新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

秀吉の家臣加藤孫六は銭儲けがうまかった

2019-05-22 16:40:25 | 古代から現代史まで
講談でもよく演じられる加藤孫六だが、 これは『加藤孫六嘉明家譜』と『淡路島交易史料』による史的考察である。
 
 
秀吉が姫路城主になった頃、前から仕えていた家来共は、「まず銭を貯えておけ」とかねて命じられていたので、それぞれ二貫文平均は持っていた。  当時の一文は現在の千円弱に当たるから、二百万円近くの蓄えができていた事になる。  さて、それだけの余裕が出来てくると、人情として、これを有利に廻して儲けたくなるものである。そこで、あれこれ頭をひねってみたり、 試しに何かした者もあるがこれが巧くゆかない。
 そこで大人の者は自分らの囗から、秀古に伺いをたてるのは気まりが悪いから、 福島市松、片桐助作、加藤孫六といった小姓共に頼んで、秀吉の知恵を借りだそうとした。
 ところが秀吉は、その話に、 「金が有って廻したところで、必ずしも儲かるとは限らん。損こく場合の方が多かろう」 と、 にべもなく云い放ってから、 「一貫文の銭は誰が持っても一貫文じゃが、さて運用するとなると、全く違ったものになってくるものじゃ。
 
 つまり百人の兵を仮に暴れん坊の福島市松に率いさせるのと、引っこみ思案の片桐助作に預けるのとでは、まるで戦場での働きが違うのと同じことよ」  判りやすく例をひいて教えた。それゆえ孫六も合点しつつ、 「銭儲けも市松なら巧くゆくが、助作では儲けるつもりでも損こくのでござりますか」と問けば、 「そういう意味ではない。時に応じ、がむしゃらな方が損をし、引っこみ思案に利かあるやも知れぬのだ。要は万事につけて、よく気がつくことと、絶対に忘れぬ、 心構えが人用なんじゃ」と口にした。そこで、 「……と仰せられますると」  孫六は己れの頭を叩き、 「要は此処の中身という事にござりまするのか」と尋ねた。 「いやいや……」秀吉は笑い、 「世渡りの利口と馬鹿の差は頭の中身の良し悪しではないようだ。つまり持って生まれた賢愚には関係なしで 『心ここに有らざれば見ても見覚えがなく、聞きはしても耳に残らぬ……』そんな羽目にならぬよう、努力するしかあるまいのう」 「ぼんやり何事も見たり聞いてして居てはあかん。注意力と記憶力が大切だと仰せられてか」 「当たり前じゃ、戦へ連れて行っても、そないな奴は役立たず流れ矢にでも当たってすぐ死ぬ」 「人は心だ行ないだと申しまするが、金儲けも心でしまするのか」孫六は囗あんぐりさせた。
 
 
 すると秀吉はにこにこして、 「まあ一番うまい儲けは寺じゃろ。山門から群れをなして有難がって銭をもってぞろぞろと集ってくる。つまり喜んで銭を捨てにくるから喜捨ともいうのだわさ……」  教えるだけ言うとさっさと立ち上ってしまった。  しかし秀吉の前から、ぞろぞろ他の小姓が引き退ってくると、待ちかねていた者達が、「……どうじゃ、何ぞよき儲け囗を教わってきてくれたか」 「絶対確実に倍になるのは?」ぞろぞろ群がり集まってきた。福島市松は面倒くさがって片桐を伴い逃げてしまったので孫六だけが取り囲まれた。 「うん、殿は儲けるには、儲け心のある者でなくてはと仰せられた。よって孫六が預かるゆえ儲け心のない衆は持って来なされ」  仕方なく一時のがれの返答をした処、誰もが儲け心に自信がないのか。次の日になると百貫文からの銭が集まってきた。 現代にすれば時価一億円の金高である。しかしだからといってまさか、それで金儲けにとお寺を建てることもできない。
 
 そこで仲の良い脇坂安倍らに手伝わせ、飾磨の浦まで銭を運んだ。  当時兵庫三の宮から其処へかけては、海の彼方から来ている高麗人の市がたっていたからである。 「珍しい唐絹でも、この銭で仕入れて、中国征伐の折りに奥地へ持ってゆき売り捌くのか」  荷車を曳いてきた加藤虎之助はきいたが孫六は首をふった。 そして高麗人の総代の許へゆくと、「この銭を預けるによって利分を稼ぎ納入するよう」命じた。
「船舶が入ってきた際、銭が揃って居ませんと荷受けが出来ませぬ。助かります。きっと儲けを納入しまする」と、 政治資金の運営を委された今日の大証券会社のごとく喜んで受け合った。  もちろん高麗人らは秀吉からの命令と思ったからであり、孫六もまたそれに合わせて、 「われらは秀吉の毆の小姓組じゃが、ここへ乱暴者などきた時は直ぐ出動し、追い払ってやろうぞよ」とも交換条件をつけた。  この話を後で聞いて秀吉も驚いたらしいが、本能寺の変で、安土城を押え天下の金銀を握った光秀が山崎円明寺川で破れたのは、 飾磨から三の宮へかけて高麗人の秀吉への政治献金によるものともいう。
 孫六が仲介に立ったのを褒められたのか、彼は他の小姓よりも早く淡路島で城主になり、今でいえば貿易大臣のような仕事をしていたから、 秀吉の死後、家康も彼は粗末にせず会津四十二万石に封じた。秀吉よりも商売人だったとか儲けがうまかったと云われるのはこの為である。
 
 

神社の禰宜さんとは 根来の忍者は間違い 大岡越前は庶民の敵 切腹の扇腹の意味

2019-05-22 11:44:51 | 古代から現代史まで

神社の禰宜さんとは

根来の忍者は間違い

大岡越前は庶民の敵

切腹の扇腹の意味   

         禰   宜

 

 これはネギと読む。  現在ではこの言葉は野菜のネギは別だが、神社の神官のことを指す。

歴史的には社で神主に仕える身分で<故事類苑>に記されているように、  宮廷の神祇部に属して、伊勢大神宮にあっては内宮に仕えて、位は 従七位、外宮に奉仕する者は従八位の官を頂くとある。

 しかし一般では無位無官であった。

 今では「鴨が葱をしょつてくる」と意味も解らずに使っているが、この語源たるや、  赤塗りの八坂神社のネギは、一般からは下人扱いをされていたから、   「賀茂(川べり)を八坂神社のネギが何かを背負って運んでくる・・・・シメシメこれを  奪ったからといって何処からもお咎めは無い。掻払って頂いてしまえ」と

 皆が公然と襲っていたという故事から来ている。

当時から体制側は仏教本位で、庶民の信仰などは虫けらのごとく扱われていたという 悲しい伝承なのである。

 今では隠されているが、幕末までは祇の社の女の禰宜のミコは、誰からも犯され放題で 拒絶すれば殺されるという、悲惨な状態だったという。

 幕末、親を殺され自分も犯されて悲惨な境遇の娘を、吉田松陰は松蔭塾で匿ったという逸話もある。   塾生たちは彼女を差別して「塾が穢れる」と猛反対したが、松蔭は「これからの時代は民は皆平等だ」と 諭している。さすが松陰は立派な行動である。

    根来に忍者など居なかった

 

現在、和歌山県那賀郡岩出町に、新義真言宗の大本山根来寺が存在している。 ここは歴史的に本願寺派が雑賀衆を手なづけた頃よりもずっと早くに、紀伊、有田一帯の 日本原住民が押込められ、隔離されていた別所、、院内(呼び名は土地によって様々あるが  原住民が強制的に住まわされていた特殊地域)の者達を仏教に教化して、彼らを押さえ込んでいた土地柄である。

 高野山もヒジリと呼んで、お上に認められた官僧ではないため、頭を丸めることは御法度で、  為にぼうぼうの総髪のままの頭に(これを毛坊主という)編み笠を被らせて、日本各地に布教に廻らせ上納金を取って儲けていた。

 この高野山から別れて独立した根来寺も土地丸ごと押さえ込んでいたから、最盛期には寺坊が二千七百も有り、寺領としては何と三十万石もあったので大変な勢力だった。

 だが天正十一年になると豊臣秀吉が仏教勢力へ政治献金を命じた。これに対して 献金を拒んだため、怒った秀吉によって全山を焼討ちにされてしまい、その勢力は衰退した。

 この後浅野家によってようやく再興を許された時には、すっかり落ちぶれてしまい、その寺領は二百六十石しかなかった。

 さて当時の先込めの火縄銃は、火蓋を切って落とし、先ず火皿にある火薬に引火させ、  銃底に詰め込まれている火薬を爆発させるという構造になっていて、先に詰め込まれている火薬(硝石、硫黄、木灰)の調合が悪いと、射手を自爆させる事故が多かった。

 だから、この当時命を惜しまない者でなければ、鉄砲を扱うのは難しかった。  従って彼ら根来衆というのは、徹底的に仏教に教化されていて、

 「御仏のおん為に死ねば成仏間違いなし、更に次に生まれて来る時には常人として   生まれ変わるのである」と説教されそれを信じて喜んで仏敵に向かって勇ましく死ぬために戦ったのが、この根来衆だったのである。

 何故彼らがこうした事を信じたかと言えば、日本に進駐していた大陸勢力が、徹底的に彼ら原住民を差別し弾圧したため、人間とは認めない峻烈な政策をとって、 要は差別と貧困の連鎖ゆえの止むを得ずの悲しい選択だったのである。

 これは現在のイスラム過激派の状態と全く根源は同じである。   そして、死ぬことに恐れずという、不幸な信条ゆえ、大いに利用され、多くの命が失われた哀しくも憐れな衆(部族)でもあった。

 だから江戸時代になって徳川家に仕えても、根来鉄砲衆は足軽扱いの最下級武士でしかなかったのである。

  大 岡 忠 相(越前守)

    江戸時代町奉行は何十人も居たのに「大岡政談」という読み物が昔から次々と刊行され、 この大岡越前守一人が名奉行だの、庶民の味方だったとか、もてはやされる理由は何故なのかと疑問がわく。その理由を解明してみたい。

 忠相は元禄十三年七月に、大岡忠真の養子として1920石の跡目を相続した。 その後宝永元年十月には徒頭に昇進する。  生徳二年には伊勢の山田奉行になる。

 時の将軍徳川吉宗は御三家紀州出身だったが、伊勢と紀州で境界争いがあった。 その時山田奉行として忠相は一歩も譲らず対立したので、吉宗はその剛直さをかって、享保二年三月には江戸町奉行に抜擢した。

 そして彼は町奉行命令として、出版物には発行年月、発行人を必ず明示することと布令した。 これは何と、欧州のベルサイユ条約より早く、当時では世界一速い出版統制令である。

 この本来の狙いは、尾張の宗春が「徳川家康は二人居た」という暴露本を堂々と刊行したため、御三家の尾張の当主がこんな本を出すとは驚天動地。

 すぐさま刊行物を押さえ回収して宗春を閉門にした。 これが吉宗の命令を受けて厳重に施行したのが大岡で、一般の出版物にも適用されたから、  出版業者が大岡を恐れ、媚びへつらって、大岡を誉める作り物の本が次々と出版されたのである。 内容といってもほとんどが中国説話の翻訳物である。 これは原文を読んでみれば良く解る。だから大岡は庶民の味方でもないし、ましてや名奉行など、おへそでお茶を沸かすようなものである。

      扇   腹

 安岡俊明の<切腹考>には「古より自分で行う屠腹は無く、それは刑罰として扇子を 三宝へ乗せて、上へ上げて頂く恰好して、それを合図に介錯人が背後より首を斬り落とす」 という。

 芝居の塩谷判官は吉良上野介(きらこうずけのすけ)は高師直(こうのもろなお)、  浅野内匠頭(たくみのかみ)は塩冶判官(えんやはんがん)、大石内蔵助(くらのすけ)は大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)などの役名で脚色している。  名題は、いろは仮名の数に合致する四十七士の意味、武士の手本となる忠臣を集めた蔵の意味のほか、  大石内蔵助の蔵を利かせたもの。

この芝居は江戸では大変な人気で、塩谷判官が切腹する際観客によく見物して貰うため、三宝を背後へ廻して腰の下に当てて、腹から真紅の綿を取り出して臨場感を出す演出をした。 これが世間一般に「切腹作法」として広まったのである。

(実際には刀を腹に突き刺しても厚い皮下脂肪のため血はほとんど出無いものである)

 だが、舞台では黒子が背後から小さな腰掛を尻にあてがうから、体は安定しているが、実際に檜の薄い皮で作られた三宝に体を乗せれば潰れてしまいひっくり返ってしまう。  それゆえ、扇子腹に変えた訳である。 だから安政六年八月、水戸へ京より征夷の勅命を乞い受けたという責任を問われて切腹した家老の安島帯刀もやはり扇子腹だった。  しかし幕末、堺で起きた仏国兵を殺害した、警備の土佐藩士たち11名の公開切腹は「自分達は攘夷を行っただけで正しいのだと」抗議の意味で、扇子腹を断って、実際に腹を刀で突いて、前述したようにここは血管が少ない場所なので、何度も 突いて出血多量で死ぬまで何時間もかかり、凄惨で壮絶なそのものだったという。  この間違った切腹という行為の解釈のため、昭和の三島由紀夫の切腹も、死ねなくて苦しく仕方なく盾の会の会員、森田必勝に介錯を頼んで斬首されている。 現代医学でも実証されているように、人間の腹部は皮下脂肪が多く、刃物は内臓まで届かない。 それを無理に深く刺そうとすれば、人間は失神してしまう。 明治時代の乃木大将の切腹を例に、近日中に、切腹についての解明をしてみたい。

 

 


虚妄の忍術 日本に忍者は居なかった

2019-05-22 11:21:32 | 古代から現代史まで

   忍術の本家は

 
 
 
尊卑分脈では、山科家は天皇家と同じ藤原氏で、四条家の分かれで中御門家成の六男実教を祖とし、その子教成は、母の二位丹後の局が夫の業房の他に後白河法皇の寵をも忝うし、よって法皇の別業山科の地を賜り、もってそれを氏となすとある。そして、実教より十四代目が言経となっている。 ところが、山科という土地は、この伝承とは相違して、建長五年(1252)の、近衛家所領目録」に、その山科が含まれていて、「」だから年貢もなく、雑色の行事というものが係りとなっている。 この「」というのは、長和二年(1013)の「小右記」正月四日の条に初めて、「中将朝臣云、白馬朧近衛、称随身、前例不然也」と書かれてある。 この文面の意味は、 「白色の馬をひっぱってくるとは何事か。公家が白を忌むのをから随身した輩は知らぬのか。これは前例もないことだ」 つまり、「」とは「山所・産所」の当て字をするが、桓武帝が京へ都を定めた時、天孫系に刃向かった原住民を捕まえ、収容した捕虜地域の別所(院内・院地)の分散収容所の事であり、彼等は白山信仰で白旗を立てていた連中ゆえ、馬を探してこいといわれて白馬をもっていっては叱られたというのが、この記事の意味なのである。
 
 江戸時代の延宝二年の坂内直頼の、山城四季物語」の<七月二十四日六地蔵参りのこと>にも、「山科」の地名ははっきりあるし、「山科名跡志備要」には、「山科は、鉢叩き、ささらと呼ぶ竹伐りの者住み、茶筅売り、唱門師支配」と明記されている。
 また、この傍証となるものは、天正十三年正月十三日の言経卿の日記にも、「山科在所より細竹二百八十本持来」の一行が残されている。 「尊卑分脈」というものは重要史料のごとく扱われているが、あまりにも作りものすぎて、その記載では、 「山科に領地を賜った。そこの百姓が耕した米を年貢として受領していた」と間違えやすいが、系の原住民というのは元々が遊牧民族系で、一切農耕はしていないので、米など作るはずが無い。 初めは近衛家管轄で、後に山科家に渡ったとはいえ、そこからは細竹や燈芯の物納があって、それで換銭はできたが、飯米の年貢はなかったという事実が、この証明にもなるのである。
「では、山科家の食糧はどうしていたか?」といえば、天正十一年八月二十一日、当時の京町奉行前田玄以に、山科家の執事である大沢右兵衛大夫が、 「西梅津新地で賜っていた飯米三十石は、先代山科言継宛名義になっていたので、天正七年三月二日の死亡の節、御朱印の伺いを出したところ、上様(信長)は山科家でその侭に致すよう言われて、当主言経が相続していました。なのに、本能寺の変から五ヶ月目に筑前守殿(秀吉)に押さえられて一粒の米も入ってこないのです。
 
食糧に事欠きますゆえよろしく、この段頼み奉ります」という抗議を出しているように、飯米は山科以外の農耕地から収納していたのである。 もし「尊卑分脈」で説くように、山科家が天孫系であったならば、月二斗五升の飯米さえ他から納入せねばならぬような土地を、なぜ押しつけられていたという事になる。 それに系の原住民は同族以外とは、「通婚同火の禁」を明治まで固守してきたという歴史がある。また大江匡房の記録にもあるように、同族以外の者の支配はこれを絶対に受けていない。 「大乗院文書によると、筒井順慶の五代前の筒井順永というのが大和の国の大半をうち従えて勢威があがったとき、である五ヵ所の者に軍夫に出るよう命令したところ、「長禄三年(1459)六月十六日付」五ヵ所の者から、先例もない事であると訴えてこられた。そこで、室町奉行御所申次衆が、「筒井方へ従い申さずともよい」の採決をした旨の案文が今もある。
 
つまり、これまでの日本歴史では、 「戦国時代というのは弱肉強食の世の中で、右に強力な戦国大名が現れれば弱小豪族は右傾し、左に出てくれば左傾し、たえず反復これを繰り返していたものである」というが、これは虚構であって、系の者はたかだか軍夫供出ぐらいの事でも敢然としてこれを拒んでいる。だから、もしも山科家が土地の者と同族でなかったら、竹を切り揃えて年貢代りにもって行くこともなかったろうと思える。 さて、この時点より二十一年後の「親長卿記文明十二年九月」の条には、 十一日 夜に入り所々物騒。土一揆蜂起。 十二日 土一揆蜂起、方々鬨の声聞ゆ。 十五日 伏見殿御門に一揆押寄せ門前放火し浄花院焼く。禁裏騒動す。とある。
この土一揆に「蜂起」という文字があるのは、別所の原住民には「蜂屋」「鉢屋」の他に色々の文字をあてるHACHIの別称があったからで、なお、これに関しては、「夜は京都の内外から大坂辺にまで彼等は横行して、押込み、辻斬、追い剥ぎといった忍びの夜討ちをして万民を苦しめ、富裕な者の財宝を片っ端から奪って分け合った。
 
 
なにしろ官がこれを取り締まって警戒しても、元来、忍びに馴れた連中で、ここと思えば又あちら、燕のような早業で飛鳥の如く立回り、明るい時は岩屋の洞穴などに隠れて寝ているから捕えようもない。 そこで毒をもって毒を制せよと、鉢屋支配という制度を作って同族の頭を定め郡郷を分配したところ効果あり、日本全国がその方式になった」という古記録さえある。つまり、山科も鉢屋支配の土地で、言経も権中納言の官位ではあるが、実は頭目の素性だったと推理してゆくと、彼が書上げた「喋書」なる系図が「忍法相伝」と伝わるのも、また無理からぬ事になる。また言経の父言継の日記には、「江州八田別所織田の庄出身」の肩書きのある信長の父織田信秀の許へゆき、勝幡城で蹴鞠興行をなし、盆の料として銭の配分をし合ったという記載もあるのは前に書いたが、こういう事は普通の公卿はやっていない事である。 さて、忍者も山科家が家元として伝えるだけのものだったら、当時の蹴鞠や香道なみに優雅なものとして今も受け継がれてきただろう。ところがこれを一変させられる時代がきた。
            忍術の系譜
だが、今日では忍術というとこれは、「甲賀」「伊賀」の二つに分けられて、「山科」などという分類は見つからない。 なぜかというと、言経の書いたという忍法相伝は、皆目その片鱗も残っていないが、「甲賀は、その藤林保武の<万川集海>」 「伊賀は、服部半蔵口伝の<忍秘伝>」の二つが今も伝わっているせいだろう。  だが、この二つの忍術書が、いかに荒唐無稽な物であるか。それが別に指南書や解説書ではなく、虚妄の一語につきることは、平凡社刊、足立巻一著の「忍術」に詳述され、彼と尾崎秀樹、山田宗睦の三人の共著である三一書房刊の「忍法」では、二つの秘伝書たるや、 「天下泰平になって形式化された具象」として「徳川家の権力機構に組み込まれた伊賀者、甲賀者が生活保持のために家系強調、祖先及び忍術そのものを伝説化」と説明されている。そして、「万川集海」と双璧をなすものとして、「名取青竜軒」「正忍記」も、それは上げている。
だが、それらの忍術書なるものは、入れ歯や含み綿による「変顔」および「変装」をまず説いて、これで「変幻化姿ノ始計ナリ」と強調している。 つまり府中の三億円強奪事件のようにオートバイを白く塗り替え、白バイのごとく見せかけ自分自身も警官に変装し、車の下から白煙をふかせドロンドロンと消えるような詐術が、それらのモチーフとなっている。
これは亨保十八年(1733)奥付の、「加藤作左衛門筆の忍秘伝」巻一の、「伊賀甲賀伝記」の導入部分に、「ソレ窃盗ノ始メハ漢高祖ノトキ軍法ト忍ト一度ニ始マリ、ソノ後ハ忍窃盗ヲ間トイウフノナリ」とあるように、「間者」つまりスパイは忍者であるし、「窃盗術こそ、これ忍術の精華なり」、つまり泥棒の石川五衛門が忍術使いであってもおかしくはないというような説明になる。 そして、この伊賀流の「忍秘伝」巻ニは、「忍道具秘法」で「まき菱」「結び梯子」「水中下駄の浮踏」と、今も映画などでもっともらしく出てくるもので、トリック撮影で下駄で濠を渡る場景まで見せられてる。 巻三は、三十八項目からなる火器火薬の使用法。ノーベルが黒色火薬とニトログリセリンを結合させてダイナマイトを作った時より一世紀も前に、既に風爆火などもあったというが、 「これは大秘事ゆえ、ここに書かず口伝」と、製法や内容は何も書いていない。 巻四は、忍び込む潜入方法で、猿の皮をぬいぐるみになし、これを着ていくこと。もし田畑で通行人に出会ったら、両手を平行にのばし、案山子の真似をする秘伝などもある。
 
 
「万川集海」の方は朝鮮の兵書「間林精要」と、中国明の兵法書「武備志」そのままの内容であり、そして、それらの原典は何かというと、「列子」の黄帝篇、周王篇であるらしい。 「穆王の時、西から化人がきて水中火中をものともせず、金石の間をくぐり抜け山川をひっくり返し、町や村を動かし空を飛行した‥‥」 といったものや、「方仙の道をなし(仙人の修行をし)、形をなくし消失させうるのは、これ鬼神のこと(業)による」とある「史記」の「封禅書「文選」「西京賦」に、「奇幻たちまちに起れば、万物その姿を異物に変え、刀を口中へ呑み代りに火をはく。雲霧が沓冥して辺りが暗くなれば、大地は割れて川となり、また一瞬にして水をなくして平坦な道となる魔可不思議‥‥」 などと出ている「方術」「神仙術」が、鬼面、人を驚かす作用があるのをもって、それを空想戦術として兵書に執り入れて孫引きし、 「万川集海」は、さももっともらしく形を整え、これを権威づけたのではあるまいか。
さて、こうなると伝承される忍術または忍法には、形而上学的なものと、まるっきりその反対のものと、二つがあることがわかる。 そして、「児雷也」のガマの妖術のごとく、天竺徳兵衛の大蛇のような妖怪ブームの先鞭をつけたものから、仁木弾正の鼠の忍術が芝居として当たり、尾上松之助の活動写真から立川文庫の猿飛佐助、霧隠才蔵にまで伝わり、戦後も五味康祐の「柳生武芸帖」、柴田練三郎の「赤い影法師」、司馬の「梟の城」とつながる忍術の系譜となるものは、どうしてもこれは外来系となる。
忍術小説「飛び加藤」にしても、抜刀して花を切り落とすと樹の上に登っていた男の首が切り落とされて転がってくるのは、中国の「平妖伝」そっくりそのままである と、新人物往来社刊の本で水野美知が指摘しているのも、その裏付けであり、また、「猿飛佐助」が孫悟空の翻案なる事も周知されている。つまり、「万川集海」や「忍秘伝」に基盤をおく忍術というものは、印度波羅門から中国へ入ってきたものの換骨奪胎となる。
 
とはいえ、人間誰しも何か事があった時、他人の物を盗もうといった受益目的でなく、自己嫌悪にかられて己れの存在を他から隠してしまいたい、消えてしまいたいといった願望を持つ。そうした時に、「手足を屈め、近所へより、うつむきに伏し、隠形(おんぎょう)の呪文を口中で唱えれば、これ観音隠れ又は鶉隠れといい瞬時にその身を消す」といった忍法蒸発の術を知っていたら、暮しよいというか、少しは生きていく事の助けにもなろう。なのに、そんな便利なものが、江戸初期から実存していたと研究家は云うが、その後は技術が開発されずに消滅してしまい、今では小説やテレビの中だけの虚像になってしまったというのは何故だろうかということになる。不思議な話しだが、これに関して本当の事は誰も言わない。何か秘密があるらしい。
         なぜ忍術は消えたか
これまでの説では滅亡した第一の理由を、 「江戸期に入って天下泰平になると、需要がなくなったからである」としている。 しかし、戦国期で彼等は、それ程強力な戦闘部隊だったかというと、これは信じられない。 伊賀出身の菊岡如幻の「伊乱記」によれば、 「天正九年、織田信長の長子信忠の伊賀攻めにあって、僅か二十日にて伊賀の者は僧侶男女の別なく殺戮されつくした」とある。 甲賀の方も慶長五年、関ヶ原合戦の始まる前、百九十名の者が伏見城へ立てこもったが、火遁水遁の術もだめだったのか、伏見は落城し彼等の大半も戦死してしまっている。 しかし、これではまずいからと、甲賀者が裏切ったゆえの落城ともいう。だが、殆どが死んだのは事実である。つまり彼等が強かったとか、戦いに役立ったという例証はあまりないのである。
「永禄五年に家康が今川方の蒲郡城を攻めた時、甲賀の伴太郎左ら八十名の忍びの者を呼び、これらを城内へ潜入させたところ、城櫓に放火し城将鵜殿長持の首を太郎左の弟である伴与七郎がとり、鵜殿の二人の伜は、太郎左の伜の伴資継が生け捕りにした」 という勇ましい武勇談が一つだけはある。 しかし、これは、「改正三河後風土記」所載のものなのである。ところが、この本は元禄時代の、沢田源内とよばれた近江の百姓上がりで筆のたった男の贋本で、史料でも何でもない事は、既に江戸時代から「大系図中断抄」などで暴露されている。
ただ、「淡海故縁」に長享元年(1487)足利九代将軍足利義尚と戦った六角高頼の先陣に加わった甲賀者五十三名が、夜襲をかけて足利勢を追い払った手柄話が出ているが、「重篇応仁記」には、これとは全く反対で、甲賀者が先に逃げたと出ている。
そして、四年後の延徳三年には、甲賀の連中が命からがら逃げて、六角方は完敗している。とても忍びの者の連中が戦に強かったとは義理にもいえない。 だから、家康が後に伊賀者を召し抱えた時も安直で、二百人が込みで千貫だった。 一貫を一石に換算すると、平均一人五石、というのが伊賀同心の給与体刑で、一升の米を二百円とすれば年俸十万円。月にすれば八千五百円。いくら官舎があって食するだけにしても、これでは生活難だったろう。  しかし総評も官公労組もなかった当時なので、やむなく彼等伊賀者が値上げ要求のデモとしてプラカード代りに書かれたものが、今も伝わる宣伝の忍術書ではなかろうか。  また甲賀者にしても初めから最低の伊賀者以下の扱いだった。 だから江戸期になって戦争がなくなり、需要が跡絶えたから、忍術そのものがドロンドロンと消えていったというもっともらしい説は、初期の彼等甲賀伊賀の者らの人足以下の待遇をみても、どうも単なるこじつけ以外のなにものでもないことになる。
 
 
 「戦国の忍者は戦乱がなくなると失業同然、殆どが帰農、あるいは神札配りや薬売りとなり、忍術も無用となって秘密が不用となり、その秘密社会も崩壊。その時期が『万川集海』の書かれた時点にあたり、それまで秘事口伝によった忍術が集大成され著述化されたのも、また秘密の消滅を意味する」足立巻一はこう結論をつける。
 しかし、農耕民族とは「天孫系と、それに融和した民族」の事で、「神札配りや薬売りは非農耕の原住民系のもの」という区別が明治六年まで厳然としていたのだから、誰もが勝手に帰農できたり、薬屋になれるわけのものではなく、これを同一視するのはまずいような気がする。  それに忍術が消えた最大の理由は、全然また違うのである。
「万川集海」の末尾二巻にも、「火器は忍術の根元である」と書かれ、のろし火薬(狼糞、もぐさ、硝石、硫黄)卯花月夜(肥松硝石等による黄色照明剤) 義経炬火(水銀を利用した不滅たいまつ)をはじめ四十種の火薬を用いたものが、「これが忍術だ」といわんばかりに、いろんな製法や使用法が列記されている。  「天文十二年種子島に鉄砲伝来」とは周知の事実だが、鉄砲を用いるには火薬がいる。そして当時の九州南部で採れても、主成分の硝石は日本列島では全く産出しない。つまり鉄砲の国産は国友鍛冶や根来の雑賀鍛冶が大量生産したが、用いる火薬はすべて輸入依存だったのである。
 
 
 信長時代はポルトガル船をマカオ経由、秀吉時代はイスパニア品をマニラ経由で輸入した。だから戦国時代というのは、武将や武者故人のバイタリティーで覇を競ったように今ではいわれるが、どうもそうではなく、良質な火薬エージェントをつかんだ戦国大名が、勝利を勝ち取ったもののようである。  ところが、日本歴史というのは、鉄砲は火薬なしで使用できるものと誤認したのか、これまでそこを誰一人として解明していない。軍需用硝石ほしさに、言葉もわからぬまま宣教師と仲良くしたり洗礼したりした連中までが、「信仰あつき切支丹大名」としてしまう。(秀吉の時代には印刷機が持ち込まれ辞書も作られたが、信長が殺されるまでは、代用に採用したイルマンでさえも「ドチリナ・キリシタン」の一言しか知っていなかったのはフロイス日本史にも明記されている。
 さて、徳川家は寛永十四年の島原の乱に懲りて、長崎に出島を築き、渡航許可をオランダ船のみに限定した。ということは、硝石の独占輸入法案で、他への横流しを一切認めぬ禁制をとったことになる。こうなると他の大名やその他にしても、硝石が入手不能では火薬ができぬ。それがなくては鉄砲も大砲も使えない。  だから幕末になって、長州が上海へ硝石の買付けにいって叛乱するまでは、なんとか天下泰平が続いたのである。「鎖国」というのはつまり、なにもキリスト教に怯えたためでも何でもなく、硝石を独り占めにして治安維持を図った巧妙な徳川家の政治目的による偽装だったにすぎない。  金の切れ目が縁の切れ目というが、治安上硝石の一般の売買を禁じてしまったから、鉄砲や大砲と同様に、忍術も火薬が入手できなくては、もはや策の施しようもなく、「ありし日の思い出」に訣別の形見として各忍術書を残してドロドロ消え去ったのが真相らしい。
         悲しき忍術
 さて、故子母沢寛の随筆に、ある高名な親分が、「かたぎの百姓衆に迷惑をかけてはいかぬ」と口癖に子分共をいましめ、村の百姓家のある所を通るときは、羽織を脱いで履物も手にとって腰を屈めて通り抜けた‥‥「実るほど頭の下がる稲穂かな」というが、やくざでも昔は、えらい親分にはこういう謙虚さがあったものである。といったような話しがある。 勿論、現在でもやくざはいるが、人口比例からゆくと、やはりどうしても非やくざの方が圧倒的に多い。だから案外やくざを怖れる心理的傾向もまだ一般にあるからして、そこで、 (そうか、昔のやくざはそんなにエチケットを守っていたのか。なら恐くはなかったな)と、こういうものを読んだ人はすこぶる優越感を抱き満足もしたらしい。 しかし、なぜその親分がそうした態度をとったかという理由は、「その親分の人間形成の慎み深さ」程度の浅い読みでしか見ていては判るものではない。 まるで、普段いかさま賭博ばかりして百姓を苛めているから、その罪滅ぼしに頭を下げ気兼ねしているようにも、これではみられてしまう。
 
そして、徳川政権が農業国家の方針をたて、士農工商の順位を作ったから、百姓はえらかったのかとも誤解される。しかし、それだからといって商工業者が、裸足で村内を通行したとはきかない。すると、何故「やくざ」だけが遠慮しなければならなかったのか。彼等が賭博行為に劣等感や羞恥をもっていたものとみるべきか。といった命題に突き当たらざるをえない。
 さて、話しは戻るが、火薬が一般に入手困難になった時点において、ほろびゆく技術の種明しに書かれた「万川集海」や紀州新楠流の「正忍記」が、ただ文字を羅列したに過ぎない荒唐無稽にしろ、その根底において中国・朝鮮の兵書や烈士の孫引きであるのとが一目瞭然とすると、 「単にデフォルメされた話しであったにせよ、忍術とは外来した舶来のものであったか」 の疑問がはっきりしてきて、それでは、「山科言経の書いたような原住系の忍術とは、そもそも何か」ということになる。この疑問は押えようもない。 が、それを解明するためには、明治五年に施行された、いわゆる壬申戸籍が手掛かりとなる。
 
 
従来から「たみ・百姓」と言われはするが、これは決して「たみ=百姓」ではない。 併称される「たみ」なるものは、「非農業人口の原住系」を指すものであることが、その新しい戸籍では明確にされた。 つまり明治五年に、これまでの百姓はその檀那寺の人別帖にて人口を把握されていたが、「たみ」の方は皆目不明なので、これも一斉に戸籍を作ったのがそれであるから、これによって従来の仏教人口二千万が一躍四千万に増加したという事実。ここに問題があるのである。
 百姓の人口に等しい原住系が幕末まで竹を切り茶筅造りぐらいの無職渡世や博奕打ちで、農家の収穫に寄食していたのではたまらない。そこでまず、土佐の百姓から蹶起した吉村寅太郎の天誅組が口火を切って、これが明治革命になってゆくのだが、それ以前においても、原住系へ天孫系の白眼視は相当にひどかった。関白一条兼良の「尺素(いきそ)往来」にも、 「白河の鉾が洛中に入ると山科ら六地蔵の党との印地打ちが、例年のごとく起るかも知れぬから、侍所の者達が警戒に河原へ繰り出した」 とあるし、また「平家物語」巻十五にも、「堀川の商人や町冠者ばらの向かえつぶて勇し、乞食法師と合戦のさまをいつか習うべきか」 また、「古今夷曲集」ニ夏の部には、 「印地にし、深入りしつつ深手すは、負うは不覚な深草の者 久清」の詠草もある。
 印地とは院地の事で、京周辺の原住系の捕虜収容所の名残り。地方の別所・と同じだが、ここへ天孫系の者が投石してゆくのが「印地打ち」という石合戦なのである。原住系もやられてばかりはいられぬからと、山科やその他の院地の連中は、石ころの多い河原を、御所の機動隊の来る前に占領し迎え打つようになった。が、天孫系も勇ましく堀川の商人までが突撃し、御所の深草少将の家来も深入りしすぎて逆にやられた‥‥といったところが、この詠草の訴える意味であろう。
 
さて、今日でも伊賀上野の百々地砦は、上野市から向かって南西と、その反対の北西から入る道しかないが、「界外(かいげ)」というが双方に残っている。ということは、つまり講談の忍術名人百々地三太夫のいた地帯は、一般の土地とは違い、 そこはかつて「界外」とばれていた別天地の場所であり、印地であり別所の原住系の民の収容隔離所だったとわかる。
そこで彼等は羽を持っていない限り、橋のない川を渡って他へ出かける時は、百姓から投石され撲殺される危険を覚悟で、界外から外へ出なければならない。 だから百姓の目をかすめるために獣の皮を着てゆけとか、見つかりかけたら案山子に化けろなどという悲しい技術がそこに生れ、これが忍法の極意ともされるのである。だが、「印地打ち」として外部から天孫系の百姓に狙われる事は江戸期にはなくなった。なぜかというと生活の知恵で、要領のよい者は代官所役人の下働きとなって御用風をふかせたり、牢役人となって、これまでとは逆に百姓を苛め返したからである。 しかし、大多数の者はやはり百姓に見つかったら苛められ半殺しにされる弱い立場にあったのであろう。
 
つまり、その伝統から原住系俘囚の伝統といった意味で、無職渡世のやくざというのは百姓に遠慮しきっていたのである。親分が羽織をとり尻ばしょりし、裸足で村を通るのは謙虚でも礼儀でもなく、「長年迫害されてきた原住民系の劣等感」による悲しき習性ではなかったろうか。 つまりテレビや小説の攻撃的忍術は、中国や朝鮮の兵書からの借り物で荒唐無稽だが、日本の本当の忍術というのは自己防衛のため、殺されまいと必死にあえぎながら考えだされた原住系の民の知恵ではなかったろうかといえる。
占領アメリカ兵に数奇屋橋から川へ放りこまれて溺死した人間の出た頃、我々はどう振舞っていたか‥‥満州で日本女性は引上げまで、なぜ皆坊主頭になり、顔に墨をつけていたか‥‥あれこそ日本人の忍術であり、おそらく山科言経がしたためた「忍法相伝」も、そうした自己韜晦の自嘲というか、自虐めいたものではなかったろうか。
 
淋しくなったついでに書くが、「続応仁私記」に「堀を深く掘り直して、その前面にひしをまく」という個所がある。湖や沼に生える黒い菱の実の事である。これは四方に棘が出ているのが一番固く、それは山梨県によく生えていたから、これを攻撃よう武器として甲斐から武威を振るった武田信玄は「四つ目菱」の旗を陣頭に立てた。昔は馬も藁沓、人間も素足か草履ゆえ、そうしたものをまかれては踏み抜きし足裏を痛めるから近寄れなかったからである。 さて、「記録御用所古文書」に入っている和田八郎定教の事を書いた「和田兵談」に、 「甲賀に住いしとき郷人の襲撃をおそれ、こがの実をまく定めありしとか、今も邸囲りにこがの生垣を二重にもうく」とある。 こがとはからたち、くこの実のことをいう。これが語源で「こがもの」「甲賀者」となるのであり、伊賀の方はというと、
「丹波は山栗の産多し、いがを集め俵に入れて運ぶ」と、丹波亀山内藤党の古文書にあることように、武田勢と同じ事で、伊勢加太山の山栗の毬(いが)を今の界外あたりにまき、苛めに来る百姓の来襲を防いで、界外の中でひっそり世を忍んできたのが、家康に拾われるまでの、まことの伊賀者の歴史ということになるだろう。そして、それが、「忍んで生きてゆく技術」つまり「忍術の本質」ではなかったろうか‥‥ これまでの面白い幻想を破ってしまった事をお詫びするが、真実とはこのようなものなのである。 今や「忍者村」なるものが北は北海道から南の沖縄まで、日本中到る所に雨後の筍の如く発生している。 そして、訳も判らぬ外人忍者オタクに人気で、えらく儲かっているというが、外貨を稼いでくれて結構な話である。 日本人ですら忍者を信じているのだから、無理もない話しであるが、まったく馬鹿げている。