隠された日本歴史
清水次郎長は善玉、黒駒勝蔵は悪玉は真逆
幕末暗黒史
薩長の維新史は信じがたい
勤皇の侠客黒駒勝蔵
私は戦国史専門だから四世紀前の157O年から考究したい。 「元亀元年」とこの年はいい、姉川合戦で知られ、正月に引馬(曵間)城とよばれていた飯尾連竜の城が、徳川家康によって大増築、「浜松城」となった。 と書くと、ただそれだけのことを思われるかも知れないが、実のところ、「近世日本史の幻想」はこの年から始まるのである。もちろん家康当人は、そんなことは知ったことでなく、彼は稚気まんまんとして、 「われ十五歳まで駿府に育ち永禄三年に義軍をあげ、かく今日の自分になれたのである。七十翁」 などという書を駿府に残している。 つまり、頭佗寺十二坊の火災に便乗し、そこの薬師系の信徒のほか、伊勢の榊原康政、伊賀の服部半蔵、駿府の酒井浄賢、知多の大久保忠員らとともに、この城をのっとり、 そこから家康は天下取りに進出したのである。
そしてその兵力のうち側近衆薬師寺系は「西三河衆」とよび、三州岡崎の者は「東三河衆」と名づけて分け、最前線にばかり向けた。このため岡崎三郎信康の死後、 たまりかねた東三河衆の筆頭石川数正は、信康の娘を妻にしている連中とともに、やがて秀吉の許へと逃亡しその家来となった。 つまり家康がさも由緒正しい生まれのように、岡崎の松平元康の改名した同一人とするのは、これより1世紀のちの1670年に、創作された幻想である。 林羅山を開祖にする林家の文字の手品で、この寛文十年六月に、羅山の『本朝編年史』に五代目林鵞峯が加筆し、『本朝通鑑』なる三部作が、(神代から慶長十六年までの歴史)なるものとして完成した。
これにより林家は徳川家の秘密を握る家柄として、代々大学頭の名を許され、幕末まで栄え、そこで神君家康は松平元康となり、泣きの涙で最愛の妻築山御前や可愛い岡崎三郎信康を、 信長の命令で止むなく殺したことになった。 しかし現実には、秋葉の火祭りで名高い遠州二俣に、その三郎信康の墓があるが、沢庵石みたいな物で、文字一つ削ることすら許されていない。これは公儀から「お止め墓」とされ供養を禁じられていたからである。もし三郎信康が家康の実子だったらこんなことはなかろう。 さて、このデフォルメが新井白石の代になると、彼が将軍世子用の「帝王学」として、『読史余論』を著作する際に援用された。
そして「歴史学」がまだ確立していない明治二十年代に、その『読史余論』が種本として「正史」に採用されたから、ここに<幻想の日本史>の誕生となる。 常識で考えても家康が三河人なら、晩年はそこでおくるべきだし、また三河武士が徳川の本当の中核自衛隊なら、その功にむくいられ大名にされてもよいはずなのに、 彼らはみな万石以下の旗本にしかなってない。また、徳川家の発祥地が三河であるなら維新の際に、 「汝その祖宗の地に七十万石をもって立ち戻り」と沙汰された時、十六代将軍になった田安家の七歳の亀之助君は、岡崎へ行くべきなのを駿河へ行っている。 十五代慶喜も三河へは行かず、駿府宝台院で謹慎している。 近くの常光寺で慶喜側室お芳の父親江戸町火消し新門辰五郎らが身辺警護していたのは有名な事実である。
さて、歴史小説というものは既存史科を下敷にせず、調べられるだけ調べ作家の目で探究してゆかねばならぬ。が、いまも昔のままである。
1570年代に浜松城を増築した家康が、徳川時代と同じ虚像でテレビにまで出てくるのも日本人の幻想なれのせいなのかとしかいいようがない。 1770年の明和七年は、大岡越前守忠相の死後五十年たっている。 当時の日本は、いまのアメリカ各州のごとく、大名領や天領によって施行法が国々によって違っていた。
それを忠相が街頭流しの「道の者」に朱房十手朱靹の公刀を与え、全国統一警察制度をしいたが、明和年間になるとそのFBI的な警察国家体制が整い、能吏時代となってやがて田沼が台頭する。 が民衆の抵抗も烈しくなった。 そこでこの年四月十六日、「徒党、強訴、逃散に及びし者は死罪なり」といった弾圧政策をとった。
幕末暗黒時代の始まりである。これは三年前に山県大貳、藤井右門らを捉え、反逆罪で獄門にかけたが、その著『柳子新論』を分かりやすく、絵文字入りダイジェストして配る不穏の徙があらわれだしたせいもある。 つまり天朝さまによって世直(革命)しが願えるかも知れぬ、といった一沫の夢が数年間で各地にひろまってしまった。だから対応策とし、「密告制」をしき、 場合によっては集まっているだげでも投獄しこれを斬った。勤皇をとく者に厳しい時代の風が吹きすさんだ。
群馬の高山彦九郎も九州久留米まで追われて自決してしまった。 栃木の蒲生君平も、松平定信の斬り棄て御免の刺客隊に見舞われ、関東地区の勤皇の士は徹底的にかりこまれた。 1870年は明治三年。新政府の世となった。関東の革新勢力は全滅し、ご一新に際しても、東国人でその志をたてた者は小島四郎こと相楽総三だけであった。 しかし唯一の江戸人であっても、西南系でない彼は、革命成功とみられるや、早々に、薩長軍によって、贋官軍として殺戮されたのは映画「赤毛」にも扱われている。
さて、これまでの維新史は、吉田松陰、坂本竜馬、高杉晉作、西郷吉之助といっか個人を主とする講談的視野でしか捉えられていない。 だが実際は原住民族対舶来民族、つまり南北の地域戦争ではなかったかと思わされる点も多い。 これは今日でこそ、(一般大衆=百姓)と誤られているが幕末まで、「たみ・百姓」と併袮さ牡るごとく、大衆の中には百姓でない工商および渡り用人、仲間とよばれる、 武家奉公の底辺クラスが多かったのである。 彼らはこの二年後に実施された1872年の、いわゆる壬申戸籍によって、檀那寺が従来把握していた「人別帖」人口にほとんど匹敵する数を示した。
この謎は、 表面は王政復古であっても、関東および東北人は、よし勤皇の志士であったにせよ、これはみな薩長土肥の南方軍によって、いまでいえばトロツキスト視されるごとく始末されている点でもわかりうる。 革命とは、そういうものかも知れないが、中国四国九州大でなかったというだげで、いまもなお抹消されている草莽の志士は哀れである。
この中でも米沢の雲井竜雄は、「この子棄てざれば吾身飢ゆ」の詩吟で有名だが、この1870年正月に尊皇の志をもつも東北人なるがゆえに、容れられぬ同志を語って<帰順同盟>を結成した。 しかし五千の同志を集めんとし、反革命犯罪に問われ二十七歳の彼は捕えられた。ところが正親町三条実愛に代わって司法卿となった江藤新平は、「新津綱領全六巻」を公布し、 従来の「仮刑律」に替えた。が、新法には雲井を罰する法がない。そこで廃止した旧刑法の、「謀叛及び大逆を謀るには未遂なるも梟首」を持ち出し、彼の首をさらし、「法は為政者の自由」という前例を作った。 しかし四年後、その江藤も同じくそういう目にあって梟首させられた。日本という国はかくは天道公平だから2019年も安心してよいのではないかと想う。と皮肉ってみたい。
「黒駒党」の再評価 黒駒勝蔵は大忠臣だった 「変革期における民衆運動」といった角度から幕末の各地方を改めて調べ直してみると、まだ一世紀前なのに、驚かされることも多い。 「十津川郷士」で名高い大和の賀名主の吊橋あたりへ行くと、古来ここから吉野材を切り出し帝室御用を勤め、他の貢租はいっさい免除だった土地だけに、 各地のそうした帝室御用を勤めていた地方との連絡が、いまでいえば、「姉妹都市」みたいにあったものらしく、聖徳太子の御代に黒駒を献じ、それ以後は馬扱い官吏が、 後年の三里塚牧場のように施政をしていた山梨県とは仲がよく、天誅組の那須信吾も黒駒に潜伏していた書簡が残っている。 さて甲府黒駒若宮の小池家からは、幕末でも白川卿へ奉公していたのがいて「古川但馬守」と名のるが、これのいとこの小宮山勝次郎こと俗称黒駒勝蔵というのが、 この古川但馬守の推挙で、子分をつれて四条卿に随身した。
親兵隊長となり、「池田勝馬」の名で、河井継之助との長岡戦争にかり出され、官軍の第一線として多くの血を流している。このとき、 二百の部下の四分の三まで失うほどに勤皇の誠をつくしたのに、一人も他の者のように贈位の恩命をうけたり、九段の招魂社へ合祀されてもいない。 なぜかというと明治に入ってから、講釈師の張り扇でたたき出された次郎長伝が、やがて浪曲にまでなって流行しすぎたからである。 なにしろ次郎長を善玉にしあげるためとはいいながら、愛知県の知多半島俯北(保下田)の久六と並んで悪玉扱いで、「悪い野郎は、黒駒の勝造」とされてしまって、 それが今日まで広まっているせいである。
成田村の岩五郎こと大岩、中川の岩吉こと小岩の二名も、のち次郎長側の講談に失敬され、 「清水港は鬼よりこわい、大政小政の声がする」とたってしまっている、が、あれも甲府盆唄では、 「障子にうつるは大岩小岩。鬼より恐いと誰がいうた」である。 つまり甲府には本物がいたが清水のほうは明治大正になって名前を似せたのが、講談の張り扇でたたき出されたにすぎない。が、それより大岩、小岩、房五郎といった青年たちに感心させられるのは、
黒駒勝蔵は天皇の為尽くした忠臣
彼らが黒駒の若宮さんへ、「願いごとがかなうまでは茶だち塩だちをする」という流行もあったろうが、一同そろって、 「王政復古の世になるまで嫁をもたない」と願い文を入れていることである。もちろん文字をちゃんと書けるのはいないから、署名の代わりに棒を一本ひいたきりのや、丸をつづけただけのもいるが、 その青年の純粋さには打たれる。 また事実、明治四年に勝蔵が殺された時、彼も独身、他の者もみなまだ独り者だった。 さて、こんなにまで清く美しく王事に尽くしとおした彼らが、この一世紀冷遇されっ放しで真実がすこしも伝わらないのは、甲府県と当時はよばれていた県庁の手で斬罪処分にされたせいらしい。 この判決文は、山梨県と変わった時のどさくさにまぎれ、本物が行方不明になりこれまで分からなかった。 さてこの勝蔵の悲惨な運命に同情した黒駒出身の堀内良平のすすめで「竹の島山人」が書いた『黒駒の勝蔵』が昭和二年の青い布ばりの大衆文学全巣の一冊に入っていたが、 神田伯山の次郎長伝で、「悪役」にされていることへの裏返しだけで、何故甲府へもってゆかれて殺されたのかはすこしもでていない。 のち長谷川伸、子母沢寛といった大家も、この勝蔵に取り組んで書いてはいるか、やはり俗説にひっぱられ、その範囲内でかいている。
さて私事だが(なぜ勤皇の至誠をつくした彼が、その生まれ故郷の甲府の牢へ入れられ、殺されたのか)の謎ときをしようとした。 そこで西郷隆盛の資料を調べてゆくと、勝蔵の子分の房五郎が西郷を訪ねたとき、「コウデンでごわす」と太政官札の十円を房五郎に出している。現在なら二十万円にもあたろう。これをみると、よほど、関係が深かったことは分かるが、その明治四年七月の時点では、まだ勝蔵は死んでいない。すると見殺しをこれは意味している。 このほかに、勝蔵は長州人とも知己が多いが、誰も救援をしていない。だから、 「薩長の新政府は、勝蔵が東国人ゆえ放りっぱなしにしたものか」と私は考えた。しかし維新史料というのも、薩長側の官軍のものは、きわめてつごうよく出来すぎていて分からぬことが多いから、当時賊軍とされていた東北側の文献をあさってゆくと、 明治二年に、朝敵として責任をとらされ自刃した玉虫東海の名がでてきた。
彼は新見豊前守を派遣大使とする渡米使節団に加わって行き、『海外紀行の遺作もある仙台藩の家老で、彼の残した日記によると、甲府郡代加藤余十郎の名で、 「元治元年四月、日標」の個所に、 「甲州博徒党を結び蜂起仕り候一条探索書」というのがあって、それには、「三月二十五日命ぜられし件を書面にて」という傍文で、 「甲州代官増田安兵衛支配黒駒村下組字若宮にて、浪士差し加る博徒共甲胄兵器を用意し、甲府城を心掛け俟は上を恐れざる仕儀にて」 と、甲府城乗っ取りを企でて失敗した黒駒の勝次郎(勝蔵)以下、伊豆の金平までの指名手配がずらりと、その名が並んでいる。
これは図書刊行会から大正二年八月活字本で復刻されている。つまり、このため甲府から富士山麓へ逃げた黒駒党に中泉代官所の追っ手がかかり、二足わらじの遠州見付の友蔵が、 ガードマンを雇うように、次郎長一家をよんで召しとりにあたらせ富士川、天竜川の決戦となった。
だが次郎長が中泉代官所の御用提灯や鉄砲をもちだし、平井の雲風一家を襲い大岩以下を射殺したから、逆に黒駒党からねらわれた。 そこで勝蔵か逮捕されたのは、次郎長の政治力によるものだという説と、甲府城をとられかけた責任を問われ自刀した者への追悼に、甲府県の役人たちのでっちあげだったとの話もある。 だが、もう山梨県でも信玄ブームはやめて、この孤高の勤皇の士であった「黒駒党」を認め、新しい観光資源に甲州遊侠伝をばひろめるべきだろう。そうでもないと、天皇さまの御為に尽しだのに、 浪曲や講談で誤られっ放しでは哀れにすぎる。
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