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新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

新潟美人は白系ロシア(韃靼系) 日本とアラブのつながり パンダに熱狂するわけ

2019-05-04 17:51:56 | 古代から現代史まで

新潟美人は白系ロシア(韃靼系)

日本とアラブのつながり

パンダに熱狂するわけ

白鳳文化(はくほうぶんか)とは、645年(大化元年)の大化の改新から710年(和銅3年)の平城京遷都までの飛鳥時代に華咲いたおおらかな文化であり、法隆寺の建築・仏像などによって代表される飛鳥文化と、東大寺の仏像、唐招提寺の建築などによって代表される天平文化との中間に位置する。なお、白鳳とは日本書紀に現れない元号(逸元号や私年号という)の一つである(しかし続日本紀には白鳳が記されている)。天武天皇の頃に使用されたと考えられており(天智天皇のときに使用されたとする説もある)、白鳳文化もこの時期に最盛期を迎えた。 以上が現在通説として理解されている白鳳文化の概要で、これは確かに<続日本紀>にしか記されていない。

    騎馬民族は太古より無税だった
さて、崇神王朝というのは騎馬民族系で遊牧民族である。だから狩猟生活をしていて、農耕や漁撈などは一切していない。そして彼らは明治になるまでは騎馬系の限定地としてここは「除地」として年貢、即ち税金は免除されていた。何故なら、彼らが保護されていたのではなく、昔は収穫物に課税していたから、何も作らずでは税金のとりようがなかったからである。これは日本全国どの天領でも大名領でも行われていた。 江戸時代になると、関東から北は浅草弾左衛門が管理する部族と、関西は京綾部に住む水上の穏坊の管理に入る部族か居た。 これら二つの部族をを合わせると、当時でも一千万人もの人口になったのである。
さて、この騎馬民族も飛鳥時代には曾我川畔に王宮を建てるようになると、それまで住んでいて降伏した日本原住民を使役して工事をさせた。 彼らは積み上げた石に、日本にはいない獅子とか鳳凰、それに鷲などの絵柄をみな彫り付けた。その中でも鳳凰は特に恰好が良く、威厳を誇示するのに恰好なものとみられ、今でもワッショイワッショイと担ぐ御神輿の上につけられている。これは騎馬系厩戸皇子の法隆寺金堂の箱型天蓋の上と同じである。 飛鳥資料館の前庭に並ぶプラスチック製の石像の模型にも、みなはっきりと残されている。 これは「猿石」と呼ばれるものの、裏側の浮き彫りについても、江戸時代の<好古日録>には、なんだか解らぬとみえて、「或いは言う。古昔、石工の戯れになしたるものと伝わるが、そうでもあろう」と藤貞幹が写生画を入れて述べている。だかこれにそっくりなのがペルシャの「グリフィン」と呼ばれる想像上の霊鳥である。 この「グリフィン」は紀元前のアラブのアケメネス王朝の、王宮に在ったペルスポリス柱頭のものが現存している。曽我の王宮は大化の改新の時に焼かれてしまい何も残ってないが、相当に鳳凰の飾りが使われていたようである。 後の源氏となる彼らは民族カラーに白を用いていたから、その時代を現在は白い鳳凰の時代、即ち「白鳳時代」と称するのは、この訳なのだろう。
 黒潮で流れ着いた民族の多い日本列島
この時代の地層から、形からイメージして須弥山石とか二面石、道祖神と呼ばれるアラブ彫刻のある古石が次々と出土されるのは、蘇我氏に制圧されるまではアラブ語の水を意味するアマの王朝がここに栄えていた名残であろう。(日本史では此処を隠して、アマは水なのに逆の天の文字を当てている) 何しろ、前述した猿石の裏側には、大王獅子の葉の浮き彫りさえ見られるが、これとてアラブに今も多いアカンサン彫刻なのである。 こうなると古代、アラブの民が日本列島に住んでいたという証拠になり、繋がってくる。
列島に住み着いた順番にゆけば、西南からの黒潮暖流で「根」の民と呼ばれて、ミクロネシアやポリネシア系の人々が、太平洋岸にばらばらに住み着いた。 次にアレキサンダー大王遠征の時に、アラブの民がマレーシアへ送り込まれたスサやスメラの難民が集団で漂着してきて同化し、神話の天の王朝を立てた。 次は「コシ」の民と呼ばれて、高志とも当て字される越人が、ベーリング寒流に乗ってきて、現在の越前、越中、越後に集団で住み着く。 彼らは韃靼系の白色人種だったので、今でも新潟美人と言われる様な色白なのが多く、秋田美人の土地とともに越の人々の集団地域はその軍団と連合して、やがて大挙して蒙古馬を伴って侵攻して来た曽我の人々に、同じ東北系の人種ゆえ同化した。
外国では左程までに珍重されぬパンダが、日本では熱狂的に愛好されるのも、今でも越人や蘇我人の子孫が、庶民の半分を占めている日本人の血がそうさせるのであろう。かって満州国だったハルピンの先の松花江の上流には、夫余の地名が現在もあるが、沿海州の白荻と呼ばれた部族で、紀元前37年に高句麗を建国した夫余族の民族的マスコットが、パンダだったのである。 北九州も高句麗の植民地だった頃の古名が「白日別」と呼ばれたのも、そうした訳からである。 後に源氏と呼ばれるようになる彼らは、明国に事実上隷属していた足利政権から「白旗党余類」と扱われた史実がある。だから彼らの白を取って「白鳳時代」等と命名するような、日本の歴史屋共には全く呆れ果てて物が言えない。
 

 

 

豊臣秀吉の直参衆 赤母衣武者 黄母衣武者

2019-05-04 11:57:08 | 古代から現代史まで

豊臣秀吉の直参衆

赤母衣武者

豊臣秀吉の子飼いとも、恩顧とも謂われる大名に、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、浅野幸長、山内一豊、小西行長らは有名である。 しかし秀吉の死後、徳川家康に寝返ったり日和見した大名も多い。そして最後まで、豊家に忠義を尽くし、秀頼、淀君を守り、信義に殉じた、石田三成や蒲生氏郷らも有名である。 しかし大名にはなれず、秀吉直参の旗本で、馬廻りの武士達も、歴史の表舞台には登場しないが、多く居たのも事実である。 彼らは、戦国最後の大戦、大阪落城後、商人になったり、小西行長の残党と共に島原の乱に参戦して生涯を閉じたり、 「狭い日本にゃ住み飽きた」とばかり、日本を棄て、タイやカンボジア、ベトナム方面へ勇躍渡海し、山田長政の家人として、日本武士の勇敢さを発揮し、南冥のかの地に骨を埋めた者も多い。ここでは天正から文禄、慶長年間の彼らの動静についての紹介をしてみたい。

 
(注)黄母衣衆(きぼろしゅう)とは、豊臣秀吉は何でも織田信長の真似をしたが、これもその一つで、秀吉直属の軍団の馬廻から選抜した武者で、黄色の母衣指物の着用を許された者。織田信長が近習の使番から精鋭として黒母衣衆と赤母衣衆を選んだことに倣ったものである。 現在で云えば、軍団司令部の高級参謀にも当り、大将の命令を配下の各軍団に通達する役目も負っていた。 そして、彼らの扶持は百石から千石位が多かったようである。 (余談になるが、信長は参謀教育ともいうべき、幼年の小姓たちを集め、常に己の側近くにおいていた。それは、通信制度の無かった当時、戦場で判断に迷った際、「信長様なら、ここはどうされるだろう」と、一々本陣に判断を仰いでいては戦機を逸してしまう。そのため常に信長の身近で彼の考え方や戦法を身に付けるため訓練をしていたのである。信長が爆殺された本能寺で共に死んだ小姓たちで、森蘭丸、大塚又一郎、落合小八郎、小川愛平らが居る。この時すでに美濃金山城五万石城主になっていた森蘭丸は別にしても、信長が生きていれば、他の小姓も一軍の将になった者も出ただろう。)
 
八島久兵衛 秀吉馬廻。天正十九年正月、増田長盛らと、近江を検地している。(坂田郡志)
矢島増行 秀吉馬廻天正十八年二月、伊達政宗に、北条攻めの為、小田原参陣を勧告に出向いている(伊達家文書) 朝鮮役の際、森島宗意と共に、軍馬調達の命を受けている。(本法寺文書)
矢田半右衛門 秀吉馬廻。慶長三年正月、朝鮮の役で蔚山に出兵していた浅野幸長に書を送り、戦の労を慰問している(浅野家文書)
矢野久三郎 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
矢野九郎二郎 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
矢野源六郎 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
矢野定満 秀吉馬廻り。天正十七年十二月、京祇園舎の検地奉行をしている。(清水寺文書)
矢野下野守 秀吉馬廻り。森島宗意らと、朝鮮役の為の軍馬徴発の命を受けた。(本法寺文書)
矢野十左衛門 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
矢野兵衛 秀吉馬廻り。天正十六年二月、諸大夫になった。(御湯殿上日記)
安井次右衛門 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
藪田伊賀守 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
山内善助 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
山口籐左衛門 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
山田家元 秀吉馬廻り。天正十四年頃、近江で奉行をしていた。(御上神社文書)
山田喜左衛門 秀吉馬廻り。越前の内に所領があり、天正十五年九州の役に従軍(当代記)。十六年四月、京方広寺大仏殿の工事を分担し、 十八年小田原征伐に従軍(伊達家文書)
山田喜三郎 秀吉馬廻り。慶長四年八月頃、近江愛智郡吉田村の内、五十石を領していた。(毛利家文書)
山田喜四郎 秀吉馬廻り。慶長九年八月十五日、豊国臨時大祭の時の奉行の一人。(豊国大明神臨時祭日記)
山田久三郎 秀吉馬廻りで、金切裂指物使番に選ばれている。(武家事紀) 使番衆・馬廻衆の中から豊臣秀吉が特に選抜して取り立てた者で、金地の指物(旗指物)の幟の端を切り裂いて風になびきやすくした「金の切裂の指物」を授けられた家臣。指物は幟状の旗であったと思われるが、鎧の背などに付けたり、指物持の従者に持たせたりした。一部の新参衆を除いて豊臣氏の譜代家臣で、数名は大名にまでなっている。武家事紀には全部で三十二人の名が書かれている。
山田金助 秀吉馬廻り。朝鮮の役の時、森島宗意と軍馬徴発の命を受けた。
山田太左衛門 秀吉馬廻り。天正十八年八月常陸牛久城接収の時の奉行で、ここは由良国繁の居城だった。(由良家由緒書)
山田忠左衛門 秀吉馬廻り。秀吉の死後、慶長四年八月七日、近江愛智郡吉田村の内から山田喜三郎の旧領を加増され、合わせて二百石となる。(毛利家文書)
山田半三郎 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
山田平兵衛 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
山田又右衛門 秀吉馬廻り。文禄二年九月二十九日所領を半減された。その訳は大和中納言秀保の銀子を他人に与えたという罰。(駒井日記)
山本太郎右衛門 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
山羽虎蔵 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
山中又左衛門 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
山中五郎作 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
山名勝七 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
山名市十郎 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
ここでは、アカサタナハマヤラワ横列の中で特に「ヤ」姓が多いのに注目して、抜き出してみた。 勿論「ア」行にも次のような者達も居る。 愛宅源八郎、阿部仙三郎、安見新五郎、安見甚七、青山雲宅、青山新八郎、青山助六、赤座三右衛門、赤座籐八郎、赤座弥六郎、赤部長助 赤松伊豆守、赤松次郎太郎、麻生甚吉、跡部佐左衛門、尼子三郎左衛門、荒川助八郎、荒川銀右衛門、
秀吉は信長の家来時代、木下藤吉郎を名乗っていたが、信長と同様「自分は海洋渡来民族で八の部族出身だ」と旗指物に○に八の字を描いて、戦場を駆け回っていた。(これが現在「郷土が生んだ英雄」にあやかって、名古屋市の市章にもなっている) この、あかさたな横列の民族は、前記のように海洋渡来民族で、中でもこの「や」姓は特に勇敢な部族で戦場では秀吉の為に良く働いたものと想われる。  
 
 引用参考文献「戦国人名事典」高柳光寿著作。