受難の日本書紀
焚書に焚書、改竄に改竄された日本書紀 学校歴史の古代史は、北条政子の歿った西暦1225年までを一括して、安易に教えている。という事は、七世紀の世変りを匿しこんでしまう意図から、十三世紀まで引っぱって延長した期間を、アミカケ方式で制定している。
「日本人の歴史好き」というのは、なにも向学心の現れや、真実追求のものではないらしい。
「侵略」を「進出」と変えてしまって、韓国や中国から抗議を烈しく浴びているくらいで、日本の歴史は、「臭いものには蓋をしろ」と、なんでも自分に都合よく過去は美化してしまう伝統がある。
それまで幕末までは各地方面に、民間に口から耳へと伝承の歴史があったのを、東京を首都とし中央集権制度をとったから、日本全国を一つの検定した教科書で洗脳するみたいに統一教育を歴史にまで及ぼして、
他の国ではディスカッションして覚えさせているものをば、暗記物にした。
だから学校で教わる歴史では、さっぱり、どうにも呑みこめぬ人々が多く、そこで何とかして己れのルーツを知りたがるのが多く、これが歴史好みというか探求型にもなるのである。
近江八幡で「解放」を発行している西川秀夫氏は、祥伝社、大倉精神分化研究所、日本シェル出版、光文社、琵琶湖研究会、新泉社、オリジン出版、秋田書店の出版物を名ざしでピックアップして古代史入門の手引にと並列している。
しかしである。それらの本の中で注意したいのは、「日本書紀」や「古事記」を信用してか、それを参考にしている本だけは、絶対に除外してほしい。
なにしろ学校歴史で「西暦720年五月に、日本書紀三十巻成る」と教えているから、さも、(いま活字本で廻っている日本書紀は、西暦八世紀初頭の編纂された唯一の日本史である)と誤っている方が多いが、
その六十年後に河内より高野新笠の御子を迎えて、人皇五十代桓武さまとなし、日本書紀をつくったトウの人々が昔の中ツ国、今の中国地方の岡山へ財宝をつんだ牛車の群れをひいて逃避行をしたあと。
「彼ら弁髪は日本原住民どもが一致団結して富士王朝復活のため清見潟(今の田子浦)まで、怒涛の進撃をなして攻めてきたのに惧れをなして逃げてしまったのゆえ、
もはや構ったことはない」とおおせられて、それまでトウ一族が、自分らが中国大陸から渡来とするよりも(遥かに高い天から下ってきた、選ばれた民族)とした方が恰好がよいから、おおいに美化するために創作した処の日本書紀だけでなく、
六国史と称される他の史書類もみなことごとく一切合財を集めさせて、山のごとく各地で積み上げ皆これを燃やしてしまった。世にこれを「桓武焚書」といわれる。
富士王朝のアラビア文字を縦書きにしたような歴史書も、悉く集めて燃やしてしまい、オンモン日本書紀というような、ハングル文字の桓檀古記をタネ本にして、桓武さまの御先祖さまが高千穂峯におりてきたという、
クダラ人に都合のよいように美化されて纏め上げられてしまい、ここに第二次の全面改訂の日本書紀の新版が出来上がったのである。
一時は長岡の山の中にまで逃げたが、賎から良に格上げしてもらえたクダラ兵は勇戦敢闘し、原住民を撃退、この時代が本当のナラ時代だが、彼らは威張って、「クダラ人にあらざれば人にあらず、である」と、
教科書の「侵略」よりもひどい傍若無人の振る舞いをした。しかし驕る何とか久しからずである。
今でも「クダラぬやつ」とか「クダラぬことを言うな」といった言葉が残っている程ゆえ、桓武さまの血脈の続いた時代は日本原住民は討伐され奴隷に皆され、シラギやコマ系は、「蕃族」として追討された。
現代のシラギが慶尚道人で朴前大統領もそうだが、以前の全大統領や金日成父子やその他南北の軍部も同じである。金大中はクダラ系だから釈放されても国外追放で済んだ。
日本列島における確執だけでなく朝鮮半島でも、馬韓、辰韓、弁韓の昔から殺し合ってきた民族闘争の原点が桓武さまの時代でも、光州事件の現代でも続いているだけで、
民族の血の流れというのは、二千年や三千年たっても変らないものである。これはナチスのユダヤ人狩りでも判る。もちろん現代では、ユダヤがイスラエル建国以来アメリカのユダヤ勢力を後楯にして極めて強力である。
さて西南に向けて潮流が変り、瀬戸内の海から鉄製武器が、どしどし送られてくるようになった。初めは護身のための、影武者のようなつもりで王位につけたクダラ系にも援助して勝たせはしたが、
やがて延暦十三年の富士の大爆発で、せっかく復活に団結して攻めこんできた日本原住民が、クダラの坂上田村麿に追われ谷底に生き埋めにされ、根つまり死の国へ皆送りこまれた。
(これが現在ネブタ祭りの由来になる)
ほっとして牛車をつらねて戻ってきたトウの人々は、もはや治安が回復したので、影武者の必要もなしとみた。そこで桓武さまの御孫の嵯峨さまの代になると、せっかく苦労して創作されたのを全部燃やしてしまったのである。
が、トウの日本書紀は焚書後四十年も既にたっていたから、「勧学院」をもうけて、武器と共に渡来した医師や漢学者たちに、もう一度改めて「日本書紀漢学版」の作り直しをさせた。
しかし一ヵ所だけでは、すっかり燃やされてしまった日本書紀を復元するのは難しく、藤氏一門は勧学院を。和気氏には弘文院、王氏に奨学院といったのを、次々と設立させて、
百済史の焼き直しの桓武日本書紀を集めて悉く燃やし、第三次の新々日本書紀は、高野山の中国渡来僧たちの綜芸種智院にも協力させ、バビロニア史の漢訳とも対比して今では、言われるごとく司馬遷の史記の中よりも、
当てはめられる個所はそっくりいただいて作り上げた。
政子に殺された頼朝
元寇は騎馬民族の復仇戦 かくして第三回目の「日本書紀」は西暦833年の「令義解」ができた前後に書きととのった。この「桓武焚書」の一件は、南北朝時代の北畠親房の「神皇正統記」にも、はっきりと明記されている。
が、これが今日そのまま残されている日本書紀ではない。藤原道長の全盛期をへて、前九年後三年の役、ついで、平清盛の時代にまた焚書されて、第四回目の新々日本書紀が、熊野権現で書き直され、
新平氏こそ日本開祖の民族であるとしたものを作らせたが、これは壇の浦合戦で水没した事になっているが、この時の一部の書き直しが梶原景時の手に入り、北条政子に献上された。
頼朝を落馬死という事にし、ついで梶原、畠山、和田、と源氏の主だった連中を粛清してのけた北条政子は、鎌倉をオール平氏一色にしてしまうと、承久三年五月には、京へ大進攻をさせた。
「阿魔将軍」と恐れられた彼女みずからが、陣頭にたって押し寄せるわけだったが、大切な北条平氏の女大将が、みづから鎌倉を離れては後が気がかりであると、甥の泰時が代って出陣した。
美化したがる通俗歴史は、夫の頼朝が急死したので、貞婦二夫にまみえずで、髪をおろして「尼将軍」になったとしているが、日本では仏教をもちこんだトウの者の他は、男も女も、坊主や尼の官許の得度は受けられなかったのである。
平氏の政子が尼になろうとしても、有髪の比丘尼だし、男は法界坊、法印の大五郎、日光の円蔵みたいに、くるくる坊主になれずで、吉原でゴザを敷いてカッポレを踊っていた梅坊主一座にしろ、
剃刀をあてて奇麗に坊主に頭が剃れたのは明治御一新からである。
だから、政子が比丘尼になるわけはないから、古代史の最後を飾る彼女の画像は、後世の儒教時代の想像画で、それが今では歴史教科書の挿絵に使われだしたので、本当だと思われてしまっている。
富士王朝の残党ともいうべき北条政子は、夷頭(伊東)に逃げ、潮をくんで製塩、漁撈をして塩魚にして銭にかえ、トウ派遣軍には扱いされていた積年の恨みの積み重ねの報復として、
藤と名乗る公卿の主だった者を斬首。後鳥羽上皇は鳥も通わぬといわれる隠岐の小島の石牢へ入れた。順徳上皇は佐渡が島の土牢。土御門上皇は土佐へ流罪。
そして京御所を監視するため六波羅探題を南北におき見張り侍所をおいた。平政子は生前に大江広元に命じ、かつて梶原景時が入手した平の清盛の第四回目の日本書紀をもとに改訂第五回目の日本書紀は出来上った。
しかし北条時宗の時に、(かつて沿海州から親潮で佐渡や能登へ渡り、蘇我氏として栄えた末孫の源氏を、北条平氏は打倒藤原のために、頼朝を担ぎだし散々に働かせた後、使い棄てみたいに主だった者を皆殺しにして天下を北条平氏のものとした。
だから、沿海州から中国本土を席巻して、元の国をたてた騎馬民族にしては、占領した朝鮮半島の高麗水軍に命じて、源氏の仇討ちに失地回復のための進攻してきた)と壱岐対馬の守護代より急使が鎌倉へ駆けつけてきた。
文永五年(1268)には、その噂通り、元の兵部治郎黒的を高麗人の案内で、正月十八日には太宰府守護の少弐資能に対して、高圧的な態度でのぞんできた。
なんでも今では美化して恰好をつけたがる学校歴史では、このことすらも、「国信使をもって、元の国書や方物を献上し通交を求む」といった具合に「世界は一つ人類みな兄弟」みたいなことを記載している。
だが翌文禄六年三月七日の条になると、はっきりと、
「猛子使用黒的は、高麗人と共に対馬に立ちより、掠奪暴行の限りをつくし、降参した島民の手の甲に穴をあけ鎖を通して舷側に吊し曳行す」とある。
こんな残虐行為は、通商の為にきた国使のすることではない。これは紛れもない挑戦でしかありえない。やがて五年後の文永十一年十月、壱岐対馬から太宰府へ十万の元軍が高麗水軍に護衛されて来攻。
守護代宗助国、平景隆は一族と共に、青竜刀や鉄ぼこに取り囲まれて玉砕、少弐、菊池の救援軍も苦戦したが、たまたま台風が突如として来襲。元軍十万の木造船は大暴風のために海底の藻屑となった。
時間稼ぎに翌1275年夏に、訪れてきた朴世忠ら五人の元の国使を、鎌倉龍ノ口で並べて斬首してのけた。翌年は再度来攻に備えて九州の筑前海岸一帯に石をつんで防塁を建造した。
新興元が高麗水軍を先頭に攻めこんできて台風で悉く沈んだにしても、損害は高麗や新羅の捕虜兵だけなので、改めて来攻してくるのは眼にみえていた。
それゆえ時の執権北条時宗は、(元が又も懲りずに攻めてくるというのは、北条開祖の政子さまが、散々に源氏を戦わせて平定すると、もはや馬のりは無用の長物と使い棄てに殺したり、
双方で戦わせたことへの仕返しに意地になって失地回復に攻めてくるのだから、もしもの用心に、すべての証拠の書類は燃やすべし)と
間柱所文書から、大江広元に書かせた改訂第五次日本書紀も、まさか次の次の弘安四年の来攻の十万の元兵も、台風で又しても海の藻屑になってしまうとは、神ならぬ身の知るよしもなく、
万全を期して片っ端から文字のでている物は、みな集めことごとく焼き払って灰にしてしまった。「時宗焚書」というのがこれである。
学校歴史では、元寇の実際も明白にしていないが、今もハバロフスク民族館の正面入口の扉の上には、沿海州人の民族章として大きな円形の笹りんどうの紋章がレリーフで掲げられている。
つまり元は、日本では源であって、同じ民族なのである。
明治時代の内田弥八の「義経再興記」つづいて小谷部圭一郎の「ジンギスカン義経説」は、源氏の風俗や言語が、沿海州人の元の民族とまったく同じなのが裏日本から入ってきた源氏ゆえ、そこから連想されたもので、
ここが判らなくては元寇の意味も判らぬし、ジンギスカン義経説の由来も、ただ奇をてらうものとしか想われないかも知れぬ。
だが、かってのソ連時代、バイカル号でハバロフスクへ立ち寄った者なら、源氏の笹りんどうの紋や、パンダがその笹を囓っているマークも見ている筈である。
復活日本書紀の捨て石 古代史の範囲に入る平政子の時代の改訂第五次日本書紀は、元寇で上陸された時の用心に、北条時宗によって焚書されてしまったから、西暦720年に作成されたものとは全然、似ても似つかぬものとはいえ、
日本書紀らしいものは第五回の書き直しの分で消滅してしまった事になる。
「南朝こそ正しい皇統である。北朝とよばれる足利体制は、昔の耶馬台国と同じで親大陸政権どころか、中国より属国扱いをされているではないか」と厳しく論評した北畠親房にしても「神皇正統記」は残しえたが、
桓武焚書によって当初の日本書紀は燃されてしまった事実を述べてはいるが、第三次、第四次、第五次の日本書紀にふれていない処をみると、どうも、
A
第二次桓武製オンモン日本書紀は長岡京から、中国人が坊都とし造営した平安京つまり今の京都へ移る時に、写しはもっていったが原文は匿し長岡京の何処かに埋めてきたらしいこと。
B
勧学院の第三次漢字版日本書紀は高野山の中国僧たちまで手伝って藤原氏全盛時代にすっかり初めから新しく書かれたものの、平清盛の時に、熊野権現で別個に書かれたものと入れ換わる。
C
その第四次日本書紀は、清盛の歿後に福原で消滅したか、安徳帝と共に海底へ沈んだもので、その写しだけは鎌倉へ届けられたとみられる。でないと大江広元の記録所の書役で、平政子の第五次反藤日本書紀が、そう易々と、平氏側日本書紀に書き直されたものとは想えぬからである。
D
この政子が校閲したと伝わる第五次改訂版日本書紀は、その侭でもし伝わっていれば、これは反藤原思想のサンカの倫理とまったく同じで面白いものだろうが、北条時宗の時に元寇を懲りずに繰り返して来襲してくる敵の真意が判り、
もし元軍に上陸されて読まれでもしては、それこそ大変である、と問注所文書や記録所文書と共に、惜しくも北条時宗に燃されてしまっている。
つまり「時宗焚書」とか「元寇焚書」といわれて第五次までのものは燃やしては次々となくしてしまい、代った権力者の立場によって新しく、滅ぼしたのを蘇られてきたのが日本書紀なのである。
だが国難の元寇による焚書の時は、もしもの時は殺されるとそれぞれみな探し、写しさえも残されていない。
江戸時代に伊勢の古い神官に保管されていた第四次のものらしい日本書紀を、珍稀本として刊行されたのが公儀の摘発する処となって、版元手錠で絶版にされ、関係したイザナギの神官はみな流罪処分にされた事件があった。
戦前の三省堂の「日本歴史年表」には三行程だがでている。
まったく消え去ってなくなってしまった筈の日本書紀が、昭和の初めになると、皇国史観の黒板勝美によって、突如として蘇ってきて、活字本となって、大八州出版株式会社創立事務所より発刊されて、
旱天の慈雨のごとくに軍や官だけでなく各学校からも求められた。売行の凄まじさに吉川弘文館が目をつけ版権の譲渡をうけ、歴史物出版社としての今日の大をなす基礎ともなった。
出版制限の戦争中でさえも国民精神作興教育のため次々と刊行された。そして、「神典」として、おおいに一般には、かつての教育勅語のごとくに普及した。
今も、吾々が手にとってみられる印刷された日本書紀の本はこれなのである。魔術のように、ない筈のものが、突如として、「神は蘇りたまえり」と、前半は神話で後半が史書という奇妙な体裁だが、
現実に皇国史観黒板勝美のものとして、堂々というか、出廻っていて、今では唯一確定的なものとして拝読されている。
という事は、日本以外の国の郷土史家というのは、それぞれ地方の伝承や古記録によって、己が郷土の歴史を探求しているので、それを綜合してゆくと地方別に明確な史資料が一つに纏まって、
国の正しい歴史が形成されてゆく‥‥といった積木細工方式ゆえ、隣接した他国との歴史とも対照していっても、その接している地方ごとの郷土史で真実はかなり明白になるうる。
処が日本ではそうではない。今ある日本書紀が元本となり、金科玉条のごとく、動かし難いものとされているから、郷土史家のものも、その地方の伝承や古記録を、
いかにして今の日本書紀に結びつけてゆくかの方向にだけのみ専念して、まったく他をかえりみようとはしていない。「鵜飼歴史」とでも言うのか、一羽ずつの鵜がてんでに皆ひっぱられ舟の上へ戻され、
頚をつかまれしごかれて吐き出させられたものは、鵜匠の手によって一つの魚籠の中に集められてしまう。
どの地方の古記録も、みな今の日本書紀の内容に合うようにされてしまう。そして、それが正しいことに、官学の東大閥に認められ、他は黙殺されているのである。
だから日本の郷土史家は零から出発するのが歴史の解明なのに、今の日本書紀を原点とし、それを一とし二、三と研究の展開をしてゆく。
しかし困った事に考古学という分野があって、整地の際に土を掘ったりするからして、今の日本書紀では「大化の改新の舞台であった板葺宮は、その後火災にて忘失」とあるのに、
さて発掘してみると敷石にも焦げた痕もないのに驚かされて、今の日本書紀は怪しまれる。すると築地へ新築移転前の朝日新聞が稲荷山古墳で十余年目に121個の文字が発見。
これをもってしても、今の日本書紀はまったく正しいものであるとマスコミが証明してしまう。
それでも効果があまりないとみると、手を代え品をかえて、大安万侶の木牌が炭やきがまの奥から見つかったから、西暦712年に完成された古事記も正しいものだと大新聞が連日発表。
古事記については後で解明するが、今の日本書紀が大新聞の権威によって、戦後も、「高千穂峯に天孫降臨」と、よし外国では相手にされないものであっても人民共への国体護持の、「聖典」というか「神典」とあがめられて、
日本歴史の聖なる原典とされているのだが、なにも800年近い当時のものが、今までそっくり、ゼロックスでとられ、伝わってきている訳ではない。
前にも述べたように、第一次から第五次まで。その時々の体制によって都合よく作り変えられて、北条時宗の時までは実存した。が元寇の騒ぎで第五次のものは完全に燃やされた。
「黒板勝美日本書紀」は「国史体系」として、編修された第一巻であるが、その序言にまず、
「旧国史大系の時は寛文十三年に木版刷りで出版された松下見林のものを原底本となして、それに伴信友のものを参考にして編修をなして完成した」が、
そののち大正三年に到りては、『国史大系六国史』の第一巻として刊行なした時は、八代将軍徳川吉宗が元文元年(1748)[1736?]二月六日に三の丸の紅葉山書物奉行に校訂させた「類聚国史」をも入手しえたので、
これを参考にしてなんとか定本を作らんことに努めたり」と、徳川時代の原本なりとある。
つまりこれをみると、第六次日本書紀は北条時宗の時に消滅したのが、南北朝時代、足利時代、戦国時代には浮かび上がらず、390年後の江戸時代になって、西暦1673年の寛文十三年九月より延宝元年にかけて、
大阪人の松下見林によって、ようやく再生された事があきらかになる。
彼は、日本書紀を四世紀ぶりに世に出したことよりも、「異称日本伝」「公事根源集釈」「職原抄参考」の著だけが、さも代表作みたいな扱いにされているのは、彼のごとき無位無官の者が再生させたのでは、
日本書紀のせっかくの権威にかかわるとされたのか、明治以降は、故意に敬遠というか黙殺され遠ざけられて、匿されてしまっている傾きがないでもない。
なお大阪人ゆえ、近くの京の公家より出た故紙の中からでも底本になるものを見つけだし、それを下敷きにして書き上げたものらしいが、出処が京の公家つまり藤原の堂上かたとみれば、これは桓武焚書後に、
主として勧学院で作り出された第三次の、則天(漢字版)日本書紀の反古紙で、何かの内張りになっていたものを、襖の下張りか、掛け軸の内ばりにするため京の故紙商が、かためて購入してきたものを、
よってみて大阪の松下見林の許へ、
「先生は、四角い文字のものがお好みだと伺いましたによって、ひとつ値良う買うて頂けませんどっしゃろか」と下張りにするよりは、高値にて儲けようと、持ち込まれでもしたものらしい。
版行に先だって大阪町奉行所は事前検問に京所司代に提出し裁断を乞うた。そして、堂上公家の冷泉家を呼んで読ませたところ、藤原製のものゆえ別に反対や異存もなく許可がでたらしい。
江戸表でも、だから、この第三次日本書紀は復刻なみと別にお咎めもうけずに済んだらしい。
さて伴信友は、若狭小浜の藩士で、本居宣長の死後に入門し、本居太平の教えをうけ、幕末の弘化三年までは生きたが多才博識だった。
軟派では、「ねやのひめごと」の黄表紙本から、三百余の著作で、「長等山風」「神社私考」などの硬派本まである。もっとも有名なのは、
水野忠邦の倹約令で江戸三座が今の浅草松屋よりずっと入ってゆく聖天町とよぶ弾左衛門地の草原に移された時、
宮本武蔵は架空の人物「先生、わっしら芝居者を助けると思って、今までとは違って駕でさえ滅多に入らぬ草深い所へ移された江戸三座の為に、なんとしてでも、
どかっと客が来るようなものを書いて下さらんか」と懇願されて筆をとったのが「両島英雄記」である。
なにしろ当時の芝居の舞台は間口2メートル半しかなく、両袖のロウソクが照明だった。濡れ場ものなら、この広さでも出来るが、これは倹約令で御禁制。
そこで宮本無三四と佐々木小次郎の両雄が、九州巌流島で決闘の芝居をかいた。
なにしろ槍をもって舞台へ出ては、それだけで一杯になって身動きができぬが、刀をもたせ、「雪月花」とよぶ躍りの拍子でチョンがチョンと、上段、中段、下段のからみで、しかも宮本無三四には両手に刀を持たせ、
裏日本や東北でいう処の「張(チャン)バラ」を派手にやらせてみたのである。
これが江戸中の大評判になって、黄表紙本の方も売れに売れた。昭和になって軍部が、
「明治時代は、桃中軒雲右衛門の赤穂義士銘々伝で、召集兵員の在郷予備教育はできたが、いつまでも大石内蔵介でもあるまい」
と、国民精神作興に躍起になっていたので、吉川英治の書き直し、「宮本武蔵」は、おおいに剣だ剣だという尚武の敢闘精神で満州事変から大流行をしだした。
なにしろ主人公の武蔵は慕うお通さえも拒んで剣一道の武芸者で性的不能の変質者みたいだが、ポルノは全面発禁の世の中なのに、同じ村出身の本位田又八の情事場面が二頁おきぐらいに、
汁粉の逆塩どころか全体の半分も入っていたから、おかみの意向とは逆に心なき国民の中の青少年は、オナニー用に求めたものだ。
伴信友が演劇界救済のために書いた宮本武蔵が大当たりをとると、抜け目のない連中が放っておくわけはない。
もっともらしい五輪の書までが、生まれたりして、いつか実在の人物化されてしまった。
「人の一生は重荷を背負うて坂を登るがごとし」といった家康遺訓集は、明治になって徳川家を見殺しにしてしまった勝海舟らが、徳川公爵家の要請で創作したものだとは、
名古屋徳川家で思い切って公表したのは、以前新聞に大きく掲載されていたからご記憶の方も多かろう。
しかし吉川英治は徹底的によく書き込んだから、国民大衆文学として完成されたから、「二刀流は彼の草案」と思い込む人も多いが、文藝春秋の故池谷信平が京城の陸軍学校へ行き、
「壬辰の役(文禄の役)に、進路の倭兵を防ぐ韓国軍」という二百号大の油絵が正面階段の上に掲げられているのをみると、日本軍はみな両手に刀を握っていたので愕いたという話は、
故海音寺潮五郎も「文学建設」に書いてはいたが、武蔵がいつの間にか二刀流開祖にされてしまった。すっかり舞台上の産物が、本当にされてしまったのである。
応仁の乱の時に、鉄資源のない国なので、外国のように鉄の楯は作れず、といって、木の楯は重たくて一人では、とても運べぬから、足軽とよぶ、狩り出してきた山者に両手に竹をもたせ、
「ししっぱらい」とか「露よけ」と先駆けに使った。関白一条兼良は、反仏派で寺を荒し廻る彼らを、「悪党」ともよんだが、青竹を二本もって人間楯として突進してゆくよりは安全と、
戦場で落ちている刀を拾い持ち、生き残れた者は両手に握って、とんでくる矢を打ち払って後の戦国武者となった。
つまり源平合戦から戦国時代大坂夏の陣まで、当時は雑兵とよばれた者達は、みな両刀づかいだったのだから韓国の画家は正確に描写されているのである。
講談歴史とか浪花節歴史とよばれる日本の方が間違っているのである。
吉川英治の作では関ヶ原合戦に出ているから、見よう見真似で二刀持ちを他に見習ったといってもよい。戦争目的に、鉄資源不足を知らせぬ為の学校の歴史の教育を上の指示でされてきたのだから、
伴信友の作り出した宮本無三四を吉川英治の宮本武蔵にまで勇ましく作らせたのは、まったく意企的な軍部の指図だったらしい。
元禄初期に書かれた尾州藩鉄砲頭の天野信景の「塩尻百巻」に、細川家の重役間に確執がきわめて甚だしかったの風聞が書かれているから、
伴信友は、それに今いうヒントを得て創作したらしい。
さて、芝居の両島英雄記や、黄表紙本を数多く出している彼が、本居太平の許で筆写したのを底本に書いた「日本書紀」では、いくら士分の者の筆になったものとはいえ、
問題にならぬと、「伴信友校本」は、「ねやのひめごと」の作者ゆえ、リース門下や黒板勝美にも参考にされたが、軽くみられたらしい。
後世の伴信友の三百余の著書目録にも、日本書紀の権威のために削除されて、その書名が全く出ていないのは、こうした理由からであるのだろう。
江戸初期の松下見林や幕末の伴信友は、日本書紀復活に貢献して、それぞれが書いているが、黒板勝美は「国史大系」の下肥えか、縁の下の力もちにされ、彼らの仕事は有耶無耶にされている。
つまり第七次第八次ともいえる江戸時代の松下や伴の日本書紀は、それぞれ木版で刊行されはしたが、明治になってすべて回収され、まったく今では跡かたもなく消滅させられている。
後西天皇さま著「日本書紀」さて、日本書紀の底本として「第六次改訂新訂増補の黒板勝美日本書紀」を刊行できたのは、宮内省も国民教育にその必要を認め、軍部よりの要請もあったので、宮内省図書寮所蔵の、
「京都御所東山御文庫」と称せられる渋紙表紙張りの粗末な巻子本だが、五十巻と纏まっている後西院天皇の御直筆が 貸与されてこれを底本にすれば、天皇さま自らが書かれたものゆえ、
松下見林や伴信友のものと違って、おおいに有り難られようと、これを定本としての第九次を刊行した。これが今日吾々が神典として扱い、日本歴史の原点としている処の、今の「日本書紀」なのである。
まさか黒板は、すっかりこれにオンブしたとは書きにくいので、他の物も名をつらねているが、みな断片的な第三次のものばかりで、実際は後西さまの50巻本がそっくり現代訳になり黒板が、
教え子の弟子や学生を動員して書き直させて、それで昭和九年に完成したものであることは間違いないと断言できるものである。
しかし、皇室の歴史でさえ江戸時代には、京所司代が検閲加筆訂正したのを「皇運招運録」として、公儀に都合よく、すべて書き直した上で、千代田紅葉山書物奉行に保管させていたから、
この後西さまの五十巻も「無題」のままだったゆえ、何だか判らず辛うじて危うく助かったのである。
この「皇運招録」という徳川家で製作された御所記録が、いかにいい加減なものであったかは、初代文部省修史局長重田定一の「謎だらけの日本史」に詳しい。
さて学校歴史で義務として教え仕込まれる歴史と、実際は相違し過ぎている。黒板勝美は、天皇自らの宸筆として、さも錦の御旗をたてたように、定本の基礎としているけれど、
この時代の実際を歴史屋のくせに何も知っていない。五十巻もの膨大な書を、後西さまが書かれた経緯も彼は何も知らぬというか勉強していなかったゆえ、そっくりそのままの第九次日本書紀が刊行ができえた。
また展開が飛躍するみたいだが、黒板勝美日本書紀の下敷きになった巻子本が、いかにして成立したのかと謎ときがまったく、これまではなされていないのである。
つまり当時の時代背景を学校歴史には出てないが、先に判って頂いておかない事には、謎は解けないのである。
まず気の毒な後西さまがいかにして書かれ給うたか?
子供は嬉しい事しか書かぬものだが、大人は、口惜しいこと悲しいことしか書かぬものである。つまり巻子本五十巻は、後西さまの怨みつらみの労作のものであると先に判ってほしい。
明治維新後、長州お抱え歴史家アドルフ・リースの門下三上参次や小川銀次郎は開明学校のちの東京帝国大学出身だが、リースの大和民族単一説に対して、
「幕末のシーボルトは長崎鳴滝の塾で、赤ん坊を集めてきて尻を並べ、蒙古班の青いのは日本海からの沿海州よりの騎馬民族系の末孫。
そうでないのは、大陸系。やや黒ずんでいるのは太平洋沿岸に流れてくる黒潮にのってきた西南系と書生に教えた」
と、師リースの説に異見を述べた為に、著者の重田定一は東大閥から村八分にされ、文学博士にもしてもらえず、当時は賎役の文部省の初代修史局長に放り出された。
だから彼としては、あまり面白くなく「史説史話」として、「後西院天皇の謎」を書き、何故に歴代の天皇さまで、後西さまにだけ「院号」がつけられているのかの謎を書いている。
江戸時代の御所の記録である「皇運紹運録」によれば、帝の治世に度々大地震が続き、京の民が、これは帝の不徳の致すところと大挙して御所内に乱入し退位していただいた、と宮内庁に保管されている公式記録にはでているが、
群集が大挙して御所へ押しかけ帝を無理矢理に退位させるような事が、従順な日本人として、はたして江戸期でも有り得ることだろうか?
なお帝の在位中に大地震などは一度もなく、明暦三年に江戸に振袖火事。万治三年に大坂城に落雷があったきりで、いくら京所司代牧野親成が徳川家のためのデッチあげでもおかしいと、
「謎だらけの日本史」には、対比表までつけ「院」を何故に生前からつけられていたか判らぬと、その本には暴露している。だから重田定一が亡くなるのを待ちかねたように、東大閥はすうっと問題の後西さまの院号をとってしまい、
すっかり何も今では判らなくしてしまっている。
三代将軍家光の約束違反
日本書紀は江戸時代製 さて何故生前に院号をつけられたか。西暦1654年に後水尾帝末子18歳の良仁親王さまが徳川秀忠の娘和子の産み奉った明正帝につぎ寛永二十年十月の後光明帝のあと、後西帝として即位なされたかというと、
公儀としても皇位継承者が、もう他にはいなかったからであるらしい。
当時、徳川家は七百万石から八百万石の台所入りがあったのに、御所は二万石。徳川秀忠の娘和子を女御として無理矢理に入内させた時に、化粧料として持参金の壱万石で計三万石。
実際は春日局の子として京伏見城で本当は生れた家光は、元和九年六月に二代将軍秀忠と共に上洛した。
家康の遺言で家光が二十歳になったら将軍職を譲るように言われていたので、小御所へ参内。
慣例どおり節刀を賜り征夷大将軍の宣旨をうけ、慣例どおりに京五山へ銀百枚ずつを納めて、秀忠はまだピンピンしていたが家光が三代将軍となり、また寛永三年八月に彼は秀忠と共に上洛して二条城に入り、
後水尾帝の行幸を仰ぎ馳走申しあげた。
六年後に秀忠が亡くなり、駿河大納言忠長を土井甚三郎に後顧の憂いのないように始末させ、本当に一本立ちになって寛永十一年七月に上洛したが、この時に伝奏中院通村を通して、
後水尾帝は家光に対して、「三万石にては御所の賄いは、まことに困難至極、せめて山城一国二十万石を」と仰せられたのに、「はあ」と家光は気軽に承諾してしまった。
話をきいた土井甚三郎利勝は、とんでもないと急ぎ家光を伴って江戸へ戻ってしまった。しかし、後水尾帝にしてみれば、いやしくも江戸の将軍家光が確約したのに、なんの応答もない。
そこで立ち会った中院通村を掛け合いに下向させた。当惑した江戸では伝奏屋敷に彼を閉じ込め、正保四年七月付で伝奏の身分から異例の抜擢で摂家の身分でもないのに、内大臣にして懐柔。
慶安元年正月に毒害するまで江戸の権力で押さえつけた。
なんの音沙汰もしない侭に慶安四年四月二十日に家光は死んだ。そこで学校歴史には全然出ていないが、徳川の血を引く明正女帝に無理に譲位させられ、仙洞御所へ入っておられた後水尾上皇は、
山城一国二十万石の約束をはたせようと、討幕の院宣をかねてから次々と出しておられ、島原の乱をも起こさせ失敗されていたが、十四年間の隠忍自重も、もはやこれまでと家光の死をきかれると、
この機を逸しては三万石の侭である、せっかく確約させた二十万石は画餅になると、改めてどんどん討幕の院勅をだされた。
由比正雪、別木庄左ヱ門らも後水尾さまの密勅を受け、討幕のために兵をあげようとしたのである。そこで内大臣をやめさせていた生き証人を幕閣では始末することにした。
歴史年表に、「承応二年(1653)二月二十九日前内相中院通村頓死す」と明記されるのも、この裏書である。
さて公儀でも、いくら皇位継承者がないとはいえ、反幕的な後水尾上皇の末子を人皇第百十一代に迎えるのは難色もあったが、誰にも他にいなかったので、やむをえずとなったのである。
初めから厳しい目で後西さまは、京所司代や江戸表から監視されていたのである。
というのは後水尾さまは徳川秀忠の娘和子を押しつけられた後も、みぐしの局をご寵愛なさり、その間に生まれたもうたのが後西さま。
京所司代の圧迫で、みぐしの局の実家は飯米にもことかき、局の実妹は銀二十貫で身売りして伊達政宗に買われ、その子の忠宗の側室となり綱宗を生んだ。
さて伊達家も当主になるべき者が次々と若死して、綱宗の代となった。さて後光明帝が崩ぜられ後西さまが即位されると、従弟の伊達綱宗が仙台青葉城主になっているときき、
「なにしろ御所の内緒むきは苦しいゆえ‥‥」と姉小路伝奏を無心に使いに出した。
これが公儀の公安局にあたる柳生俊方にさぐり出されて幕閣に報告された。そこでまず吉原が明暦の振袖火事の前で移転していなくて今の東京シティターミナルの葭の原っぱにあり、土手八丁を通ってゆくのではなく、
今のコールガールみたいに呼ぶだけの時代なのに、講談では誤って、吉原流連不謹慎のせいとす。
が、実際は伊達政宗以来の蓄財を吐き出させる為、飯田橋から市ヶ谷までの外濠工事を命じ資材購入にすっかり伊達家の金を出させてから綱宗を隠居処分にしてのけた。
そして三年後の寛文三年(1663)正月に、二十七歳になられたばかりの後西さまを、十歳の霊元帝に換えた。仙洞御所に入ってもらっては、ずっと竹矢来をはるのに出費が掛り過ぎると、
今の京都御苑の北隅に「後西帝凝華洞祉」の棒杭のあるあたりに、二間四方程の小屋をたて外側に竹矢来をかけたから、外観は竹籠のごとくみえた。
つまり後西帝は従弟の伊達綱宗に、御所の勝手許不如意を訴え、献金を求めただけなのに、でっちあげで謀叛通謀とされてしまったのである。
「何人でにてあれ、大公儀に対し異心を抱かれるにおいては、かくの如し」と、見せしめの為に、京所司代の立札が立てられた。
そして、この年から貞享二年二月二十二日に四十九歳で崩ぜられるまで二十三年間も、ずっと閉じ込められた侭だった。
その間に家光の末子上州十万石綱吉は、生母が京都の八百屋の娘の於玉とされているが、当時京坂には多く住まっていた済州島の出身だというので、大老酒井忠清と水戸光圀が反対して、
京の有栖川幸仁親王を五代将軍に立てようとした。
三田村鳶魚の考証にも詳しくでているが、下馬将軍と全盛をほこった酒井は江戸屋敷まで没取され閉門、御三家だが光圀も、水戸の西山とよぶ特殊な居付き地に押し込まれ、
竹矢来で出入りを監視された。春日局の孫娘の夫、堀田正俊が大老、前夫稲葉正成と春日局に産まれた子の孫が、若年寄筆頭の稲葉正休と、幕閣が春日局の孫や外孫によって固められていたから、
下馬将軍も水戸光圀も、彼らの勢力には勝てずで追い落されて、綱吉が迎えられて五代将軍になったのだ。
「赤穂義人纂書」に鍋田晶山が詳しく書いているように、済州島の血をひくゆえ、日本人よりは貴種であると、やがて綱吉は千代田城を朝廷とよび幕閣を公家と称するようにさせた。
よって京よりの勅使は大納言とか侍従といった官位をひとまず返上。
前大納言、前侍従となり無位無官で遠慮して江戸の伝奏屋敷に入り、京へ戻ると前官にまた復していたものである。
「元禄忠臣蔵」で真山青果が「恐れ多くも勅使下向されて、お戻りになる日に松の廊下での刃傷沙汰は、京のみかどに対しても不敬のきわみ」と書くのは、皇国史観での誤りである。
さて、「都にては近頃は雀を大籠に入れて‥‥」と始まるこの時代の「京雀」の一巻は、後西さまを憐れんで江戸への当てこすりだったが、それに対しても公儀は神経をとがらせてしまい、
「京雀とは、口さがない者が、詰らぬことを言いふらす流言ひがごとなり」ときめつけてしまった。
さて幽閉された侭の後西さまは、おおいに立腹され、灯油は僅かゆえ夜明けより日没まで、
「京こそ体制側であり、江戸は反体制である」と反対立証なさるため、宮中に散逸していた勧学院派の日本書紀の断片を集めてこさせて、改めて、なす事もないから巻子本五十巻に纏められた。
つまり後西さまは、江戸が朝廷にすり変ってしまった事への憤りから、自分らの方こそ正しいのだと、せっせと口惜しさに書き上げられたのが、今も残る東山文庫所蔵本の成立である。
黒板勝美は歴史屋なのに、こうした時代背景をすこしも調べていないから、その巻頭に、
「天地に墨界を施し一行十数字の外題なしの渋表紙巻子本五十巻を特に御聴許をえて、東山文庫の貴重なる御本を拝観するを得たるは、無上の光栄とするところなり」と有難がってだけいて、
ものを書く衝動とは、憤りか何ともならぬ悲しみと口惜しさだけだとも、まるで気づいてはいない。
つまり今われわれのみられる日本書紀は、西暦720年のものではなく、江戸時代の五代綱吉の頃の、恐れ多くも後西さまの徳川家に対しての怨みつらみで、よせ集めて書かれた悲しみのもの。
「大正三年刊の国史大系の日本書紀」は、やはり江戸時代の松下見林や伴信友の書いたものから作り直した黒板のものなのだが、その後の第九次日本書紀は、
後西さまのものなのである。だから、学校で教わったままでゼロックスもない八世紀のものが、その侭と思い込んで信じている人の書いたものでは、
日本書紀の原本が実際は江戸期製とも知らぬための著作ゆえ、それを読んで参考にしては、解明どころか、かえって誤りのもとといえる。