新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

大久保彦左と一心太助

2020-08-31 17:13:40 | 新日本意外史 古代から現代まで
大久保彦左と一心太助

 ----これは講談本より抜粋して、まず先に援用してみるとことにする。
「大変だ大変だァ、天下の一大事だァ」「なんじゃ太助、騒々しいにも程がある。そうガアガア大声で怒鳴ってばかりおらんと、もそっと落着いて話をしてみい、出来ぬか」
「てやあん゛んでえ‥‥おう親玉。おめえさんいくら天下の御意見番大久保彦左衛門だと、威張ってなすったって、年よりだから金つんぼは仕様もねえが‥‥目まで風穴同然。なんにも見えなさらねえのか。情けねえったら有りゃしねえよ」
「なんじゃ、太助、うぬは泣いているのか。それでは腕に彫った一心鏡の如しの文句の方が、泣くぞ、いうてみい、なんじゃ」
「てへッ、なんだもこうだも有りゃあしません。公害問題を放ったらかしにしようって有様なんですぜ」
「えッ、そりゃまことか。それでは天下御政道が、めちゃらくちゃらではないか。これ喜内ッ馬をひけッ、天下の一大事じゃ。さあ太助ついて参れ、何をもたもたいたしおるか」
「へえ、合点承知の介で、そうこなくちゃ話にもならねえ、行きやしょう」当今ならこういう事にもなろう彦左と太助の間柄を、かつて関西の作家は、
「大阪の人間には、太助みたいに体制べったりな、いやらしいのはいませんよと某さんからいわれまして、成程とがっくりしました」といっていたが、一心太助とは、そんなべったりタイプのいやな奴だったのだろうか。
もちろん実在ではなく講談の張り扇から生まれ出た人物であるが‥‥すっかり考えさせられてしまう。

 なお、更に引掛るのは、何故そのフィクションの一心太助を、実在の大久保彦左と組合わせたかという関連性である。
 現在の吾々の眼からもってすれば、旗本一万騎と号した中には、あの時代のことゆえ、水野十郎左衛門とか加賀爪甚十郎といった若くて、もっとばりばりした有名人が沢山いた筈なのに、
どうして選りも選ってあんな老人と勇み肌の太助を結びつけたのか、まさか当時の講釈師がドン・キホーテとサンチョの組合わせを、転用の形で当てはめたとも考えられぬし、奇妙に想う。
 が、見台を張り扇で叩きながら、なまの聴衆を前にして口演した際には、一心太助という人物をそれらしく浮び出される為には、水野十郎左では駄目で大久保に限った必然性が何かしら有ったのではなかろうか。
 今では、その講談は太助が大久保家へ奉公していた小者上りで、やはり女中だったお仲と結びつき、邸を出て魚屋を開業したのだから、彦左衛門は里親みたいなもの‥‥といった納得しやすいような設定に作り変えられているが
‥‥まさか当初から、そこ迄は話が出来てはいなかったろう。すると、「旗本と魚屋」といった取り合わせが、聴衆をして不自然さを感じさせなかった裏には、職業も居住地も勝手に変えられなかった江戸時代にあっては、
誰もが旗本になろうとしてもなれなかったように、魚屋も限定されていて、今のように河岸の魚市場へ仕入れに行って、荷さえ持ってきたら、それで始められるというわけのものではなかったらしい。
 そして現代でこそ無神論者も多いが、江戸期では西方極楽浄土をとく宗旨が、だんな寺として百姓町人の、人別帖とよばれる戸籍を握って、今の村役場や区役所をかねていたのだから、
信仰というものが人間の差別や区別をもしていた。となると、身分は旗本と魚屋とは違っていても、彦左と太助は同一信仰グループでないことには話にならない。
 そして当時の寺のたてまえたるや、魚肉は生臭として拒んでいたのだから、それを扱う魚屋が公然と寺の管轄に入っていたとは考えられもしない。
 となると彦左の方も、決して西方極楽浄土を願いお寺の信者ではなかった事になる。またそうした同類でなくては、この結びつきが江戸時代の聴衆の耳に入れられる筈もない。
 だから、その関連性は何かと、それから先に解明して掛らねばならないようである。
大久保彦左衛門と一心太助は同族だった
 さて彦左衛門という男。彼も実際は講談のごとく馬や駕篭で登城するのを差し止められれば、「なら盥なら構わんじゃろ」と横紙破りするような、そうしたむちゃな人物でもない。
彼の本貫は、その著『三河物語』の冒頭に、「ワレ老人ノ事ナレバ今日ノ夕方ニ死ンデシマウカモ知レヌ身デアル。ソレユエ唯今コウシテ生キテ居ル内ニ、コレヲ書キ残シテオコウト思イツイタノダ。
ト云フノハ御主(将軍家)サマハ、譜代ノ家来ノコトヲ一向ニ御存知ナク、マタ譜代の家来衆モ他ノ譜代衆ノ筋目(家来)ヲ知ラナイユエ、予ガ知ッテ居ルコトダケヲ書キオクナリ、ガ吾ガ子孫ニワレラガ筋目ヲ知ラセンタメニ残すモノユエカマエテ門外不出トイフナリ」といった文章に要約される。

これを読んでも、一見なんでもないようだが、よく眼を通せば奇怪すぎる内容である。
 この時代は三代将軍家光の頃だが、その家光が、新参の家来や外様大名の事ならいざ知らず、譜代の家来のこれまでの家系を一向に御存知ないというのである。世にこんな可笑しな、断絶した主従関係がはたして有るものだろうか。
また、「その譜代の家臣」も、譜代どうしであるなら親や祖父、先祖代々から知り合いでなくてはならぬ筈なのに、彦左は、はっきりと、
「譜代ノ衆モ他ノ譜代ノ衆ノ筋目ヲ全然知ッテ居ラヌ」と暴露するみたいなことまで、それには書いているのである。
 常識で考えれば、譜代とは先祖から引き続き仕えている家臣団のことゆえ、こんなバカげたことはなく、それに大久保彦左は、「三河者ならば、かいえき(改易、頭ごなしにさっと)に御譜代の者と思食(思召)されるやの間、
そうした訳も子供らが、知っておらねば困るだろうから、書き残すなり」とも、つけ加えているが、
「三河譜代」とはよく講談に使われる表現だが、これでは、「三河の者となれば、どうしても頭ごなしに御譜代の者と思われ、間違われやすいからして、色々のことをこの際覚えておくよう、子供らに書いておくから、それを覚えて信じこめ」
 といった意味にしか取れず、何がなんだか判らなくなる。といって三河とはいえ、大久保党の出身は、いわゆる松平家領国の地方ではない。
彼の在所は、灯台で名高い伊良湖岬の渥美半島の中心部あたりで、今も彦左衛門の幼名をとった「兵助畑」の地名が残っていて、「大久保」とよぶバス停留所の右手奥にある。
 彦左の幼時は、この半島は田原の戸田家の領地であって、戸田党は信長の父の織田信秀と結び、松平の松平党とは戦いをしていた。
 そうした間柄の戸田領の大久保党が、どうして、「御譜代衆であるのか」と知らぬ者から間違われる事があるのだろう。そして、それに対し、
「はい、そうであります」と、ばつを合せて、自分の家系を先祖伝来の譜代に仕立てたり、将軍家光の家系すらも、皆が知らぬからと作って覚えこませることの必要がどうしてあったかと謎になる。
 しかし、これは後述する御三家の尾張七代目徳川宗春の、「徳川家康は二人だった」という考証が判ればなんでもない。つまり大久保彦左は、

「家光さまの三代前の権現さまという御方は、三河松平の御出身のようになっているが、実際はそうではないからして、家来の者もご素性をあまりよく知らぬ者が多い。
また将軍家におかせられても‥‥なにしろ、われら旗本は御譜代衆とはいわれているが、わが大久保は渥美、水野十郎左は苅屋、加賀爪甚十郎らは遠江白須賀、榊原小平太の身内共は伊勢白子浦、
服部半蔵らは伊勢かぶと山と、口では三河譜代といっても、みな非三河系ばかりゆえ、----これでは譜代の者の家筋など、とてもお判りになられよう筈はない」
 という意味をのべているのであって、それゆえ、序文の末尾に、「各々方にあっても、ご譜代はご譜代らしく筋目をつけた家系を、この際こしらえ子孫に残されることが、御家(徳川家)に対する忠節というものでありましょう」と、しめくくっているのである。
 しかし内容は大久保党が木こりをしていて、初めて畑を貰ったときに感激したといったような、楽屋落ちの話は一切かかず、
「徳川の出自」の第一章は、いざなぎいざなみの二神から始め、新田系をもって将軍家の祖先とし、親氏から代々を次の章にかき、いわゆる徳川伝説を一人で書きこんでいる。
 もちろんこれは、『大久保忠敬日記』『彦左衛門筆記』『参河記大全』の名で類本も多く、これが林大学頭の手によって、『徳川史』の底本になったというから、後から色々と書きこみをされ、いま伝わっているようなものになり、
それでは内容的に不自然だというので、彦左が、「自分はこんなに御奉公しているのに、報われる処がすくない」といった愚痴めいた個所も、そこは抜かりなく挿入されているのである。

 しかし徳川家のために、こうしたもっともらしい史料めいたものを残したという事は、まったく欠けがえのない大忠臣であった。
 この余恵で大久保本家は、大久保長安事件に引っ掛かったがすぐ許され、小田原十万石も春日局のためその子の稲葉正勝に奪われたが、貞享三年(1686)からは大久保家へ戻されている。
 また彼の書いた「徳川神話」を守ってゆくためには、「彦左衛門とはなんだ。そんなのがいたのか」では困るから、明治軍部推薦で桃中軒雲右衛門が、
「武士道鼓吹、赤穂義士伝」をやらされたごとく、江戸時代の講釈師は奉行所のお指図で、辻々に小屋をもうけ、そこで、
「只今より、大久保彦左衛門のお話を一席‥‥」とやって、彦左の実在を一般に強調している内、話を面白可笑しくするため、ドン・キホーテに対するサンチョパンサのごとく、一心太助も張り扇で叩き出されて生まれてしまったのである。
 しかし江戸時代というのは、今の日本橋の橋の左右に、「あまだな」とよぶ魚河岸の魚問屋四十軒があったが、「生臭きもの」といわれた生魚乾魚一切の販売権は、エビス、ダイコクら七福神や白山系統の信心衆、
つまり昔は別所に入れられていた原住系の者らの限定職業で、「千の利休」といわれる宗易も、堺で魚屋の元締めをしていたが、江戸でも魚河岸はこれは弾左衛門家取締りで、そのため、
「棒手ふり」とよばれる板台を天びんで担いで歩くような小前(こまえ)者でも、魚を商う者は、同信仰でなくては許されなかったのが実情だった。
 つまり今は八百屋をやろうが魚屋をやろうが勝手だが、昔は、八百屋は百姓系だが、魚屋は製革業と同じ素性の者に限られていた。
 だから一心太助も、ナムアミダの宗旨ではなかった。やはり、ビシャモンか、エビスの神徒ということになる。
 さて話は戻るが、大久保彦左衛門一党の出身地である渥美半島は、今は観光バスが豊橋から一周しているが、雨天でなければ、半島を七つに分割しているビシャモン、エビス、ダイコクの各社の、
赤青黄だんだら染め幟旗(のぼり)がはためいているのが見られる。
 何も今急にそうなったのではなく、ここは半島全部が昔は別所だったし、権現さまが危うくなったとき、此処へ逃げこんで隠れていた徳川家創業の由縁ある土地なのである。
 だからでもあろうか、大久保彦左は、徳川家を守るために努力したのであるし、これが講釈師の口から語られるとき。
 江戸時代の常識では、
「魚屋というのは、表むきの身分の差は、旗本の大久保彦左との間にあったにせよ、一心太助は同じ宗旨のひとつもんだ」ということが周知であったから、心安げに、
「おう親分はいねえかッ、大変だァ、天下の一大事だ」と、ねじり鉢巻のままの太助が、神田駿河台の大久保邸へ、無遠慮におしかけてくる場面をのべても、講釈場の聴衆は、
「確りやれ」とやんやと手を叩き声援をし、彼らが決して違和感を覚えなかったのも理由はそのせいだろう。
 つまり徳川政権に大久保彦左という男は、べったりどころか自分が糊刷毛をもって、せっせと徳川神話を作りあげた功労者なのである。
 だからして、彦左を話の中心にもってきて、彼の奇骨ぶりをおおいに語らせるという事は、
(そうした曲がった事の大嫌いな正直一途の、頑固者の彦左でさえ認め、ちゃんと書き残している徳川家の歴史というは間違いないものだ)といった裏書き的効果が有ったからして、
講釈師が公けに口にするのをおおいに、おかみから認められていたのだろう。



 悪人毛利元就 毛利の「三ツ矢」の虚構

2020-08-18 17:28:45 | 新日本意外史 古代から現代まで
 悪人毛利元就 
毛利の「三ツ矢」の虚構


 最近つぶれた出版社から出た国定教科書の復刻版が、まだ出廻っているのを見かける。
『尋常小学校修身書』も本屋の店先で売られているが、その巻三の、第二十三章をあけると、
「三つ矢の教え」というのが出てくる。原文は長くて廻りくどいから要約すると、毛利元就が、その子の隆元、元春、隆景の三人を集めて矢を一本ずつ持たせ、「折ってみよ」と次々に折らせてから、
今度は三本かためて渡し、折れぬのをみすましてから、
「一本の矢ならたやすく折れるが、三本一緒では折れまい。お前たち兄弟も一人ずつでは敵に負けるかも知れないが、三人兄弟が一つになって仲良く手を握りあえば、決して他から侮られたり、
戦を仕掛けられて負けることもない」といってきかせれば、
「はい、われらはこの世で三人きりの兄弟、今の御教訓をよく守りますでございましょう」と、幼い三人は手をつき、白髯をしごく元就に対して固く誓いました。
 このため毛利家は、三人の兄弟が互いに力を合せて助け合いましたから、いつまでも栄えました----という内容である。
「一本の矢は折れても三本かためてなら折れない」というのは力学をもち出さなくとも、常識で考えて当然のことである。
しかし「元就の子供は三人ではない、男女とも十二人もいたのである。この三本の矢の話は<鳩翁道話>という江戸末期に流行した心学ものといった説教話にすぎぬのである。
かつての修身とは、そんな頼りない作り話で吾々を道徳教育してくれたのかと思うと、教えてくれた先生が怨めしくなるし、気の毒にもなる。

 さて、三つ矢の話は、大正時代には、尋常小学校読本巻五。五年生のときに習う『読み方』の本にものっていて、「第三、父の教え」という題で、名前も毛利元就ではなく、
「ある侍」となっているが、内容は修身の本と同じである。だから、大正、昭和を通じて、学校の教科書でこれを習った老年の日本人にはこの、「毛利三つ矢」説は常識みたいなものに、なってしまっていて、それを、今さら、
「間違っている」などと指摘しようものなら、殆どの人が、「何をっ、ばかばかしい」と不快な表情で顔を横にそ向けてしまうだろう。
 しかしどうも本当の事よりも、広く弘まっていることの方が、ともすれば正しいような錯覚を与えてしまい、それを是とし別に考えもせず、といったおざなりな国民性が出来上がったのは、
後述する大岡越前守忠相の弾圧政策からのことであろう。しかし真実はあくまでも、どこまでも真実であらねばならない。
 別に毛利元就の作った子供が、三人でも十人でも差支えないようなものだが、それでも引っ掛かりがでてくるのは、
「隆元、元春、隆景の三人兄弟が仲良く力を合わせましたから、毛利家はさかえました」という結びの一章からだろう。
 なにしろ関ヶ原の天下分け目の合戦のとき。既に毛利元就は亡く、その長男の隆元も死に、伜輝元の代になっていたが、小早川隆景の方も、おねねの方こと秀吉の未亡人北の政所の甥にあたる秀秋が養子に入っていて、
「金吾中納言秀秋」を名のっていたが、その血筋から関ヶ原では西軍の大将のような立場にあった。
 なのに、この小早川が、東西両軍激突の最中に松尾山から、それまでの味方の大谷方へ鉄砲を射ちかけ俄かに裏切った。このため、それまで勝っていた西軍も総崩れとなり敗走といった結果になる。
 
毛利家三つ矢の教えからすれば、いくら秀秋が養子とはいえ、毛利本家や吉川家が、彼のなす儘に勝手に寝返りさせたとは、とても思えない。どうもこれは一つ穴のムジナだったのだろう。
 となると、三つ矢の教訓とは、
「儲かる方へ寝返りをうて、裏切りをしろ」という教えで、それを承知で修身や国語の時間に、「教科書」という絶対的権威のもとに、なにも知らぬ児童に教えていたことになるのだろうか。

 さて、その小早川秀秋は裏切りの褒美に、「五万一千五百石」を新たに家康から加増され、それまでの筑前名島から、備前岡山城へと移ったが、二年たった慶長七年(1602)十月十八日に二十一歳で死んだ。
すると家康は、「跡目の相続人の届出がでていなかった」 と幼い男児がいたのにこれを無視して、先に渡した五万一千五百石はもとより、それ以前から秀秋が領していた筑前筑後五十二万二千五百石までエビで鯛を釣ったみたいに一切を没取してしまった。
 秀秋に裏切りさせた吉川元春の子の吉川元家や、西軍大将として兵一万人で大坂城の留守居をしていた毛利輝元は、もし、「三つ矢の家訓があるならば」そういう時こそ一緒に掛け合って、小早川の存続に尽力すべきだと思うが、てんで何もしていない。
 それどころか『吉川家譜』では、
「御本家毛利輝元さまとて西軍大将だったゆえ、もし吉川元家のすすめで小早川が裏切らなかったら百二十万五千石は全部没取、その御命もなかった処である。
それを助命され周防長門三十六万石にてあれ家名が残れたは、吉川家の策よろしきを得た為である」ぬけぬけと裏切りの正当性をといている。
 しかし毛利百二十万五千石、小早川五十二万二千五百石、吉川十四万二千石、しめて百八十七万石が、裏切りなどせず、「毛利輝元が西軍総大将ゆえ、みっともない真似はできぬ」
 と三家が揃って西軍のままで戦っていたら、これは誰が考えても、東軍の負けで、「毛利家百二十万五千石」を三分の一以下に滅ぼされることもなく、小早川家とて秀秋が死んだにせよ五十二万石はそのままで家名は残ったろう。
 この当時、毛利三家の裏切りで西軍に組した大名はみな取り潰され、浪人が天下に溢れたので、彼らはみな口を揃え、「毛利の三馬鹿大将」と罵ったものだという。

 これでは三つ矢の教えたるや、どうも本当のところはインチキでしかなくなる。しかし毛利の危機は、その前にもあったのである。
 秀吉は備中高松を攻めている最中、本能寺の変を知り、すぐさま取って返すため、毛利と和約を結んだが、これは仕方なくしたことで、本心からなにも仲直りがしたかった訳ではない。
 折あらば毛利を滅ぼそうとしている内に、朝鮮征伐となった。そこで九州名護屋へ行っていた処、「大政所さま御危篤」の知らせが入った。そこで取るものもとりあえず秀吉は引き返したが、今の門司と下関間の柳浦のところで、
乗っていた船が海中の岩に衝突し沈んでしまった。
 幸い海面に突き出ている岩へ泳ぎついたが、折柄の満潮にどんどん海水が上がってきて、今にも岩は呑まれかけんとする有様。
 こうなっては秀吉とても、どうできるものでもない。すでに足の踝まで浸してくる海水に、歯の根をがたがたさせている処へ、「あいや難波なされてか‥‥」と、小舟を漕ぎよせてきた若者が、「さあお年より、救って進ぜましょう」
 まさか秀吉とは知らず裸ん坊の相手を、抱えるようにして救命した。死中に生をえてほっと人心地ついた秀吉が、くだんの若者に、「これ其方は何者じゃ」と尋ねると、
「礼儀を知らぬ爺さまだ。年よりのことゆえ勘弁してとらせるが、こういう時には助けて貰った礼の一言ぐらいはいい、それから自分の方から私は何のなにがしでございますと、先に言うものだ」
 と口ではきつくいったが、寒かろうと自分の木綿織りの厚司(あつし)を肩にはおらせた。そこで秀吉も、
「成程、いわれてみればその通り、こりゃわしの粗忽であった」すぐ大きなくさめをしつつうなずき、
「危うい処を助けてくれ済まなんだ、礼をいうぞ‥‥実は、わしは太閤秀吉であるぞ」とうちあけた。これには若者も、「うへッ」とびっくりして三拝九拝。

「てまえ、四郎元清の伜めにてござりますして、今は亡き毛利元就の四男にて安芸猿掛五千貫を領する者の跡目‥‥今までの御無礼は存ぜぬことと云いながら、平に平に御容赦を程を」と詫びながら、
白布の巻いたのを持ち出してきて、「これは、てまえの替えの下帯でございますが、よお洗ってございますれば‥‥」と、しなびた一物を股ぐらに挟んで居る秀吉へ、「‥‥御免」と近よって背後から、六尺褌を廻し締め、
「いくらか暖うなりましてござりまするか」と、伺いをたてた。すると、

「元就が四男というと、吉川御前の死後、五十余歳の元就が迎えた来島海賊衆の、十五歳の孫のような嫁女に生まれさせた子の伜なるか‥‥」
 毛利とは信長在世中から戦っていた秀吉は、よく知っていた。「はい、その奈々は、てまえのおばばにござりまする」
「左様か、怒涛を漕ぎ切る手つきの鮮やかさには見とれていたが、来島の河野通有の血をひくとあれば、生まれながらにして海に馴れとるも道理というもの」すっかり感心したように秀吉は唸り、
「おれが名を一字くれてやらす、今日より秀元と名のるがよい」そのまま大坂城へつれ戻り、丁度、城へきていた毛利元就の孫の輝元をすぐさま呼びよせ、

「わしは、いつか毛利を滅ぼす気でいたが、この秀元に助けられたゆえ放念する。しかし其方は百二十万石の大身で、同じ元就の孫のこれが五千石とはなんじゃ、
今すぐ譲れとはいわんが養子にでもせいやい」といいつけたが、せっかちな秀吉は、取りあえず、
「領所長門周防山口城は秀元の分、何人もこれを奪うべからず」と三十六万石分だけ別扱いするよう五大老徳川家康らの加判までとった。‥‥このため関ヶ原役後毛利家を丸ごと取ってしまうつもりだった家康も、
周防長門三十六万石だけは毛利輝元に認めざるをえなかったのである。

 つまり本当に毛利家を幕末まで残すことのできた功績は、己れの下帯まで差しだした四郎元清の伜秀元の働きであるゆえ、これが三つ矢に入っていないのは怪しからんといいたいのである。
 その当座は、恐らく徳川家の権勢を恐れた重臣共が、「四郎元清さまは故太閤に目をかけられた御方ゆえ、今の世では反体制‥‥」というので名を削ったにしろ、明治になっては、もう徳川家に気兼ねすることもないから、
せめて「毛利は四つ矢」にすべきなのにしなかったのは、横着というか。それとも、「論語よみの論語知らず」といった具合に、なにも判らなかったのかどちらかであろう。
 なにしろ己が家系のこととか、茶器を値良く売るためにしか、歴史は必要でないといった考え方が伝統的で、自分本位にしか視野を向けぬ傾向が多く、純粋の歴史のための歴史をといった風潮は、かつては希薄だったようである。
 しかし民族の歴史とか真実の歴史とかいうものは、欲得抜きで誰かが取り組むしかないものであると想う。


 満州人肉食と間男狩り

2020-08-15 12:16:29 | 新日本意外史 古代から現代まで
            

     満州人肉食

毎年、八月十五日の終戦記念日が近づくとマスコミは一斉に関係事象を報道する。
しかしこの「終戦」という呼称は間違っている。日本は世界を相手に戦って敗れたのだから、これを「第二次世界大戦」と呼び、従って「敗戦記念日」が正しい。
日本は明治から日清戦争、日露戦争と、ずっと戦争を続けていたが、それは一部の兵隊だけが戦争を戦ったわけで、一般庶民にとっての戦争は、新聞で読むか、
ずっと想像の産物でしかなかった。従って戦争体験と戦場体験は違うのである。
私は戦前から満州に渡っていた関係で、軍隊には行かなかったので戦場体験はないが、以下は敗戦時の戦争体験である。

以前「アシュラ」という劇画で、人肉を食うのはいけないという、各地での非難がされたことがある。
しかし、中国の満漢全席で生きたサルの脳みそを食べるのや、げてもの食いで芋虫や毛虫を食するのとはこれは性格が違う。作中の人物にそれを食させねばならぬ必然性があって書くのだろう。
以前、リスボンへ行った時、古い記録類の中に(生きた女の生肌を剥がして作った革製)というB4版程の大きさの本を見たことがある。
しかし若い女にしろ老婆であったにせよ、なめし方が悪いのか、何百年も経つと人間の皮は脆い物で、縮んだり裂け目が出来ていて、羊革張りの方が遥かに堅牢だった。
だから人肉もいくらビールを連日呑んで、マッサージしている人のものでも、和田金や人形町日山の肉の程は、食しても美味では無かろうかと想える。
ところが大気汚染や海洋汚染や地球温暖化のため、人口増加に比例して食料増加は困難だから、近い将来には人間は食糧不足になって、やがては「完全人口肉」を口にする時代が到来するかもしれない。
といってそれは石油製品の人口肉ではないだろう。そうなると地球は、最早巨大な荒野(ランド)にしかすぎなくなる。
さて日本史では隠されているが、十六世紀の駿河にはその風習が在って、幼き日の徳川家康も生肉の残滓をしゃぶっていたともいわれている。
 昭和二十年満州
アメリカが原爆を日本へ落とした昭和二十年のあの暑かった夏。
白い入道雲の浮かぶ満州の荒野へ、日ソ中立条約を無視した赤軍が怒濤の如く侵攻してきた。
「無敵関東軍」とそれまで豪語していたのが、高級将校たちは、自分たちの妻子は疎開させ、現地召集のシロウト兵に「死して護国の鬼となれ」と命じ、自分らはさっさと逃げてしまった。全く酷いものである。
お陰で彼らが口を酸っぱくして演説していた「武士道」なるものを、それからは信用できなくなったのだが、さて当時の関東軍は現地満人に衣料切符を与えたが、現物は殆どやらなかった。
そこで孫呉や興安からの引揚げ邦人婦女子は、着物やモンペどころか腰巻きやショーツの類まで、途中で略奪されみな丸裸だった。
ところが、そこへ襲ってきたのが赤軍の機甲軍団。第一線はシベリアの囚人部隊であると聞いたが、これが物凄いなんてものでなく、
荒野を逃げ惑う邦人婦女子は、彼らの波状攻撃により、性の迫害が生そのものにまで及んで、何とか致死でばたばたと死んで行った。
さて、山で遭難した遺骸を燃やした経験者は御存知だろうが、人体というのは水分がそのほとんどのパーセンテージを占めているから、マッチと枯草位では焼けっこない。
そこで引揚げ同胞は、遺体を放ってもこられず、といって焼くには手間が掛かるから、よく燃えるように骨から水分の多い肉片をむしりとった。
が、それも棄ててくると山犬に後をつけられ、生きている方までが、ついでに餌食にされ、食い殺される。
だから、骨から外した部分を携帯しての逃避行となったが、さて次々襲ってくる連中は、「オーチン・ハラショウ」とばかり、荒野の中で包囲した生きた日本女性の体を、
寄ってたかって欲しい儘にしたあげく、死んでる肉片まで、彼女らの携行食糧の鹿の乾肉かと勘違いしてもりもりかじって食した。
やがて性的に経験の浅い少女達は、日に数十回の迫害に堪えかね荒野で死んだが、辛うじて生き延びられた女性は、カナカ土人のように腰に草葉を巻いたり、
破れた麻袋を拾って被り、獣の如く奉天へ辿り着いた。
そして、北春日小学校へ彼女らは収容されたが、赤軍包囲下のため初めは食料が無く、彼女らの中からも餓死者が一日おき位には出ていた。
やがて生き残った彼女らが、白粉や口紅を手に入れ、やむなくソ連兵相手の性業を初め出すまで、殆どの女達が窓硝子の割れた教室の中で「鹿肉」と呼んでいたそれを食べ、
悲惨な話だが飢えをしのいでいたのを私は眺めていた。
 さて私は幼時、尾張藩徳川家の臣だった血脈の母方の祖母に、桃太郎や金太郎の話の後で、「人間の肉は食べると酸っぱい 」といったような話を、
寝付きが悪かったので、話の種の尽きた彼女からよく聞かされた憶えがある。
祖母の父が維新戦争の時に尾州集義隊の小隊長として、越後へ戦をしに行った時、そこで見聞してきた難民達の話か。
 それとも大垣の奥の美濃の山者が天保以来の飢饉の折りに、武儀の荒地で展開していた共食いの地獄図絵の模様を、尾州領へ逃げ込んできて話したのか、そこまでは惜し
いが子供のこと故聞き返してはいなかった。が、そうした予備知識があったから、
「食うも食われるも同じ日本人どうし」と、ソ連兵に食されるよりは増しだろうと考えて、北春日小学校に収容した女性達を、私は咎め立てする気になれなかった。
しかし、祖母が教えてくれた言葉の、
「人肉は酸っぱい」の真相は同じ人間どうしゆえ、どうしても気が引けて切羽詰まるまで口にしかね、いよいよ堪らなくなって頬張る頃はもう腐りかけていて、そんな
酸味がしたのだろうとしか今となっては考えられぬ。聞いたところでは新鮮な肉なら決して変な味はしないもののようである。
  
      間男狩り

終戦直後の日本内地は知らないが、満州奉天にあっては、その年の八月一四日までは「北辺の守りは堅し関東軍」と叫び、
「在満邦人に告ぐ、鬼畜赤露を防がん」こうした事をラジオ放送していた奉天総務局の役人は、十七日に赤旗を立てた重戦車がキャタビラをがなりたてて北陵から侵攻してくると、
「在満邦人に告ぐ、決して反抗してはならない。街路を清掃して友好ソ連軍を迎えなさい」
となり、略奪のダワイ騒ぎが始まると、「進んで友好を示し国際親善のため、記念品の供出に協力すべし」となり、
略奪を防いでくれるどころか、持って行かれるのに邪魔するなとなり、やがては、親善使節の名目で二十代の日本女性の供出まで、日本人指導者は町会へ割り当ててきた。
そして十月になると今度は、「かって兵役にあった男子は調査したいことがありますから、各自その日本人町会事務所へ来て下さい。これは配給を高梁から米に変えるための人員調べです」
と、命令してきた。
クラフチェンコ赤軍元帥の占領宣言以来、日本人は米食を許されず高梁配給であった。それに、紛れ込んできた兵隊が、日本人の家に作男や下男みたいな恰好で住み着いていたが、
彼らは幽霊人口だから配給はなかった。だから、「これは助かる」と町会の事務所へぞろぞろ集まったら、邦人会の幹部がこれをトラックに乗せ北陵へと連れていってしまった。
ところが脱走してきている兵隊は勘が良い。(これは可笑しい)とトラックから逃げてしまった。こうなると頭数が合わなくなる。
そこで在満邦人会幹部は奉天総務局の役人と共に、(兵隊あがりらしい男が隠れていないか)と邦人の家々を調べて廻って連行した。
夫が出征した留守宅などは赤軍兵のダワイを恐れて、用心棒代わりに住まわせていた処も多かったので、これを当時「間男狩り」とも謂ったが、
十一月にはいると北陵の収容所は発疹チブスで死ぬ者が多く、又しても人員が不足してきた。そこで、
「お国の為であり在満邦人全体のためである。兵役の有無に拘わらず四十歳以下の男子は、進んで名乗り出るように」回覧板が廻された。
が、どうもシベリア送りになるらしいと噂が立ったので、誰もそうなっては志願者など現れよう筈はなかった。すると
「該当者にふさわしい男子の所在地を密告した者に限り、ソ連軍協力者としての目印の腕章を与え、自由に街路も歩けるようにする。
他に粟五斤を一人につき報奨として渡す」となった。密告の奨励である。町会の幹部は、町名簿から名を拾いだした。
だから、普通シベリア抑留者というと、戦線で武装解除されて強制連行された者、と思われがちだが、実態は、都市周辺で集められたのは、殆どが同胞の大人に売られた連中という事が判る。
樺太や千島からの引揚者は今でも○○会等を作って交際し合っているが、満州引揚者というのは相互不信感が酷く、あまり行き来をし合わぬのは、こうした密告が酷かった所為なのだろう。
さて赤軍が片っ端からダワイした機械類を、強制的に狩り集めた邦人の男供を人夫にし、運び出させた後に、今度は国府軍が来てしまった。
そこで、そうなると、「在満邦人に告ぐ。ソ連軍進駐時にその利便を図った者はすぐさま届け出てください。
もし国府軍によって摘発された場合は、邦人会は何の援助も出来ません」と命令が目まぐるしく変わって、又伝わってきた。
「日本人ほど信念が無く権力に弱く、体制べったりしたがるのはない」と、がっかりさせられ、しみじみと嫌になってしまった。
 なにしろ邦人会のAが呼び出されると、拷問されたわけでもないのに、
「BとCが元共産党員だったらしいから、ソ連に協力していた」と告げてしまい、
そのBやCが呼び出されると、これまた同じように彼らは、「DやEが臭い」と教えるのである。
 事実そう思い込んで云うのなら仕方も無い話だが、付和雷同。まこと単純そのものに「長いものには巻かれろ」で考えも無しに進んで協力し、ご愛嬌に他人を密告する。
こういう時に満州にサルトルが居て、
 「何故日本人どうしが庇いあえないのか。日本のオトナよ。君たちは若い人達をエスコートしてやるのが義務というものではないか」とやってくれたら良かったろう。
当時、田中総一郎とか古今亭志ん生なんてオッサンが居たらしいが、あれは日本に居ても自警団か、交通安全の白服を着たがる町会の役員並みの体制派なのだから、
己の保身にキュウキュウしていたのだろう。戦後になって、尤らしい事を書いているが、実態はこんなものだったのだろう。
 男はみんな密告に脅え満服を着て旧城内へ逃げ込み、残った日本女性の若いのだけが、「タワリシッチ」と昨日まで呼んでたのを、今度は、
「ワンさん待っててちょうだいね」と張り切っていた。美しく装いだした若い娘達に同胞の男として、私は嫉妬でかっかとした。
日本人の悪しき特性である「奴隷根性」は、こうした特異な状況ではモロに現れる。
さらに兵隊さえも捕虜になれば、良い子になりたいために、自分から進んで軍機をペラペラしゃべる。真珠湾攻撃時、海軍の特殊潜航艇で捕虜第一号になった少尉が居た。
彼は聞かれもしないのに海軍暗号を米軍に教え、これが後の山本五十六連合艦隊長官の撃墜に役に立ったという。そのため彼は米軍からご褒美としてワイン一本を貰ったという。
戦後、米軍の資料に皇居の見取り図まで出てきたというが、これは近衛師団の捕虜になった兵士が進んで米軍に教えたからだという。
天皇陛下の住む住居まで教えるとは全く驚きを通り越して悲しくなる。
捕虜は国際法で、名前と階級以外しゃべらなくてもよいことになっているのに、日本兵は全く信じられないから、東条英機陸軍大将は「戦陣訓」を出した。
これはいわば兵に対する、道徳で「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節が有名であり、玉砕や自決など軍人・民間人の死亡の一因となった。
平たく言えば「お前たちは捕虜になれば何でもしゃべって、軍の損害が多くなる。だから捕虜になる前に精いっぱい戦って死んでくれ」の意味。
さて、我々は激動の昭和を生き、平和な平成も過ぎ現在令和を生きている。近現代史の宝庫ともいえる昭和だが、戦争という極限状態の中で八月十五日は、
庶民や兵隊がいかに生き、死んでいったかを考え直す機会ではなかろうか。




中国一辺倒の二階幹事長

2020-08-10 10:45:54 | 新日本意外史 古代から現代まで

   中国一辺倒の二階幹事長

先頃、米国有力研究機関が日本の対中匡政策形成の実態を調査した。
7月下旬に公表されたこの報告書は、安倍晋三首相の対中姿勢に大きな影響を与えてきた人物として、
首相補佐官の今井尚哉氏の名を明記していた。また安倍首相の対中政策を親中方向に向かわせる存在として、二階俊博・自民党幹事長や公明党を挙げていた。
(公明党の池田大作氏も中国と仲の良いことは有名で、池田氏が中国へ訪問した時には国家主席が歓迎してくれるほどです)また、過剰に中国に媚びる鳩山元首相の名も挙がっている。
日本の政治家や、文化人や学者の中には骨の髄から左がかったのや、中国一辺倒、韓国大好き、さらには北朝鮮を称賛する馬鹿者までいる。全くこのご時世にどうかしているのではなかろうか。
ここで、二階幹事長について、何故にこうも中国贔屓なのかを考察してみたい。
何故なら彼には、中国に対して、「友好」とか「善隣」とか「先人の努力」といった曖昧な言葉が出てくるだけで、政策と呼べるような外交方針の説明は聞いたことがないからである。
また氏の経歴を見ると、国会議員の秘書から県会議員を経て衆議院議員となった、典型的な出世コースを辿っている。
だが、自民党から新生党、新進党、自由党、保守党と政界渡り鳥でもあり、自己中心的な側面も窺われる。
また、旧親分である当時民主党幹事長だった小沢一郎も2009年、民主党議員143名と一般参加者など483名で構成された大訪中団を率いて胡錦濤国家主席など中国要人と会見している。
この親分を平気で裏切ったくせに、親分の真似をして、二階氏は2015年5月にも、自民党総務会長として約3000人の訪中団を連れて北京を訪れた。習近平国家主席とも、親しく会談した。これぞまさしく「媚諂朝貢外交」だった。
さらに、新幹線の中国への輸出に関し、2000年1月の訪中時に、新幹線担当の国家発展計画委員会主任(大臣)曽培炎、さらに中国大使陳健に対し、
【日本は中国から文化を教わり、その延長線上に今日の日本の繁栄がある。そのなかから、たまたま新幹線の技術を開発した】
「この技術が中国の発展にもしお役にたつならば、どうぞ一つお使いください。積極的に協力します」と述べている。
上の【】の部分には驚くを通り越して情けない。この人の歴史認識はこの程度なのであり、大きな間違いでもある。
日本の飛鳥から奈良時代にかけ、坊主という宣教師を手先に仏教と漢字を持ち込んで強制的に広めたのが中国ではないか。
そして彼らは「藤原氏」と称して300年近くも君臨し、我ら日本原住民のご先祖様たちを差別し奴隷化した史実がある。漢字の国の強みで、大陸にはない美しい富士山を見た彼らは、
これぞ「藤原氏の山である」と思い上がりも甚だしく「富士山」とつけている。そしてさっさと自分たちに都合のいい「日本書紀」と「古事記」を捏造し、現在までこの呪縛は日本史を毒している。
その後ご先祖様たちは日本の風土寒暖に合わせ、日本独特の文化や科学、文学、芸術を開花させたのである。
今や世界が認める堂々たる日本文化を、中国に媚びることなど全くないのである。

さて、歴史上隠されてはいるが、前記したように、この日本列島には中国は「隋」や「唐」の時代から中国人が日本に住み着いていた事実がある。
さらに朝鮮人も「馬韓、弁韓、辰韓」時代から移住し、日本で代理戦争の時代さえあった。そして、我ら原住民と混血した子孫が綿々と現在まで続いているのである。
ここで彼らを別に差別や区別する気は毛頭ない。何故ならこの日本列島はアラブ系、ポリネシア系、インドシナ系、中国系、契丹系、朝鮮系、白系ロシア(韃靼)、インド系と、
雑多な民族で構成されいて、雑種民族の強靭さ故、今の日本が造られているからである。そしてこれらは全て黄色民族で一見したところ、見分けがつかないのが特徴である。
大和民族単一説は昭和軍部の宣伝だから、「海洋渡来系」と「騎馬皆族系」に大別することができる。
そして日本人の姓には「あいうえお」の母音に「いきしちに、うくすつぬ、えけせてね、おこそとの、」の子音がつくが、今回は二階氏の「イキシチニ横列」の「ニ」の付く姓についての考察。
この姓は二階、二階堂、蜷川、西田、西本、西山、二本柳、などそう多くはない。
戦国人名辞典にも、新位田元定(秀吉馬廻)、二階堂長五郎、二本松義継(奥州探題)、仁賀保挙誠(由利十二党の筆頭)、仁科盛信(武田勝頼の弟)、丹羽源太夫(秀吉馬廻)
丹羽長秀(信長から秀吉に仕える)、新国上総介(奥州水沼城主)、新納忠元(薩摩大口城主)、西尾五郎右衛門(秀吉馬廻)、西川方盛(秀吉使番)、
西洞院時慶(にしのとういんときよし・廷臣でその日記「時慶記」が有名)、西堀勘九郎(豊臣秀次馬廻)、蜷川親長(足利将軍、義輝、義昭に仕え、後家康に仕える)
如法寺親武(にょほうじちかたけ・豊前の地侍)と少ない姓である。

〝姓〟のイニシャルで明確に判別できる
 明治五年に時の薩長政府が、新しく地租とよぶ税金を取りたてることになったのは、一般にも知られています。しかし、徴税令書を発行し、それを間違いなく送り届ける必要上からして、
『庶民に称氏を許可する』といって姓のない者にも新しい姓を与えたのが、今でいえば郵便番号制のような姓の普及化ですが、それでは、先祖伝来の姓ではなく、そのように与えられた姓で判断しても、
それはナンセンスではないか?と早呑み込みする向きもありましょう。
 しかし、それは≪壬申戸籍≫とよばれるその当時に作成された台帳にも、はっきりと色々書き込まれ、その由来が判るようなものが残っており証明してくれます。
 というのも、住んでいる地名からか、昔からの伝承の姓をつけるにしても、その最初の発音、つまり<姓のイニシャル>で直ぐ耳から入って分類できるようにとの新政府の命令で、
役場はそれを守って命姓に協力したからです。
   
◆もともとこれは文献の上でも、きわめて明白なことで「関馬之允の姓は、伊勢の地名からきているが、武者の姓は、これ本貫地の地名を取るが慣わしであるからである」と、
十六世紀に書かれた北条早雲の<永正三年小笠原定基宛文書>にも明示されているくらいのものであって、なにも明治になってこと新しく始まったことでもないのです。
 さて、「上州、国定村の忠次郎」というように、また源平時代の、「武蔵の熊谷在の直実にて候」といっていたのが、その内に、村とか在をやがて省略し江戸期からは、
(何の)の〝の〟が縮まってしまったのが、姓と名の直結になるのです。
   
◆例外として、「美濃かとう武者の勢いすさまじく、上等の土岐侍よりも、目ざましい働きをした」と<天文三年朝倉文書>にもありますように、呼び名というか、渾名のような、
(美濃かとう武者)が転化して姓となった加藤などと言ったものもあります。(もちろん下等といっても、それは低級の意味ではなく、足利時代には仏徒が、「浄土」を「上等」と当て字していたので、
その釣り合いから神徒系は「かとう」と呼ばれたのが始りです)ですから、従来いわれていたような、
「加賀へ入った藤原氏が加藤の姓になる」といったのは単なるこじつけにすぎません。
また第二横列(イ姓列)のイキシチニを編戸の民(稲束を渡され田夷となって穴居の入り口に目印に筵をはっていた民)とする根本資料は、
『延喜式』の授苗腸表及び、太田南畝編『杏花園随筆』及び『寛政家伝指出史料』を参考として、もっとも早く農耕部族となった「原住農耕系」とみなすものです。
 原住農耕系(仁徳王朝系)─イ姓列
 関東では「イカン」「イケマセン」というのを、関西では「アカン」「アキマヘン」といいます。本辞と修辞の差といいますが、これはやはり民族別の発音の違いなのです。
 つまり、イが上についても、茨城県の水郷地帯のイタコから以東のイ姓はアと同じなのです。また、拝火教の末裔が多い関係でヒは炎のホと結びつきますので、第五横列(オ姓列)に入ります。
また北と白という文字の場合はキとシでもこの列から外します。(北は第五横列、白は第一横列に昔は入れていたからです)
 何故この姓列はそんなにややこしいのかといいますと、もともとは原住民なのですが彼らは西部劇にでてくる騎馬隊の軍属のインディアンのごとく、早いとこ藤原氏に降伏してしまった要領のよい連中。
それと、藤原基経に廃立させられ上州のハルナ系の山中へ連合赤軍のごとく逃げ込まれた陽成帝のお供をして山中アジトへ逃亡し、あくまで公家に対してレジスタンスを続けたものとに分かれるからなのです。
 反抗派は、第一横列(ア姓列)や第五横列(オ姓列)とその血を混ぜて今日に至っていますから、それらと同じことですが、いち早く藤原側について、種米のモミの束を与えられて、「田夷」と呼ばれ、
編戸の民となった方の彼らは、江戸時代になっても寺百姓と呼ばれて、各壇那寺に人別帖なる戸口簿で総括取締りをうけていたので、昔は軽くみられ、「奴百姓」とも呼ばれました。
 しかし、唐から渡ってきた連中のだらっとした弁髪をみて、「長いものには捲かれろ」と、いち早く転向した目先のきく先祖の血をひいた彼らは、「百姓は滑稽だ」といわれつつも明治まで逞しく生き抜き、
今では土地成金になった人も多く、その要領のよさでは他に肩を並べる者はなく、現代のエリートがこの姓をもつ人々なのです。
 一般には、イのつく姓は、十世紀に編纂されたところの≪延喜式≫に多く現われてくる姓です。が、関東では討伐されてやむなく田夷となったり閉伊族ともなりましたが、その点、関西の住人であったイ姓の者は、
地理状況から藤原船舶系にすぐ結びつき、いち早く降服をしいられ、種籾と鋤鍬をもたされて、体制下に組み入れられて、「編戸」の民になった人達で、この子孫が二十世紀の今も多いのは当然
といえましょう。日本原住民の中では真っ先に体制側についてしまった民族として要領のよさとか、人当たりのよさというものが、その生きていく必須条件であったため、その歴史の上からしても体制に近く、
きわめて外向的かつ親善型といえます。つまり、世の中が激動しているときなどには、その波にうまく乗っていける抜け目のなさというか、非常にお利口な人というか、
ともかく今日でもエリート的な存在であることは間違いないといえます。
 そして人当たりの良さと美男美女が多いので、今では代表的日本人といえるでしょう。
〝セールスの必携〟という本に有能な販売員の名前の一覧表がありますが、驚くなかれ七割がこのイのつく姓だったのには感心させられました。つまり、頭が良いのも特徴らしく、どこの会社でも、
「切れる」といわれるのはイのつく姓でいわゆる立身出世型であるといえましょう。
 ですから、もしサラリーマンにして、上司にイのつく人がいた場合は、相手が相手ゆえ、自分の方も、「これ要領を本分とすべし」といった仕え方をするしかないというわけです。
 また、企業側としては、新しい事業の計画などのときには、きわめて抜け目のないこのイの姓の人を使えば、それで効果は十分に上がりますが、いわゆる番頭役として企業を守らせるという点においては、
危険性がないとはいいきれません。しかし、それは企業側からの立場であって、イのつく人自身は処世上、何の不安もなければいかなる波風にも負けることがなく、
きわめてラッキーな人生が送れることを保証できるといえます しかし、この姓は、歴史的にみた場合には、まこと厄介で、難しくなってきます。
 何故かといえば、東京から東北のほうの、イは「夷」を夷と発音して、それで通りますが、西南に入ると、このイの姓は、アと同じになるからです。それは、前にも述べましたように日本語には、
修辞と本辞があって、例えば関東語の「いけません」「いかん」という否定語が、関西語では「あかん」「あきしまへん」となるごとく、青森県の下北半島のイタコが、≪義経記≫などでは「イタ」という言葉で、
そのままでて
きますし、利根川沿岸の水郷で、かつての天の朝の残党が、閉じ込められていたあたりを、いまでも、「潮来」と書いて「イタコ」と呼んでいますがこれが京都の方に行くと、「アタコ」と変わります。
つまり吉田神道家で祀る、「愛宕神社」がそれです。(これに関して知りたい方は、私の「日本原住民史」(朝日新聞社刊)を参照してください。)
 何故こうなったのかといえば、天の朝の卑弥呼の系統の日本原住民は、紀元前九十七年の崇神王朝にとって変わられたあとも、非常にまだ人口も少なかった頃で雑居生活をしていたのです。
ところが船舶民族の仁徳王朝が現在の大坂にあたる難波に都を設けたときから、それまでの原住民はすべて反体制下に置かれてしまったからです。やがて六世紀の継体王朝が大陸から日本列島へ入ってくる
と、仁徳王朝系の人々も、同じように被占領民という扱いを受けてしまい、やがて仏教の流入が激しくなってきて、原住民の代表として政務に携わっていた蘇我氏が、
ついに藤原氏によって斥けられるという時代になってくると、いわゆる西暦六四六年の大化改新となって、
ここにはっきりと大陸渡米の藤原権力と、日本列島にいた日本原住民との間には格差がついてしまいます。ついで、その七世紀から八世紀にかけて、
次々とレジスタンスをはかる日本原住民への討伐隊が繰り出されたのです。そして、捕虜となった者たちは、人的資源の少ないその当時のことゆえ、現在の大坂、京都、奈良の周辺に集団で移住させられ、
これに種籾や農耕機具を与えて、今日の言葉でいうならば、集団コルホーズ化されたのです。
 イ姓の人の中には、あくまでもレジスタンスを心がけ反骨を示す東北系の者と、強制的に収容されて、体制べったりでなければ生きてゆけない境遇に追い込まれたために、
非常に馴化させられた者との二種類が生まれました。つまり終戦直後にアメリカ軍の基地に心安く出入りして、チョコレートやガムを横流ししたり、カタコトのスピークを操って、
二世風を気取ってうまく立ち廻った人々の多くはこのイ姓をもっています。つまり何をやるにしても、どんな場合でも、きわめて抜け目がなく、時機をみるに敏にして、
衆に抜きんでたものを生まれながらにして身に備えています。これは、とても他の人間の真似ができることではありません。
作家の五木寛之や石原慎太郎などは、その典型的なものといえます。現在次期総理候補と言われる石破氏や岸田氏は、この要領本分が特徴の典型。
千年前の犬は、現在でも犬であるように、民族の血にまつわる陰影を感じざるを得ない。
今や世界は武漢病毒症候群が猖獗を極め、日本は敵対する中国、北朝鮮、韓国に向き合い、内外の難題山積である。
激動する世界情勢の中、日本の指導者としては力量不足が心配するのは私だけだろうか。
誰が何処の国を好きだという気持ちは主観的なもので一向に構わない。
しかし、覇権主義を隠さず、尖閣まで盗りに来ている中国べったりの態度をとる二階氏は、もっと国益を考えた冷静な態度をとるべきであろう。

令和二年八月 武漢病毒症候群過の終息を、妄想が杞憂で終わることを願いつつ







  

軍用ジンギスカン義経 北条政子は平氏 楠木正成悪党説の由来 徳川家康の先祖は新田義貞

2020-08-04 15:23:07 | 新日本意外史 古代から現代まで

軍用ジンギスカン義経

「源」と、「元」の音読みが、どちらも同じであり、それに源氏の笹竜胆の紋にそっくりなマークを、ジンギスカンが用いていたから、源義経は衣川の館で討死したのではなく北海道へ渡り、そこから大陸へ入って、ジンギスカンになったのである。
という説が、大正時代に発表された。丁度その頃、
「狭い日本にゃ住みあきた、シナにゃ四億の民がある」といった「馬賊の唄」が、これまた大流行していたので、「どうせ大陸へ渡って馬賊になるなら、ジンギスカン位の大物になろう」と、その本は洛陽の紙価を高めた。
だからそれを下敷きにしたものが、戦後にも出版されたが、今や中国は、
『共産党独裁国家』の世の中で、馬賊など時代錯誤のせいとなってしまった。そこでオーストラリヤ輸入のマトンをさばく為に、「ジンギスカン鍋」として、その方で彼の名前が宣伝されているようである。
 それに大正時代の青少年の海外雄飛といえば、満蒙の天地と限定されていたものだが、今はエベレストまで出かけて行って滑降してきたり、ヒマラヤへ登って女性も遭難して遺骸で戻ってくるような世の中だから、
いくら、「ジンギスカンは源義経」といっても、ただ単に伝奇ものみたいに、興味本位に扱われるだけのことであるらしいが、「真相」というか、その真実はなんだったろうか。やはり気に掛かる一つの命題である。
というのは、火のない所に煙が立たぬ譬もあるように、それは、(ジンギスカン=ツングース騎馬民族)(源氏一族=やはりツングース系出身)といった同族的な血の流れを同じくしているらしい点も推理されるからである。
こじつけられるにはそれだけの、道具立もあろうというものである。「ジンギスカン義経説」は、なにも大正時代の小谷部全一郎のベスト・セラーが皮切りではない。
 江戸時代文化年間頃の刊行物で小判十六枚とじの黄表紙もので、「判官堀川逆夜討ち」なるものがある。これは京にいた九郎判官義経の堀川の館へ、頼朝が差し向けた土佐坊らの追手が押し寄せてきた事への仕返しに、
蒙古兵を率いて京へ逆襲してきた判官が、「おれが女を何処へやった」「かくなる上はせんもなし」と被衣をかぶった身分のある女性や、牛車にのった高貴の女性を、手当たり次第に引っぱり出してからが、それを押さえこみ、
「穴埋めに致すとは、ほんに、これがことをいうのかい」と、大見得をきっている絵がでている。
 はっきりとジンギスカンの名など何処にも出ていないが、蒙古兵を従え自分も同様の衣裳をまとっている処をみると、江戸期にあっては、「元寇」という十三世紀の出来事を、
なぜ元軍十万が何度も懲りずに日本へ攻めこんできたか?その理由が納得できず、(源義経の亡霊が、仇討ちに殴りこみをかけてきたもの‥‥)といった受け取り方を一般はしていたものらしい。
それゆえ黄表紙本では、「あらゆる恨みや憎しみは、みな食物と女のことが、その原因である」といういい伝えにのっとって、さも女のことで妄執を残し、その未練から押し寄せてきたようになっている。
しかし今日の史家は、頼朝の妻政子が北条氏なので、そこに重点をおき、「源氏と北条氏とを一つ」にみているようだが、江戸期では、まさかそうした誤りは作者もしていなかったという、これは裏書きでもあるらしいといえる。
 つまり元が攻めこんだ頃の日本は、源氏を滅ぼして取って代わった北条政権の時代なので、フビライ汗は同族のその仇討ちに乗りこんできたのだと、考えられていたようである。
 さて、高木彬光の『ジンギスカン義経』の種本は、小谷部全一郎の『成吉思汗は源義経なり』だが、それにも種本がある。
 福地桜痴居士の『義経仁義主汗』と、(日本人はギリシャ民族の一部の東来説)をもって明治時代の洛陽の紙価を高らしめたことのある木村鷹太郎の『義経ジンギスカン』の二冊がそれである。
 処が、それにも、また種本がある。『義経再興説』という明治十八年刊のものである。
 これは末松謙澄がロンドンで集めたものだそうで、内田弥八訳述という体裁になっているが、今でいうリライトものらしい。
 だが山岡鉄舟の題字が入っていたり、日清日露と大陸進出作戦を意企していた明治軍部が、(朝鮮征伐の豊臣秀吉)を国策に用いたと同様に、この義経大陸再興説も、
「国民精神作興用」にと、おおいにすすめて買わせたから明治三十年代の末には、三十六版と重版し当時の一大ベストセラーになっていた。とはいえ時代が時代なので、
「たまたま友人一英書を恵む。繙(ひもと)きて之を見れば、即ち義経蝦夷より満州へ渡り、元祖鉄木真(テムジン)と為るを記載するの書なり」といった思わせぶりな序文から始まり、
「義経主従蝦夷ヨリ満州ニ渡航セシハ全ク事実ナリ、果シテ然ラバ斯ノ如キ文武両道ノ才幹ヲ有スル人傑其名声ノ後世ニ伝ハルベキ大事業ヲ企図セズ、空シク日月ヲ徒費スルナラント云フモ、吾人ハ之ヲ信ジ得ベキヤ、余ハ直チニ否ト云ハンノミ、謂フニ
義経ハ彼ノ豪傑成吉思汗其(ソノ)人ナラン」といった大上段にふりかぶった内容で、「義経の大陸に渡りし証左ハ、寛永年間越前ノ小港神保ノ船人満州ニ漂流セシニ恰(アタカ)モ清朝北京遷都ノ時ニシテ、彼ノ船人モ共ニ北京ニ送ラレ道スガラ建夷奴
児(ケインイドル)地方家々ノ門戸ニ、義経及弁慶ノ画像ヲ貼付スルヲ見タリ、是レ義経主従大陸ニ渡リシ顕然タル証左ナリト‥‥」はっきり断言しきっていて、さも、(青少年よ大志を抱け、諸君らは第二の義経となって、大陸に雄飛せよ。
すすんで御国のために御奉公せよ)といわんばかりにアジっているような感じをうける。
 これは前大戦中に、白虎隊の詩吟が流行したり、「二本松少年隊」といった本の広告が大きく新聞に出たと思ったら、すぐ後ろから、「少年航空兵募集」や「少年戦車兵志願受付」が開始されたのに、軌を同じゅうするような感じさえ連想させられる。
 だから今日考えるような伝奇種ではなく、種本のそのまた元祖の、『義経再興記』という本は、お国の為にと出された本であったことがよく判るのである。
 そして義経に国民の関心をひくため、「義経千本桜」といった芝居や、「牛若丸」が、学童向きの絵本の主役になったし、尋常小学校唱歌にまでうたわれ、
「京は五条の橋の上」とひろまったので、いわゆる「判官びいき」といった熟語さえ、今では生まれたのであろうか。
    北条政子は平氏
 さて話は戻るが、その源氏の世も一代限りで、意識的に義弟の義経を遠ざけさせてしまったのも、北条氏の出身であるところの政子であったという事実。
 そしてその源の頼朝の妻の政子が、いくら夫に先立たれた後とはいえ、その死ぬ時に当たって、敵姓の氏名を、ことさらにつけ、「源の政子」で最期をとげず、「平の政子」としてこの世を去ったことの奇怪さは、難しすぎるのか、
あまり問題にされていない。だが、北条一門がそれを認めて葬っているのだから、これこそ源氏の謎を解く鍵だろう。
 北条氏の根拠地の鎌倉は、新田義貞によって滅ぼされ、殆んど史料がそのとき戦火に焼かれてしまって、残されていないから、断定を下すのは難しいが、「信州諏訪神社文書」に「伊豆伊藤(東)から廻されてきた別所者が、神領について
滞在し指図をしていった」旨の記載の個所がある。源頼朝在世中の古文書である。となると、現在は温泉郷の伊豆伊東というのは、十二世紀末までは、原住民捕虜収容地であったことになっている。
 そうなれば、その伊東の役をしていた北条時政が、「よろしゅうござる、家の子郎党共をもってお味方しましょう」と頼朝に肩入れして、ところの目付、つまり監視所の代官を討ち、石橋山で平家追討旗上げをさせたのも、
原住民と源氏との相互扶助的役割からみて納得できる。しかし北条氏が、頼朝の死後、「頼家」「実朝」といった血脈を殺してしまい、「左大臣九条道家」の子の三寅丸(頼経)二歳を、政子の養子に迎え、形だけの征夷大将軍となし、
やがてそれも有名無実化していって、北条氏独裁制を確立する途上で、邪魔者は消せとばかり、「梶原源太景時の一族」「比企能員一族」「畠山重忠一族」「和田義盛一族」「三浦義村一族」と源氏家臣団の皆殺しを企てたのは、「出自」と
いう当時の出身部族が、もし源氏と、伊豆伊藤別所の北条と同じ種類のものなら、これは可笑しなことになる。

 だから後世の系図屋は、なんとかしてそれに辻つまを合わせようと、「平貞盛----維時(これとき)----直方----維将(これまさ)」というのを作り、すこしは良心が咎めるのか、「維将これまさに北条の祖なり」と、でっちあげて居る。
 系図屋というのは、注文されれば何処からでも、もっともらしい名前をもってきて、なんとか先祖にすえてしまい、それで依頼主の歓心をかう系図を作成していたリライト業だったので、現代でも、注文通りの品物を巧く盗みだしてきて、
それを捌く商売人を、漢字では臓物商、故物買いとかくが、発音では『けいずや』と、まだいっているほどのものである。
 さて歴史家の中には、政子が死ぬ時に、「平政子」を名のっている点からして、北条氏は平家なりという系図を、その立場とご都合主義で信じている者もいるようだが、常識的に考えて、
(平家の一族が頼朝に加担し、とうとう平家を没落させてしまう‥‥)といった事が有り得るだろうか。また、いくらかでも平家の血筋を引くものなら、
その地位を利用して親しかった平家の一門を匿っておき、源氏全滅後にそれを表面に出してもよいと思うが、てんでその形跡すらない。だから北条一族は、反源氏であった事は確かだが、
「平氏の末裔」というのは単に名目上の恰好をつけたにすぎなかろう。
 もちろん政子の場合は、泥臭い源氏よりも海外ムードの平氏の方に憧れていたから、自分でペンネームのように気儘につけたものか、それとも北条一族が、「打倒源氏」の正当性をPRするため、こじつけに政子の死後、
そうした命名の仕方をしたのか、今となってはそこまでは判らない。しかし延暦の昔、日本全国二千有余に作られた捕虜収容所の別所とはいえ、そこに入れられた原住系は決して単一ではなく、地域によって南方系北方系と雑多であったらしい事は判る。
そして、「義経が向こうへ行ってジンギスカンになったのではなく、ジンギスカンの先輩で日本列島へ先にきていたのが、源氏になったらしい」
 のは、騎馬民族説でも立証されるが、北条時宗の時代に元のフビライ汗が十万の兵を向け、くり返し差し向け日本遠征を企てたのは、
「北条体制が反ツングース系だった」理由に、やはりよるものだろう。
 イスラエルがアラブ諸国と戦をすると、世界各地のユダヤ人が援助し、アメリカのようにユダヤ人が体制を維持している国は、全面的にイスラエルを助けるごとく、民族の血は濃いもので、
山口の大内義隆のごときは南支那のニッポーに、祖先の地として今でいう領事館さえ設置していた程である。だから、もし北条氏が、
(ツングース系だったら)元とは友好関係を結んでいて、彼らから決して攻められるような事はなかったろうともいえる。
 また人類学上では、鼻の根元から上顎の門歯へひく線と、耳孔と眼の窪みへひく線との対角を、「全側面角」というが、石器時代人は80.8度、古墳時代人は81.5度、鎌倉源氏は81.7度。ツングースは81.6度と、みな出っ歯型である。
「源義経は出っ歯の小男だった」といわれるのは、この骨格からの割り出しだが、ジンギスカンやフビライ汗も、西瓜を食べるのに好適な顔をしていたことになる。
 しかし北条政子が、反源氏反ツングースとなると、これは出っ歯型ではない。現代日本人の「全側面角」は、平均85.1度だそうだが、政子もそれ位で口許の整った顔ををしていた事になる。
 俗に関東女は肌が浅黒いといわれるが、十二世紀から十三世紀頃のものと推定される人骨で、この角度に近いのは、ギリシャ人の進攻によって混血を余儀なくされたインドや、マレー人のものだけだからして、
「北条政子というのは、やや褐色の皮膚をして、口許尋常の女」つまり当時としては、美人という事になるのである。
(江戸時代になっても、関東では「口許尋常」というのが美人の標準だったから、反っ歯が割りと多かったらしい)それゆえ頼朝もすっかり参ってしまったろうが、各地から集ってきた出っ歯の関東武士も、この政子をしみじみ垣間見てからが、
「ええ女ごじゃのう」と、ぼおっとしてしまい、さて、それからというものは、(花は霧島、煙草は国分)などというオハラ節はまだなかったが、彼女の名に敬語のオの字をつけて、「女ごは、オマンコ」といいふらすようになったらしい。
 というのは、今では「マサコ」とよませるが、彼女がいた屋敷は、「マンドコロ」と呼んでいたし、後の秀吉も、その母を「大政所」妻ねねを「北の政所」といっていた。といってマンを致す所の意味ではなく、
人間を意味するマンが、マライ語では、施政官をさしていたから政務の意味だったろう。つまりこうなると、南方系の平氏をツングース型北方人種の源氏が追っ払い、
それを別所に分散されていた中の古代マレー系の北条氏が滅ぼしたのだから、北条時宗の時代になって、
「おのれッ」と北方系の元が攻めてきたことも、ややこしいが人類学上では解明できるのである。

    楠木正成悪党説の由来
 長州人吉田松陰は、松下村塾を開くに先立って、安政三年(1856)四月十五日に、「七生説」をまず書き、ついで嘉永四年(1851)に、「楠公墓下ニ作ル」を詩作し、ときの光明天皇さまを後醍醐帝に、
当時の大原重徳卿を建武の中興の際の藤原卿になぞらえ、自分を楠木正成に擬した。そこで大原卿が、「七生滅賊」の書を松陰に与えたが、これは今でも山口県萩町の松陰神社に蔵されている。
 さて松陰は、「七たびも生き返りて、夷敵をを打ちはらわん心、われ忘れやめ」と刑死するに当たっても辞世の歌を残している位なので、彼によって教育された松下村塾の教え子が、明治新政府の実力者になると、まず、
「正三位」が楠木正成に贈られ、やがて小学校令がでて、『国定小学読本』が明治六年八月に初めて発刊されるや、楠木正成の話が文部省命令で入れられ、ついで八年四月から全国の小学校で使わせることになった『日本略史』
にも、「後醍醐天皇」の条に、(正成正行の桜井の駅の分れ)が挿入され、義軍奉公の教育がそれで施されるようになった。
 そして明治十三年七月の聖上西国巡幸の際、「正一位」が改めて正成へ追贈され、「大楠公」として国民精神作興の一大柱石とされたのである。
 なのに戦後の歴史家は、「楠木正成は土豪だった」とか「悪党」だったと、まるで逆な評価をするのだが‥‥どうして正反対に逆転してしまったのだろうか。
 日本人として天皇さまにお尽し申し上げるのは、それは民族として至上命令ではなかろうかと思うのに、時代によってはその価値観まで違ってくるということは、黙っていられない義憤を感ずる。
「正一位」に勅旨策命されたとき、「橘朝臣正成」とされたことが、ややこしくなる原因ではなかったろうか。とまず考えられる。なにしろ、
『尊卑分脈』とか『姓氏撰録』といった一方的なものでは、すべての日本人はこれことごとく、「源平藤橘」の四つに包合されねばならぬ事になっている。そこで、「楠木正成程の人の出自が、はっきりしなくては、いかぬではないか」というのだろうか。
歴史家は、まず『尊卑分脈』や『大系図』、そして『群書類従』中の橘氏系図に結びつけてしまった。
 この結果が『吾妻鑑』の元久二年(1205)七月の条に現れてくる「四国伊予の家人の橘六公久(むつきみひさ)」とか、『承久軍物語』巻四にでてくる「ならの橘四郎」そして、『新撰玉藻集』の橘右馬太夫公成なども、順に結びつけ、
「橘氏の先祖」とされる敏達天皇を、楠木氏の遠祖とし、その十二代目の好古(または遠保)が、従三位大納言鎮守府将軍になったと、家格をもっともらしくして、これを正成まで系図で結びつけた。
 だから戦前は、由緒正しき家柄に生れた正成なればこそ、「楠の木の匂いがしてくる処に、忠勇の士がいる」と後醍醐帝の夢枕にまで現われ、お召しをうけて御座所へ伺うや、両手をつき、
「臣正成ここに一人有る限りは、如何なる事がありましょうとも、大御心を安じ奉ります」と言い切ったものと思われていた。
 処が戦後になると、
(いくら漢字の感じが、楠と橘で似てるとはいえ、同族扱いして、系図を結びつけてしまうのは信頼がおけないことであるまいし)となって、「橘一門であるなら、建武の中興の時に、もっと上位の段階に昇進できた筈である。
なのに従五位にしかなれなかったのは、地家だったからではあるまいか」といわれだした。
「地家」というのは「公家」に対する呼称である。
 つまり御所に仕えている公卿を、「公家」というのに、「地家」とは、俗に「地家侍」といわれるごとく、かつて別所へ入れられていた俘囚の裔。刀伊の来寇のときに急ぎ片刃の刀を持たされた俄か作りの武士団の子孫ということになるのである。
 この時の武士団は、せっかくの軍備を遊ばせておくのは勿体ないと、東北遠征をいいつけられ、これが俗にいう、「前九年の役」「後三年の役」だが、戦後、生きて戻ってきた失業軍人の救済策にと、
ときの後鳥羽上皇の御仁慈により、今の皇宮警察官のような、「北面の武士」に彼らは援用された。
 しかし全部を御所で、召し抱えられる筈はない。そこで大半の武士は、それぞれの生まれ在所へと引きあげた。「在郷侍」と地家武者のことをいうのは、この為である。
 もちろん元寇の際に募集され、九州へ進発して、雄々しく戦ったのも彼らである。
しかし弘安の役が済んでしまうと、またお払い箱になった。台風のため思いがけぬ大損害をうけたのは、元軍だけでなく彼らもまた同じ被害者だった。
 それから四十三年。北条氏のあくなき専横に堪りかねた後醍醐帝は即位七年にして、密かに討幕密勅を降された。それを奉じて各地の地家武者は、すぐさま御前に馳せ参じようと立ち上がった。しかし、未だ時期尚早。
 天皇さま側近の資朝や俊基らは捕らえられ、美濃の土岐頼兼や多治見国長らは、北条高時の命令で、謀叛人、国賊として京六条河原で、首をはねられた。
「正中の変」といわれる1324年の王政復古未遂事件である。

 挫折感に御宸禁(しんきん)を悩まし給うた帝は、その後ますます圧迫を強めてくる北条体制に堪えかね、七年後の1331年(元弘元年)八月。
 ついに京の御所を脱出され奈良の笠置山へと、決死の逃避行を遊ばされた。何故そこを選ばれたかといえば、笠置は柳生庄だったからである。
 今では新蔭流柳生但馬守でしか知られていない土地だが、ここは伊賀の名張川と木津川に挟まれた地域で、崇神天皇陵を初めずらりと天皇の御陵が並んでいる「守戸」の地帯であった。
 つまり別所地帯で、かつて北条政子やその父時政によって追われた源氏の残党が、原住民と一つになって世をひそみ、匿れ住んでいた地帯ゆえ、北畠親房が、「彼の地へお越しなされましたなら、土地者は反北条の者ゆえ、
みな帝のおんため尽忠のまことをお尽し致しましょう」と帝におすすめ申しあげ遷幸を願ったのである。このとき、三河の足助次郎らは、筒針別所の原住民の者百名を率いて来り投じ、「楠木正成」もまた河内金剛山において、
「大君の御前に召され戦うは、生とし生ける者の勤めである」すぐ赤坂山に土塁を築き、矢竹を集められるだけ運び上げ、別所の面々に檄をとばして、
「われら地下の者が、おおみこころにそい奉れるは、この上もない男の栄(は)えぞ‥‥われら菊の御紋章の下に、流水のごとくにも潔よく、この血を流し奉り御奉公の誠をつくさん」
 当時のことゆえ文字を読める者は少なかったから、(菊を上下半分にし下へ水の流れを、判じ物のように書いた紙札)を配らせた。これが後に有名になる「菊水」の旗印である。
 しかし、その頃、
「やぎゅう者」とよばれ人まじわり出来ぬような、扱いをうけていた大柳生、小柳生の守戸の千二百の男女が、帝を守って力戦奮闘したが、六波羅の精鋭五千に包囲されては、月余の抗戦もむなしく、
土地の百姓共が間道から敵を案内してきて、九月二十八日には落城。謀叛人として柳生谷が赤く血の河になる程、ここの住民は斬り殺され、帝はまた捕われの身となった。
 翌月十五日。笠置を陥した六波羅勢五千は、楠木正成のたてこもる河内赤坂城を攻めた。が、なにしろ僅か数百の別所者がたてこもっただけの、城とはよべぬ小屋同然のものである。
「吹けばとぶような掘立小屋ではないか」「鎧袖一触、叩きつぶしてしまえ」と四方八方から力攻めに掛ってくるのを、弓矢はおろか槍や刀もろくにない別所者は、巨岩を転がし大木を上から投げてくいとめた。
 しかし血みどろの抵抗も六日にして、戦力のない赤坂城は六波羅方の占領する処となった。そこで翌年三月七日。
「もはや叛乱はすべて規制できた」とばかり北条高時は、「帝を本土でなく隠岐の島へ流すべし」と、恐れ多くも日本人としては、とても考えられぬような不敬をあえてした。
 赤坂失墜後、地下へ潜行していた楠木正成は、十一月に千早城に拠り今度は河内の別所者千を集め、菊水の旗を秋空にはためかせた。
 今度は前の赤坂合戦で敵の武具を奪ったり、拾い集めていたから、装備も良くなっていたので、翌月には奪取されていた赤坂城をも取り返し、気勢をあげることができた。
「昨冬討死」と伝わっていた楠木正成が生きていて、またしても旗上げした事に諸国の勤皇の士は奮いたち、護良親王は吉野で旗上げ。
 播磨では赤松則村の挙兵。関東では新田義貞が鎌倉へ攻め込み、足利尊氏が協力して、ここに「建武中興」は成ったのである。
 だから、いくら楠木正成が、やぎゅう者同様な、守戸あがりの別所者であったにしろ、今になってその出身ゆえ差別観念から、「悪党」よばわりはもっての他である。上海事変のときの、「爆弾三勇士」にしろ、
その二名までは楠公精神をうけつぐ地方の出身者で、それゆえ彼らは軍神にはなれず勇士に止まったのだというが、われらの中なる誤った歴史学者の観念的差別でもって、
軽々しく論じたりするなどもってのほかでなかろうかと想う。

          豪傑新田義貞の謎
  徳川家康の先祖は新田義貞
 かって、青空高く舞い上がる凧の武者絵は、みなこれ「新田義貞」の髭もじゃの顔に統一されていた。
 私が子供の頃のメンコ遊びの、丸形のボール紙にはりついていた髭もじゃの武者の顔にも、「新田よしさだ」と書いてあった。
 だから『三国志』の張飛やハンカイにも匹敵する吾国の大豪傑は、「新田義貞そのひとなり」と思いこんでいたが、さて調べてみると、鎌倉攻めのとき稲村が崎で、
「波が逆まき荒れ狂うは海神の祟りならん。わが宝剣をもって神慮を慰め奉らん。もしこの剣を水中へ投じ、波が鎮まれば海神の御意に、この義貞がそうた事になるゆえ‥‥一気に波打ち際まで突っ走り、鎌倉の北条御所へ討ちこまんず、如何」
 と、海上を伏し拝み、おびたる佩刀を水中へ投じ、見る間に波のひくのを眺め、おおいに勇みたつと、左右の者をかえりみて、
「神意は吾らにあり、今ぞ北条一族をば誅殺の時なり。われと共にいざ進み候え」とばかり馬に鞭打ち突入し、高時の首をとった。
 だから、海神より見こまれた豪傑というので、新田義貞は英雄なのだろうか、どうだろう‥‥彼に従ってきた上州新田別所の者達は、生れて初めてみる太平洋に、びっくりしてしまい、
「海は広いな、大きいな」と面喰ったかも知れぬが、(潮の干満、その日は何時頃に引き潮になるか)位は、近くの猟師に聞いてもすぐ判る事ではなかったろうか、と思えるのだが‥‥

 つまり、それ位の知識で佩刀を投げこむトリック程度で、彼が幕末まで、「豪傑」として特別扱いされていたのは、常識的には納得できぬし、明治になって俄かに声価が、どすんとがた落ちしてしまったのも怪しい。
「雨あられと飛びくる矢は防ぎきれず、さながら全身針鼠のごとき有様となり、もはやこれまでなりと、馬が深田にはまりこみ転げ落ちたるを潮に、潔くその身に刃を突きさして、かねて覚悟の最期をばとげにけり」
 といわれた新田義貞の霊を慰めんと、万治三年(1660)に福井藩主松平光通は、その討死したあたりに建碑したが、やがて明治三年になるとそこに小社が建立され九年には別格官弊社となる。
明治十五年には正一位が贈られたのであるが、地名をとって「藤島神社」と呼ばれて新田神社といわなくなる。しかしそれ以前の徳川時代にあっては、
(コレラやチフスといった伝染病や厄病よけの呪祷(まじない)絵にも画像が刷りこまれ、新田義貞の一と睨みで、いかなる悪鬼羅刹も退散するもの)
 とされていたのだが、位階だけは正一位に昇進したものの、いつの間にか楠木正成にその王座を奪われた形で、皇居前の銅像にも義貞は洩れ、しがないメンコ絵や凧の武者絵にと転落してしまったのである。
 もちろん新田義貞は豪傑といっても、それは容貌が、それらしいというだけであって、確定史料には誰と組打ちしたとか、何某を押さえつけて首をとったとかいった話は伝わっていない。
 初めは元弘の役に際し、鎌倉幕府の命令で西上軍の中へ徴発編入され、河内へ進軍していった。
 そして、
「あれなる千早城を陥しそうらえ」と命ぜられ、
「かしこまって」と攻めてはいったが、新田義貞より楠木正成の方が強かったのかどうかは判らぬが、何度も攻撃したが向こうがそれに応じてこないので一度も勝てずじまいだった。
 もたもたしている内にそのうち嫌気がさしてきて、義貞は東国へ引きあげてしまった。すると後醍醐帝よりの綸旨が、「汝義貞も、北条高時の追討をなせ」と、秘かに届けられた。
 天皇さまのご命令であるからには、日本人としてそれに否応のあるはずがない。そこで義貞も、
「はあッ」とばかり、昨日の友は今日の敵と北条高時の軍勢を討たんと進発しかけた処、遥々陸奥の国から石川義光、武蔵からは熊谷直実の子孫の直経、遠江からは天野経頭。
 そして、今は茶の産地で知られている狭山は、昔からの別所ゆえ、そこの武蔵七党の連中が、常陸の塙政茂に従って参陣してきた。
そして、「北条というは、われら源氏の者共を殺掠したり、別所へ押しこめ差別待遇をなせし不届きな輩‥‥いざこの時ぞ昔の仇討ちをなさん」「さん候、今や復仇の時にてござそうろ」
「戦わんかな時きたる‥‥高鳴る胸の陣太鼓」といった具合で新田義貞の軍勢は見る間に二千近くにふくれ上り、上州新田の庄から世良田へでて、そこから利根川を渡り、
やがて一行は、「利根の川風」を背中の母衣に入れてふくらませ武蔵の比企郡高見から入間川を突破、小手指原から府中へでた。
 すると、鎌倉から廻されてきた北条泰家の軍勢が、
「来らば来れ、別所のやつばら」と待ち構えていたが、思いがけぬ新田義貞の軍勢の多さに愕き、「戦は兵の多寡によって決まる」とばかりに退却してしまい、
「それ追っかけろ」と分配河原から関戸河原へでた新田軍は、多摩川を渡って鶴間原から世谷原へでて、そこから、「本隊は片瀬腰越から極楽寺口の大手門へ」
「陸奥隊は村岡、州崎から鎌倉小袋坂口へ」「武蔵隊は梶原の山越えに化粧(けはい)坂の裏手へ」と三方から突入。
このとき義貞が稲村が崎で潮の干満を計って、佩刀を投じたのだが、さて五月十八日から五日間にわたる大激戦で、とうとう北条高時以下の一族一門を、葛西谷の東勝寺へ追い詰めてしまい、そこで彼らを全滅させてしまった。
 しかし、これは義貞個人が強かったというより、つき従う武蔵狭山の別所の連中や源氏崩れの連中にしてれみれば、「失地回復」の戦いだったから勇戦したのだろう。
 というのも、カマクラというのは朝鮮語では、「家居」の意味だが、古代ツングース語では、それは「首都」をさしているからである。

 さて義貞は船上山行在所におわした後醍醐帝のおん許へ、「鎌倉占領、北条全滅」の報を急ぎお知らせ申しあげると、「よくぞ致した」と御嘉賞を賜り、「左馬助(さまのすけ)」に任ぜられ、
建武の中興の論功行賞では「従四位ノ上、左兵衛督(さひょうのすけ)」として、越後守に任官した。
 やがて上野、播磨二カ国の介(すけ)も兼任したが、中興の政(まつり)が破れ足利高(尊)氏と戦うことになって、箱根宮の下の戦で義貞は敗走した。
 そして、翌延元元年(1336)、京に迫る足利軍を防いだ大渡合戦でまたしても負けた。しかし源顕家の援軍でようやく京を回復したものの、またしても攻められ摂津和田岬に陣をはったが、
義貞は足利高氏に背後をつかれるのを恐れて退却し、このため湊川の楠木正成は放っておかれた格好となって、敵に包囲され、全滅してしまった。
 その後、義貞は北陸におもむき敦賀の金ガ崎城によったが、翌年ここも足利高経に攻め落された。
 その次の延元三年には平原寺の僧兵に包囲され、ついに藤島で最期をとげたのである。
 勤皇の至誠もよく判るし、転戦して苦労したのも充分に納得できる。が、だからといって、大豪傑だったような面影はないのである。
 なのに明治になってからは、すっかり影が薄くなったが、徳川三百年の間は、さも豪傑中の豪傑といわんばかりに、もてはやされていたその謎たるや、何かというと、
平凡社版『大百科事典』第二十巻五十四頁の、新田氏系図を引用してみると、これは一目瞭然たるものがある。
源義重___義兼___政兼___朝氏___(新田)義貞_____義顕
    |                  |__義興
| |__義宗__岩松満次郎__新田男爵
|
       |__義秀___(世良田)頼氏___教氏___満義___有親___親氏___徳川家康
 俗に徳川家康は三河の松平元康が名を変えた同一人物で、先祖伝来の三河の地を守ったとされている。が平凡社の事典では、
「家康は上州新田から出た世良田二郎三郎で、松平元康とは別人である」ことが、これでもはっきり示されている。
江戸時代においては今と違って(権現さまは世良田)と知られていたからして、「新田義貞は神君家康公の御先祖さまに当たる」というのでハクがつき、代表的な豪傑と奉られたが、さて明治になると、
今度は話が変わってきて、明治新政府の連中に、「新田義貞は徳川の祖ゆえ怪しからん」とされて、楠木正成の方が株が上がったのである。
 なお新田男爵となった本家の岩松の方は、「御系図お貸し」の代償として、江戸時代は交代寄合組お旗本として百二十石の捨て扶持を、代々徳川家から給されていたともいうが、
何処の国にしろ決まったような運命ではあるが、英雄は政権が交代すると、昨日までのヒーローが途端に卑怯者や悪党にされてしまう。
 しかし豪傑までが、歌は世につれ、世は歌につれといった具合に、その価値転換をしてしまう例は珍しい。ヨーロッパでも例がない。
 恐らくこれは、絵草子屋ともよばれた江戸時代の出版業者が、命令もされないのに、体制である徳川家へのおもねりに、「武者絵は、権現さま御先祖の新田義貞」
 と決めてしまって余りにも媚びすぎた結果、それが薩長の憎むところとなって、その豪傑の地位から足を引っぱられ、今では忘れられてしまった存在になったのであろう。
 が、彼も天子さまに命を賭してお尽し申し上げた一人である。またいつの日にか見直され、豪傑でなくとも、かつてこの国にいた一人の忠臣として再評価される時はきっとあるであろう。