真田の赤備え
紀伊国屋文左衛門は革命家だった
有名な赤穂浪士が吉良邸に討ち入りの際、集まって出発したところが江戸本所二つ目に在った紀伊国屋の持長屋だったのである。 という事は紀伊国屋が赤穂浪士たちを秘かに応援ていたことになる。 だからこの事件の後、江戸では直ぐ芝居になり、まさか実名では町奉行所が許可しないので、仮名手本忠臣蔵の芝居では浅野内匠頭が塩谷判官になり、吉良上野介は高師直となっている。 そして陰から何かと浪士達を助ける人物として天野屋利兵衛が登場る。 有名な台詞に「天野屋利兵衛は男でござる」がある。 この天野屋利兵衛のモデルが紀伊国屋となっているのだが、紀伊国屋という人物は単なる金持ちの道楽者だったのだろうかとなる。 江戸の庶民は、徳川お上のすることに懐疑的で、何か事件が起こると必ず批判する。それは幕府が絶対といって良いほど庶民の幸せを見据えた政策などしなかったからで、これは現代にも通じる。 とはいえ、幕府の弾圧の目を盗んで、批判や風刺を芝居という形で表現して、庶民は逞しく抵抗した。
芸者と遊女
関西では芸子という
この職業は日本原住民の内の騎馬民族系、即ち源氏系の女に限られていた。 現代でも水商売の女達は本名で張っているのは居ない。 飲み屋の女も、ソープもデリヘルも全て店での偽名を使っていて、 「ユカ」だの「ミドリ」だの「マリ」等と呼ばれている。これを「源氏名」と今でも謂うのである。
昔、キャバレーの全盛時代「オオバコ」といわれた大都市のマンモスキャバレーには 在籍のホステスが千人以上も居て、ユカだのミドリでは間に合わない為、月、星、花組等に分け、 場内放送で指名をする際「星の53番マリコさん、100番テーブル指名です」等とやっていた。 さて、江戸時代になり万治元年間になると京は舞子といい、江戸は踊り子から芸者が発生したとされている。 江戸の吉原芸者と呼ばれる廓内の芸者は大層な権勢があり、廓の外の町芸者を見下し、 深川の芸者などは冬でも足袋をはくことは禁止されていたものである。現代はこれを「粋な芸者」だとか「深川芸者の心意気」かどというが、 実態は、吉原芸者が己の権威を誇るため、卑下して、差別していたにすぎない。
いずれにしても最終的に彼女達は肉体を売る商売だが、現在の女達のように、といっても、売春防止法が制定される前の赤線地帯の六十年以上前の話だが、 新宿二丁目や玉ノ井、鳩の町や吉原、それに洲崎、武蔵新田が繁盛していた。そこの女たちは、 ごろんとマグロ状態で、客の放出を早くさせ、金を貰ってはい一丁あがり、江戸時代はこんな横着な女は少なかったという。 古来より遊女とも呼ばれるように、「遊ぶ女」ではなく「男を遊ばせる女」なので、その道のプロを自認していて、男を喜ばせる様々なテクニックの達人でもあった。 だから彼女達は職人であり誇りを持っていたのである。 この遊女に関する詳細は以下に在る。
http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/yuujyo.htm
下極上
現在では「下剋上」となってる。 しかし関白一条兼良の五男である一条尋尊の書き残した一級史料である「大乗院寺社雑事記」に書かれている用字法ではこの下極上となっている。
彼ら公卿は中国大陸系だから、御所を押さえ、日本列島に君臨していて原住民を卑賤として人間扱いせず見下して、地下よりも低い徒輩で、地家蛮族だとして庶民達に対してのこれは悪罵なのである。 そして尊大ぶって、原住民に対して憎々しげに次のように書き残している。 (全文は漢文なので平文にした)
「近頃は土民たちは、己らの筋目もわきまえぬ時代となったものである。何しろばらめが増長して守護や国司にまで成り上がろうとするのを、こちらでは 咎めも出来ず、左右する訳にもいかぬのは嘆かわしい極みである」 とか、さらに、「近頃は、しかるべき歴っきとした種族の姓さえないがしろにされてしまい、つまらんぼんくら扱いで、氏も素性も無いどもめが立身しくさっているのは 大和の国だけでなく、他国も皆しかりである。これではまったくのところ下極上のいたりではあるまいか」とある。 これが書かれた時期は足利時代末期、所謂戦国時代の初めで、室町幕府の守護大名には公卿たちと同じ大陸系の姓を名乗る者が多かった。
斯波氏、一色氏、北畠氏、伊勢氏、今川氏、島津氏、京極氏、仁木氏、 結城氏、千葉氏、菊池氏とイキシチニ横列が多いのが特徴である。
この後、台頭してくる信長、秀吉、家康というのは全て日本原住民系で、 大陸勢力に隔離されたり、差別されていた部族の中から武力で天下を取ったのである。
信長の出自で、諸説は色々在るが故菊池山哉の研究に「アマの国は淡海の国か」とある。 天の王朝のことで、この王朝の民は尾張むらじの系図の中に隠しこまれていて、判然としないが、 判りやすく言えば近江八田別所に隔離されていた一族が、越前、加賀の仏教勢力である一向宗の勢力から逃れて尾張へ行き、 織田家に仕え勝幡城の城番となったのである。
そして織田の姓を貰った旧姓八田信秀の子が織田信長なのである。そして信長が美濃を入手するや伊勢を占領し、 やがて近江に入り琵琶湖畔の弁天崖に七層の安土城を建てて君臨したのも、彼だけの武勇知略ではない。
<天下布武>では尾張、伊勢に多い「八」の民が、天の王朝復活のために彼に協力し、 世直しをして欲しさに米穀の在る者は出し、男は皆武器をとって、信長に従って進撃したものらしい。
秀吉はサンカ部族出身で「姓」等は無く、木下姓は妻の実家の姓で、羽柴に変え、豊臣を名乗り最期は平氏も名乗っている。 家康に到ってはサンカ葵族の説もあるが、世良田郷徳川の出身である。 家康についての詳細は以下を参照。
http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/serada.htm
これら三名は前述したように、純粋日本原住民出身者である。 だからそれまで数百年間も日本列島に君臨していた大陸人たちにとっては冬の時代で、随分と悔しかったろう、これはその怨み節のようなものである。
下財道
鉱山の堀子のことを言う。 日本でも金や銀の鉱脈を掘り当てれば、これは儲かってひと財産を築くことが出来、 日本中の鉱山を廻って歩く鉱山師の総称で山師ともいわれる。
日本は昔から鉄の資源に乏しい国柄だから、この山師は厚遇され江戸時代は両刀を差して威張っていたものである。 現在では山師といえば怪しげな話をデッチあげて、金をまき上げるペテン師の同義語になっている。 しかし江戸時代はゲザイドウを縮めて呼んでゲドウとも言ったのである。
毛坊主
柳田国男の説では、在野の坊主で算所(占い)を本業とした祈祷者だという。 喜田貞吉説では、在々所々に散在していた神人で、つまり浮浪者だという。 林屋辰三郎説では、楠木正成の一党も然りとしている。 だが、算所も、産所、山所、これらは全て当て字で「サンショ」という発音が等しければ同じ意味なのである。 山椒太夫の童話にある山椒(サンショ)も同じく隔離地域で、太夫というのはサンショの頭の意味である。 また、別所、院内、院地、垣内も同じで、これらは全て日本原住民が隔離されていた土地の呼び名である。 だから吾らの祖先である原住民は食っていくためには何でもしなければならなかったので、 つまり墨染めの衣を纏い、頭を丸めた体制側の官僧になれない為、江戸期になれば願人坊主や法界坊、法院と呼ばれた人々なのである。
下馬将軍
江戸城の大手門には下馬札が立っていて、此処では将軍でさえ下馬するのが 慣わしだった。その側に屋敷を賜っていた時の大老である酒井忠清のことで、 彼は四代将軍徳川家綱に代わって政務全般を見ていたので、大変な権力者で
下馬もせず堂々と千代田城まで乗り入れていた。 この時次の五代将軍を誰にするのかという問題で、綱吉を擁立しようとする一派と 京から有栖川宮を迎えようとした酒井と水戸光圀派が争い、酒井派が負け失脚する。 何故に綱吉を排斥したかと言えば、綱吉は三代家光の子だが、その産みの母、側室の於玉とは、調べてみると朝鮮済州島生まれの朝鮮人と判り、家康直系の血脈が絶たれるので、 反対したのだが、春日局の孫や外孫達のために失敗し、光圀は水戸の西山へ閉門蟄居となり、酒井も家屋敷没収の上追放処分となった。
この館林宰相綱吉、酒井、光圀の争いの詳細は以下を参照。