新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

最強の狙撃者 ヨーゼフ・アラーベルガー

2019-05-20 17:08:19 | 古代から現代史まで
 
この本は伝説の狙撃者、ドイツ陸軍第六軍、第三山岳猟兵師団、百四十四連隊ヨーゼフ・アラーベルガー(通称ゼップ)上級兵長の実録実名物の叙述であり、美化することの無い兵士の伝記でもある。  主人公のヨーゼフは、その卓越した才能と戦闘意欲で公式記録では257人を狙撃で殺している。 しかし狙撃以外の一般戦闘でも多くを殺しているので、カウントされないこれらを含めれば膨大な、恐らく1000人に近い殺傷数になるだろう。
場所は東部戦線でスターリングラードからの撤退戦。
戦争記録や軍記物でもあまり取り上げられることの少ない狙撃兵という特殊な兵士の経験を通じて、第二次大戦の末期、東部戦線でドイツ軍がどのように泥沼の撤退作戦を戦ったかつづる特異かつ貴重な記録でもある。 内容はあくまでも事実にもとずいており、フィクションを交えているわけではないが、記述されているエピソード全てが主人公ゼップ本人の経験だと考える必要もない。 巻末に挙げられている参考文献の内容も織り込みつつ、一人の狙撃兵の目線から、東部戦線の兵士たちの軌跡をたどったものと解釈すべきだろう。
読者としては、圧倒的兵力と物量で追撃するソ連兵の悪辣さ残虐さ。 暴行、略奪、強姦、陵辱捕虜虐殺の凄まじい描写は壮絶で背筋が凍る。 一例を挙げるなら、材木工場の電動鋸で、ドイツ兵の捕虜を切り刻むさま。ルーマニア村民の妊婦を強姦し、その腹から胎児を取り出し、壁に釘で張付けるなど。 歴戦のドイツ軍兵士でさえ、その凄惨で残虐な光景に反吐をはき逃げ出すさま。
さらに想像を絶する戦闘の相貌、狙撃銃の種類、その操作方法、狙撃用移動陣地の造り方、塹壕での大小排出物の処理方法、戦場食、等々、戦闘の詳細は興味深い。
さらに到る所で描写されている、砲撃でドイツ兵士が腹から内臓があふれ出し、本人が湯気の立つ臓物を腹に押し込む、手足が一瞬で吹き飛び胴体だけになった兵士が、「俺の手は何処だ?足が無い」と泣き叫ぶ様など壮絶を超越して幽鬼迫るものがある。
一般に想われている「スナイパー」の颯爽としたイメージとはかけ離れた、泥臭く地味な狙撃兵の実像が浮かび上がってきて、戦後も集団で戦う他の兵士とは違って、面と向かって人を殺したという意識が消えることは無い。 それがどれほど苦しいことであるかは、我々の想像を絶している。
映画の「アメリカンスナイパー」は米国中心の世界秩序というものが
天壌無窮のものとして描かれた、いわばアメリカの宣伝映画だが、
この本は戦争の本質を一兵士の体験から浮かび上がらせてくれる。
 

古史古伝奇書の考察

2019-05-20 11:04:18 | 古代から現代史まで

 

 

この四冊の本は「奇書」などというシロモノではない。私はこれらを「四種の神器」と形容しているが、全くその通りで私はこれらを日本史復元のための「希望書」であり貴重な「貴書」と位置付けたい。 戸上博士や神原博士の説とは細部で対立する部分も多い。

【藤原王朝前日本歴史】  著者「医学博士・戸上駒之助」(世界的な海洋日本古代史の先覚者・七世紀までの歴史と言語よりみたる日本の民族) ■戸上博士の「歴史及言語より見たる日本の民族」は、九州福岡での自費出版壱千部で昭和五年刊に行されたが書名だけは有名だが半世紀以上たった今では五部も現存しまいとされ、 六万円で辛うじて小倉の知人の手で入手できたのは幸運だった。医学博士山田行彦も古代史をやっているが真実を追究する医家の方が、つなぎ偽史作りの歴史屋より正しい。                    八切止夫

■本書と「天皇アラブ渡来説」それに木村鷹太郎の「旧約聖書日本史」「海洋渡来日本史」の四点をようやく入手しえて四種の神器。 つまり明治末より昭和五年まで掛って非歴史家の資産を棄てて迄の必死の日本史の真実が、ようやく明白にされだした時に、軍部の戦争目的によって黒板勝美や金田一京助の「皇国史観」が一世を風靡してしまった。

■せっかく芽ばえかけた真実の日本史の芽は憲兵隊や特高によって昭和焚書。「契丹日本史」神伝との五冊を心あらば揃えて日本人なら民族の真実を追求できる。

◎なお本書は西部劇でインデアンは悪者、アラブ人も白人の美女を拐かす悪漢とされた映画の時代ゆえ、アラブを「西亜」としエジプトを故意に主とするは誤り。 アイヌ語は金田一京助説は正しくないし日露戦争后の鴨緑江歴史ではインド止りだが、本当は島国ゆえ黒潮暖流と親潮寒流で雑多な民族が流入している。

◎古事記に重点を置くが徳川家に迎合の吉田垂迦神道が乞食扱いと史としたのを、 平田篤胤と本居宣長が徳川体制に遠慮しつ今の「古事記」と改題し幕末に完成した創作的な所産である。

【高天原・富士宮下文書の研究】
 著者「工学博士・神原信一郎」 富士高天原書を明治十六年に家伝の渋紙で目張りの古箱の中から発見した三輪先生で、明治四三年より大正五年まで掛って、昭和五年に「富士山の地質と水理」や、 本書で紹介した「高天原」をついで刊行された旧東京電灯の、工学博士福原一郎先生。 「開びやく神代暦代記」を略し「暦代記」となして、これを宮下古文書歴史部より摘出し発表の岩間先生。 上野陽一郎門下で竹内文書研究の第一人者林信一郎先生と並ぶ宮下文書の鈴木貞一先生。 「日本超古代秘史資料」その他の著の多いウガヤ王朝研究の第一人者の五郷清彦先生。 「神皇紀」の大冊を世に送った古代史研究の鹿島昇先生に富士文書研究の渡辺長義先生。

竹内宮下文書とよばれるごとく表裏一体の竹内文書のため、昭和五年十一月より弾圧され同十一年一月二十一日より翌年十二年七月七日まで、 代用監獄に身柄を拘置され特高の拷問で三度も失神させられた竹内義宮管長の岳父であらせられ、昭和四十年一月二十七日にはついに神さりました竹内巨麿先生。 延暦年間に私共庶民の先祖の「天」の連中は富士川の江尻まで攻めこみ、騎馬系の子孫は箱根をこえて共闘したのは、 まだ西暦八世紀の頃で当時富士王朝奪還が彼ら被征服民共の夢であった。富士王朝が実存していたのは、まぎれもない事実であった、という歴史的裏付けである。

【浜名寛祐契丹史】  著者・旧陸軍主計監「浜名寛祐」中国東北奉天城内で契丹史を入手し、日本古代史を曝いた天下唯一の書。                               本文「神頌叙伝序」の五項目に、当時、鴨緑江兵站経理部長として奉天(瀋陽)の黄寺に滞在中に、全文2980字にわたる契丹古伝を入手したのだと、以下一章ごとに分けて説明している。 さて、何しろ日本の国史は、西暦663年の白村江の敗戦後に、九州から上京した大陸人の郭将軍達によって、唐語で書かれ作成されかけたのが、その120年後になり、 東北へ追われていた日本先住民が大同団結して「富士王朝」とかって呼ばれていた静岡の清見潟の浅間(千軒)神宮あたりまで侵攻した。あわてた郭将軍の後裔は、今の岡山の吉備へ高粱川を渡って集団で疎開した。 そして、郭将軍に真っ先に帰順帰化した百済族をもって「夷をもって夷を制すべし」と、賎の身分から良に格上げされた高野新笠さまの御子を人皇50代にして防衛させたのである。

【注】契丹の特進奏表官であった左次相の耶津羽之が、医巫間山の契丹の太祖長子東丹王の集めた数万巻の中より会同五年に索引編集したと浜名寛祐は述べている。 また、シウカラと呼ばれる東大神族が、日本と韓国の共通の祖先で大陸支配者だともいう。筆者の浜名は軍人だから、当時大陸制覇の意図をもっており、これは皇国史観の影響があまりに大きすぎる。 これがシベリアまでも日本領にとする北一輝の「日本改造法案」にまで繋がっていく。しかし、そうしたことは別にしても、これでは日本人は全て大陸系の人種になってしまう。 だか、征服者としての大陸系の渡来はあったが、われら日本列島原住民とは、黒潮によって運ばれてきたポートピープルの末裔である。契丹系も大陸から陸続と渡来してきたのは間違いないが、 先に日本に来ていた唐系の藤原氏によって、同じ大陸系でも賎と差別され、奇契丹燕の徒とされたのであろう。

【旧約聖書日本史】 ◆本書は権藤成卿門下の逸材、松沢光保先生が、長年にわたって校閲されてきた稀観書である。大正初年の神田二松堂版を基にしたが、関東大震災によって紙型まで焼けてしまった。 海洋渡来日本古代史の先駆者として、本書が高く評価されるべきである。改めて泉下の木村先生に脱帽するほどの世界的な研究である。  ソ連や中国よりも僅かで全人口の3%しかカトリーコのいない日本へ、わざわざ現教皇ヨハネ・パウロ二世猊下が来られるには、それなり訳がヴァチカン司書室にあるからである。   西暦1540年9月27日附けをもって当時の教皇パウロ三世が、始めて今のアンドラ共和国であるピレネー山脈のバスク人のイゼズス派へ新たに「戦う教団」を許可する勅書を賜った。
「有色人種が神の栄光をないがしろにするとは」と、それまで混血系ゆえ白人布教は許されなかったアンドロのバスク人のコスメ・デ・トルレスやファ・フェルナンデスと共にザビエルが、 戦闘教団として派遣された。そもそもアンドロは古代インドの国名。ゆえに当時フランシスコ派司祭で、インド司教ジョアン・グルブケルケの許へゆき拝礼し、その指示を仰いだ。   しかしインドでは日本ではない。七年間にわたって探究して廻ったが、日本では弥次郎とされるアンジローたちとめぐりあい1549年8月15日に、ようやく日本の鹿児島へ辿りついた。   アンジローの伊集院のユタモンと呼ばれる連中が、マガタンシ(真方衆)と共にザビエルらを守って、やがて山口へ、そして都へ案内。だから彼らにだけは来訪の真意を洩らしたらしい。    それが口づたえに伝えられてきた伝承と本書の内容に極めて相似しているのである。

  東北の八郎潟湖畔にイエスキリストの墓なるクルスの碑があったり、与羽根とか弥古部といった姓をもつ碧眼の者が今もいて、日本におけるキリスト噺が九州にもあったのには驚きで、 「かたいぐち記」と称する島津家の真方衆とよばれる岩屋弥次郎の子孫の記録も、島津藩茶道伊丹家で明治まで記録されてきたとは窪田志一の説で、彼らは鍛冶屋衆と別扱いだったという。

「日本太古史」の著者として知られる木村鷹太郎は、ギリシャ語と日本語の対比表を作って、皇国史観以前の明治史学界を愕かせた男であるが、彼はヴァチカン法王庁にあった原文をよんで訳しているのではない。  現在の学校歴史をを作らせたリドウィッヒ・リースの前任者の長州の御抱え教師として日本へきていたドイツ人が、その本国で刊行したものを下敷にし、 当時は神聖かくべからざるとされていた<日本書紀>や<古事記>と対照。それに足利時代からの謡曲や<神道五部集>と」対比歴史学の手法で、この世界的奇書を刊行したのである。
「黄禍論」をドイツ皇帝カイゼルがヨーロッパで説いたのも、ドイツ語の原著を読んだせいとも云われる。   なにしろ阿片戦争から、有色人種は白色人種にはかなわぬものとされていたのをば、日露戦争によって白人の大 国に戦勝した当時の日本人としては、もはや白人なにするものぞと気概を示して、 彼らのイエスキリストをも太古の日本人となして世界征覇をおおいに志しもした。   明治日本人の意気軒昂たる発想によるもので、薩摩鍛治屋町出身の東郷平八郎や大山巌が、おおいに評価し陸海の元帥が部内に広めたので、<日本太古史>のごときは難解な内容ゆえ、 軍人にもよめる平易な一冊本が天保銭とよばれた参謀教育テキストにされ採用されもした。

 「ウップ」つまりウンコ色みたいな日本人と面と向かっていわれても、自分では準白人みたいな思考をもつ日本人が多いのも、明治から大正へかけての木村鷹太郎の著作のせいである。  
 しかし旧約聖書から入って新約のプロテスタントに対比を求めたり、七世紀にマハメットが太陽教から現れて屈伸拝礼と胃腸を休ませて健康によい処の断食の回教を広めるまでのアラブは、 天地水火の四つを拝まねばならぬ面倒な拝火宗なのを木村は調べていない。また彼は、「ギリシャ正教」と「ユダヤ教」を同一に誤っている。 ヨーロッパではとされアウシュビュツに収容され今の農薬のシャワーガスで彼らが殺されるのを熟知していても、フランス人もイギリス人も助けにゆかず、 突入して解放救出したのはアメリカのユダヤ部隊で、彼らが今のイスラエルの星の国を建国したのだが、明治のアメリカは今と違い一夫多数妻のモルモン宗や追われたユダヤが多く、 まだ世界の警察国家ではなかった。

が戦後は日本進駐時代から、今はソ連圏内に入っているシルクロードを、さも日本への文化流入路のごとく宣伝しだしNHKまでのせられては政治的な策謀なのかと思わざるを得ない。 従って日本人海洋渡来説の先鞭者の木村の著作は覆刻もされぬのである。 それを良い事にイザヤベンダンこと山本七平は、日本人の先祖がさもユダヤみたいな迎合本を出し、これがもてはやされては無茶である。 なにしろエルサレムがアラブ人にも白人にも共に聖地なので人種的に混合しあっているのは事実で、区別は今では宗教によるしかないらしい。

  バレービの先代がイラン王朝をたてる迄の前代王朝の紋章は16弁の菊花だったのは、木村鷹太郎も掲出しているが<天皇アラブ渡来説>にも出ている。 ローマのアラコエリ僧院にあるイゼズス派のキリスト像に、金色に輝く大小の菊紋があるのも本書に採用されている。  「桓檀古記」とよぶ韓国のわが日本の耶馬壱国の根本資料によれば、木村が信じきっていた日本書記は <百済史>に相似しているが、中国の「史記」にしても晋世家はアラブのバビロニヤ史の漢訳なりとし、「周本紀」にしても、曲沃荘伯から悼公周までの周史は、アッシリアのバビロン史で、 ティグラトピシャルがブル王としてアラブ支配していたのが、周王荘であり、前記曲沃王。 日本の歴史業とは系図屋なみのツナギの役割ゆえ、信仰上ではゴルゴダの丘を十字架を背負わされたキリストは便宜上、唯一人だが実際何人もの結合だとする木村説も至極当然なのである。 「宮下文書」「竹内文書」 「うえつふみ」の日本の古代神話も本書によれば結びついてゆく。

【海洋渡来日本史】

 羊五万頭や降伏した捕虜の大軍を先に進ませ、土を踏みかためてからフビライ汗達の軍勢が攻めこんだ軍用道路。金の産出のまったくないヨーロッパが植民地支配に必要なために、 イタリヤの絹を長安へ運び、換わりに黄金を運んだシルクロードも、現在では全部が旧ソ連圏内。   戦前は本書と<天皇アラブ渡来説>にて古代日本人は海洋渡来なりが定説だった。これから紀元二千六百年説も学校唱歌にされた。しかし戦後はGHQによって共に一斉に強制没取されてしまった。 代わって対ソ戦略の一環か、日本文化はシルクロードから来たのだと、まるでけしかけるように仕掛けられ宣伝されているが、テレビ放映でも中国のトンコウまでしか放映されはしない。 マルコポーロにしてもイタリーから往復とも黒潮にのり福州の港に着いていて陸路を通っていない。   正倉院御物も海からで、地球の陸路を横断し長安から揚州まで出て季節風の吹く一年待って、日本へといった莫迦げた説は昔はなかった。           この本は、なにしろ大変な本である。木村にはこの他に日本太古史上下二巻もあるが難解すぎて判らぬ。   そのせいもあるだろうが1913年にドイツ語訳、翌年には英語版でロンドンで刊行され評判になっていた為からか、チャンバラや仇討ちもの演劇映画を禁止したGHQはまづ本書と 「天皇アラブ天皇説」の二冊を強制押収処分。未提出所持者は沖縄キャンプ重労働三年が課せられた。

  つまりアメリカ軍進駐時代には反体制不穏危険文書であったのである。さて戦後、今では旧ソ連圏内にすっぽり包含されているシルクロードこそ日本への文化移入の途と宣伝されだした。   海路ならアブダビ海から50万トンタンカーでも半月でくるのに、長安から日本へも西南風をまち一年もかかる妄説が、対ソ戦略の一環みたいに宣伝されだし一般国民はノセラれてる。 木村説のごとく、今日飢死地獄のエチオピヤのアフリカーナやアラブ人ら亜熱帯人種が、紀元前から世界を支配していた時代。 白ッ子扱いの白色人種は彼らの奴隷でピラミットを作らされたり、逃亡者はバイキングとして北へ逃亡。寒さのため今日のごとく胸毛や手足が毛深くなったのである。    ローマ時代になって白色人種が勢力を得て、面食いのクレオパトラが有色人絶対の時代を危くしたり、今のスペイン領マラガより上陸し、イベリヤ半島を領有していたサラセン人が、 フェリッぺ一世夫婦によって追われ、15世紀よりは世界は完全に次々と逆転して白人優先時代化した。   しかし阿片戦争で清国が勝っていたら、また勝てば官軍で白人時代ではなかったかもしれない。それを日露戦争で日本人が変えたから大変である。全世界を昔のごとく有色人、 特にわが日本人が戻さねばと意気込みで発表されたのが本書で、当時のドイツ皇帝カイゼルは本書によって、有色人は危険だと黄禍論を叫びもしたのである。

  当時の軍部のシベリア出兵も本書に啓発された上層部の意向といわれる。原爆を続けて落され、自信喪失の現代人からみれば、さながら荒唐無稽の天下の奇書とみるかも知れないが、 もし日本に火薬原料が鉱産されていて、連合軍に勝っていたならば全世界の有色人種はこぞって、   「日本のあらひと神こそ救世主である」と、木村の説くような、白人による世界史を覆がえす日本の世界史になっていた事であろう。 それなのにアメリカさんの御指導の賜物なのか、今は、「負けてよかった。ハンバーグがくえテレビがみられる」と一般は思いこまされている。   が、なんと言っても敗けたのはよくない。負けて原爆を二発も落とされた事を忘れてはいけないのである。 表向きは国連総会の一票のため独立国という事にはなっている。だが、進んでダンナさまの御機嫌とりする奴隷根性が、 日本では子供でもオバマやレーガンを知っているのに、向こうの第一線の報道関係者50名の中で、日本の首相名を言えたのは一人もいなかったのはテレビに放映され、画面にみな呆然とさせられた事だろう。  アメリカではNo51州とでも想われているらしい。その点この本は、ど根性のあった日本人が、各大学の歴史教授ごときは学者と云えぬ官学はサラリーマン。 私学は出たらめの茶碗などでの儲け屋で、「歴史とは過去の人間が勝手に作り都合よく伝え、今の歴史屋は唯単に伝承のつなぎ屋なり」と言い切って独自の史論を展開しているが、 もし日本が勝っていたら全世界が木村のひいた設計図のごとくになっていたかも知れぬ。 これは、まぎれもない事実であり真実であろう。

  ギリシャ語の対比表を前に掲げているが、紀元前アレキサンダーによってマレーシアからベトナムや雲南までがガレリイナとよぶギリシャの植民地で、 そこから古代日本人は渡来してきている子孫が今も国民の85%ゆえ、日本語にギリシャ語が混入し使用されているのは、この訳なのである。    本書のドイツ語は彼の訳書か、御雇い教師として日本へきていたドイツ人の書いたものか。英訳本はみているが私はフランクフルトまで探しに行ったが末見ゆえ何ともいえはしない。   しかし芹沢光冶良のごとくフランスでは著名だが日本では文壇外の人もいる。木村も日本より欧米で有名なのである。

さて、21世紀の課題として、先頃のマンハッタンの悲惨な事件に象徴される「宗教と民族の対立」が挙げれる。また、世界史的に俯瞰するなら「白人対有色人種」の側面は否定できない。 ここでは木村鷹太郎のこの二冊に触発されて書いたカイゼルの有名な「黄禍論」を是非読んでいただきたい。  人類は農業化社会~工業化社会を経て、今や情報化社会に入り、混沌の時代でもある。そんな時代に民族対立などで殺し合いをしていては、時間の損失ではなかろうか。 人類はもうそろそろお互いを「宥恕」すべきではないのか。「黄禍論」については項を改めてUPする予定。

古史古伝について

「日本書紀」と「古事記」の二つを「紀記」とし、郷土史家だけではなく、一般の歴史屋さんも、古代史を解明するのにこの二つを引用援用して、神典とまで崇め奉っているのが今の日本史である。 何しろこれしかないのだから、それらを唯一の原点としてしまい、歴史の解明とは本来なら「零からの出発」で有るべきなのに、日本では「紀記」を一として、「一からの出発」をしている。 極めて安易なやり方だがそれしか方法がないというのが今までの釈明である。しかもゼロックスもなく、木版で刊行されたのも江戸期の松下見林のもので、 それ以前は筆写に筆写されてきただけで、次々に政権が交替する度に、桓武焚書や時宗焚書にされている。

 古代史に新しい角度から突入して行こうとする官立大学出でない歴史研究家も居るにはいる。何とかして真実を追求してゆこうとして彼らは「紀記」を拠り所としている歴史書を 「これは正史に対する日本の偽史である」と勇ましく、従来の古代史研究家に警告する。しかし、文部省学校歴史に出てくるのは、 西暦712年になったという本居宣長説古事記伝と西暦720年に出来たとされる日本書紀の二つだけである。

しかしどちらも今見られ、参考にと引用や援用され利用されているものではないのである。正史など日本にはないのだから、偽史などといったしろものではない。 はっきりいえば共に創作されたもので、いわば宮本武蔵なみである。在野の古代史研究家の鹿島昇氏は次のように言う。 「日本書紀が白村江後の、新羅人による日本列島侵略隠し、という歴史偽造を行いそれが明治以降、日本人の差別感情を作った元凶である以上、書記の虚構を暴露し歴史の真相を回復しなければ問題の解決にならない。 何故なら日本書紀は百済史の漢字訳にすぎないからである。」

 同じく佐治芳彦氏は言う。  「日本書紀は戦前の皇国史観の聖書だっただけでなく、戦後も古代史アカデミズムの拠り所となっいる。たとえば古代史の最長老とされている東大名誉教授の坂本太郎氏などは、 古代の有る事件について幾つかの史料がそれぞれ異なったことを述べている時は『日本書紀』の記述を基準にする、というようなことを依然として述べている。 そうした点から書記をそのままにしては、学問としての日本史はまず絶対不可能といっていい。つまり、いつまでたっても書記の魔術的な呪縛から逃れることができないからである。 ヨーロッパのある哲学者が言ったように、魔術からの解放が科学としての学問には不可欠だからである」 もともと官製の日本書紀とは違う系列の、いわば反体制の史書ともいうべき古史古伝の研究者の中にも、この紀記を裏付けにしたい、つまりそれらとの符号点、一致点を見出して、 それを以て自分の研究を歴史学的なものだとしたい、と思っている人々が案外多いのも問題である。それでは古史古伝とは何かということになる。

【古史四書】と呼ばれるものには、  九鬼文書・竹内文書・宮下文書(富士高天原朝史)・物部秘史

【古伝四書】には 上記(うえつふみ)・秀真伝(ほつまつたえ)・三笠(みかさふみ)図象神理学の展開(かたかむなのうたひ)がある。

【異録四書】には但馬故事記・東日流三郡誌・忍日伝天孫記・神道原典の四書である。

 明治に入ってからは「富士宮下文書の研究(原題高天原)」が、工学博士神原信一郎著で「富士王朝」の実在を科学的に研究したものを出した。さらに浜名寛裕が偶然に奉天城内で入手した史料で「契丹日本史」を刊行。これらは古代史を解明する為には見過ごす事の出来ない史料である。非常に難解でありいきなり読むとUFOかと思ってしまう。しかし是非とも一読しなければならない。

 「紀記」しか認めようとしない文部省一辺倒の学会では、補助金で義理がけされているのか、師弟関係でリース時代から連綿と続く東大閥の権威なのか、学会ではこれらの古伝古書と共に、 浜名寛裕、神原信一郎のものはタブー視されている。 それにしても、国民の税金で喰わせて貰っている官学の教授が、勝手に学生を「弟子」だとか「門下」として、私用しているのは大変な思い上がりで、傲慢以外の何物でもない。 在野の研究家のものを一顧だにしない態度、巨大な象牙の塔でぬくぬくとして重箱の隅を突っつくようなことばかりは止めてもらいたい。 優秀な人材が揃っているのだから同じテーブルについて合同研究する位の、懐の深さを望みたいものである。それが彼ら国民の税金で養われている官学学者の義務ではなかろうか。

 以下に、在野の古代史研究家三人の著書を紹介しておきます。評価の仕方や細部の解釈は違う点も多いのですが、彼らが言う「紀記は偽造されたものである」という論は間違いではない。

【吾郷清彦著】日本超古代秘史資料(新人物往来社) ウエツフミ全訳(六巻)(霞ヶ関書房)直訳ホツマツタエ(大見屋)直訳ミカサフミ(大見屋) 九鬼神伝全書         (新国民社)

 【佐治芳彦著】 邪馬台国抹殺の謎 (新国民社) 漂泊の民山窩の謎 (新国民社)

 【鹿島昇著】 全訳桓檀古記(新国民社)神皇紀・富士宮下文書(新国民社)日本王朝興亡史(新国民社)

 上記御三方の著書は(特に鹿島氏のものは)かなりの数ですが、ここにその代表的なものをピックアップしてみました。  今や古史古伝はそれぞれ覆刻にされていて活字本で読めるので、我々素人でも勉強することが出来ます。吾郷先生の「秀真伝」などは大変な力作ですし、立派なご研究だと思います。 「東日流三郡誌」は、難解で読んでも何だか判らない部分も多く閉口します。 しかし、イロハニホヘトの鳥形文字の「リ」と言う文字などナスカの地上絵にそっくりなので、こうした問題の解明も重要だと思います。  (これが刊行された寛政年間という時代から見て、当時蝦夷奉行が公儀で設けられる事になったため、どうもそれへの就職したさのものであるらしいと思われるが、こうした点を留意しながら読む必要があるようです)

○史書は多くの真実の中に若干の嘘が混じっている。という前提で取組む人も 居れば、 ○史書は嘘の中に真実が混じっている。即ち、偽造しきれなかった部分を 見抜いてそこを突破口として展開する方もおります。いずれにしろ現在出尽くしている未整理の史料を分析することが大切です。

「甲斐富士文書」「甲斐古蹟考」「高天原富士王朝史」を紹介します。

 <神皇記>が<富士子文書>の資料を繋ぎ合わせ、山守(守戸)小佐野家の分家宮下の家に伝わっていた中から三輪義煕が纏めあげ、昭和五年に第三版を出したが偽書とされている。 しかし、富士川に沿って古代王朝の<富士王朝>の実存を証明したのは、工学博士神原信一郎である。

 彼は今の東電の前身である東京電灯会社に入社し水力発電の為、明治四十四年より富士山の裾野の冬河水流の研究に没頭。 大正五年に三輪の富士史、つまり富士古文書を読んでからその古代文献と富士山麓の比較研究をなし、昭和五年に最初の著作として「富士山の地質と水流」を刊行し彼は古文書を偽書扱いする無知蒙昧な歴史屋に、 その専門地質学から反撃した。

しかし黙殺されたので改めて「高天原」が富士なりと発表した。富士山の活火山だった頃の溶岩によって押し流されて消滅してはいるが、此処に現実に一大王朝の在った事実を、 地質学上から完全に実地証明して世に問うた。 しかし日本書紀や古事記には、富士山に木花咲耶媛が祭神として祀られている記載はあるが、大王朝が存在してボンベイの大噴火のごとく一瞬にして消滅したごとき記載は、紀記にはないからと、 「畑違いの工学博士神原信一郎の ごときが何をかいう」と歴史屋はこぞって皆黙殺してのけた。 長州の御抱え教師のリースが東大の前身開成学校の歴史教授となったが、明治十八年の博士号設定の際に、世界各国にある歴史学博士の称号をとても日本では認定出来ないと、あくまで反対して認めず、 「彼らは文字が読める程度ゆえ、文学博士ならば可」と妥協したと伝わるが、「富士王朝」を科学的に立証した神原は工学博士。  流入経路を誤っているが騎馬民族の江上波夫は考古学。聖徳太子や大伴に凝っている梅原猛も歴史畑ではない。東大で史学会を作っているが集めた本の復刻版の刊行だけで、 日本の歴史屋は全く何も勉強していないようである

【甲斐古蹟考】

 <富士王朝>や<神皇記>と共にアカデミックな歴史屋からは、学力や調査能力が無い者の作なので偽書とされている、大正八年刊の須田宇十のもので、富士王朝の実存を証明した労作である。 東日流三郡誌によれば、荒吐族よりたって日向族の神武帝の次に即位された綏靖帝の御代に、千余の捕虜を率いた向山本毘古王が、甲州の鰍沢か ら今の富士川の水流を山梨県側へ、 水運と水田用にと堀割りしたという向山家に伝来する古文書を解読して刊行したものである。だが原敬内閣の文部大臣中橋徳五郎の命令で、床次竹次郎内務大臣の警保局によって発禁処分とされた。 そして、事実無根として葬り去られ偽書と太鼓判を東大史学派によって決めつけられているが昭和五十五年に山梨県立の運動広場にするため整地中に、方形周溝群が土中から発見された。

 今でも昔の儘「大宮山」と呼ばれている現在の中道町の字名宮の上で向山王の死後三八一年後に、崇神帝が宮殿を造営。王の塚には「佐久神社」の名を贈り、六二九年後の雄略二年に改葬したのが、 「天神山古墳」として手つかずに現存しているのを、山梨県立図書館奉仕課長の中島茂氏さえも、「悲しいことに山梨県内の一部の郷土歴史家が『甲斐古蹟考』を抹殺するために、 この古墳をひた隠しにしたがっている。権力によって葬られた日本民族の真実の歴史が、今日では虚構によって生活を営み地位を保たんとする中央の学者個人の指図によって故意に今もその儘葬られようとしている」 と悲憤して書いている。

 九州の都城にも甲斐元町の地名がある。これは<日本部落史料>の本の中にも「西暦六六三年以降、日本原住民は橋のない川へ降参せぬ者達は追い込まれ、 やむなくシジミやアサリで飢えをしのぎ、それが今の貝塚で、この食料の貝も尽きた時「カイもなや」と絶望的言葉として今に伝わる」と出ているのでも判るように、 甲斐はカイの唐語の当て字であって、九州のカイ町も山梨の甲斐も日本原住民の居住地なのである。つまり大和朝廷は畿内という定説からそのためずっと黙殺され今日に及んでいるのである。

【高天原富士王朝史】

  今は太平洋側が海蝕で狭くなり日本列島は削られているが、昔は黒潮暖流が怒濤のごとく奔流する広さだったから神原一郎博士はその実証を富士山に面した海底噴火岩で立証した。  「紀記」が頭ごなしに徹底的に信じられていた頃。空から舞い降りてこられた日本人の祖先の天の神々は、昼は下を見て降りてこられたろうが、はたして夜間は何を目印に落下してこられたのかと、 若狭藩士あがりの伴信友を初めとしてみんなが民族の誇りというかエゴイズム思想で頭を悩ませたものである。その結果、まだ富士山が活火山だった頃、燃ゆる火柱を目標にして、降下されてきて 山頂は不便ゆえ麓に「天の王朝」ともいわれる高天原を造られたものだろうと推定を下したのである。それゆえ、 「宮下竹内文書」というのには、富士に王朝があって栄えていた故、滅ぼされた後は先住民族が軒を連ねていた処、という意味で他では千軒と呼ばれるが、此処では浅間(せんけん)と言うと出ている。 なにしろ漢字は皆適当に当てはめ、発音が同じならよかったものだから、文字通り誤って読まれているようである。

しかし「浅間三筋の煙」というように、他ではアサマと呼んでここと区別しているのはその為である。「天の王朝」というのは菊池山哉説では一つの大きな集団で来たごとくされているが、 実際は筏や小舟でばらばらに漂着してきているゆえ、富士王朝として清見潟の処に屯していたのもあったし、東海地方のアマ郡一の江辺りにも天のはあったし、  琵琶湖畔の淡海に有ったのもやはり同じ天ので、それらが連合しあっていたのである。「邪馬台国群連合」と戦っていた事になっている「八幡国群連合」というのはこの各地の天のの屯集していたのが、 互いに連絡しあって戦っていたのを指すのである。「天」の高天原は静岡から東海地区そして近江に散在していたのである。  次に史料として明治二十二年から二十五年にかけて刊行され、明治三十七年に纏められた完全復刻版、【史学会雑誌・日本歴史史資料大成】 を紹介します。これは珍奇本として古書相場で六~八十万円程ですが、日本シェル出版からA5判箱入りで四千八百円で出たものです。

 明治二十二年より二十五年にかけ、東京帝国大学の前身である開成学校の御傭教師アドルフらによって史学会が設けられ、史学会のゼミに史学会雑誌が刊行された。 今日の学校歴史の原点はここに始まり、そしてこれより百三十年にわたって「修身」と並んだ「修史」は一歩も出ていないのが現状である。 故に、拠ってくる処の渡辺世祐や星野恒、久米邦武、田中義成、島田重礼、丸山正彦小倉秀貫らの史観その他を覆刻し、もって日本史が今日の如く通史俗史でしかない問題を、改めて考究し直す為の原点の書である。

 次ぎに同じくシェル出版から同額で出された、

 【官武通記、桜田騒動記・幕末確定資史料大成】を紹介します。

 従来の維新史は明治になってから薩長側の人々によって作成された一方的な見方、つまり、自分たちに都合のいい歴史である。 だから薩長だけが美化されている。だがこれは、薩長側でない東北の仙台の頭取玉虫左太夫が、その江戸屋敷、京屋敷大阪屋敷の情報網によって蒐集したものを、 克明に報告書にもとづき状勢判断の為に書き連ねたもので、これを読まなくては公正な幕末史は把握できないといえる。  巻頭にはアート紙で写真版で原文掲載の「桜田騒動記」が載っているが、故尾崎久弥氏所蔵の牛の絵の付いた絵図が挿入されていて、伊井大老が桜田門で殺されたのは、 学校歴史では「安政の大獄に憤激した水戸の勤皇の志士たちによって暗殺された」となっているが、全く勤皇などとは無関係だった事も一目瞭然に判る。 奇書として扱うより幕末までの確定史料として見るべきである。


家康を狙った豊臣の忠臣 石川頼明 その存在が疑問の 石川五右衛門

2019-05-20 10:23:01 | 古代から現代史まで
その存在が疑問の 石川五右衛門
    
 
家康を狙った豊臣の忠臣 石川頼明
 
 
文中青字で『』の史料名は、古書として入手できるか、公共図書館で読める程度の資料として、一応その出典は書き込んでおいた。だから面白可笑しく読むも可。 またこれを基礎にして新しく日本史を見直されるのも結構と想っている。なお、日本歴史学会会長故高柳光寿博士著「戦国人名事典」にも石川頼明の事は書かれている。
 この石川頼明を五右衛門と間違ってもらっては困るので、最初に区別しておく。 もともと五右衛門のごときは、居たか居ないか明確に解りもしない存在なのである。 なのに今日何故にこんなに有名なのかと言えば、徳川家御用学者林羅山が、「山科日記の文禄三年八月二十三日の条に、本日京三条河原に盗賊十名の釜茹での刑あり これ珍し、とあるのが、石川五右衛門及びその一党を指すものである」 としてしまったのが事の起こりである。
 
この為後になって、 「豊臣秀吉公寝所へ忍び込み、千鳥の香炉を盗みださんとした処を、仙石権兵衛に捕らえられ三条河原で反逆罪で茹で殺しの酷刑にあったが、その時釜の中から『浜の真砂はつきるとも、 世に盗人の種はつきまじ』の辞世をを残した」というのが、江戸時代の 『禁賊神談義』という読み本となり、やがてこれが浄瑠璃の『釜が淵双ッ巴』から『石川五右衛門一代記』 になった。そして歌舞伎化されると「ああ絶景かな絶景かな春の眺めは価千金」と見栄を切る、『金門五三桐』そして『艶競ぺ石川染』といった舞台になった。 が、勿論それらは不敬にも豊太閤の寝所を襲った怪盗石川五右衛門であって、今のような忍術石川五右衛門ではない。
 
では、忍びの者の元祖といったようなのは何時出来たかといえば、これはごく最近の産物で、 「被圧迫者民衆の、権力へ挑戦するゲリラ活動」として日本共産党がその機関紙アカハタ日曜版に、連載しだしてからの事である。  つまり泥棒では民衆の代弁や代行者にはならぬから、忍びの術の名人としての立役者になったのである。
 さて以上が泥棒石川五右衛門、忍者石川五右衛門の作り出された過程だが、何故に徳川家康の御用学者林羅山がむきになって、「石川五右衛門とよぶ泥棒は実在した」と主張したかと言えば、これには訳がある。 「秀吉の寝所を襲った」ということにされている石川五右衛門の存在を、権威で裏書することによって、もう一人の、つまり、 「恐れ多くも神君家康公の寝首を狙った」処の、播磨、丹波で一万二千石の大名、石川掃部頭頼明の実在を消してしまえるからである。  つまり秀吉なら寝ているところを誰に狙われようが構ったことはないが、徳川家の開祖にして神聖犯すべからざる神君家康公が、 (女と寝ている処を忍び込まれ、寝首をとられかけた)というのでは穏やかでない。そこで藤原惺窩の弟子で初任給三百石から九百石まで昇進した徳川家の御用学者、林羅山としては、御恩返しにと、 居もしない架空の泥棒の実在説を学究的に立証し、もって石川頼明の影を薄くさせてしまったのである。  
 こういうのを今では政治的配慮というのだが、さてこの後、林羅山は神代から慶長十六年迄の通史を 『本朝編年録』として纏め、林鷲峰の代になって出来上がったのが『本朝通鑑』。 四十二年後これを底本にして作られたのが、新井白石の『続史余論』の三巻。 そして明治二十五年に伊藤博文の命令で出来たのが、今は正史とされる日本歴史は、この二種類を下敷きにしたものなのである。 だから石川五右衛門は正史では認められた男。 石川頼明は正史では抹殺された男になる。しかし『系図纂要』には、 「慶長三年三月、醍醐の花見に際し、西丸殿(京極氏、竜子)の護衛に、秀吉は寵臣石川頼明をつける」とあるし、「播磨史誌』には、 「この年(慶長三年)六月二日付をもって、当国の内、賀東、印南、笠井、揖西四郡は、丹波国多芸舟井、水上三郡の飛び地と共に、しめて六千四百五十石分、秀吉その近習の石川長松頼明に加増分として下しおかれる」となして、この二年後の『関が原御陣記』では、 「播磨、丹波一万二千石石川頼明は、伏見、大津城攻略に功をあぐ。」ともある。だから実在だったことは間違いない。
正史では石川五右衛門は居ても彼は居なかったことにされているのである。 これは気の毒で正視できない。それに『武家盛衰記』では、 「石川頼明は忍術の達人なれば、関が原合戦には加わらず大津城にあっては降参す、十月七日三条河原にて梟首といえど、その実は身代わりを立てての巧みな逃亡にて、駿府へ忍び込み日光様(家康)の御首を掻かんとす。松下常慶、その術を見破り危機一髪ににて捕らえんとするも その姿をくらます」とまで出ている。
 今でも駿府城へ参観に行くと、石川頼明が追い詰められて飛び上がって、身を隠したといわれる 門には、常慶門の名がついている。しかし、 「二百俵取りで台所役人の常慶ごときの名を、家康もくぐる門につけてあるのはおかしい」と出ている歴史書の類もある。
 がこれは石川五右衛門を知って、石川頼明を知らぬせいである。
      賤が岳七本槍は本当は九本槍だった
天正十一年二月二十八日。 北の庄の柴田勝家は陣ぶれをした。 秀吉はすぐさま江州佐和山城へ入った。そして羽柴秀長や甥の三好秀次を主に、藤吉郎時代から子飼いの尾藤甚右、神子田正治、一柳直末を軸とした、中国攻めの寄騎であった黒田直政、中川清秀、赤石則実を翼とする迎撃体制を整えた。 この時秀吉の小姓たち、福島市松、加藤虎之助、加藤孫六、脇坂甚内、片桐助昨、糟屋助右門、平野権平、桜井左吉、それに石川兵助の九人が大活躍をして、柴田勢に勝った。 しかし実際は、彼らが大活躍をしたから勝った訳ではなく、前田利家親子が裏切ったため、勝つことが出来た。これは『江州余伍庄合戦覚書』に書かれている。
これが有名な賤ガ岳七本槍というが本当は九人だから「九本槍」が正しいのである。 だから秀吉は小姓たちに対して、血縁の市松だけは差をつけて多く余分にしたが、他の者は 一律三千石を与えた。本当は九人なのに七本槍といったのは、織田信秀時代の「小豆坂七本槍」信長時代の「蟹江七本槍」といったのが、それまで評判をとっていたので、秀吉が巧くそれに合わせて呼称させたのである。
「今度、三七(織田信孝)殿の謀叛により、大垣に陣を敷いた処、柴田勝家が柳瀬にまかり出てきたため一戦に及ばざるをえなくなった。その時秀吉の眼前で一番槍を合わせた。その働き比類なく褒美のため 三千石ずつを、よってこれから忠勤をもって奉公をなすよう、領地を使わすものである。よってくだんのごとし、秀吉(花押)」 といったのを加藤虎之助から脇坂甚内に至るまで授けられた。これが、脇坂文書、加藤文書、平野文書にそれぞれ同文で入っているから本物で、『太閤記』などに書かれているものは偽物である。
 
 
 さて、この石川兵助だが、生きて居れば、他の者と同様にこの感状を貰い三千石に立身していた筈だが、 賤ガ岳西北方の切り通しで流れ弾を受け討ち死にしてしまった。 そこで秀吉は弟の長松に三千石を与えようとして呼び出したところ、余りにも兄と違って小さいので、 「三千石やらすと思っとったが・・・・千石にしておけ」と禄高を値切ってしまった。  しかし色黒で犬のような尖り顔の少年を、幼い頃の自分によく似ていると思ったのか、秀吉は「長松、長松」とそれからは側近くで召し使った。長松はこまごまと動き回り、運動神経抜群の上、良く気がつき秀吉はおおいに気に入った。  だから秀吉は、 「これ長松・・・・人は誰でも他人に出来ぬことを一つ位はやれないかんで、その身軽さを生かして鍛錬してみい」と云いつけたところ、それからは逆立ちして木登りしたり、屋根の上で蜻蛉返りまでした。 (この長松が後の石川頼明になるのである)
(注)三千とか一万石という単位がよく出てくるが、現代の感覚では良く判らないと思う。 一石とは米2.5俵に当たり、キロに直せば150kgになる。現在米1kgの値段は300~1000円である。従ってその平均をとって500円とすれば、1石は7500円になり、これが3000石となれば2200万円の収入となる。勿論、これは米3000石が獲れる土地の収穫権であり、丸々入る訳ではなく、諸経費を引くとおよそ7割と言われているから、1540万円だが、秀吉の小姓たちはまだ若く十八や二十代の若者にとっては大変な給与ということになる。           
 
 長松夜這いを見つかる
天正十八年。十五歳になった長松は元服。「石川頼明」として三千石に加増された。 『宇留島文書』というのには、 「石川一宗は賤ガ岳七本槍の一人であった石川一光討ち死に後、その兄の代わり感状と領地一千石、後小田原御陣出立に先立って三千石に加増さる」となっている。 一宗とか一光というのは兄弟の戒名からと思われる。  なにしろ芝居の地雷也、白縫姫、天竺徳兵衛といったフィクションとは違って「忍術名人石川頼明」と、 幕末までは唯一人、肩書き付で『武家盛衰記』に載っている実在人物なのである。
 さて、秀吉は天正十八年三月から、小田原攻めを始めたが、「なにもせいて力攻めをすることはないぞ」 と、部下の将兵にいい、自分も大阪城や聚楽第から淀君、西の丸殿を筆頭に三十余人の側室を呼び寄せた。処がである。 「えたいの知れぬ者が、夜な夜な女ご衆の寝て居る処へ忍び込みまするそうな」 といった奇怪な風評が五月頃に立ちだした。 「怪しからん奴である。今をときめく関白様の女ご衆の裾を狙うとはなんたる仕業てあろうか」と秀吉の旗本は皆張り切って夜になると見回りに出た。
 
 
さて、この時かっては秀吉の寵臣として、近江野州千石を振り出しに、六年後には淡路洲本五万石。 七年後には四国征伐の功績で讃岐一国十一郡を賜り、高松城主まで立身したが、翌年の九州征伐に軍監として出陣した処、豊後戸次川の合戦で長曾我部信親らを討ち死にさせてしまい敗戦。 よって、「この阿呆んだら」と秀吉の激怒をかい、讃岐十七万石を没収。高野山へ「謹慎せい」と追われていた仙石権兵衛秀久なる豪傑が居た。『寛政譜』によれば、 この時三十八歳の男盛り。そこで彼は、
 「なんぞ手柄を立てて太閤様の御勘気を解かねばならぬ」と秘かに高野山を下って徳川家康を頼ってその陣場借りをして身を隠していた。処がそこへもってきてこの噂である。 だから曲者を捕らえれば太閤様のお許しも出ようと、夜になると上臈衆の寝所周りを徘徊した。 そしてある夜、黒い影を見つけ、身軽に木から木へと逃げ回る曲者を西の丸殿の寝所近くでやっと召し捕り、 秀吉の本陣へ担いでいった。
 「そうか・・・・天網恢々疎にして漏らさずというが、よくぞ捕らえたぞ」既に寝ていた秀吉も喜んではね起き、 引き立てられてきた曲者の顔を見るなり「やや、長松ではないか」と面食らった。 この有様には、折角意気込んで乗り込んできた仙石権兵衛もすっかり落胆した。 「盗人を捕らえてみれば吾児なり。というが殿下の御小姓を捕らえるとは、この権兵衛の武運もこれまで」 と、とぼとぼと徳川の陣場に戻った。
 処が夜が明けると本陣から迎えの使者が来て、伴われて行った処、秀吉が待ち受けていて、「昨夜の事はさておき、其の方のわしへの心情はよう判った。また忠勤を励むがよいぞ」となったのである。 ・・・・これは『寛永系図伝』『豊鏡』に「天正十八年七月十三日、浪々中の仙石権兵衛へ新規に 信濃佐久郡五万石が与えられ、小諸城主に任ぜられる」とある。  この時十五歳の(長松)石川頼明がようやく大人なみになりかけた箇所へ、もぐさをのせて お灸をすえられ、熱い熱いと悲鳴を上げていたことまでは、それには記載されていない。
      家康御首頂戴
 慶応三年三月十五日の醍醐の花見の時は元気だったが、八月十五日に秀吉は亡くなった。 淀君には、淀城の城番だった頃からの大野治長やその弟たちもついていたが、西の丸殿には石川頼明しかついていなかった。 生前秀吉は醍醐の花見の時から、頼明を一万二千石の大名に取り立ててくれ、西の丸殿付にして 「もう懲りて何もせんじゃろう、しっかり西の丸を守れよ」と言いつけていた。
さて、九月十五日、美濃関が原にて、西軍と東軍が衝突し、西軍が負けた。 大阪城では淀君初め一同は顔色を青ざめさせて、「あの家康の狸親父め、いかなる難題を押し付けてくるやも」騒然たる有様だった。中には、 「故太閤が築いたこの難攻不落の大阪城に立て篭もれば、美濃より東軍が攻めてきても何のことはない」と大言壮語する者も居た。しかし立花宗茂らの九州西国大名は、敗戦の報に驚き次々と大阪城を出て行きこれでは城は在っても防ぎようとてなかった。  そこで石川頼明は、 「かくなる上は、手前が忍びの術をもって家康の首をとってくるしかござるまい」と一同を見廻した。 その昔。春に目覚めた頼明が、身軽に何処へでも潜り込めるよう鍛錬し、己の特技を生かして、小田原御陣の時に、上臈衆の寝間へ忍び込んで廻ったのは有名な話。
 そして普通の者なら即刻成敗される処を、特に助命されて今では一万二千石になっているのも、これまた知らぬ者は無い。だから居残っていた面々も、「しっかりやってきなされや」、と声援した。 そこで石川頼明は徳川家康を狙い東下りした。
 しかし警戒は厳重でなかなか近寄れずだったが、それてもようやく駿府城へ潜入できた。 が、そこで松下常慶に間一髪の処で発見されてしまい、不運にも取り押さえられ、無念や打ち首にされてしまった。決行しても成功と不成功では大変な違いである。
 もし石川頼明が運よく成功していれば、徳川時代の代わりに豊臣時代が長く続いたろう。 そうなると彼は今も有名で「石川頼明は大忠臣だった」となり、修身の本にも載っていただろう。想えば惜しいことである。