新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

ITに遅れた日本の銀行

2021-04-28 10:19:16 | 新日本意外史 古代から現代まで


ITに遅れた日本の銀行


日経新聞に、「金融、IT競争力が左右」と題する記事が掲載されていた。要約すると、


みずほFG(みずほ銀行)は、一連のシステム障害を受けて、みずほFGがまとめた報告書によると、基幹システムの運用を担う専門の人材を減らしてきたことが明らかになったと紹介している。


金融庁の統計によると、米大手銀行は全従業員に占めるITエンジニアの割合が30%なのに対して、日本は4%に留まり、システムの維持と更新に追われ、中長期的な競争力を生む投資が手薄になっているとしています。
ゴールドマン・サックスは、10年以上前から「投資銀行はテクノロジーカンパニー」と認識し、エンジニアの採用を積極的に行っています。
今では新規採用の約半数はエンジニアで、給与も技術力も高い人材を揃えています。


それに対して、日本の金融機関では、いまだにエンジニアの割合がわずか4%しかいないという、お寒い状態が続いているのである。
日本の銀行は旧態依然とした「行員は営業で貯金を獲得してこい」なのである。


さらに日本の金融機関において、エンジニアの割合以上に大きな問題なのは、システムを提供しているシステムベンダーなのである。
ここで、近頃よく耳にするITソリューション・ベンダについてのおさらいをしておこう。


ITソリューション・ベンダーの意味。


ITとは。
Iはインフォーメーション
Tはテクノロジー
ITとは、インターネットなどの通信とコンピューターを駆使する情報技術の事になる。


ソリューションとは、問題を解決するという意味だが、ITソリューションと言えば、
企業がかかえる課題に対して人員やノウハウ、ソフトウェアなどをさまざまなリソースで解決するのがソリューション。
そのなかでIT技術をつかって解決するものをITソリューションとよびます。ベンダーとは、販売会社のこと。
従ってITソリュション・ベンダーと言えば、


インターネットなどの通信とコンピューターを駆使し、企業がかかえる課題に対して人員やノウハウ、ソフトウェアなどをさまざまなリソースで解決する会社を指す。
蛇足ながら、最近評判のいいSAGAWAのテレビコマーシャルがある。やり手のビジネスウーマンに扮した「戸田恵梨香」が、
「我が社が提案します」と「ロジェステック」という言葉を使うが、「ロジェステック・プロジェクト」と言えば、
物を保管して運ぶだけではなく、物の流れを顧客のニーズに合わせて効率的な形で計画・実行・ 管理することになる。
つまり、「仕入れから出荷までを」を表すサプライチェーンプロセスの一部という意味も含まれている。
現在IT関連の横文字が氾濫しているが、現役のサラリーマンは、自己啓発のためこうした勉強は必須になっているようである。
閑話休題。


こうしたシステム・ベンダーという会社は日本にも多く、以下に上位50社を記してみた。


1. 東芝ソリューション
2. 野村総合研究所
3. 日立情報システムズ
4. 富士通ビジネスシステム
5. 日立ソフトウェアエンジニアリング
6. 新日鉄ソリューションズ(簡易個票)
7. NECソフト(簡易個票)
8. 住商情報システム
9. TIS(簡易個票)
10. 東芝情報機器
11. インテック
12. 三菱電機インフォメーションシステムズ
13. CRCソリューションズ
14. 電通国際情報サービス
15. シーエーシー
16. 日本情報通信
17. シーイーシー
18. 大興電子通信
19. オービック
20. 日本電子計算
21. 富士通アドバンストソリューションズ
22. キヤノンシステムソリューションズ
23. JFEシステムズ
24. 富士通ビー・エス・シー
25. アルゴグラフィックス
26. 内田洋行
27. コベルコシステム
28. ニッセイコム
29. 扶桑電通
30. アルゴ21(簡易個票)
31. 日本コンピューター・システム
32. アイネット
33. キーウェアソリューションズ
34. クオリカ
35. クレオ
36. 日本証券テクノロジー
37. エヌアイデイ
38. ミロク情報サービス
39. パナソニックソリューションテクノロジー
40. アイティフォー
41. アイ・エス・ビー
42. フォーカスシステムズ
43. 東京日産コンピュータシステム(簡易個票)
44. ソフトクリエイト
45. ソルクシーズ
46. インテリジェントウェイブ
47. ビーコンインフォメーションテクノロジー
48. システムリサーチ
49. 大阪電子計算
50. テクノバン


さて、特に、今回問題を起こしたみずほFGの場合、日本IBM(旧富士)、富士通(旧第一勧銀)、日立製作所(旧興銀)、NTTデータという4社のシステムベンダーが担当していて、
こうした事故を起こすのだから、各社が有機的に機能しているとはとても思えない。


合併前の3社(富士・第一勧銀・興銀)時代からシステムを担当していたベンダーがそのまま居残っていて、それぞれの会社が「仕事を失いたくない」という気持ちで争っているのである。
そこにやや中立的なNTTデータが絡んできて、ますます混乱を極めている。


2019年までに約4500億円を投じてMINORI(新勘定系基幹システム)へ全面移行したということですが、その結果として毎週事故を起こしているのだから、レベルが低いというしかない。
(注)図は MINORI開発における品質管理(QMD)体制。HPから転載。


みずほFGに見られる「各ベンダーが絶対に仕事を失いたくない」という問題は非常に深刻である。


システムに対する責任者が曖昧になり、さらにシステムを刷新しようとしてもお互いを牽制しあうため、刷新のスピードが非常に遅くなります。
つまり問題の根源は、システムを提供するシステムベンダー側にあり、「彼らが答えを持っていない」ということです。
この構造が是正されない限り、また同じ問題を繰り返す可能性が高いと思います。


とは言え、1つのベンダーに任せるとなると、血を見る戦いが繰り広げられることが予測されるから厄介である。
みずほFGだけでなく、昨年システム障害を起こした日本取引所も全く同じ問題を抱えているし、地方自治体のシステムについても同様なのである。
各県や市町村がばらばらのベンダーにシステム構築を依頼しているため、ネットワークの互換性がないのが現状。
さらに、前述した銀行と同じく、IT技術者が少なく、自分のところのシステムの故障を直せず、何か不具合が発生すれは全てベンダー任せだから、時間も金もかかる。
自社や、各自治体の中に「情報通信技術」に長けた人材の不足も大きい。
だから、システムやアプリを作ってもらうに際して、ベンダー側に、大まかな構想や設計図を提案できない。
技術力、人材以前の構造的な問題だということを認識し、抜本的な解決に乗り出すことが重要なのである。
さて、私事になるが、
この画像は東芝が1993年に発売したノート型パソコンのダイナブックEZ486である。



電源を入れるとご覧の様に立派に立ち上がり、未だ使うことが出来る。
まるで土方弁当箱の様な無骨で重く当時の値段で30万円もした。


ハードディスクはオプション・フロッピー内蔵・記憶領域がなんと2MBのみ。


CPUはインテルのi486SXまだOSはMS-DOS3.1で、Windows95も発表前だった。

勿論今のようなエクセルやワードも未だ出ていない。

でもこれ、ジャストシステム製一太郎初期のVer.3とロータス123というワープロと表計算ソフトがプリインストールされてたいたという当時では画期的な製品でした。
まだマウスも無い時代で、キーボードオンリーでの操作でした。





当時私は21世紀は機械化時代が終わり激しい情報化時代の到来を見越していた。
従ってパソコンの普及が早くなるだろうと予測していち早く購入した訳である。


購入後パソコンの仕組み、パソコン通信、ネットワーク、インターネットの仕組みなど独学で猛勉強したものである。

この後マイクロソフトの様々な資格の習得やシステムアドミニストレーター1級(現在は廃止された)試験も取る事になる。
ゆらい、PC駆使して一意専心30年になる。
さらにこの頃、日本のインターネットの父といわれる、慶應義塾大学の村井純教授の著書を読んで大いに勉強させてもらった。
当然インターネット普及以前で、パソコン通信といっていて、この通信業者はニフテイとPC-VANが主だった。
この後Windows95が発売され、次のパソコンはゲートウエイのデスクトップと、NECのノート型を購入した。
そしてプロバイダーサービスが始まって一挙にインターネット環境が普及し個人もサービスが受けられるようになる。
と、同時に会社を早期退職し「インターネットとデジタル変換業務の総合企画」としてSOHO企画を設立し、クリエイター2人を雇い営業を開始した。当時の業務内容は現在のITソリューションベンダーの走りのようなもので、
以下のようなものだった。

 【業務容】
                        
●企業の情報システムのサポート、支援。
(ピアtoピア・クライアントサーバー)
●ネットワーク利用と運用に精通し、情報リテラシーの高い人材の育成。
●ビジネスモデルの考案と特許申請。
●ホームページの企画・制作
●(Window95.98.ME..XP対応)操作の簡単なソフト制作(販売管理、売上、仕入、在庫管理、見積書、一般用決算書各種申告書、経営 分析ソフトその他各種)
●企業、個人向けパソコン操作の出張指導(インターネット接続、メール設定、周辺機器の設定、ワード98、エクセル97、オフイス2002
表計算、関数、グラフ、ビジュアル文書、マクロ等を実務利用のレベルまで指導)
●葉書、名刺、会員証、ポスター、メニュー、の作成(ラミネート加工)印刷等デジタル変換業務全般。
●その他、各種イベント、セミナーの企画、運営。


この後WindowsはXPが出て、ビスタ、Windows7,8と続き、現在10まで来ている。
そして此処三十年のIT技術とスマホの普及発展はまさにドッグイヤーであり、感慨ひとしおである。


オリンピックの即時中止!! 菅総理よ「オリンピック中止」を即刻決断せよ

2021-04-24 18:25:29 | 新日本意外史 古代から現代まで


オリンピックの即時中止!!


菅総理よ「オリンピック中止」を即刻決断せよ


思い起こせば、東京オリンピックはトラブル続きだった。

 ザハ・ハディド氏による新国立競技場設計案の撤回、デザインの盗用疑惑がかかった公式エンブレムの取り下げ、競技会場の新設問題、
「コンパクト五輪」という当初のコンセプトに反して膨れ上がった予算問題のほか、開催都市のトップである東京都知事が2人(猪瀬直樹氏、舛添要一氏)続けてスキャンダルで辞任したのも世界に恥を哂した。
 とどめのすったもんだは、開催まで1年を切った段階になってからのマラソン・競歩の札幌への開催地変更である。
そして今回の武漢病毒悪性肺炎(新型コロナウイルス)の蔓延である。
こんな状態で、世界から一万人もの選手や関係者が来日した場合、彼らを安全に守る医療体制は日本にはない。
そもそも世界は選手の送り出しを躊躇するだろう。
今から即刻、菅総理は「オリパラ中止宣言」を出すべきである。
さすれば、後世に「オリンピック中止の英断を下した総理大臣」として令和史に名を残すだろう。




以下は、一年前の一文で、再掲載となります。

 国立競技場建設を巡ってのドタバタに始まり、エンブレムのパクリ問題も起きた。
そして日本は万国に恥を晒し、まさに前代未聞の醜態で英国のBBCにさえ「信頼できる開催国だと思ったが、無様な成り行きとなった」と報じられる始末である。

 これは誰も、何時も、何処も責任を取らない政府官僚達、即ち日本的システムの狡猾さと底の浅さを世界中に暴露したことにもなる。

 こうした様々な恥ずべき問題が山積しているオリンピックは、即辞退返上すべき。
大体、日本は福島原発、東北の津波被害で、復興事業も遅れ、多数の国民が 呻吟している時に、オリンピックなど開催すること自体が間違いである。
前回のような経済が上向きの時ならいざ知らず、成熟した日本のような国には何のメリットも無い。
 
それでなくとも日本は今や、豪雨災害、火山、地震、河川氾濫洪水、土砂崩れ、竜巻、津波と災害大国の感を呈して来た。

 今後これらの対策にかかる予算は膨大で、オリンピックなどで浮かれている場合ではなかろう。
このオリンピックに群がり国民の税金から儲けをむさぼる利権屋共の大声に負けてはならない。
土木建設業を始めとして、マスコミ、印刷、スポーツ業界などなど、おこぼれに預かる業界は多種多様で膨大な数である。
先日テレビで、飯島のタコ坊主が、財務省試算の経済効果三十兆を前面に出して、「三兆円ぐらいでガタガタ言うな」と
吠えていたが、こういうのを「捕らぬ狸の皮算用」という。
古臭い陰湿な裏政治の古狸が、拉致問題も前進できずに「能書きをタレルナ」と言いたい。
 選手だとて、メダルを取れば名誉と金が手に入り、引退後はタレントや団体役員に天下りが待っているし、運がよければ国会議員にもなれる。だからやれ、やれとハッチャキになる。ただ運動神経が凡人より優れていて、
それに多少の努力で金と名誉が手に入るのだからこんな美味しい話はない。
いまやIOCなどは巨大な見せ物屋の親玉で、選手などは猿回しの猿に過ぎない。
良い成績を残せばご褒美にメダルという美味しい餌を貰える。自分では一銭も出さず親方税金で競技ができるのだから、与えられた条件で、文句言わずに競技をしろと言いたい。
そしてIOCの一つの大義名分に「スポーツを通じての世界平和」がある。
こんなご大層な御題目は、銭儲けビジネスを隠すための自己欺瞞にすぎない。
それが何よりの証拠に、現状の世界を見渡せば、戦争も無くならず、テロの蔓延と難民問題などで、オリンピックが無力であることを曝け出しているではないか。
スポーツなんぞ所詮は遊びの延長。感動だ、興奮だ、笑顔、涙だと騒いでも平和は来ない。
苦しい毎日の生活に必死の大多数の国民は、こんな馬鹿騒ぎには全く無縁なのである。
こうした意味でも、現在奮闘中の小池東京都知事には、IOCや国内各種競技団体に「四の五のぬかすなら、ちゃぶ台ひっくり返すぞ」とオリンピック廃止位の覚悟で頑張ってもらいたい。

 今回オリンピックに絡む国立競技場問題が二転三転と迷走した。
さらに小池新知事になってから、築地移転、オリンピック道路建設、利権の巣窟、東京都議会問題と、五輪疑惑問題と、小池知事には大鉈をふるって貰いたい。今回は以下に新競技場と森元首相について記しておく。

遠藤五輪担当大臣
下村文科大臣
安藤デザイン採用審査委員長
森喜朗東京五輪パラリンピック組織委員会長

この連中には全く責任感も当事者能力も無く、さらに憂国の志も無い
只の権力欲、名誉欲だけの「欲ボケ老人」の醜態を曝け出してくれた。
 まあこれらの者達は所詮はチンピラ大臣と利権建築屋だから論評に値しない。
森善朗に到ってはアンサイクロペディアに記されているようにいまや「老害」となっている。
森喜朗(しんきろう)とは、サメの脳みそとゴリラの体の政治家。通称お弁当箱。
趣味は仕事中に熱心にゴルフをすること。あだ名はゴルフ森。
また、「仕事<ゴルフ」の不等式は森の代名詞。そのため、
彼が総理大臣のときはゴルフ総理またはゴルフ総理大臣という役職に変更された。
そもそもこの時期、日本で五輪開催など一体どうしたらそんな発想が出てくるか不可思議千万。
一千数百億の赤字国債、言い換えれば借金まみれのこの国が、東北の復興も置き去りにし、
福島の原発の見通しも立たずの今、森は「国が2500億位出すべき」とのたまっていた。
 この五輪誘致は、民主党政権から引き継いだとは言え、日本が開催をしないと言えばそれまでの話。
喜ぶのはメダルの欲しい選手と、五輪利権に群がる各種企業、予算が欲しい各種スポーツ団体だけである。
 思えばこの五輪誘致は石原前都知事時代から、猪瀬知事、枡添現知事と連綿と続いていて
滝川クリステルの「おもてなし」はご愛嬌だが、浮かれまくって踊りを煽ったこの連中にも責任はある。
森のように総理大臣までやって、位人臣を極めた男の役目は在るだろうに。
 それは若い未熟でお坊ちゃん総理の安倍達の暴走を「諌める」ご意見番なのではないか?
慎太郎にしろ森にしろ近頃こうした老人達の出しゃばりと非行は目に余る。
後は若者に任せ「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」に願いたい。
 しかし一方では「老驥櫪に伏するも志は千里にあり」これを忘れないで貰いたい。
 (歳をとった馬が柵に繋がれて餌ばかり食っていると思われているが、その志は千里にある。いざという時には千里を走って見せるという志を持っている)


 さらに一般庶民も「布依草莽の士」で有って欲しい。
 (普段はボロをまとって市井に住んではいても、この国に一旦事ある時には陛下の旗の元に駆けつけ国のために働く)


 女上位の根津遊郭

2021-04-22 11:17:37 | 新日本意外史 古代から現代まで


     女上位の根津遊郭


江戸時代、吉原遊郭は有名だが、あまり知られては居ないが、幕末まで栄えて流行した根津権現の根津遊郭が在る。
幕府公認の遊郭である吉原は夜間営業が専門だが、此処根津は違った。
「根津の昼遊び」といって、此処で働く女達は亭主を仕事に送り出し、
夕食の支度まで根津で客をとって、そ知らぬ顔で帰宅するというシステムで売春業に精出していた、珍しい場所なのである。
現代でも旦那の仕事中、妻がデリヘル等で稼いでいるのも居るが、根津はそのハシリの様な所だった。
そして此処の女達は「馬乗り」とか「お馬さん」と呼ばれて話題になっていた。 つまり此処は吉原などの正上位と違って、全ての女が女上位で、男の上に跨るから、上からだと硬く勃起して無くては挿入できないが、
鞘かぶせとなると御隠居さんのふにゃちんでも 何とか咥え込んでくれるので喜ばれたのである。
それに根津の女は前借とか鞍替えなどはなく、遊び代金も四分六か七三の配分だったからその日に稼いだ分は其の日に持ち帰っていく。
気の向かない時や、生理の日には自由に休むことも出来たから、日本版「昼顔」を堂々と行っていた世界でも珍しい売春形態だったのでる。
それに当時の江戸という町は、現代のように女の仕事はOLやサービス業なども無く、 下女か、自分の体を開いて稼ぐ売春ぐらいしかなく、だから此処の女達は趣味と実益を兼ねて しかも搾取も無いから、
女が己の性を己の意思で使い出した皮切りでもあった。
「根津でもて、男もどうやら一人前」と言われる位で、江戸期の川柳には数多く残っている。
さて、この女上位で馬乗りになるという性行為と、搾取が無いというという制度は、これはまさしくサンカ社会の特徴である。
と言う事は、湯島天神の飛び地の中に根津権現は在るのだから、共に江戸におけるサンカの溜まり場ということになる。

     江戸の人口は世界一


 なにしろ何の産業も無い江戸が享保二十年から天保年間にかけて、江戸の人口は 130万人と当時世界一の人口になったのには訳がある。
徳川幕府の政策で、金をかけないで五街道の見回りをさせるため、当時街道を流して歩く、 弾家配下の旅芸人達に目をつけ、彼らに、目立つように「朱鞘」の公刀と捕り縄を渡し、逮捕から裁判、処刑の一切の権限を与えたのである。
後には彼らは様々な土地に定着してヤクザとなり、全国の縄張りを決めて、博打のテラ銭で子分を養い、捕物の 費用もそこから捻出したのである。
このため、日本各地の限定隔離場所に押し込められていた、騎馬系や海洋系の原住民達は、江戸に行けば何とか食えるだろうと、街道流しの連中も同族だから、伝達を付けて貰って、江戸や名古屋大阪などの大都市に流入したのである。
そして当時の江戸は男九人に女はたったの一人の割合の人口比率でしかなかった。
というのは、女が江戸へ出てきても働き口はせいぜい下女位しかなく、路銀をかけて 来るほどのことは無かったからである。

 だからまさかと今では思われるが、女日照りで困っている男達のため、堅気の妻女や娘達も 五人に一人は己の観音様を貸し、かつえている哀れな男共の性処理をしていたのである。
これは特に商家の大店等で顕著だったのだが、その嚆矢となったのが鴻池の創業者、山中鹿之助の妻女で、詳細は以前記してある。。



さて、よく講談では明暦の大火後に出来た新吉原へ、ぶらりぶらりと土手八丁をと語り、これに影響されて映画やテレビでも演っているが、あれは全くの出鱈目。
吉原での夜遊びがしたいなら、陸路は通れないのが知らないから間違うのである。
江戸は夕方になると各町木戸が閉まり、番太郎が厳重に見張っていたのである。

だから川が通路になっていて、船宿から繰り出すのが遊びの定番で、もし陸路を行くのなら 幕府から町木戸を通れる鑑札を貰っている筋の通った駕に乗らなければならなかった。
したがってそんなにぶらぶら歩いて遊びには行けないのである。
現在の陸運局のようなのが南北の奉行所にあって、東京の四大タクシーみたいな駕に限って、番太郎宛の通行手形を出していたのが、全く今では知られていない。
その点根津は、女達が朝は四つ(午前十時)から夜は七つ半(午後五時)と昼遊びだから町木戸の煩わしさもなく繁盛していたのである。
そしてそのような雑多な人が集まるということは、トケコミと呼ばれて町に住んでいるサンカ者がツナギ(連絡)に歩くのにも都合が良いし、シノガラと呼ばれて、
各地のセブリを廻って歩く者が連絡を取りに来るのにも極めて都合が良かったらしい。
サンカ集団がこの根津遊郭を作った大きな目的は、幕府の要職にある武士達も遊びに来る から、幕府はサンカに対して過酷な政策をとってきたので、今後の虐めがどう変わるのかの いわば情報収集の場でもあった。
だからここの女達は全てがサンカ族に限られていて、重要な情報は全て、サンカの最高統帥部に報告していたのである。
まあ幕末までの根津が殷賑を極めたのは、昼遊びというのは一種の隠れ蓑で、 サンカが江戸初期の如く、武蔵一(はじめ)等がばらばらに国ごとに統制を取っていたのが 追いつかなくなって、全国的になった所為でもあろう。

 「根津は女だけでなく、<羅宇・スイ>もよし」という江戸の川柳を、ソープランドの口で行う 行為と間違えて説明する、スケベな歴史屋も居るが、これはあくまでサンカの溶け込みのタバコをすう煙管のラウ竿直しの職人のことで、
竿師と呼ばれる青竹屋のラウ屋の仕事のことで、故林家三平の弟が日本一の釣竿師の跡目になっているのも、そこは歴史的に古い海老名家の伝統で、彼らもれっきとしたサンカの末裔である。

    「風呂に関する三題話し」

 さて、余談になるが、江戸の風呂は明治までは男女混浴だったが、これを日本人のスケベ根性だとか、色深い民族と解説するアホな歴史屋が居るが、とんでもない間違いである。
当時の風呂は、薪を燃やして石を熱し、それに水をかけて蒸気を発生させる方式で、 現在のサウナの原型なのである。
だからザクロぐちという、蒸気を逃がさないくぐり戸から入り、男はふんどし、女は腰巻で笹の葉で垢を落とし、水をかぶるというのが本当で、入り口は別々でも中に入ると 蒸気でよく見えないから、
男女とも裸で何の支障も無かったのである。
また、戦国時代、美濃の斎藤道三のことを、人間を釜茹でにしたとか、まむしの道三と悪意の在る解説をするが、マムシというのは強いという意味で、これは畏敬の念で、誉め言葉。
 釜茹でというのは、当時美濃の関の鍛工技術が発達し、風呂好きの道三が一人用の大釜を作らせ、それに自分が入っていた。
熱い湯が好きなので、釜の下から薪をどんどん焚いたから、頭を剃って入道のようになっていた道三が真っ赤になってふーふー言っていたのを、まるで他人を釜茹でにしているように 言いふらしたのが、
道三の娘の奇蝶を妻にしていた信長なのである。
道三は信長が尾張の跡目を継ぐのを、娘可愛さに大金を使い、尾張の重臣どもを買収して助けた。それなのに尾張領が欲しかった信長は、今川を騙し討ちにして奪った鉄砲b五百丁を修理し、
何度も美濃へ攻め入って、とうとう占領できたという経緯がある。


 サンカ民族の言い伝えに「根津は東の生駒」がある。



今は跡形も無いが昔は浅草観音様の裏手に吉原遊郭があった。
 同じように江戸の有名な遊郭として、徳川家康を祀った根津権現の裏の一帯に根津遊郭があったのである。

さてサンカのセブのことを「勢振り」と恰好をつけるみたいに、サンカ用語でツキコミというのがある。
これは突出する情報収集隊のことである。
徳川時代には、綾部に居たオオモト様直轄のクズシリは、京の御所の対サンカ政策と徳川家の 京所司代の方針とでは同じでないゆえ用心して双方に、小者とか渡り中間といったのを潜入させて情報をとらせていた。
(注)クズシリとは例えば「武蔵のクズシリ」というように、その地区の責任者、親分のような意味である。
だがこれが江戸となると将軍家のお膝元である。千代田城は身元調べが誠に厳重で、滅多矢鱈と小者やお端下の下女でも、潜りこませられるものではない。

といっても江戸の政策や意向はどうしても調べたいし探りを入れなければ危険である。
それゆえ、家康が江戸に入府の時にサンカ限定の居付地とされた根津の地に、「さぐり里」として、遊郭を家康直筆の朱印状を提出し、吉原会所なみの賦課金を幕府に納入することを申し出て許可を受けた。
モグリで岡場所などにしては探索が厳しかったので、それよりおおっぴらに税を払っての商売の方が危険がが少ないとのサンカ側の読みでる。

つまり江戸府内の噂や町方役人共の話も聞き集めて、それを総合して判断を下すためでる。これは女を使って情報を盗る、現代諜報戦のはしりといえよう。
よって女達はサンカの中でも器量よしばかりを選りすぐっては根津へ送り込んできたから、吉原よりも美女揃いなので、「遊びは根津に限る」と粋客が集まってきて繁盛した。
もともと根津遊廓が出来る前からサンカは、「遊女記」に大江匡房が書いているように江口の浦が11世紀から12世紀まで情報集めに四国の塩飽衆の舟に乗って、都よりの客をとっていた過去がある。

だが14世紀の足利時代になると、塩飽衆たちは南朝に味方をして敗れたため、足利体制から賊とされ、ゆえに京辺には近づくことが許されなくなったので、サンカのツキコミの情報集めに舟が使えなくなった。
だから今の生駒に集まり「夷駒」ともされ「イコマは悲しい女里」の唄も残される。
根津や生駒が器量よしの女ばかりを集めていたことが人気の理由だというより、もう一つ大きな訳がある。
吉原や生駒、京の島原などの遊廓では、「床をつける」という所作は、女が下になる正常位が、金を払う客を上にのせて、満足させる慣わしだったのに、根津はその逆だったからなのである。
 江戸時代の川柳の歌留多にも、「押っかぶせ、根津は好きものばかりなり」との句が残されている。
つまり女上位で覆いかぶさってくるゆえ客は、自分に惚れているので女の方が積極的に迎えてくれるのかと嬉しがる。
 処が他に聞いても誰にでも女上位でかかって来るというから、それでは此処の女は、よほど皆好き者で、するとなると、ヤラセで致すよりも、本気になってヤル気で歓んで掛かってくるのだろうと、
遊び好きな者には堪らない吸引力となって、町方の役人まで評判に釣られ通ったものらしい。これは男の手前勝手な都合のいい、思い込みというものだろう。だが事実は違うのである。

サンカは川畔の安全な所を見つければセブるが、女は冬でも冷たい水の中へ入って、腰湯ならぬ腰水に浸って 女の急所の奥まで指を入れて丹念に洗う風習がある。この行為は訳ありなのである。
なにしろサンカは大陸人や百済の男たちに、慰安婦にされたり、種付けされる前に、山や河や孤島へと逃げた純粋日本人の誇りを持っている。
しかし体制に追われる立場となっても同族を守ってゆかねばならぬら、
探索方として選ばれて廓女にはなったが、いくら商売とはいえ、異民族の子種を体内の奥深くに放出されては困る。
よって女が上になって射精させておけば、下腹を左右からもみ下して屈めば、下へぽとんと白い液体が容易に便壷へ落とせる。
そしてよく拭っておけば子種は入らず安全と、民族の純潔を護るために、遊女勤めを、当時は用心して考え騎乗位で務めたのである。

 
余談になるが、江戸時代には避妊薬は色々在ったらしい。黄表紙本の今で言う広告にも「月浚え月水散」「逆日丸」などいくらでも見られるから、庶民の需要も多かったと思われる。
さらに堕胎となると「中条流」が有名である。 しかし明治になると軍部の富国強兵策で、兵隊になるはずの子供の避妊や堕胎は国策上拙い。
従って、そうした庶民には便利でもオカミにとって都合の悪い書物などは、羅卒に命じて徹底的に集め焚書した。
だから現代でもこの手の書き物はめったにお目にかかれないのである。
さて、江戸期のこうした歌留多には性を扱った物が意外と多い。特にサンカのものは目を引く。
そして現代の乱れ切ったSEXの氾濫する時代は、サンカのこうした行動は不可解で、助べえだとか、欲望や欲情、性欲などの概念で捉えがちだが間違いで、純粋日本民族の種族保護活動の一端と捉えるべきである。
そして、サンカの掟は「統治されず、統治せず、相互扶助」だから、この精神を護るため、時の体制に虐げられ、差別され、殺されても耐え忍び、逃げ隠れるということで抵抗した誇り高き平和的民族とみられる。


秀吉の家臣が書いた「天正記」による本寺の描写

2021-04-16 17:54:13 | 新日本意外史 古代から現代まで


秀吉の家臣が書いた「天正記」による本能寺の描写


(主君の秀吉を喜ばせたい為書かれたのが「天正記」なのである)


 なにしろ、この六月二日というのは目が眩みそうな暑熱厳しい日で、みな、それでなくても、蒸し暑い京の町で、うだるように悶え喘いだにしても、まだ夜明け前の午前四時では、太陽も出ていない。
 前日の大雨で、本能寺のさいかちの森も、まだぐっしょり濡れた侭だったろうし、本能寺の周囲の濠も、溢れるように水が湛えられていた。
 だから、本能寺の便殿も客殿も、本堂も、厩小屋の屋根も、まだ、雫をたらし、しっとりと湿った侭だったろう。
 ところが<信長公記>では、
「既に御殿に火をかけ、焼け来たり候」としか、出ていないが、<天正記>では、「御殿に、お手ずから火をかけ」となる。
 当時の事なので、ガソリンをまいたり灯油をかけて放火したのでもなかろう。
 それなのに雨で濡れていた本能寺の各種の建物が、カチカチ叩く火打ち石で、すぐ燃えつき、たちまち堀割を越して、さいかちの濡れた生木の林を燃やし、本能寺の森を火焔に包み、四条の民家にまで飛び火して羅焼という、
そんな強度な大火に、どうしてなるだろう。これも不自然すぎはしないだろうか。
 こうなると、これまでの俗説のように、
「信長が、もはや最期と思召され、本能寺に火をつけ、お腹を召された」という話は、全くのデフォルメになってしまう。
 しいて自害とみたいなら、また、<当代記>にある「終(つ)いに、御死骸見え給わず」という答えに合わせるためには、硫酸の水槽へとびこんで、身体を融かしてしまうか、その屍体の始末方法はないはずである。しかし、
この時代に硫酸は、まだ日本にはない。
 すると、信長は、「弓も引かず、槍も突かず、火もつけず、腹も切らず」という事になる。
 だが、秀吉に対して、その家臣の大村由己が、どういうふうに書いて満足させたかという参考に、彼の<天正記>の内から<惟任謀叛説>の「本能寺」と「二条御所」を原文の侭で採録してみる。
そのデフォルメぶりを参考にと思うのは、この程度のものが、「信長殺しは光秀」の証言であるという情けない真相の解明でもある。




 天正記


「本能寺の変」





 惟任公儀を奉じて、二万余騎の人数を揃へ、備中に下らずして、密に謀反をたくむ。
併しながら、当座の存念に非ず。年来の逆意、識察する所なり。さて、五月廿八日、愛宕山に登り、一座連歌を催す。光秀、発句に云はく、「時は今あめが下しる五月かな」
 今、これを思惟すれば、則ち、誠に謀反の先兆なり。何人か兼ねてこれを悟らんや。
 然るに、天正十年六月朔日夜半より、かの二万余騎の人数をひきい、丹波の国亀山を打ち立ち、四条西の洞院本能寺相府の御所に押寄す。将軍、此の事夢にも知り召されず、宵には信忠を近づけ、
例より親しく語らい、吾が壮年の昔、唯今残る所なき果報を喜び、兼ねて万代長久の栄輝をたくみ、村井入道・近習・小姓以下に至るまで、御憐愍(ごれんびん)の詞を加へ、深更に及ぶ間、信忠は暇乞ひありて、
妙覚寺屋形に帰り入り、将軍は深閨に入りて、佳妃・好嬪を召し集め、鴛鴦(えんおう)の衾(ふすま)、連理の枕、夜半の私語、誠に世間の夢の限りに非ずや。
 
惟任は途中にひかえ、明智弥平次光遠、同勝兵衛、同治右衛門、同孫十郎、斉藤内蔵助利三をかしらとなし、其の外の諸卒四方に人数を分けて、御所の廻りを取り卷く。夜の昧爽(あけぐれ)時分に、
合壁を引き壊(やぶ)り門木戸を切り破り、一度に颯と乱れ入る。将軍の御運尽きるところ、頃(このごろ)天下静謚の条、御用心無し。国々の諸侍、或は西国の出張と云ひ、或は東国の警固として残し置く、
又、織田三七信忠は、四国に至りて渡海あるべき調儀のため、惟住(これずみ)五郎左衛門尉長秀、蜂屋伯耆守頼隆相添へ、泉堺の津に至りて在陣。其の外の諸侍、西国御動座御供の用意のため、在国せしめ、
無人の御在京なり。偶々(たまたま)御供の人々も、洛中所々に打ち散り、思ひ思ひの遊興をなす。御番所に慚く小姓習百人に過ぎざるものなり。


将軍、夜討ちの由を聞し召され、森蘭丸を召して、これを問へば、則ち、惟任が謀反の由を申し上げる。怨みを以て恩に報ずるの謂はれ、ためしなきに非ず。生ある者は必ず滅す、是れ亦、定まれる道なり。今更に何驚くべけんや。
弓をおつ取り、広縁を差して打ち出で、向かふ兵五、六人、これを射伏せ後、十文字の鎌倉を持ち、数輩の敵を懸け倒し、門外におよびて追ひ散らし、数箇所の御疵を蒙り、茲を差して引き入り賜ふ。
 森蘭丸を始め、高橋虎松・大塚又一郎・菅谷角蔵・蒲田余五郎・落合小八郎等、御傍を離れざる面々なり。これに依つて、一番に取り合くちせ、同じ如くに名乗り出で、一足も去らず、枕をならべて打死す。
続いて進人々は、中尾源太郎め狩野又九郎・湯浅甚助・馬乗勝介・針阿弥、此の外、兵七、八十人、思ひ思ひの働きをなし、一旦防戦すと雖も、多勢に攻め立てられ、悉くこれを討ち果たす。
将軍此頃、春の花か秋の月かと、翫び給ふ紅紫粉黛(こうしふんたい)悉く、皆さし殺し、御殿に手自ら火を懸け、御腹を召されおはんぬ。


        「二条御所の陥落」




村井入道春長軒、御門外に家あり。御所の震動を聞きて、初め喧嘩かと心得、物の具も取敢へず走り出でて、相鎮めんと欲して、これを見れば、惟任が人数二万余騎囲みをなす。
かけ入るべき術計を尽くすと雖も、叶はず、これに依つて、信忠の御陣所の妙覚寺に馳せ参じて、此の旨を言上す。
 信忠は、是非、本能寺に懸け入り、諸共に腹切るべき由、僉議ありと雖も、敵軍重々堅固の囲ひ、天を翔る翼に非ざれば、通路をなし難し、寔(まこと)にこれ咫尺(しせき)千里の歎き、なほ余りあり。


 然るに、妙覚寺は浅間敷(あさましき)陣取りなり。近辺において何方(いずかた)か腹る切るべきの館、これあるべしと、御尋ねありしに、春長軒承つて、忝くも、親王の御座、二条の御所然るべき由言上仕り、二条の御所へ案内申す。
 忝くも、春宮(とうぐう)は、輦(てぐるま)に召し、内裡(だいり)に移し奉り、信忠僅かに五百ばかり、二条の御所に入る。将軍の御馬廻、惟任が残党に隔てられ、二条の御所に馳せ加わる者一千余騎。
御前にこれある人々、御舎弟御坊織田又十郎長則・村井春長父子三人・団平八景春・菅屋九右衛門父子・福住平左衛門・猪子兵助・下右(おろし)彦右衛門・野々村三十郎幸久・走沢七郎右衛門・斉藤新五・津田九郎
次郎元秀・佐々川兵庫・毛利新介・塙伝三郎・桑原吉蔵・水野九蔵・桜木伝七・伊丹新三・小山田弥太郎・小胯与吉・春日源八、此の外、歴々の諸侍、思ひ切つて、惟任が寄せ来たれるを待ち懸けたり。




 惟任は、将軍御腹を召し、御殿に火焔の上るを見て、安堵の思ひをなし、信忠の御陣所を尋ぬれば、二条の御所に楯篭(たてこも)らるる由、これを聞きて、武士(もののふ)の息を続(つ)がせず、二条の御所に押寄す。
御所には、勿論、覚悟の前、大手の門戸を開き置き、弓・鉄砲前に立て、内にひかえる軍兵は思ひ思ひの得道具を持ち、前後を鎮め居たりけり。魁の兵、面もふらず、懸かりたり。
前に立てる弓・鉄砲、差し取り引き取り射退け、たじろぐところについて出で、追払ひ推し込み、数剋防ぎ戦ふ。敵は六具をしめ固め、荒手を入れ替え入れ替え、攻め来たる。味方は素膚に帷一重(かたびらひとえ)、心は剛(たけ)く勇むと雖も、長太刀・大打物、刃を
揃へて攻め入れば、此には五十人、彼には百余、残り少なに打ちなされ、御殿間近く詰め寄せたり。信忠御兄弟、御腹巻を召され、御傍にこれある面々百人許り具足を着け、信忠一番に切つて出で、面(おもて)に進む兵十七、
八人これを切り伏す。御傍の人人、われ劣らじと、火花を散らし相戦ひ、四方に颯と追ひ散らす。其の時、明智孫十郎・松生三右衛門・可成(かなり)清次、其の外、究竟の兵数百人、名乗り、取つて返し、切つて懸かる。信忠御覧じて、
真中に切つて入り、此頃稽古仕給ふ兵法の古流、当流秘伝の術、英傑の一太刀(ひとつたち)の奥義を尽くし、切つて廻り、薙ぎ伏す。


孫十郎清次・三右衛門、首丁々と打ち落とす。御近衆の面々、力の限り切り合い、内に攻め入る敵の人数、悉くこれを討ち果たす。最後の合戦、残る所なく、将軍の御伴を申すべしと、御殿の四方に火を懸け、真中に取り篭め、
腹を十文字に切り給へば、其の外の精兵、敷皮をならべ、腹を切り、「一度に焔となりぬ」将軍御歳四十九、信忠御歳二十六、悼むべく、惜しむべし。
上下万民に至るまで、皆、愁涙を滴らしけり。


さて、云わずもがなの事であるが、「兵法の古流、当流秘伝の術」「一太刀の奥義」というのは、幕末天保十四年に<新選武術流祖録>という硬派本が出てから、
弘化・嘉永の木版刷の「剣客伝」にきまって出てくる「当時の流行語」である。
従って、ここに転載した原文も、天正十年の作とは伝わるが、これまた、やはり幕末の二百七十年後のリライトもののようである。



国家統合情報省の新設 イスラエルの情報機関モサド 戦前日本の情報機関

2021-04-09 10:56:39 | 新日本意外史 古代から現代まで

国家統合情報省の新設
イスラエルの情報機関モサド



日本の情報機関として有名なものに内閣官房の内部組織で内閣情報調査室(内調)がある。
内調は主に情報の集約やオシントを行っている。またその他の情報機関として、警察庁警備局(公安警察)、外務省国際情報統括官組織、防衛省情報本部、法務省公安調査庁、海上保安庁警備救難部などが挙げられる。


(注)オシントとは、
OSINTとはオープン・ソース・インテリジェンス(open source intelligence)の略称です。
これは諜報活動の一種で、一般に公開され利用可能な情報を情報源に、機密情報等を収集する手法を指します。
一般に公開され利用可能な情報とは、合法的に入手できる情報で、トップに対するインタビュー記事や企業のプレスリリース、書籍、インターネット情報等が挙げられます。これらを合法的に調べて分析することにより、
一見、断片的なデータから、意味を持った情報が得られる場合があります。

日本の情報機関において特徴的なのは、警察(公安警察)が人事面で優勢である点である。日本の情報機関における取りまとめ的な位置づけである内閣情報調査室には警察官僚やノンキャリアの警察官が数多く出向しており、
トップの内閣情報官は創設時から警察官僚が代々務めている。また、外務省国際情報統括官組織、防衛省情報本部、公安調査庁、海上保安庁警備救難部にも警察官僚が出向している。
一見しても日本の情報機関は、バラバラで情報の共有ができていないのが判る。これが情報貧国とか、スパイ天国と云われる所以なのである。
従って日本も、アメリカの、CIAやFBIの様な、強力な捜査権、逮捕権を持った「国家統合情報省」の新設が急がれる。何故なら、


武漢病毒悪性肺炎(新型コロナウイルス)の蔓延、尖閣諸島への海からの侵略、サイバー攻撃による個人、企業情報の略奪、経済侵略、中国や韓国企業による土地や水資源の買収、
と日本は攻撃されまくっているのが現状だからである。
日本は、スパイといえば卑しい仕事と思っている人間が多い。しかし、スパイ先進国、イギリスやアメリカでは高校、大学在学中の俊秀をリクルートして、情報専門家(分析官、特別捜査官)として育成している。
日本でも旧陸軍中野学校のような、プロ集団養成機関を設立する必要がある。この際慎むべきは、警察、公安調査庁、外務省などからの寄せ集めは厳禁である。
何故なら、縄張り争いで組織の運営に支障をきたすからである。
この組織は前記オシントは勿論大切だが、諜報、防諜、謀略機能も持たせなければ意味はない。
スポーツ庁や天下り温床の各種社団法人の全廃で予算は賄える。

さて、世界には有力な情報機関がいろいろある。ロシアのKGB、アメリカのCIA、英国はM16(SIS)等は有名である。その中でイスラエルのモサドは世帯こそ最小だが、情容赦のなさと効率のよさでは群を抜いている。
暗殺も数多くやってきたが、その実行部隊となっだのは、ヘブライ語で"剣”を意味する"キドン”という語を冠した三つのキドンーチームである。
その隊員"キドニム”と呼ばれている。彼らは(女もいる)形式上、正規軍の師団に所属しているが、あくまでも敵国に深く潜航して冷酷非情に鉄槌を下す。しかし、モサドにも、お手盛りとはいえルールがある。
そして、暗殺には二つの範疇がある。一つは"作戦上の必要”から実行されるもので、予期せぬ緊急事態にみまわれて味方の生命にかかわる作戦が危殆に瀕し、
その原因となった人物をすばやく且つ永遠に除去しなければならない、といった場合がこれに該当する。


こうしたケースの場合、工作管理官は任務全体を危険に陥れている敵対者を"始末”、即ち殺す権限を与えられ、テルアヴィヴの上司に支援を仰ぐことができる。
 もう一つの範疇はすでに暗殺(処刑)リストに載っている人間を処分する場合である。
このリストは二か所に存在する。そこは首相専用の金庫とモサドの長官の金庫である。新任の首相は必ずこのリスト、その時期によって差はあるがだいたい30から80の名前が記載されている。


だから、首相は必ずこのリストに目をとおすよう求められる。そして首相はそれぞれの名前について検討して、"もしも、あるいは、何々の場合は”という条件つきでモサドにゴーサインを出すか、
モサドが独自の判断で新しく暗殺を実施するときは必ず事前に自分の意見を求めるよう主張するのが普通である。どちらにせよ、暗殺命令には首相の署名がなくてはならない。
アメリカ映画では、出先の暗殺者は、CIA外部組織に下請けさせている内容がよく見られる。
あの場合でも、大統領は直接命令しないが、暗黙の許可は出しているのである。その点イスラエルの首相は「直接暗殺指令者」としての過酷な責任を負っている。


日本も、北朝鮮に自国民を拉致され、全く取り返す意思も能力もない現状をどう見るのか。
歴代総理大臣は口先だけで全く責任を果たしていない。北の残酷な金正恩を特殊部隊によって、極秘裏に拉致や暗殺を命令できるような剛直で正義感旺盛な首相は今までも全く見当たらない。
何しろ、占領軍、アメリカに押し付けられた憲法を70年以上守り続けた、平和ボケした日本国民である。彼らを覚醒させ、中国や北朝鮮に「戦う姿勢」を取らせるのは至難の業である。
しかし、首相は三軍の最高指揮官で、集団的自衛権発動の際は、自衛隊員を死地に送らねばならない。
確固たる愛国心、国民愛に溢れた精神と、覚悟と責任感の重圧に耐え、命令できる首相でなければならない。
それには、やはり強力な情報、諜報、謀略、防諜機関が絶対必要なのである。

さて、イスラエルのモサドでは、大まかにいって、暗殺リストに記されている名前は三つに分類できる。
第一のグループはいまだに罰を免れている元ナチスの高官であるが、この類はもうほとんど生存していない。以前、イスラエルは一大作戦を展開し、アドルフ・アイヒマンの身柄を押えて強引にアルゼンチンから連れ戻し、
公開裁判にかけたが、あれは、いわば、見せしめのためで、他の元ナチス戦犯は全て隠密裏に殺されているのである。


第二のグループはほとんどが皆今現在のテロリストたちで、アーメイド・ジブリルやアブ・ニダルのような、すでにイスラエル人、あるいはユダヤ人の血を流したか流したいと願っているアラブ人が主で、
少数の非アラブ人もまじっている。

 第三のグループはイスラエルの敵のために働いている人間で、その仕事が進展すればイスラエルとその国民に多大の危険を及ぼすと考えられる連中のことである。
 この三者に共通する特徴は、彼らがみなその手を血で汚しているか、汚す可能性が強いという点てある。
 暗殺の要請があると、首相は法務調査官に検討を依頼する。この調査官の存在は厳重に秘匿されており、イスラエルの法律家でもその存在を知っている者はごくまれで、
いわんや一般市民はだれ一人として知らない。調査官は検察官と弁護人を招いて"裁判”を開き、罪状を披露する。


この裁判でモサドの要請か是認されると、その結末が首相に報告されて署名が求められる。
あとはキドンチームが然るべく処理する……これは可能ならばの話ではあるが。


 最後にもう一つ、モサドは科学者や実業家を相手にするときには、テロリストを扱うときにはけっして踏まない手順を一種の慣例として用いることにしている。
いつも必ず最後の警告を発するのだ。こっそり忍びこんでグラスを動かしたりビデオテープを巻き戻すなどという姑息な手段を弄することなく、言葉で明確に警告するのだ。


イラク最初の原子炉の建設に携わっていたエジプトの核物理学者ヤヒラーエルーメシャド博士の場合でもそうだった。博士は、一九八〇年六月十三日、パリのメリディアンーホテルの一室で暗殺されたのだが、
そのときもこの手順がきっちり踏まれている。アラビア語をしゃべる工作管理官が部屋を訪れ、手をひかないと命はないとぶっきらぼうに告げたという。
エジプト人は、さっさと失せろと男を追い返したが、これは賢明ななやり方とはいいがたい。
モサドのキドンーチームに向かって実行不可能のことをあえてやれと頭ごなしに告げるなどというこJとは、保険会社の承認を得られない愚行である。二時間後、メシャドは死んだ。
生き延びられるチャンスを自ら放棄したのと同じである。一年後、フランスの援助で建設されたオシラクの原子炉がイスラエル空軍の戦闘爆撃機によって破壊されている。


もう一つ、これはアメリカ映画のスパイものによく描かれている「国旗偽装徴募」という謀略戦術である。
これは、情報源として狙いをつけた人物を、その者が共感を寄せている国のために働いているふりをして徴募するやり方である。
実際はまったく別の国の手先なのだが、徴募された本人は気が付かないという高等戦術である。
イスラエルの情報機関モサドなどは特にこのテクニックに長けている。


ユダヤ人は全世界に散らばっているので、ほとんどあらゆる国の人間として通用するエージェントにこと欠かないというわげだ。
モサドはこのテクニックで見事な成果をおさめている。


 たとえば、こういうケースがある。中東の石油会社で働いている或るドイツ人が休暇で帰国中に、やはりドイツ人から接触をうけたとする。

その人間は、ドイツの情報機関BND(連邦情報局)の者だと名乗り、それを証明する完璧な証拠を示す。そして、イラクでそのドイツ人と同じプロジェクトにかかわっているフランス人が、
NATOで域外への移出を禁じられている極秘の技術情報を、より大きな商談を確保するために、流している云々という、まことしやかな話をして、お国のためにその実態をさぐって報告してくれないかと持ちかけるのだ。


ドイツに忠誠なそのドイツ人は彼らの要請を受け容れて、その後エルサレムのために働きつづけるという訳である。
彼は母国ドイツの為になると信じて、情報を流したのだが、実際はイスラエルの為に働かされていたことになる。情報戦の世界では、こういう事例がままあるのだ。
ついでに、旧ソ連から続いている悪名高いロシアKGBについても触れておく。この組織の、海外工策活動を担当するのは、第一管理総局、特別部と通常の部に分かれている。
外交官を偽装する通常のKGBエージェントは、各"地域”から選抜される。


 日本を担当しているのは第七部である。これらのスタッフは、海外勤務につくときは"PRライン”と称し、在勤先で通常の情報収集、有益な連絡員の確保、技術文献の渉猟等をおこなう。
第一管理総局の極秘の心臓部にあるのが、非合法活動局で、"S”管理局とも称されるこの部門には地域の区別などない。
非合法活動局は"非合法”工作員を管理し運営する。これらエージェントは外交特権に守られない、偽の身分証を持ち、秘密の任務を負って相手国に潜入する。


彼らは大使館を根拠地にせず、それとは一応、独立して活動する。
 しかし、どこのソビエト大使館にもあるKGB駐在官事務所には必ず一人、"S”管理局の人間がいる。彼らは海外に在るときは"ラインN”と呼ばれ、特別の任務だけを扱うが、
しばしば諜報活動の対象となる国に生まれ育った者を徴募し、運営したり、深く偽装した非合法工作員がロシアから潜入してくるに際して、技術的な面をも含めてさまざまの支援活動をおこなったりする。

   戦前日本の情報機関

 戦前は陸軍参謀本部及び海軍軍令部にお粗末ながらも情報部門があり、駐在武官となって各国の軍事情報収集をしていたが、能力は駐在武官の性格によりけりだった。
今は防衛省情報本部が対諜を担っており、国内防諜に関しては調査隊、自衛隊内部の防諜は警務隊が担っている。
旧陸軍中野学校はスリーパーを育成する軍の教育機関で、この機関自体が対諜及び防諜をしていたわけではない。
憲兵隊は旧陸軍内部の軍内防諜機関としての性格もあったが、国防保安法絡みで活動することもあった。

特高警察は、日本国内の防諜機関としての性格があり、主に国内で情報収集をしていた。
大逆事件や小林多喜二の例にもあるように、行き過ぎが祟って、GHQにより一斉罷免され、さらに旧内務省も解体された。
こうした経緯から、日本は敗戦後一貫して専門情報機関の設立をおろそかにしていた。その結果前述のように、中国、ロシア、北朝鮮のスパイの坩堝状態になっている。
最近、菅総理は「子供庁」設立と新たな政策を提案しているが、的外れも甚だしい。
子供を増やし、育てやすい環境を整備し、人口増加を目標にするには、別の政策を執らなければならない。
菅総理は、コロナウイルス対策にしろ、デジタル庁新設や携帯電話値下げなど、一生懸命努力していることは判る。しかし「努力」とは方向と方法を間違えると、徒労に終わり、成果は上がらないのだ。
さらに、デジタル庁担当の平井卓也大臣など、台湾のオードリー・タン氏と比べれば、デジタル構想や技術面では子供に等しい。
タン氏は、幼年から哲学書を読み、プログラミングを身に着けている天才なのである。ここにも日本の人材不足が露呈している。


従って、中国が日本に陰謀の限りを尽くしている現在、子供庁新設など、悪い冗談に想われる。
一日も早い国家統合情報省の新設が望まれる。
(注)今回の記事は、前述オシントによってのものである。