新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

真説 上杉謙信物語

2019-05-11 18:07:33 | 古代から現代史まで

真説 上杉謙信物語

戦国時代越後には、磯部には上田長尾、古志郡栖吉の長尾、鍛冶で名高い三条の三条長尾が居た。 そして栖吉の長尾於虎御前と三条の長尾為景の間に五人の子が居て、 長男  長尾晴景 二男  長尾景房 三男  長尾景康 長女  長尾阿亀 次女  長尾阿虎  となっていた。この中の次女である長尾阿虎が、後の上杉謙信となる。ここでは呼称を「長尾阿虎」として進める。

さて、正確な名前は、前記したように長尾政景に嫁いだ姉が阿亀で、阿虎は生涯独身を通した。 母がやはり於虎の方といい、祖母は大虎御前というが、この大虎は、「今板額」と呼ばれるくらい豪力な女性で、当時の日本馬は矮小だったせいもあるだろうが、大鎧を着けて出陣したときなどは、「米山さんから雲が出た」の俗謡で有名な峠を担ぎ降りたという話さえもある。 (注)板額とは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての女性武将の名。
この長尾家は母系家族の家柄で、長尾為景の妻となった母の於虎も、やはり夫を助け出陣し、天文五年四月の、今は直江津市に入っている夷守郷三分一原合戦では、春日山のある府中を守るために戦っている。 またその夫の死後の天文十一年三月十三日に、家臣の黒田和泉守が謀叛したおり、長男の晴景が不意のことゆえ頸城へ逃げた後、城内に乱入した反乱軍によって、次男平蔵景康、三男左平次景房らの男児はこれことごとく討ち取られたが、「女児には指一本なりとふれさせぬぞ」と、於虎の方は、姉妹の阿亀と次の阿虎だけは守り通した。やがて反乱は治まったが、長男晴景がのち病弱のため、春日山城主としてとても無理とみてとると、今の新潟県長尾市にあった城から 阿虎を迎え入れてこれを春日山城の女城主となした。 母の於虎の目からすれば末女の阿虎の方が女丈夫であったから立てたものらしいが、姉の阿亀がこれでは承知をせず駄々をこね、ずっと城に残っていたもようである。この女人のことは、「北越軍記」という講釈本では西暦1528年生まれとしてあるから、上杉家の長尾系図では、それを採用しているが、その系図で没年を逆算していくと、四年違って上田板戸城の長尾政景の許へやっと縁付づいたのは二十八歳となる。 現在と違って十四、五歳が嫁入りの適齢期だった時代としては、大変な晩婚である。
   いかに戦国時代は女城主が多かったか
これは上杉景勝の母として「仙洞院」の名で今も伝わっている阿亀が、妹が女城主になったのにつむじをまげて居座っていた例証にもなる。 さて徳川時代になってからは、大名の取り潰しを図るために、今日のような男子相続制に限られてしまったが、戦国時代は女大名は沢山居て珍しいことではなかった。美濃岩村城など織田信長の伯母の尾張御前という女人が城主だったが、信長に対していつも陣頭に立って抗戦したから、しまいに信長も腹を据えかね捕虜にして岐阜城へつれてくると、自分で打ち首にしたと「当代記」にでているし、秀吉時代も「伏見城普請割当帖」などでみると、「池田せん三万石」を筆頭に女大名の数は多い。有名なのは九州の立花道雪の一人娘。これは三歳年下の宗茂を養子に迎えるまで、女大名として竜造寺勢と幾度も戦い武名を上げている。のち関が原合戦の時でさえ、加藤清正が攻めにはいったが、彼女が前線に頑張っていると聞くと逃げてしまったくらいである。     何しろ戦国期の女は凄まじかった。 竜造寺の寧子も凄まじい猛女だったが、大友宗麟の母や妻は、男を丸裸にして竹筒を男の一物に嵌めて折らせて愉しんだといわれている程である。 だから大友宗麟の老臣立花道雪の娘げんのごときも、日本最初の女鉄砲隊を編成し、 「はな(最初)は立花の娘軍」とか「はなは立花、チャの香り・・・」と言われる程九州の山野に活躍したものである。 いまはお茶の茶摘唄に転化しているが、チャーとはポルトガル語で硝煙の事で、最初の戦端を開く立花げんの鉄砲隊が撃ちまくる硝煙の臭いで、戦闘は始まる、という意味なのである。  が、後に年下の婿の立花宗茂を迎えたげんは、夫に良く尽くしたので悪女ではなかったらしい。  しかし大友の姑や嫁はめちゃくちゃで、直接裸にされ吊り殺しにされた男は十余名というが、  そのために起きた「耳川合戦」で死傷した男女は一万の余にものぼると、これはローマ法王庁のイゼズス派の記録にも残されている。   二十一世紀はモノ・セックスの時代となって、男が女性化し、女が男性化するといわれているが、歴史は繰り返すというか、十六世紀、つまり戦国時代というのは、男も女もなく、ただ強いのが実力者だったのである。 この「阿虎」は父の為景の後を継ぐと、「景虎」と呼称し、そして足利義輝の母や妻と、女同士で仲がよかったので、義輝の一字をもらって「輝虎」とも名乗りをつけていた。そして鎌倉八幡の北条政子の廟所へ詣った時からは、先輩の彼女にあやかろうというつもりか「政虎」とつけている。 武田信玄が生前は「晴信」と呼んでいたように、彼女も内輪では「阿虎」さんだったが、公式には「景」や「輝」「政」の字を上につけていたのが本当。 しかし、死後の名の「上杉謙信」が頼山陽によって一般化してしまって現在はこれが定着している。
 
     ただ一騎で武田信玄を襲った荒川伊豆守
さて、混戦中の川中島合戦の際、僅か一騎がけで武田の十二段構えの陣中を突破し、武田信玄の本陣へ斬り込み、信玄に手傷を負わせたのが、謙信の家臣荒川伊豆守である。外国でも女性が権力者の時、英国エリザベス一世女帝の時のトラファルガー海戦のネルソン提督然り。ワーテルロー大会戦の時のウェリントンがいて、またロシアでもエカテリーナ女帝の時、群雄が競って戦場で覇を称えた記録がある。 男というのは、とかく女人に良いところを見せたがるものだから、上杉家の武者共が強くて、荒川伊豆守のように単身で信玄の許へ突き込むような大胆なことをしたのも、そのせいかも知れない。 なお武田軍に主眼を置いた「甲陽軍鑑」では、信玄に二度までも斬りつけ、一騎打ちをしたのは、謙信その人であると作ってあるが、「上杉年譜」では、この荒川伊豆守となっている。常識で考えても、負け戦になって一挙に退勢を挽回するためになら、謙信が捨て身になって敵軍の中へ一騎で突入するのも判るが、勝っている時にそんな非常識なことをするわけがない。話としては、その方が面白いが、女人というものは、今も昔も危険なことや嫌なことは、自分は引っこんでいて男を使いたがるものである。つまり川中島合戦のヒロインが謙信であるなら、やはり男の荒川伊豆守が、 (阿虎さまに良いところをば、お目にかけん)と単騎でおもむき信玄と渡り合ったというのが本当だろう。
   謙信は「愛」の為に戦ったのか?
さて、信濃に村上義清という大名がいた。この村上というのは、もともとは信濃更級郡葛尾の城主で、初めは信濃六郡越後一郡の領主だったから、一郡を三万石と見ても約二十万石の大名である。初め武田信玄が信濃を蚕食する時には、この村上と同盟を結んでいたが、やがて邪魔になると、昨日の友も今日の敵と攻めだした。天文十七年二月には、この村上義清は、信州上田原合戦で武田信玄を大敗させた。しかし負けたからといって信玄は閉口たれなかった。 何度も何度も次々と攻めたため、堪りかねた村上義清が春日山へ救援を求めた。そこで謙信が今日伝わるところでは・・・・ 「義をみてせざるは勇なきなり」と承諾。 すぐさま川中島へ兵を出して、天文二十二年を皮きりに三年後の弘治元年。これまででも三回。「川中島五個度合戦之次第」という上杉資料からは抜かれているが、永禄四年九月の、この時の大激戦の後、また三年後の永禄七年、そして翌八年。 前後を通して六回も、猫の額のような川中島を争そって、謙信は信玄と戦い続けるのである。
武田方は正式に「信濃守護」となっていたから、信濃を守って戦うのは当然だが、謙信の方は執拗に川中島に兵を入れて悪戦苦闘する理由は何もない。 いくら「義によって」とはいっても限度がある。それに謙信は村上義清とは以前に何の係わりもない。 すると何の間柄でもないのに、助けを求められるや応諾して前後六回も、当時の日本武将として最強の武田信玄との戦を敢えてしたのは、これは謙信を男と見ると理解しがたいところである。そこで、「謙信敵に塩を送る」とか、「信玄の死が伝わるや、謙信は食事中だったが箸を取り落とすと、よき敵を失ったと落涙し、三日間にわたって春日山での音曲を停止した」といった話が作られ、「上杉謙信は義にあつい人間だった」と今ではされてしまっている。
だがこれらは全くの与太話で、戦争というのは勝つためにやるのであって、向こうへ義理立てなどしていては勝てっこない。 塩を送ったという話も本当は、「武田信玄がその嫡男太郎義信に今川氏直の娘を嫁に貰っているくせに、それを離縁してよこし、太郎も殺して駿河へ攻めてきた暴挙」に対抗して、今川と北条が連合して、駿河湾や小田原海岸からの塩の輸出を禁止したとき、上杉は今川や北条と連合していたわけではないから、勝手に越後西浜の塩を「こりゃ、高値で売れて儲かるから」と、姫街道を通って弥知谷から信州へ送荷して莫大な利潤をあげ、大儲けしたという話に過ぎない。 また、「信玄が死んだ」と聞いた時、箸は取り落としたが、これはすぐ、 「好機を逸するな。直ぐ出陣せい」と用意させるために、食べかけのところを中止しただけのことである。 本当の話とは実も蓋もないものなのである。 映画、テレビ、歴史紛い小説に毒されてる日本人は真実の「歴史」について考えるべきである。
さて、ここに一つの見方として小説家的発想で述べておくが、つまり村上義清が美男子だったからではなかろうか。だから謙信は義のためでなく、信玄が憎いためでもなく、義清の歓心を求めるべく、愛すればこそ戦った。というのは、村上と共に上杉へ助けを求めにきた信濃の大名は彼の他にも多かったのに、謙信は彼だけを春日山に住居を与えて住まわせたり、上杉の名乗りさえ与えている。後には越後弥知谷城主にまでしたのもこのせいなのである。 女というのは、惚れた男の為ならばたてをひく。だから何の利益もない川中島合戦を五度も六度もやったのだと判ると、この不思議な川中島の執拗な戦ぶりも、その謎が解けてくる。だから、村上義清が死ぬと現金なもので、謙信はぴたりと川中島の戦をそれっきり止めにしてしまっている。 こうした発想で大河小説を書けば、近頃の軟弱小説の氾濫の中では、大向こうに受けることは間違いなかろうが、残念ながらその気にはなれない。                 おばすて山だった川中島
さて、明治の尊敬すべき史学者田中義成博士が「甲越事蹟考」を発表している。現代文に直し冒頭だけを引用してみると、   「古今東西の英将を語れば必ず甲越二氏を誰もがおす。共にその兵を出し戦うこと二十余年に及び、その中でも特に双方が戦った川中島の合戦は、最も有名で、後世、絵になったり講釈師の張り扇で広まっている。よって児童走卒もその雄風を慕わざるはない。しかし武田方の甲陽軍鑑は虚を前に伝え、上杉方の川中島五戦記は後から妄を加えたもので、それらをもとに末書の類はいい加減に出鱈目を書いているに過ぎない。そして誤りを重ねた結果、全く史実とは遊離した講談となり、それは蜃城海市とほかならない。そこで明治二十二年八月。余は斯界の第一人者星野恒教授と共に実地を踏査し、古寺旧家を訪ね、集められるだけの資料をここに収め、もって通説の上杉謙信像の甚だしき誤りなる事をここに説き、よって俗説を改むるを得るは余の至願なり」
といった全面的な俗説の否定である。  これではとても心ある者は、川中島合戦など書けなくなった。そこで明治大正期は大阪から出版された「赤本」とよぶ俗悪書だけが、  「川中島合戦」や「上杉謙信」の講談本を出したに過ぎない。さながらタブーのように扱われていたのが謙信である。 そして現在もこうした俗悪書を下敷きにした通説が、まるで正史のごとくまかり通っているのである。 特に、なまじ歴史をかじっている者達の頑迷固陋ぶりは目に余る。生兵法は大怪我のもと、というが、この者達は、記紀及び、徳川史観や皇国史観を天壌無窮のものとする史観から決別し、正しい歴史観を身に付ける努力を怠ってはなるまい。 だからここからは、通説俗説を否定した歴史的考察を展開する。
  中世はヨーロッパも日本も宗教戦争だった
そもそもこの川中島という土地を考えてみたい。 ここは、年寄りを食べさせてゆけぬから背負っていって棄ててくるという話の元祖の「おばすて山」というのは、川中島の激戦地の八幡野にある山のことだし、その合戦から八十年後の徳川秀忠の頃、福島正則が、監禁されていた江戸城から流罪処分にされた処刑地が川中島なのである。 徳川時代になっても、八丈島同様だったこの土地を、何故信玄と謙信は何度も取り合ったのか。 なにしろ、幕末になってさえ「田毎の月」と、そこは呼ばれ、千曲川の氾濫で平地は耕せず、山まで田畑にしていた荒地なのである。 講談では、謙信と信玄は「義のため」と称して戦ったというが、そんなことで尊い人命を何千と失いながら、繰返し双方とも血を流したという事には納得できない。
日本列島に天孫民族と称する中国大陸の人間が入ってきた時、それまで住んでいた原住民と戦い、負けた原住民は、寒冷の東北の僻地へ追い払われた歴史がある。が、追われた方はそこが沼沢地であれ、山であれ、必死に防衛しなければ生きてゆけなかった。 『和名抄』に信州埴科郡佐木郷と出ているところも、やはりそうした貧しい土地らしく、足利氏(北朝、中国大陸系)が興隆してくると、村上彦四郎義光や弟の信貞は、信濃防衛のために後醍醐帝(南朝、即ち朝鮮系)の側について戦った。 しかし、南風競わずで、村上義光やその子義隆は吉野で討死した。だが、郷里を守っていた信貞は無事で、孫の満信が、足利氏が差し向けてきた小笠原長秀の軍勢を、更科郡大塔で撃破している。そしてその孫が村上義清なのである。 【注】南北朝の争いというのは、中国大陸系勢力と朝鮮半島勢力が日本列島を舞台に、原住民を巻き込んだ代理戦争だったのである。
さて、現在でこそ神も仏もないものかといった具合に、元禄期以降は徳川綱吉の政策で神仏を混合されてしまい、「安産、七五三、交通安全」といったように生きている間は神社の領域。死後は、お寺さん、仏教のお世話になるという、世界でも珍しい分業制度で共存共栄している。しかし、戦国時代は「輪廻」という説を誰もが信じていて、仏派と神派は厳然と分かれていて、不倶戴天の仇どうしだった。 明治時代まで村上義清の城跡といわれる板城の白山神社には、大の男が五人で抱えなければならないといった大木のケヤキが残っていたというが、村上一族はずっと昔からの白山神信仰なのである。 そして「越の国」とよばれた謙信の方も、今の新潟県を昔は「白山島」と呼んでいたくらいで、今も春日山へかけては上に「白」のつく神社が多い。 つまり村上義清ら信濃の豪族と上杉謙信は同じ白山神社の氏子である。 これに対し、武田信玄は「権大僧正」の位を持つれっきとした仏門で、当時の妻は一向宗本願寺顕如上人の義姉。 そこで武田方へは一向宗の僧兵が同盟軍として加わっていた。 (この本願寺の説教僧を近隣はおろか三河や尾張にまで派遣し「甲斐のごんそじょ鬼より恐い。どどっと来たればどどっと斬る」と大いに宣伝して武田信玄を恐れさせたのは有名。幕末これがヤクザの親分、竹井のども安が真似して「竹井のども安鬼より恐い。どどっとどもれば人を斬る」に転化されている)
なにしろこの当時、ヨーロッパもキリスト教徒が十字軍を組織し、異教徒との戦いにあけくれしていたが、日本もまた宗教戦争の時代だったと見れば判りやすい。 織田信長も初めは武田を恐れて、その長子信忠に武田の姫を迎えていたほどである。 だが、信長もれっきとした神派だったから、延暦寺を焼き払い、高野山の僧侶数千人を殺戮して、天正八年(1580)に本願寺を降参させると、もう恐いものはなくなったから、武田からの嫁は離縁して、甲斐へ攻め込み、武田勝頼を滅ぼしている。 「つまり、奪っても仕方のないような川中島」を両軍が血みどろになって争った真相たるや、 「義のためでもなく、領土的野心でもなく、恋でもなくそれは信仰のせいだっ」といえる。 これが今日まで謎に包まれてきたのは、徳川五代将軍綱吉の徹底的な神徒弾圧政策のためで、のち大岡忠相が、その関係の古文書記録を強制焼却し、 出版統制令をしいたから『越後軍記』や『北越太平記』といった講談本の中でしか、川中島合戦が伝わらなかったせいなのである。

徳政令から見える日本史の真実 戦国武将の発生

2019-05-11 15:37:27 | 古代から現代史まで

 

  徳政令から見える日本史の真実
  戦国武将の発生  
 
     
日本史には西暦1504年の永正元年十月に「徳政条目」が発布されたとある。 それから次々とこの法律は発布されている。
歴史屋共は、この徳政を民百姓の借金を延ばさせるた為のモラトリアムの仁徳を施した政治としている。
そして歴史教科書には「徳政一揆を起こして、民はこぞつて発布を求めた」と出ている。しかしこれは大変な間違いである。
 現在も、徳政の文字と発布の年月日が刻まれた石碑が柳生の里には残っている。 常識で考えてみても、いくら庶民が借金をして困るからといって、 「これは国の政策が悪いからだ」と国を訴えたとする。 それに対して当時の室町幕府が「尤もである」と金を借りて返せないほうの庶民に味方して、借金を帳消しにするような仁徳な政治などするはずがない。
 平成の民主主義の現代でさえ、庶民が国を相手どっての様々な訴訟でも、庶民側が勝った裁判などほとんどない。ましてや足利政権末期である。 常識で考えても判ることである。 それに庶民の側が借金が棒引きになったからと、わざわざ石碑を彫って設置するするようなあてつけがましいことをする訳もない。
        徳政の「徳」は損得の「得」
こういう解釈が今の歴史屋の歴史認識なのである。全く無知で勉強不足も甚だしい。 それでは一体実態はどうだったのかを考察してみたい。
 将軍足利義澄が天下に発令したのは、人民への徳政ではなく、オカミにとっては極めて都合の良い、損得の「得」で、漢字の魔術でこれを「徳」の字に変えて徳政令としたのである。
 足利体制は当時、人民に貢租税を前納させていた。この分が三年分も四年分も前取りしていて、もうこれ以上は徴収出来ないから、前納させていた分を次々とご破算させたのがこの「トク政」なのである。
 「戦争に負けたから」というのを理由にして、戦時中に一般に強制的に割り当てた戦時国債を反故にしたり、朝鮮満州樺太などの貯蓄金を戦後未だに封鎖したまま一円も返還しないのも、これ、没収と同じで完全棒引きの平成トク政である。
 「他国はいざ知らず、日本国に在っては、歴史とはロマン化し美化して巧く知らしむべし」 とするのが、大学教授の歴史屋の仕事らしいが、事実とはまるで正反対を教える方も教える方だが、それをそのまま何の疑問も持たず習って覚えこむほうは、これ阿呆か自主性喪失型としか言いようがない。歴史とは覚えることではなく、考えることなのである。
 さて、足利政権は北朝側だった事は間違いないが、この南北朝の解釈も間違っている。 南朝とは有体に言えば当時の朝鮮勢力で、北朝は当時の中国勢力だた。 従って明国と朝鮮との代理戦争を日本でしていたことになる。 だから南朝に勝って足利幕府を樹立した足利氏は、中国(明国)の属国状態だったのが真相である。
足利幕府の詳細については次回にアップ予定。
 
 
 戦国時代はサンカ族の隆起によって起こった
 
足利政権のこうした過酷な徴税は一般庶民ばかりか、被差別収容地のサンカ部族にまで及んだから、それに反対したサンカたちが「徳政反対」と日本各地で立ち上がったのである。
 そしてこれが日本史で言うところの戦国時代となるのだが、サンカ部族は各地に頭領を立て、城や砦を築きこれが戦国武将の発生となる。
 
 伊勢サンカの新九朗が北条早雲となり、足利体制の関東探題を撃破。 永正四年八月には、越後鉢形に砦を構えた長尾為景が、足利氏の越後守護上杉房能を打倒。
  
 永正七年三月。室町幕府は御家人地頭共の願い出によって、又しても徳政の許可を出した。 管領上杉顕定は、その邪魔になる鉢形砦を武力鎮圧しようとして大軍で攻めたが、ゲリラ戦によって管領は討ち死に。 これではならじと室町幕府は、仏教勢力で対抗しようと、本願寺一向宗より、武田信虎を援助させた。 長尾為景には、長女の阿亀、次女阿虎の二人が居たが、この次女の虎が、父が一向宗に縛り首にされてから、 父の名をとって長尾景虎を名乗り、将軍義輝より一字をもらっての名乗りが長尾輝虎。後の上杉謙信となるのである。
 さて、サンカ族はその呼称を嫌って、自分たちのことを「ケンシ」と自称する。 だから「ケンシン」と、今は言うが新潟では「ケンシ」で名が残っている。 後に上杉姓となる長尾の虎がサンカだったという証明は、新人物往来社刊、小林計一郎著に「上杉景勝」がある。 養子になってから改名する喜平次の両親の姿が絵馬額絵となって現存していて、 その絵には父政景は膝頭を揃えて座っているが、生母である虎の姉の阿亀は、片足を立てていわゆる「立てひざ」で座っている。
 これの意味するところは、敵に見つけられた時に、咄嗟に素早く逃げられるようにと、女は必ずこの座り方をする特有なもので、これが「サンカ座り」と謂われる恰好だからである。 後の江戸時代には「ヤゾウを組む」とか「ヤゾウを決め込む」と云われ、歌舞伎や芝居にはよく出てくる。
 これはつまり長尾の長女阿亀の方が、養子の婿の政景より、女権が強く親分だった事の表現をしているものなのである。この長尾一族は海洋渡来を意味する宝船に乗った七福神の内で毘沙門天を信仰する、海洋渡来系民族に溶け込んで暮らしていた。
これは本来太平洋岸へ漂着して住み着いていたのだが、百済兵団に追われて、裏日本に隠れ住んでいたのである。 だから上杉家の旗印はかの有名な「毘」の字なのである。
前記したように長尾は上杉姓を名乗り越後に覇を称えたが、秀吉の時代になると、佐渡金山を没収され、会津百万石に強制的に国替えされた。  それが関が原合戦後は三十万石に減封。次に二十五万石。
江戸時代になると、世襲名の阿亀、阿虎の次にも娘が生まれ、これをやむなく三番目だから「三姫」と名付けられた。 この姫が高家の吉良上野介を見初めて一歳年上の妻となり、後にその子が上杉家の当主となったが、十五万石に減らされた。
 この三姫は吉良が赤穂浪士に討たれた時、悔しがって緋縅の鎧をつけて侍女達にも薙刀で武装させ「憎っくき浪士共を討つ」と出撃しようとしたのを、家来共が必死に止めたという逸話が残っていて、これが江戸の庶民に知れて、 「一つ年上の女房は金のワラジをはいても探せ」と、現代にも、この謂われは判らないまま何か年上の女房を貰うと良い事があるように勘違いして人口に膾炙され
ている。当時「吉良の女武者勇まし」と川柳に残っている。
 江戸時代は、徳川の方針で「男系相続制」となったので、これに反するのは不味いと、始祖とも言うべき阿虎を、さも男の如く偽装して「兼信」と戒名をつけたのが、講談本の「甲陽軍艦」によって言偏をつけられて「上杉謙信」と江戸中期から直されてしまっている。
(注)「秀吉渡海記」等には九州に集まった大名の中には女大名の名も散見できるので、戦国期から江戸時代初期までには、女といえども勇ましく戦ったことが窺える。
だがその遺品衣装を見れば着物の裏地は皆蘇芳染めの赤色になってる。 昔は大陰暦で毎月は同じだったので、毎月十日になると腹痛と称して合戦の最中といえども馬から下りて休息を取っていたという事実は何を意味するかと言えば、つまり生理休暇である。 「史籍雑纂」第二巻の「当代記」にも「越後の阿虎、大虫にて死す」と出ている。 近江には昔から婦人病に霊験新たなると伝承される「大虫神社」も現存するし、江戸時代の「孫太郎虫売り」の宣伝のシャベリには、
 「体内の小の虫は、子供のカンやヒキツケのもと。大の虫は女体の腹わたを月に一度は食いちぎりて出血させる。この孫太郎虫さえ服用すれば、ひどき痛みも和らぐこと必定でござる」 と売り歩く時のふれこみの口上が黄表紙本には残っている。
 
 日本史の大家と謂われる桑田忠親は、大虫とは長虫のことで蛇だと主張しているが、何も知らなすぎる。 この手の男を大家だと崇めている、今の歴史屋も全くどうかしている。 曲亭馬琴の「里見八犬伝」の本の後ろにも、 「大虫散、婦人病の妙薬なり」と孫太郎虫らしい広告が出ているのさえも知らないらしい。
 阿虎は勿論女人といっても決してか細いなよなよした女と違い、父親似の大柄で骨太な大女で逞しかったようである。
 さてその頃、山陽地方では、石見銀山の鉱夫にされ、過酷な奴隷労働をしていたトケコミサンカの集団が居て、彼らは尼子氏を立てて決起した。 そして「八副銀」の刻印を打った銀塊をもって通貨にし、毛利氏と対立する一大勢力となっていた。 彼らがのちに騎馬民族系の毛利氏と戦うようになる。
 さらに尾張ではサンカ出身の前田利家は、信長に仕えていて、手柄も立てたのだが、信長生存中はあまり出世はしていない。何故なら、 信長の織田家と言うのは、サンカと違い、純粋の海洋渡来系で八田別所出身だからサンカの前田はあまり認めてもらえなかった。
 前時代サンカ、即ち古くからの日本列島純粋部族は、赤の民族色海洋渡来系と、白の民族色騎馬民族系と共に追われて裏日本に逃避行を共にしていた。
 そして後に唐を滅ぼした(日本史では「宗」となっているが)契丹からの日本列島への流入も多くあり、彼らは当時まだ日本で勢力を張っていた唐の勢力によって、同じ大陸人なのに差別され、前代サンカに溶け込んでいた。
 さて、近江八田別所から逃げてきた八田信秀が、足利斯波管領の下職である、織田家に仕え、勝幡城の城番となって忠義を尽くしたので、勲章代わりに「織田」の姓を貰い、織田信秀となつた。
 
 このことを歴史屋は形而上学的にあっさりと、「上織田」「下織田」ぐらいの処で済ませているが、 全くの勉強不足で、この時代はトケコミサンカの赤系や白系が内ゲバみたいなもので、互いにしのぎを削って戦っていたのが実相である。 秀吉は木の陰族のサンカ出身だし、家康もサンカの葵族だった。
 こうしたサンカ民族の実態を歴史で飯を食ってる各大学の教授連中はもっと勉強してもらいたい。 新聞記者だった三角寛が体制側から考察し、サンカを弾圧した経緯の本も出ている。 さらに五木寛之の小説体をなしてはいるが、社会の底辺を流浪していたサンカを描いたものに「風の王国」もある。
 しかし何といっても八切止夫の力作「サンカの歴史」「サンカ生活体験記」「サンカいろはことつ唄」の三部作も揃っているのである。
こうしたものを突破口にすれば日本民族の特殊性や大陸や半島勢力がいかにこの列島で過酷な統治を行ったかの隠匿された歴史も解明できる。 再度言うが歴史屋は既存の歴史観を離れ、鋭利で何物にもとらわれない頭脳を働かせ前人未到の新しい日本史に取り組んでもらいたい。