新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

奇怪 仮面の秀吉  天皇になろうとした秀吉   第一代豊臣天皇

2021-06-29 19:13:43 | 新日本意外史 古代から現代まで


 奇怪 仮面の秀吉

  天皇になろうとした秀吉  

  第一代豊臣天皇


前記「豊臣秀吉出世噺 秀吉の生まれ」の項で、秀吉は日本原住民の内、サンカ部族の「木の陰族」の出身と記した。
これは、弁護士で在野の古代史研究家、鹿島昇氏の説を借用した。
しかし、一方では(秀吉原住民説)とは正反対の、大陸の血を引く外来系種族の出自とという説もある。
どちらが真実なのかは、読み比べて読者の判断に委ねるしかない。以下。

  阿弥とは何か?



さて、豊臣秀吉の異父弟で、羽柴大納言秀長がいる。
だがこの二人は世にも不思議な兄弟だった。
秀長の父はその名を筑阿彌(ちくあみ)といった。阿彌という名が付くということは、これは紛れもない原住民系で、宗旨は神徒なのである。
此処で少しこの「阿彌」についての解説をしておく。
日本語は明治まで漢字は音表文字だから「阿弥」でも「阿彌」でも、あみと読めれば可なので、此処では「阿弥」として続ける。
日本列島に大陸勢力が、仏教を持ち込み、武力によって進駐してきた時、抵抗した者は殺したが、それ以外の者は隔離して纏めて住まわた。
地方によって呼び名は異なるが、これを院内、院地、別所、などというが、現在の問題の根源でもある。
こうした非区別制度が確立したのは足利時代後期からである。
そして原住民といえども、官途につきたいと言う者は、強制的に先ず仏教に転向させて、頭を剃らせてナムアミダと称えさせられるのである。
さらにその名にも識別の為に何何阿弥とつけられた。
日本の文化はアミ文化だと謂われるのは、彼ら原住民が体制側に転向したといっても、非区別地出身だから叛乱されては困るから、能阿弥、花阿弥、茶阿弥、といったように絶対に武器は持たせぬ職業にのみ彼らをつかせたのである。

そしてこの原住民族は絶対に大陸外来系とは通婚しないという厳しい掟が在った。これを同婚同火の禁といい、大陸系の人間とは同じ火も使わないという
決まりだった。とくにサンカは娘が外来系と交わって妊娠した場合、親はその子を殺してもいいという掟も厳然と在った。
そこで筑阿彌の前夫にあたる秀吉の父、弥右衛門もやはり同族の者と見られていた。

                最初の夫   弥右衛門→秀吉
      秀吉の母     
     (後の大政所)     二番目の夫  筑阿彌 →秀長


つまり秀吉自身も疑いもなく純日本系の八衆の出身と見られていたのである。
だから、江州八田別所から逃げて尾張に来た織田庄出身の血を引く信長に同族として召し使われ、藤吉郎時代から丸に八の旗を立てて戦場を駆け巡っていた秀吉は、蜂須賀、蜂屋といった八の発音の付く者達を配下に集め、
見る間に出世した。
(注)この藤吉郎時代の丸に八の旗印は「郷土が生んだ英雄」として名古屋市の市章になっている。
ところが本能寺の変で信長が死に、信長の天下を奪うと秀吉は、不思議なことに俄かにころりと一変してしまうのである。
その訳は秀吉の父弥右衛門が早死にはしたが、実は大陸系の血筋の者だったということである。これはおそらく秀吉の母が生活に困窮してやむなくした選択だったろうと想われる。
しかし、今更自分の本当の父が、つまり弥右衛門というのが実は仏教徒で大陸系だといっては、生母がいくら暮らしのためだったとはいえ、掟破りの無節操な女になってしまう。だから秀吉は突然、
「わが母は持萩中納言の娘であった」と庇って言い出した。当時も昔も「持萩中納言」などという公卿は居なかったので、これは秀吉の創造の人物である。
その次には、その母が時の帝の子を身ごもって尾張へ行き、そこで生んだのが自分であると言い出した。終いには、自分こそ皇統継承者であると、皇太子誠仁親王を自害させ、時の正親町帝が秀吉に譲位するのを嫌がって、
絶食して抵抗すると、
「中宮や女御のお妃衆を、皆張り付けにして御所の前に並べて曝す」とまで脅した。
処がこの時天変地異が京阪初め全国的に続き、まだ迷信の蔓延っていた時代だから、これには秀吉も驚いた。
誠仁親王の祟りかも知れぬと狼狽し、やむなく遺児を即位させ、後陽成帝と仰いだ。

秀吉は平(たいら)から藤原と次々に姓を変える

それは良いが、昔は丸に八を描いた旗を持って歩いていた、いわば「みなもとの民」のはずが、とたんに平氏の秀吉になって「平秀吉」を名乗り、御所の職名である内大臣になり、次には外来系(唐国)の姓である藤原秀吉と改名し関白太政大臣になってしまった。
(秀吉のライバルだった明智光秀が、本能寺の変の後、当時天皇から大混乱の京の治安維持に尽力した明智光秀に武家の棟梁である征夷大将軍の勅許を与えていた。日本史ではここは隠されているが、秀吉としては光秀の後塵を拝したくなかったのだろう)

つまり弟の羽柴大納言秀長は、れっきとした原住民系の血をひく筑阿彌の子だから、これは神徒すじ。ところが兄である秀吉の方は今までは都合上隠していたが、実は大陸の血をひく仏教徒だという。
この秀吉の豹変ぶりを喜んだのは、神徒の信長に徹底的に弾圧され、焼討ちにされ壊滅状態に瀕していた延暦寺や高野山の仏教勢力である。
反対に唖然として青ざめたのは、原住系で信長の頃から堺に勢力を張っていた、皮革問屋の武野紹鴎門下や北向町に店を並べた堺の納屋衆たちであった。
勿論武家も騒然たるものがあった。

   秀吉関白秀次を殺す

なにしろ信長時代からの大名は、みな神徒系である。中には前田利家のような、犬千代といった清洲城の頃から、当時の藤吉郎を知っていた者は、胡乱臭いと思って用心し、柴田勝家の寄騎なのに彼を裏切って破滅させ、
秀吉に恩を売って、それでわが身の安全を図ったものもいる。利家はそれでも足りなくて娘を側室に差し出してまでしている(加賀殿)。その内に関白秀次の事が起きた。
秀吉は、あれは異父血統の子でわれと宗旨がちがうから、天下を継がせるわけにいかぬと殺してしまった。
(秀次略歴)
幼名孫七郎。初め秀吉の嗣子(跡継ぎ)で二世関白。
秀吉の近親で三好吉房の子で、初めは三好康長と養子になる。後に養家を去って秀吉の許へ走って、天正十二年四月、長久手の役で大敗し、有能の家臣を多く失い、秀吉から叱責される。この頃はまだ三好信吉と名乗っていた。
十三年六月には中納言になる。近江、大和などで四十三万石。
のち尾張八郡を加増され百万石。
十九年十二月内大臣に任じられ関白職宣下される。秀吉は太閤と号る。
文禄四年七月高野山に追放されるが、十五日自殺する、と日本史ではなっているが、これは紛れもなく秀吉の謀殺である。何故なら秀次の血脈を絶つため、その室と男女の子二人と、多くの側室が三条河原で成敗されているからである。

秀吉が、何故にこんな残酷な粛清とも呼べる殺戮を強行したのかと言えば、世継ぎとしての己の子、お拾い鶴松が天正十九年十二月に死んでしまったからである。だが落胆しきっていた秀吉は、
文禄二年八月に待望の世継ぎとして秀頼が生まれたので、もう秀次は邪魔者以外の何物でもなくなった。
だから前記したように、秀頼生誕後二年足らずで秀次殺害となったのである。

こうなるともう、羽柴大納言秀長も邪魔だからこれも秀吉は郡山城で謀殺している。この秀長の死は、その跡目の秀保が吉野十津川で水遊びの時、何物かに水中にひきこまれて溺死して、
大和百万石が断絶となっているから、これも紛れもなく秀吉の仕業である。

堺の納屋衆の唯一の後ろ盾だった神徒系で原住民の血をひく秀長も殺すともう秀吉は怖れるものが亡くなった。次いで千利休もその妻も石田三成に命じて蛇責めで殺している。大陸遠征のため、
国内の叛乱を恐れた粛清で後顧の憂いを断つたのである。
この後は前記「天皇になろうとした秀吉」を参照されたい。

(追伸)
征韓の役を断行した秀吉は、鴨緑江まで破竹の勢いで朝鮮軍を追い詰めた。 そして次なる作戦は明国へ討ち入る予定を立てていた。
 その壮大な計画とは。

「天皇を北京に迎えて、その周辺十カ国を御所の領土に進上する」
「日本の天皇には、当面は時の皇太子周仁親王か皇弟智仁親王をもって御即位」

「日本の関白職は、秀吉の甥の大和中納言をあてる」
「その後秀吉が第一代"豊臣天皇"として即位する」

 こうした戦後処理の計画を立てての一大作戦だった。
現代では隠されているが、信長、秀吉、家康にしろ、皆出自は日本原住民で、奈良時代の 百済系を追い落とした大陸唐の勢力が日本に君臨していたため、戦国時代は仏教の大陸系
と神信心の原住系の争いで、原住系の秀吉が日本を統一したため、京の御所に勢力を張る唐系(藤原大陸系)の公家たちを「お前らは本国へ帰れ」とばかり秀吉の、明への侵攻計画だったのである。
島流しにすれば済むところ、大明国討ち入りとは秀吉の気宇壮大なところであろう。

大陸の、黄塵吹き荒れる唐から来た者達は当時の日本は公害も無い四季のはっきりした、美しい緑あふれる国土に、桃源郷を見ただろう。
 だから大陸には無い美しい富士山を藤原の山、「ふじ山」と付けたのである。
こうして大陸勢力は、平安、奈良と日本に君臨し、足利時代と言えば明国の属国だった。
足利時代の末期になってようやく日本原住民系が、各地の荘園や寺領を襲って力をつけ、戦国大名になった者も多い。
だから大陸系の公卿の日記には、この状況をにがにがしく思い「下克上」と書き残している。

 秀吉の戦略は、朝鮮は明への通過点だけだったから、占領などする気は毛頭無かった。
そして秀吉は当初は己が天皇になろうとして、京の中心十町四方を取り壊し、新御所として壮大な聚楽第も建てたのである。

豊臣秀吉は猿ではない

2021-06-20 19:19:14 | 新日本意外史 古代から現代まで

豊臣秀吉は猿ではない


「うん、うぬは猿そっくりじゃな。まこと珍妙なつらじゃ。よし、今日よりは、猿めとよんでつかわそうかい」
「はい、はい、召し使うてさえ頂けるものなら、てまえは猿でもなんでも、結構にござります」と信長に奉公の初めから、いと気軽に、
「さるめ、さるめ」といわれた事に、あらゆる書にも『太閤記』にもされている。しかし、

『両朝平壌録』という朝鮮の役のときに向こうから交渉にきた者の、帰国後の見聞録ともいうべき報告書には、
「つらつら関白秀吉を、間近かに観察するに、左頬に黒あざのごとき汚点(しみ)が数点浮きでており、口が尖っていて、その顔つきは一見、犬に相似していた」とでている。
 日本の講談では、猿だとか猿面冠者とあるが、実際に面会した人間は、はっきりと秀吉を、「犬に似ている」といい切っているのである。
 はたして、どちらが本当だろうか?

 また秀吉を、土百姓の子とか、鉄砲足軽の子であったなどというが、その頃、日本へ宣教師としてきていたシュタインシェンの、『キリシタン大名』には「樵夫」とあるし、
『日本西教史』にも「秀吉は若年の頃は木こり、たきつけ火付け用に柴の束を担ぎて、売りひさぎ歩きし」とでている。また、
「講談」では「相当豪かった丹羽長秀や柴田勝家にあやかろうと、羽柴と姓をつけた」というが、『古語辞典』では、

「はしば=枯柴の尖端で点火用にした端柴のこと。形状より羽柴ともいう」とあるが、どちらが本当だろうか‥‥この方が論理的だと思われるが、
これまでそうした説は全然といってよい程とりあげられていない。まあ、講談とか、それに類する読物ではそこまでの詮索は、煩わしくなるだけで必要がないのかも知れない。
 
しかし徳川の世が終って明治になった途端に持てはやされ、西郷隆盛ら征韓論者らによって、「豊太閤に続け」と叫ばれて以来、やがて日清日露と続く大陸進出作戦に際しては、
かつての先覚者、国民的大英雄として、小学校読本や絵本の主人公にされてしまいには一大人気者にさえのし上がってしまった彼には、
「これ藤吉、いやさ猿め」といったようなそんないわれ方でないと、一般の親しみが得られなかったというのでもあろうか。


 そうなると、秀吉という存在も、明治軍部が担ぎあげたジンギスカン義経と同じように、大陸開拓先進者という国民指導用の偶像だったにすぎない存在だったとも考えられるのである。
つまり明治以降、ある時代ごとに秀吉が、猿だ猿だと面白可笑しく脚光を浴びさせられるのは、なにも木下藤吉郎の出世功名譚が世人から求められ、
それで引張り出されるのではなく、朝鮮とか中国を国民に身近かに感じさせねばならぬような状態のときに、それはチンドンヤのごとく真先に、
引張り出される道化ではなかろうかと勘ぐりたくもなる。まったくそんな感じさえもするのである。
 というのは徳川時代には秀吉の研究などされておらず幕末の、『真書太閤記』や『絵本太閤記』ぐらいの、いわば講談本のはしりしか出ていない。
だから乃木大将程の人でさえ、『真田十五代記』といった講談本の類しか読まなかったそうだから、それよりも年かさの明治の元勲などが読んでいた本は、それ以下のものとしか考えられぬ。
 だから秀吉を大陸進攻のパイオニアとして、小学校教科書などでおおいに取り上げたはよいが、朝鮮史料や当時のイエズス派の書簡などはみていなかったろう。
だからして、その内に、秀吉が正親町帝を追って自分が帝位につかんとしたとか、それに反対した山科、四条卿らの大坂落ちといた新事態が明るみにでてくると、
「勤皇精神」を国民指導要領にしていた軍部も困ったのであろう。

 そこで、秀吉の新事実は一切みな伏せてしまい江戸末期のままの秀吉像を凍結させたのである。
 このため秀吉伝説は、文化文政の頃の版本から、すこしも解明されぬままに大手をふって今も、まかり通っているのだろう。
 後述する大和興福寺多聞院英俊の当時の日記から、史家の中には、秀吉というのは歴史知らずの明治政府が、正一位を贈りあがめ奉ってしまったが、
実際は日本人にもあるまじき思い上りの不届き者だった‥‥位は知っていた者もいたであろう。
 
だが、明治大正昭和の間ですっかり金字塔のように出来上がってしまった秀吉の虚像に、正面から突き掛かるような勇気は誰も持ち合せていなかったのか、それとも、
もはや定説となってしまった伝説をぶち破っても、誰からも賞められはしなかろうと、そんなばかげた徒労をあえて、強引にするような愚かしさはしないのであろう。
 だが敢えてそれを改めて推理し直してみるとこうなるのである。
また、加藤清正を有名にしたのは、なんといっても日蓮宗である。
 それと同様に、塚原卜伝を世にひろめたのも、常陸鹿島神社が幕末の剣術流行時代に、当社こそ武の神と宣伝し、
「参篭した卜伝は、神のご庇護で剣の名人となった。剣を志す者は当社へ参詣すれば、ご利益できっと上達すること間違いなし」
 と弘めさせたせいだというが、秀吉もまた、「山王権現さま」とよばれる日吉神社の信者獲得用にPRされていたものらしい。つまり日吉さまに願って生まれた子だか
ら、「日吉丸」であって、お稲荷さんの使いが狐なのに対し、「日吉さまのつかわしめは、猿だったから日吉丸は猿とよばれた」
 という論法なのである。もともと猿というのは、「馬屋神」といわれ、信長や秀吉の頃は、馬が病気した時には、
厩へ猿にきて貰って小さな御幣を振らせれば直るとされていた。
 つまり獣医というより、神聖な神の使いとみられ、猿飼部族は、「神人」の扱いをされていた。という事は、今のようにモンキーセンターや、動物園、それに家畜商もなかった時代では、
「猿は深山にすむ霊長類の動物」として、猟師でもなければ、実物は滅多に見られるわけのものでもなく、一般の人間は薄気味悪がって、拝まんばかりにしていたのだろう。

 処が天保の飢饉からの米価の値上がりで、非農耕の猿飼部族は食してゆけなくなり、猿を伴って門付けして歩くようになったので、かつては恐れ敬われていた神人が、
今度はあべこべに、「猿廻し」と軽蔑され、猿の方も、昔は、馬屋の神であったのが、多くの人目にさらされた結果が、価値を安っぽくさせ、
「テレツクテンのエテ公」となってしまったのである。
 だからこそ『真書太閤記』や『絵本太閤記」の類も、初めは発禁版本没収の憂目を秀吉ものを、そうした、「サルメ」「サル」の扱いにしたため、
後には大目にみられて、どんどん売りまくられたのではなかろうか。
 
しかし異説もある。その頃、将軍家茂に、恐れ多くも京から和宮が御降嫁になっていた。そこで一般庶民は蔭へ廻って、「将軍さまも天朝さまから嫁とりされては、頭が上がるまい」
 下世話にいうカカア天下を想像し愉しんでいた気味があるので、この「サルメ」というのは広まったのだとする説である。これは、
『続日本紀』にある古い昔話だが、小野の姓を名のる一族の長(おさ)が、「わが部族の男共が、前から住んでおりまする女尊系の部族の女に引っかけられ、
次々と連れ去られてしまい、今や小野族は滅びかけようとしています。どうか異種の民でありまする猿女族を、この際討伐して下さって、わが氏族をお守り下さい」と願いでたゆえ、
「よし、女ごに引っかけられ、しぼられ苛められておるとは不憫である」と、時の帝は憐れみたまい、すぐ猿女を急襲させた。
 処が猿女たちは「小野」の姓を自らにつけ、関所の眼をくらまし、もはや早いとこ散らばって逃げてしまった。
 そして旅にでた彼女らは、自分という一人称を、やがて、「おの」といったいい廻しをなし、「おのが姿を影とみて‥‥」といったようなのを唄って、旅芸人の元祖となり、
「語り部」になったというが、追捕に後から行った男たちも、ウスクダラではないが、逆に捕虜(とりこ)となって、「夫」という名の奴隷にされた。

 もちろん一部の女は捕らえられてきて、御所の中で、力仕事をする賎業につかされ、これは「猿女」の名を伝え幕末まで続いているが、
「さるめ」というのは江戸時代にあっては、「強い女」「かかあ天下」の意味だった。

 そこで藤吉郎も、おねねに頭の上がらぬサルメだったろうという受け取り方で、将軍家への当てこすりみたいに、「サルメ、サルメ」といったのが当たったものらしい。
処が明治になって、もう猿女の本当の意味が判らなくなり、「小男であった」といわれる秀吉に、その猿自体を押しつけ、
「猿面冠者」にしてしまったものと思われる。そして、なにしろ明治新政府というのは、有能な士は幕末のテロで大かた倒され、
生き残れたのは、たいした事もない連中ばかりだったので、「王政復古」が成ると、直ちに、

「豊国神社復興」の命令をだして勅使を派遣して正一位を贈った。
 これは、織豊両氏の統一事業が、近代国家前期工作であったことが認められた結果だと、故白柳秀湖はとくが、真相は、
(豊臣は徳川に滅ぼされているから、諸政一新のため)といった早とちりだったのだろう。処が歴史家はそれを裏づけなければならぬから、
故黒板勝美のごときは、その『国史概観』『国史研究』といった旧制高校、専門学校の教科書用にかいたものでも、
「秀吉は京都内野の地を相して邸宅を造営。聚楽第と名づけ宏大壮麗目もさめるばかりで、翌年四月に後陽成帝の行幸を仰ぎ、盛儀古今に比なしといわれる位に、
勤王のまことを示したものである」と、なっているが、彼は歴史屋のくせしてその当時の、『奈良興福寺多聞院英俊の日記』をみた事がなかったのだろうか。

 その日記によると秀吉は、自分は先帝と持萩中納言の娘との間にできた子種であるからと、時の正親町帝を脅かし奉り、女御をみな裸にむいて磔にかけるとまで、
紫宸殿で喚きたて、あげくのはては皇太子誠仁(ことひと)親王のお命を縮めまいらせている。
 御所に向かいあった下立売通りから十町四方の民家を取払い、そこへ万博なみの規模で造営したという聚楽第は、これは取りも直さず秀吉が自分が帝位につくための新御所に他ならない。
 そして、誠仁親王の亡霊にとり殺されると脅かされた結果が、親王の遺児をもって帝となし、その御方を招いて聚楽第を自慢して見せたことが、
「秀吉の勤皇」とは、なんたる無智であろうか。その帝の謚号(おくりな)が、かつて廃帝の陽成さまの御名に「後」がつけてあるのをみても、
歴史家なら判りそうなものを、教科書にまでするとは情けない。

 さて、秀吉の幼児には、まだ鉄砲は尾張まで入っておらず、「鉄砲足軽木下弥右衛門の子」となすのも間違いだが、
「太閤検地」によって、二公一民つまり六割六分まで年貢にとるという重税をかけ、百姓に同情も理解もなく、ただ憎悪しか示さなかった秀吉は農耕階級出身者ではなく、
木こり、つまり山がつの子という素性の者だった方が正しかろう。
 が、だからといって、それが秀吉の価値を損なう程のことでもない。
 食うやくわずの木こりの伜が関白になれたという男のシンデレラ物語は、彼が野卑であり傲慢であればある程、それは魅力的であり男性的でもあるのである。
 つまり責められるのは、秀吉その人ではなく、彼を勝手に自分らに都合よくでっちあげ、歴史というものをまったく歪めてしまう、利用者の側の方であるだろう。



ビートたけしよ、思い上がるな。 ビートたけしが菅政権に大苦言!

2021-06-17 16:40:26 | 新日本意外史 古代から現代まで


ビートたけしよ、思い上がるな。
ビートたけしが菅政権に大苦言!
 

タレントのビートたけしはテレビ朝日系の情報番組「ビートたけしのTVタックル」13日の放送で、
コロナ禍に打ち勝つことを目的に東京五輪の開催へ突き進む政府の動きに対し、「(戦争)晩年の日本兵みたいなもの。負けるとわかっていて戦争を続けているようなもんじゃないか」と苦言を呈した。
私は、芸能人やコメンテーターと称する「業者」が、何をどう話したとてそんなことに興味はない。
所詮は彼らの言は浅薄で低級でしかないから贅言(ぜいげん)に値しないと思っているからである。
しかし、今回は先祖を侮辱した言で看過出来ない。
たかがやくざ映画がヒットしたぐらいで「世界の北野」だとは、おへそで茶を沸かしたい。


この男も漫才屋上がりで「芸能界遊泳術」に長けた軽薄タレントの一人である。
近頃は「ジャーナリスト」の肩書もあるらしく、日本のジャーナリストも下がったものである。
今や、若い女に狂って、糟糠の妻を捨て、晩節を汚した恥ずべき男である。
テレビで「首振り人形」宜しく面白くもない、下卑た助平な下ネタを、傲慢な態度でふんぞり返ってしゃべっている。
坂上忍も同類だが、近頃この手のテレビのしゃべり屋が多く、私は「無責任政府批判業者」と名付けている。
手下どもを集めて「たけし軍団」と称し、己を「殿」と呼ばせてやに下がっているなど笑止。


この男、近現代史(太平洋戦争史)の何処をどう解釈してこんな不遜なことが言えるのか。
本質は空疎と空虚なのに、さらに悪いことに己の無内容を勘違いして、怯懦と自己の虚像に対する思い上がった「空者(うつけもの)」に過ぎない。
交通事故の後遺症の為、活舌が悪く、何を言ってるのか聞きにくいが、曲がりなりにも「しゃべり」で飯を食ってるなら、細心の注意を払え、といいたい。
特に歴史関連は、薄っぺらな知識で語るべきではない。


先ず、「日本兵みたいなもの」とは何たる言いぐさか。兵隊は進んで戦争に出たのではない。赤紙一枚で招集され、食料も弾薬もろくに与えられず、
それでも「日本が勝つ」と信じ、父母、妻や子の為、自分の命を鴻毛の軽きにおいて死んでいったのである。
そして兵士は、我々の父であり、祖父なのである。
間違った戦略、戦術、作戦にも物言えぬ兵が散華していった、悲しみや苦しみを理解しているのか。先祖に対する冒涜である。
負けることが判っていたのに、精神論で開戦し、そして、敗戦が避けられないものと判っていたのは兵ではなく、
陸軍では「大本営作戦課」の参謀たち。海軍は「軍令部参謀」たちなのである。
これらの者たちは、実戦場も知らず、遥か後方で、誤った机上作戦により多くの兵を死なしている。

だから、このことをタケシが言いたいなら「無理な戦争を兵隊(国民)に強いた日本軍統帥部」というのが正しい。


 事大主義の国「韓国」慰安婦強制連行の嘘 強制徴用、強制労働の嘘

2021-06-14 14:27:29 | 新日本意外史 古代から現代まで
  事大主義の国「韓国」

慰安婦強制連行の嘘

強制徴用、強制労働の嘘

「事大主義」、この意味は、朝鮮半島国家の生存戦略であり、馬韓、弁韓、辰韓の時代から新羅、高麗、李氏朝鮮全ての時代を経て、
現在の大韓民国に至るまで、中国に従ってきたことを指す。
従って「事大主義」とは、(「強い勢力に従う」という外交方針)なのです。
現在は北朝鮮にはおもねり、へつらい微笑外交。アメリカには追随する振りをして、恐ろしい中国には媚びて二股外交。ロシアにも陰では相当へつらっている。
朝鮮は、バルカン半島諸国と同じ地政学的には、これが国家の生きる道と宿命づけられている。


一つ想像して貰いたい。半島が封建時代だった頃。
地政学的視点から、朝鮮半島に立ち、南に目を向けたとき、背後には恐ろしい虎(中国)と熊(ロシア)が居る。
眼下は日本海で、半島を湾曲して取り囲むような日本列島が太平洋を塞いでいる。そこに住む日本人は、勤勉で賢く、礼儀正しく文化度の高い誇り高い民族である。
しかも武力も強大で、国内のまとまりが強く、虎や熊よりある部分では恐怖の「竜」にも例えられる存在。


かって征韓の役の時は豊臣秀吉にこっぴどくやられている。
何故なら秀吉の戦略目的は朝鮮などただの通り道で、問題にもしていなかった。明国への討ち入りが主目的だったからである。
だから素直に北京への案内役に徹していれば何の問題もなかった。
だが、「大中華思想」に凝り固まり、自分は千年以上にもわたって朝貢しているくせに、朝鮮は「小中華」と思い上がり、早速ご主人様に御注進。
明国軍を自国に引き入れ日本軍に向かってきた。この結果戦争により国土は荒廃し、国家も疲弊した。
明軍の助力が無ければ到底勝ち目はなく、秀吉の急死により、日本軍は引き揚げたが、この時朝鮮は日本という竜の実力を知り恐れ畏怖したのである。
だから、徳川幕府になっても、頼まれもしないのに日本へ通信使という名目で、実態は偵察使を送り込んだのである。
征韓の役を歴史家は悪しざまに謂うが、元寇のとき進んで元軍を案内し、先頭になり侵攻してきたの朝鮮だったことを忘れては困る。

以前、石平氏の著書の紹介で(「朝鮮通信使の真実」)も触れたが、「朝鮮通信使は朝貢使節団だった」という事実を指摘している日本の学者はほとんど皆無なのである。
「日本学術会議」の目的が菅政権によって暴露されたように、自国を批判することを「仕事」としているような左巻だらけの日本の歴史学会だから、これは当然なのである。


 また江戸時代の日本は、江戸という世界最大級の大都市と、「天下の台所」といわれた商業都市・大坂を中心に海運と河川利用運搬の物流システムが全国に広がり、経済が大きく栄えた。
 朝鮮通信使たちは、このような日本の繁栄ぶりに驚愕し、「日本紀行」などに記している。後年、旅行家のイザベラーバードが同時期の朝鮮を訪問し、道路は人間と動物の糞尿だらけでその異様な不潔さを見て、
「ソウルこそこの世で一番不潔な町」と評したが、対照的な現象といえるだろう。
 華夷秩序とは何か

この意味は「世界の中心にある中国が、文明の頂点に立っている。それに次ぐのが朝鮮で、これを小中華として日本よりはるかに上位なのだ」と妄信した。
従って朝鮮通信使たちは、日本へ朝貢しているという事実、そして圧倒的な文明の差を見せつけられ、プライドは崩壊させられたのである。


 そこで彼らはまず、朝鮮版の「精神的勝利法」でアイデンティティを保とうとした。「精神的勝利法」とは近代中国の大作家、魯迅が『阿Q正伝』で描いた主人公・阿Qの考え方で、
客観的には明らかな敗北を、心のなかで勝利に置き換える思考法である。
ここでは「阿Q思考」と呼んでその意味を考えてみたい。
(以下から月刊WiLL一月特大号、石平氏の記事「朝鮮通信使の"黒歴史"の引用になります)


 阿Qはいつも理由なく人に殴られますが、力の弱い彼は抵抗することができません。そこで阿Qは「いま殴られたのは、息子に殴られたようなものだ。
いまの世の中は息子が父親を殴る変な世の中だから、親の白分か殴られても不思議ではない。だから気にしなくていい」と考えるのです。


 朝鮮王朝は自分たちの事大主義外交を、阿Q思考を使って解釈しました。そもそも「事大」という言葉は、儒教の経典『孟子』に由来します。
 斉の国王である宣王が孟子に「隣国と交わるためにはどうあるべきか」と聞いたところ、孟子は「仁の心のある者(仁者)だけにできることですが、
大国であっても小国に事えることです(以大事小)≒智のある者(智者)だけができることですが、小国が大国に事えることです(以小事大)」と答えました。

 朝鮮王朝は孟子の教えを、阿Q思考で都合よく解釈しました。対中外交は「以小事大」をそのまま解釈し、知恵を持つ小国(朝鮮)が、大国(中国)に事えていると考えたのです。
 しかし日本に対しては、小国であることを認めるわけにはいきません。そこで朝鮮王朝は、孟子の一言目「以大事小」を当てはめ、「朝鮮という『仁』を持つ格式高き大国が、あえて小国に事えている」と解釈しました。
上から目線の「仁者が行う素晴らしい外交」と曲解することで、精神的に勝利することができたのです。
 さらに彼らは、劣等感から抜け出し、破壊された自尊心を守るため、徹底して日本を貶めるしかありませんでした。そこに「真実」は関係ありません。
彼らの日本を侮辱する暴言は、コンプレックスの裏返しにほかならないのです。
 このような歪んだ精神構造は、朝鮮通信使の時代から現在まで受け継がれ、知識人のみならず韓国国民の多くに共有される国民的なものになりました。
 そう考えれば、「日本は残虐な植民地支配を行った」「婦女子を強制連行し、強姦する野蛮な民族だ」「日本は歴史に謙虚になるべきだ」という現代の韓国が行う歴史の捏造、侮辱、上から目線も、
当時の延長線上にあるとわかるでしょう。「反日」は日本のせいではなく、歪んだ精神構造だからこその言動なのです。
(以下略)


さて、最近のGSOMIA(軍事情報包括保護協定)の継続・破棄をめぐる「引き延ばし戦略」からも、大国に阿って決断できない「事大主義」根性が見え見えである。
そんな韓国に、仲介や援助をする必要は全く無いし、いわゆる軍専用売春婦(従軍看護婦はいたが従軍慰安婦などは居なかった)や、企業賠償問題でも、
一ミリも譲ることは無いのである。
協定や協約を弊履の如くすて、蒸し返す韓国には、日本が敗戦後朝鮮半島に、アメリカに没収され、置いてきた土地、建物、会社、インフラの返還訴訟だってやれるのである。
人間関係でも、敵意剥き出しで常に上から目線の人とは、関わらないほうがいいに決まってる。それは国家関係でも変わない。いくら日本が「礼」を尽くしたところで、
返ってくるのは侮辱だけの韓国とは関わってはならないのである。


慰安婦強制連行の嘘


ここで再度慰安婦強制連行について記しておかねばならない。
上記したように、慰安婦は「性奴隷」ではなく、単なる日本兵の為の売春婦(軍隊専用売春婦)なのである。彼女たちは日本人が一番多く、次いで朝鮮人、中国人が居た。
その多くは自分の意思で応募しているのが実態。中には貧しさ故親が借金の片に娘を売った例もある。また仲介者に騙された例もある。
彼女らの所得を見ると一般労働者よりはるかに多く、親族に送金したり、毎月貯金していた女も多かった。だから韓国の主張は何ら根拠のない「捏造」なのである。
歴史的に日本軍が「軍隊専用売春婦」を戦地に連れて行くのは戦国時代からの伝統だった。
豊臣秀吉の九州征伐や東北征伐でも、自分は大阪から側室を呼んだが、兵の為には大量の売春婦を全国から手配している。

島原の乱では、徳川幕府は天皇や公卿が討幕運動に勅旨を出すのを警戒し、京の周りに多くの大名を動員して、十五万人もの兵を駐屯させ見張ったので、兵の慰安のため、京に島原遊郭を設置したのが真相なのである。
この島原反乱を取って「島原遊郭」と名づけた。
日本は昔から従軍慰安婦ともいうべき売春婦を戦地へ連れて行くのは、通例となっていた。
現在、これが韓国や中国が問題にして騒ぎ立てているが、白人国家は、侵略した土地で女たちを現地調達して、これは苛斂誅求で酷いものだった。
フランスの植民地だったアルジェリアなど、一般人の女さえフランス人に要求されれば、どんな場合でも応じなければならず、断れば殺されても文句が言えない状態だった。
日本は自国民をしかもお金を払って買っていたのだから、その残酷度はまるで比べ物にならない。どちらが良いかと言えば日本が良いに決まっている。
ちなみに、台湾も朝鮮も当時は日本国であって、植民地ではなかったことを理解しなければならない。

  強制徴用、強制労働の嘘

以下の文は韓国の学者・李栄薫氏の著書『反日種族主義との闘争』からの引用になる。

"強制動員”と"強制徴用”という用語について

 『反日種族主義』が刊行された後、私に提起された最初の批判は、"強制徴用”や強制動員”を否定した、ということでした。記者たちだけでなく、研究者たちもこのような批判をぶちまけました。
まず"強制徴用”の否定についてお話しします。


 私は徴用を否定したりしていません。一九四四年九月から徴用が実施され、これにより二十二万余名の朝鮮人が日本に動員されました。徴用に応じなければ、一年以下の懲役か1000円以下の罰金に処されました。
このように、徴用は明白な強制でした。したがって私は、「法律が規制する強制的な動員方法」だったと記しました。それにもかかわらず、"強制徴用”を否定している、という批判が提起されるのは、
私の文章を間違って読んだのでなければ、私か、「"強制徴用”という言葉自体が事実を歪曲する虚構的な概念だ」と批判したためだと考えられます。
 
 徴用はそれ自体が強制であるにもかかわらず、わざわざ「強制」という単語を付けています。
もし韓国で徴兵を「強制徴兵」と言えば、人々は笑うことでしょう。同じことです。それでもなお敢えて「強制」という言葉を付けたがるのは、徴用に「奴隷のように連れられて行った」という式の、奴隷狩りのイメージを塗り付けるためです。
意図したことではないのかも知れませんが、結果的にはそうです。しかし徴用は、基本的にそういうものではありません。
 当時、徴用令書と呼ばれた令状が出ると、対象者は令状を受領しなければならず、決められた時間と場所に出頭し、身体検査と適性検査を受けました。
それを通過すると面事務所や郡庁に再度集まり、釜山や麗水に集団移動し、そこで日本の会社から来た労務担当者の引率下、連絡船に乗って海を渡りました。
徴用にはこのような定められた法規があり、それに則って行なわれたのであり、デタラメに手当たり次第に捕まえてトラックに載せ、荷物のように日本に運ばれたのではありません。
"強制動員"も、事実を誇張し歴史を歪曲する概念です。徴用に先立ち一九三九年九月以降、満五年にわたり「募集」と「官斡旋」という方式で労務動員が行なわれました。募集と官斡旋は、
基本的に個人の自発的な意思によるものでした。日本に動員された七十二万余名の労務者の中で、徴用されて行った二二万名ほどを除いた約五〇万名が、そうして日本に渡りました。
徴用されて行ったとしても、一年足らずで戦争が終わったので、労務動員において徴用の持つ意味は、さらに小さくなります。
 "強制動員”という概念の下では、日本に動員された全ての朝鮮人は奴隷になってしまいます。
しかし、募集と官斡旋で重要だったことは、新しい場所で自身の運命を開拓しようとした朝鮮人たちの自発的な意思でした。このような意味で"強制動員”は、歴史の真実を歪曲する概念です。
私は、「たんに『労務動員』とだけ表現すればよい」と主張しています。このことで「"強制動員”を否定した」と批判するのは、私の主張の論点をぼやかすことです。
(以下略)
氏は韓国語文献、日本語文献、英語文献と、膨大な数の文献資料写真、地図を渉猟し本書を書いておられる。良質な韓国人李栄薫氏の努力に感謝いたします。
本来なら、日本の学者やジャーナリズムが総力を挙げて注力するべき事案を、韓国の学者に解明されて「学者共恥を知れ」と言いたい。
学術会議騒動で明らかになったように、彼らは日本を貶める事に血道をあげている。李栄薫の爪めの垢でも煎じて飲ませたいが、ハナクソで沢山だろう。


サンカの生活実態 吉良上野介の妻上杉家の三姫

2021-06-07 11:33:05 | 新日本意外史 古代から現代まで

サンカの生活実態


吉良上野介の妻上杉家の三姫
夫馬小太郎
三角寛



本ブログではサンカの考証をしている。彼らについての良質な史料的書物は少なく、有名なのは三角寛の物がある。
東京朝日新聞記者だった彼は、警察、即ち体制側からの視点でサンカを「反体制部族」として断定し、さらに海洋渡来系(赤サンカ)と騎馬民族系(白サンカ)をごっちゃにしている。
以下は、三角寛著作の「サンカの社会性」の書物を引用して、その間違いの部分の考察をしてみた。




先ず「ヰツキ」の意味である。
 
ヰツキは、半永住の「ササメイホリ」のことである。これは篠笹を厚く立てて、三方を囲んで、その先を丸屋根にして、中にコモを張る。これを「タチゴモ」という。
これは神代から、天の火明命の一族が、蝮や「赤士刺(ツチカミ)」とよぶサソリを防ぐために考案して作ったものであると伝承されている。
 天幕と同じ方位に向かって入口をつけ、中は土間と床張に別れ、床は土間より五寸ほど上げて、大地から湧き上る地気から離してある。炉は入口の土間に切って自在鉤(テンジン)を立て、煮炊きできるように作る。
広さは人数によって大きさはどうともなるから自由である。この「タチゴモ」の入口にも、「鳴竹」を立て、「チギナリ」を鳴らして、神の加護を祈ったのである。


竹の代用に木を立て、その先に「ナリヒサゴ」を取りつけて、「カムナリ」を仰いだ。その事は江戸時代で、今ではすっかり行われていない。
 というのは、アメリカ製の軍需用のビニールシートカバーや、レザー偽革の反物を配給する時に、これまでのように天を仰ぎ地に伏し火や水を尊ぶといった形式は、
拝火宗とよばれるアラブの回教以前の宗教に似通っていて紛らわしいからという理由で、日系三世や四世の兵隊が、支給の交換条件みたいに厳しく言い渡されたからであるとも云われているが、いかがだろう。
 完全な自然食をしているサンカゆえ、GIが医療斑を伴って廻ったが、トラホームの子供が数名いたきりだったといわれる。


なにしろGHQが昭和二十五年12月に平均年齢を調査したところ、平均87歳を越すという有様で、カロリーとかビタミンとは全く無関係な食生活でも、自然なものを食べていれば無病息災で、医者のいないサンカ社会では長生きできる。


 六十年安保で挫折した学生が、たとえば加藤登紀子女史の旦那様みたいな、かつての闘士が、みな自然食運動をやり、アイヌモシリの事を書く太田竜や野上ふさ子が、やはりそうであるのも、別に長生きしたいとか、
医者の薬代を倹約したいというのでは決してないらしい。GHQの力で昭和25年から表向きのトケコミというか解放運動が進められたというが、開戦する五年前から、反体制のサンカの連中は、
これで自分らを扱いにした京や東京の藤原勢力が追い払えると白バケをしたのは、アメリカへ棄民のごとくに移民されていたサンカがアメリカの諜報部隊となり、各戦線にアメリカ軍兵士として参戦していたゆえであった。


だから進駐と共に彼らシノガラサンカも米軍兵として日本へ来て、各国ハジメの許へ行き、どう話したかは伝わっていないが、民主主義をよく説き、各セブリを廻って歩いたのである。
それゆえアメリカ軍を民族解放のものとみて、山からセブリをたたんで戦火で焼野原になった都会へ出てきて住み着き居附となった者が多い。


普段ならサンカが異様な恰好でぞろぞろと姿を見せたら怪しまれるだろうが、時が時だけに罹災者なみに見られたのだろう。
下谷の万年町界隈は昔から居附サンカの屯地だったが、入谷の鬼子母神にかけて彼らは戦火を受けた土地を上野にかけて次々と新円切り替え時までに入手し、地盤をかためた。
今のアメ横で最初にPXの煙草やチョコレートや洋酒を売り出したのも、GIの中の日系シノガラキ部隊がMPの許可をうけてトラックで多量に持ち込んできていたからだともいわれる。
なにしろ、表向き作って売っていた芋飴というのは、サンカが子供のおやつに作っていたものゆえ、当時の事を知っている人々は、すぐ近くまで浅草から韓国人が団体を作ってアメ横を占領にきた時も、
MPを伴ってきた日系シノガラキ兵が銃を構えて己が同胞を守ったのである。


なにしろ山にいた頃というか昭和の初めまでは、彼らはセブリの狭い所で何でもしていた。セブリ生活者には電灯やガスの恩恵はなく、「テラシ」といって燃し火で明かりをとるだけである。
したがって燃料を必要とする灯火を節約する意味もあって、暗くなれば寝て夜が明ければ起きているといった早寝早起きである。


冬期の時間でさえも午後七時には就寝、そして午前四時には起床する。
箕作りという職業からいって、農家の耕人が家を出た後で出かけたのでは仕事にならない。農家の人達がまだ家にあるうちに出かけて、各戸を巡ってその日一日の修繕箕を集めて、それを鎮守の森や雑木林の中に運んで、
農家の人々が耕作を終わって家に戻って来るまでに仕事を上げて届けなければならないからである。
この早起きの事を「トリオキ」という。また「オヤドリ」ともいう。一般でいう「コケコッコー」と鳴く一番鶏に通ずる。


オヤドリに起き、テラシをテンジンの下に上げて、「朝食(アサイ)」を炊く。朝食は麦飯と味噌湯(ミソユ)である。ミソユは味噌を竹の椀に入れて湯を注いでミソ汁にして飲む。この麦飯の中には山菜野菜を切り込んである。
漬物は、農家から「償(ツグナヒ)」(修理代)に受け取ってきた沢庵やミソ漬などを食べる。また、この麦飯を弁当箱につめる。
この朝飯にはどんな子供も起こされる。学校へ行く子があると、その子供と母親は残るが、学校へ行く子のない家族は、弁当を持って一斉にセブリを出る。村を巡って、その日の仕事が終えてセブリに戻る時刻は「日落ち」前とされている。
それから夕食にかかるが、夜は腹に良い物をというので、主として雑炊かうどんである。夕食にかかる前に、セブリの者はみな、「ミソギ」を必ず実行する。寒中で、
磧(かわら)で手足を洗って、体を冷水で洗うのである。川にザブリと体をつけて、磧に上がって皮膚に痛みを感ずるほど摩擦すると、寒風の中でも体が温かくなる。


そして、セブリの中で焚火にあたると、汗をかく。これは出産の時、初水(うぶみ)を使った習性がそのまま実行されているのである。
睾丸を冷水に毎日冷やすと精が強くなるというのも、サンカのこの慣習の受け売りなのである。が、これは俗説となっているが事実でもあるらしい。


なにしろセブリの夫婦生活は女房が上に跨っての行為である。それに一夫一妻がハタムラになっているのである。並みの男なら新婚早々は溜まっているし珍しいから連日でもいたすが、
何年もたってくると倦きがきてしまい、つい不沙汰になりがちである。しかも下敷きでは駄目である。


ところが、セブリでは冷水で連日浸けるせいか、七十代になっても夫は妻を満足させられるという。
 なにしろ川のあるところなら水浴できるが、そうでない場所では風呂桶を持たないサンカは地面に穴を掘って、昔は桐油紙であったが、今はビニールの雨覆いを大穴型に敷き、
それに水を汲みこんで焼石を投げ込み、温めてヌルマ湯にしてから入浴する。
これを焼湯(ヤキユ)というのが三角寛先生の説である。が、太陽や地面を拝礼する彼らは、自分らは太陽によって大地に生れ、火と水によって暮しているのだと考え、


太陽の運行や流れ星を気にして占いをなす者も、セブリには居るに居る。
「高くなり広くなるみの うみのはら ひ(陽)つき(月)のちから でしほ ひきしほ」というのはサンカ社会に今も残るミチ、つまり塩の事を讃えた歌である。


なにしろ何を食するにも塩がなくてはならぬ。もともと製塩は塩尻とか天尻とよばれ、西南より渡来の古代海人族の限定職で、他の者は今も専売品になっているように、誰もが自由には作れぬものなのである。

 吉良上野介の妻「三姫」もサンカの血を引いていた

赤穂事件の原因が、吉良が赤穂の塩作りの秘伝を奪おうとしたとするようなのは、現代の産業スパイ小説ものであって、あり得ない話で間違っている。
三州吉良では忠臣蔵の芝居を興行させぬのは「抹消」の抹をつけた「抹茶」、つまり摘めば黒くなってしまう植物の茶を緑色にして保たせるのは、銅鍋にわく緑青を混ぜるからで、
これを考案したのが吉良上野介の一歳年上の妻であった上杉の三姫なのである。


よって添加物の事を昔は「転茶」とよび、今は「天茶」といい、茶業者は西尾町となっている吉良から仕入れて混入させねばならぬ義務がある。
つまり吉良上野介のおかげで今も町の産業が成り立っているからである。呉服橋に上杉家より出させた一万両で建てた吉良邸が豪壮厳重で、討入りなどできるような建物ではないから、


柳沢吉保大老は、私邸なのにお召し上げとし、代りに本所の旧近藤登之助の古屋敷を与えた。
官舎だから絵図面は今でも残っているが、いくら修理をしても辺鄙な場所で不便ゆえ、三姫は狸穴の上杉中屋敷に上野介を住まわせていたが、米沢へ戻るのに上杉邸では出来ぬからと別れの会に本所へ行った。


それを大高源吾に知らせた四片庵山田宗偏は、柳沢が元禄前の古い小判大判の流通禁止をし、カネとして通用せぬ京で堺の中村内蔵介に銅を半分も混入の、今いう贋金作りした際の京所司代。その功で加増されて、
当時は老中職の代々の臣だった。
 京の真似をして町木戸を、加賀爪甚十郎が町奉行の時に設けたが、本所から品川の泉岳寺までは四十三ヵ所あると元禄江戸切絵図にもある。


春闘とかゼネストのなかった時代に、当夜に限って番太郎がみな錠をかけ忘れて、彼らを堂々と通した事は当時としても考えられなかった。
そこで、同時代の安藤広重の討入りの続きもの絵では、往復ともに小舟に分乗している。
が、実際は町木戸を監督する大番屋は十二月は南町奉行松前伊豆守の指揮下。松前は牧野備後守が京所司代だった時の京町奉行から、勘定吟味役から勘定奉行に栄転した萩原重秀と共に江戸の奉行に昇進していた男。


元禄版日本マフィアといってもよい仕組みで、討入りの晩に本所二ツ目の紀伊国屋の小屋へ出かけてゆき、「殿よりの賜物」と生卵を配ったのは、柳沢の三百石の家来の細野広沢であるし、


また松前伊豆守抱えの棒術指南の堀内源太左エ門も助太刀に赴いている。そのくせ討入りしたのは武林唯七みたいな軽輩三名が五組ずつで、七十八歳の堀部弥兵衛や、
その他は吉良上野介が炭焼き小屋より邸前に曳き出され斬首される迄は、外にいて、「寒うござる。火に温まらして下され」とか、
「白湯を一杯所望」と、近くの旗本邸の番人にねだって邸外にいたにすぎないから、見張りをしていただけの話。


 そこで、処分問題ではもめたが、萩生徂来として今も知られている儒臣が、柳沢の命令どおりに公儀に対して進言している。
「みな賜死にすべきである」と主張した彼は、細野広沢より上の五百石どりの柳沢吉安の臣。
 この時、女鎧を着て夫の仇討だと討って出ようとしたのが上杉の三姫。


これから、「一つ年上の女房は金の草鞋を履いても探せ」と云われたが、芝居から「(塩谷)判官びいき」となって、三姫の名は消えてしまったという。
 この上杉家はもともと長尾家で、長女は阿亀、次女は阿虎と名が決まっているのに、三番目にできた故に、この三姫の名があるのである。


焼石を厚手の布袋に入れ、「温石(おんじゃく)」とよんで吉良に持たせた記録もあるが、小林計一郎著には、上杉阿虎の姉阿亀が長尾政景との婚礼の絵馬が新人物往来社から出ているが、
夫は正座し阿亀は立て膝姿である。これは明らかにサンカの女房風俗である。
となると、その間に生れた喜平次が後の上杉景勝となり、その曾孫が三姫ゆえ、吉良上野介は連夜下敷きになって夫婦和合を強いられていた事になる。


関ケ原合戦では、赤系の平氏の豊臣方と、白系の源氏系徳川の関ヶ原合戦に上杉が中立だったのはサンケ系のためなのである。
 播州赤穂森城主が、今いう体育に木刀稽古の相手を召し抱えたのが治安維持法に引っ掛って、妻の里方に閉門になった後へ、浅野内匠頭の祖父が関東から転封になった。


 この際に伴してきた播磨多次郎とは呼ばれる者が、海水を塩田にまかず何百本もの竹筒に汲みこみ、真夏に底に塩の凝り固まりを拵えて水晶みたいな氷砂糖のようなものを赤穂の木津屋を通して各地の国一の許へ油桐紙包みにして送っていた。
「ミチノカミ」というのが、実はこの精製塩なのである。
 当時、上杉家は景勝の百万石が関ヶ原戦後三十万石、次いで二十五万石、三姫の産んだ三之助が養子に入って十五万石にはなっていたが、良塩が欲しいのなら米沢の国一に命ずればそれでよいのである。


多次郎塩つまり最高のサンカの「ミチノカミ」が、いくらでも上杉から吉良は入手でき得たのである。
 だから吉良が赤穂より製塩技術を盗もうなどという大河ドラマのごときは、吉良上野介の一歳年上の妻である上杉三姫がサンカの出であると判れば噴飯ものである。


 サンカはフナ(風那)かフマ(風摩)


 サンカ夫婦亀蔵とお花の物語



 反権力反体制で何事に対しても反抗的で、国家権力をもってしても何も言わぬ彼らをどうして調べてよいか判らず、朝日新聞のサツ廻りの記者だった当時の三角寛先生は、追憶として、
「警視庁の石島丑松刑事の資料により、相模、溝ノ口のセブリで、池亀こと池岸亀蔵と妻お花に会見してサンカの生態資料を得たのが最初である」と書いている。


それは昭和七年七月二十四日の事であった。先生は溝ノ口の池岸のセブリの程近くまで行ったが、最初のことでセブリの呼吸がのみこめず、二時間ほど木立の中で様子をうかがっていた。
セブリの前には居附の野天風呂を構えて、土管の煙突から煙が出ていた。そこには赤ネルの腰巻をした白肌の裸女が薪をくべていた。これが、石島刑事から得た資料の主たるお花であることが、先生にも判った。
このお花は両親不明の山童女だったのである。お花は丹澤山で育ったらしいが、五、六歳の頃、村里に現れ、サンカの遊芸(エラギ)相模阿国に救われ、阿国から三味線や唄の遊芸を仕込まれ、
生来の音感と、恵まれた雪肌を売物にして阿国の相棒となって二人で門付けをしていた。


これに眼をつけたのが、当時三十七歳で独身のアバタ男の池岸亀蔵という箕作りサンカだった。一目惚れした彼は、相模国知(クニシリ)に、お花を妻に迎えたいと強硬に申し入れた。
というのは亀蔵が十二歳の時、天然痘にかかり、セブリの中で死にかけたのが、九死に一生を得た。その時、セブリ焼きという病菌掃いに立ち会った相模一が、亀蔵の面相のひどいのに驚いて、
サンカの慣習になっている男はニキビができる頃、女は女(アハズ)の処女(ツル)といって、恥毛のないうちでも初潮のきた女は結婚させる‥‥という習慣だが、これでは女を迎える事はできないから自分で女を探せ、
女捜しを許すとなった。
それ以来、亀蔵は独身を通してきたのだから、今度という今度は、どうしてもあのお花を妻にさせてくれと許しを乞いに出たのである。
そこで相模一はその下のクズコ、ムレコと相談して、養育料(一年十二円、満八ヶ年分として)九十六円と手切れ金も同額の九十六円として、
当時としては大枚の百九十二円(現在なら二千万円近い)を養母(そだておや)の於国に支払う事をその条件とした。


ところが亀は、できないと思われていたその大金をどうにか工面して作ってきてから、それを於国に支払って於国の許から、お花を妻にするといってムレコの立会いで引取ったのである。
こういうと、いかにも於国はソロバン強い女のように誤解されるが、この母は野良犬みたいな人間らしきものを拾ってきて、並々ならぬ努力で人間に育て上げたので、その愛情は唯事でなく、
「女房が欲しいのなら自分達母子がお前さんの女房になって、わしはお前様を大切にするから、わしの手からお花をとらないでおくれ、お花とお前が私の側で何をしようと、
決して二人のマグイ(情交)の邪魔も、見て見ぬふりをして、声も出さねば何もしないから、どうか私のそばにおいてくれ」と、ワイワイ泣いて連れて行こうとするのを断った。
 それでも亀は、「俺はそんな事は一つのセブリの中ではできない」という。


「それでは白化けて普通人と同じ生活をたて、母子女房でもよいではないか。母子といっても、血の繋がりはないのだから‥‥」と、於国は亀に頼み込んだ。
 そこで亀は、相模の総大将(クズシリ)相模一のセブリに駆け込んで、これでは話が違うと、詳しくこれまでの事の次第を訴えた。
泣きつかれた相模一は、於国を呼んで、「養育料(そだてもどし)と手切金(ちぎり)は、クズコムレコと相談した決定判決(オチ)であるから、もはやどうあっても変更はできない。金を全部ちゃんと渡したのだから、
お花は亀に引き渡せ」と、よく言ってきかせてから、やむなく終には頭ごなしに宣告したのである。

この時の於国の泣き崩れ方はただ事ではなかったが、それからは多摩川べりの宇奈根河原の後家(カタミ)の瀬降から一歩も外に出なくなった。
秋風の吹き出した九月の末頃になって、お花がそろそろ分娩近くなるという事を知ると、亀の瀬降の下の多摩河原で、毎日ウメガイを研ぐようになった。
そしてピカピカに光る双刃を逆手にもって、亀のセブリに怒鳴り込むようになった。そして、死んでやるとか、一緒に娘と死ぬとかいって騒ぎ喚くのである。
 中に挟まれたお花は、切羽つまってしまってどうしようもなく、ウメガイで両眼を切って失明した。夫と育ての母との板挟みに苦しんで、義母と夫の双方に、自分を思い切らせる目的で盲者になったのである。
全く浅はかな考え方で、これが逆になって不幸の原因となった。失明したお花に、亀と於国の双方共が更に深い愛情がぐっと湧いてきたからである。
於国は、セブリの紛争は全てクズシリの判決を待つ事に掟(ヤヘガキ)されているのに、クズシリを恨んでいたので、この結果を品川警察世田谷分署に訴えたのである。
十日の事である。

「梨泥棒の亀は、私の娘を奪って戻すまいとして、盲目にしてしまった」
「このままにしておくと、あんな恐ろしい奴だから、お花を殺すに決まっている。殺されぬうちに捕えて、娘を取り返してくれ」と警察へ願い出た。大正二年九月三日の事と三角寛先生は発表する。
 応対に出たのが石島丑松という、当時まだ二十五歳の刑事で、於国に案内させてから、溝ノ口の亀の瀬降に出かけた。セブリに行ってみると、なるほど出産の迫っているお花が蓬(よもぎ)の葉でたてた湯で眼を温めていた。
もう切った両眼は閉塞していたが、傷の方は九分方治っていた。石島刑事が何をきいても、当人であるところのお花は一言も返答をしなかった。
亀の方も、さも面倒くさそうに、聞かれる事の十分の一ぐらいしか話さず要領を得させなかった。石島刑事は、これを事件として取り立てるのは、あまりにも社会性に乏しく、
一般犯罪の中に組み入れて一つの事件を作るには起訴不能と考えた。なにしろ誰もが戸籍もない連中である。


人事相談でも扱いにくい事実だから、亀を説得するだけにとどめた。ところが、亀にしても、立派な筋を通して貰い受けた女房であるから、警察などからとやかく叱られる筋はないから、帰してくれという。
そこで石島刑事は、泣き喚く於国をなだめて、その気持ちを慰める事を目的に、一応亀を警察に連れていった。
そして於国の密告した梨泥棒の点を調べてみたが、梨畑の見張り番を頼まれた時、依頼者の承諾の上で、時々梨を喰った程度の事で被害届も出されてなく、窃盗の証拠も立てられないので、釈放して不問にした。
と、この有名な事件は三角寛先生著「サンカの社会性」の本に出ている。


 ところが、亀が一晩留置場にいるうちに、亀が警察に連れてゆかれたという早駆(シナド)が、秦野の国知(クズシリ)相模一(サガミハジメ)のセブリに飛んだので、クズシリは直ちに伝令を各セブリに飛ばせ、
一夜のうちに相模のサンカは箱根の裏道を抜け、蘆ノ湖の湖尻峠を越し、川伝いに駿州駿東郡富岡村に黄瀬に終結。


 ここで、溝ノ口の伝令(シナド)秦野今助(箕作り)の説明で、於国の狂気(くるひ)でセブリに警察の手が入ったが、この分では相模のセブリ全部に対して、警察が手を伸ばすかもしれない。
だからして、亀は当分まさかセブリには戻らないだろう、ということになったとされた。それとは知らない亀がセブリに戻ってみると、サンカのシンボルである天神と称する自在鉤が抜かれているので、
抜かれたあとの穴を掘ってみると、竹の筒が埋っている。掘り出して栓を抜いてみると、黄瀬川べりの富岡に来いという暗号のあぶり出しが入っていたという。
 そこで盲目のお花を背負って駆けつけると、事の始終を詳しく聞き出され、その挙句が、「十年間、ヤライする」といった追放命令を出された。


サンカと同じ生活は許すが、サンカの自在鉤は許さないという事である。このヤライ者が、もしもそれを恨んで密告などした時は、裁判(カンバカリ)にかけられ、殺害(カイタチ)になる。それがヤエガキとして重大な心痛事である。
 ところが、この亀追放に続いて、於国吟味(バカリ)があって、於国は裁判にかけられ、殺害(カイタチ)と決定した。クズシリやクズコや、ムレコが相談して、本人も納得して解決したお花について思い切り悪く、さんざん暴れ廻っただけでなく、最後にクズシリにも、クズコやムレコにも相談なしで、亀の事を警察に密告したとは、掟(ヤヘガキ)破りだということになったのであると三角は書く。


 黄瀬川を離れた亀は、急いでセブリに戻ってきた。戻る途中、お花は産気づいて、相州足柄上郡足柄村の河内川べりで男の子を産んだ。サンカは道端でも簡単にお産をし処理す。お花も、持っていた竹刃で臍の緒を切って河内川で嬰児を洗い、休息もしないで溝ノ口へ戻った。於国は亀のセブリの自在鉤がなくなっているので、亀はセブリを捨てて、どこかへ逃げたのだと思い、その後に滑り込んでいたのである。そこへ亀が戻ってきて、於国を見ると、
「オイラは、そなさんのおかげで、ヤラれるンだぞ」と言った。於国は一瞬さっと表情を改め、
「それじゃア、おいらは、カンヤリだな」と言った。カンヤリはカンヤライで、神去りの他動詞である。すなわち、命である神を肉体から追放する事であで、死罪に問われる事である。
「そうけ、それじゃあ、おっつけ伝令(シナド)が早めに来るだろう。来たら、於国はもうとっくに何処かでカンサった(死んだ)と言ってくれ。お花、もう会わねえよ。
おや、分娩け。あれ、男(アマリ)だな」というところまで警察日記には書いてあったという。


 この石島刑事は大正三年三月に本庁創作課に栄転。同七年に日本橋久松署、続いて板橋巣鴨分署と廻されたのに厭気がさしたのか、翌年退職して東京新聞の前身都新聞へ入社をした、と三角先生は書いておられる。
 まぁ、大正初期にサンカのセブリ調査をした最初のデカであろう。しかし、当時は大河内伝次郎の「忠治旅日記」や、阪妻の「雄呂血」といった活動写真が、まだ地区のウズマサで、
「おのれ不浄役人め」とか、「不浄な縄目にかかるものか」と、バッタバッタと寺人別の戸籍に入っていない五ケと呼ばれた捕方を、いくら斬っても殺人罪にはならぬから斬りまくっていた。


さて、蜂は刺したら己れも死ぬというが、反権力体制集団のサンカなのに、アバタガメとはいえ亀を入婿にして同じセブリで同居させれば、たまには上へ跨って用が足せると、
金より色気になった上に、お花が目をつついて盲目になると、見えぬから何度も亀に馬乗りになれるようと欲を出し、いわば敵にあたるオカミの警察へ密告した於国は、通報叛逆罪の掟ですぐハタムラにかけられ殺害され、
面を見られたお花やその子、巻き添えでブタ箱に入れられた亀も顔写真を撮られているので、いつ拘引されるかもしれぬというので、不憫だが五セブリのテンジン仲間によって処分された。


だが、死体を巧く埋めてしまったのか、戸籍のない人間は殺されても殺人罪には起訴できぬから、石島刑事もその侭放っておいたらしい。
サンカは絶対に秘密厳守で、他人とは口もきかぬから、警察の調べも終戦までは放っておかれたので、彼らの行方や生死も想像するしかないのである。
なにしろ大宝律令が発布され、律令国家となってからというもの、「良」と「賎」に二分され、日本列島の原住民は悉く賎にされ、後には契丹より渡来の大陸人さえも、唐を滅ぼした敵性人として賎に落された。
 比例は全人口の九割から九割五分が奴隷か、それになるのを拒んだサンカのような反体制集団。そして、討伐され捕虜となって奴隷とされたのは庭子制をとられ、男女別にされて、男は酷使され女は色んな当て字を使われるが、カイトといって、良の男に対しては否応なく女の扉を開いて迎えねばならぬようになっていた。


しかし、サンカだけは男女つれだってゲットーへ収容されるのを拒んで逃走して生活しているから、セン(先住民のセン)ズリすることもなく通常な営みができた。
だから純粋な日本人の血脈は混血しない彼らだけに終戦までは続いてきたのである。
が、そのかわりツレミとよぶ一夫一婦制が厳守されていて、いくら夫に稼ぎがあっても、他の女に浮気などしようものならハタムラという掟でセブリから追放されてしまうのである。
 木曽街道に「妻篭」とよぶ宿場が残っているが、これはサンカの娘や女が拐されてきて収容された土地の名残りで、男はウメガイをもって夜襲し連れ戻さねばならぬのが掟だった。
 どんな事があっても妻をいたわって、危険があれば己れが身命を賭しても助け守るのが掟。
こういう男を夫にもてば浮気もせず、女性にとっては最高だろうが、今のサンカは白バケ居附して都会の中に溶け込んで生活しているから、まこと残念ながら見分けがつかなくなっている。
しかし令和の時代になっても、サンカ人口は多く、全人口の三割は居ると思われる。


彼らの特徴として、家族を大切にし、動物好きである。何といってもこの少子化社会での中で「子沢山」なのである。
現在三人も子供が居れば多いほうになるが、彼らは平気で七人八人と産み育てている。
テレビで有名な評論家もサンカの子孫で、彼は七人の子沢山で、浮気の噂など全くなく、家庭ではよきパパらしい。

 三角寛先生説では、明治四十三年二月一日に、
摂津1246
山城 463
河内 564
和泉 469
合計3236
とセブリ数を、近畿五カ所国の国知が署名していると書き残している。
のち大正三年四月六日に保津川の支流のクオクセのセブリで死んだ記録もあるから、一応はこの数字は信頼できる。一セブリ、子供や老人を入れて五人単位とすれば一万六千名になる。
近江579
美濃486
飛騨449
信濃38
上野138
下野467
合計2567
という数字も五倍すれば、一万三千人になる。
 北陸道の、
若狭 56
越前 74
加賀146
能登  9
越中 49
越後 65
佐渡  4
で、合計403セブリならば、2015人の計算になる。
東海道は、
武蔵津別(わけ)の統轄で、
伊賀  34
伊勢 169
志摩   2
尾張 568
三河 496
遠江 566
駿河 397
甲斐(ウナシカイ)
   269
伊豆 239
相模 467
武蔵1694
安房  32
上総 367
下総 296
常陸 246
合計6103と、富士王朝のあった土地ゆえ多かった。
 武蔵は今の埼玉で、東京は胸蔵だが、江戸時代には下谷万年町に下谷田地火目黒行人坂には目黒田地火大森一帯には池上田地火田無には石神井地火荒川には山谷田地火と屯りがあったが、
三河島の中州に武蔵七党の子孫として残っていた三千から八千は、家康入部の時に召し抱えられ旗本御家人となり、島をとって三河譜代と自称していたから、ここへは飯米が何百俵もそれぞれ寄せられ裕福だったという。
巣鴨印火(インベ)(部)は、三重や近江からの白バケが居附になっていて、伊賀屋敷、甲賀屋敷へ出入りしたり小者になっていた。
そもそも「白バケ」という言葉にしても、三河島から旗本になった連中が、刀の柄に白革をまき、「旗本白柄組」などと自称していたから、新しく召し抱えられるのは無理となっても、
江戸へ入ってしまって居附になれば町人別にもすぐ加えてくれるし、何かにつけて便利だったせいで、荒川筋から江戸府内の各地に散らばって住み着いたサンカ者が極めて多かった。
しかし、「箱根以東のサンカの本陣」というか本拠は桶川であって、年に一回は各国の一(ハジメ)と呼ばれる代表が集って、箱根以西の本拠であるササヤマとの連絡事項を定めあって連絡は、


「夫馬(フマ)」つまり馬なみに速い男か、三河の「風那」つまり風みたいに速足の者を使っていた。
 忠臣蔵の芝居で高の師直が、「フナじゃ、フナじゃ。フナ侍め」といった台詞もこれからきているので、魚の鮒ならば当時は雀焼とよばれ、五匹ずつ竹串にさしたのが将軍家の膳にものぼる高級魚であったから、
蔑称と解釈してしまっては困る。もしそうなら、「ダボじゃダボハゼじゃ、ダボ侍め」と蔑まなくてはならぬ。が、あの忠臣蔵ができた時代は一般庶民が、(サンカのくせに旗本だとか御家人といって威張っていやがる)
と、自称三河譜代の旗本に反感を抱いていたから「フナ」で意味は判ったのである。
「大菩薩峠」で中里介山の書いた早脚の七兵衛とか、早乙女あたりが昔よくクラブ雑誌に風魔小太郎といったスーパーマンを書いたが、これも箱根以西のフナ、東のフマの事である。
新幹線ができたり、ドライブウェイが全国的な現代では、脚が速いくらいは何の価値もなく、オリンピックのマラソンに出場して賞賛されるくらい。