サンカ生活体験記 第六章
一、 源は「元」である。
のち北条時代に何故に元軍が大軍を催して懲りずに攻めてきたか?この元寇の際に、何故に北条時宗が桓武帝の真似をして国内の史書を焚やしたのか?の謎も、そうすればよく判りうる。
ついでに付言すれば、ハバロフスクへ行かれた事のある方なら、町の中央の民芸館の正面入口に大きな盆のようなレリーフが掲げられている。バイカル号に乗って行かれた人ならばハッとしたであろうが、共に笹竜胆のマークである。
同じ沿海州のハバロフスクの先のチャリキーには、笹竜胆の上隅にパンダの顔が覗いている木彫り状のトーテムが立っている。つまり「元」として東欧まで制圧した彼らの民族章なのである。
明治十八年に末松謙松のものを訳にした形で慶応在学の内田弥八が、「義経再興記」を、日本橋本石町上田屋より刊行。これを底本に小谷部圭一郎が「ジンギスカンは義経」を書き、昭和になってからは高木彬光が、それを判りやすくしてからが、カッパブックスとして出版している。
つまり元寇とは、北条氏が源頼朝を落馬即死の恰好で始末してから、次々と源氏を討ち滅ぼしたのに対しての民族の復仇とし、文禄、弘安と続けざまに源氏の世に戻す為の来攻である。
北条時宗が、そのために北条政子によって梶原、和田、三浦ら源氏を皆殺しにした門註処の記録文書や歴史書を用心のために焚書してしまったのである。
これを北条焚書というが、だから今ではこの時代の古文書は全く残っていない。
次にとってかわった足利氏が、「臣源道義」と、実際は源氏ではないのに、対明への国書にはことさらに源姓を名乗ったのも、又しても元寇を繰り返されては難儀するからとの、外交上の駆引き自己防衛策だったのである。
ニ、 平はペイでペイルシアである。
つまり黒潮暖流によって第一次は今のアブダビ海よりアレキサンダー遠征軍によって、ギリシャ語のガレーリナと呼ばれたマレーシアのバハン(ヤバアン)へ移送。そこから、今は雲南と離れているベトナムへ開拓奴隷として送られた際に、天地水火を祀る四方拝の民(七世紀にマホメットが回教を拡めてからは、無智なる拝火教と蔑まされたが、紀元前三世紀には今のイランの首都がスサであったし、彼らの拝む神がGIONであり、ミソギする河がヤサカだったので、スメラ山脈のならぶホルムズ海峡へ集結され)脱出した時に、古代バビロニア語の逃亡奴隷の「ミーコト」と呼ばれた者らの中で、日本列島まで流れてきた漂着の群れ。八幡国群の名で呼ばれ、親魏政権の耶馬台国群とくり返し戦った古平氏の先祖。
第二次は、かつてはアフリカやアラブの熱帯や亜熱帯の方が食物に恵まれていて文化人で、白色人は白ッ子扱いをされて奴隷とされ、ガレリー船を漕がされたり、ピラミッドのような強制課役をさせられ、堪りかねて寒冷のスカンジナビア方面の北東へ逃げ、防寒に胸毛や腕に猿のような毛を生やした連中がバイキングで資力をつけ、有色人への仇討ちに南下してきた時代。
白人の歴史では「十字軍」と恰好よくされているが、掠奪した物の半分を教会へ献納すれば、「神は嘉し賜る」と誉められ、暴行強姦が勝手気侭の時代。アラブの奥地の拝火教徒はヤスドに収容されていたが、海岸に近い所の者はスメラ(日本では戦後からシュメールと呼ぶ)沿岸で人間の防波堤にされた。
次々と混血児を生まされ、堪りかねて又黒潮に乗って生魚を手掴みでとって塩水で洗い食しつつ、筏で日本へ流れついたボートピープルが、紀州熊の浦に集団上陸した。
時の鳥羽上皇が、得長寿院建造を三十三間の長さにせよとの御下命だが、そんな長い杉の木はなく困り切っていたところへ、第二次の新平氏は筏をつないできた鉄のクサビをはずして持参し、上皇の御指示のように60メートルの棟木を作って内匠頭つまり作事方に、タダモリあげたきりと悪口を言われつつ、平の忠盛の名を貰って従五位となって昇殿を許された。
第一次の古平氏は鼻ぺしゃで色も浅黒かったが、第二次移民団は、今でいえば彫りの深い顔立ちを皆が混血児ゆえしていた。そこで女は殿上人にそれぞれ召され、男も好色な藤原女のベットボーイとなり、セックスで見る間に実権を握り、清盛落胤説までが生れるようになる。もちろんアラブのアッタ神殿には十六枚の菊花の他に、二つ巴、三枚笠といった日本人の家紋は、笹竜胆以外はみな揃って残っており、明治になって平民とよばれるくらいに次々と熊の浦へは来着。やがて今の神戸の福原にも築港。新平氏は「平家御一門」として入ってくる。後の足利末期の関白二条兼良の三男の尋尊大僧正が書き残した「大乗院寺社雑事記」
に、「西南より渡来にて馴れぬ者は堀川三条の囲地に収容」(京の各寺の目玉タレントとして青い目の者らはスカウト)とあるが、工人武人となる者へは古来よりの慣習どおりに「平姓を賜る」とある。活字本でも復刻されている、これが裏付け資料であるが、
「天の日本古代史研究」に詳しい。
三、 藤は唐である。
唐によって滅ぼされた随の者らの華夏王朝は、郭ムソウ将軍進駐時に通弁や道案内に奉公したので、発音は同じでも「桃」とあてられて、岡山一帯を昔の中ツ国なみに中国地方とよんで、山口県までその本貫地支配下におくのが認められたが、後世には一つとなる。
四、 橘は、ややこしいが日本では匿されている契丹である。
なにしろ、頭の良いのや要領よい者と美女だけは都に残れたが、他はデッチあげの天慶の乱で東北に追われたり、紀ノ川の奥に追い込まれてしまい、藤[原]と同じく大陸系なのに大宝律令の「良」でなく「賎」の民にされる。
かつてオランダ本国が滅亡した際にも、日本の出島だけには、世界で唯一つのオランダ国旗が立っていたというが、大陸では唐は滅び契丹の時代になっても、日本ではまだ唐政権だった。
が、契丹系でも文化的なのは、橘諸兄といった名で登用されているのが要領よき一例である。
しかし、日本人を形成する四大姓の一つが、キツとなったのは相当多く入り込んできた事になる。当時の人口を千万人とみても二百万人ぐらいは契丹系という事らしい。
なにしろ彼らは、本国が正式には攻めてきてくれず、唐勢力によって敗退すれば、賊軍の立場とされてしまった。
今でこそ、天神様は頭の良くなる学問の神様だと、入試の絵馬や祈願で儲かっているそうであるが、当時はみじめなもので、「ここは何処の細道じゃ、天神様の細道じゃ。‥‥行きはよいよい、帰りは恐い、恐いながらも詣りゃんせ‥‥」といった戒め童唄でも判りうるものである。
唐を亡国にした憎っくい契丹人の信仰の天神様は、「ここは何処の細道じゃ」という程の、ちょっと見つからぬ小径の奥に匿されていて、一人ずつ詣りにゆくのはよいが、帰りはつい皆で戻ってくるから、話し声を役人に聞きとがめられると処罰される。
が、それでも祖国を離れて住み着いているからには、命がけでも詣らねばならぬという、これは子供らへの教訓歌にほかならない。
それゆえ、口に出して唄ってみればわかるが、お詣りに行く歌にしては悲壮感というか哀愁がある。つまり西暦940年の天慶の乱からこのかた密かに唱えられてきた呪文みたいな歌のせい。
さて、三角寛の著に、「下谷万町が白バケサンカの本拠」とよく出てくるが、この一帯が湯島天神の社有地なのである。泉鏡花の、「別れろ切れろは藝者の時にいうせりふ。真砂町の先生が‥‥」といった湯島境内の舞台が有名なのも、湯島天神の境内だからこそ、先生について学問するか女と切れずにゆくかが、昔の看[観]客には胸を突かれる想いがする舞台効果なのである。
ついでに書けば、幕末まで流行した根津権現にしても、当初はエケセテネの、日本最古の雑色人種の守り本尊であったかしれないが、江戸中期からの繁昌は根津の遊郭にあったという。
「権現のひる遊び」といって、女は今の団地妻の一部みたいに亭主を仕事に送り出し、夕食の仕度までに戻ってゆく日本版の「昼顔」で、「馬のり」とか「おんまさん」と呼ばれていた。
つまり、吉原などと違ってこの場所では、全て女上位で男の上に跨るから、上からではピンピンしていなくては挿入できないが、鞘かぶせとなると御隠居さんのでも咥えこんでくれる。
それに根津の女は前借りとか鞍替えなどはなく、四分六分か七三で、その日に金を持ち帰ってゆく。気の向かぬ時やお迎えの日は休み、当時の江戸では女の仕事はOLもなくただあれだけゆえ、趣味と実益で、しかも搾取はないから、女が己れの性を自己意識で使いだした皮切りである。「根津でもて、男もどうやら一人前」といわれるぐらいで、江戸期の川柳には数多く残っている。
さて、という事は、湯島天神の飛び地の中に根津権現はあって、共に江戸におけるサンカの溜り場という事になる。なにしろ何の産業も工業もないのに、亨保二十年から天保にかけて、江戸の人口は百三十万人と、世界一の都会になったそうだが、これは街道目付を流して歩く「堂の者」に朱鞘の公刀と捕縄を渡して取り締まったから、へ入れられていた者が伝達をつけてもらって都市へ出て、江戸を世界一の人口にしてしまったのだが、男九人に女はたった一人の割合でしかなかった。
というのは、江戸へ出てきても女の働き口はせいぜい下女ぐらいしかなく、路銀をかけて来る程のことはなかったからである。だから、まさかと今では思われるが、堅気なところの妻女や娘が五人に一人は観音さまを貸し、かつえている哀れな男どもを救ってやっていたのである。
よく講談で、明暦の大火後にできた新吉原へぶらりぶらりと土手八手をと語るが、あれは嘘。夜遊びしたいなら舟宿からくりだすか、陸ならオカミから町木戸を通れる鑑札を貰っている筋の通った駕に乗らなくては、夕方から町木戸は閉まってしまうので、そんなにブラブラ遊びにゆけるものではない。今の陸運局みたいなのが奉行所にあって、東京の四大タクシーみたいな駕屋に限って、番太郎宛の通行手形を出していたのが、全く今では知られておらぬ。
その点、根津は女達が朝は四ツ(午前十時)から夜は七ツ半(午後五時)と、昼遊びゆえ、町木戸の煩わしさもなく繁昌していたのであるが、そのように雑多に人が集まるという事は、トケコミとよばれて町屋に入っている者がツナギに来るのも都合がよいし、シノガラとよばれて各地のセブリを廻って歩く者が連絡をとりにくるのも都合がよかったらしい。
まあ、幕末までの根津の賑やかさは、昼遊びは隠れ蓑で、サンカが江戸初期のごとく、武蔵一(はじめ)などが国々で統制をとっていったのでは追いつかなくなって、全国的になったせいでもあろう。
「根津は女だけでなく、<羅宇(スイ)もよし>」という古川柳を、トルコなみに口で吸引するのと間違えて説明している本もあるが、これはあくまでサンカのトケコミの煙管のラウ竿直しの事である。
竿師とよばれる青竹屋も、煙管のラウ屋とトケコミの仕事からで、故林屋三平の弟が日本一の釣り竿師の跡目になっているのも、そこが歴史的に古いエビナ家の伝統なのであると判ってほしい。
セックス・イン・サンカ
「セブリの性交度数」という題名で、性交(マグイ)についての研究を「サンカの社会」朝日新聞社刊では克明に三角寛先生が示していて、これが当時の世人を驚かせて、自然食こそ強請の素のエッセンスと喧伝されだし、今もいわれる。そのため今日でも大いに自然食品は流行している。
一、東海道 関東
(1)夫(二十九歳)婦(二十六歳)子供三、同居。
月経中続行。毎日。一日二回平均。セブリ、野外半々。
(伊賀の箕作りで、元志摩箕作りの孫)
(2)夫(三十九歳)婦(三十七歳)子供四、同居三。
月経中続行。妻からの要求が多い。毎日、一日二回乃至三回の事有り。野外 の場合が多い。(伊賀ササラ箕作り、兼業)
(3)夫(四十歳)婦(四十ニ歳)子供五、同居三。
月経中も可。毎日。度数は月経切迫時に二回の事あり。野外の場合が多い。
(伊勢、箕作、笊屋兼業)
(4)夫(五十七歳)婦(五十三歳)子供七、同居三。
月経有。経中も続行。月計二十数回。ときどき二回連続。野外の場合が多し。
(尾張、箕作、鋳掛師兼業)
(5)夫(二十八歳)婦(三十に歳)子供三。
月経中続行。毎日。一日二回乃至三回の日が数回ある。月経後が多く日に八回をこえる。(三河、箕作、茶筅師兼業)
(6)夫(四十歳)婦(三十九歳)子供五、同居ニ。
月経中は中止。殆ど毎日。ただし一回のみが多い。
(遠江、箕作、研師兼業)
(7)夫(四十五歳)婦(二十一歳)後妻。先妻の子三、自分の子ニ。同居。月経中
続行。毎日二回はかかさず。野外専門。セブリでは雨天の時だけ。月計二十五回平均交わる。(駿河、箕作、兼業)
(8)夫(四十七歳)婦(三十九歳)子供五、同居三。月経中も続行。月計二十五回
平均交わる。野外多し。(甲斐、箕作り、エラギ兼業)
(9)夫(四十九歳)婦(四十九歳)子供七、同居三。月経中も可。月計二十回程度
セブリ、野外にては半々。(伊豆、箕作)
(10)夫(五十歳)婦(二十八歳)後妻。先妻の子四。自分の子ニ。同居三。毎日一
回乃至二回。セブリ、野外にては半々。(相模、箕作)
(11)夫(五十歳)婦(五十一歳)子供八、同居三。月計二十回程度。子供多く、よ
って野外多し。月計二十回程度。(武蔵、箕作)
(12)夫(五十一歳)婦(四十八歳)子供七、同居三、月計二十回程度。セブリ、野
外半々の割合。(安房、箕作)
(13)夫(五十五歳)婦(五十歳)子供八、同居ニ。月経有。経中一日二回繰り返し
多し。月計三十五回程度。一日二回が、時々あり。(上総、箕作)
(14)夫(五十九歳)婦(五十八歳)子供十一、同居四。月経あり。経中支障なし。
毎日。定めて行う。セブリ一、野外ニの割。(下総、箕作)
(15)夫(六十三歳)婦(六十五歳)子供十三、同居ニ。六十四で月経停止。閉経後
快感増。隔日平均なるも連続ニ三回のことあり。続行中セブリより野外にて交わる事しばしば。(常陸、箕作)
ニ、南海道 (関西)
(1)夫(十九歳)婦(十七歳)子一。月経期間五日間中止。毎日。月計四十数回。
春夏には野外多し。(長門、箕作、笊製造兼業)
(2)夫(二十七歳)婦(二十九歳)子三、末子二歳。月経中も不休なり。毎日かか
さずおこなう。野外はときどき。月計三十数回。(周防。笊製造兼ザル製造)
(3)夫(四十四歳)婦(五十歳)子七、同居三。月経有、経中支障なし。要求は婦
七、夫三の割合。春夏は毎日。一日二回の日多し。セブリ、野外半々。(安芸
、箕作兼蝮捕)
(4)夫(五十一歳)婦(四十八歳)子九、同居四。経中も可。要求度は夫婦半々。
隔日乃至三日目程度。マムシ酒を服用したとき二回乃至三回連続の日あり。野外裸体のとき連続四回もある。(備後、茶筅兼ササラ製造、夏期蝮捕)
(5)夫(六十一歳)婦(六十三歳)子九、同居三。妻五十五歳にて月経停止。閉止
後婦よりの要求度強まる。夜間房中妻の声はげしき時は、やむなく野外に出る。(備中、箕作兼マムシ捕兼河魚捕)
(6)夫(七十歳)婦(六十八歳)子十一、同居なし。月経五十六歳にて閉止。婦の
要求度は閉止前は夫に優ったが、閉止後は平静。隔日平均なるも、ニンニクを肴として唐辛子酒を服んだ時は、一回三時間以上を要する。夫婦とも服用して
励む。(備前、箕作兼マムシ作。また河魚捕、ウナギ捕の名人)
(7)夫(八十一歳)婦(七十九歳)子九、同居なし。月経五十七歳にて閉止。閉止
後楽しみ増。月経中も要求度が夫に優っていたが、閉止後は特に増す。三日おきぐらいなるも、一回の時間が一時間以上に及ぶことが珍しくない。特に強壮
食は別に何もとらない。(美作、茶筅師エラギ兼業)
(8)夫(八十九歳)婦(九十歳)子十一、同居なり。月経は五十七歳まで。五十六
歳まで末子がいたが、全児巣立ってからは、七十歳までは毎日続けた。七十歳から八十歳までは隔日ぐらい。八十歳後は、自然に減った。ときどき毒草鳥兜
を用ふ。(これは量を誤ると死亡するので、おおいに注意している)完逐所用
時間は、老後は一日二時間以上に及ぶようになる。
三、西海道 (九州)
(1)夫(十九歳)婦(二十一歳)子ニ、同居。月経中七日乃至八日休止。経後要求
強し。殆ど、ごとく毎日。昼夜一日二日多し。村落の路傍竹林中等。末子を背
負ったまま。(薩摩、箕作)
(2)夫(三十よ歳)婦(四十歳)子三、同居ニ。月経中続行。経後婦の要求強し。
就寝後。日中林中の裸体行為にてを好む。(大隅、箕作)
(3)夫(四十歳)婦(四十一歳)子四、同居三。月経中続行。経直前は妻よりの
要求多し。毎日。就寝後なし。婦の矯声高きにつき、子供を避けて野外にて昼
夜の別なし。(日向、箕作)
(4)夫(五十歳)婦(四十七歳)子なし。婦は眼球転動症。本症は平素眼球が上下
左右に転動しているが、能発作のときは上下か左右だけ一定に転動し、この時は情交神経旺盛となる。一日に婦は三回乃至五回も狂発(発作)することがあ
り、裸体にて山や里などに駆け出すので、看病のため鎮静さすためゆえだから時と場所を選ばない。特異な例である。(肥後、笊作)
(5)夫(六十一歳)婦(五十八歳)子七、同居なし。婦五十七歳にして月経閉止。
閉止後実行快度増。就寝後多し。月中数回は野外。実行前後に右乳を夫に吸はせる習性あり。(肥前、箕作)
(6)夫(六十三歳)婦(五十八歳)子九、同居なし。婦五十四歳にて月経閉止。閉
止後も夫次第である。毎日。末子同居中は野外にて共に用。末子根分け後はセブリ就寝のとき。(豊前、箕作)
(7)夫(四十五歳)婦(四十九歳)子九、同居一。月経中可。経後きわめて良し。
月に計二十回程度。坐行型を好む。野外多し。(豊後、笊作)
(8)夫(七十七歳)婦(七十四歳)子十三、同居なし。婦六十歳まで不定経ありて
、蛇の生焼好む、夫は蜂蜜好む。月計七、八回。就寝後にても催してくると、
しきりに妻よりよく求められる。(筑前、箕作)
(9)夫(八十一歳)婦(七十九歳)子八、同居なし。五十三歳月経閉止。肉体が若
い上に死が近まったせいか六十歳から七十歳頃までより、現在の交りの方が有り難い思ひがして楽しい。月計二十回くらい。夫婦だけであるから随時。夜明
けまで続行の時もある。(筑前、箕作)
三角先生は江藤医学博士を同行、ついでに健康診断として、夫八十九歳・妻九十歳にして、月に五回は夫婦生活を営んでいるという二人を裸体にして検診した所見を詳細に朝日新聞社刊の「サンカの社会」の246Pから三頁にわたって、肉体上の外観を、レントゲンなしではあるが発表を援用。
九十歳の夫婦の裸体
山陽道における夫(八十九歳)婦(九十歳)の播磨、エラギ兼羅宇師夫妻の夫婦道は、九十歳に至っても、性交月五回ぐらい、一回の所用時間二時間に及ぶ事は、珍奇の現象と云わねばならない。よって前述のごとく、山陽道(ヤマヒナタシチ)の長
(オビト)、八國知大人(クズシリオホヒト)、八蜘蛛断(ヤクモタチ)(通称人名、播磨多治郎)に特別にその裸躰の診察をなすことの許可を依頼した。その所見は次の通りである。
八十九歳の夫(江藤医学博士検診断と、前記の著に三角寛先生は明記される)
生年‥‥八十九歳百十三日。所見は身長‥‥五尺四寸一分。躰格は普通、一見五十五、六歳の肉づき。頭髪‥‥多毛にして全白。眉毛‥‥長くして全白。腋毛‥‥長し、全白。陰毛すりきれて薄し、全白。顔面‥‥丸顔、髪、髭、髯ともにあり。(月十回剃
る)眼の眼球は太く、上眼瞼溝なく、眼瞼頬溝が深い。左右の耳介は車輪円大にして、舟状窩深く、耳たぼ長し。
皮肉骨相(上部)‥‥(1)顔面、オトガイ骨は円滑、顎関節と頬骨弓は張っていない。鼻骨は高い、外後頭隆起は突出している。(2)咽頭隆起が高い。(3)僧帽筋が発達している。(4)頚部の上鎖骨上窩が深い。(5)頚窩も深い。(6)大胸
筋は発達している。(7)上腕二頭筋が左右とも逞しい。(8)五指を握らせると、掌のつけ根の三角骨、尺骨の茎状突起、尺側手根屈筋、長掌筋ともに逞しく、肘頭、上腕骨とも隆々としている。(9)腋窩以下、広背筋、横前面の前鋸筋、外腹斜筋、
腹直筋も逞し。皮肉所見(下部)‥‥(1)上前腸骨棘。(2)大腿筋膜張筋(3)大腿(4)ニ頭筋、共に逞しく、(5)膝蓋骨が狭小である以外は、すべて逞し。(6)大殿筋に至っては、いささかの懸垂皮肉は見られず、老人特有の衰退所見は全くなし。皮膚‥‥色はきわめて健康色で、白艶がある。
陰部‥‥隠嚢きわめて長く懸垂し、睾丸は左右とも平行で、懸垂に長短なし。隠茎躰は縮小中で普通である。亀頭冠、著しく蓋形を見せ、尖頭型で、亀頭頚の深さが顕著に見られた。
九十歳の婦。(夫と同様に、江藤医学博士検診と、三角寛先生前書に発表)
生年‥‥八十九歳二百十九日所見。身長‥‥四尺九寸八分。躰格‥‥ヤセ型、筋肉緊張、硬質体。頭髪‥‥烏毛のごとく漆黒にして多毛。白毛なし。眉毛‥‥短毛なれど濃し、白毛なし。腋毛‥‥長く腋窩に溢る。陰毛‥‥二本白毛あり。顔面‥‥やや瓜種型、往古の絵画に見る貴族相。目‥‥平常型なるも、眼窩やや深く、眼球常態、上眼(瞳)瞼溝のない一重瞼である。瞳孔と虹彩と鞏膜が、鮮明に区切られているので、著しく清眼である。うちまなじり、そとまなじりともに鋭線にきざまれている。睫毛は長く湿気がある。鼻筋は、鼻根より鼻尖にかけてなだらかに緩い斜線を描いているので、鼻高で、鼻尖を撫でとったような醜さがない。耳は偉大な大型で、耳輪は厚肉で、耳垂が内房になっている。上部の三角窩は低く、対輪脚に安定している。
皮肉(上部)所見‥‥(1)顔面、オトガイ骨正常。顎関節と頬骨弓は滑で、鼻骨を捧げている。外後頭部は平滑。(2)咽頭隆起、正常。(3)僧帽筋逞し。(4)頚部小鎖骨上窩、正常。(5)頚窩浅い。(6)大胸筋発達、錐緩部なく緊張。(7)
乳房、胸壁の位置中央寄、附根の円周、尺六寸。乳輪中央部円周尺一寸。附根より乳頭までの長さ四寸二分。形は円堕状。老化の兆さらになく、処女型の隆起である。受胎中は、やや下垂気味であったが、月経閉止後緊縮した。(8)肋骨弓、乳房下から、胸部と腹部の区分線である肋骨弓の底辺が急に緊って、骨盤上に直立して、外側大腿骨の大きな広がりが、上半身と下半身の区分を明確な横線で作っている。(9)腋窩以下、脇腹から前面にかけての筋肉は、大胸筋の緊張につづいて緊張している。
一、 源は「元」である。
のち北条時代に何故に元軍が大軍を催して懲りずに攻めてきたか?この元寇の際に、何故に北条時宗が桓武帝の真似をして国内の史書を焚やしたのか?の謎も、そうすればよく判りうる。
ついでに付言すれば、ハバロフスクへ行かれた事のある方なら、町の中央の民芸館の正面入口に大きな盆のようなレリーフが掲げられている。バイカル号に乗って行かれた人ならばハッとしたであろうが、共に笹竜胆のマークである。
同じ沿海州のハバロフスクの先のチャリキーには、笹竜胆の上隅にパンダの顔が覗いている木彫り状のトーテムが立っている。つまり「元」として東欧まで制圧した彼らの民族章なのである。
明治十八年に末松謙松のものを訳にした形で慶応在学の内田弥八が、「義経再興記」を、日本橋本石町上田屋より刊行。これを底本に小谷部圭一郎が「ジンギスカンは義経」を書き、昭和になってからは高木彬光が、それを判りやすくしてからが、カッパブックスとして出版している。
つまり元寇とは、北条氏が源頼朝を落馬即死の恰好で始末してから、次々と源氏を討ち滅ぼしたのに対しての民族の復仇とし、文禄、弘安と続けざまに源氏の世に戻す為の来攻である。
北条時宗が、そのために北条政子によって梶原、和田、三浦ら源氏を皆殺しにした門註処の記録文書や歴史書を用心のために焚書してしまったのである。
これを北条焚書というが、だから今ではこの時代の古文書は全く残っていない。
次にとってかわった足利氏が、「臣源道義」と、実際は源氏ではないのに、対明への国書にはことさらに源姓を名乗ったのも、又しても元寇を繰り返されては難儀するからとの、外交上の駆引き自己防衛策だったのである。
ニ、 平はペイでペイルシアである。
つまり黒潮暖流によって第一次は今のアブダビ海よりアレキサンダー遠征軍によって、ギリシャ語のガレーリナと呼ばれたマレーシアのバハン(ヤバアン)へ移送。そこから、今は雲南と離れているベトナムへ開拓奴隷として送られた際に、天地水火を祀る四方拝の民(七世紀にマホメットが回教を拡めてからは、無智なる拝火教と蔑まされたが、紀元前三世紀には今のイランの首都がスサであったし、彼らの拝む神がGIONであり、ミソギする河がヤサカだったので、スメラ山脈のならぶホルムズ海峡へ集結され)脱出した時に、古代バビロニア語の逃亡奴隷の「ミーコト」と呼ばれた者らの中で、日本列島まで流れてきた漂着の群れ。八幡国群の名で呼ばれ、親魏政権の耶馬台国群とくり返し戦った古平氏の先祖。
第二次は、かつてはアフリカやアラブの熱帯や亜熱帯の方が食物に恵まれていて文化人で、白色人は白ッ子扱いをされて奴隷とされ、ガレリー船を漕がされたり、ピラミッドのような強制課役をさせられ、堪りかねて寒冷のスカンジナビア方面の北東へ逃げ、防寒に胸毛や腕に猿のような毛を生やした連中がバイキングで資力をつけ、有色人への仇討ちに南下してきた時代。
白人の歴史では「十字軍」と恰好よくされているが、掠奪した物の半分を教会へ献納すれば、「神は嘉し賜る」と誉められ、暴行強姦が勝手気侭の時代。アラブの奥地の拝火教徒はヤスドに収容されていたが、海岸に近い所の者はスメラ(日本では戦後からシュメールと呼ぶ)沿岸で人間の防波堤にされた。
次々と混血児を生まされ、堪りかねて又黒潮に乗って生魚を手掴みでとって塩水で洗い食しつつ、筏で日本へ流れついたボートピープルが、紀州熊の浦に集団上陸した。
時の鳥羽上皇が、得長寿院建造を三十三間の長さにせよとの御下命だが、そんな長い杉の木はなく困り切っていたところへ、第二次の新平氏は筏をつないできた鉄のクサビをはずして持参し、上皇の御指示のように60メートルの棟木を作って内匠頭つまり作事方に、タダモリあげたきりと悪口を言われつつ、平の忠盛の名を貰って従五位となって昇殿を許された。
第一次の古平氏は鼻ぺしゃで色も浅黒かったが、第二次移民団は、今でいえば彫りの深い顔立ちを皆が混血児ゆえしていた。そこで女は殿上人にそれぞれ召され、男も好色な藤原女のベットボーイとなり、セックスで見る間に実権を握り、清盛落胤説までが生れるようになる。もちろんアラブのアッタ神殿には十六枚の菊花の他に、二つ巴、三枚笠といった日本人の家紋は、笹竜胆以外はみな揃って残っており、明治になって平民とよばれるくらいに次々と熊の浦へは来着。やがて今の神戸の福原にも築港。新平氏は「平家御一門」として入ってくる。後の足利末期の関白二条兼良の三男の尋尊大僧正が書き残した「大乗院寺社雑事記」
に、「西南より渡来にて馴れぬ者は堀川三条の囲地に収容」(京の各寺の目玉タレントとして青い目の者らはスカウト)とあるが、工人武人となる者へは古来よりの慣習どおりに「平姓を賜る」とある。活字本でも復刻されている、これが裏付け資料であるが、
「天の日本古代史研究」に詳しい。
三、 藤は唐である。
唐によって滅ぼされた随の者らの華夏王朝は、郭ムソウ将軍進駐時に通弁や道案内に奉公したので、発音は同じでも「桃」とあてられて、岡山一帯を昔の中ツ国なみに中国地方とよんで、山口県までその本貫地支配下におくのが認められたが、後世には一つとなる。
四、 橘は、ややこしいが日本では匿されている契丹である。
なにしろ、頭の良いのや要領よい者と美女だけは都に残れたが、他はデッチあげの天慶の乱で東北に追われたり、紀ノ川の奥に追い込まれてしまい、藤[原]と同じく大陸系なのに大宝律令の「良」でなく「賎」の民にされる。
かつてオランダ本国が滅亡した際にも、日本の出島だけには、世界で唯一つのオランダ国旗が立っていたというが、大陸では唐は滅び契丹の時代になっても、日本ではまだ唐政権だった。
が、契丹系でも文化的なのは、橘諸兄といった名で登用されているのが要領よき一例である。
しかし、日本人を形成する四大姓の一つが、キツとなったのは相当多く入り込んできた事になる。当時の人口を千万人とみても二百万人ぐらいは契丹系という事らしい。
なにしろ彼らは、本国が正式には攻めてきてくれず、唐勢力によって敗退すれば、賊軍の立場とされてしまった。
今でこそ、天神様は頭の良くなる学問の神様だと、入試の絵馬や祈願で儲かっているそうであるが、当時はみじめなもので、「ここは何処の細道じゃ、天神様の細道じゃ。‥‥行きはよいよい、帰りは恐い、恐いながらも詣りゃんせ‥‥」といった戒め童唄でも判りうるものである。
唐を亡国にした憎っくい契丹人の信仰の天神様は、「ここは何処の細道じゃ」という程の、ちょっと見つからぬ小径の奥に匿されていて、一人ずつ詣りにゆくのはよいが、帰りはつい皆で戻ってくるから、話し声を役人に聞きとがめられると処罰される。
が、それでも祖国を離れて住み着いているからには、命がけでも詣らねばならぬという、これは子供らへの教訓歌にほかならない。
それゆえ、口に出して唄ってみればわかるが、お詣りに行く歌にしては悲壮感というか哀愁がある。つまり西暦940年の天慶の乱からこのかた密かに唱えられてきた呪文みたいな歌のせい。
さて、三角寛の著に、「下谷万町が白バケサンカの本拠」とよく出てくるが、この一帯が湯島天神の社有地なのである。泉鏡花の、「別れろ切れろは藝者の時にいうせりふ。真砂町の先生が‥‥」といった湯島境内の舞台が有名なのも、湯島天神の境内だからこそ、先生について学問するか女と切れずにゆくかが、昔の看[観]客には胸を突かれる想いがする舞台効果なのである。
ついでに書けば、幕末まで流行した根津権現にしても、当初はエケセテネの、日本最古の雑色人種の守り本尊であったかしれないが、江戸中期からの繁昌は根津の遊郭にあったという。
「権現のひる遊び」といって、女は今の団地妻の一部みたいに亭主を仕事に送り出し、夕食の仕度までに戻ってゆく日本版の「昼顔」で、「馬のり」とか「おんまさん」と呼ばれていた。
つまり、吉原などと違ってこの場所では、全て女上位で男の上に跨るから、上からではピンピンしていなくては挿入できないが、鞘かぶせとなると御隠居さんのでも咥えこんでくれる。
それに根津の女は前借りとか鞍替えなどはなく、四分六分か七三で、その日に金を持ち帰ってゆく。気の向かぬ時やお迎えの日は休み、当時の江戸では女の仕事はOLもなくただあれだけゆえ、趣味と実益で、しかも搾取はないから、女が己れの性を自己意識で使いだした皮切りである。「根津でもて、男もどうやら一人前」といわれるぐらいで、江戸期の川柳には数多く残っている。
さて、という事は、湯島天神の飛び地の中に根津権現はあって、共に江戸におけるサンカの溜り場という事になる。なにしろ何の産業も工業もないのに、亨保二十年から天保にかけて、江戸の人口は百三十万人と、世界一の都会になったそうだが、これは街道目付を流して歩く「堂の者」に朱鞘の公刀と捕縄を渡して取り締まったから、へ入れられていた者が伝達をつけてもらって都市へ出て、江戸を世界一の人口にしてしまったのだが、男九人に女はたった一人の割合でしかなかった。
というのは、江戸へ出てきても女の働き口はせいぜい下女ぐらいしかなく、路銀をかけて来る程のことはなかったからである。だから、まさかと今では思われるが、堅気なところの妻女や娘が五人に一人は観音さまを貸し、かつえている哀れな男どもを救ってやっていたのである。
よく講談で、明暦の大火後にできた新吉原へぶらりぶらりと土手八手をと語るが、あれは嘘。夜遊びしたいなら舟宿からくりだすか、陸ならオカミから町木戸を通れる鑑札を貰っている筋の通った駕に乗らなくては、夕方から町木戸は閉まってしまうので、そんなにブラブラ遊びにゆけるものではない。今の陸運局みたいなのが奉行所にあって、東京の四大タクシーみたいな駕屋に限って、番太郎宛の通行手形を出していたのが、全く今では知られておらぬ。
その点、根津は女達が朝は四ツ(午前十時)から夜は七ツ半(午後五時)と、昼遊びゆえ、町木戸の煩わしさもなく繁昌していたのであるが、そのように雑多に人が集まるという事は、トケコミとよばれて町屋に入っている者がツナギに来るのも都合がよいし、シノガラとよばれて各地のセブリを廻って歩く者が連絡をとりにくるのも都合がよかったらしい。
まあ、幕末までの根津の賑やかさは、昼遊びは隠れ蓑で、サンカが江戸初期のごとく、武蔵一(はじめ)などが国々で統制をとっていったのでは追いつかなくなって、全国的になったせいでもあろう。
「根津は女だけでなく、<羅宇(スイ)もよし>」という古川柳を、トルコなみに口で吸引するのと間違えて説明している本もあるが、これはあくまでサンカのトケコミの煙管のラウ竿直しの事である。
竿師とよばれる青竹屋も、煙管のラウ屋とトケコミの仕事からで、故林屋三平の弟が日本一の釣り竿師の跡目になっているのも、そこが歴史的に古いエビナ家の伝統なのであると判ってほしい。
セックス・イン・サンカ
「セブリの性交度数」という題名で、性交(マグイ)についての研究を「サンカの社会」朝日新聞社刊では克明に三角寛先生が示していて、これが当時の世人を驚かせて、自然食こそ強請の素のエッセンスと喧伝されだし、今もいわれる。そのため今日でも大いに自然食品は流行している。
一、東海道 関東
(1)夫(二十九歳)婦(二十六歳)子供三、同居。
月経中続行。毎日。一日二回平均。セブリ、野外半々。
(伊賀の箕作りで、元志摩箕作りの孫)
(2)夫(三十九歳)婦(三十七歳)子供四、同居三。
月経中続行。妻からの要求が多い。毎日、一日二回乃至三回の事有り。野外 の場合が多い。(伊賀ササラ箕作り、兼業)
(3)夫(四十歳)婦(四十ニ歳)子供五、同居三。
月経中も可。毎日。度数は月経切迫時に二回の事あり。野外の場合が多い。
(伊勢、箕作、笊屋兼業)
(4)夫(五十七歳)婦(五十三歳)子供七、同居三。
月経有。経中も続行。月計二十数回。ときどき二回連続。野外の場合が多し。
(尾張、箕作、鋳掛師兼業)
(5)夫(二十八歳)婦(三十に歳)子供三。
月経中続行。毎日。一日二回乃至三回の日が数回ある。月経後が多く日に八回をこえる。(三河、箕作、茶筅師兼業)
(6)夫(四十歳)婦(三十九歳)子供五、同居ニ。
月経中は中止。殆ど毎日。ただし一回のみが多い。
(遠江、箕作、研師兼業)
(7)夫(四十五歳)婦(二十一歳)後妻。先妻の子三、自分の子ニ。同居。月経中
続行。毎日二回はかかさず。野外専門。セブリでは雨天の時だけ。月計二十五回平均交わる。(駿河、箕作、兼業)
(8)夫(四十七歳)婦(三十九歳)子供五、同居三。月経中も続行。月計二十五回
平均交わる。野外多し。(甲斐、箕作り、エラギ兼業)
(9)夫(四十九歳)婦(四十九歳)子供七、同居三。月経中も可。月計二十回程度
セブリ、野外にては半々。(伊豆、箕作)
(10)夫(五十歳)婦(二十八歳)後妻。先妻の子四。自分の子ニ。同居三。毎日一
回乃至二回。セブリ、野外にては半々。(相模、箕作)
(11)夫(五十歳)婦(五十一歳)子供八、同居三。月計二十回程度。子供多く、よ
って野外多し。月計二十回程度。(武蔵、箕作)
(12)夫(五十一歳)婦(四十八歳)子供七、同居三、月計二十回程度。セブリ、野
外半々の割合。(安房、箕作)
(13)夫(五十五歳)婦(五十歳)子供八、同居ニ。月経有。経中一日二回繰り返し
多し。月計三十五回程度。一日二回が、時々あり。(上総、箕作)
(14)夫(五十九歳)婦(五十八歳)子供十一、同居四。月経あり。経中支障なし。
毎日。定めて行う。セブリ一、野外ニの割。(下総、箕作)
(15)夫(六十三歳)婦(六十五歳)子供十三、同居ニ。六十四で月経停止。閉経後
快感増。隔日平均なるも連続ニ三回のことあり。続行中セブリより野外にて交わる事しばしば。(常陸、箕作)
ニ、南海道 (関西)
(1)夫(十九歳)婦(十七歳)子一。月経期間五日間中止。毎日。月計四十数回。
春夏には野外多し。(長門、箕作、笊製造兼業)
(2)夫(二十七歳)婦(二十九歳)子三、末子二歳。月経中も不休なり。毎日かか
さずおこなう。野外はときどき。月計三十数回。(周防。笊製造兼ザル製造)
(3)夫(四十四歳)婦(五十歳)子七、同居三。月経有、経中支障なし。要求は婦
七、夫三の割合。春夏は毎日。一日二回の日多し。セブリ、野外半々。(安芸
、箕作兼蝮捕)
(4)夫(五十一歳)婦(四十八歳)子九、同居四。経中も可。要求度は夫婦半々。
隔日乃至三日目程度。マムシ酒を服用したとき二回乃至三回連続の日あり。野外裸体のとき連続四回もある。(備後、茶筅兼ササラ製造、夏期蝮捕)
(5)夫(六十一歳)婦(六十三歳)子九、同居三。妻五十五歳にて月経停止。閉止
後婦よりの要求度強まる。夜間房中妻の声はげしき時は、やむなく野外に出る。(備中、箕作兼マムシ捕兼河魚捕)
(6)夫(七十歳)婦(六十八歳)子十一、同居なし。月経五十六歳にて閉止。婦の
要求度は閉止前は夫に優ったが、閉止後は平静。隔日平均なるも、ニンニクを肴として唐辛子酒を服んだ時は、一回三時間以上を要する。夫婦とも服用して
励む。(備前、箕作兼マムシ作。また河魚捕、ウナギ捕の名人)
(7)夫(八十一歳)婦(七十九歳)子九、同居なし。月経五十七歳にて閉止。閉止
後楽しみ増。月経中も要求度が夫に優っていたが、閉止後は特に増す。三日おきぐらいなるも、一回の時間が一時間以上に及ぶことが珍しくない。特に強壮
食は別に何もとらない。(美作、茶筅師エラギ兼業)
(8)夫(八十九歳)婦(九十歳)子十一、同居なり。月経は五十七歳まで。五十六
歳まで末子がいたが、全児巣立ってからは、七十歳までは毎日続けた。七十歳から八十歳までは隔日ぐらい。八十歳後は、自然に減った。ときどき毒草鳥兜
を用ふ。(これは量を誤ると死亡するので、おおいに注意している)完逐所用
時間は、老後は一日二時間以上に及ぶようになる。
三、西海道 (九州)
(1)夫(十九歳)婦(二十一歳)子ニ、同居。月経中七日乃至八日休止。経後要求
強し。殆ど、ごとく毎日。昼夜一日二日多し。村落の路傍竹林中等。末子を背
負ったまま。(薩摩、箕作)
(2)夫(三十よ歳)婦(四十歳)子三、同居ニ。月経中続行。経後婦の要求強し。
就寝後。日中林中の裸体行為にてを好む。(大隅、箕作)
(3)夫(四十歳)婦(四十一歳)子四、同居三。月経中続行。経直前は妻よりの
要求多し。毎日。就寝後なし。婦の矯声高きにつき、子供を避けて野外にて昼
夜の別なし。(日向、箕作)
(4)夫(五十歳)婦(四十七歳)子なし。婦は眼球転動症。本症は平素眼球が上下
左右に転動しているが、能発作のときは上下か左右だけ一定に転動し、この時は情交神経旺盛となる。一日に婦は三回乃至五回も狂発(発作)することがあ
り、裸体にて山や里などに駆け出すので、看病のため鎮静さすためゆえだから時と場所を選ばない。特異な例である。(肥後、笊作)
(5)夫(六十一歳)婦(五十八歳)子七、同居なし。婦五十七歳にして月経閉止。
閉止後実行快度増。就寝後多し。月中数回は野外。実行前後に右乳を夫に吸はせる習性あり。(肥前、箕作)
(6)夫(六十三歳)婦(五十八歳)子九、同居なし。婦五十四歳にて月経閉止。閉
止後も夫次第である。毎日。末子同居中は野外にて共に用。末子根分け後はセブリ就寝のとき。(豊前、箕作)
(7)夫(四十五歳)婦(四十九歳)子九、同居一。月経中可。経後きわめて良し。
月に計二十回程度。坐行型を好む。野外多し。(豊後、笊作)
(8)夫(七十七歳)婦(七十四歳)子十三、同居なし。婦六十歳まで不定経ありて
、蛇の生焼好む、夫は蜂蜜好む。月計七、八回。就寝後にても催してくると、
しきりに妻よりよく求められる。(筑前、箕作)
(9)夫(八十一歳)婦(七十九歳)子八、同居なし。五十三歳月経閉止。肉体が若
い上に死が近まったせいか六十歳から七十歳頃までより、現在の交りの方が有り難い思ひがして楽しい。月計二十回くらい。夫婦だけであるから随時。夜明
けまで続行の時もある。(筑前、箕作)
三角先生は江藤医学博士を同行、ついでに健康診断として、夫八十九歳・妻九十歳にして、月に五回は夫婦生活を営んでいるという二人を裸体にして検診した所見を詳細に朝日新聞社刊の「サンカの社会」の246Pから三頁にわたって、肉体上の外観を、レントゲンなしではあるが発表を援用。
九十歳の夫婦の裸体
山陽道における夫(八十九歳)婦(九十歳)の播磨、エラギ兼羅宇師夫妻の夫婦道は、九十歳に至っても、性交月五回ぐらい、一回の所用時間二時間に及ぶ事は、珍奇の現象と云わねばならない。よって前述のごとく、山陽道(ヤマヒナタシチ)の長
(オビト)、八國知大人(クズシリオホヒト)、八蜘蛛断(ヤクモタチ)(通称人名、播磨多治郎)に特別にその裸躰の診察をなすことの許可を依頼した。その所見は次の通りである。
八十九歳の夫(江藤医学博士検診断と、前記の著に三角寛先生は明記される)
生年‥‥八十九歳百十三日。所見は身長‥‥五尺四寸一分。躰格は普通、一見五十五、六歳の肉づき。頭髪‥‥多毛にして全白。眉毛‥‥長くして全白。腋毛‥‥長し、全白。陰毛すりきれて薄し、全白。顔面‥‥丸顔、髪、髭、髯ともにあり。(月十回剃
る)眼の眼球は太く、上眼瞼溝なく、眼瞼頬溝が深い。左右の耳介は車輪円大にして、舟状窩深く、耳たぼ長し。
皮肉骨相(上部)‥‥(1)顔面、オトガイ骨は円滑、顎関節と頬骨弓は張っていない。鼻骨は高い、外後頭隆起は突出している。(2)咽頭隆起が高い。(3)僧帽筋が発達している。(4)頚部の上鎖骨上窩が深い。(5)頚窩も深い。(6)大胸
筋は発達している。(7)上腕二頭筋が左右とも逞しい。(8)五指を握らせると、掌のつけ根の三角骨、尺骨の茎状突起、尺側手根屈筋、長掌筋ともに逞しく、肘頭、上腕骨とも隆々としている。(9)腋窩以下、広背筋、横前面の前鋸筋、外腹斜筋、
腹直筋も逞し。皮肉所見(下部)‥‥(1)上前腸骨棘。(2)大腿筋膜張筋(3)大腿(4)ニ頭筋、共に逞しく、(5)膝蓋骨が狭小である以外は、すべて逞し。(6)大殿筋に至っては、いささかの懸垂皮肉は見られず、老人特有の衰退所見は全くなし。皮膚‥‥色はきわめて健康色で、白艶がある。
陰部‥‥隠嚢きわめて長く懸垂し、睾丸は左右とも平行で、懸垂に長短なし。隠茎躰は縮小中で普通である。亀頭冠、著しく蓋形を見せ、尖頭型で、亀頭頚の深さが顕著に見られた。
九十歳の婦。(夫と同様に、江藤医学博士検診と、三角寛先生前書に発表)
生年‥‥八十九歳二百十九日所見。身長‥‥四尺九寸八分。躰格‥‥ヤセ型、筋肉緊張、硬質体。頭髪‥‥烏毛のごとく漆黒にして多毛。白毛なし。眉毛‥‥短毛なれど濃し、白毛なし。腋毛‥‥長く腋窩に溢る。陰毛‥‥二本白毛あり。顔面‥‥やや瓜種型、往古の絵画に見る貴族相。目‥‥平常型なるも、眼窩やや深く、眼球常態、上眼(瞳)瞼溝のない一重瞼である。瞳孔と虹彩と鞏膜が、鮮明に区切られているので、著しく清眼である。うちまなじり、そとまなじりともに鋭線にきざまれている。睫毛は長く湿気がある。鼻筋は、鼻根より鼻尖にかけてなだらかに緩い斜線を描いているので、鼻高で、鼻尖を撫でとったような醜さがない。耳は偉大な大型で、耳輪は厚肉で、耳垂が内房になっている。上部の三角窩は低く、対輪脚に安定している。
皮肉(上部)所見‥‥(1)顔面、オトガイ骨正常。顎関節と頬骨弓は滑で、鼻骨を捧げている。外後頭部は平滑。(2)咽頭隆起、正常。(3)僧帽筋逞し。(4)頚部小鎖骨上窩、正常。(5)頚窩浅い。(6)大胸筋発達、錐緩部なく緊張。(7)
乳房、胸壁の位置中央寄、附根の円周、尺六寸。乳輪中央部円周尺一寸。附根より乳頭までの長さ四寸二分。形は円堕状。老化の兆さらになく、処女型の隆起である。受胎中は、やや下垂気味であったが、月経閉止後緊縮した。(8)肋骨弓、乳房下から、胸部と腹部の区分線である肋骨弓の底辺が急に緊って、骨盤上に直立して、外側大腿骨の大きな広がりが、上半身と下半身の区分を明確な横線で作っている。(9)腋窩以下、脇腹から前面にかけての筋肉は、大胸筋の緊張につづいて緊張している。
(10)臍は、凹型で、臍部は丘陵を作って、その頂上に達したところで、臍穴になっているが、その裾線はかすかに辷って、また恥丘に上っている。(11)上腕二頭筋も三頭筋も逞しく、五指を握らせ腕を曲げると、ニ頭筋に丘陵がふくれる。(12)掌
は大きく、尺骨頭が著しく骨高である。五指は長く爪は肉色で健康。
下部所見‥‥腹部と大腿骨を区分する大腿骨と恥丘の間に生じた鼠径溝は深い谷を作っている。(2)大腿部から下肢、下腿部の線は、みごとに垂直で撫細線で、膝蓋骨と脛骨の連合が、一骨垂直のごとく、垂直に結節している。膝蓋骨の横展が狭い。
従って、筋肉の垂直線に彎曲がなく綺麗な脚線である。(3)足底は足根骨が著しく表面に盛上がり、甲高で、足円蓋が弓状に盛り。(ツチフマズが高い)(4)恥骨結合点、陰毛が、恥丘全体に冠さっているので、恥骨線は明確に所見できない。陰毛は、
臍下から一条が下り、恥骨一帯で広域に亘り、横は鼠径溝に達し、前部は陰阜から前陰唇連合から左右に下って、両側の大陰唇の大部分まで生えさがり、膣前庭下に及んでいる。長い太筋毛であるが、交接摩擦のため、著しく縮れて、陰挺包皮もかくれず大陰部の中より突出している。背部‥‥(1)背柱、第一腰椎から上に向かって、尖椎に至る間が、前面胸部い向かって弓状に深く彎曲している。(2)腸骨稜から尻までは、著しく後方に突出して豊満。
トリカブトを採って焼石で黒焼きにし、ひとつまみずつ服用するのは、せいぜい月に一度ぐらいのもので、決して常用はしていないが、一歳年上の妻は連夜にても所望するが、八十九歳の夫としてはセブリの移動に労力を要するゆえ、八十歳になってからは月に五回と、七十歳代の十回を半減。もちろん六十代までは連日連夜にわたって妻の要求に応じていたものだとの証言である。
この調査時の昭和二十四年の頃は、まだ玉ノ井や吉原みたいな所が各地にあった。
一般の夫婦は婚後七年から十年で夫婦生活は倦きがくるのか一応は中断され、夫は遊びに行って金をとられて戻ってきて、家でなら無料だと又始めるか、それとも遊びに行く事が刺激となって、月に一回ぐらいは旧へ戻ったものである。
私が新興芸術派としてならした、愛知一中の先輩の久野豊彦の許に最初に身を寄せた時も、奥さんから突然だしぬけに愚痴られたのも、「うちのは、もう八年も、まるっきり見向きもしないで喰って寝るだけですよ」
とベソをかいて訴えられ、その晩、久野先生が戻ってこなかったら、夜中に奥さんがそっと入ってきて、何用だったか不明だが、こっちはギャアッと悲鳴をあげた思い出がある。
故S先生も愛知一中の先輩で、居候にいったら、やはり夫人が七年も放っておかれていると愚痴をこぼされ、「お小遣いをあげましょう」と一円札を、蒲団をしいてくれてから差し出されたのに仰天。たしか五日たらずで退散してきた覚えがある。
尾崎秀樹先生を通して、亡くなる前の未亡人が私に逢いたがっているから伺うように、とすすめられたが、黙殺して行かずじまいで未亡人は亡くなられた。尾崎秀樹先生は、「若い時に厄介になりながら、薄情な不人情なやつだ」と、さぞ肚にすえかねていられるだろうが、まさか本当の事は今もって言えずじまいの侭である。といって、作家の奥さんだけが欲求不満だったわけではなく、今のように赤線がなく、抱けるのは古女房しかいない時代でなければ、同じ相手では倦きがきて、なまぐ
さい仲から人情深い思いやりの肉親みたいな夫婦に変っていくのが普通である。
ところが、サンカの社会では、九十歳になっても夫婦生活が月に五回もあるというのが、当時の世人を愕かせて、サンカとは[常人とは]別種のものとなした。
つまり日本人離れしていて、彼らが別個の種族であるとする証明に、このセブリの連日連夜の性交が大きくとりあげられ、誰もが自分と比べてみて違う民族らしいと決めつけてしまった。しかし、この調査表には性交回数は詳しく書いてあるが、肝腎な体位が書かれていない。
かつて玉ノ井などでは、ふつうでは直立不能な年輩の客を専門にするプロがいたもので、「ちょっと御隠居さん、よってらっしゃいよ」
と、しきりに呼び込みをしていたものだ。
つまり直立しにくくなったものでも、上から鞘をかぶせるようにして、絞めたり擦れば、条件反射でマイハートの生れ故郷の膣内では、蘇るように硬直しかけ、うなだれ半分でも射精はする。なのに普通の正常位と思うからして、九十歳になっても行為
ができるのを不思議がるが、セブリでは女が跨っていくのだから同じで、いくらでも
かぶさっていき、絞めつければ可能。
なにしろ男は起立しなければ用はたてそうもないし、その気にもなれないけれど、女は、「ひろげよ、されば、かぶせれば、覆うが如くに男を包みこめん」なのである。それにである。
よく俺のものは素晴らしいとか、真珠をはめこんだりして女を歓ばせようとする男がいる。だが女の生理はオナニーみたいに他動的に誘発されはしても、本当の満足は生理日の排卵期を周期にして自分で燃え、そして満足するもので、ちゃんとした真珠
の首飾りでも贈物のされるなら別だが、入れて抜いて戻してしまうのでは本当のところは嬉しくもない。
つまり、とやかく言ってもテクニックで満足させられると思うのは男の側で、女は地球の自転みたいに一人で燃えたぎり、勝手に声をあげて自己満足をするだけの話で、それゆえナルシズムそのもの。
レズビアンで大いに満足するのもこの為で、インドのシャクテイ信仰は、「女人にとって男は単なる道具でしかない」と、陽物に似た石や木型を奉納する。つまり男にインポはあっても女は九十歳になろうが百歳になろうが、生理中でも止まった後でも、その機能は女体みな共通。
だから厭だと思う男でも、行為の途中から自分の方が自転作用を起こしてしまうから、アメリカのレイプ事件など起訴されても、有罪判決になるのは先天的不感症の女性に限るようであるから、百件で一件しか陪審で有罪判決が出ぬというのも、その理由によるものとされている。つまりサンカ社会のような、女人の方が男の上に押しかぶさっていく女上位では、男性側の射精は問題ではなく、女体の満足だけで夫婦生活とするから、連日連夜とか何十歳までというのは通常行為、つまり正常位をもって律すれば、大和民族にしては異常すぎて別個の他民族ならんとしてしまうような三角寛説にもなるのだが、正常位ではなく男はただ何と言うか、女性満足への補給道具であるとみれば、これはとんでもない話で、別に拡大解釈する必要はない。
かつて軍の慰安婦は、仰向けになったまま握り飯を喰いつつ、一日に八十人から九十人の兵士の処理にあたったというし、私も奉天の北春日小学校だった難民収容所で北満から辿りつくまでに、千人以上のロスキーに犯されてきたオバサン達に実際に何人も逢って話をきいている。しかし、彼女達は囚人部隊に犯され通してきたので、肉体のその部分が擦れて痛いと軟膏を塗っていたぐらいだが、梅毒で次々と死んでいった。
が、サンカ社会は、男は掟として、他の女には触れてはならぬ定めとなっているゆえ、江藤医学博士の検査報告でも性病は皆なしとある。
さて、従順な奴隷となりきった庶民は、その先祖の女が進駐軍に種つけされた子孫のせいらしいが、脱走して反権力反体制の民として生き抜いた純日本人である妻帯というか、夫帯をしていたサンカの女たちは、万国無比の好色人種となる。
つまり海外旅行へ行き、イタリアどころかサイパンのガラパンあたりの島民の男でさえ、「いいわ、お金なんか」と無償で寝てくるのも、なにも純情で好色だというのではなく、満足を自分らがしたいからして、タダでもよいのでもある。だから私なん
かは、ずっと単身で、そうした苦労はせずにすんで仕事ができているらしい。
さて、話は戻るが、契丹軍が大軍を催して来寇してこぬとみると、火山灰をはねのけ緑の耕地とした坂東八ヶ国や紀の川の上流の住民を、藤の者はでっちあげの「天慶の乱」で賊とし、「賎の民」として、大陸系なのに東北へ追い込んだ際に、「奴隷にされて堪るものか」と山中奥深く逃げ込んだ者らも相当にいた。
なにも、攻めに来たのではなく、助けを求めに逃げ込んだのであるから、サンカの国一(ハジメ)も拒むわけにはゆかず、セブリの中に入れて加える事を仕方なく認めた。
さて、三百年も昔から俗世間からは遠のき、あくまでも反体制反権力だけで山から海へと、逃げ廻っていた連中にとって、突然に仲間にと救いを求めて飛び込んできた連中は、文化人の大集団で、日本では官兵しか持っていない鉄の剣さえ持ってきていた。よって、四つに折って柄をつけた。契丹の古紋である梅鉢の紋所に模して、焼け火箸で五つの焼印の柄をみな入れた。
それまで石では尖らせても重いので、大きな貝殻を見つけてきて砥ぎ、貝刃をもって唯一の武器にしていたサンカ社会では、鋭利なこの武器が各テンジンごとに配られると、貝刃の代りに「ウメ貝」と名づけられた。そして彼らから算数や文字の読み方も、ついでに教えられた。
こうなると、彼らは国一の参謀みたいな立場となって、サンカ社会も文化的にと変った。つまり国一は、これまでのしきたり通りに各国別の仕置きをするが、各テンジンの指揮は、次々と逃げ込んできたザボ(新加入者)たちが司るようになり、各地との連絡も緊密にした。
つまり、それまでは、女を連れて子供とセブリをはっていても、あまり勢力もなく、戦うには鉄武器に対して貝刀しかなく、逃げ廻っていた日本版ジプシーが、この十一世紀からは新しい血液と最新文化を移入して変ったのである。
サンカの頭数や五セブリで一テンジンとする組織も、やがて倍加するような勢いとなって、藤原氏を倒す時機の到来を待つようになった。
そして、各地へ天神を秘かに祀らせ、各地でトケコミをさせ、やがて江戸時代になると、湯島天神から、その飛び地の根津権現を隠れ蓑みたいにし、町人別に入った連中とツナガリを保ちつ、青竹売り、鋳かけ屋、煙管の羅宇屋となってサンカの勢力を伸ばしていったのである。
は大きく、尺骨頭が著しく骨高である。五指は長く爪は肉色で健康。
下部所見‥‥腹部と大腿骨を区分する大腿骨と恥丘の間に生じた鼠径溝は深い谷を作っている。(2)大腿部から下肢、下腿部の線は、みごとに垂直で撫細線で、膝蓋骨と脛骨の連合が、一骨垂直のごとく、垂直に結節している。膝蓋骨の横展が狭い。
従って、筋肉の垂直線に彎曲がなく綺麗な脚線である。(3)足底は足根骨が著しく表面に盛上がり、甲高で、足円蓋が弓状に盛り。(ツチフマズが高い)(4)恥骨結合点、陰毛が、恥丘全体に冠さっているので、恥骨線は明確に所見できない。陰毛は、
臍下から一条が下り、恥骨一帯で広域に亘り、横は鼠径溝に達し、前部は陰阜から前陰唇連合から左右に下って、両側の大陰唇の大部分まで生えさがり、膣前庭下に及んでいる。長い太筋毛であるが、交接摩擦のため、著しく縮れて、陰挺包皮もかくれず大陰部の中より突出している。背部‥‥(1)背柱、第一腰椎から上に向かって、尖椎に至る間が、前面胸部い向かって弓状に深く彎曲している。(2)腸骨稜から尻までは、著しく後方に突出して豊満。
トリカブトを採って焼石で黒焼きにし、ひとつまみずつ服用するのは、せいぜい月に一度ぐらいのもので、決して常用はしていないが、一歳年上の妻は連夜にても所望するが、八十九歳の夫としてはセブリの移動に労力を要するゆえ、八十歳になってからは月に五回と、七十歳代の十回を半減。もちろん六十代までは連日連夜にわたって妻の要求に応じていたものだとの証言である。
この調査時の昭和二十四年の頃は、まだ玉ノ井や吉原みたいな所が各地にあった。
一般の夫婦は婚後七年から十年で夫婦生活は倦きがくるのか一応は中断され、夫は遊びに行って金をとられて戻ってきて、家でなら無料だと又始めるか、それとも遊びに行く事が刺激となって、月に一回ぐらいは旧へ戻ったものである。
私が新興芸術派としてならした、愛知一中の先輩の久野豊彦の許に最初に身を寄せた時も、奥さんから突然だしぬけに愚痴られたのも、「うちのは、もう八年も、まるっきり見向きもしないで喰って寝るだけですよ」
とベソをかいて訴えられ、その晩、久野先生が戻ってこなかったら、夜中に奥さんがそっと入ってきて、何用だったか不明だが、こっちはギャアッと悲鳴をあげた思い出がある。
故S先生も愛知一中の先輩で、居候にいったら、やはり夫人が七年も放っておかれていると愚痴をこぼされ、「お小遣いをあげましょう」と一円札を、蒲団をしいてくれてから差し出されたのに仰天。たしか五日たらずで退散してきた覚えがある。
尾崎秀樹先生を通して、亡くなる前の未亡人が私に逢いたがっているから伺うように、とすすめられたが、黙殺して行かずじまいで未亡人は亡くなられた。尾崎秀樹先生は、「若い時に厄介になりながら、薄情な不人情なやつだ」と、さぞ肚にすえかねていられるだろうが、まさか本当の事は今もって言えずじまいの侭である。といって、作家の奥さんだけが欲求不満だったわけではなく、今のように赤線がなく、抱けるのは古女房しかいない時代でなければ、同じ相手では倦きがきて、なまぐ
さい仲から人情深い思いやりの肉親みたいな夫婦に変っていくのが普通である。
ところが、サンカの社会では、九十歳になっても夫婦生活が月に五回もあるというのが、当時の世人を愕かせて、サンカとは[常人とは]別種のものとなした。
つまり日本人離れしていて、彼らが別個の種族であるとする証明に、このセブリの連日連夜の性交が大きくとりあげられ、誰もが自分と比べてみて違う民族らしいと決めつけてしまった。しかし、この調査表には性交回数は詳しく書いてあるが、肝腎な体位が書かれていない。
かつて玉ノ井などでは、ふつうでは直立不能な年輩の客を専門にするプロがいたもので、「ちょっと御隠居さん、よってらっしゃいよ」
と、しきりに呼び込みをしていたものだ。
つまり直立しにくくなったものでも、上から鞘をかぶせるようにして、絞めたり擦れば、条件反射でマイハートの生れ故郷の膣内では、蘇るように硬直しかけ、うなだれ半分でも射精はする。なのに普通の正常位と思うからして、九十歳になっても行為
ができるのを不思議がるが、セブリでは女が跨っていくのだから同じで、いくらでも
かぶさっていき、絞めつければ可能。
なにしろ男は起立しなければ用はたてそうもないし、その気にもなれないけれど、女は、「ひろげよ、されば、かぶせれば、覆うが如くに男を包みこめん」なのである。それにである。
よく俺のものは素晴らしいとか、真珠をはめこんだりして女を歓ばせようとする男がいる。だが女の生理はオナニーみたいに他動的に誘発されはしても、本当の満足は生理日の排卵期を周期にして自分で燃え、そして満足するもので、ちゃんとした真珠
の首飾りでも贈物のされるなら別だが、入れて抜いて戻してしまうのでは本当のところは嬉しくもない。
つまり、とやかく言ってもテクニックで満足させられると思うのは男の側で、女は地球の自転みたいに一人で燃えたぎり、勝手に声をあげて自己満足をするだけの話で、それゆえナルシズムそのもの。
レズビアンで大いに満足するのもこの為で、インドのシャクテイ信仰は、「女人にとって男は単なる道具でしかない」と、陽物に似た石や木型を奉納する。つまり男にインポはあっても女は九十歳になろうが百歳になろうが、生理中でも止まった後でも、その機能は女体みな共通。
だから厭だと思う男でも、行為の途中から自分の方が自転作用を起こしてしまうから、アメリカのレイプ事件など起訴されても、有罪判決になるのは先天的不感症の女性に限るようであるから、百件で一件しか陪審で有罪判決が出ぬというのも、その理由によるものとされている。つまりサンカ社会のような、女人の方が男の上に押しかぶさっていく女上位では、男性側の射精は問題ではなく、女体の満足だけで夫婦生活とするから、連日連夜とか何十歳までというのは通常行為、つまり正常位をもって律すれば、大和民族にしては異常すぎて別個の他民族ならんとしてしまうような三角寛説にもなるのだが、正常位ではなく男はただ何と言うか、女性満足への補給道具であるとみれば、これはとんでもない話で、別に拡大解釈する必要はない。
かつて軍の慰安婦は、仰向けになったまま握り飯を喰いつつ、一日に八十人から九十人の兵士の処理にあたったというし、私も奉天の北春日小学校だった難民収容所で北満から辿りつくまでに、千人以上のロスキーに犯されてきたオバサン達に実際に何人も逢って話をきいている。しかし、彼女達は囚人部隊に犯され通してきたので、肉体のその部分が擦れて痛いと軟膏を塗っていたぐらいだが、梅毒で次々と死んでいった。
が、サンカ社会は、男は掟として、他の女には触れてはならぬ定めとなっているゆえ、江藤医学博士の検査報告でも性病は皆なしとある。
さて、従順な奴隷となりきった庶民は、その先祖の女が進駐軍に種つけされた子孫のせいらしいが、脱走して反権力反体制の民として生き抜いた純日本人である妻帯というか、夫帯をしていたサンカの女たちは、万国無比の好色人種となる。
つまり海外旅行へ行き、イタリアどころかサイパンのガラパンあたりの島民の男でさえ、「いいわ、お金なんか」と無償で寝てくるのも、なにも純情で好色だというのではなく、満足を自分らがしたいからして、タダでもよいのでもある。だから私なん
かは、ずっと単身で、そうした苦労はせずにすんで仕事ができているらしい。
さて、話は戻るが、契丹軍が大軍を催して来寇してこぬとみると、火山灰をはねのけ緑の耕地とした坂東八ヶ国や紀の川の上流の住民を、藤の者はでっちあげの「天慶の乱」で賊とし、「賎の民」として、大陸系なのに東北へ追い込んだ際に、「奴隷にされて堪るものか」と山中奥深く逃げ込んだ者らも相当にいた。
なにも、攻めに来たのではなく、助けを求めに逃げ込んだのであるから、サンカの国一(ハジメ)も拒むわけにはゆかず、セブリの中に入れて加える事を仕方なく認めた。
さて、三百年も昔から俗世間からは遠のき、あくまでも反体制反権力だけで山から海へと、逃げ廻っていた連中にとって、突然に仲間にと救いを求めて飛び込んできた連中は、文化人の大集団で、日本では官兵しか持っていない鉄の剣さえ持ってきていた。よって、四つに折って柄をつけた。契丹の古紋である梅鉢の紋所に模して、焼け火箸で五つの焼印の柄をみな入れた。
それまで石では尖らせても重いので、大きな貝殻を見つけてきて砥ぎ、貝刃をもって唯一の武器にしていたサンカ社会では、鋭利なこの武器が各テンジンごとに配られると、貝刃の代りに「ウメ貝」と名づけられた。そして彼らから算数や文字の読み方も、ついでに教えられた。
こうなると、彼らは国一の参謀みたいな立場となって、サンカ社会も文化的にと変った。つまり国一は、これまでのしきたり通りに各国別の仕置きをするが、各テンジンの指揮は、次々と逃げ込んできたザボ(新加入者)たちが司るようになり、各地との連絡も緊密にした。
つまり、それまでは、女を連れて子供とセブリをはっていても、あまり勢力もなく、戦うには鉄武器に対して貝刀しかなく、逃げ廻っていた日本版ジプシーが、この十一世紀からは新しい血液と最新文化を移入して変ったのである。
サンカの頭数や五セブリで一テンジンとする組織も、やがて倍加するような勢いとなって、藤原氏を倒す時機の到来を待つようになった。
そして、各地へ天神を秘かに祀らせ、各地でトケコミをさせ、やがて江戸時代になると、湯島天神から、その飛び地の根津権現を隠れ蓑みたいにし、町人別に入った連中とツナガリを保ちつ、青竹売り、鋳かけ屋、煙管の羅宇屋となってサンカの勢力を伸ばしていったのである。