奇怪 仮面の秀吉
天皇になろうとした秀吉
第一代豊臣天皇
前記「豊臣秀吉出世噺 秀吉の生まれ」の項で、秀吉は日本原住民の内、サンカ部族の「木の陰族」の出身と記した。
これは、弁護士で在野の古代史研究家、鹿島昇氏の説を借用した。
しかし、一方では(秀吉原住民説)とは正反対の、大陸の血を引く外来系種族の出自とという説もある。
どちらが真実なのかは、読み比べて読者の判断に委ねるしかない。以下。
阿弥とは何か?
さて、豊臣秀吉の異父弟で、羽柴大納言秀長がいる。
だがこの二人は世にも不思議な兄弟だった。
秀長の父はその名を筑阿彌(ちくあみ)といった。阿彌という名が付くということは、これは紛れもない原住民系で、宗旨は神徒なのである。
此処で少しこの「阿彌」についての解説をしておく。
日本語は明治まで漢字は音表文字だから「阿弥」でも「阿彌」でも、あみと読めれば可なので、此処では「阿弥」として続ける。
日本列島に大陸勢力が、仏教を持ち込み、武力によって進駐してきた時、抵抗した者は殺したが、それ以外の者は隔離して纏めて住まわた。
地方によって呼び名は異なるが、これを院内、院地、別所、などというが、現在の問題の根源でもある。
こうした非区別制度が確立したのは足利時代後期からである。
そして原住民といえども、官途につきたいと言う者は、強制的に先ず仏教に転向させて、頭を剃らせてナムアミダと称えさせられるのである。
さらにその名にも識別の為に何何阿弥とつけられた。
日本の文化はアミ文化だと謂われるのは、彼ら原住民が体制側に転向したといっても、非区別地出身だから叛乱されては困るから、能阿弥、花阿弥、茶阿弥、といったように絶対に武器は持たせぬ職業にのみ彼らをつかせたのである。
そしてこの原住民族は絶対に大陸外来系とは通婚しないという厳しい掟が在った。これを同婚同火の禁といい、大陸系の人間とは同じ火も使わないという
決まりだった。とくにサンカは娘が外来系と交わって妊娠した場合、親はその子を殺してもいいという掟も厳然と在った。
そこで筑阿彌の前夫にあたる秀吉の父、弥右衛門もやはり同族の者と見られていた。
最初の夫 弥右衛門→秀吉
秀吉の母
(後の大政所) 二番目の夫 筑阿彌 →秀長
つまり秀吉自身も疑いもなく純日本系の八衆の出身と見られていたのである。
だから、江州八田別所から逃げて尾張に来た織田庄出身の血を引く信長に同族として召し使われ、藤吉郎時代から丸に八の旗を立てて戦場を駆け巡っていた秀吉は、蜂須賀、蜂屋といった八の発音の付く者達を配下に集め、
見る間に出世した。
(注)この藤吉郎時代の丸に八の旗印は「郷土が生んだ英雄」として名古屋市の市章になっている。
ところが本能寺の変で信長が死に、信長の天下を奪うと秀吉は、不思議なことに俄かにころりと一変してしまうのである。
その訳は秀吉の父弥右衛門が早死にはしたが、実は大陸系の血筋の者だったということである。これはおそらく秀吉の母が生活に困窮してやむなくした選択だったろうと想われる。
しかし、今更自分の本当の父が、つまり弥右衛門というのが実は仏教徒で大陸系だといっては、生母がいくら暮らしのためだったとはいえ、掟破りの無節操な女になってしまう。だから秀吉は突然、
「わが母は持萩中納言の娘であった」と庇って言い出した。当時も昔も「持萩中納言」などという公卿は居なかったので、これは秀吉の創造の人物である。
その次には、その母が時の帝の子を身ごもって尾張へ行き、そこで生んだのが自分であると言い出した。終いには、自分こそ皇統継承者であると、皇太子誠仁親王を自害させ、時の正親町帝が秀吉に譲位するのを嫌がって、
絶食して抵抗すると、
「中宮や女御のお妃衆を、皆張り付けにして御所の前に並べて曝す」とまで脅した。
処がこの時天変地異が京阪初め全国的に続き、まだ迷信の蔓延っていた時代だから、これには秀吉も驚いた。
誠仁親王の祟りかも知れぬと狼狽し、やむなく遺児を即位させ、後陽成帝と仰いだ。
秀吉は平(たいら)から藤原と次々に姓を変える
それは良いが、昔は丸に八を描いた旗を持って歩いていた、いわば「みなもとの民」のはずが、とたんに平氏の秀吉になって「平秀吉」を名乗り、御所の職名である内大臣になり、次には外来系(唐国)の姓である藤原秀吉と改名し関白太政大臣になってしまった。
(秀吉のライバルだった明智光秀が、本能寺の変の後、当時天皇から大混乱の京の治安維持に尽力した明智光秀に武家の棟梁である征夷大将軍の勅許を与えていた。日本史ではここは隠されているが、秀吉としては光秀の後塵を拝したくなかったのだろう)
つまり弟の羽柴大納言秀長は、れっきとした原住民系の血をひく筑阿彌の子だから、これは神徒すじ。ところが兄である秀吉の方は今までは都合上隠していたが、実は大陸の血をひく仏教徒だという。
この秀吉の豹変ぶりを喜んだのは、神徒の信長に徹底的に弾圧され、焼討ちにされ壊滅状態に瀕していた延暦寺や高野山の仏教勢力である。
反対に唖然として青ざめたのは、原住系で信長の頃から堺に勢力を張っていた、皮革問屋の武野紹鴎門下や北向町に店を並べた堺の納屋衆たちであった。
勿論武家も騒然たるものがあった。
秀吉関白秀次を殺す
なにしろ信長時代からの大名は、みな神徒系である。中には前田利家のような、犬千代といった清洲城の頃から、当時の藤吉郎を知っていた者は、胡乱臭いと思って用心し、柴田勝家の寄騎なのに彼を裏切って破滅させ、
秀吉に恩を売って、それでわが身の安全を図ったものもいる。利家はそれでも足りなくて娘を側室に差し出してまでしている(加賀殿)。その内に関白秀次の事が起きた。
秀吉は、あれは異父血統の子でわれと宗旨がちがうから、天下を継がせるわけにいかぬと殺してしまった。
(秀次略歴)
幼名孫七郎。初め秀吉の嗣子(跡継ぎ)で二世関白。
秀吉の近親で三好吉房の子で、初めは三好康長と養子になる。後に養家を去って秀吉の許へ走って、天正十二年四月、長久手の役で大敗し、有能の家臣を多く失い、秀吉から叱責される。この頃はまだ三好信吉と名乗っていた。
十三年六月には中納言になる。近江、大和などで四十三万石。
のち尾張八郡を加増され百万石。
十九年十二月内大臣に任じられ関白職宣下される。秀吉は太閤と号る。
文禄四年七月高野山に追放されるが、十五日自殺する、と日本史ではなっているが、これは紛れもなく秀吉の謀殺である。何故なら秀次の血脈を絶つため、その室と男女の子二人と、多くの側室が三条河原で成敗されているからである。
秀吉が、何故にこんな残酷な粛清とも呼べる殺戮を強行したのかと言えば、世継ぎとしての己の子、お拾い鶴松が天正十九年十二月に死んでしまったからである。だが落胆しきっていた秀吉は、
文禄二年八月に待望の世継ぎとして秀頼が生まれたので、もう秀次は邪魔者以外の何物でもなくなった。
だから前記したように、秀頼生誕後二年足らずで秀次殺害となったのである。
こうなるともう、羽柴大納言秀長も邪魔だからこれも秀吉は郡山城で謀殺している。この秀長の死は、その跡目の秀保が吉野十津川で水遊びの時、何物かに水中にひきこまれて溺死して、
大和百万石が断絶となっているから、これも紛れもなく秀吉の仕業である。
堺の納屋衆の唯一の後ろ盾だった神徒系で原住民の血をひく秀長も殺すともう秀吉は怖れるものが亡くなった。次いで千利休もその妻も石田三成に命じて蛇責めで殺している。大陸遠征のため、
国内の叛乱を恐れた粛清で後顧の憂いを断つたのである。
この後は前記「天皇になろうとした秀吉」を参照されたい。
(追伸)
征韓の役を断行した秀吉は、鴨緑江まで破竹の勢いで朝鮮軍を追い詰めた。 そして次なる作戦は明国へ討ち入る予定を立てていた。
その壮大な計画とは。
「天皇を北京に迎えて、その周辺十カ国を御所の領土に進上する」
「日本の天皇には、当面は時の皇太子周仁親王か皇弟智仁親王をもって御即位」
「日本の関白職は、秀吉の甥の大和中納言をあてる」
「その後秀吉が第一代"豊臣天皇"として即位する」
こうした戦後処理の計画を立てての一大作戦だった。
現代では隠されているが、信長、秀吉、家康にしろ、皆出自は日本原住民で、奈良時代の 百済系を追い落とした大陸唐の勢力が日本に君臨していたため、戦国時代は仏教の大陸系
と神信心の原住系の争いで、原住系の秀吉が日本を統一したため、京の御所に勢力を張る唐系(藤原大陸系)の公家たちを「お前らは本国へ帰れ」とばかり秀吉の、明への侵攻計画だったのである。
島流しにすれば済むところ、大明国討ち入りとは秀吉の気宇壮大なところであろう。
大陸の、黄塵吹き荒れる唐から来た者達は当時の日本は公害も無い四季のはっきりした、美しい緑あふれる国土に、桃源郷を見ただろう。
だから大陸には無い美しい富士山を藤原の山、「ふじ山」と付けたのである。
こうして大陸勢力は、平安、奈良と日本に君臨し、足利時代と言えば明国の属国だった。
足利時代の末期になってようやく日本原住民系が、各地の荘園や寺領を襲って力をつけ、戦国大名になった者も多い。
だから大陸系の公卿の日記には、この状況をにがにがしく思い「下克上」と書き残している。
秀吉の戦略は、朝鮮は明への通過点だけだったから、占領などする気は毛頭無かった。
そして秀吉は当初は己が天皇になろうとして、京の中心十町四方を取り壊し、新御所として壮大な聚楽第も建てたのである。
第一代豊臣天皇
前記「豊臣秀吉出世噺 秀吉の生まれ」の項で、秀吉は日本原住民の内、サンカ部族の「木の陰族」の出身と記した。
これは、弁護士で在野の古代史研究家、鹿島昇氏の説を借用した。
しかし、一方では(秀吉原住民説)とは正反対の、大陸の血を引く外来系種族の出自とという説もある。
どちらが真実なのかは、読み比べて読者の判断に委ねるしかない。以下。
阿弥とは何か?
さて、豊臣秀吉の異父弟で、羽柴大納言秀長がいる。
だがこの二人は世にも不思議な兄弟だった。
秀長の父はその名を筑阿彌(ちくあみ)といった。阿彌という名が付くということは、これは紛れもない原住民系で、宗旨は神徒なのである。
此処で少しこの「阿彌」についての解説をしておく。
日本語は明治まで漢字は音表文字だから「阿弥」でも「阿彌」でも、あみと読めれば可なので、此処では「阿弥」として続ける。
日本列島に大陸勢力が、仏教を持ち込み、武力によって進駐してきた時、抵抗した者は殺したが、それ以外の者は隔離して纏めて住まわた。
地方によって呼び名は異なるが、これを院内、院地、別所、などというが、現在の問題の根源でもある。
こうした非区別制度が確立したのは足利時代後期からである。
そして原住民といえども、官途につきたいと言う者は、強制的に先ず仏教に転向させて、頭を剃らせてナムアミダと称えさせられるのである。
さらにその名にも識別の為に何何阿弥とつけられた。
日本の文化はアミ文化だと謂われるのは、彼ら原住民が体制側に転向したといっても、非区別地出身だから叛乱されては困るから、能阿弥、花阿弥、茶阿弥、といったように絶対に武器は持たせぬ職業にのみ彼らをつかせたのである。
そしてこの原住民族は絶対に大陸外来系とは通婚しないという厳しい掟が在った。これを同婚同火の禁といい、大陸系の人間とは同じ火も使わないという
決まりだった。とくにサンカは娘が外来系と交わって妊娠した場合、親はその子を殺してもいいという掟も厳然と在った。
そこで筑阿彌の前夫にあたる秀吉の父、弥右衛門もやはり同族の者と見られていた。
最初の夫 弥右衛門→秀吉
秀吉の母
(後の大政所) 二番目の夫 筑阿彌 →秀長
つまり秀吉自身も疑いもなく純日本系の八衆の出身と見られていたのである。
だから、江州八田別所から逃げて尾張に来た織田庄出身の血を引く信長に同族として召し使われ、藤吉郎時代から丸に八の旗を立てて戦場を駆け巡っていた秀吉は、蜂須賀、蜂屋といった八の発音の付く者達を配下に集め、
見る間に出世した。
(注)この藤吉郎時代の丸に八の旗印は「郷土が生んだ英雄」として名古屋市の市章になっている。
ところが本能寺の変で信長が死に、信長の天下を奪うと秀吉は、不思議なことに俄かにころりと一変してしまうのである。
その訳は秀吉の父弥右衛門が早死にはしたが、実は大陸系の血筋の者だったということである。これはおそらく秀吉の母が生活に困窮してやむなくした選択だったろうと想われる。
しかし、今更自分の本当の父が、つまり弥右衛門というのが実は仏教徒で大陸系だといっては、生母がいくら暮らしのためだったとはいえ、掟破りの無節操な女になってしまう。だから秀吉は突然、
「わが母は持萩中納言の娘であった」と庇って言い出した。当時も昔も「持萩中納言」などという公卿は居なかったので、これは秀吉の創造の人物である。
その次には、その母が時の帝の子を身ごもって尾張へ行き、そこで生んだのが自分であると言い出した。終いには、自分こそ皇統継承者であると、皇太子誠仁親王を自害させ、時の正親町帝が秀吉に譲位するのを嫌がって、
絶食して抵抗すると、
「中宮や女御のお妃衆を、皆張り付けにして御所の前に並べて曝す」とまで脅した。
処がこの時天変地異が京阪初め全国的に続き、まだ迷信の蔓延っていた時代だから、これには秀吉も驚いた。
誠仁親王の祟りかも知れぬと狼狽し、やむなく遺児を即位させ、後陽成帝と仰いだ。
秀吉は平(たいら)から藤原と次々に姓を変える
それは良いが、昔は丸に八を描いた旗を持って歩いていた、いわば「みなもとの民」のはずが、とたんに平氏の秀吉になって「平秀吉」を名乗り、御所の職名である内大臣になり、次には外来系(唐国)の姓である藤原秀吉と改名し関白太政大臣になってしまった。
(秀吉のライバルだった明智光秀が、本能寺の変の後、当時天皇から大混乱の京の治安維持に尽力した明智光秀に武家の棟梁である征夷大将軍の勅許を与えていた。日本史ではここは隠されているが、秀吉としては光秀の後塵を拝したくなかったのだろう)
つまり弟の羽柴大納言秀長は、れっきとした原住民系の血をひく筑阿彌の子だから、これは神徒すじ。ところが兄である秀吉の方は今までは都合上隠していたが、実は大陸の血をひく仏教徒だという。
この秀吉の豹変ぶりを喜んだのは、神徒の信長に徹底的に弾圧され、焼討ちにされ壊滅状態に瀕していた延暦寺や高野山の仏教勢力である。
反対に唖然として青ざめたのは、原住系で信長の頃から堺に勢力を張っていた、皮革問屋の武野紹鴎門下や北向町に店を並べた堺の納屋衆たちであった。
勿論武家も騒然たるものがあった。
秀吉関白秀次を殺す
なにしろ信長時代からの大名は、みな神徒系である。中には前田利家のような、犬千代といった清洲城の頃から、当時の藤吉郎を知っていた者は、胡乱臭いと思って用心し、柴田勝家の寄騎なのに彼を裏切って破滅させ、
秀吉に恩を売って、それでわが身の安全を図ったものもいる。利家はそれでも足りなくて娘を側室に差し出してまでしている(加賀殿)。その内に関白秀次の事が起きた。
秀吉は、あれは異父血統の子でわれと宗旨がちがうから、天下を継がせるわけにいかぬと殺してしまった。
(秀次略歴)
幼名孫七郎。初め秀吉の嗣子(跡継ぎ)で二世関白。
秀吉の近親で三好吉房の子で、初めは三好康長と養子になる。後に養家を去って秀吉の許へ走って、天正十二年四月、長久手の役で大敗し、有能の家臣を多く失い、秀吉から叱責される。この頃はまだ三好信吉と名乗っていた。
十三年六月には中納言になる。近江、大和などで四十三万石。
のち尾張八郡を加増され百万石。
十九年十二月内大臣に任じられ関白職宣下される。秀吉は太閤と号る。
文禄四年七月高野山に追放されるが、十五日自殺する、と日本史ではなっているが、これは紛れもなく秀吉の謀殺である。何故なら秀次の血脈を絶つため、その室と男女の子二人と、多くの側室が三条河原で成敗されているからである。
秀吉が、何故にこんな残酷な粛清とも呼べる殺戮を強行したのかと言えば、世継ぎとしての己の子、お拾い鶴松が天正十九年十二月に死んでしまったからである。だが落胆しきっていた秀吉は、
文禄二年八月に待望の世継ぎとして秀頼が生まれたので、もう秀次は邪魔者以外の何物でもなくなった。
だから前記したように、秀頼生誕後二年足らずで秀次殺害となったのである。
こうなるともう、羽柴大納言秀長も邪魔だからこれも秀吉は郡山城で謀殺している。この秀長の死は、その跡目の秀保が吉野十津川で水遊びの時、何物かに水中にひきこまれて溺死して、
大和百万石が断絶となっているから、これも紛れもなく秀吉の仕業である。
堺の納屋衆の唯一の後ろ盾だった神徒系で原住民の血をひく秀長も殺すともう秀吉は怖れるものが亡くなった。次いで千利休もその妻も石田三成に命じて蛇責めで殺している。大陸遠征のため、
国内の叛乱を恐れた粛清で後顧の憂いを断つたのである。
この後は前記「天皇になろうとした秀吉」を参照されたい。
(追伸)
征韓の役を断行した秀吉は、鴨緑江まで破竹の勢いで朝鮮軍を追い詰めた。 そして次なる作戦は明国へ討ち入る予定を立てていた。
その壮大な計画とは。
「天皇を北京に迎えて、その周辺十カ国を御所の領土に進上する」
「日本の天皇には、当面は時の皇太子周仁親王か皇弟智仁親王をもって御即位」
「日本の関白職は、秀吉の甥の大和中納言をあてる」
「その後秀吉が第一代"豊臣天皇"として即位する」
こうした戦後処理の計画を立てての一大作戦だった。
現代では隠されているが、信長、秀吉、家康にしろ、皆出自は日本原住民で、奈良時代の 百済系を追い落とした大陸唐の勢力が日本に君臨していたため、戦国時代は仏教の大陸系
と神信心の原住系の争いで、原住系の秀吉が日本を統一したため、京の御所に勢力を張る唐系(藤原大陸系)の公家たちを「お前らは本国へ帰れ」とばかり秀吉の、明への侵攻計画だったのである。
島流しにすれば済むところ、大明国討ち入りとは秀吉の気宇壮大なところであろう。
大陸の、黄塵吹き荒れる唐から来た者達は当時の日本は公害も無い四季のはっきりした、美しい緑あふれる国土に、桃源郷を見ただろう。
だから大陸には無い美しい富士山を藤原の山、「ふじ山」と付けたのである。
こうして大陸勢力は、平安、奈良と日本に君臨し、足利時代と言えば明国の属国だった。
足利時代の末期になってようやく日本原住民系が、各地の荘園や寺領を襲って力をつけ、戦国大名になった者も多い。
だから大陸系の公卿の日記には、この状況をにがにがしく思い「下克上」と書き残している。
秀吉の戦略は、朝鮮は明への通過点だけだったから、占領などする気は毛頭無かった。
そして秀吉は当初は己が天皇になろうとして、京の中心十町四方を取り壊し、新御所として壮大な聚楽第も建てたのである。