新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

 サンカ生活体験記 第六章

2019-10-31 15:08:31 | 新日本意外史 古代から現代まで
 サンカ生活体験記 第六章 

一、 源は「元」である。

 のち北条時代に何故に元軍が大軍を催して懲りずに攻めてきたか?この元寇の際に、何故に北条時宗が桓武帝の真似をして国内の史書を焚やしたのか?の謎も、そうすればよく判りうる。
 ついでに付言すれば、ハバロフスクへ行かれた事のある方なら、町の中央の民芸館の正面入口に大きな盆のようなレリーフが掲げられている。バイカル号に乗って行かれた人ならばハッとしたであろうが、共に笹竜胆のマークである。
 同じ沿海州のハバロフスクの先のチャリキーには、笹竜胆の上隅にパンダの顔が覗いている木彫り状のトーテムが立っている。つまり「元」として東欧まで制圧した彼らの民族章なのである。
 明治十八年に末松謙松のものを訳にした形で慶応在学の内田弥八が、「義経再興記」を、日本橋本石町上田屋より刊行。これを底本に小谷部圭一郎が「ジンギスカンは義経」を書き、昭和になってからは高木彬光が、それを判りやすくしてからが、カッパブックスとして出版している。
つまり元寇とは、北条氏が源頼朝を落馬即死の恰好で始末してから、次々と源氏を討ち滅ぼしたのに対しての民族の復仇とし、文禄、弘安と続けざまに源氏の世に戻す為の来攻である。
 北条時宗が、そのために北条政子によって梶原、和田、三浦ら源氏を皆殺しにした門註処の記録文書や歴史書を用心のために焚書してしまったのである。
これを北条焚書というが、だから今ではこの時代の古文書は全く残っていない。
 次にとってかわった足利氏が、「臣源道義」と、実際は源氏ではないのに、対明への国書にはことさらに源姓を名乗ったのも、又しても元寇を繰り返されては難儀するからとの、外交上の駆引き自己防衛策だったのである。
ニ、 平はペイでペイルシアである。
 つまり黒潮暖流によって第一次は今のアブダビ海よりアレキサンダー遠征軍によって、ギリシャ語のガレーリナと呼ばれたマレーシアのバハン(ヤバアン)へ移送。そこから、今は雲南と離れているベトナムへ開拓奴隷として送られた際に、天地水火を祀る四方拝の民(七世紀にマホメットが回教を拡めてからは、無智なる拝火教と蔑まされたが、紀元前三世紀には今のイランの首都がスサであったし、彼らの拝む神がGIONであり、ミソギする河がヤサカだったので、スメラ山脈のならぶホルムズ海峡へ集結され)脱出した時に、古代バビロニア語の逃亡奴隷の「ミーコト」と呼ばれた者らの中で、日本列島まで流れてきた漂着の群れ。八幡国群の名で呼ばれ、親魏政権の耶馬台国群とくり返し戦った古平氏の先祖。
 第二次は、かつてはアフリカやアラブの熱帯や亜熱帯の方が食物に恵まれていて文化人で、白色人は白ッ子扱いをされて奴隷とされ、ガレリー船を漕がされたり、ピラミッドのような強制課役をさせられ、堪りかねて寒冷のスカンジナビア方面の北東へ逃げ、防寒に胸毛や腕に猿のような毛を生やした連中がバイキングで資力をつけ、有色人への仇討ちに南下してきた時代。
 白人の歴史では「十字軍」と恰好よくされているが、掠奪した物の半分を教会へ献納すれば、「神は嘉し賜る」と誉められ、暴行強姦が勝手気侭の時代。アラブの奥地の拝火教徒はヤスドに収容されていたが、海岸に近い所の者はスメラ(日本では戦後からシュメールと呼ぶ)沿岸で人間の防波堤にされた。
 次々と混血児を生まされ、堪りかねて又黒潮に乗って生魚を手掴みでとって塩水で洗い食しつつ、筏で日本へ流れついたボートピープルが、紀州熊の浦に集団上陸した。
時の鳥羽上皇が、得長寿院建造を三十三間の長さにせよとの御下命だが、そんな長い杉の木はなく困り切っていたところへ、第二次の新平氏は筏をつないできた鉄のクサビをはずして持参し、上皇の御指示のように60メートルの棟木を作って内匠頭つまり作事方に、タダモリあげたきりと悪口を言われつつ、平の忠盛の名を貰って従五位となって昇殿を許された。
 第一次の古平氏は鼻ぺしゃで色も浅黒かったが、第二次移民団は、今でいえば彫りの深い顔立ちを皆が混血児ゆえしていた。そこで女は殿上人にそれぞれ召され、男も好色な藤原女のベットボーイとなり、セックスで見る間に実権を握り、清盛落胤説までが生れるようになる。もちろんアラブのアッタ神殿には十六枚の菊花の他に、二つ巴、三枚笠といった日本人の家紋は、笹竜胆以外はみな揃って残っており、明治になって平民とよばれるくらいに次々と熊の浦へは来着。やがて今の神戸の福原にも築港。新平氏は「平家御一門」として入ってくる。後の足利末期の関白二条兼良の三男の尋尊大僧正が書き残した「大乗院寺社雑事記」
に、「西南より渡来にて馴れぬ者は堀川三条の囲地に収容」(京の各寺の目玉タレントとして青い目の者らはスカウト)とあるが、工人武人となる者へは古来よりの慣習どおりに「平姓を賜る」とある。活字本でも復刻されている、これが裏付け資料であるが、
「天の日本古代史研究」に詳しい。
三、 藤は唐である。
 唐によって滅ぼされた随の者らの華夏王朝は、郭ムソウ将軍進駐時に通弁や道案内に奉公したので、発音は同じでも「桃」とあてられて、岡山一帯を昔の中ツ国なみに中国地方とよんで、山口県までその本貫地支配下におくのが認められたが、後世には一つとなる。
四、 橘は、ややこしいが日本では匿されている契丹である。

 なにしろ、頭の良いのや要領よい者と美女だけは都に残れたが、他はデッチあげの天慶の乱で東北に追われたり、紀ノ川の奥に追い込まれてしまい、藤[原]と同じく大陸系なのに大宝律令の「良」でなく「賎」の民にされる。
 かつてオランダ本国が滅亡した際にも、日本の出島だけには、世界で唯一つのオランダ国旗が立っていたというが、大陸では唐は滅び契丹の時代になっても、日本ではまだ唐政権だった。
 が、契丹系でも文化的なのは、橘諸兄といった名で登用されているのが要領よき一例である。
 しかし、日本人を形成する四大姓の一つが、キツとなったのは相当多く入り込んできた事になる。当時の人口を千万人とみても二百万人ぐらいは契丹系という事らしい。
なにしろ彼らは、本国が正式には攻めてきてくれず、唐勢力によって敗退すれば、賊軍の立場とされてしまった。
 今でこそ、天神様は頭の良くなる学問の神様だと、入試の絵馬や祈願で儲かっているそうであるが、当時はみじめなもので、「ここは何処の細道じゃ、天神様の細道じゃ。‥‥行きはよいよい、帰りは恐い、恐いながらも詣りゃんせ‥‥」といった戒め童唄でも判りうるものである。
 唐を亡国にした憎っくい契丹人の信仰の天神様は、「ここは何処の細道じゃ」という程の、ちょっと見つからぬ小径の奥に匿されていて、一人ずつ詣りにゆくのはよいが、帰りはつい皆で戻ってくるから、話し声を役人に聞きとがめられると処罰される。
が、それでも祖国を離れて住み着いているからには、命がけでも詣らねばならぬという、これは子供らへの教訓歌にほかならない。
 それゆえ、口に出して唄ってみればわかるが、お詣りに行く歌にしては悲壮感というか哀愁がある。つまり西暦940年の天慶の乱からこのかた密かに唱えられてきた呪文みたいな歌のせい。
 さて、三角寛の著に、「下谷万町が白バケサンカの本拠」とよく出てくるが、この一帯が湯島天神の社有地なのである。泉鏡花の、「別れろ切れろは藝者の時にいうせりふ。真砂町の先生が‥‥」といった湯島境内の舞台が有名なのも、湯島天神の境内だからこそ、先生について学問するか女と切れずにゆくかが、昔の看[観]客には胸を突かれる想いがする舞台効果なのである。
 ついでに書けば、幕末まで流行した根津権現にしても、当初はエケセテネの、日本最古の雑色人種の守り本尊であったかしれないが、江戸中期からの繁昌は根津の遊郭にあったという。
「権現のひる遊び」といって、女は今の団地妻の一部みたいに亭主を仕事に送り出し、夕食の仕度までに戻ってゆく日本版の「昼顔」で、「馬のり」とか「おんまさん」と呼ばれていた。
 つまり、吉原などと違ってこの場所では、全て女上位で男の上に跨るから、上からではピンピンしていなくては挿入できないが、鞘かぶせとなると御隠居さんのでも咥えこんでくれる。

 それに根津の女は前借りとか鞍替えなどはなく、四分六分か七三で、その日に金を持ち帰ってゆく。気の向かぬ時やお迎えの日は休み、当時の江戸では女の仕事はOLもなくただあれだけゆえ、趣味と実益で、しかも搾取はないから、女が己れの性を自己意識で使いだした皮切りである。「根津でもて、男もどうやら一人前」といわれるぐらいで、江戸期の川柳には数多く残っている。

 さて、という事は、湯島天神の飛び地の中に根津権現はあって、共に江戸におけるサンカの溜り場という事になる。なにしろ何の産業も工業もないのに、亨保二十年から天保にかけて、江戸の人口は百三十万人と、世界一の都会になったそうだが、これは街道目付を流して歩く「堂の者」に朱鞘の公刀と捕縄を渡して取り締まったから、へ入れられていた者が伝達をつけてもらって都市へ出て、江戸を世界一の人口にしてしまったのだが、男九人に女はたった一人の割合でしかなかった。
 というのは、江戸へ出てきても女の働き口はせいぜい下女ぐらいしかなく、路銀をかけて来る程のことはなかったからである。だから、まさかと今では思われるが、堅気なところの妻女や娘が五人に一人は観音さまを貸し、かつえている哀れな男どもを救ってやっていたのである。
 よく講談で、明暦の大火後にできた新吉原へぶらりぶらりと土手八手をと語るが、あれは嘘。夜遊びしたいなら舟宿からくりだすか、陸ならオカミから町木戸を通れる鑑札を貰っている筋の通った駕に乗らなくては、夕方から町木戸は閉まってしまうので、そんなにブラブラ遊びにゆけるものではない。今の陸運局みたいなのが奉行所にあって、東京の四大タクシーみたいな駕屋に限って、番太郎宛の通行手形を出していたのが、全く今では知られておらぬ。
 その点、根津は女達が朝は四ツ(午前十時)から夜は七ツ半(午後五時)と、昼遊びゆえ、町木戸の煩わしさもなく繁昌していたのであるが、そのように雑多に人が集まるという事は、トケコミとよばれて町屋に入っている者がツナギに来るのも都合がよいし、シノガラとよばれて各地のセブリを廻って歩く者が連絡をとりにくるのも都合がよかったらしい。
 まあ、幕末までの根津の賑やかさは、昼遊びは隠れ蓑で、サンカが江戸初期のごとく、武蔵一(はじめ)などが国々で統制をとっていったのでは追いつかなくなって、全国的になったせいでもあろう。
 「根津は女だけでなく、<羅宇(スイ)もよし>」という古川柳を、トルコなみに口で吸引するのと間違えて説明している本もあるが、これはあくまでサンカのトケコミの煙管のラウ竿直しの事である。
 竿師とよばれる青竹屋も、煙管のラウ屋とトケコミの仕事からで、故林屋三平の弟が日本一の釣り竿師の跡目になっているのも、そこが歴史的に古いエビナ家の伝統なのであると判ってほしい。

セックス・イン・サンカ
「セブリの性交度数」という題名で、性交(マグイ)についての研究を「サンカの社会」朝日新聞社刊では克明に三角寛先生が示していて、これが当時の世人を驚かせて、自然食こそ強請の素のエッセンスと喧伝されだし、今もいわれる。そのため今日でも大いに自然食品は流行している。
一、東海道 関東
(1)夫(二十九歳)婦(二十六歳)子供三、同居。
   月経中続行。毎日。一日二回平均。セブリ、野外半々。
   (伊賀の箕作りで、元志摩箕作りの孫)
(2)夫(三十九歳)婦(三十七歳)子供四、同居三。
   月経中続行。妻からの要求が多い。毎日、一日二回乃至三回の事有り。野外            の場合が多い。(伊賀ササラ箕作り、兼業)
(3)夫(四十歳)婦(四十ニ歳)子供五、同居三。
   月経中も可。毎日。度数は月経切迫時に二回の事あり。野外の場合が多い。
   (伊勢、箕作、笊屋兼業)
(4)夫(五十七歳)婦(五十三歳)子供七、同居三。
   月経有。経中も続行。月計二十数回。ときどき二回連続。野外の場合が多し。
   (尾張、箕作、鋳掛師兼業)
(5)夫(二十八歳)婦(三十に歳)子供三。
   月経中続行。毎日。一日二回乃至三回の日が数回ある。月経後が多く日に八回をこえる。(三河、箕作、茶筅師兼業)
(6)夫(四十歳)婦(三十九歳)子供五、同居ニ。
   月経中は中止。殆ど毎日。ただし一回のみが多い。
   (遠江、箕作、研師兼業)
(7)夫(四十五歳)婦(二十一歳)後妻。先妻の子三、自分の子ニ。同居。月経中
   続行。毎日二回はかかさず。野外専門。セブリでは雨天の時だけ。月計二十五回平均交わる。(駿河、箕作、兼業)
(8)夫(四十七歳)婦(三十九歳)子供五、同居三。月経中も続行。月計二十五回
   平均交わる。野外多し。(甲斐、箕作り、エラギ兼業)
(9)夫(四十九歳)婦(四十九歳)子供七、同居三。月経中も可。月計二十回程度
   セブリ、野外にては半々。(伊豆、箕作)
(10)夫(五十歳)婦(二十八歳)後妻。先妻の子四。自分の子ニ。同居三。毎日一
   回乃至二回。セブリ、野外にては半々。(相模、箕作)
(11)夫(五十歳)婦(五十一歳)子供八、同居三。月計二十回程度。子供多く、よ
   って野外多し。月計二十回程度。(武蔵、箕作)
(12)夫(五十一歳)婦(四十八歳)子供七、同居三、月計二十回程度。セブリ、野
   外半々の割合。(安房、箕作)
(13)夫(五十五歳)婦(五十歳)子供八、同居ニ。月経有。経中一日二回繰り返し
   多し。月計三十五回程度。一日二回が、時々あり。(上総、箕作)
(14)夫(五十九歳)婦(五十八歳)子供十一、同居四。月経あり。経中支障なし。
   毎日。定めて行う。セブリ一、野外ニの割。(下総、箕作)
(15)夫(六十三歳)婦(六十五歳)子供十三、同居ニ。六十四で月経停止。閉経後
   快感増。隔日平均なるも連続ニ三回のことあり。続行中セブリより野外にて交わる事しばしば。(常陸、箕作)
ニ、南海道 (関西)
(1)夫(十九歳)婦(十七歳)子一。月経期間五日間中止。毎日。月計四十数回。
   春夏には野外多し。(長門、箕作、笊製造兼業)
(2)夫(二十七歳)婦(二十九歳)子三、末子二歳。月経中も不休なり。毎日かか
   さずおこなう。野外はときどき。月計三十数回。(周防。笊製造兼ザル製造)
(3)夫(四十四歳)婦(五十歳)子七、同居三。月経有、経中支障なし。要求は婦
   七、夫三の割合。春夏は毎日。一日二回の日多し。セブリ、野外半々。(安芸
   、箕作兼蝮捕)
(4)夫(五十一歳)婦(四十八歳)子九、同居四。経中も可。要求度は夫婦半々。
   隔日乃至三日目程度。マムシ酒を服用したとき二回乃至三回連続の日あり。野外裸体のとき連続四回もある。(備後、茶筅兼ササラ製造、夏期蝮捕)
(5)夫(六十一歳)婦(六十三歳)子九、同居三。妻五十五歳にて月経停止。閉止
   後婦よりの要求度強まる。夜間房中妻の声はげしき時は、やむなく野外に出る。(備中、箕作兼マムシ捕兼河魚捕)
(6)夫(七十歳)婦(六十八歳)子十一、同居なし。月経五十六歳にて閉止。婦の
   要求度は閉止前は夫に優ったが、閉止後は平静。隔日平均なるも、ニンニクを肴として唐辛子酒を服んだ時は、一回三時間以上を要する。夫婦とも服用して
   励む。(備前、箕作兼マムシ作。また河魚捕、ウナギ捕の名人)
(7)夫(八十一歳)婦(七十九歳)子九、同居なし。月経五十七歳にて閉止。閉止
   後楽しみ増。月経中も要求度が夫に優っていたが、閉止後は特に増す。三日おきぐらいなるも、一回の時間が一時間以上に及ぶことが珍しくない。特に強壮
   食は別に何もとらない。(美作、茶筅師エラギ兼業)
(8)夫(八十九歳)婦(九十歳)子十一、同居なり。月経は五十七歳まで。五十六
   歳まで末子がいたが、全児巣立ってからは、七十歳までは毎日続けた。七十歳から八十歳までは隔日ぐらい。八十歳後は、自然に減った。ときどき毒草鳥兜
   を用ふ。(これは量を誤ると死亡するので、おおいに注意している)完逐所用
   時間は、老後は一日二時間以上に及ぶようになる。
三、西海道 (九州)
(1)夫(十九歳)婦(二十一歳)子ニ、同居。月経中七日乃至八日休止。経後要求
   強し。殆ど、ごとく毎日。昼夜一日二日多し。村落の路傍竹林中等。末子を背
   負ったまま。(薩摩、箕作)
(2)夫(三十よ歳)婦(四十歳)子三、同居ニ。月経中続行。経後婦の要求強し。
   就寝後。日中林中の裸体行為にてを好む。(大隅、箕作)
(3)夫(四十歳)婦(四十一歳)子四、同居三。月経中続行。経直前は妻よりの
   要求多し。毎日。就寝後なし。婦の矯声高きにつき、子供を避けて野外にて昼
   夜の別なし。(日向、箕作)
(4)夫(五十歳)婦(四十七歳)子なし。婦は眼球転動症。本症は平素眼球が上下
   左右に転動しているが、能発作のときは上下か左右だけ一定に転動し、この時は情交神経旺盛となる。一日に婦は三回乃至五回も狂発(発作)することがあ
   り、裸体にて山や里などに駆け出すので、看病のため鎮静さすためゆえだから時と場所を選ばない。特異な例である。(肥後、笊作)
(5)夫(六十一歳)婦(五十八歳)子七、同居なし。婦五十七歳にして月経閉止。
   閉止後実行快度増。就寝後多し。月中数回は野外。実行前後に右乳を夫に吸はせる習性あり。(肥前、箕作)
(6)夫(六十三歳)婦(五十八歳)子九、同居なし。婦五十四歳にて月経閉止。閉
   止後も夫次第である。毎日。末子同居中は野外にて共に用。末子根分け後はセブリ就寝のとき。(豊前、箕作)
(7)夫(四十五歳)婦(四十九歳)子九、同居一。月経中可。経後きわめて良し。
   月に計二十回程度。坐行型を好む。野外多し。(豊後、笊作)
(8)夫(七十七歳)婦(七十四歳)子十三、同居なし。婦六十歳まで不定経ありて
   、蛇の生焼好む、夫は蜂蜜好む。月計七、八回。就寝後にても催してくると、
   しきりに妻よりよく求められる。(筑前、箕作)
(9)夫(八十一歳)婦(七十九歳)子八、同居なし。五十三歳月経閉止。肉体が若
   い上に死が近まったせいか六十歳から七十歳頃までより、現在の交りの方が有り難い思ひがして楽しい。月計二十回くらい。夫婦だけであるから随時。夜明
   けまで続行の時もある。(筑前、箕作)
 三角先生は江藤医学博士を同行、ついでに健康診断として、夫八十九歳・妻九十歳にして、月に五回は夫婦生活を営んでいるという二人を裸体にして検診した所見を詳細に朝日新聞社刊の「サンカの社会」の246Pから三頁にわたって、肉体上の外観を、レントゲンなしではあるが発表を援用。
九十歳の夫婦の裸体
 山陽道における夫(八十九歳)婦(九十歳)の播磨、エラギ兼羅宇師夫妻の夫婦道は、九十歳に至っても、性交月五回ぐらい、一回の所用時間二時間に及ぶ事は、珍奇の現象と云わねばならない。よって前述のごとく、山陽道(ヤマヒナタシチ)の長
(オビト)、八國知大人(クズシリオホヒト)、八蜘蛛断(ヤクモタチ)(通称人名、播磨多治郎)に特別にその裸躰の診察をなすことの許可を依頼した。その所見は次の通りである。

八十九歳の夫(江藤医学博士検診断と、前記の著に三角寛先生は明記される)
生年‥‥八十九歳百十三日。所見は身長‥‥五尺四寸一分。躰格は普通、一見五十五、六歳の肉づき。頭髪‥‥多毛にして全白。眉毛‥‥長くして全白。腋毛‥‥長し、全白。陰毛すりきれて薄し、全白。顔面‥‥丸顔、髪、髭、髯ともにあり。(月十回剃
る)眼の眼球は太く、上眼瞼溝なく、眼瞼頬溝が深い。左右の耳介は車輪円大にして、舟状窩深く、耳たぼ長し。
 皮肉骨相(上部)‥‥(1)顔面、オトガイ骨は円滑、顎関節と頬骨弓は張っていない。鼻骨は高い、外後頭隆起は突出している。(2)咽頭隆起が高い。(3)僧帽筋が発達している。(4)頚部の上鎖骨上窩が深い。(5)頚窩も深い。(6)大胸
筋は発達している。(7)上腕二頭筋が左右とも逞しい。(8)五指を握らせると、掌のつけ根の三角骨、尺骨の茎状突起、尺側手根屈筋、長掌筋ともに逞しく、肘頭、上腕骨とも隆々としている。(9)腋窩以下、広背筋、横前面の前鋸筋、外腹斜筋、
腹直筋も逞し。皮肉所見(下部)‥‥(1)上前腸骨棘。(2)大腿筋膜張筋(3)大腿(4)ニ頭筋、共に逞しく、(5)膝蓋骨が狭小である以外は、すべて逞し。(6)大殿筋に至っては、いささかの懸垂皮肉は見られず、老人特有の衰退所見は全くなし。皮膚‥‥色はきわめて健康色で、白艶がある。
 陰部‥‥隠嚢きわめて長く懸垂し、睾丸は左右とも平行で、懸垂に長短なし。隠茎躰は縮小中で普通である。亀頭冠、著しく蓋形を見せ、尖頭型で、亀頭頚の深さが顕著に見られた。

九十歳の婦。(夫と同様に、江藤医学博士検診と、三角寛先生前書に発表)
生年‥‥八十九歳二百十九日所見。身長‥‥四尺九寸八分。躰格‥‥ヤセ型、筋肉緊張、硬質体。頭髪‥‥烏毛のごとく漆黒にして多毛。白毛なし。眉毛‥‥短毛なれど濃し、白毛なし。腋毛‥‥長く腋窩に溢る。陰毛‥‥二本白毛あり。顔面‥‥やや瓜種型、往古の絵画に見る貴族相。目‥‥平常型なるも、眼窩やや深く、眼球常態、上眼(瞳)瞼溝のない一重瞼である。瞳孔と虹彩と鞏膜が、鮮明に区切られているので、著しく清眼である。うちまなじり、そとまなじりともに鋭線にきざまれている。睫毛は長く湿気がある。鼻筋は、鼻根より鼻尖にかけてなだらかに緩い斜線を描いているので、鼻高で、鼻尖を撫でとったような醜さがない。耳は偉大な大型で、耳輪は厚肉で、耳垂が内房になっている。上部の三角窩は低く、対輪脚に安定している。
 皮肉(上部)所見‥‥(1)顔面、オトガイ骨正常。顎関節と頬骨弓は滑で、鼻骨を捧げている。外後頭部は平滑。(2)咽頭隆起、正常。(3)僧帽筋逞し。(4)頚部小鎖骨上窩、正常。(5)頚窩浅い。(6)大胸筋発達、錐緩部なく緊張。(7)
乳房、胸壁の位置中央寄、附根の円周、尺六寸。乳輪中央部円周尺一寸。附根より乳頭までの長さ四寸二分。形は円堕状。老化の兆さらになく、処女型の隆起である。受胎中は、やや下垂気味であったが、月経閉止後緊縮した。(8)肋骨弓、乳房下から、胸部と腹部の区分線である肋骨弓の底辺が急に緊って、骨盤上に直立して、外側大腿骨の大きな広がりが、上半身と下半身の区分を明確な横線で作っている。(9)腋窩以下、脇腹から前面にかけての筋肉は、大胸筋の緊張につづいて緊張している。

(10)臍は、凹型で、臍部は丘陵を作って、その頂上に達したところで、臍穴になっているが、その裾線はかすかに辷って、また恥丘に上っている。(11)上腕二頭筋も三頭筋も逞しく、五指を握らせ腕を曲げると、ニ頭筋に丘陵がふくれる。(12)掌
は大きく、尺骨頭が著しく骨高である。五指は長く爪は肉色で健康。

 下部所見‥‥腹部と大腿骨を区分する大腿骨と恥丘の間に生じた鼠径溝は深い谷を作っている。(2)大腿部から下肢、下腿部の線は、みごとに垂直で撫細線で、膝蓋骨と脛骨の連合が、一骨垂直のごとく、垂直に結節している。膝蓋骨の横展が狭い。
従って、筋肉の垂直線に彎曲がなく綺麗な脚線である。(3)足底は足根骨が著しく表面に盛上がり、甲高で、足円蓋が弓状に盛り。(ツチフマズが高い)(4)恥骨結合点、陰毛が、恥丘全体に冠さっているので、恥骨線は明確に所見できない。陰毛は、
臍下から一条が下り、恥骨一帯で広域に亘り、横は鼠径溝に達し、前部は陰阜から前陰唇連合から左右に下って、両側の大陰唇の大部分まで生えさがり、膣前庭下に及んでいる。長い太筋毛であるが、交接摩擦のため、著しく縮れて、陰挺包皮もかくれず大陰部の中より突出している。背部‥‥(1)背柱、第一腰椎から上に向かって、尖椎に至る間が、前面胸部い向かって弓状に深く彎曲している。(2)腸骨稜から尻までは、著しく後方に突出して豊満。

 トリカブトを採って焼石で黒焼きにし、ひとつまみずつ服用するのは、せいぜい月に一度ぐらいのもので、決して常用はしていないが、一歳年上の妻は連夜にても所望するが、八十九歳の夫としてはセブリの移動に労力を要するゆえ、八十歳になってからは月に五回と、七十歳代の十回を半減。もちろん六十代までは連日連夜にわたって妻の要求に応じていたものだとの証言である。
 この調査時の昭和二十四年の頃は、まだ玉ノ井や吉原みたいな所が各地にあった。
一般の夫婦は婚後七年から十年で夫婦生活は倦きがくるのか一応は中断され、夫は遊びに行って金をとられて戻ってきて、家でなら無料だと又始めるか、それとも遊びに行く事が刺激となって、月に一回ぐらいは旧へ戻ったものである。
 私が新興芸術派としてならした、愛知一中の先輩の久野豊彦の許に最初に身を寄せた時も、奥さんから突然だしぬけに愚痴られたのも、「うちのは、もう八年も、まるっきり見向きもしないで喰って寝るだけですよ」
とベソをかいて訴えられ、その晩、久野先生が戻ってこなかったら、夜中に奥さんがそっと入ってきて、何用だったか不明だが、こっちはギャアッと悲鳴をあげた思い出がある。

 故S先生も愛知一中の先輩で、居候にいったら、やはり夫人が七年も放っておかれていると愚痴をこぼされ、「お小遣いをあげましょう」と一円札を、蒲団をしいてくれてから差し出されたのに仰天。たしか五日たらずで退散してきた覚えがある。
 尾崎秀樹先生を通して、亡くなる前の未亡人が私に逢いたがっているから伺うように、とすすめられたが、黙殺して行かずじまいで未亡人は亡くなられた。尾崎秀樹先生は、「若い時に厄介になりながら、薄情な不人情なやつだ」と、さぞ肚にすえかねていられるだろうが、まさか本当の事は今もって言えずじまいの侭である。といって、作家の奥さんだけが欲求不満だったわけではなく、今のように赤線がなく、抱けるのは古女房しかいない時代でなければ、同じ相手では倦きがきて、なまぐ
さい仲から人情深い思いやりの肉親みたいな夫婦に変っていくのが普通である。
 ところが、サンカの社会では、九十歳になっても夫婦生活が月に五回もあるというのが、当時の世人を愕かせて、サンカとは[常人とは]別種のものとなした。
 つまり日本人離れしていて、彼らが別個の種族であるとする証明に、このセブリの連日連夜の性交が大きくとりあげられ、誰もが自分と比べてみて違う民族らしいと決めつけてしまった。しかし、この調査表には性交回数は詳しく書いてあるが、肝腎な体位が書かれていない。
 かつて玉ノ井などでは、ふつうでは直立不能な年輩の客を専門にするプロがいたもので、「ちょっと御隠居さん、よってらっしゃいよ」
と、しきりに呼び込みをしていたものだ。
 つまり直立しにくくなったものでも、上から鞘をかぶせるようにして、絞めたり擦れば、条件反射でマイハートの生れ故郷の膣内では、蘇るように硬直しかけ、うなだれ半分でも射精はする。なのに普通の正常位と思うからして、九十歳になっても行為
ができるのを不思議がるが、セブリでは女が跨っていくのだから同じで、いくらでも
かぶさっていき、絞めつければ可能。
 なにしろ男は起立しなければ用はたてそうもないし、その気にもなれないけれど、女は、「ひろげよ、されば、かぶせれば、覆うが如くに男を包みこめん」なのである。それにである。
よく俺のものは素晴らしいとか、真珠をはめこんだりして女を歓ばせようとする男がいる。だが女の生理はオナニーみたいに他動的に誘発されはしても、本当の満足は生理日の排卵期を周期にして自分で燃え、そして満足するもので、ちゃんとした真珠
の首飾りでも贈物のされるなら別だが、入れて抜いて戻してしまうのでは本当のところは嬉しくもない。
 つまり、とやかく言ってもテクニックで満足させられると思うのは男の側で、女は地球の自転みたいに一人で燃えたぎり、勝手に声をあげて自己満足をするだけの話で、それゆえナルシズムそのもの。
 レズビアンで大いに満足するのもこの為で、インドのシャクテイ信仰は、「女人にとって男は単なる道具でしかない」と、陽物に似た石や木型を奉納する。つまり男にインポはあっても女は九十歳になろうが百歳になろうが、生理中でも止まった後でも、その機能は女体みな共通。
 だから厭だと思う男でも、行為の途中から自分の方が自転作用を起こしてしまうから、アメリカのレイプ事件など起訴されても、有罪判決になるのは先天的不感症の女性に限るようであるから、百件で一件しか陪審で有罪判決が出ぬというのも、その理由によるものとされている。つまりサンカ社会のような、女人の方が男の上に押しかぶさっていく女上位では、男性側の射精は問題ではなく、女体の満足だけで夫婦生活とするから、連日連夜とか何十歳までというのは通常行為、つまり正常位をもって律すれば、大和民族にしては異常すぎて別個の他民族ならんとしてしまうような三角寛説にもなるのだが、正常位ではなく男はただ何と言うか、女性満足への補給道具であるとみれば、これはとんでもない話で、別に拡大解釈する必要はない。
 かつて軍の慰安婦は、仰向けになったまま握り飯を喰いつつ、一日に八十人から九十人の兵士の処理にあたったというし、私も奉天の北春日小学校だった難民収容所で北満から辿りつくまでに、千人以上のロスキーに犯されてきたオバサン達に実際に何人も逢って話をきいている。しかし、彼女達は囚人部隊に犯され通してきたので、肉体のその部分が擦れて痛いと軟膏を塗っていたぐらいだが、梅毒で次々と死んでいった。
 が、サンカ社会は、男は掟として、他の女には触れてはならぬ定めとなっているゆえ、江藤医学博士の検査報告でも性病は皆なしとある。
 さて、従順な奴隷となりきった庶民は、その先祖の女が進駐軍に種つけされた子孫のせいらしいが、脱走して反権力反体制の民として生き抜いた純日本人である妻帯というか、夫帯をしていたサンカの女たちは、万国無比の好色人種となる。
 つまり海外旅行へ行き、イタリアどころかサイパンのガラパンあたりの島民の男でさえ、「いいわ、お金なんか」と無償で寝てくるのも、なにも純情で好色だというのではなく、満足を自分らがしたいからして、タダでもよいのでもある。だから私なん
かは、ずっと単身で、そうした苦労はせずにすんで仕事ができているらしい。
 さて、話は戻るが、契丹軍が大軍を催して来寇してこぬとみると、火山灰をはねのけ緑の耕地とした坂東八ヶ国や紀の川の上流の住民を、藤の者はでっちあげの「天慶の乱」で賊とし、「賎の民」として、大陸系なのに東北へ追い込んだ際に、「奴隷にされて堪るものか」と山中奥深く逃げ込んだ者らも相当にいた。
 なにも、攻めに来たのではなく、助けを求めに逃げ込んだのであるから、サンカの国一(ハジメ)も拒むわけにはゆかず、セブリの中に入れて加える事を仕方なく認めた。
 さて、三百年も昔から俗世間からは遠のき、あくまでも反体制反権力だけで山から海へと、逃げ廻っていた連中にとって、突然に仲間にと救いを求めて飛び込んできた連中は、文化人の大集団で、日本では官兵しか持っていない鉄の剣さえ持ってきていた。よって、四つに折って柄をつけた。契丹の古紋である梅鉢の紋所に模して、焼け火箸で五つの焼印の柄をみな入れた。
 それまで石では尖らせても重いので、大きな貝殻を見つけてきて砥ぎ、貝刃をもって唯一の武器にしていたサンカ社会では、鋭利なこの武器が各テンジンごとに配られると、貝刃の代りに「ウメ貝」と名づけられた。そして彼らから算数や文字の読み方も、ついでに教えられた。
 こうなると、彼らは国一の参謀みたいな立場となって、サンカ社会も文化的にと変った。つまり国一は、これまでのしきたり通りに各国別の仕置きをするが、各テンジンの指揮は、次々と逃げ込んできたザボ(新加入者)たちが司るようになり、各地との連絡も緊密にした。
つまり、それまでは、女を連れて子供とセブリをはっていても、あまり勢力もなく、戦うには鉄武器に対して貝刀しかなく、逃げ廻っていた日本版ジプシーが、この十一世紀からは新しい血液と最新文化を移入して変ったのである。
 サンカの頭数や五セブリで一テンジンとする組織も、やがて倍加するような勢いとなって、藤原氏を倒す時機の到来を待つようになった。
 そして、各地へ天神を秘かに祀らせ、各地でトケコミをさせ、やがて江戸時代になると、湯島天神から、その飛び地の根津権現を隠れ蓑みたいにし、町人別に入った連中とツナガリを保ちつ、青竹売り、鋳かけ屋、煙管の羅宇屋となってサンカの勢力を伸ばしていったのである。









日本奴隷史の考察 奴長とは 奴隷求籍帳とは大宝律令は中国製

2019-10-29 18:43:07 | 新日本意外史 古代から現代まで
日本奴隷史の考察
奴長とは
奴隷求籍帳とは


学校歴史では、日本に奴隷は居なかった事になっている。
だが奴隷は厳然として存在していたのである。
アメリカと違って、黒人をアフリカ大陸から狩り集めてきて奴隷にしたのと違い、
日本先住民が一握りの、大陸(中国)や朝鮮(百済)勢力に奴隷にされていたという違いはある。
昔は奴隷とは言わず「奴(ど)」とか「奴(やっこ)」と呼んでいたので、現在でも「ヤッコさんは辛いね」と、
江戸端唄として残っているぐらいのものである。また、豆腐を賽の目に切ったものを「冷ややっこ」というのも、
悲しい我ら祖先の状況を表したものなのである。この奴隷の存在を日本で初めて書物にしたのは阿部弘蔵の「日本奴隷史辞典」が嚆矢である。
百田尚樹著「日本国紀」は、明治以後の近現代史には見るべきものがあるが、古代に関しては全く評価できない。何故なら、
 「日本には奴隷がいなかったと」間違った考察をしているからである。好漢百田のためにここで指摘しておく。
大宝律令は中国製
さて、701年に制定された<大宝律令>では、庶民を、、、家人、、の5種類に分類している。
つまり人間を選別して、区別したのである。勿論こんななことは、日本原住民がするはずはない。
日本では様々な種類の先住民、原住民はさして争いもなく、平和に住み分けて生活していた。
そこに、高度な文明、即ち仏教と漢字、鉄製の優れた武器によって中国大陸から進駐してきて、中国の制度を其の儘踏襲し、律令国家としたものなのである。
そして原住民の内でも、抵抗したり逃散した者も多くいたが、いち早く編戸の民となって恭順し、
おかみから稲束を渡され耕作し、米を供出している者は良民とされた。
「けにん」と呼ぶのは、と認められて者の兄弟や親類で、同じく官から渡された稲を耕作している者たちをいう。
 とは、おかみから払い下げられた原住民捕虜の男女を、が監理して働かせていた者らである。
は、が自分で購人した私有の日本原住系の子孫で、その売買や他への譲渡、質入れも自由だった。
そして、一緒に収容しては勝手に性交するので、牛や豚のように、男女別々に収容し、子取りといって、
よく働く男女だけは交配させて子を作らせた。この制度は、人開としての扱いではないので、西暦901年から延喜22年(922)には法的に廃止された。
しかし実際は北条政子が文治革命を起こし彼らを助ける12世紀末までは、まだは牛馬なみの扱いだったのである。
それゆえ江戸時代になっても、一般庶民の問で北条政子を救いの女神として、弁天様信仰として崇めていたのである。
また政子が立案して北条時代に発布されたもので、建前上は頼朝の名前で出された「頼朝御判二十八ケ条」がある。
これは、原注民系に対し、日本の山野に元からある物はすべて彼らの領分なりと決め、彼らの限定職としたのである。
そのお陰でかってのも、どうにか生計の途がたてられ男女が共に暮らせるようになったから、源頼朝は現代に到るも人気がある。
   奴長
〈東大寺要録〉の天平勝宝元年(749)9月20日民部省の通達にて、
翌2年2月22日に聖武帝と光明皇后が束大寺へ行幸された折、200人のが寄進された時の筆頭人のことである。
それには「奴長伊万呂年四十八」と書かれてあるのが初見。
つまり捕えられた時から原住民のであつたらしい。
「良臣の具になるような手先の器用な者を選んで、将来寺普請の時の工人になるように仕込ませ、
文芸歌舞や音曲にむくような女は、供仏大会の儀式にそなえて練習をさせ、接待係となす。
こうしてこれは、として寄進された寺の子々孫々に到るまで継ぎ継がせてゆく職業ゆえ台帳に記す」とある。
つまり後の寺人別帳は8世紀の昔から始まったもので、寺は私有財産ゆえ、誰と誰を一緒にさせたら何という子が生まれたと、
 明治になるまで克明に記入していたので、これは仏の慈悲による戸籍簿ではないのである。
  奴隷求籍帳
この帳面には「重役の」と頭書きされているのは、豪いというのではなくて、寺の田畑を耕作使役する他に、
今いうガードマン役も兼任させた身体強健な寺奴隷の謂である。
寺役の田畑働きの他に、僧が諸会に行く時には供奉もする。朝は早くから寺領の見張りに精をだし、
夕方も田畑仕事より戻れば、暗くなるまで大仏や宝蔵の番をし盗難火難の防災に責任をもつ者の重ね役帖の事。
その子孫が「奈良坂の法師ばら」と後に呼ばれる東大寺の僧兵になるのだが、一般の寺では普段は野良仕事をなし、今のように時刻を知らせる為ではなく、
非仏教の原住民が寺を襲う際、警戒警報に門近くにあった釣鐘が乱打され、
急を知らせるのをきくと、近隣の百姓が、スキやクワをもって駆け集り、襲ってきた反仏派の連中と戦って寺の防人となって、
奴隷ゆえ命惜まず必死にあくまでも戦った武闘兼務のもの者どもである。
江戸期になっても旗本神祇組とよぶ反仏派が各寺を襲うので、各寺領の中から強いのを選んで寺男にしたのが、
芝居で有名になった寺奴の幡随院長兵衛らで、ガードの人手がいるゆえ『口入れ屋』とよぶ私設職安を設けて、
 江戸初期には派手に闘争しあったのが、明治になると男伊達とか町奴とも間違われてしまうのである。
読んでお分かりのように、今日、日本人の八割以上が「庶民」と呼ばれ、奴隷の末裔なのである。
日本人の習性として、己の先祖を美化したがる傾向がある。だから「昔は武士だった」と自慢する人も多い。
そして怪しげな系図屋に大金を払って先祖の系図を作ってもらって嬉しがり自己満足している。
しかし、この日本列島に綿々と続いた差別と弾圧に耐え抜き、子孫を増やしたのは紛れもなく奴隷なのである。
そして荒れ地を開墾し、様々なものを作り、豊かで素晴らしい文化を発展させたのも我らのご先祖様奴隷なのである。
明治からは、工業立国として繁栄し、世界を相手に戦い敗戦したが、昭和史を見れば解る通り、世界第二の経済大国にのし上がったのも奴隷(庶民)の労働力だった。
だから先祖が奴隷だろうが武士だろうが、卑下することも、自慢することもない。
会社の社長が次々と交代するように、天皇は変わったが、日本株式会社は連綿と続いてきた。
 令和の御代になり、悠久の二千年を生き抜いてきた我ら庶民は大いに誇りを持つべきだと思う。
幡随院長兵衛と旗本神祇組の争いについては以下を読んでいただきたい。
旗本奴と町奴の、華やかな男伊達の争いと美化したものもあるが、実像は仏教と神の根深い闘争なのである。
 「幡随院長兵衛は男でござる」
「幡随院長兵衛は男でござる」と水野十郎左衛門の向けてくる槍先を、何もいわずに、「さあ、ここをどんとお突きなせえやし」
すっ裸の胸を叩いてニッコリ笑うのは、お芝居や講談だが、今では悪役なみの、「水野十郎左衛門」に話をもってゆくことにする。
いまの歴史家は、まこと単純なもので、
「ブルジョワジーの興隆に伴う町人階級の利益保護のために、長兵衛ら町奴はうまれ、特権階級の旗本奴と対立した」と説く。
しかし徳川時代といっても、ざっと三世紀はある。
まだ戦国の匂いのぬけていない明暦年間と、幕末に近い文化文政の頃とでは違う。
この水野十郎左衛門の祖父というのが、高柳光寿博士の文中にでてくる水野藤十郎勝成なのである。
そして、この勝成というのは、三河苅屋城主だった水野勝元の弟忠重の倅だが、関ヶ原合戦の起きる前に家康から召されて、
「汝、光秀にあやかれよ」明智光秀遺愛の槍を貰うと、「はあッ、光秀のごとく頑張ります」と、それからは奮戦し、元和元年大阪夏の陣で
は、「天下の豪傑岩見重太郎」こと薄田隼人。
大坂一の暴れん坊の、後藤又兵衛基次。
この二人を、光秀遺愛の槍をもって仕止め、「誠忠無比」「剛快無双」と謳われ、「備後福山十万石」の大名に昇任した人物である。
 さて、幕末の有名な詩人菅茶山には、『福山志料』の著があるが、その中に、
「備後福山の西北に本庄村、東に三吉村、そしてその先の深津村は橋のない川が流れて、住民を<三八>とよんでいる」とある。
 これは水野勝成が福山の領主になった時、三河苅屋の八を伴ってゆき、彼らを直属の秘密警察として、新しく貰った土地の監察をさせたから、それで(三河から伴ってきた八)が鈍って、いわゆる「嘘の三八」とか「嘘っぱち」とよばれる者になったのである。
 さて現代では、橋のない川はとかく問題になっているが、徳川初期はどうだったかというと、この福山では殿様の警察組織ゆえ、
「三八は常に大小の二刀をさし、歩く時は槍を先に立て通行した。この三八の者らは牢番警吏拷問を仕事とした。また処刑も彼らの一存で一方的に取り決め、初めは深津村専故寺前で斬罪にしたり、その首をさらし物にしたが、のちに榎峠に移された」とある。
   首切りの謎
なぜ、こんなに絶えず首斬りをしたのかというと、これは需要があってヨロクがあった故、必要以上に死罪にして殺していたものらしい。と云うのは‥‥化学薬品のなかった頃は人間の内臓が特効薬で、肺病には生血、レプラには尻の肉。心臓病にはハツ、肝臓病にはタンを食すれば薬効ありとされていた。
ところが今も昔も病人は多く需要も多い。
が、冷凍設備がなくて死人のストックもきかない時代ゆえ、注文が溜まってくると、それっと、「御用ッ」「御用ッ」と三八衆は出動し、適当に誰か召捕ってきて、ゴウモンも公然の仕事だから、「生血を入れる竹筒を用意しておけ」「レバーを包むイモの葉っぱを揃えろ」
とセットしておいてから、バッサリ殺してしまい、
「お待ち遠うであった」と配達したらしい。つまり、このために専故寺もそうだが、彼らの薬師系の寺は、備後以外でも「医王山」とか「医王仏」などという。
 しかし、現在吾々の口にするビーフステーキが、さくらステーキであるように、そうそう人間は殺せないからイミテーションに牛馬を代用にした。 そのため皮はぎもしたが、竹細工でお茶の茶筅作りも利休時代からしていたので、「茶せん」「おんぼう」の別名もある。
 何故この人達が、やがて明治大正となり橋のない川、つまり差別の対象になったかというと、五代将軍綱吉の頃の弾圧からになる。そして明治になって警察制度が代わって、かつての警察権がなくなったため、「おのれ、よくも今まで好き勝手しやがったな」と他の住民に報復され落ちぶれたせいである。
さらに、有名な「人斬り長兵衛」とよぶ八部の親方がいて天保から安政にかけて此方の淵でズラリと並べてはバッタバッタと斬ってのけ、「富士の妙薬」といわれた生血は竹筒一節一分銀二匁で売った。
脳味噌は生薬として梅毒の特効薬で銀五匁。心臓や肝臓はラウガイといわれた肺病用銀三匁で斬刑の時は奪い合いで薬屋が求めにきた。需要の多さに何でも死罪にし怖れられていたという事実もある。

     江戸城で何故に白衣を着たのか
 水野十郎左衛門の話が、その祖父の勝成にさかのぼり、備後福山の三八にまで、脱線して展開してしまったが、私がいいたかったのは、「旗本白柄組」の時代というのは、八の連中が戦国時代の名残りで、まだ肩で風をきり、槍をたてて威張っていた頃だという事である。
 そして、彼のグループの久世三四郎、加賀爪甚十郎といった連中も、みな三河横須賀まむし塚出身の別所者で俗にいう、「白須賀衆」の旗本の面々だったのである。
 さて彼らが刀の柄に白糸の編んだのや、白革を目につくように冠せ、自分らから、「白柄組」と名のったというのは、そうする事が、あの時代では恰好良いことであり、女にもてたからだったのではなかろうか。といって、看護婦さんは白衣をきているから、天使のように素晴らしい、などという少女的な発想とも、これは違うのである。かつて東京に都電が四方八方に動いていた頃。
夏ともなると(都の催し)という掲示が車内に出たものだが、上野公園の納涼大会に並んで、そこに書かれた文字で、
「八朔」というのが見られた。
これは八月一日の当日限り、昔の江戸城では将軍から茶坊主に至るまで白衣をき、吉原の女郎衆も白一色になる行事である。といって、
(お女郎衆は博愛を衆に及ぼしているから)と、ナイチンゲールにあやかって、白衣をというわけではない。彼女を有名にさせたクリミヤ戦争は、1856年つまり幕末安政三年だが、江戸のお女郎衆は家康入部の頃から、八月一日は揃って白衣をきていた。
 ところが八月一日という時候がら、
(現代でも、その前には学校や官公庁の制服も、衣替えになるからなあ)
と間違えやすいが、陰暦の八月一日は秋風のたつ九月である。何も防暑のため白をきたわけではない。
 これは家康の臣内藤清成が書いたという、『天正日記』によると、
「天正十八年(1590)八月一日に、小田原城攻めが終り、秀吉から国替えを命ぜられた徳川家康が、白衣を羽織って江戸入りした」
旨の記載がある。つまり八月一日は、「江戸開都祭」といった意味での、「八朔の祝い」で、諸大名や旗本もみな白上下をきて、揃って江戸城へ式日として伺候したのである。さて、では何故、「白衣をきて家康の一行は入ってきたか」ということになるが、内藤清成は、その日記の八月七日の条に、
「とうこういん(東光院)へ参拝」と明記。八月十三日のところには、
「家康公の御乗馬花咲が病気になって倒れたので、豊島鳥越郷の江田[]をよびて渡す。彼らは源頼朝公以来の江田一族だと申しでた」とある。これは「東鑑」に江田小次郎。「平気物語」に江田源三、「源平盛衰記」に江田弘基、「太平記」には、江田源八、とあるように、いわゆる源氏の主流をなす者が名のった姓で、彼らは北条氏に追われて山間僻地へ逃げ込んだが、足利時代には、「白旗党余類」といった蔑称をうけ、その信仰も、かつては白山や土俗八幡や荒神を信心していたが、やがてこれが、「東光」とよぶ、東方瑠璃光如来の薬師派になって団結していった。つまり、
「西方極楽浄土を説く仏教徒」が墨染の衣、つまり黒を身につけるのに対し、彼らは、「白衣をもって対抗していた」という歴史的事実がある。そして源頼朝が、総追捕使の官をうけた時点に於て、各地の江田一族の白旗党に、末端の警察権をもたせたので、それが慣習となって、彼らがお上御用の逮捕権をもったり、断罪権を明治五年まで握っていたのである。
「弾正」とか「弾正台」というのは唐の官名の輸入だが、「弾左衛門」というのは、幕末までは漢字は発音記号と同じで当て字が当たり前だったから、「断罪衛門」のことではなかったかとも考えられる。また、「松永弾正」とか「仁木弾正」といった名があるが、これは「井伊掃部頭」といった類と同じで、白旗党余類にのみ与えられた侮蔑的官名で、信長の父の織田信秀も、八田別所の出自ゆえそうした名乗りを貰っている。
つまり水野勝成が、三河の八を伴っていって、「警官兼検事、そして獄吏」に用いたのも、なにも特殊なことではなく、当時は日本全国どこへ行っても、番太郎、下引き、目明かし、牢役人は彼らだったのである。だからして江戸期も中頃になると、重なる怨みに民衆は、「源氏」という呼称を、きわめて悪意的につかった。例えば、ならず者のことを、「源氏屋」と蔑んだり、いかがわしい女の屯する青線を、「源氏店」とよんだ。
 
しかし芝居もとよばれる彼らの分派集団だったゆえ、現在の人形町と堀留の中間にあった岡場所などは、
「しがねえ恋の情けが仇」の芝居をする時には、わざと、玄冶店(げんやだな)と文字づらを変えて上演していた。
 もちろん俗説の「清和源氏」などというのも、系図屋さんや筆耕者の江戸時代の作りごとで、清和帝が土着の原住民に係りなどあろうはずはなく、これが全然無関係の虚妄にすぎなかったことは、今なき高柳光寿先生の努力によっても解明されている。
    寺側のガードマンが幡随院の長兵衛
 さて、旗本奴として反仏的な水野勝成の五男の跡目の十郎左衛門などが、「吾々は白系だぞ」とエリートづらをして、のし歩くのに反感をもったのは、お布施を、「なんまいだ、なんまいだ」と数えて、坊主丸儲けを豪語していた寺ということになる。
「けったくそ悪い、仏罰をあてたろまいか」となったらしい。昔なら、僧兵でもくり出す所だろうが、時代も江戸期となると、そうもゆかず各寺の寺男から腕っ節の強いのが選抜された。
 ところが、ばらばらに寄せ集めたのでは、とても喧嘩にならない。そこで幡随院の住職良碩上人という坊主が、スカウトしてきたのが常平とよぶ者だった。
これに今でいえばジムを境内に作らせて、トレーニングさせてから、「幡随院の長兵衛」という寺の名をPRするような名をつけた。すると各寺から、「この小僧は頭がよぉないで、お経はなかなか覚えぬが腕っ節は強い」とか、「うちの境内で悪いことをした奴だが、強そうだから牢へ入れるよりは」といった連中を次々と、幡随院のジムへ送りこんできた。そこでこれらを順番に訓練して、「唐犬権兵衛」「小仏小兵衛」などと名づけ、とりあえず四回戦ボーイに仕立てると、
浄土宗だけでなく日蓮宗の寺からも、「法華の平兵衛」以下が送り込まれてきた。
また、浄土真宗でも、これとて、「念仏佐平次」といった連中を育てて送りこんできた。だから今でいう三派全共闘ということになった。そして各宗派をうって一丸となしたこの全仏教連合は、その総合名を、「黒手組」と、白柄組に対する名称にした。
後年は講釈師がこれを間違えて、
(花川戸助六を黒手組としてしまった)が、実際はこの時の連合団体の総称であるのが正しい。
もちろん、これだけに人数が増えてしまうと、寺でも布施やサイ銭だけでは賄ってゆけない。そこで「割元」とよぶ、男の派出野郎会を始めた。といって、この時代のことゆえ料理や炊事に廻すのではなく、武家屋敷へ供揃いの類の人手不足の折に出すのである。
さて、こうなると旗本白柄組のところへも注文があれば、人手をさしむけるようになる。
そこで双方が衝突となると、町奴とよばれる長兵衛方が向こうの内情を知っているだけに、なにかと好都合でゲリラ活動をする。
溜りかねた十郎左衛門が、向こうのボスの長兵衛と、(白昼の対決)をすることとなった。
ところがこれが無法な西部の荒くれ男なら、互いに路上に現れて、早射ちで相手を倒しあうのだが、まだアメリカなどという国は出来る前で、それに既に当時の日本は法治国である。
武士社会では「鯉口三寸(十センチ)抜いたら御家は断絶、その身は死罪」という治安維持法が千代田城の松の廊下だけでなく、広く一般にあった。
いまも警官はみな拳銃を持っているが、だからといってアメリカなみに、人をみたら泥棒と思えとやたらに撃たない。いや撃てないのと同じことで、武士が刀をさして
いるからといってテレビのチャンバラみたいに、抜かなくては損みたいに振舞わすということはなかったのが当時の実情だった。
それに武士の刀は公刀ゆえ、抜刀するには、やむを得ざる理由がある場合か、扶持を貰っている主君の許可がいることになっていた。
だから、果し合いは人目につかぬ室内となった。
この時、講談では長兵衛が風呂へ入っているところへ、卑怯にも水野十郎左が、「許せッ」と袴のももだちをとって押しこみ槍をつきつけ、裸の彼をブスリとやった
ことになっている。
   江戸時代に現代風の風呂はなかった
しかし、そういう事はなかったろう。第一あの時代にあんな当今みたいな体ごと入る風呂などははあり得ない。
 幕末まで、風呂というのは今のサウナみたいなもので、湯気で身体を温める式のものである。桶に水を入れてわかすのは、江戸中期でも五右衛門風呂といって関西独特のものだった。十返舎一九も弥次喜多が初めての経験のため浮板をとり、下駄ばきのまま入って釜をこわすように話を書いている。
 炊き口から火を燃やし積んだ石を熱して湯気をだすのは容易だが、ボイラーのない時代ゆえ、浴槽を作って中へ入るには、大きな釜を作るしかないが、それが技術的にも一人用の五右衛門風呂の釜くらいが精一杯で、何人もが浸れる大きな鉄函は当時の鍛工では出来なかった。
では身体ごと浸る風呂はいつからかというと、これは幕末の産物であって、初めは街道の茶店の葭簀の蔭に溜めた天水を入れた桶をおき、太陽熱で温かくなったのに、汗まみれの旅人が銭を払って汗流しに入ったものなのである。
 江戸では、川へ入っての水浴しかしたことのない薩摩人が幕末に増えてきてから、「水風呂」の名称でこれまでの蒸し風呂と区別して三田ッ原に出来たのが最初で、西部劇のバスなみに、ぬるくなると三助が熱湯をそそいでいたが、それでも、「水風呂で風邪をひいたとくしゃみをし」と物珍しさで入湯にいった江戸っ子の川柳があるくらいである。
つまり、こうした全身入浴の風呂なら生まれた侭の姿で入るが、ふつうの浴室はサウナゆえ、男は下帯、女も湯巻をまいて入り、その部分は目に入らぬから、
「男女混浴」も日本では自然だったのである。
 つまり長兵衛が湯船からザブンとでてきて、ぐっと胸を張って殺される場面は、恰好はよいが、あれは絵空事にすぎない。
『福山水野家記』によると、
「成之(十郎左衛門)三千石にて分家お旗本として召されしが、徒党をくみ競いあう。明暦丁酉暴徒(長兵衛)不敵にも忍びこみ襲う。発覚して浴間へ這いこむ。柘榴(ざくろ)口は狭少なるを以って入れず、成之の家臣これを仕付槍にて刺す。しかれど、その槍が権現さま拝領のものゆえ、その時はお構いなかりしがその後も乱妨やまず七年後に蜂須賀家へ預けられ、家事不取締に問われ死罪仰せつけられ、成之の家系はこれにて絶ゆ」とある。
福山十万石は十郎左衛門の里方ゆえ身びいきもあるだろうが、三千石の直参旗本が、割元風情の男を自邸に招待するというのもおかしい。
やはり実際は秘かに邸内へ忍びこみ、見つかって這って潜れる柘榴口から隠れ、これを十郎左の家来が突き殺したのが本当かも知れぬ。となると、これまでの芝居はまるっきりの出鱈目、フィクションということになる。
しかし双方共に、別に男を売るといった事より、ありては白の神信心と、それに対抗する黒の仏徒側の宗教争いゆえ、それくらいが落ちかも知れない。
 が、今でもテレビドラマをみて実存と思い込む人がいるように、日露戦争後から大正にかけてのデモクラシー時代に生まれた(町人の味方の侠客長兵衛)というイメージにとりつかれ、十郎左を悪玉扱いする向きもあるが、それではせっかく明智光秀の槍を貰ったその祖父の水野藤十郎勝成にすまないようなもので、「男でござる」と客観的にいいきれるのは、作りものということになるのであろうか。カッコがよいのやらもっともらしいのは信用できかねる。
   忠臣蔵の裏話
 忠臣蔵で一般的によく知られているところの、
「ないないのマイナイ(贈賄)を江戸勤め家老がしなかったばっかりに、吉良上野を憤らせてしまい、殿中で恥をかかされた浅野内匠頭が上野に斬りつけた」という話がある。
このために浅野家は取りつぶしにあって、家老大石内蔵介以下が、翌年十二月に、本所松坂町の吉良邸へ討入りテロを敢行。これが、「忠臣蔵」だが、討入りがよく知られている割には、その発端はあまり知られていない。
だが、定説みたいな通説はまかり通っている。幕末の嘉永年間に岩城平藩士鍋田昌山が資料を集めたという「赤穂義人纂書」を定本にしていて、明治四十三年に上下二巻で刊行された国書刊行会のものにも、佐藤直方門下の書いたという、「浅野吉良喧嘩にあらざる論」があるが、「吉良が浅野に対してつらぐせして浅野に腹を立てさせたるは、浅野が吝で金をやらぬ故なり」とでていて、ケチを理由にしているし、
太宰春台のものでは、
「相役の伊達右京充の家臣は吉良上野に多額の金帛を贈る。よって吉良は殿中にて伊達を賞める。赤穂候浅野内匠頭はこれをきき逆上して吉良をきる」となっている。
だからして収賄事件が発端のように伝わっているが、昭和六年に雄山閣から出た二巻の、「赤穂義士史料」に入っている。
また「関白近衛日記」では、
「口論に及び、しこうして浅野は吉良に一刀を討つという、珍事珍事」とあり、
「東園基量卿記」では原因を、
「浅野内匠頭乱心の由、沙汰あり」とする。
まあ突然発狂したというのであれば、極めて事の起こりは簡単だが、太宰説では、(浅野内匠頭の家臣も伊達の家臣同様に吉良上野介に、多額の金を贈っておいたのに、片手落ちに伊達の方だけを賞めたから、それは不公平ではないかと、斬りつけた)ことになっていて、これでは吝ということにはならなくなる。
だからして、どうも、これまでの通説がおかしいのではないかと疑いたくなる。
というのは今でこそ相手に手土産や金を贈るのは、帰り間際か用談中に差し出すのだが、昔は違った。
先に入口の式台にまず並べてから、「頼もう」といったものである。すると、「どうれ」と受付がでてきて用向きをきき、
持ってきた金品と比べてみて、秤にかけ、至当と思えば、その進物を式台の上でコツン、ガタンと音させた。
そこで取次衆とか申次という役目の者が、「いまの音なら、これは合格であるな」と判断し、表書院へ通す仕度をさせた。だから、こういったものを、江戸時代まで
「音物(いんもつ)」といい、物も届けてこねば便りもないのを「音信不通」ともいう。
 そして入口の式台から転じて昔は、
「色代(しきだい)」というのが挨拶のことで、(これでは少ない)といわれ音物を増すのを、「色をつける」とも称しこれは今でも用いられている。
足利十五代将軍の義昭などは信長に追われて、和歌山の由良や備後の鞆にいた頃は、面会というか拝謁にくる者から、参観料みたいに銭五疋から十疋。一疋は十文だから当今の五千円から一万円の色代をとって、それを生活費にあてていた記録が、同地静観寺には残っている。つまり色代には相場があった。
だから浅野家江戸屋敷詰めの者が、吉良邸へ挨拶にゆくのには、それ相応の相場に叶った金品は先に持って行っているはずである。
でなければ玄関払いされて受付けてもらえないからである。また浅野家は、その数年前に、やはり接待役を仰せつかってコーチを頼みにいっているから、これを前例として、「吉良邸へは何程の色代を持参するか」は前もってよく知っていたはずである。
 間違っても浅野家の江戸家老が、「ケチをしまよう。ド吝にしよう」と持ってゆく物を惜しんで、手ぶらで挨拶に行ったとは考えられない。だいいちそれでは面会謝絶である。
それに各藩とも江戸勤めの家老というのは、「御留守居役」とも称され、現在でいえば外交官の仕事で、普段でも老中や役向きを接待して一席もうけたり、それぞれに付け届けするのが彼らの仕事だったから、それが、「江戸家老がケチしたばかりに、吉良上野にいびられ、殿が我慢しかねて抜刀した」というのでは辻つまが合わなさすぎる。
つまりこれは一般に判りやすいようにというか、収賄したくとも出来ぬ民衆の為に、(贈賄ばかり取っている人間の末路は哀れなもので、炭俵のつんである小屋へ逃げこんで真っ黒になっても、白い雪のところ引っ張り出されて殺されてしまうのだ。おう貧しき者こそ幸いなるかな。そは収賄ができねばなり)
といった説話的構成になっているのか、はたまた勧善懲悪でかと、どうも首を傾げたくなる。
この忠臣蔵の本当の訳は別にあって、真相は以下に書いてあるので是非読んで頂きたい。
https://blogs.yahoo.co.jp/jaotex555/MYBLOG/yblog.html?m=l&sv=%C3%E9%BF%C3%C2%A2&sk=0
https://blogs.yahoo.co.jp/jaotex555/40308833.html


厠(かわや)「便所」談義 新田男爵によってバラされた「徳川綱吉」の実像

2019-10-27 10:19:55 | 新日本意外史 古代から現代まで
厠(かわや)「便所」談義
生類憐みの令の真実
新田男爵によってバラされた「徳川綱吉」の実像

現在、便所のことは「トイレ」とか「WC」と、アメリカナイズされた気取った呼称が定着している。
だが昭和四十年代までは、便所、カワヤが普通だった。
余談だが、トイレという言葉が流行した頃、水商売の女たちは客に対して「オトイレに行ってきます」などと言っていた。
音入れ(録音機)をもじって「ちょっと録音してきます」と訳の分からぬことをのたまう女もいた。

さて、かわやは川屋、つまり川の側に建てられて、垂れ流していたから、これから来た語源だという。
また、<安斎随筆前編五>には、排出用の容器を取り換えたゆえ、カワリから、カワヤに訛ってとか、厠は側屋なりともいうと出ている。
しかし、これはどれも間違っている。
昔禅寺では「東司」と呼び、「持頭」と呼ぶ番僧がカワヤ(便所)を司っていたが、後年のように畑の下肥用のものだけでなく、
小水は別途銭の収入源となっていたからである。というのは昔から動物の皮の需要は多く、その皮をなめすのに、人間の小水が、
現代でいう、アンモニアとして高く売れていたのである。
徳川綱吉の、生類憐みの令の発布によって製革業が弾圧されるまでは、皮のなめしのアンモニアはチョウズと呼ばれた小便しかなかったので、
馬車や荷車で皮屋が汲みとりに廻り相当の代価を支払っていた。
(綱吉の実像や生類憐みの令に関する詳細は後段で記す)
そして彼らは「東の草」(注、東国に住んでいる日本原住民の意味で蔑称)とされていたせいにより、その支配の「司」なのが正しい。
ちょっと変にも思われるが、小用の方のみを後架とよんで区別したのも「高価」が始めの呼称だった故によるらしい。
オシッコをするのに背後に凭れ掛けなんかは必要は無いのに、それが当て字であることは一日瞭然である。
「手水場」とかいてチョウズバと読ませるのも、手にチョウの音も訓もないのに無理である。
これは、皮をはいでなめし乾す際に、小用桶の小水を手につけて塗りこむように叩き塗る時に、チョウチョウと掛声をかけたという説と、
丁々発止のチョウからとの説もある。
セッチン、セツインとよぶのも皮屋言葉では、節が折れぬように伸ばし乾すことで、引張る棒杭のことをさすのである。
大坂では明治になっても辻々に木桶をおき、共同便所みたいに小水のみの用をさせているのを「渡辺」とよんで、通行人が便利かっていたものである。
渡辺橋をば中心にした除地を五ケといって、そこの住人たちが集めた桶からアンモニアで秘かに皮をなめして製造していたことによるらしい。
今では梅田駅前の目ぬきの大繁華街となっている。〈守貞漫稿〉では、
女人といえど大小を一つに出すことは長屋でも禁じられ、大は農業への肥料用ゆえコエとよばれたが、
小は「一疋だて」とよばれ女でも立ち小便で桶に背後向きで放水するのが建て前とされた。
だから粗相とは、小水を漏らしてしまうことではなく、本来の意味は、誤って小水をコエの方ヘソソッと流して入れてしまう事となのである。
ちなみに、昭和四十年代でも、流石に都会ではないが、田舎では野良仕事の合間、女たちは平気で立小便をしていたもので、
祖母は「女もこの方が、汚れもしなくて便利だ」と話していた。
   
   「犬も歩けば棒に当たる」
  生類憐れみの令」

 「徳川綱吉の策謀」   
                   

いろはかるたに「犬も歩けば棒に当たる」という判かったような、判からない
ような変な句が在りますが、はたしてこの意味は何だろう。

徳川綱吉の有名な「生類憐れみの令」があります。通説では、
これは綱吉が戌年生まれだったから、中野に大きな犬小屋を建て給食までして、犬を保護しその他の動物まで愛護した。という事になっている。
歴史事典や講談でもこのような内容である。だが果たして実際はどうだろう。
以前日本へ輸出する犬が残酷に扱われるからと、英国でデモ騒ぎまで起き、これに対して日本の畜犬輸入商が愛犬デモを開催した事があった。
そこで日本の外務大臣までが乗りだし、「我が国には犬公方の例もある」と、日本人の動物愛護精神の豊かさを大いに宣伝したが、さっぱり効き目がなかったという。
これには訳があって、ロンドンに本部のある世界動物愛護協会の「日本資料」の中には、きわめて非講談的な記載が残っている。
だから日本からいくら講談的知識の犬公方の話しを持ち出したところで、相手には通用しないのではあるまいか。
何しろ向こうの犬公方の資料たるや、明治初年に「バロン・キャット」の名で知られた新田男爵の説明によっている。
だから爵位を尊ぶ英国では権威在るものとされている。そこで先にこの日本よりも海外で著名な彼のことを説明すると、
この人は「つま黒」の旗で名高い新田義貞の嫡流という事で、徳川時代はその系図を将軍家に貸し銭を貰っていた。
ところが幕末になると公儀もお勝手元不如意で銭が出なくなった。そこで彼は当時流行したコレラやペスト予防の石炭酸の代わりに「八方睨みの猫」というのを
厄除けに描いて銭にかえていた。
さて下田開港以来、日本の絹織物は質はよいが柄が地味すぎるというので、桑の葉と共に蚕卵紙が今のシスコへ送られる段になって、船中で鼠害にあうのを避けるため、この猫の絵を付けて輸出されたから、彼の絵は欧米においても、珍しい墨絵として珍重された。勿論「まじないの絵」とは思われず、「写生画」として扱われたらしい。
(この当時米国側の蚕卵紙輸入港がサンフランシスコだったので、日本側では桑港と書く)
そこで明治になって「猫まん」と呼ばれていた彼が、新田義貞の後裔として「男爵」になると、動物愛護家という目で外人には見られ、
来日した彼らに談話を求められ、犬公方の話しも出たものらしい。
勿論彼の口にしたことと、それを翻訳して載せた十九世紀の英国動物愛護協会の記事とでは若干の食い違いがあるかもしれない。
だが日本に伝わっていない非講談的な話しとして紹介する。

「厳有院さま(四代将軍家綱)にはお子がなきため、弟君の館林侯綱吉をとの声もあった。しかしその母が、からびと(朝鮮済州島)の血をひくゆえをもって、大老酒井雅楽頭は、
それならばいっそ公家よりと、有栖川宮幸仁親王をもって五代将軍にたてようとした。五代将軍に有栖川親王を立て、武家社会に疎い親王を補佐する役目に水戸光圀を副将軍として幕政を行う計画であった。
だが反対勢力に負け酒井は失脚し、光圀は国許で閉門蟄居を命じられる。
そこで綱吉が将軍となると酒井は台閣から追われたが、彼ら一味の与党もこの際退治すべしとなった」と説明され、その註には、
「日本民族には原住系と天孫系の二種あり、原住系は日本列島に天然自然に存在する山の草木、岩石、獣の一切を司り、天孫系は土を耕して種を蒔く農耕や桑を
植えての養蚕といった加工業に分かれていた。酒井は拝み屋の祖先を持ち、当時の彼らは獣の皮はぎをする職業をその部族に持っていて、その宗教のトーコー
(東光薬師如来系)の勢力はすさまじかった」

つまり日本では狼が絶滅してしまったくらいに、革皮の需要が多かったので、この当時は犬さえも見つけしだい撲殺されていたものらしい。
そこで綱吉将軍の一派は原住系弾圧のため、彼ら最大の収入源である皮革業を弾圧しようと、(皮を剥ぐな)という代わりに、
「生類を憐れめ、殺すな」と布告し中野に十六万坪、大久保に二万五千坪の犬屋敷を設け、権力で皮剥ぎの邪魔をした。
といった経緯が、新田男爵の談話として出ているのである。
だから犬公方の話しが講談並なら、世界に冠たる動物愛護美談だが、それが通用しないのは、真相が政治的報復手段であったのと、猛烈な日本人の獣殺しを、
うっかり新田男爵が先に話してしまったせいらしい。
有り体は、徳川綱吉が「神仏混合令」を発布するに先だって、その当時「犬も歩けば棒に当たる」と辻の木戸ごとの四の民(騎馬民族系の民)の番太たちが
野良犬を見つけると六尺棒で撲殺し、製皮業者に渡していた、野良犬受難の時代だった訳である。
地震や冷害で人間が餓死していた当時、地方の役人が製革業者取締のためだけの目的とも解らず、小鳥や魚まで生き物だからと厳重に法の施行をして民を苦しめた。
何と言ってもこの法を発令した国家主権者は綱吉であるから、綱吉を名君として書いた物もあるがはたしてどうだろう。 
因みに、酒井大老の東光派一派は、江戸市中では七千人、江戸以北では二十万人が僻地へ追放された。
その中には「白柄組」で江戸をのし歩いた旗本奴水野十郎佐衛門一派も含まれている。




 太田道灌と江戸城 「箕のひとつだに、出せばよろしく」

2019-10-24 15:14:36 | 新日本意外史 古代から現代まで

  太田道灌と江戸城

「箕のひとつだに、出せばよろしく」

 
 これもサンカの言い伝えである。
現在では「身の一つだに、無きぞ悲しき」と誤って伝えられているが
「ミノひとつだに、出せばよろしく」が正しい。

江戸時代、浅草弾佐衛門は、四つと呼ばれた騎馬民族系統の頭梁だったが、 一般や武士階級からはと呼ばれ、蔑まれていた。
そしてこの弾家は騎馬系の者達から、一人当たり年二朱の人頭税を徴収していたので、その権威と財力たるや、格式として十万石の大名に匹敵する豪勢なものだったのが実相。
騎馬民族の末裔達のことを、馬が四つ足だから「四つ」と呼んでいた。
これらは江戸時代になると、江戸以北に二千万人から住んでいて、徳川幕府は、これら原住民の反乱を防ぐ意味で四つの弾佐衛門を頭に、その下に六人の手代を置いて、相互に牽制しあう制度を敷いていた。
この弾佐衛門は前記のよえに十万石の格式で毎年八朔と正月には白装束に大小二本差で、江戸城に登城を許されていた。
(弾佐衛門の本名は矢野内記で、幕末には薩摩の益満休之助に倒幕の加担を頼まれるが断っている)


だからそのためこの弾家の集団から脱けられると、例えば家族三人だと、年に一両の収入減になる。
だからこの「抜け人」とよぶを厳しく取り締まっていたのである。

 一方の海洋渡来民族系側は、江戸期には京へ出てきていた若狭の「水上の御坊(穏亡)」が総取締まりで、日本各地の阿元(テレビで網元となっているが間違いで、
「あーもと」が正しい)へ収穫魚を己の身の重さだけ納めさせ、塩尻と呼ばれるのには製塩一カマスを出させ、関西の堺港で集め塩魚にさせて、各地へ卸して上納銀としていた。
これに反してサンカ集団では「統治せず、統治されず」の相互扶助制度で原始共産主義とも言える制度を採っていたから、搾取などは一切無かったのである。

そして百姓が米を精米時には必ず使う竹で編んだ箕(ミノ)と呼ぶザルの大きなのを一つ編んで、ムレコ(サンカが住む山や川岸のテントのような小さな棲家)の隣組長のような頭に届ければ、
頭はそれを集めて、昔は農業の必需品だから、村に溶け込んで居付きで暮らしている仲間の者達に売らせ、その銭を、各国別に居るクズシリ(ムレコの上部組織の頭)に持っていく。

各国別に居るクズシリは、己の国の中で病気や怪我で貧しい困窮者が居れば、集めた銭の中から、その救いの銭を次々と届けさせた後で、残りを綾部の
オオモトさま(サンカ集団の最高頭領)の元に「余り銭」という名目で、預かっていただいた。
というのは津波や山崩れでもあってサンカの羅災者が出て、その地方のクズシリたちの手に負えないような状態の時には、オオモト様へ預けた余り銭を出して貰い、救済資金に当てる慣わしだったからである。

東の弾佐衛門や西の水上のような豪勢な暮らしはしないで、オオモト様も箕を編んで皆と同じようにセブリをしていたのである。
この実態は、学校歴史では絶対教えないが「サンカの歴史」の本の中に詳細に述べられているが、

「赤ばけサンカ」・・・海洋渡来系から抜けて、サンカの中に潜り込んで生活している。
「白ばけサンカ」・・・騎馬系から抜けて、サンカの中に潜り込んで生活している。

この赤も白も、それぞれに人頭税を上納するお頭が厳然と居るのに、彼らは何故にサンカの構成員に化けているのかと言えば、どうもその原因は人頭税のせいらしい。
徳川家康が江戸に入部の際、現在の室町の三越本店のある地域から、弾家は隅田川向こうの新地へ移ったが、関屋の頭の石出帯刀は、幕府に召されて世襲三百石の牢屋奉行になった。
そしてその跡地も全てが弾家の縄張りとなり、その組下に品川八汐に居た、赤(海洋渡来系)の車善七が、団子山から今の谷津辺りまでを支配していた。
四ツの弾家が、小塚原に処刑場を設けていて、此処では罪人の死体から生血や脳味噌をとりだして、いわゆる「生薬」を製造して大きな利益を上げていたが、
これは儲かるからというので、車善七の方は六郷川に当時は面していた大井の鈴が森にも刑場を作って、赤系の雲助達を使って奉行所配下の捕方衆にしていた。
こうして皆が雲助や駕籠かきだけをしていては、彼らは当時その日暮らしの日当制度だから 親方の車善七が京の水上家に上納する為の銭の工面は無理だったから、
日に何文かの積み立てをして、刑場の生血売りもしたのである。

また弾家支配の方でも、百草辺りで採れるモグサも売り歩いていたが、年に二朱の上納銀は相当に苦しかったらしく、致し方なく生薬売りにも手を出して凌いでいたと思われる。
つまり赤バケ、白バケという人々は人頭税が相当に過酷にすぎて、支払いが出来ない者らが結構居て「抜け人」として、制裁を受けるのを恐れてサンカの群れの中に潜り込んだのである。

そしてこれらの者が三代続けてセブリ暮らしを続けると、サンカと同じに扱われ掟があったので、サンカの中へ融合してしまったようである。
現代は税金の種類も膨大で、所得税、消費税、住民税、酒税タバコ税、車税不動産税、その他その他。
何時の時代も庶民は重税に喘いでいた実態は変わらぬということになる。
 
     太田道灌もサンカ出身者
 さて、東京都庁前に太田道灌の銅像が建っている。
彼にまつわる有名な話として、雨に降られて立ち寄った家の娘が

「蓑一つだに無きぞ悲しき」と詩を読み、代わりに山吹の一枝を渡されたという故事がある。
だが十五世紀の頃に雨合羽代わりのミノが、当時まだ未開発だった江戸に普及している訳は無い。
これはどうもカサ、ミノの方ではなく、箕であって、当時関東も山金が多く転がっていたから、
「山吹色」と俗称される黄金だと考えると辻褄が合うし、この歌の意味も理解できる。
そして太田道灌は、当時旨刺(むねさし)から武蔵と呼ばれていた地域の頭に当たると思われる。

従って道灌が自分の責任範囲である武蔵地方のサンカから、前記のように、箕を集めて廻っていて、娘の居る家族の処へやってきたが、
「ミノはこのたび編めませんでした。だから、その代わりにこれを納めてください」と、 拾ってあった山金の塊を一つ差し出したものと想われる。
そもそも太田道灌は、足利時代の関東管領だった扇谷の上杉家に仕えていて、江戸城を築いたといっても、当時のことだから、空堀を掘っただけの、砦並みの
小さなものだったろうし、それに道灌は丹波国桑田郡太田の庄出身というから、アヤベサンカの出身と考えられる。

なにしろ日本は、インドのカースト制度を導入した足利体制の中期以降は、室町幕府は片っ端から限定被差別地を各地に作って、幕府創業時に抵抗した、
反明国的な南朝の残党(朝鮮系、海洋系、騎馬系)を徹底的に弾圧した。
だからサンカ系も各地に散らばって「勢振り」ともいう反撃体制とっていた。
後には賎、つまり静と和訓の静岡の今川家に取り入り、やがては小田原の韮山氏の入り婿となって、武力によって箱根の山にかけて原住民系の解放地区にし、
後北条として覇を称えた北条早雲もれっきとしたサンカ出身だったし、
太田道灌もやはり丹波の国から出て、当時は未開発で足利の勢力が手薄な関東へ 潜入し、上杉家へ仕官した。
そして次々とサンカを結集して武功を立て、小さいながらも初期の江戸城ともいえる江戸砦を作ることが出来たのだろう。
もう少しで北条早雲より早く、江戸の解放地区が関東に出来たのに、上杉定正に謀殺されてしまったのは惜しいことである。
この謀殺の訳は、流れ者の癖に兵を集めて、足利体制では明国へ鉄のビタ銭と 等量交換の金を、ひそかに集め蓄えだしたのを怪しまれてのことと思われる。
だから後年、夷也を、稲荷と誤魔化して江戸中に祀った江戸サンカの溶け込みの子孫たちは、「太田道灌と田舎娘山吹のやりとり」を忘れがたく、
江戸期になると絵草子として美化し、後世に語り伝えたものらしい。
サンカ出身の武将はかなり居て、江戸期に大名になった者も多い。
 戦国時代の蜂屋頼隆、蜂須賀家、加賀の前田家などが有名だが、家康の遣命によって、家康もサンカの「葵族」出身だから、同族としてこれらの大名は、明治まで取り潰されずに残ったのである。



豊臣家の直参・加藤光泰 光泰の破天荒な人口増産術

2019-10-22 13:13:40 | 新日本意外史 古代から現代まで

豊臣家の直参・加藤光泰
光泰の破天荒な人口増産術

 この名前は「戦国人名事典」にも紹介されている。下記に詳細が在るので
併読し、比較してみれば良いだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%85%89%E6%B3%B0
 
前説として、余談になるが日本は今や少子高齢化、人口減少問題が今後のこの国の未来にとって最大の課題だが、安部政権は何の政策も提示していない。
厚生労働省の統計によると、2019年1~7月の出生数は前年同期に比べて5.9%減り、51万8590人となったことがわかりました。
2016年に100万人を下回ってからわずか3年で、90万人を割る公算が大きくなっているもので、第二次ベビーブーマーや、
団塊ジュニアと呼ばれる世代の女性が45歳以上になったのに対し、20代、30代の女性が減少していることなどが要因と見られています。
これは日本にとって深刻な問題です。
2025年までに700万人の人口減が予想されていて、これは埼玉県の人口に匹敵します。
2005年に死亡数が出生数を上回り、それ以降も死亡数は増加を続け、出生数は減少し続けています。
日本の人口減は物理的な現象と言えます。
また婚姻件数も減っていて、出生年齢が上がっている点も心配な要素です。
母の年齢別出生数を見ると、かつては25~29歳の年齢層が70万人を超える出生数でトップでしたが、今では30万人弱まで大きく減っています。
現在は30~35歳の年齢層が最も多くなっています。
日本は戸籍の問題があり、事実婚を阻害しています。
日本の人口減は構造的な問題であり、政府が正面から取り組む必要があるのに全くその気配は見えません。
前にも書きましたが、人口を増やすには「安心して産み育てられる環境を作る」か「移民政策」の二つしかありません。
例えば、フランスは結婚しないで子供を生む女性が非常に多いです。
こうした状況を許容する少子化対策によって、フランスは1994年には1.65まで下がっていた出生率を、2010年には2人を超える水準まで改善させています。
日本でも、フランスと同じくらい抜本的な対策を打つ必要があると思います。 
人口を増やし、労働力を確保するには、年間50万人規模の移民を受け入れるか、子供を沢山生んでも、安心して育てられるような、大胆で斬新な政策が必要だが、 現政権にはどちらの政策も全く見えてこない。
だがかっての日本には、この人口増産政策で国を治めた人物がいたのである。
明治から台頭し、最後には国を滅ぼした軍部も殖産興業の労働力確保と兵隊の増員のため「産めよ増やせよ国のため」 のスローガンで人口増産政策を国民に押し付けたが、
これから紹介する男のやったことは 全く内容も違い、破天荒の一語に尽きる。
歴史に学ぶとすれば、こうしたことが大いに参考になるだろう。勿論21世紀の現代に、このままの政策は無理だが、かってのスエーデンでも労働力確保の為に行ったフリーセックス政策のように、
現代的仕掛けを作れば、十分参考に成り得る。

        『本題』

木下藤吉郎時代の組下で、父は加藤権平(20貫扶持)の息子で加藤作内と呼ばれていた頃から親子で籐吉郎に奉公していた。
藤吉郎が羽柴秀吉を名乗る頃には、作内も700石に加増された。
そして天正元年、二年、三年、四年と良く働き、天正六年からの三木城攻めの時には、包囲戦となり、
戦は長引いたため、作内は己の陣場近くに畑を作り、黍や稗の種を蒔いて植え、秀吉に誉められ、5000石の加増となった。
天正十年六月二日。本能寺で信長が爆殺され、時の国家権力者の急死を受け、治安維持のため天皇から征夷大将軍の拝命を受けた明智光秀を、秀吉は山崎で騙し討ちに殺し、天下は 秀吉のものとなった。

(秀吉の最大のライバルであった光秀は、信長の妻、奇蝶の腹違いの弟に当たり、木こりから成り上がった秀吉にとっては、常に煙たい存在であった。
それが武門の棟梁たる、征夷大将軍をかしこき辺りからいち早く授けられたとなっては、秀吉としては彼を殺すしかなかったのであるだから秀吉は生涯、光秀の後塵を拝すことを嫌って、
征夷大将軍を受けず、関白になり己が天皇になろうともしたのである)
 秀吉はその家臣達にも大盤振舞いをし、加藤作内にも、「加藤遠江守」と従五位下に任官し、名前も厳しく光泰と改め、丹波周山一万七千石の 城主にしてもらえた。
すると自分でキビやヒエの植え付けまでする男だけに、所の領主として、

 『空き地は遊ばせて置かず何でも植えろ。領内の女ごも腹を遊ばせておかんと、
  子種を仕込め・・・・とかく戦国の世では人的資源は何よりの宝である。よって
  一人の女ごが一人の男とだけ睦みあっていては、たえず妊娠するとは限らん
  我が領内の男であれば何人でもどしどし廻しを取ってよい。もし夫がやきもちを
 やくようであれば叱ってやるし、未婚の母のままで子作りをしてよい。
 腹は借物と古来から言うから、城内に未婚女の家を作ってやるし、子供の面倒が
 見られぬ者には、代わって城内の女中共が里親にもなってやる』

 と、当時としては破天荒な布令を出した。
今日で言うならフリーセックスを奨励して、受胎能力のある女で腹ぺちゃの者には、城兵を 何人も当てがって種馬代わりに用いた。
勿論領内の男にも、女と見たら掛かって行き、孕ませるのが忠義だと教えた。
これで男も女も安心して昼間は荒地を開墾し食料作りに出精し、暗くなると夜なべ仕事として相手を取代えひっ代え、文字通り、精を出して励みに励んだ。
さてこうなると丹波周山は一万七千石だが、一年もたつと実際は二万石余になり、
人的資源もオギャアオギャアと満ち溢れて、人心は穏やかになり、皆んな加藤光泰を慕った。
これは秀吉としても領地の収穫が増産され、豊臣勢力下の人的資源がどんどん増えるのは、 まことに好ましいところところなので、

「一夫一妻なんてのは詰まらんことはわしもよお知っとるが、住民に慕われつつ国を富まし人民を増やしてゆくは、彼奴の人徳の致すところで行政手腕じゃな」
と、次は近江見塚二万石へ移してみた。

光泰はそこでも直ちに前の時と同じように、破天荒な話だが、
「出陣のとき、お城へ奉公する男に限り、領内にては人妻であれ、娘であれ全て勝ってたるべし但し無駄なく子種を送り込めるよう、良く落ち着いて事を成すべし」と、布告した。

随分乱暴な布令をしたものだが、戦国時代というのは戒厳令下のようなもので、
自国の人民を増やすためには当時、娘は十三四から嫁入りさせられていたから、
有り難い布令が出たものと、すっかり貝塚の者たちは喜び、勇み立ち、ほら貝がブオーと鳴ると二万石の領内なのに、やがて何千もの兵が参集するような、富国強兵振りを示した。

 「彼奴め、なかなかやるのう・・・・・・」
と秀吉は、ついで三千石アップしてやって近江高島二万三千石へ移した。ここでも、
「未婚にして、子を産む娘には褒美を与える」とか、進んで軍令に付く志願者には領内の女ごは勝手たるべしの許しまで与えた。

  そこで新しい領地の高島も、間もなく男は軍役、女は産役で忙しくなり、赤ん坊が雨後の タケノコのように増えだした。そこで秀吉は、
 「思い切って二万石のアップをしてやり、次は美濃大垣」ということになった。

 しかし、こうとんとん拍子に行くと加藤光泰も、
「うん、男と女のあれは本能・・・・まんまと本能寺の変で天下を盗った秀吉様の家来の自分がやはり本能を上手く使うのは、こりゃ当然ではなかろうか・・・・・」
とばかり悪乗りしてついとんでもない放言をしてしまった。
実際のところ秀吉は明智光秀を信長殺しに仕立てて、山崎近郊に誘い出し、戦を仕掛け、 騙し討ち同然に、葬ってしまったから、まだ後味の悪さに気を遣っていた時期だけに、これを聞き伝えると憤慨して、

「とんでもない馬鹿なことをいう奴だ。すぐ大垣城四万石を取り上げてしまえ」とどなった。
しかしそれでも可哀想と思ったのか、異母弟の羽柴秀長に預け、とりあえず一万石だけ 捨扶持を与えることにした。

 が、秀長も、加藤光泰の手腕は知っているから、何とか上手く使おうと、千石を自分が くれてやって、一万一千石の大和秋山城主となした。

するとこれを聞き知った秀吉は、秀長に彼を取られてしまっては大変と「勘気赦免」の早馬の使者を立てた。
そしてすぐ二万石を与え近江佐和山城を持たせることにした。そして天正十八年の小田原征伐後の七月七日、
「のう光泰、おぬし厄介じゃが甲斐一国の軍配をふるってくれぬか・・・・・何しろ武田信玄、勝頼父子の頃には栄えた国じゃが・・・今では火が消えたような有様。
なんとか其の方が民政手段を振るってくれぬかや・・・・・」と、秀吉から呼び出され加藤光泰はその場で命じられた。

甲斐一国とは甲府城の二十四万石で、今までの十二倍になる。
光泰はこれには仰天したが、秀吉は平気の平左だった。
この時光泰が甲斐一国二十四万石なったのは、余りにも異例な加増だったので、
 
 『寛永系図伝』や『甲斐国史』『豊鑑』の類にも記載されている程である。だから
「こりゃ、とんだ大事になったぞ。郡の一つ位の大きさや、二万石位なら、わしの試みは何となく上手くいったが、甲斐一国の広さではとてもそうはゆくまい。
・・・・しくじれば責任を取らされまた御勘気にあうのだから困る」
 
そして甲府城へ移ると家臣共を集め、皆でよい知恵を出してもらいたいと、号令した。
こうした相談の結果、積極的に女たちの腹を膨らませる為にはり女が積極的に臨むのが良いと いうので、ここに女の夜這い令が発布された。
「甲府よいとこ男極楽、寝てまちろ、待てば来るぞな、女ごの夜這い・・・・・」
と、この歌は幕末まで甲府エンコ節として残った。 甲州風俗はこの時から始まったのである。
さて、素人の女達が、積極的に男のアタックを始めたので、その影響で弱らされたのは、甲府柳町の遊郭の女達であった。
ただより安いものは無いから遊郭は営業不振となり、女達は暇をもてあまし、淋しがった。
その淋しいが、今も甲州弁で女郎のことを訛って「さぼし」と呼ばせているのである。
とんでもない赤線泣かせであった。