新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

真田の赤備え 「海洋渡来民族の民族カラーは赤」

2019-05-09 17:35:48 | 古代から現代史まで

 真田の赤備え

 
 
「海洋渡来民族の民族カラーは赤」
 
 
 だいぶ以前になるがホメイニ革命以前の、イラン建国三千年祭には、 日本から三笠宮も招かれた様子がテレビで放映されていた。
  観兵式では中世式の乗馬兵が、真紅の赤長旗を林立させての行進は見事だった。 このイランに限らず中東の国は、アラーのイスラム教以前の宗教と言えば太陽や火を崇める拝火教が主な宗教だった。勿論、水を崇める拝水教などもあった。 この拝火教徒が民族のシンボルとしての色が「赤」なのである。
 これら拝火教徒が住むアラブの地から、インド、マレーシア経由で多くの人間が、この日本列島に漂着し定住していたことを日本史では隠している。
 これらは、日本民族の中でも海洋渡来民族で、日本史では源、平、藤、橘、と分類するが      源は裏日本、沿海州から入ってきた騎馬民族。民族カラーは白   平は海洋渡来で太平洋沿岸各地に漂着。民族カラーは赤   籐は藤原氏を名乗る中国よりの占領軍。色は坊主の着る墨染めの黒   橘はタチバナとも読むが、唐を滅ぼして取って代わった契丹族のキ 
  ツ色は黄色     
 
 
日本でも平家と呼ばれる、即ち海洋渡来系民族は赤旗を目印としてる。
 真田幸村が全軍赤旗を立てて戦ったのも、宗旨の為であるし、遠江井伊谷出身の井伊直政が滅亡した武田の遺臣団を召抱えて、部下の甲冑まで朱塗りにしたのも同様である。
 さらに大岡忠相が堂(道)の者と呼ばれるようになった拝火宗徒の、旅回りの芸人達に五街道目付けを命じた時も、それぞれに捕縄と朱鞘の公刀を渡したのも同じ。街道で川渡しの人足も赤ふんどしで、一方騎馬系の雲助や駕籠かきは白ふんどしと決まっていた。
 日本民族はこの海洋渡来と騎馬系が大半を占めるため、全国に赤鳥居と白木の鳥居が多い。 紅白の幔幕は縦は紅白で二分されていても、海洋系が多いことを慮って幔幕の上位は赤になっている。
 こうしたことが背景にあるため、日本人は何かと紅白に分かれたがるのである。 運動会然り、紅白饅頭、紅白かまぼこ、紅白水引、紅白歌合戦さえある。
 「安芸の宮島」
観光地で有名だが、アの発音で始まるということは海洋渡来系の平氏の建てたもので、今でも朱塗りである。
そして宝物殿には、平家の公達が用いたという佩刀が飾られているが、 日本刀とは似て非なるものである。即ちストレーと呼ばれる直刀でしかも両刃の剣である。
この日本刀の創始者は足利義満だが、彼は豊富に取れた日本中の砂金を明国に送って粗悪な鉄銭をバーター交換して、北条時代に元寇で懲りていたので、故意に「臣源義満」と名乗って明の属国に甘んじて足利体制を維持した。 そして入道した時に南蛮族来寇(これを刀一の来寇と日本史では言う)があり、 防戦のため日本原住民を駆り集めて防人として九州へ送り出した。
その際両刃の剣は、鋼の無い日本だから片刃で付け焼刃の刀を持たた。
今でも日本刀は鋼はごく一部で美術品としては良いが、折れやすく曲がりやすく実用には向かないのである。  外人に人気なのも、間違った武士道と、美しい波紋の神秘性ゆえでる。
 幕末の新撰組でさえ、刀術は奇数日、槍術は偶数日と決めていたが 実際にはほとんどが槍術の稽古だったという。  人殺しには槍の方が数倍有利であることは論を待たないだろう。 だから映画やテレビの切り合いは全部芝居の影響で嘘。            
 
 
 さて、宮島には硝子ケースの中にはガレー船と呼ぶ、奴隷に漕がせる船体の模型や絵図もある。こんな形態の船は日本中何処を探しても無いが、同じモデルシップがスペインのマラガ博物館やポルトガルの海事博物館にも陳列されていて、それには困ったことに「平家一門御座船」とは出ていなくて、「ムーア王の艦隊」と出ている。
 このムーア人というのはアラブの民がアフリカ大陸に入り混血した民族なのである。 その歴代の王の名が出ているのをどう考えるかである。
 そして宮島神社の国宝級の直刀や太鼓はベイルートやバクダッドの空港売店にも全く同型の新しい物が、御土産品だから色彩は派手でサイケだが10ドルで売っている。
 
これらから必然的に浮かび上がる事象は、昔アラブ方面からの民族の流入がこの日本列島には在ったということだろう。 そしてその子孫は今でも日本人の半分を占めるほどに増えて、庶民として暮らしている。
 

紀伊国屋文左衛門は革命家だった

2019-05-09 13:01:18 | 古代から現代史まで

紀伊国屋文左衛門は革命家だった

 

有名な赤穂浪士が吉良邸に討ち入りの際、集まって出発したところが江戸本所二つ目に在った紀伊国屋の持長屋だったのである。 という事は紀伊国屋が赤穂浪士たちを秘かに応援ていたことになる。 だからこの事件の後、江戸では直ぐ芝居になり、まさか実名では町奉行所が許可しないので、仮名手本忠臣蔵の芝居では浅野内匠頭が塩谷判官になり、吉良上野介は高師直となっている。 そして陰から何かと浪士達を助ける人物として天野屋利兵衛が登場る。 有名な台詞に「天野屋利兵衛は男でござる」がある。 この天野屋利兵衛のモデルが紀伊国屋となっているのだが、紀伊国屋という人物は単なる金持ちの道楽者だったのだろうかとなる。 江戸の庶民は、徳川お上のすることに懐疑的で、何か事件が起こると必ず批判する。それは幕府が絶対といって良いほど庶民の幸せを見据えた政策などしなかったからで、これは現代にも通じる。 とはいえ、幕府の弾圧の目を盗んで、批判や風刺を芝居という形で表現して、庶民は逞しく抵抗した。

さて、昭和になってからの話だが江戸(東京)に紀伊国屋の邸宅跡が残っていて、現在は清澄庭園となっている。太平洋戦争の際のB29の絨緞爆撃の際、ここは何故か焼夷弾は爆発しない爆弾なのに次々と大爆発て、幾つもの大穴が開いて、今は大石で穴が塞がれている。 「江東区史」によればここは紀伊国屋全盛時代の邸宅だったとされているが、「不発弾が多数に残っている」とも、かっては云われていて、また火薬庫の跡らしいとも口伝えが残っている。俗説のお大尽の文左衛門と屋敷の下に硝石(火薬)樽を隠す大きな穴幾つも設けていた実際の文左衛門とはまるで違う。 (注)この硝石とは当時の火薬の主原料で、硝石75%、硫黄2.5%、木灰1%を混ぜたものが火薬になる。 硝石は白色だが、黒い木灰を混ぜるからこれを「黒色火薬」というのである。徳川幕府は、長崎出島から硝石を独占輸入して、西は大阪城天満櫓に保管し、天満与力が管理していた。東は江戸城二の丸に保管し、古くなったり湿気の来たものは、鍵屋、玉屋の花火業者に払い下げしていた。   
当時も今も、この不思議な科学現象に疑義を挟む者は居ないが、紀伊国屋の実態を誰もが解明してないからだろう。 この紀伊国屋の清澄公園は、「江戸三園」と呼ばれる後楽園が水戸光圀ならば、六義園は、また時の権力者柳沢吉保が金にあかして造園し、文左衛門が共に元禄時代に造園したものである。光圀は水戸二十五万石の財力を傾け、現在の後楽園スタジアムの上屋敷に接近した広大な土地に造園したのに対して、「なにくそ負けるものか」と柳沢も、将軍綱吉より駒込染井に四万七千坪を貰いうけ、元禄八年より坪立千名にて「六義園」を作ったのである。 なのに天下の権力を傾けてさえ六年もかかったのに対し、町人の文左衛門は元禄十五年から十六年までの僅か一年間で大きな清澄園を完成している。 これは如何に当時の文左衛門の財力が巨大だったかの裏書にもなる。
さて、江戸時代八代将軍吉宗の貞享二十年から、今で言うならハイウエーパトロール並の五街道目付という制度が作られ、この役目を担ったのが堂(道)の者と呼ばれていた拝火教徒の流れ遊芸人達が、彼らは平氏の流れをくむ者だから、目立つように赤い鞘の公刀と捕り縄を持たされ、街道目付となったのである。
 だからそれまで、徳川の御政道で差別されていて、日本各地の別所、つまり除地と呼ばれていた限定地に収容されていた者達が、同族が街道見回り目付となったものだから、同族の助け合いの精神で、伝達をつけて貰い、各地から秘かに脱出して、仕事があって稼げる江戸や京、大阪へと次々と流入した。 この先鞭をつけたのが誰あろう紀伊国屋なのである。
というのは、紀文(紀伊国屋)の生まれ住んでいた所は、紀州の湯浅別所でここは南北朝の頃、後醍醐天皇の南朝方の土地で、楠木正成や新田義貞らの残党が押し込められていた土地だから、足利時代から「北朝の足利尊氏に敵対したふとどきな者達」と被差別地帯になっていた。つまり奴隷扱いで死なせても構わない者達として、荒天の蜜柑船にに乗せられたが、船は難破し船主や船頭は死んだので、積荷の蜜柑も相馬で処分、金に変えて江戸へ出たのである。 現在では紀文を蜜柑で大儲けしたと誤っているが、難破船で塩水を被った蜜柑を売ったとて高が知れている。 何故なら、幕末に高田屋喜兵衛の千五百石積みの船が、銭屋五兵衛に銀四十三貫で売却との記録が残っている。 が、まだ元禄時代は五百石積み以上は造船禁止で、一般の積荷船は百五十石止まりだった。となると積載量は2トンしかない。 そしてかさばる竹篭に積んできた蜜柑は千五百キロ位である。暴風雨にあったものなら、波にさらわれたり塩水で腐ったものを引けば千キロ位だろう。 そして船は浦賀あたりへ漂着したらしいが、今の時価に換算して、キロ五百円としても、五十万円では、床柱にするような材なら一本も買えはしない。 当時の木場の年間扱い高は約八十万両に及ぶと、冬木場会所の記録にあるが、元禄時代の一両は現在の五万円に等しいから、蜜柑を売った金をそっくり持っていっても、みんなで当時の十両でしかないから、材木の買占めなどできはせぬ。 しかし、寛永寺の中堂建立落成式の当日、上野から出火して江戸府内のほとんどを焦土と化してしまった勅願火事で、文左衛門が材木を売りまくって大儲けしたのは、これは事実だから話しは可笑しくなる。
本当の所は江戸へ出てから、大火の際、復興の材木が高騰し、紀文は各地の山者も同族だから手付金なしの後払いで木材を集め、江戸へ運ばせて巨万の富をつんだのである。 ここの処は詳細に記すと、時の大老柳沢吉保が将軍綱吉の名代として、上野寛永寺の落成式に出席するのを聞いた文左衛門が「いい機会だ、ついでに殺してしまえ」と、人を雇って放火したところ、これが飛び火して江戸の大半が折からの烈風で焼失した。 この時「普請のためには、金に糸目はつけられん」と買いに来る連中に初めは秘かに売ったのだろう。 というのは何故かと言えば、足利時代に始まった商人の「座」の制度が江戸期には、組合制に変わっていたが、絶対にその仲間に入らねば商売は出来ぬ仕掛けになっていた。互いの商いを守るための独占企業法みたいなもので、どうしても加入して営業したいなら、株を求めて名義変更しなければ許されぬのが御定法だったのである。 「冬木町控」という木場の古文書には、宝永四年(1754)の相場で、材木商の看板を出し商売するために、株を譲り受けるのには二百五十両掛るとある。 顔つなぎに同業者を呼んで宴席もはらねばならぬし、御材木の火番大名や、舟手奉行への付け届けも要る。 だから最低でも店を持つには三百両は掛る。 が、蜜柑を売った十両ぐらいの文左衛門に、そんな大金が有る訳はない。だから商いを始めるには当初はモグリ営業しか出来なかった筈である。 しかも、「江戸の建物の大半を普請できただけの量を、紀伊国屋が一手に仕切った」というのであるから、三百両どころか何万両もの資本が無くては無理である。そこでである。騎馬民族系の末裔は「源氏の白旗」とよばれるくらいて、「加賀の白山」を信心して、それぞれ各地に、 「白」のつく白山神とか白髪神を祀っていた。だから文左衛門も白山神徒の一人ゆえ、その信徒間の連絡を利用して、各地の山者達を動員し、代金後払いで材木を非合法で集めて送らせた、とみるしかない。 これは推理ではなく、そうした考えで帰納したほうが合理的であろう。  そして故郷の湯浅別所から次々との者達を呼び寄せ、金の力で寺人別も手に入れたのである。 産業も何も無い江戸の人口が130万を越えて当時世界一になった謎はここにある。
つまり紀文は徳川の御政道で同族が日本各地で差別され苦しんでいるのを見かね解放しようとした、世直し、つまり現代で言う革命指向者だったのである。
だから花火作りの鍵屋に、強力な火薬を作らせ、赤穂浪士の影の協力者ともなったのである。 東京都の<江東区史>にも、深川霊岸浄学院に墓のある彼のことを、  「湯浅別所出身なり」と明記してある。

芸者と遊女 関西では芸子という 下剋上の本当の意味 下馬将軍とは

2019-05-09 10:55:58 | 古代から現代史まで

芸者と遊女

関西では芸子という

この職業は日本原住民の内の騎馬民族系、即ち源氏系の女に限られていた。  現代でも水商売の女達は本名で張っているのは居ない。 飲み屋の女も、ソープもデリヘルも全て店での偽名を使っていて、 「ユカ」だの「ミドリ」だの「マリ」等と呼ばれている。これを「源氏名」と今でも謂うのである。

 昔、キャバレーの全盛時代「オオバコ」といわれた大都市のマンモスキャバレーには 在籍のホステスが千人以上も居て、ユカだのミドリでは間に合わない為、月、星、花組等に分け、 場内放送で指名をする際「星の53番マリコさん、100番テーブル指名です」等とやっていた。  さて、江戸時代になり万治元年間になると京は舞子といい、江戸は踊り子から芸者が発生したとされている。  江戸の吉原芸者と呼ばれる廓内の芸者は大層な権勢があり、廓の外の町芸者を見下し、 深川の芸者などは冬でも足袋をはくことは禁止されていたものである。現代はこれを「粋な芸者」だとか「深川芸者の心意気」かどというが、 実態は、吉原芸者が己の権威を誇るため、卑下して、差別していたにすぎない。

 いずれにしても最終的に彼女達は肉体を売る商売だが、現在の女達のように、といっても、売春防止法が制定される前の赤線地帯の六十年以上前の話だが、 新宿二丁目や玉ノ井、鳩の町や吉原、それに洲崎、武蔵新田が繁盛していた。そこの女たちは、 ごろんとマグロ状態で、客の放出を早くさせ、金を貰ってはい一丁あがり、江戸時代はこんな横着な女は少なかったという。  古来より遊女とも呼ばれるように、「遊ぶ女」ではなく「男を遊ばせる女」なので、その道のプロを自認していて、男を喜ばせる様々なテクニックの達人でもあった。 だから彼女達は職人であり誇りを持っていたのである。  この遊女に関する詳細は以下に在る。

 http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/yuujyo.htm

  下極上

 現在では「下剋上」となってる。 しかし関白一条兼良の五男である一条尋尊の書き残した一級史料である「大乗院寺社雑事記」に書かれている用字法ではこの下極上となっている。

 彼ら公卿は中国大陸系だから、御所を押さえ、日本列島に君臨していて原住民を卑賤として人間扱いせず見下して、地下よりも低い徒輩で、地家蛮族だとして庶民達に対してのこれは悪罵なのである。  そして尊大ぶって、原住民に対して憎々しげに次のように書き残している。   (全文は漢文なので平文にした)

 「近頃は土民たちは、己らの筋目もわきまえぬ時代となったものである。何しろばらめが増長して守護や国司にまで成り上がろうとするのを、こちらでは   咎めも出来ず、左右する訳にもいかぬのは嘆かわしい極みである」 とか、さらに、「近頃は、しかるべき歴っきとした種族の姓さえないがしろにされてしまい、つまらんぼんくら扱いで、氏も素性も無いどもめが立身しくさっているのは  大和の国だけでなく、他国も皆しかりである。これではまったくのところ下極上のいたりではあるまいか」とある。 これが書かれた時期は足利時代末期、所謂戦国時代の初めで、室町幕府の守護大名には公卿たちと同じ大陸系の姓を名乗る者が多かった。

 斯波氏、一色氏、北畠氏、伊勢氏、今川氏、島津氏、京極氏、仁木氏、  結城氏、千葉氏、菊池氏とイキシチニ横列が多いのが特徴である。

 この後、台頭してくる信長、秀吉、家康というのは全て日本原住民系で、 大陸勢力に隔離されたり、差別されていた部族の中から武力で天下を取ったのである。

   信長の出自で、諸説は色々在るが故菊池山哉の研究に「アマの国は淡海の国か」とある。 天の王朝のことで、この王朝の民は尾張むらじの系図の中に隠しこまれていて、判然としないが、 判りやすく言えば近江八田別所に隔離されていた一族が、越前、加賀の仏教勢力である一向宗の勢力から逃れて尾張へ行き、 織田家に仕え勝幡城の城番となったのである。

そして織田の姓を貰った旧姓八田信秀の子が織田信長なのである。そして信長が美濃を入手するや伊勢を占領し、 やがて近江に入り琵琶湖畔の弁天崖に七層の安土城を建てて君臨したのも、彼だけの武勇知略ではない。

<天下布武>では尾張、伊勢に多い「八」の民が、天の王朝復活のために彼に協力し、 世直しをして欲しさに米穀の在る者は出し、男は皆武器をとって、信長に従って進撃したものらしい。

 秀吉はサンカ部族出身で「姓」等は無く、木下姓は妻の実家の姓で、羽柴に変え、豊臣を名乗り最期は平氏も名乗っている。  家康に到ってはサンカ葵族の説もあるが、世良田郷徳川の出身である。  家康についての詳細は以下を参照。

      http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/serada.htm

 これら三名は前述したように、純粋日本原住民出身者である。   だからそれまで数百年間も日本列島に君臨していた大陸人たちにとっては冬の時代で、随分と悔しかったろう、これはその怨み節のようなものである。

  下財道

 鉱山の堀子のことを言う。 日本でも金や銀の鉱脈を掘り当てれば、これは儲かってひと財産を築くことが出来、 日本中の鉱山を廻って歩く鉱山師の総称で山師ともいわれる。

 日本は昔から鉄の資源に乏しい国柄だから、この山師は厚遇され江戸時代は両刀を差して威張っていたものである。  現在では山師といえば怪しげな話をデッチあげて、金をまき上げるペテン師の同義語になっている。  しかし江戸時代はゲザイドウを縮めて呼んでゲドウとも言ったのである。

  毛坊主

  柳田国男の説では、在野の坊主で算所(占い)を本業とした祈祷者だという。  喜田貞吉説では、在々所々に散在していた神人で、つまり浮浪者だという。  林屋辰三郎説では、楠木正成の一党も然りとしている。  だが、算所も、産所、山所、これらは全て当て字で「サンショ」という発音が等しければ同じ意味なのである。  山椒太夫の童話にある山椒(サンショ)も同じく隔離地域で、太夫というのはサンショの頭の意味である。  また、別所、院内、院地、垣内も同じで、これらは全て日本原住民が隔離されていた土地の呼び名である。  だから吾らの祖先である原住民は食っていくためには何でもしなければならなかったので、 つまり墨染めの衣を纏い、頭を丸めた体制側の官僧になれない為、江戸期になれば願人坊主や法界坊、法院と呼ばれた人々なのである。

 下馬将軍

 江戸城の大手門には下馬札が立っていて、此処では将軍でさえ下馬するのが 慣わしだった。その側に屋敷を賜っていた時の大老である酒井忠清のことで、 彼は四代将軍徳川家綱に代わって政務全般を見ていたので、大変な権力者で

 下馬もせず堂々と千代田城まで乗り入れていた。 この時次の五代将軍を誰にするのかという問題で、綱吉を擁立しようとする一派と 京から有栖川宮を迎えようとした酒井と水戸光圀派が争い、酒井派が負け失脚する。  何故に綱吉を排斥したかと言えば、綱吉は三代家光の子だが、その産みの母、側室の於玉とは、調べてみると朝鮮済州島生まれの朝鮮人と判り、家康直系の血脈が絶たれるので、 反対したのだが、春日局の孫や外孫達のために失敗し、光圀は水戸の西山へ閉門蟄居となり、酒井も家屋敷没収の上追放処分となった。

 この館林宰相綱吉、酒井、光圀の争いの詳細は以下を参照。

       http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/mitokoumon.htm