしたのもいて、
まだ、五厘玉で飴が買えた当時の一銭の仕事。だから子供心にも醜悪に思えたが、銭になるのでやっていただけの話。
 それが、金色に輝く薄い産毛の、それは今まで見た事もないものなので、何としてでも、改めてよく見たかった。
 当時の五銭玉は娘にも初めて見る大金だったらしく、裏返したり透かしてして眺めてから、
「玩具じゃのうて、本物の銭じゃね」と溜め息をついた。
 これまで松乃湯でキンツバを二つに割って、アンがはみ出したようなのばかり見馴れているゆえと、よく説明をすればよかった。
 姉娘は弟や妹達に野ぜり摘みを言いつけておいて、私を窪地へ連れて行くと寝かしつけ、
「初潮(さそい)がまだないでハタムラには背かんじゃろが、カドやメメのやってる事を子供がすると、皮の肉が裂けるまでキダチで殴られ、お仕置きされるで‥‥だで、ちょっとだけだぞ‥‥」
ことわりながら前をまくって、上へかぶさってくると、花ラッキョウのような私の突起物を、ぬるぬるしたところへ上からはめ込んだ。
私は慌てて、見たいだけだったと泣きべそをかいた。
 
しかし、そのうちに妙な心地になってしまい、思わずオシッコを洩らしてしまったらしい。「ししかけたらいかんぎゃあ‥‥」
と、自分の体内に迸った黄色い液体を、私の臍の下のところになすりつけ、「臭うと叩かれるぎゃあ」
と、短い着物の裾をまくったまま沼の方へ行った。
 だから私は、祖母から預けられたとはいえ、ここのセブリの父親のヨシが下駄の歯入れ道具と竹樋を肩に戻って来ると狼狽した。しかし、娘は五銭玉の手前から別に何も言わずだった。
「ハライ」とよばれる仕置きは、草を口へねじこんで声を立てられぬようにして、後手にして天幕に縛りつけて、箕作りのキダチで散々に尻を打ちすえるから、思わず
天幕を払うようにひっくり返してしまうので又も余計に折檻される。(これで子供を殺してもセブリの掟では許される)
とは前に聞いていたので、祖母が預けたのは何も下駄の歯入れ屋の修行のために小僧奉公に出したのではなく、男っ気がなくては最早どうともならなくなった女盛りの母の再婚のためだぐらいは、
子供心でも判っていたから、きっとキダチで殴り殺されるだろうと、それまで散々自殺を企てていたくせに、他人に殺されるとなると覚悟がつかず、おどおどしきっていた。
 しかし、沼で獲れた魚を竹に刺したのを肴にしてドブロクを呑み、子供達にも飯を喰わせていたヨシは、まだ何も気づいていないのか、機嫌のよい顔で芹(ゼンコ)の煮つけをつまみつ、
「今夜はここでハラウ」と言い出した。さては、勘で判ったのかと私はドキっとした。「なんぞあったのかのう」と母親がきくと、それにニタっとして父親は娘の方へ顔を向け、
「シシとこの娘にサソイ(初潮)があって祝ったで、国カズさまのお指図で明後日に矢田で祝言じゃ‥‥同じテンジン仲間じゃ。一日早う行ってやって、サチノリしたり祝言の手伝いじゃ」
「そうか。あすこのカミコが女になったのかや。国カズさまのツナギが名古屋のあんたの仕事場へ告げにきたのは同じ五ハリのテンジン仲間だから、仕事を休んで手伝うてやるじゃろか」
「うん、相手は三重カズんとこのセアナだとよぉ‥‥他国との縁組みで作法に欠けちゃぁ尾張カズ様の面目にかかわる。そんだで、うちだけじゃのうて、同じテンジンの
他の三つのセブリも今晩から明朝にかけて集まって、みんなで粗略のないようにやれとの事だがね」と言った。
「そうか。だったら飯すんだら早う寝て、明日は夜明けに払って行かすか。矢田までなら昼には着こうが‥‥」
と、ゆっくり呑んでいる父親を急かすようにドブロクの瓶を取り上げた。「‥‥矢田って何処?」ときくと、姉娘が箸を休めて、
「三重じゃが、遠くねえ。近いがねぇ」と、先刻の事などもう忘れたように、したり顔で答え、弟や妹に、「早う済まさんか」と急かした。

 セブリの子は三歳になると薪拾い、五歳になると食せるものを見つけて歩くから、男は十六ぐらいでも、初潮のあった娘と女夫(マグヒ)となって独立したセブリを持つ。
なにしろ二人きりの家族(うかり)ゆえ、生計には困らない。年老いて両親(セブチ)が生計に窮するような事があっても、国一が皆から集めて蓄えた金の中から面倒をみるから、
子供には負担が一切かからぬような仕組みがサンカ社会なのである。
 なにしろ、暗くなると他にする事はないし、先に産まれた子は早く女夫となって独立してゆくから、気兼ねなく母親が父親に迫るというより、進んで上に乗っかってゆくものだから、
「第一子はカミコ」「第二子はツギコ」「第三子はミツメ」「第四はヨツメ」「五番目はイツメ」次いで、六目、七目、八目、そして九番目(トマエ)、十番目(トウ)、
十一番(トイ)、十二番(トニ)、十三番(トサ)、十四番目(タシ)、十五番目(トイツ)、十六番目(トム)、十七番目からの子は、ノグソと男の子でも女の子でもよぶ。
 が、セブリの中では兄はロセ、弟はロト、姉はネ、妹はロモというが、地方によって中に「ン」を入れたり、近畿や中国地方ではロセとは言わずにロエで、こうなると
セブリ独特な言葉ではなく、古代の大和言葉になってしまう。
 女の子の初潮をみると、小豆粥で「サキハエ」というのも、祝うのではなく一人前の女として生きてゆかねばならぬから、行き先に栄えあれかしとの祈り。
 そんな話を聞かされながら、いくらちょこまか駆け足をしても、一番小さな子供にも遅れる自分に、今で言えば自己嫌悪に陥っていた。矢田河原に着いた時には、
他の子と違ってズックを履いていたのに、孔がいくつもあいて足にマメができ、それが潰れて血が黒くなっていた。

    サンカは世界一の純血民族
「婚礼はヨツギ結ビだが、式はウキアブラと言うんよ。みんなで酒盛りするこったがね」
 自分も初潮さえ過ぎたら式を挙げて父や母のセブリから出て一人前になるんだとばかり、己の実の妹や弟よりも、私に娘は話しかけてきた。
だから他のセブリの婚礼の手伝いに来ているとは承知しながら、まるで自分が娘の婿にされ、また馬乗りにされてチビる恐怖を感じた。ただオロオロして言われる侭に地ならしを私はしていた。
 三重の津からのクズシリがここへ婿を連れて、独立の宣言をしに来たのは次の日の朝だった。新しいセブリの布を張ると厳かに、
「身負布(ミオヒヌナ)、揺張(ユサバリ)、移リ居(コモ)り為セ」と唱える。
 唱えながら四方を斬って邪気を払い、そして新しいウメガイ一本を押し戴いて、伴ってきた新郎の頭の上に高く捧げ、さて、おもむろに四方拝をして、
「このウメガイ持て、隅肩(スミカタ)盛る穀物寿(タナツモノイノチナガク)、身殻別(ミカラワケ)の一族(ヤカラ)となれ」
と厳かに宣告(のりつげ)して、ウメガイを授ける。
 この宣告は神代の昔、穴から地上に出て、布張(ヌナバ)りになった時の勅命の「史言(フミゴト)」として、セブリに伝承されている「宣告(ノリツゲ)」である。
かしこまって、この席には、それぞれクズコ、ムレコと、それにエラギ(カミ)の一(フキタカ)が竹笛を持って列席する。
 私や他の子供はもちろん、ヨシやその女房や他の天神から手伝いに泊りがけで来た連中も、式が終わるまでは遠巻きにして、酒盛りになると、ムレコが手招きするので、それを待っていた。
 この矢田河原は、最近桑名へ行ったついでに昔懐かしさに寄ってみたら、「矢田磧町」と名も変わり、県営住宅や市営住宅のマンションがずらりと並んでいて、もはや、
すっかり昔の河原の面影はどこにもなかった。戦前、この辺りはが移ってきて住み着いたが、四日市よりの公害の丁度風下になっていたので、悪臭がひどく咳き込まぬ者はいなかった。
が、昭和四十年過ぎから公害防止の県条例で防止法ができたと思ったら、県有地と河川線流域の国有地なので、それまで住んでいた者らは追い払われてしまい、
後になって県営住宅が次々と建ち並んだのだと教わった覚えがある。
 しかし、新郎が新しく切り出した青竹に白い酒をついでクズシリに捧げているユサバリは、はたはたと川風に音させて河原のススキが薙ぐみたいに左右に烈しく動いていた。
やがて、幕のたれをめくってムレコが出てきた。何か捧げるみたいな格好で物を持っていた。
「花嫁(メツレ)迎えじゃ」と娘は囁いて教えてくれた。そして捧げ持ってゆくのが引出物(ハニモノ)と話して、「塩魚(シオウナ)、蓮根(アナネ)、米酒(マサカ)、箕(ミカラワケ)」
と菰にくるんで、向こうの林の中で待っている花嫁や、その親のところへ持ってゆくのだと説明したが、また同じ様な菰包みをムレコが持ち戻ってくるので、
「ワヤになったんか?」つまり、縁談が不調に終わってしまったのかと、せっかく足をマメだらけにしてついてきたのが無駄になったのかと、子供心にも気になって低い声できいてみた。

「ううん。あれは花嫁さん側で用意して持ってきた花嫁手製の箕、花嫁が米を噛んでコウジにした酒。男のものの格好をしとるゴンボかニンジン。それにやっぱし塩漬けの鯖か鮭で同じ」
 それを聞いて、では蓮根が女のあそこのシンボルだと判ったので、穴があんなにいくつもあいていたかと、ろくによく覗きこまなかったのを悔やむように娘の下腹部へ眼をやった。
 やがて、セブリの中では、クズシリとクズコの豪いさまが立会いで花嫁側からの引出物を受け取ると幕の外へきて、立っている花嫁を中へ招き入れて新郎の両親に挨拶の目見えをさせると、
「アマツリのサヅケ‥‥を今、これからやっとるんだぎゃあ」と、娘は知ったかぶりをして、ここからでは、てんで見えぬ幕の中の有様を、興味深げな私に低い声で続けて教えてくれた。
「アマツリって、上から吊るす自在鉤(テンジン)だろ。それの新しいのを豪い様から貰うんかねぇ」
 そういえば、昨日ここへ着いた時、新郎の父親が、グミか山シュユのまっすぐな木を伐りだしたのを持ってきて、立弓にするため焼石で何度も熱くしては曲げているのをみかけてはいた。
 2メートル30センチぐらいだが、上から25センチぐらいの個所を焼いて湾曲ができていて、そこから藤で編んだ吊縄がまきつけられ、吊鉤をひっかけまわして使うのだが、
(すべての食物は天からの授かりもの)といった神業(カンワザ)の言い伝えからアマツリと称するのだが、実際に使用する時には天幕に吊るすわけにはゆかぬから、
下の方を50センチぐらい土中へさしこんで固定させ、45度の角度に斜めにし、鉤の藤蔓に薬かん・鍋などをつるし、沸かしたり煮る。
「新生(あらある)、揺張(ゆさばり)の夫婦(めおと)に、天津吊鉤(あまつつりかぎ)下がる、心結いて、受け召せ」とか、
「慈(めぐみ)、畏(かしこ)み、平穏(たいらか)に、堅固(かたらか)に、寿命(いのち)を持続(く)します」といった、厳かというか、まるで神主様の祝詞みたいな一本調子だが、
そのくせよく透る太い声が風に吹かれて、こちらまで幕布を通してはっきり聞こえてきた。
「三重のクズシリ様のお声じゃ‥‥あれがすむと、アワズフタノを嫁さんが貰うんじゃ」娘はまた教えてくれた。

 昔は藤蔓やコウゾの樹皮を石で叩いて柔らかくしたもので手編みにしたが、今では木綿を二巾に合せ縫いして、それを赤田の泥で染めて茜色にしたのを腰巻にしているが、
嫁女となると夏でも赤のリンネルのに変わるから、新郎の母が「嫁として認知した」という証拠に、その腰巻をわたすところだというのである。
 貰った花嫁はそれまでのをはずして新しいのに変え、これまで腰に巻いていたのは畳んでムレコが川へ流しに行くのを「処女(ウブメ)流し」というのだそうだが、
腰巻の取り換えの時に、下半身をむき出しにして、ぐるりと一廻りして見せねばならぬのだが、毛の多いのは「むさい」と言われるから、まだ陰毛の少ない、
初潮があったらすぐというのが多いと、恥ずかしそうに娘は言い、声を低くして、「わしのは、まんだたんと生えとらんから、サソヒの月のものがあったら、早いとこ嫁入りじゃ」
と、二十歳を越し陰毛が森みたいになると、爺さまの許へしか行けなくなるとも言った。

 やがて、天幕の中から、花嫁は上衣(アワギ)は茜木綿の裏をつけた絣の袖なし。
帯は手ぱシゴキと呼ぶ、手の掌をひろげた巾の藤織りの紺色のを締め、髪は銀杏の葉型の青竹の櫛でひっつめ髪をとめ、左右に竹で割った二股かんざしをさした侭の花嫁衣装で、幕の外のこちらへ深々と頭を下げた。
 新郎の花婿衣装は、紺の股引きに盲目縞のタクリとよぶ筒袖はんてんで、腰には白さらしの帯をきりっと締めて、頭は七三に分けていたが、鉢巻きなどはしていなかった。
 クズシリ、クズコ、ムレコの豪い様は、長帯を左横でノコシ結びに上へはね、その右脇に祝いのしるしに新しい縄っこをぶらさげ、左腰にはウメガイを吊るして後から出てきた。
 何を言っているのか意味は判らなかったが、多分、これで二人の婚礼は無事に済んだ。みんな御苦労だったというようなことを言ったらしい。
 そこで地べたへ座って、みんなでお祝いと、豪い様へ両手をついて礼を言った。私もわけが判らぬまま土下座してお辞儀の真似をした。
 また幕の中へ戻って行った。竹笛が聞こえてきた。サンカの婚礼には、花嫁側の両親や兄弟は縁切りだといって一人も出席してはならぬ事になっているので、一人きりで連れてこられた花嫁の後見役みたいに、
一つのテンジンの他の四つのセブリが代わりに来ているのだが、幕の内へは入れてもらえず、挨拶を受けるだけである。
 竹筒で三三九度みたいな事をするのだが、これが終わってクズシリ様が納めに、「イヅモウ」と号令、みんなもそれに合唱する。
 すると在郷の床入りというのか、新郎は毛布かコモの巻いたのを花嫁に持たせ、自分はウメガイの柄をしっかりと握って、二人で山の方へ「去づもう」と消えて行ってしまうのである。
 これからがウキアブラの宴会で、双方で交換した引出物の他に、余分に塩鯖や鮭や目刺しもあるし、大根、人参、ごぼうの野菜類も山ほどあって、酒や芋アメもあるからセブリに分配される。
 火をおこして待っていた母親達は子供等に手伝わせて、男共の集まりへは酒と肴。
子供等にも馳走を食わせるので、私はそちらの食う方にだけ気をとられてガツガツしていた。
 しかし、天幕の中のクズシリや新郎の親達は、山入りした婿が、蕗の葉か、柏の葉にくるんだ物を持って来てムレコにわたすまで待っているのである。
ティッシュペーパーなどなかった大正時代ゆえ、キヌタで叩いた藁の柔らかなものか、奢って白木綿を使って包んでくる事もあるが、
「寿(イノチナガシ)‥‥」とムレコが開けてみせて処女膜出血が付着していると、
「イザナミ」だと言って皆が喜び、ムレコはそれを花嫁の両親のセブリまで見せに出かけていくが、ほっとしたように、クズシリ様や新郎の父も集まったセブリの男どものウキアブラの酒盛りに加わってきて、
一緒に呑めや唄えをやって日没まで続け、やがてそれぞれにテンジンを畳んで散ってゆく。
 これは後で聞いた話だが、どんな酒でも伐りだしたばかりの青竹の一節に入れて、焼石で燗をすると、アクが青竹の内側の甘皮に吸い取られて芳醇な美酒になって申し分ないとのこと。
 
現代では、「過去の事にはこだわらぬ」と、がっついて遂行だけを願望とする男はいる。女も二十歳過ぎてまだ処女というのはドブスしかなく、
古臭いみたいだが、戦前の一般家庭は、嫁は家に貰うものだから、その家の跡継ぎを残すためには、前の男のザーメンが体内に少しでも残っている女は拒んだものである。
 いくら血統書つきの名犬や名馬でも、さかりがきた際に、他の相手と一度でも交合したのは、もはや純血種はとれぬと毒殺してしまうゆえ、今ではザーメンをとって人工受胎という利益本位の事が現実に行われている。特にサンカ社会は、「純血主義」
という誇りが千三百年も続いている。車が中古より新車がよいといった趣向と違って、混血児を産まされる事なく、純日本人として、居附になってもツナギの手によって同じ純血人種としか結婚せぬ彼らにとっては、
初潮以降つまり子宮が発達してからの非処女だった娘は、婚礼の時にもし花婿によって露見すれば殺されても[可という]クズシリの許可があったという。
 「戯れに恋はすまじ」というが、世界的にだらしがないと定評のある日本女性にも、一割何分かはこうした純血型がいるし、花嫁の親兄弟を絶対に見送らせぬのは、
もし非処女の時は殺して埋めてしまわねば部族のハタムラが守れぬゆえ、肉親の情で邪魔されてはと、絶対に参列禁止と掟にしたのであるらしい。
 当節は若い人の心中沙汰は滅多になく、七十代や八十代の老夫婦の心中記事がよく新聞に出るが、あれはみな居附サンカの人達であるらしい。
 郭ムソウ(藤原鎌足)が進駐してきて占領下となり、「桃源=藤原」のあて字で彼らが公家となり、原住民は地家とか「賎」として、女は絶対に要求を拒めぬと、選ぶ権利がないまま何世紀かたった。
 が、マッカーサー進駐時代から、女は細いのより太いのが好いとなって変わり、「隣の車や男は大きく見えます」とかいって妻も蒸発してしまい、
亭主がテレビの画面で、「戻ってこいよ」と頭を下げるのは、サンカ系の純血民族でない、混血させられて生まれた娘がまた混血児を生んだ奴隷血脈の方の末孫であろう。
 何しろ、サンカ社会は一度婚礼を挙げれば、重婚どころか、他の男女と一度でも過ちを犯せば、どちらの側でも殺されてもやむを得ぬハタムラがある。
だからサンカが尼寺へ次々と押し込んで処女の尼僧を犯すようなのは、為にするための作り話でしかあり得ない。




NHK 堂々日本史の疑問

2019-12-18 15:18:49 | 新日本意外史 古代から現代まで
幕末輸入された南軍の廃銃

 
  ▼NHK 堂々日本史の疑問▼
 以前  NHKでは「堂々日本史」なる番組で日本史の断面を見せてくれていた。
先日も、明治維新を、榎本艦隊と奥羽連合という視点から捉えて放映していた。
全辺を見ている訳ではないので批評する資格は無いかもしれないが、
しかしどうも世界史と対比するグローバルな視点が欠けているように思える。
  (私は秘かに”堂々と臆面もなく通説俗説を放送する日本史”と呼んでいるが)
さて従来の幕末史解明は、勤皇の志士をスター扱いにするか、さもなくば一部の諸藩主の行動を帰納的に演繹するする方式、つまり個人的バイタリティーに依存する講談的論理しかなく、
肝腎な民衆を等閑視しているが、世界中何処へ行ったとて民衆の参加しない革命などありえない。
NHKは大衆からの(視聴料)で成り立っているのに、大衆の側に立っての視点が欠落している。
江戸末期、この時代は、米価にしろ、
「安政三年越後米一斗四百八十文だつたのが、十年後の慶応二年には一斗につき四貫三百六十文と九倍に騰貴し、ご府内の小売値は百文につき米は二合、麦でも
三合と生計苦しくなり民は困窮す」と、 <江都評判記>に出ている程の悪性インフレの世の中だった。
そしてもう一つのグローバルな視点からの明治維新とは何だったのか?
幕末戦というのは、当初は被圧迫階級の(神の民が)、その蓄積した金融資本に よって、政治体制を変革する目的で始めたものが、終局において薩長の西南勢力と東北勢力の武力衝突になった。
そしてこの原因はアメリカだった。
『アメリカ建国史』によると、
「一八六五年、つまり慶応元年、米国内の南北戦争が終結すると北軍は押収した南軍の武器弾薬が、密売商人の手によってインデアン居住区域に流れ込み、
アパッチ族を始め各地で反乱事件が勃発するのに手を焼き、慶応二年にアーノルドジョンソン大統領はこれを国外へ払い下げ、輸出する断固たる政策をとった。
そこで この夥しい南軍の銃器が東は上海、西はポートサイドに野天積み同様に山積される状況を呈した」
長崎へ行くと「歌劇お蝶婦人の遺跡」だと、尤もらしく案内されるグラバー邸があるが、この英人グラバーこそ、米国払い下げの上海の南軍の銃を、薩長に売りつけて大儲けした元凶なのである。
さて、その英国が一八一五年のウィーン会議で占領したケープ地帯から追われ、 トランスバール共和国に移った和蘭人の中に、エドワード・スネルという男がいた。
当時の日本駐在公使だった『ファン・ボルスブック回顧録』によると、
反英精神にこり固まったスネルは「南阿の恨みを日本で」と考えたのか、ポートサイド方面に積んであった米国南軍の銃器を薩長とは反対に幕府に売った。
大倉喜八郎が神田和泉橋で開いた店も、スネルの南軍の銃を仕入れて売っていた。
やがてスネルは、長岡藩の河井継之助のために汽船をチャーターして新潟へ行き、そこから会津、仙台へと武器輸送をした。
双方にアメリカ南軍の廃銃がゆき渡り、それまで徳川家だけが独占輸入していた火薬も、グラバーやスネルによって入ってきたから、ここに日本列島も南北戦争を始めたのである。
だが、本家のアメリカでは北軍が勝ったが、日本では反対に薩長の南軍の方が勝利を得た。
この結果、スネルは当時のアメリカ大統領グラントにこの責任をとり、 カリフォルニアに広大な土地を払い下げさせ、そこへ会津の婦女子を送りこんだのが「ワカマツ・コロニー」と呼ばれ明治の末まであった。
しかしアメリカさえ南北戦争をしなかったら、日本列島はその廃物利用の銃器を押しつけられることなく、従って幕末戦争の惨禍は無かったのである。
  勿論歴史にIFはないが、想えばまこと、怨めしい話しである。
維新の動乱というと、上野戦争の天野八郎、会津の白虎隊、天童藩のからす組、 細谷十太夫といったように、個人的武勇伝ばかりが現時点では流布されているが、
この日本南北戦争の実相は、これまで公表されていないが「偽金作りの戦争」だったのである。
何しろかってのベトナム戦争では、南ベトナム政府軍に米国が武器供給するのも無料なら、北ベトナム軍に中国やソ連が兵器を送荷するのも贈与援助だったろうがこの当時は違っていた。
照準も合わないようなシャーピス銃やミゲール銃を寄越しておいて、アメリカ人は仲買人のグラバーやスネルから、どんどん代金を巻き上げた。
(もう百五十年 遅く国内の南北戦争を始めたら、ベトナム政府軍と解放軍の戦いみたいに双方とも、新鋭兵器がロハで貰えたのに、等と考えてはいけない・・・・アメリカは
終戦後だって、無料だと家畜飼料の古いメリケン粉や脱脂乳をガリオア資金でよこしながら、後になると、当時の吉田茂首相を苛めて、その代金を日本国民の税金で徴集した。
  つまり廃物を押しつけて日本からゼニを取るのはアメリカの伝統商売らしい)
さて、この結果、正金をアメリカの南軍廃銃に吸い取られ、金欠病となった日本列島の両軍は何をしたかというと先ず「会津事情」掲載の、
「会津宰相にあげたたきものは、白木三方に九寸五分」という東北地方の俚謡を紹介する。
「朝敵となって錦旗に敵対した罪を、東北人は恐れおののき、その主君松平容保の自決まで求めたものである」と、この本の筆者は調子の良い注釈をつけているが、
『会津戊辰戦争』によって調べると、
「松平容保は鳥羽伏見の敗戦にて江戸へ戻ると、江戸金座銀座の職方を纏めて会津へ伴い、若松城西出丸に製造所を設置して、従来の一分銀を打延して三等分し、
これを二分金の鋳型に入れて金めっきをなした。だから一分銀が六倍の一両二分になり、制作費は一個九百文の割合で職方に出来高払いをした。
尚私に製造したいと出願する者には、一割の運上金とって、これを公許した。
このため会津領を始め東北地方は物価が六倍から十倍になり、住民は塗炭の苦渋を味わわされた」とある。東北人が殿様に責任を取って腹を切れと、激昂したのが本当の話らしい。
これに対して日本南軍はどうしたかというと、長州閥は京阪の鹿嶋屋や鴻池から調達したが、薩摩は堂々と偽貨をこしらえ、「官武通紀」第八巻にも、
「薩州鹿児島にて(琉球通宝)なる新鋳のものを製造し、中川宮、近衛家をもって京摂の地にも流通さすべく禁裏へ預り出づ」と出ている。
薩摩製でありながら(琉球)と逃げているあたりは、南軍の方が知恵者揃いのようである。
  つまり、この戦争の実相たるや(グレシャムの法則)により勝敗がついたのである。
というのは、南軍は(琉球通宝)どころか「維新史料」によると、三岡公正の献策とことわって(引換一切これなく候)と、堂々と明記した紙幣を、
四千八百九十七万三千九百余両もこしらえ、これをばらまいた。
北軍の会津では、お城の櫓でトッテンカンと一分銀をたたき延ばしてから、切断して四っに分け一つずつ巴焼をやくように金を被せ、これを油で揚げて固めた。
だから明治、大正まで金めっきの事を「てんぷら」といった。しかし何しろこの「てんぷら」の方は、四個作って一両なのに、南軍では紙切れ一枚が一両である。
まるで偽金作りのスケールが違いすぎる。それにどっちも偽金とはいえ、銀の入っている天ぷら金のほうより紙切れ一枚の方が悪貨に決まっている。そこで、
「悪貨は良貨を駆逐する」の定義により、金めっきよりも始末の悪い紙の偽札の方がこの戦争の帰趨を決定してしまったのである。
これによって国民の蒙った惨状は全く「悲しき哉」の一語につきる。酷い話しである。
さて、歴史という過去の具象を解明する手法として様々な”史観”がある。
世界史では、トインビーの白人優越史観があり、コインブラ大学のオロラ・ケント博士などは有色人種の立場からトインビー史観を真っ向から論難している学者もいる。
一枚の紙にも両面が在るごとく、一方からだけの見方はおかしい。これは常識である。
翻って日本の歴史の現状はどうだろう。
相変わらず東大史学会を頂点として、足利史観、徳川史観、記紀偏重の皇国史観である。
こうした現状の中から、学者集団でもないNHKに全く新しい視点、史観で番組を作れ、といっても無理な事を理解出来ない程頭は固くない。
しかし、前記したように日本開闢以来の”八切史観・八切史学”があり、ただアカデミックな歴史学会が認めないだけだが、
 探す努力を怠らなければ良質の資史料もまだある。
  以前、NHKは上杉謙信を男として放送していたが、近頃は「上杉謙信は女だった という説もあるが・・・・・」とお茶を濁している。これなども八切史観では
「謙信女人説」を三十年も前に解明している。近年、百科辞典類も謙信の顔は明らかに女と解るよう変わってきている。
   さて、細かな点を上げればきりがないが、大事なことは、NHKは今後も通説、 俗説を下敷きにして歴史物を放送するのか、
  調べられるだけ調べ、新しい史観によって放送する気があるのか、ないのか、ということである。
  NHKは日本の放送界をリードしている、紛れもない一方の雄である。
世はまさに衛星放送デジタル放送4K、5Kの時代であり、地上波放送もデジタルに移行するなど、本格的な多チャンネル時代を迎え、民放、外資系も含めた大競争時代に突入するだろう。
このような時代には国民の税金で運営されているNHKの果たす役割は重い。
いい番組も沢山あるのに事、歴史番組に関しては勉強不足が惜しまれる。 最後に「ヤラセ」の体質も源に慎むべきである。


 

米国官僚の相次ぐ辞任の危機的状況

2019-12-14 15:57:15 | 新日本意外史 古代から現代まで
米国官僚の相次ぐ辞任の危機的状況

ヤフーニュースでは以下のような記事が掲載されていた。
米国防総省のシュライバー国防次官補(インド太平洋安全保障担当)が近く退任することが11日、複数の関係者への取材で分かった。
 北朝鮮情勢が緊迫する中、インド太平洋地域を統括する高官の退任が米国の安全保障政策に影響を与える可能性もある。
トランプ政権では政府高官の辞任が相次いでおり、来年秋の大統領選を前に空洞化が一層進むとみられる。
 関係者によると、シュライバー氏は年内にも退任する意向を伝えた。国防総省は時事通信の取材に回答していない。
同氏は2017年10月にトランプ大統領に指名され、18年1月に就任した。
さらに、フィナンシャル・タイムズは2日、「官僚『不在』、対中冷戦に影」と題する記事を掲載しました。
政権交代に影響されない官僚が舞台裏にいなければ、米国がかつての米ソ冷戦を制することはできなかったと指摘している。
米国が中国と覇権を競うなら、彼らが再び必要になるものの、トランプ政権下では官僚ポストの空席や離職が相次いでおり、
こうした事態は予測もつかないほどの悪影響を米国に長期的に及ぼすとしています。
これは、ジャナン・ガネシュ氏の論文で非常に優れた内容だと思います。
突然理不尽にクビにされるなど、米国の官僚はトランプ大統領に嫌気が差して自ら辞める人も増えています。
トランプ大統領は官僚を使いこなすことができず、この数年で米国の官僚組織を破壊してしまったと言えます。
(日本の官僚は「桜を見る会」でも判るようにこの点、安倍長期政権に取り込まれ、おもねり忖度して、表向き恭順の意を表しているが、
裏でサボタージュの兆候も見えるので、国民は注視しなければならない)
米ソ冷戦時代、米国を勝利に導いた一因は、官僚組織による徹底的な軍事、経済、政治のソ連の分析でしたが、今はもう頼ることができない状態です。
そして、トランプ大統領の「勘」だけで闇雲にパンチを繰り出しているのが、今の米国です。
これは政府機能の低下であり、長期的には米国を破壊したとも言えます。
米中冷戦を考えたとき、このような状況では長期的に戦っていくことは難しい、とジャナン・ガネシュ氏は指摘していますが、私も全くその通りだと思います。
こうしたトランプ政権の相次ぐ官僚離職は、米国に長期的な悪影響を及ぼすと考えられています。
従って日本としては歴史から学ぶことで、今後の展開を予測することができます。その予測を基に、
トランプ大統領が再選しても、新大統領が誕生しても両睨みの対米外交の対策を、今から先んじて打つことが大切になるでしょう。

「カ」の付く女の結婚事情

2019-12-12 11:57:01 | 新日本意外史 古代から現代まで

「カ」の付く女の結婚事情

「どうしても夫婦別れをしたい」という女性が訪れてきた。知人の奥さんである。
なにしろ数年前の統計では七分十七秒に一組の離婚と聞いているが、今や無届け結婚の離婚を入れるならば、
それは届け出結婚より、はるかに離婚数が上回るそうだから驚きである。
「旧姓は」と聴くと「川崎です」と答えた。
それで言いにくかったが思い切ってはっきりと言った。
「あんまり結婚には向きませんね・・・・」と。
「何故です?」途端に顔色を変えた。
離婚する、と言いに来たくせに憤然として気色ばんだ。
「カのつく姓は、古いところでは、政治家の河崎なつ女史、神近市子、画家の桂ユキ子、女優の加賀まりこ(本名加賀雅子)、美空ひばり(本名加藤和枝)、
みんな御立派すぎて独身者ばかりですよ」と私は教えた。
その他にも、東国原と別れたかとうかず子、関西漫才界のドンと云われる上沼恵美子がいる。
更に「お金大好き」を公言して話題の加藤沙里や、政治家で舛添要一とさっさと別れた片山さつきがいる。
彼女は再婚したがその夫の姓を名乗らず、自分の片山姓を名乗らせている女傑でもある。
松田聖子(本名蒲池法子<かまちのりこ>)は神田正輝を完全に尻に敷いている。

並べた名前が良かったせいか、彼女はやや穏やかになって、犠牲者のようなつつましやかさで、暫くしてから「どうして、でしょう?」
と唇を開いた。「あなた、謡曲を知っていますか」と聞いた。
「里の父が、ずうっとしてます」と言った。
「なら<義経記>の中で・・・・安宅の渡しを越え、根上り松につきたもう、ここは白山権現に布施をたむけるところなり、
いざや白山を拝まんと・・・・とでてくるのを知ってますか。古い鎌倉時代の<元享釈書>に、
 霊亀二年に天女が紫雲から先ず姿を現し、ついで養老元年四月に天女が、われこそは天照大神の母なりと、厳かに立ったと出ています。
だから加賀の白山信仰が、昔から原住日本人には根強くて、この神の御子として、
 今日でもこの種族の女の人には”女性優位”という先入観が、宿命的にとても強いようなんです」と、怒らせないように相手の顔をみいみい話をした。
「だけど、そんな古い話と今の私と、何の関係がありますの」やはり彼女はむくれた。「いやあるんです。
千年前の犬の性格と、今の犬の性格が一緒のように、あなただって、昔の女神だった頃の御先祖の血を引いていて、
変わらないのですよ」と慌てて慰撫したところ、
「・・・・・自由の女神が立っているのは、アメリカだけじゃないんですか 」ときた。そこで、
「米国には、女神は港外に一人だけポツンと立っていますが、この日本では八百万(やおよろず)の神、
つまり昔の人口が少なかった時代では、そのパーセンテージからしても、あなたらのような純日本女性は、
たとえ器量が良くなく二号、三号の口はなくとも、みんなカミさんにはなれたのです」と、やってしまったところ、
 「皮肉なんですか・・・・・失礼な」彼女は怒って帰えってしまった。
 
すると翌日その夫が血相を変えてきた。これは面倒になったと思った。そこで、
 「君は久野と言う姓だろう。カのつく女は加藤でも河崎でも鹿島、川畑でも絶対にいかんよ」と高飛車にいうと、
「何故です。カのつく女が合わない証拠でも有るんですか?」と絡むように言う。
仕方がないから書庫から<雲陽実記>という古史料を出してきた。これには有名な尼子十勇士の先々代の尼子経久が、富田城を攻めた時、
それに協力した出雲広瀬の原住民の鉢屋掃部(かもん)一族に出した感謝状が、ずらりと掲載されている。
つまり、河本左京亮を筆頭に、賀茂氏、蒲生氏、河原氏、皮屋氏、貝塚氏と、ことごとくカ印が並んで、しかも女武者ばかりなのである。
 年代は永禄六年(1563)三月、川中島合戦の二年後の頃のものである。
だいたい戦国時代には、原住民系の女が非常に勇猛果敢だったことは、徳川四天王の本田平八郎忠勝が、
「俺が幼少の頃の女どもは、みな強くて、顔の眉毛は剃っていた。出陣する際は太い書き眉を付けたり、
妖怪のように目の周りに墨の輪を書き込んで、槍をふるって戦場を駆けめぐったり、よき男と見れば股を押し開き犯す者さえいた。
だから城攻めの時などは、手剛い城内の女を人質に取って、これを張り付け柱にかけた。質屋でも値打ちのないものは担保にとらぬように、
合戦でも女の方が強く価値があったから人質に取ったまでである。しかるに天下太平となるや、武家の女房は古式通りに眉はすり落とすが、
おとこはからっきし意気地がなくて話しにならん」
と1769年に末孫の本田忠顕が書き写したものが家伝史料の本に残っている。それを見せたところ、あまりショックが強すぎたのか、
かび臭い古書から目をさけ、げっそりしていた。そして、「姓とはこんな先天的な運命があるものですか」と、彼は驚嘆して呟いた。
 「名前の方は吉永小百合にあやかって同名の小百合と付けても、そうはゆかんが、姓だけは決定的だね」と、先ず教えてやってから、
「君の姓の”ク”というのは<とじこめ字列>の姓なんだ。つまり五、六世紀頃から次第に日本列島に、
その数を増してきた大陸系の混血勢力に対して、西暦781年の天応は(辛酉)という年号の時、原住民の純日本系がこれに決戦を挑んだのだ。
その時点、女将をもって指揮系統にした女神を奉ずる方は、軍団編成に当たって、
 秋田(ア)、加賀(カ)、佐渡(サ)、但馬(タ)、那古野(ナ)といったような郷土師団の分列隊制を取ったらしいんだ。
そして、秋田部隊の第一大隊は青森(ア)隊、第二大隊は岩手(イ)隊といったように組織したときに、必勝の信念を持っていたから、
 外来の大陸系を捕虜にして、これを二個大隊の中間に挟み込むように、逃亡を妨げるため、ウクスツヌフムユルと中間の横一列を空けておいたんだ」
「・・・・すると私の祖先は、大陸流れ者で、捕虜にされたんですか」奇妙な声をだした。
「いや進駐軍が勝ったから、捕虜は原住民系さ。しかしウクスツの字列の姓は、すでに六世紀当たりから、
外来人の姓として決まっていたらしく、当時の言葉で言うと、 ”今来漢人(いまきあやひと)”だが、天武帝の八色姓(やくさのかばね)から、
ウは宇佐、クは曲玉(くがたま)、スは菅原、ツは津連(つむらじ)、ヌは沼連(ぬまむらじ)、
フは葛井(ふじい)、船連(ふなむらじ)、藤原、ムは向井、ユは<日本書紀>に出てくる、
弓月君百二十県の人民を従えて来朝の弓月(ゆづき)、湯
葉と、大陸渡航者の姓氏になっていたから、ウクスツヌの発音が以前にあって、それをサンドイッチにして、
 原住日本系の当今のアイウエオは、それから出来たのかもしれんのですよ」
「すると僕は今度は何姓と結婚すればいいんですか。又離婚は嫌ですから」といったそこで、
「姓の上のウクスツヌなら同系だから最高です。それでなけれはその前列のイ行の女の人がいいでしょう。
だいたい君は女を奴隷にして裸にして売るような、大陸渡来の血を持つ<男尊女卑系の亭主関白型>だろう。
奥さんはこれぞ女神の生まれ変わりの<カカア殿下型>だから、これじゃ両雄並び立たずで、何かと意見が合わず、
いつか離婚になるのは当然なんだよ。まあスタイルや顔に惚れるより、この次は姓をよく確かめるんだな」と私は帰してやった。
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それではカのつく男はどうかといえば、故人で代表的人物は物書きでは「梶山季之」であろうか。
この他、加賀乙彦、開高健、柏原兵三、川口松太郎、川端康成、川上宗薫と並べてみれば、
カのつくのは男もその方では相当なものであることが判る。当代では政治家で梶山、加藤、管、なども居る。
タレントや俳優では桂 三枝(本姓河村)、長門裕之(本姓加藤晃夫)江守 徹(本姓加藤徹夫)なども居る。
これがやくざともなれば、山口組関係でも、貝本会、勝浦会、勝野組、加茂田組、加藤連合会、金町一家、金原組、可部組、
紙谷一家、河合組、河内組、川崎二代目、川下組、川村組、と数え上げたらきりがないほど多い。
ということは、カのつく姓の男は極めて精力型であるともいえる。そうしたバイタリティは陶芸の加藤唐九郎や、
「」と呼ばれたかっての名残を、「河原崎長十郎」として今に伝える前進座のボスや、加藤大介(故人)にもいえる事
で、この一族は芸名といえど、アカサの沢村貞子、タナの長門裕之、ハマの牧野ミツオと、このア横列を襲名しているし、
 河竹黙阿弥の流れをくむ座付作者や演芸評論家にもこの姓は多い。
こうした根強さは、やはり室町時代の<一条兼良日記>で、「乞食のごとし」と蔑まれた能にもいえ、
「観世元正」のようにそのまま姓に用い今に伝えている人達もある。つまり、「執念」というのもこの姓を持つ人の最大な特色なのである。
とくに江戸初期までは「かわた」といった集落が在ったので、河田、川田を名乗る「カ」の付く人は、男は反骨的で、女も気性がが烈しいのが特徴。



日本司法制度の怪 江戸の司法制度

2019-12-09 18:22:37 | 新日本意外史 古代から現代まで


以前、寺西判事補の分限裁判抗告審で最高裁は「自由の制約容認」の判断を示した。マスコミに大きく報道されたので、詳細は割愛するが、私が興味を持ったのは、裁判官、検察官、行政官出身の十人の判事が「裁判官の中立」を重視したのに対し、弁護士、学者など民間出身の五人の判事が反対意見を述べ、経歴によって見解が二つに割れた事である。

ここに日本の裁判所の、一般社会と断絶した閉鎖性が色濃く読みとれる。
日本の司法制度は敗戦後、アメリカによって近代民主主義制度で運営されるようになった筈だが、どうもこれはタテマエであるらしい。

ここで日本の司法の原点から考究してみる必要が在りそうである。
先ず江戸時代の司法制度について考察してみたい。
大名や旗本は町方とは全く無縁だったのに、それぞれが各与力に手当を出して、用心棒というか法律顧問のような恰好で置いていた。

与力の下の同心も同じで、今と同じ官僚の仕事ぶりで、上からの命令だけを聞き、その言いなりに働いていたのである。これが彼らのサイドビジネスで袖の下の手当を貰っていた。これが江戸での実体である。

地方ではどうかというと、代官に金を送り、御上御用の目明かしになり、投資した分の何十倍もを一般の町屋や農家から巻き上げていた。現代でも、信用組合や都市銀行が大手サラ金業者には、庶民から集めた金をどんどん融資している状態と相通じるものがある。

というのは政治献金を貰った議員が、ノンバンクには有利なサラ金法案を国会で通すのと全く同じ。今も江戸時代そのままなのが、二十世紀の日本の行政であり、警察制度であり、全然変わっていない。

日本史は、こうした江戸期の役人制度をすっかり秘密にしてしまって隠している。
何しろ江戸時代の裁判というのは、評定判決は全て”良と賤”の原則で行われており即ち差別と、<地獄の沙汰も金次第の>という如く、後は現実的裏取引だった。奉行所というのは、町民の為の公僕的存在などという思考は、敗戦後のアメリカナイズでしかない。


同心達が自分から動く時というのは、立ち退かぬ町家をいくらと請け負って、別件逮捕で大番屋へ送りこみ、拷問責めで自白させ犯罪人に仕立てあげてしまうだけの話。これが地方へ行くともっと極端だった。

「嘘っ八」とか「嘘の三八」と云う言葉が今も残っているように、家康入部の際、三河の八部と呼ばれた連中を伴って江戸の治安を任た。地方に残った八の連中は、代官が面倒がり厄介がる捕物の下請けをしていた。これが当時の実装である。

ヤクザというの、は田村栄太郎説では八九三が語源だがどうも違うようである。
戦国時代、足軽頭が「役座」といって、藁を二三枚敷き、起居していたその下の方から、足軽たちが「宝引き」といって藁を抜き合い、その長短で暇つぶしに博打をしていた。

抜きすぎれば薄くなり、取り替えねばならぬので賭け金の一割を筵の下に差し込んだのが語源であると、これは「毛利家史料」の<吉田籠城日記>からの解明である。


私見だが、現在のヤクザ(暴力団)に博打の権利を与える方が施政上は得策ではないかと思う。テキヤも博徒も一緒くたに暴力団として括っているが、祭りなどのタカマチでの商売はテキ屋の領分だし、博打は博徒の領分だったのである。

お上が彼らの利権を取り上げた結果、彼らはマフイア化してカタギの世界に入りこんで様々な悪事を働くのである。
企業や政治屋も彼らを利用した結果、現在のバブルの一因にもなっている。

一方でお上は、競輪、競馬、パチンコなどを合法としている。近頃ではサッカー籤までお上が仕切るという。要は「お上にテラ銭の入るものは合法。それ以外は非合法」という事なのだが、こんなたわけた話はない。


ヤクザの賭場でのテラ銭は一割だが、中央競馬など二割五分も盗っている。
お上のこうした”あこぎ”な政策は目に余る。やってることはヤクザ以下である。

従ってこの日本社会からヤクザが無くならないならば、彼らの元々の”正業”である博打の利権を返してやることである。その方が彼らが起こす犯罪は減少するだろう。

さて、江戸享保年間から徳川吉宗の指示で大岡忠世が、日本全国の街道を流して歩く遊芸人や旅回りの八の部族(海洋渡来民族)に「夷をもって夷を制す」と、古来よりの鉄則通り、彼らにその民族カラーの赤を象徴する朱鞘の公刀と取縄を渡し、五街道目付という権限を与えた。

勿論幕府は手当の類は一切出さず、代わりに彼らに鉄火場の運営を黙認してその費用に充当させた。大岡越前は晩年は大目付になれたが、当時は江戸町奉行。彼は全国的に幕府体制を守るため、治安維持を実施する責任者で江戸町民の事など眼中にはなかったろう。

彼は徳川体制の徹底した司法行政官僚であり、テレビで映っているあんな人情味のある男ではない。
御上御用の側の賭場は公認だが、モグリの賭場の摘発は二足草鞋のヤクザに任せていた。これは幕府公認の売春地帯吉原の商売敵である、モグリの岡場所の摘発は、吉原溜の四郎兵衛輩下が岡場所の女を捕らえてきて、奴隷女郎にして働かせた、岡っ引き制度と全く同じである 当時の裁判や警察制度は、江戸の御上が全部するのではなく、各地の縄張りを決めあった親分達が下請けをしていたのである。

「人斬り長兵衛」と呼ばれた富士吉田を縄張りにしていた有名な親分が居た。

講談や浪花節では勇ましい男とされているが、実像は全然違う。日本人は現代もそうだが、当時も薬好きの国民だったらしく、漢方の煎じ薬より、生薬の人気が高かった。今謂う肺結核には生血、胸や腹の痛みに生の肝臓、梅毒には肛門の肉が効くとされていた時代で、極めて需要は多かった。
「そうか、生血が竹筒で三十、生肝臓が五で、菊肉が六も注文が溜まったか。なら六人ぐらい、誰かしょつぴいてきやがれ」と長兵衛親分が子分に言いつけて、片っ端から曳いてこさせると河原で即席裁判。

注文は早く届けねばならぬから、急ぎで適当に罪名を言い渡して裁くと即刻死罪処分とした。だから庶民に恨まれて「嘘っ八」とか「嘘の三八」の言葉も残っている。
生血でさえ竹筒一節で八百文から一貫の高値で、ど頭かち割った脳味噌は銀二百文になったというから、一人殺すのでも儲かった。

そして、前もって捕らえて牢に入れて置いては食わせねばならぬが、生薬の注文が纏まった処で、御用ッ、御用ッと召し捕ってきて、逆さ吊りにして血搾りすれば生きの良い新鮮な生薬が取れたからこれは合理的である。

始めから生薬にする為の捕縛だから、裁判と言っても言い渡しだけで、享保時代から明治初年までの警察や裁判のこれが実体だったのである。この裏付けは富士吉田の浅間講の信者が求めた、売渡し値段表として残されている。
こうした制度は何も静岡に限らず、日本全国みな同じで各地に「人斬り」の親分がいて怖れられていたらしい。

このため明治維新後、新政府が落ち着きだすと「公議所提出議案」として公議所書記の大岡玄蔵が提出したものに次のように書いて有る。

「そもそも生殺の権は国家の大権にて公卿諸侯と雖も、あえて専にするを得ざるは人命の尊きをもってなり。しかるにいわゆるエタ団頭は賤辱の身なるに逆にこの大権を握り、その団衆何千何万の人命を公裁をへずして、殺戮を専らになす(中略)朝廷の大権、人命の軽視をなす団頭の専断の権を取り上げ、死生予奪は政府の裁断を仰ぐべきよう御仁意の処置を願上げ候」

これはつまり、江戸時代その儘で各地の親分が司法権や裁判権を行使し、未だ片っ端から人斬りしているのは明治の聖代にそぐわないから、形通りとまでもゆかなくても日本の断罪方法を変えようとの建言なのである。さらに大江卓造が明治四年正月、時の民部大輔大木喬任へ差し出したものでは、

「聴訟断獄その他の国役租税などの訴訟は、各地方官の権限をもって官に取り上げて日本の裁判を改めるべし(中略)これまで権を振り回していた彼らに対しては、身体の壮健な者は、消防夫やポリースなどに編成し適宜の給金を与うべし」
となっている。

なにしろこの明治四年当時でもガエンと呼ばれていた、いろは四十八組の町火消しは、八と呼ばれる民族の限定職だった。
江戸や京阪の司法の第一線は騎馬民族系だが、地方では親方とか親分と呼ばれた八の民族だったのである。

彼ら八の民は抜刀禁止令が無視され、自前の刀を抜く輩が多くなり、従来の十手や樫の棒では剣呑でとてもやってゆけないと、文久二年までには十手取縄を返上して転業した。
だからこの後を半可打ちと素人扱いだった清水次郎長らが、「逃亡盗賊捕縛方」といった官名を新政府から命じられて「御用」「御用」とやっていた時代ゆえ、慣れた彼らにその儘で踏襲させ、手当代わりの従来の賭場開帳は禁じ

適当な給料を払い、裁判を含む司法権をこの際オカミに取り上げて、直轄にするべきであるという、これは建議なのである。
「千金の子は盗賊に死せず」と呼ばれる中国の格言通りに、とき放しにした前牢囚を使ったり、徳川時代には被差別の四の民のを、死なせても構わぬ輩として六尺棒を持たせていた。

だから不浄役人とか、不浄な縄目に掛かるものかとも云われていたのを、欧米並の警察国家にするためには、賤を使ったり、下請けさせていたのを止め、司法権を良の側へ取り戻す必要があったのである。

さて、こうして薩摩閥が新しく羅卒制度を設け、幹部にはずらりと薩摩人を揃えた。そして部下には賊軍となった東北諸藩の失業武士をかり集めて揃えたから、これて゜すっかり組織構成が一変してしまった。
さらに裁判の方も、「弾正」「弾正弼」として従五位下か六位の官位だった賤役判官も、新政府の期待を担うようになって、明治の裁判は政府護持が使命となってしまい、雲井龍雄までもが反政府分子として判決は死罪。
これは八ッの時代から、捕らえられたら生薬にするために死罪と決まっていたゆえ、その伝統に慣れた、習わしだったせいか。
現代でも裁判前で何ら判決が出ていないのに、何か事件の容疑者が逮捕されると、逮捕即もう犯人扱いで有罪と決めてしまう風潮がある。
「松本サリン事件」の第一通報者で当初、容疑者扱いされた河野 義行さんは次のように語っている。
「事件が起きて容疑者が逮捕される。するとマスコミは事件が片づいたという報道をします。市民もそう思う。いつの間にか容疑者が犯人になってしまう」しかし、現行法はそうなっていない。逮捕された人はあくまで容疑者にすぎず、逮捕しても、不起訴もあるし、起訴されても裁判で無罪もある。だが初期の新聞報道はほとんどが推定有罪の方向で動いていた。マスコミの悪い体質である。

また、河野さんの弁護士は売名だ、金目当てだと批判されながらも、見事にその役目を果たしたが、『被疑者不詳で殺人罪』こんな捜査令状を出す裁判所が許せないと語る。
こうした冤罪が起こる一つの原因は、警察の初動ミス、つまり思いこみで無理矢理自白を取ろうとする姿勢にある。
こうした『自白至上主義』は旧ソ連などでもこの傾向は激しく見られた。まず怪しいと睨んだ容疑者を逮捕する。

次に様々なテクニック(拷問もある)を駆使して自白させる。それから容疑者の犯行を裏付ける証拠を本腰を入れて捜す。
西側とはまるで手順が逆なのである。日本とて、別件逮捕で代用監獄で長期拘留し、自白調書をとる例も多く、似たような
ものである。
西側諸国では先ず証拠を集めてから、それを元に容疑者からの自白を引き出す。
容疑者が罪状否認の場合は、その証拠によって犯行を立証する。これが証拠主義という一般的な民主国家での手法である。

しかし日本では”タテマエ”ではそうなっているが、こんなに冤罪事件の多い現状では果たして近代的民主的な法治国家と言えるだろうか。
此処から第二部に入る。

前項では、日本の司法制度は”良と賤”の争いで、裁判は当初から決まっていたと書いた。ここでは律令制度の昔からいかに変わっていないかを再度考究する。

なにしろ日本の裁判の始源と言えば、煮えたぎる熱湯に手を入れさせ、堪えられた方が正しいとしたのである。まるで「我慢比べ」のようだが、これが正式のお裁きとして六世紀までの理非の判定法方だったのである。

  人間の平均体温は三十六度。入浴でも四十六度では熱くて足も入れられぬ。これが熱湯だったらいかに無神経で手の皮が厚い者でも大火傷は間違いない。これを称して「くがたち」と謂い、「探湯」と書く。
だが”法”では「正しい者は大丈夫だが不正な者は爛れる」と定まっていた。全く常識では考えられぬ不条理極まるものである。

  日本では漢字は皆当て字だから、「八切姓の法則」によると、日本列島に原住民土着民として住み着いて居た民族は、オ横列とア横列で、これら先住民を「賤」としていたとなっている。彼らを征服した鉄武器を持った大陸からの連中はウクスツヌフの姓氏を名乗っていたとも考察している。であれば、この「くがたち」とは一目瞭然である。

  つまり「クがたち」とは、裁きをする前から「良」とされた方が「たち」立証できると前もって判決は定まっていたという事が判る。
先ず賤の方を先に熱湯の中に手を入れさせ、大火傷ををさせて「一件落着」。良の人間はこれで熱湯に手を入れる必要はなく、判決は無罪。裁判の原点がこうであったと判れば、今も大宝律令の儘で良賤の判別制と理解できる。

  だからテレビの遠山の金さんや大岡越前みたいな、娯楽的な考えは間違いで、あれらは全くの虚像なのである。

  さて、「日本は法治国家である」と恰好は良いが法治国とは警察国家であるから怖い。「出る所へ出て、黒白を争う」と言うが、一般庶民なら思い上がりも甚だしい。
  先ず逮捕されると裁判前でも、新聞報道は犯人として敬称抜きなのは、警察発表が既に外国でいう裁決のようなものだからである。(最近では何々容疑者とはなっているが)そして発表通りに帰納されてゆくように取調べがなされる。
  「してもいない事を何故に認めて自白などするのか?」と、誰もが疑問視する。だが、自白させるのが仕事の人々にとっては、監禁してしまったからには掌中にある。たいていは脅し役と、慰め役の二人組で交互に苛めたり優しくする。
 こうした「落としのテクニック」に明け暮れ責められては、前科数犯の猛者でもない限り未体験の者は参ってしまい、根負けして言いなりになる。厄介なのは別件逮捕。当人にとっては身に覚えのない事だから、調べて貰えば判る事だと胸を張って連行され、四十八時間以内に簡単に取調べられ、否認すると判事から十日間の拘留処分。
  何しろ知らぬ事だから認められぬと自白しなければ、追っかけ判事から拘留延期また十日。いきなり捕まって籠へ押し込まれると、鳥だって三日と持たない。
 まして人間が独房の鉄檻の中へ放り込まれて「接見禁止」にされ、会話の相手もなく煙草も吸えずでは参ってしまう。いくら辛抱強い人間でも、喋れる相手は調書を取る側の者だけでは閉口させられる。

  「代用監獄」と留置所を称するが、 別件で連れ込まれたも先方さまの用意した筋書き通りで、やってもいない事でも指図されて犯人に仕立てられる。日本人は義務教育でみな読み書きは出来るが、此処では絶対に当人に文字は書かせない。親切に代筆して読んでくれて聞かせ、最後に署名捺印だけを当人にさせる。

  これなら後で書き直しや書き加えも、当人の筆跡ではないから、如何様にでも訂正出来る。それに我慢とか忍耐には誰でも限界があって、五日ぐらいは保つが、それを過ぎると悄然となり、意気消沈して茫然自失状態になる。

  保釈を取り付けるにしても犯行を認めなくては駄目だと言われ、やってもいない事でも書かれるのに言われる儘に黙認する。

  「裁判になったら法廷で否認すればいい」とは素人考えで、自白調書の重みが判決になる。
夫殺しとして一度自白した為に、後に否定しても実刑判決の事件があった。出所後に再審の申し立てをして、証人とされた当時の少年店員二人が「実はデッチあげでした」と立証しても認められず、死後ようやく再審となった徳島のラジオ商殺し事件のように、初めに言いなりではもう終わりである。「疑わしきは罰せず」という法律用語があるが、容疑=犯罪としてしまうのがプロの腕前なのである。

  「身柄送検」といって検察庁へ鉄格子のバスで連れて行かれると、いと親切そうな口振りで「はっきり犯行を認め、御慈悲を願うんだぞ」と、検事の心証をよくするように看守が言う。

  さて、取り調べ検事は法廷には姿を見せぬ。一人二役ではなく、二人一役である。
「心証を良くする」とは、起訴にするよう認める事だが、その怨みつらみを法廷で述べようとしても、既に相手が換っているので「しまった」と思っても後の祭り。もう有罪のベルトコンベアに乗ってしまったのである。

  人命を奪われる死刑囚でも再審の途が緩やかになると、次々無罪になるのだから殺人罪以下となれば、推して知るべしである。
今でも「オカミ」と自称する側が良であって、腰縄をうたれて来るのが賤ゆえ仕方がない。全くこの国は途方もないことをやってくれているのである。とはいえ「良」を自認する側どうしの場合は又違うようである。

  明治時代に「シーメンス事件」と呼ぶ大疑獄事件があった。これは学校でも必ず教える。当時の三百万というから今なら三十億円にもなろう巨額の金が、海外の造船会社から、海軍大臣山本権兵衛へのピーナツになったのが露見。

が、当時の検事総長平沼は不問にした。
よって大正十二年九月、山本権兵衛が総理大臣となって組閣した時は、平沼は法務大臣となる。昭和十一年三月からは平沼は枢密院議長。そして三年後には近衛文麿と入れ代わり総理大臣。だから当時「情けは人の為ならず」とか「臭いものには蓋」と言われたものだが、犯罪メーカーのような立ち場でも、正義の味方を気取ったり、肝心な処では要領よく取引をするらしい。

現在、司法の世界で有名になっている本がある。
元裁判官で最高裁中枢の暗部を告発した「瀬木比呂志」氏の
 
「絶望の裁判所」が講談社から出ている。
興味のある人は一読を。