新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

「兼見卿記」と「多門院日記」から見える信長殺しの真相 嗚呼忠臣 明智光秀

2019-05-19 17:48:36 | 古代から現代史まで
「兼見卿記」と「多門院日記」から見える信長殺しの真相
嗚呼忠臣 明智光秀

吉田兼見といい、吉田神道で神祇大副の位を持つ。
信長が本能寺で爆殺された後、略奪や暴動が激しくなった京の治安を守り、御所の安寧に尽力が在った光秀を評価した御所が、
明智光秀へ征夷大将軍任命の詔を出した。兼見はその使として安土城へ行ったのが、秀吉に忌まれる処となった。
ということはつまり、征夷大将軍宣下書の配達人であり、現場当事者だったから、秀吉は「目撃者抹殺」を図ったのである。
(家康は江戸幕府を開き、武家の棟梁として「征夷大将軍」となったが、秀吉はライバルであった光秀の後塵を拝するのを嫌って、御所の官位の関白となった)
兼見は命が危なくなったので、その弁明にと十八巻の日誌を改めて書き直して残している。
ということは、取りも直さず現在残されている「兼見卿記」は信長殺しの真実が書かれていないという事になり、一級史料とは言えない。
そして兼見は、当時、京の財閥である蜷川家の一族に嫁に行っていた細川幽斎の娘が居て、離婚して京に居た。
この出戻り娘を倅の嫁に迎えている。さらに京の吉田山に幽斎の隠居所を建ててまでして秀吉の歓心を買っている。
これには訳が在って、細川は最初長岡を名乗っていて、本能寺事件の時は長岡番所として京の入り口を守っていた。
この番所を一万二千人からの、斎藤内蔵助率いる本能寺襲撃部隊をやすやすと通しているので、細川も秀吉も信長襲撃計画は知っていたことになる。
もっといえば一味という事になる。

さて、この信長殺しの当時の状況を詳細に考察してみたい。まず、
<多聞院日記>に、奈良興福寺の僧の多聞院英俊は、他見を憚りながら、「二十四日に、本能寺の変の時に二城御所に居られた誠仁親王様が崩御された。疱瘡とかハシカと公表されたが、
そんなものに罹る御齢ではない三十五歳である。腹を切らされて自殺だそうだ。もし自害がはっきりしてくれば、これは秀吉が次の天皇と決ったも同然ではないか」と書き、そして、遡った<七月七日の条>には、
「みかど(正親町帝)も切腹されようとなさった。すると今(死なれて)は都合が悪い。そんな面当てをなさいますなら、此方にも覚悟があります。お前さまの女房衆もみんな並べ、張付けにかけて殺しまするぞ。
と秀吉に脅迫をされた。みかどは無念に思召され、食をとらず餓死までなさろうと遊ばされ」とも書いてあるのは前に簡単に引用したが、<人物・日本の歴史・読売新聞版>は、この裏話を紹介してから、秀吉
への譲位の噂は、しきりと取り沙汰されたが、吉野山や川上地蔵が焼け、天変地異が続いたので、さすがに秀吉も思いとどまり、十一月七日、誠仁親王の遺孤の和仁親王を、後陽成帝として御位につかせ給うた。とある。
 だから宮中では、明智光秀を使嗾したのは足利義昭とばかり思っていたから、「準后」の高位は、その恩に報いたのである、という解釈も成り立ってくる。
 だが、この間の真相を知っている秀吉は、義昭を買いかぶる事なく、たった捨て扶持の「一万石」しか、前将軍にはやらなかったというのである。
「信長殺しの真犯人は」
 直接に手を下した殺し屋は別とすれば、秀吉に問いつめられるか、証拠をつきつけられて、万策尽きて自害された誠仁親王が、まこと恐れ多いが濃厚な容疑者になっておられる。
 光秀と親王が睦まじくなられたのは、天正七年に、御所御料山国荘を回復した時かららしい。ここの料米を宇都左近太夫に押領され、禁裏御蔵(おくら)の立入(たちいり)宗継が、
畏れ多いが至上の飯米にもことかくと訴え出て、光秀が討伐し、内侍所から誠仁親王、下は女中にまで、その占領米を配分し、狂喜させた事が、<お湯殿上日記>に詳しく出ている。
 光秀は、足利義昭が出奔した後、空城になっている二条城を修理し、ここを二城御所つまり下の御所として誠仁親王に住まっていただいたぐらいで、この時代には、
「当世まれにみる勤王の士」として光秀はかわれていた。だから優渥なる女房奉書の勅語も戴いていたし、正親町帝より、馬、鎧、香袋まで賜っている。史上、こういう前例は他にはない。
 後醍醐帝の楠木正成に対するより、正親町帝の光秀への信任のほうが遥かに篤かったようである。
 
だから六月二日上洛してきた光秀が惨事に愕いて、善後策をいかに立てようかと腐心していた時、てっきり昔の足利尊氏にもあたる信長を倒した者は、光秀であるだろ
うと、宮中では取り沙汰されたのではなかろうか。そこで内示ではあろうが、当時空位であった征夷大将軍の話が出たのではあるまいか。
 この餌に誘惑されてしまって、信長殺しを光秀がかぶってしまった形跡は充分にある。
 十月七日に安土城で、光秀は勅使の吉田兼見を迎えている。「なんの沙汰」があったのかは、当時の記録はみな廃棄されたり破かれて何も伝わってはいない。だが、光秀にとって、
それが望外な喜ばしいものだった証拠には、翌日、すぐお礼に禁中へ参内している。そして、銀五百枚を、すぐさまお礼にと献納している。
 この事実から推していくと、勅使吉田兼見によって伝達されたものは、「征夷大将軍の宣下」に他ならなくなる。
 こうゆうことがあったからこそ、その兼見は、天正十年の日記を、六月下旬に、すっかり書き改めて、二重帳簿にしなければならなかったのである。
 さて、光秀に正式に「征夷大将軍」の命が下って、その六日目に、あっけなく死んでしまったから、この宣下は出されなかった事になっているが、こういう例は前にもある。
 木曽義仲が平家を破って上洛した時、後白河法皇によって、寿永三年正月、征夷大将軍の宣下はあったが、二十日に源の範頼、義経の軍勢が、勢多と宇治から突入してきて、義仲が粟津で敗死してしまったから、
その侭うやむやになってしまった前例である。
 おそらく六月二日の午前九時過ぎに上洛してきた光秀は、事の重大さに仰天し、とりあえず天機奉伺に上の御所へと参内したと思われる。すると、そこで、信長の生死は、はっきりしていなかったが、
官位につけ御所の味方にしようと思召され、「換って、すぐ武門の棟梁たるべし」といった、お言葉を賜ってしまったのであろう。そうでなければ、高飛車に、信長の「一掃」に脅えていた御所から、
「信長を討ち宸襟を休め奉りたるは奇特の事なり」といった女房奉書でもいただいてしまったのだろう。
 これは六月二日か、さもなくば三日に上洛した日あたりに、仰せを蒙ったものと推定される。こうなると明智光秀は当惑したであろうが、御所には長年にわたって出入りしているし、もはや、
「綸言(りんげん)汗のごとし」である。 一日本人として光秀は、「おおみことのり」を畏み承るしかなかったのであろう。
「嗚呼忠臣明智光秀」は、身に覚えのない信長殺しを、おおみことのりとして、甘受して受けてたつしか、この場合、「臣光秀」としての立場はなかったと推察される。
 恐れ多くも一天万乗の君からの至上命令とあれば、それが何であったとしても、これは受けて立たねばならなかったろう。私だって、その場になれば、ハアッと、おうけしてしまう筈である。
 もちろん当時は、上御所へ移っていられた誠仁親王も、余がつつがなく次の帝の位につけるのも、これからの光秀の働きによる。よしなに励むがよいと仰せ出されたであろう。
(おそらく親王が激励にかかれた書簡の二、三が、後で証拠として秀吉に握られてしまった事も想像がつく)だが、その時点においては、宮中の百官、女官こぞって、これからは米の心配もなくなろうと、
みな光秀に期待と信頼の瞳をむけたことであろう。
 人間は五十になっても六十になっても、良い児になろう、賞められたいという願望はあるものである。光秀だって同じだったろう。
 主上より優渥なお言葉を賜り、宮中の衆望を担えば「信長殺し」の悪名もなんのその、この時点から、臣光秀は大義に殉じて、謀叛人になってしまったのであろう。つまり「信長殺し」に名前を貸し、
自分がその名義人になってしまったのである。
 もちろん、宮中に於ても、光秀に対し、「征夷大将軍」の宣下をと、その時すぐにも話はあったろう。
 だが、かつて光秀の仕えた足利義昭が、備後の鞆に、十五代将軍として現存しているから、それは望めない事と光秀は想っていた。
 だから七日に、吉田兼見が勅使として下向し、その伝達式があると、光秀は喜んで、兼見にまで、銀五十枚を謝礼に贈っている史実がある。
 もちろん禁中としては、備後の義昭に対して、事前か、又は事後に承諾はとったものであろう。それだからこそ、義昭はむくれて、一年有余たって、その愛妾を上洛させ、弁口のたつ、
その春日局に色々と当時の事を批難させたのだろう。それを慰撫するために、義昭に「準后」の位を破格にも贈ったのが、本当の真相なのであろう。
 
だが、何もせずに備後にいた足利義昭が、準后になれるものなら、せっかく宣下された征夷大将軍さえも、今となっては貰わなかった事にされ、一謀叛人としてしか扱われていない光秀に、
せめて位階でも贈られてもよいような気がする。しかし、考えてみれば、戦前までの日本人は、至上の御為とあれば、身を鴻毛の軽きに比し、喜んで死地につくのは当然の事であったから、
臣光秀にしろ、大君のおんために醜(しこ)の御楯(みたて)として散華したのであろう。
 
ただ、光秀が大忠臣であったこと。並びに征夷大将軍に、たとえ一週間でも就任していた事がわかっていないから、全ての解釈が食い違ってくる。たとえば秀吉と戦った山崎合戦で、
伊勢貞興、諏訪飛騨守、御牧三左衛門といった旧室町御所奉公衆の主だった面々が、一人残らず敢闘し討死している事が<蓮成院記録><言経卿記><多聞院日記>に出ているが、
これとても、光秀が征夷大将軍になっていたからこそ、その馬前において勇戦奮闘し、ついに戦死を遂げたのである。
信長の一部将だったら、格上の将軍直属の武将である彼らが、命がけで戦うはずはない。
だから、この際、岸信介氏や東竜太郎氏なみに、明智光秀氏にも正一位を贈って戴きたいものである。彼は、なにしろ勤皇家として史上最高の価値のある男である。
 もう、好ましからぬ誤解がとけて、その尽忠精神は、改めて認められるべきであろう。
さて、兼見の日記に戻るが、その日記には当時親交のあった千宗易のことを「理休」と何か所にもわたって書き込んでいて、利休なる名称は何処にも出てこない。
だからこれは後年の贋作で、茶道具で儲けようとした好事家の手作りであるとの証拠を明白に今に残しているのである。





家康に騙された福島正則 数奇な流転をした光秀遺愛の朱槍 諜報員だった村越七十郎

2019-05-19 11:32:16 | 古代から現代史まで
家康に騙された福島正則
数奇な流転をした光秀遺愛の朱槍
諜報員だった村越七十郎

福島正則は関ヶ原合戦では東軍(家康)について戦ってますから、当然家来の可児才蔵も朱槍を持って活躍しています。問題は秀吉の親戚にも当たる正則が何故家康に付いた かですが、ここを考えて見ましょう。
(少し長くなりますが”槍”と関係あるので)
福島正則の父親は市兵衛と謂い、ささら者の桶屋だった。
 正則の母が秀吉の母と縁続きの関係だった。
だから秀吉は正則に羽柴の姓を与え<羽柴左衛門大夫>を名乗らせ、これはれっきと した秀吉の身内でもある。(加藤清正も秀吉の親戚に当たる)
そして父の市兵衛からはいつも「秀吉の恩に報い豊臣の家を守れ」と聞かされ、遺言もそうだった。
さて、正則は福島市松と呼ばれて小姓の頃、父を長年の桶屋を辞めさせていたせいもあり、他の小姓は住込みだったが、市松は百石を貰って通勤だった。
秀吉が 山崎円明寺で明智光秀を騙し討ちで倒した後は「播磨神東部内矢野仙分で三百石」を加増されて四百石となり、小姓とはいえ脇武者を傭い乗馬の身分だった。


翌年の賤ヶ岳七本槍の一人として加増された時も、他の者は三千石だったが、
「おみゃあは親戚だで、よおしたるぎゃあ」と、一人だけ五千石にして貰った。
九州征伐の後は、四国の伊予五郡十一万三千二百石で湯月城主。
昔の小姓仲間の片桐助作などは三千石の儘だったから大変な差である。
文禄四年七月には「故郷に錦を飾るというで、尾張を持たしてやらす」と、尾張清洲二十四万石になった。

そしてその条件とでもいおうか、
「清洲は織田信長公発祥の地で、わしら一門の出た所.....よって何ぞ有った時はここを守って豊臣の家の為に尽くして欲しいぞ」といわれた。

だから正則も、
「尾張は東西の真ん中に当たる要地、もし大阪表へ押し寄せる反逆の輩が現れましょ うと、この正則が清洲城にて食い止めます」はっきり誓った。又そのつもりでいた。
慶長五年八月。東西急を告げると正則は、浅野幸長、山内一豊、藤堂高虎、加藤嘉明 といった豊家恩顧の大名を一人残らず清洲城へ召集した。

みな何千とという家来を引き連れていたから、とても清洲城に入りきらず、城下の寺や民家まで割り振りした。
勿論正則が招いたのだから二万という軍勢の食料も清洲城持ちになった。見る間に城の手持ち米はあれよあれよと無くなった。

 その上、他に味噌塩梅干乾魚も必要だから数日たつと膨大な出費となった。
どんな事があっても東西の中心である尾張は守ります、と誓った手前、

「えい、どうせ元は桶屋渡世....今日の身上は太閤様から貰ったもんじゃ」気前よく散じて、酒まで大がめで求めさせて各陣所へ配らせた。
「さすが福島左衛門大夫様は豪気じゃ」極めて評判はよろしかったが、そう無尽蔵に銭も銀もありはしない。といって今になって各大名に対して、
(実は勝手元が不如意になってきたゆえ、一つ割勘か自弁にして貰えぬか)とも言いだせず、辛抱して持ちこたえた。

やがて尾張八郡の米は、年貢の前取りのようにまでして集めたがついに底をついた。
仕方なく隣の美濃から買わせた。

   007の諜報員だった村越七十郎

処が八月九日に石田三成が六千の兵を率い、垂井へ入ってきて十一日に大垣城へ落着くと向こうも米不足になってきた。
ちょうどこの時、家康からの使者がやってきた。
(徳川家康が会津征伐に伏見を出た後で、石田三成が打倒徳川を叫んで挙兵したゆえのこの始末。お陰で豊家恩顧の大名をこの清洲に集めた俺は二万からの者に食い潰されそうじゃ)と、立腹していた時である。
この時の使者は、家康旗下で、○○七の旗指物で有名な村越七十郎直吉である。天正十二年の小牧長久手合戦の時。

家康が陣割の番号を各自に書かせた処、この村越は七を書くのに、十までは勢いよく筆を下ろして書いたが(さて下を右へ曲げるか左へ折るか?)これがごっちゃに なって判らなくなった。
そこで筆を握りしめた儘、汗をぼたぼた垂らしながらうんうん唸りだした。
そこで見かねた家康が、前へ行って(こう曲げるがよい)と手真似で教えた。

すると七十郎は、はあっと勢い良く、眼で見せられた通りに左へ曲げてしまった。
そこで他の者達が呆れ返ってしまい「これ七十郎、七とはお前の名の字じゃろ。それさえ書けんとは笑止千万」と嗤った。
しかし家康はそれらの者を叱りつけ、
「己が名を覚える暇もない位に、この家康に尽くしてくれたは愛いやつめ。よしよし手本を書いてつかわそう」と晒し木綿に自ら筆を執って、

「七」と書いたが上に空白がありすぎた。そこで○を二つ続けて書き、
「この○○七を其方の旗指物にするがよい」と、手渡したというのは有名な話。
今では英国でさえイミテーションを作っている位だから(007映画)当時の正則もよく知っていた。

ただ惜しむらくは<この印は諜報部員>だということはその時気付かなかった。
なにしろ、噂通りを真に受けていたから(とんでもない阿呆んだらを、家康めは使者によこしたしたものだ)と舐めてしまい、
「彼奴めなら警戒の必要もあるまい・・・・中へ入れてやれ」左右の近習にいいつけて しまったのである。

さて大広間へ通された七十郎は、居並ぶ豊家恩顧の大名を見回し、
「わが主人徳川家康よりの口上は、このたびの事は石田三成に売られた喧嘩にて、甚だ迷惑しているが、御貴殿方は、みな清洲城へ集まり絶対中立を守って居られて大慶の至りとの事でござった」と、先ず述べた。そして、 酒の膳がでて呑みだしてから、妙なことを口走った。
「石田三成はとんだ知恵者でござりまするのう」と洩らした。
「そりゃ又何故に」藤堂高虎が聞くと、

「何で美濃入りして大垣城へ入ったか?おや、皆様方は御存知無かったのか....」 とんだ事を口にしてしまったと、言わんばかりに七十郎は狼狽の色をみせた。

「そこまで口外されたからには、最後まで言いなされ」細川忠興が怒鳴りつけた。
「....表向きは五奉行など語らって、備前の宇喜多家を総大将になどして居りますが、三成の本心は、又遡って織田家の天下になさん所存。
よって見なされや。自分は大垣城。九州の島津の精鋭を、岐阜城の目の下の州股へ入れておりましょうが」
思いもかけぬ打ち明け話に一同の者は目をむいた。
「信長様の御跡目は、孫に当たる三法師君」と決定されたが、その儘になっているのは誰もがよく知っている処である。

そして、その時の三法師が今や二十五歳に成人したが、僅か十三万三千石で、「岐阜中納言織田信秀」として、この清洲から目と鼻の岐阜城に居ることも周知だった。

「さては石田三成め、大阪城の実権をもと淀城の城代上がりの大野修理めに奪われたるを根に持ち、意外や織田の天下に戻し、自分が権勢を一人じめする野心か」 「先ず災いの根元である岐阜城をつかん」
「豊臣家に仇なす元凶を眼前に、我ら日和見することはない」と、衆議一決。
そこで、八月二十二日の夜明け、福島正則が先頭になって木曾川を越え、竹鼻城を落とし、ついで岐阜城を包囲。翌日ついに落城させてしまったが、この結果、合度で 石田方の先鋒と衝突した。

その儘、福島正則ら豊家恩顧大名は、まんまと徳川方の先手の恰好にされ、九月十五日の関ヶ原合戦まで付き合わされてしまったのである。

「しまった。阿呆となめて掛かった七十郎は、家康めの謀略の手の者だったのか」 と、正則が気が付いた時は全てが終わっていた。
合戦後、家康から「よくぞこの家康の為に犬馬の労をとってくれた。礼をいう」
と、正則は安芸一国に備後二郡合わせた百万石の大名に取り立てられ、従五位下左衛門大夫だった官位も 、家康が奏請して参議にまで昇進させてくれた。
この後、大阪冬の陣が始まる前から警戒されて、福島正則、加藤嘉明、黒田長政 平野長泰らの豊臣恩顧の大名達は、江戸に呼び出された。

そして正則は、 「江戸表御留守居役命ぜられ候」と言い渡され、そのまま小姓二名に供頭可児才蔵と、側室の林の方四名だけで、ていよく監禁される。

可児才蔵はこの時脱出を計るも 捕まって、入牢中に舌を噛み切って自決したため、”光秀の朱槍”はこの時取り上げられ、家康は水野勝成に渡す。
 勝成は感激して夏の陣で活躍し、後藤又兵衛を 討ち取っている。八切止夫が 「信長殺し、光秀ではない」を発表した時、日本歴史学会の反論は、会長の高柳 光寿博士が批評として、
「徳川家康は、光秀遺愛の槍を、家臣の水野勝成に与える時に『光秀にあやかれよ』
と明言している。もし後年のように、光秀が信長殺しというのであれば、あやかれとは自分を殺せとの意になる。だから家康は光秀をもって信長殺しと見ていない 証拠である。つまり光秀を主殺しにしてしまったのは江戸時代の儒学からである」

と、述べていた。つまり歴史学会でも高柳博士のような最高権威は良識をもって 居られるので、反論といっても、結局は同意論になられるのである。

正則が徳川についた理由として、小田原陣の時、北条氏規が僅か五百の兵で立て籠もる韮山城を正則は落とせず、家康の斡旋で氏規が開城を承諾し、正則は面目を保てた。これを大変恩に感じていたので、関ヶ原で家康に味方した、という 側面から書かれた「武将意外史」もあります。

また、秀吉の妻寧々(北の政所)に視点を当てて書かれたものには、豊臣恩顧の大名を徳川につかせたのは、彼女と淀君との確執のため、寧々の力が大きかった としてもいます。

これは関ヶ原の後に家康から「お骨おりご苦労だった」と一万六千石貰ってますから、これもうなずけます。
 

寛永御前試合はなかった 文武両道の嘘

2019-05-19 10:41:42 | 古代から現代史まで
寛永御前試合はなかった 文武両道の嘘
 
 

 
 現在、映画やテレビの時代劇で「武士は文武両道に通じ」と平然とやっている。 そして寛永時代に御前試合が在って大いに盛り上がった等ともやっている。大体、良く考えてもらいたい。
徳川体制が天下を平定してしまった江戸時代に、国内にはもう敵対する相手もいないのに、 武張った剣術や槍術の調練や稽古をする必要があるだろうか。
逆に治安維持上、これらは取り締まって禁止するべきが常識なのである。 武芸とか兵法は格闘技であり、早い話が殺人の為の技や方法である。 従ってこれらは戦場でしか使われずのものを、天下泰平の世に、治安維持の総本山である徳川将軍家が、まるで国体開催みたいに台覧してまで武道を奨励する訳など無い。
 
 
一つ例を紹介すると、播州赤穂に浅野内匠頭の祖父、浅野長政が常陸笠間より入封するまでのここの藩主は池田輝興だった。
この輝興が正保二年に、木刀の素振りをなすのに家臣を相手にさせていた。 これが公儀に知れて「武家諸法度」の反乱予備罪に該当するものとの容疑で、領地を没収され永代身柄預けの処分となった。
のち赤穂浪士の討ち入り騒ぎが、芝居の忠臣蔵になったので、浅野家の前の池田輝興の御家断絶経緯も珍しく明らかにされていて「義士辞典」にも挿入されて今に残っている。
 
さて、こうした厳しい厳罰の時代だったことを考えると「武士は刀を差す。だから斬り合うに違いない」といった早とちりの単細胞では困る。
 
警官は拳銃を携帯している。だから直ぐ抜いて発砲するものだと想うのと、全く同じチャンバラ思考である。
 それでは寛永時代に御前試合は無かったかというと「御前取組」は確かに在った。これは史実にある。 しかしそれは江戸千代田城吹上御苑とは違う。 それは京の御所での人皇百九代明正女帝様の御前なのである。 明正様は寛永七年九月十一日に御即位された訳だが、まだ御齢七歳だったから、女帝がまさか所望されるはずが無い。
 というのは二代将軍徳川秀忠の娘、和子が僅か二万石でしかなかった京の御所へ、化粧料として一万石を持参して入られ、ようやく徳川の力で後水尾天皇を退位させて、和子女御の生んだ皇女が御即位あそばされた。
 そこで徳川の血をひく皇統となったそのお祝いの催事ということで、江戸表より和子のお供をして 御所入りし、これまで関東とは諸事異なる御所で馴れぬ苦労をしてきた御中ろうと呼ばれていた女達は、男に飢えていたのか、関東の相撲を観たいとなった。
 
 
 男が女の裸が好きで、ストリップを見たいというのと同じで、女だって男の裸は好きなのは今も昔も変わりない。これがもっと後世なら野郎歌舞伎になったろう。
 さて五木の子守唄の中にも「おどま勧進、勧進」と歌われるように、相撲は今でも「勧進元」の看板が大きな文字で出ているように、昔は全て勧進興行だった。 それを今で言うなら男のストリップの取組を見物し、以前の江戸大奥の女達は、馴れぬ御所勤めの憂さ晴らしとした。
さて問題は御所へ入って取り組みをした相撲たちにおきてしまった。 相撲は今も昔もハングリースポーツに変わりなく、御前試合みたいな勝ち抜き十番勝負が終わり、褒美というか、出演料彼らが頂戴して引き上げて御門を退出の際に、雑色と呼ばれる 御所の雑役の一人が、「あれは紺屋ではないか!!」と数名の者を見つけて指差した。
 このことが東下りの和子女御付き女中衆と対立していた後水尾帝の、御櫛の局付きの、昔からの御所全女官の耳に入ったから大騒ぎになった。
(注)何故このようなことになったのかは、日本史では隠されているが、この紺屋という職業は 現在藍染として有名だが、日本原住民のうちのサンカと呼ばれ、時のどんな体制にも属さない、いわば埒外の集団だったから、卑しい者達、卑賤の部族として差別されていたのである。
 だから以前、紺屋であったが運動神経抜群だった、吉岡流小太刀の始祖吉岡憲法が、御所で開催された薪能の拝観に、面体を隠し深編笠のままで観ていたのを、指先が紺色に染まっているのを見咎められて、衛士に引っ張り出され、ぐるりと取り囲まれてしまい、 「賤のくせに身の程知らずめ」と、よってたかって突き殺されてしまったという例が在るほどに、御所ではタブーだった。
 
 
だからこの騒ぎは、寛永十一年七月十八日に、御所に参内した徳川家光に随伴していた 土井勘三郎利勝に、秘かに耳打ちする如く訴えられた。 これが発端となって直ちに「寛永サンカ狩り」となって、同年五月二十八日に長崎で発布された、 「異国往来、異教宣布禁止令」に引っ掛けられ、日本各地でサンカと睨まれた者達は召し捕られ、 海路長崎へ送り込まれた。
 そして数珠繋ぎにされた彼らは、異教徒という名目で海外へ追放された。 この事は長崎犯科帳に「夥しき数」としか記載は無いが、サンカの口伝えでは、 「万にも及んだ寛政狩りこみ」となっている。
土井利勝は八代将軍吉宗の頃の大岡忠相にも劣らぬ辣腕家で、織田信長の血脈が 徳川家に入らぬように、江与の方(織田信長の妹)が生んだ駿河大納言忠長を高崎城へ 移し、そこで始末したほどの男である。
折角帝位を徳川の血筋にしたばかりの矢先、御所の掟を破ったのは重々怪しからぬと 土井利勝が全国一世摘発を断行し、抵抗すれば叩っ殺してしまい、女子供は捉えて 長崎送りにしてのけたのである。
 この時の土井の強硬手段に、サンカ絶滅の危機感を持った彼らは、徳川家によって帝位を 奪われた後水尾先帝の院宣によって決起したのが島原の乱なのである。
  つまり島原半島の三角湾が白銀海岸と呼ばれる故事来歴があり、島原半島に、奴隷として売り渡されるために集結させられた者達が、その頃は口の津と呼ばれていた半島突端の、 原の古城は、宣教師達やその従者たちが硝石の倉庫にしていたから、    彼らを襲って殺し占領して、硝石を奪って反乱したのが真実である。  海外へ積み出されたら、どんな悲惨な状況が待っているか知っていた男女が、死に物狂いで戦ったのである。    この反乱軍の中には関が原で敗走した小西行長の残党も多く紛れ込んでいた。 だから徳川幕府は、全国的な討幕運動を恐れ、切支丹の一揆だと発表し、局地解決を図ったのである。
 
 
 余談だが、幕府は天皇や公卿が討幕運動に勅旨を出すのを警戒し、京の周りに多くの大名を動員して、  十五万人もの兵を駐屯させ見張ったので、兵の慰安のため、京に島原遊郭を設置した。   この島原反乱を取って「島原遊郭」と名づけたのである。  さて、この反乱軍があくまでも頑強に幕府軍に抵抗したのは、海外奴隷にされるのは死ぬより恐ろしいと判っていたからだろう。   そうでなければオランダ商館長が軍艦を派遣し、同じキリスト教の者達を十五日にもわたって連続砲撃をするはずが無い。   反乱軍はキリスト教などと無関係で、同国人の宣教師を殺して硝石を奪って籠城したから復讐として参戦したのである。    ローマ法王庁には、長崎聖人26人殉死の記録や絵はあるが、戦死者四万人ともいわれる島原の乱に関しては、もしもこれが殉教なら世界的に無比なことだから特筆されるべきなのに何の記録も無い。  日本ではキリスト教の旗があったから、切支丹一揆とするが、肝心な法王庁では認めていない。    また、天草四郎なる者が反乱軍の指揮をしたと伝わっている。そして豊臣秀頼の落胤だとか、 豊臣家の旗印を立てて戦ったとか、絶世の美少年だったとか・・・・・    こうしたことは全て後世に作られた与太話で、四郎の首実験をしたところ、何個も首があり  どれが本物なのか迷ったというが、そんな美少年なら直ぐ判るはずで、 四郎に似た少年も多数奴隷に売るため居ただろうから、それらも大人に混じって必死に戦ったことのこれは裏書に過ぎない。   だから現代、丸山明宏が、長崎生まれだということからか「自分は天草四郎の生まれ変わりだ」  と宣言しているが、こういう手合いを歴史知らずの、トンチンカンな勘違い人間という。
 

日の丸と君が代 君が代の起源

2019-05-19 10:20:07 | 古代から現代史まで
 
            ◆◆◆日の丸と君が代◆◆◆ N0-1 
 
以前、札幌で開催された第2回アジア冬季競技大会のスケート表彰式で、優勝した韓国選手の栄誉を讃えて韓国国家を流す際、間違えてモンゴルと北朝鮮の国歌が相次いで流されるという大失態があった。 大会委員会は、韓国選手団に不手際をついで流されると言う大失態があった。大会委員会は、韓国選手団に不手際を 詫びるとともに再発防止を約束、韓国側はこの謝罪を受け入れてことなきをえたが、全く国辱ものであり、大きな国際問題に発展しなかったことは幸いだった。
また、男子1500Mの優勝者も韓国選手で、引き続き表彰式が行われたが、その際韓国選手団から「選手団の旗を掲揚、選手団の歌を演奏する」との場内アナウンスに対して「何故国旗を掲揚し、国歌を演奏するとしないのか」とクレームがついた。 このため、組織委は男子500Mの表彰を延期し、JOCの判断を仰ぐなど、事後の対応策を検討することになり、大会に大きな凝りを残した。(韓国はこと日本との問題となると、殊更ヒステリックになる傾向が在る)
このように国旗、国歌のない国は寡聞にして聞かないし、その民族、国家にとって重大な意味を持つものである。 さて、近頃の日本でも「日の丸」と「君が代」の掲揚と斉唱を巡る動きが、特に教育現場で喧しい。
 
旧ソ連や東欧の激動の余震で、日本の左翼は若者に人気がなく、すっかり落ち目だと言われているが、必ずしもそうとは言えない状況もある。というのは、日教組は相変わらず国旗、国歌反対の教育にしがみついているし、文化人の中にも安普請の人間が多く、ことさらに反国歌、反皇室のポーズをとりたがる。国旗、国歌を論ずれば必ず天皇制の問題につきあたるし、そして天皇制を擁護すれば右翼のレッテルを貼られる。
だが右でも左でもない自由な視点でこの国を見 、日本を愛している人間は何千万といる。よく「日の丸は血塗られた侵略のシンボルだ」と言う が、米国や英国、その他の先進国の国旗は侵略や革命で、まさに血に染まった国旗以外の何物でもない。
 
自国の国旗にこうした過剰反応を示すのはこの国だけである。 人種の坩堝であるアメリカなどは、国民結束意識高揚のため、至る所に星条旗が在るし、ストリップ劇場でさえ観客は国歌を歌っている。
従ってそういう安普請の人間達の思想はいかにも浅薄で、其の行動もいかにも矛盾している。彼らこそ、この日本を危うくしている元凶ではないのか。 日本史の記紀は神話だし、徳川史観や皇国史観では虐げられた庶民の歴史は隠されていて、さっぱり解らない。一日も早く現在の日本史から脱却し、自由で怜悧な目でこの国の歴史を見直せば、日の丸も君が代も、その生い立ちが理解できるし これからの道も見えてくる筈である。
   ◆◆◆日の丸と君が代◆◆◆  N0-2
まず日本人の既成概念となっている「大和民族単一説」は捨てることである。大別すれば海洋漁業系、騎馬民族系に二大別出来る。古い順に並べると、
1、土着西南系(九州、四国方面に多い、弥生時代、邪馬台国群、八幡国群) 2、海洋漁業系(後の平氏、天の朝、中近東、ベトナム方面より) 3、原住農耕系(大陸系に帰順して農奴となった、仁徳王朝) 4、騎馬民族系(後の源氏、農耕は一切しない、崇神王朝) 5、藤原船舶系(中国大陸から渡来し、藤原氏を名乗る、継体王朝)となる。
そして、混血はしているが日本人であれば必ずこの内のどれかに属している。 また、これらの部族には民族の色として、海洋渡来系は赤色、騎馬系は白、藤原系は黒、土着西南系は黄色と、厳然と色分けされている。だから日本人は今でもなにかといえばすぐ赤白に分かれたがるのである。
運動会、紅白歌合戦然り。今、我々の身近な物で「水引」と言うのがある。これは舟べりに垂らす布を御所ではかく呼ぶ。
 
武家では能舞台に垂らす布をいう。だが庶民の間では寺へ持っていく布施に黒の細布を巻き付けてそう呼び出した。江戸期になると一般にも多く用いられだしたが、日本列島の原住民は源氏と平氏が圧倒的に多い。だから双方に向くように、紙よりを赤と白の二等分にした。
 
幔幕も同じ色分けだが、農耕漁業の平氏のほうが多いので、 天と地は赤色の横布をつけている。現在も当時のままであるのは皆さん御存知の通り。紅白が全ての行事に使われる根元は、日本人の民族色別による。
現在寺へ出す供養料などの包みの水引だけが黒白となつたのは、元禄期、綱吉の神仏混合令以降の名残である。
さて、幕末期北海道近海にはロシア船が頻繁に来攻しだした。ために徳川幕府は北海道防衛にと赤系の平氏者を集め、彼らが今でいう、 有事立法の下に頑張るようにと、船体を紅殻で染めた赤船艦隊64艘を作った。
高田屋嘉平が「操船するのは海洋民族の平氏が良いが、応戦する者は武闘派の源氏者が宜しかろう」と、進言した。それゆえ同乗させた双方が船内で宗旨違いで争っては困ると、源氏の白旗の中心に平家の赤を丸で入れて恰好をつけたのである。
 
『嗚呼、堂々の日の丸船団』はこの時誕生したのである。源氏者は「我らの白で赤を囲んでいるんじゃ」と言い、平家者は「白の真ん中に我らの赤がどっかり座っとる」と、どちらも都合良く解釈し、すこぶる評判は良かったらしい。
文化、文政には根室、択捉、国後まで日の丸をたてた500石や1500石の船団が北の海に君臨した。
不勉強な歴史屋は勝海舟が乗り込んだ威臨丸の日の丸が最初と言うが、この赤船が嚆矢なのである。しかし当時も厳しい北の海である。難破する船が続出し、文化10年を以て廃止されたゆえ、万延元年の渡米の際まで途絶えていた。 ペルリが浦賀へ来る前のアメリカ捕鯨船団がこの赤船を見かけている記録が現存している。 【追記】 この日の丸国旗のいわれについてはもう一つある。 日本民族の内、赤と黒は天孫系で、白と無色が原住系という識別が厳然としていたらしい。徳川家は三代家光からは血統も怪しくなったが、それでも「神君家康公思召しにより」と幕末まで「八朔」といって、旧暦ゆえ秋風のたつ頃なのに、将軍家から端下女のお末に到るまで、全員白装束になる習慣があった。 当日は吉原の女郎衆も白衣を着て江戸中が白一色になった。 だから、幕末に新見豊前守が訪米使節になった時、 (大公儀が京を包み参らせる形なり)と採用した白地に赤丸入りの旗が御一新になると、 (赤丸が白を押さえ従えるのは良い図柄)と反対に評価されやがて 「白地に赤く日の丸染めて、ああ美しや」となったのだとも云う。 いずれにしろ「白は空で、赤は太陽を表す」という認識は誤りで、日本民族の「民族カラー」が正しいようである。
                           
 
    《君が代の起源》
古今和歌集の「わが君は千代に八千代にさざれ石の」なる詠み人知らずが明治13年に採用され、同26年から文部省告示で全国の学校で斉唱されたというのが、現在の定説となっている。
しかし、実際にはすでに薩摩の軍楽隊によって明治3年にこの曲は初演奏されている。「峰の小松に舞鶴住みて、谷の小川に亀遊ぶ、君が 代は千代に八千代に、ささ゛れ石の巌となりて、苔のむすまで命ながえて…」と いうのは二代目羅卒総長となった大山巌の生地、鹿児島鍛冶屋町のものが、旧幕時代には祝歌として、尾張万歳や三河万歳のごとく口にしていた歌である。
明治になると彼ら下級武士が天下をとったので、薩摩琵琶歌として東京で流行させたのである。 歌詞の中に自分の名の巌が読み込まれているので、大山はいつも放歌 高吟していたという。 明治3年当時の大山はまだ薩摩大砲一番隊長であったが野津静雄(後の陸軍中将)、大迫清(四代目総長)らと三人で、時局談をしていた時、 横浜の英国軍楽隊へ教習へいっていた江川吉次郎が訪れてきた。
そして「イギリスの軍楽隊長から、世界中何処の国にも国歌というものがある。しかしこの国には無いのはどうしたことか、と言われ悔しい思いをした。早速同志の者と相談して探してくると、かくはお知恵を拝借にきました。なんぞ頃合いの物は有りませんか」と三人に懇願した。
突然の申し出に三人は面食らったが、イギリス人に嘲られたとあっては国辱ものである。 そこで「おはんもよう知っとる……巌となりての、あれを国歌じゃというてやったらよか」と大山巌は独断で命令した。
江川も良く知ってる薩摩の歌ゆえ、横浜へ戻って歌詞を書いてフエントン楽長に渡しすぐ演奏した。
 
これが世上物議をかもしている「君が代」の起源である。歴史を怜悧な目で読みとるならば、およそこんなものでる。
「君が代」が天皇賛歌でケシカランと言うならこうした裏面史を公開したうえで論議し、「我らが世」と変えるもよし、国民合意の上で新国歌を作るのも一方法である。
以前、石橋文相は「君が代の君は国民全部を意味している」との認識を示したし、昭和59年の衆議院内閣委員会で森善郎文相は「現行憲法下では、日本国民統合の象徴である天皇を持つ日本の国が永遠に平和であってほしいと言う歌と、国民も理解していると思う」と誠に苦しい答弁をしている。
 
一国の大臣がこんな寝ぼけたことしか答えられないのも、歴史を知らな いからである。日本という国は暖流や寒流に乗って、アラブ、インド、 ベトナム、中国系やモンゴル系、さらに白系ロシアや南鮮、北鮮系と島国ゆえ沢山の民族がこの列島へやってきているのである。
 
大和民族単一説を広めたのは、対外戦争に国民を一致団結させるため、 明治昭和の軍部が流したプロパガンダにすぎない。
日本は今やバブル崩壊後、国の方針定まらず、危険な方向にまっしぐらである。国民は間違った歴史観のせいで、何を信じ、何を拠り所にしてよいのか解らぬ迷える子羊の群である。結局、金や物しか信じられぬ拝金主義者となり、世界から訝しい国と見られている。国を愛し、国を憂うるならば自国の正しい史観ほど大切なものはない。 正しい史観のもとに国民が一致団結して、同じ方向を向いた時初めて、この激浪を乗り切れると思うのだが。