高松塚古墳はカマクラ(住居)だった。
高松塚古墳はカマクラ(住居)だった。
タイ民族の日本移住
「シャモ」というと、現代のタイ国の古名が、「シャム国」または「シャモロ国」といわれ、昔はカンボジアから今のベトナムまでの版図をもつ、広大な国だったが、そこと日本とは関り合いが有ったのだろうか。これまでの日本歴史では、 「山田長政がシャモロ国へ渡航し、のち六昆王となり、元和七年(大坂夏の陣六年後)九月に、時の老中筆頭土井利勝に、新煙硝二百斤と虎皮の進物を届く」 と江戸中期になって、国交が初めて開け、江戸誓願寺を宿所としたシャモロ人が、山田長政の使者にきた旧九州浪人伊東久太夫を、通弁として貿易を始めたようにでているが、その以前からも、交流はあったものだろうか。
「ベトナム戦記」のニュースなどを見ると、日本人そっくりの容貌をしたのが多いし、また、キック・ボクシングの試合でも、よく日本人に似たタイ国の選手が出てきて、びっくりさせられる。どうして東南アジア系は同じ有色人種とはいえ、ああまで日本 人の一部にそっくりなのだろうか。またかって日本人がベトナム戦にわが事にように心を痛める関連はなんであろうかと疑いたくもなる。 というのも、実際の処では徳川時代は、すべてが各藩単位で日本全体の歴史などはどうでもよく、「日本歴史」なるものは、明治二十年代の後半から四十年代までにかけて纏めあげられたものなので、どうしても、日清、日露の二大戦争で、 (下関----関釜連絡セ船----釜山。そして京城から新義州。鴨緑江から南満州鉄道で奉天) といったコースが、強烈に植え付けられた歴史になっている。また、それが大衆にもすっかり馴染みになってしまったせいか。
しかし、そんなに大勢の異邦人が、一度にどっと南の国から、「今日は」とやってきたら、これはどうなったろうか。現代の感覚なら、万博かオリンピック見物といった受け取り方もあろうが、昔そんなものが有る筈もないから、とても歓迎されて、「ウエルカム」と招じ入れられるような事は、いくら古代でもまあなかったろう。となると友好的に入国できたという事実は、観光目的でなければ、彼らが今日の国連軍のような恰好で堂々と進駐してきたものと、みなすことは飛躍であろうか。 また、それ程の大掛かりな進駐が有った裏には(何か突発事が有ったものと見なしうる)といった事実を意味すると考えてはいけなかろうか。これまでの日本歴史では、「仏教伝来は宋の国から、唐の国から」と、中国からみな来たことになっている。 が、あれはどうも誤りではなかろうかという仮説のもとでのことだが、 「中国から印度まで」の間を現在旅行してみても判ることだが、もっとも仏教の盛んな国は、それは朝鮮でも中国でもなく、なんといってもカンボジアとかタイである。なにしろ1970年9月5日の外電によれば、ベトナム解放軍の女兵が全裸体となって前線に現れたそうである。するとである。
(女人の裸体を己れの眼で見ると、戒律によって仏果がえられず、仏罰をうける)と教育されているカンボジア兵は、そのため、みな狼狽して、 「眼の汚れになり、色慾を勃起させては、御仏の戒めにそむくことになる」と、みな視ないように眼をとじてしまい、とてもこれでは迎撃にならず、次々と解放軍に攻め落とされ弱らされているとのニュースが伝えられている。 日本では黄ばく宗というのか、茶道具を包んだりする時に用いる、黄赤色の布地の長いのを、肩から曳ずり気味の托鉢の群れが、バンコックの町へゆくと集団で朝は町に溢れている。
男は成人式みたいに一度は仏門へ入って、こうした修行をして仏果をうるのだそうだが、ぞろぞろ歩いているのは壮観である。 だからして陸路重点に考え、仏教伝来は中国からとみるより、釈尊の生まれたもうた本場のインドや旧シャムロのタイから、船舶民族によって吾国へ直接導入されたというような、発想はできぬものであろうか。 そうでないと足でキックするような相撲の原点は、やはり貿易風によって彼らに持ちこまれた体技としか思えないからである。
そして、キックボクシングや、シャモとよばれる軍用鶏をもちこんだ民族によって、それまでの騎馬民族系はとうとう征服されたか、または、「仏の功徳」によって折伏してしまう世になったのだろう。このため対抗上、クダラ系の人々は、「韓(から)神」さまを守って、仏派に対して各地に分散したらしく思われる。もちろん既得権益を守るために、朝鮮半島からの人々は結集もしたのであろう。 そこでシャモロ側も、「護法」のために貿易風を利用して、大兵団を日本へ送りこみ、彼らは、その当時クダラ系のコロニーであった河内から八尾方面を、まっ先に占領したろうことも考えられる。 そうでなくては、今もその地方に、闘鶏として、南方系軍用鶏が飼われ、「河内名物、軍鶏のかけ合わせ」となった由来が判らなくなるのである。 そしてバラバラのタイ国米になれていた彼らは、日本米のべたつくのに弱って、便箋の代わりにに用いていた木片の古いのを削って、これで飯盛りをしていたのだが、文字が残っている物もあったからして、「文字のついたシャク」ゆえ「シャモジ」 と転化し、それゆえ海路安全の守護神である安芸の宮島の厳島神社が、現在に到るも、日本全国のシャモジの75パーセントまでの製造販売を独占しているのかも知れない。
日本美少年の系譜
今年で三島由紀夫没後48年になる。 先日テレビで放映されていたが、何故彼のような優れた才能があのような 壮絶な死を選んだのかの分析は甘く、まるで本質を突いていなかた。 また、故三島由紀夫氏の遺書が発表されてもいる。私たちの年代の男にとっては 氏の市ガ谷での割腹自殺(実際の死因は日本刀による斬首だったが)の報道に 驚愕したもので、その遺書を今読み返すと氏の苦衷が読み取れ、心が痛む。
文中には「全員あげて行動する機会は失われた」 「状況はわれわれに味方しなかった」とあり、氏の客観的な分析も窺える。 同時に日本の将来を憂い、当時の日本の姿を 「魂のとりかへしのつかぬ癌症状」と、とらえ、傍観しか出来なかった 「やむかたない痛憤」を少数の行動で代表しようとしたと、事件の動機を 語ってもいる。 そして、将来の日本が「少数者の理想が実現する」事の期待を述べ「天皇陛下万歳」と結ばれている。
私の蔵書に氏のものは「宴のあと」「美の襲撃」「音楽」「肉体の校」 「金閣寺」「不道徳教育講座」「豊饒の海」位だが、流麗、華麗なその文書は 今でも大好きである。 頭脳明晰な氏は、自分の遺書が後世必ずや公開される事を読んでいただろう から、こうした美麗な内容になっているが、少し違った視点から、 ここで私なりの分析をしてみたい。 (私は三島氏と日本の高度成長期を疾けぬけた、同時代の同士として、 また、氏の理想に共鳴した一人として、ここに改めて”合掌”する。) さらに先ごろ三島の死の九ヶ月前に対談した本人の録音テープが見つかった。
そこにも複雑な氏の気持ちがにじみ出ていて「僕は油絵的に文章をみんな塗っちゃう。日本的な余白ってものができない」 川端康成の作品に対しては「恐いようなジャンプをします。僕には書けない」とも語っていた。 卑下しているようにも見れるが、日本語を自在に操る三島の華麗極まりない文章は今も愛読者が多い。 こうした心理の変遷に思いを馳せながらの考察を、再度してみたい。
何故悲惨な切腹を選んだのか
切腹についての有名な本に新渡戸稲造作桜井鴎村の「武士道」がある。 日本語版が出回ってから、迎合してあらゆる歴史上の知名な武将は、みな最期は 人手にかからず自決。しかもみな割腹となった。 そしてどれも言い合わせたように勇ましく、中には腹中から臓物をちぎって投げるのや、腹筋は横に裂けるから一文字なら切れるのに、柴田勝家などは縦割にしたり、丁重なのは十文字に切らせてしまった。 これは「武士道」の本の中にはっきりと、 「コンスタンチン大王の見たる徴・・・・・十字」と出ていて、さながら切腹の最高は十字切のようにも感じられたからだろう。 だが、そうした切方だけでなく、死せる子は眉目よかりの筆方で、皆死に方を美化しすぎてしまった撼みがある。
さて、日露戦争終了後と共に、お役御免とばかり「武士道」の出版社裳華堂は無くなった。 しかし、単なる営利目的ならまだ売れるかもしれない「武士道」である。 だから解散した裳華堂の一人がその紙型を持ち出して独立した。 これが第十版以降の版元となる丁未出版社である。 大正三年の青島出兵からシべリア出兵。そうした時代が続いたから、やはり武士道や切腹は必要視され本は良く売れた。 だが、大正十二年九月の大震災で紙型は焼失した。 だから昭和十二年に研究社から、組み改めて刊行されるに際しては、新渡戸の未亡人の手紙を序につけ新装出版された。
そして昭和二十年の敗戦の日まで、この「武士道」の本は星ひとつ二十銭の文庫本にまでなって広まった。 学徒出陣の恰好で営門を潜った二十歳の日の三島氏も、この本は持っていったろう。何しろ当時の学徒兵は一人残らずと云って良い程に、潔く死ぬためのテキストとして この本を読み、そして持って入隊したものだからである。 処が、彼は身体検査の結果、せっかく勇んで赴いたのに即日帰郷を言い渡された。この挫折が、彼をしてボデイビルをやらせたり、剣道にいそしむそんな型の男に自分を変貌させ、やがて二十余年後には「尚武の心」を説く作家にさえした。
幼時に玩具をあまり買ってもらえなかった男が、成人してからプラモデルに凝り、子供みたいに 熱中するように、かって即日帰郷として、追い出されるようにして帰った記憶を持つ彼は、 「自衛隊」と名の変わった兵営へ出入りをし出した。勿論有名作家の彼のことゆえ、 「木戸御免」といった具合に、歓迎され大切にもてなされた。 もし兵制がはっきりしていなかった日本の明治初年や、又は南北戦争当時の米国なみに民間人から一躍抜擢され「大隊長」ぐらいにスカウトされたら、恐らく純粋な彼は、「はあッ」歓んで引き受けたに違いない。と書くと、まさかと否定する向きも多かろうが、 野坂昭如も「歌う直木賞作家」の看板で、歌とは程遠いガナリで一日十万円のギャラで、キャバレーに出演していたのだから、ノーベル賞候補作家といわれた彼が「ものかき大隊長」になったとしても、現代でも可笑しくも何とも無い。 処が、今の自衛隊は、新兵募集にはすこぶる熱心だが、隊長クラスの人材については関心が無く、あたら折角の好軍志望者を、部下協力者としてしか扱わなかった。
つまりPRには利用したが、彼のひたむきな心情を無視したらしい。 これは彼として詰まらなかったろう。 これまで映画に出るといえば「からっ風野郎」では主演だったし、「人斬り」の田中新兵衛の役も回ってくる。 シャンソンを歌いたいといえばどうぞと舞台へだし、拍手喝采されできた彼としては、ただ利用されているような扱いに不満だったのだろう。 そこで、「それでは」といった考えが、やがて彼の言葉を借りれば、 「世界最小の軍備なき軍隊」となって誕生したものだろう。発会式の日、彼はたとえ少数 とはいえ、自分の率いる形のグループに満足して、晴々しく査閲をした。しかしである。
やがて隊員の彼らは、自分らにあてがわれたセンスの良い見事な隊服だけでは満足せず、服にマッチするユニークな内容、つまり精神面をも隊長である彼に求め出した。 これは彼としては期待などしていなかった事ではあるまいか。何しろ彼は、 (絶対服従して召集の時だけさあっと集まって分列行進をする・・・・彼の考案した制服に 似合えば良い青年)だけが欲しかったのであり、己の年齢の半ばにも満たない彼等を、「同志」として迎えたわけではなかったかもしれない。
とはいえ、彼は一人だが学生は多く、やがて突き上げられていったのかも知れぬ。 さて、当時の盾の会の人気たるや凄まじく、何しろ彼は女子大生に圧倒的な人気があったから、文科系の大半は彼を卒論のテーマに選ぶといわれた。 だから、この会に入れた男子学生が如何に女子学生から羨望の目で見られたか、モテたか想像できよう。そうした結果が・・・・・・・ その作品は読まなくとも、作家としての名声に憧れる若者達から、入会希望が続々と寄せられてきた事である。
普通、会費や入会金を徴収する所ならこんな喜ばしい事は無い。しかし氏の会はそんなものは取っていなかった。それ処か、一人に付制服軍帽共で第一回の時でさえ4万円掛かったという。だから台所は苦しかったろう。といって、窮状を気の毒がって、氏の会へ寄付するような大会社もなかった。ペンは剣よりも強し、とも謂うが一本のペンでは会員一人の支度に 一枚8000円の原稿料で5枚書かねばならぬ。大変だったろうと同情を禁じえない。
その内、各隊編成となって隊長制をとるようになってから、一応隊長へは5万円程度の月給にも似た手当て制となった。そして一般にも交通費として1万円位は支給されるように改定された後は、その経費は膨大なものになった。 だから夏頃からは1ヶ月の出費が300万から400万とも、密かに噂され出した。なのに9月頃になると、若干の手当てがつくらしいと噂が広まった為、さながら アルバイト気分で「来春大学へ入ったら入会したい」と高校生の申し込みが増え、隊長達が選考した採用予定候補者は、10月初めには100を越していたそうである。 100足らずの隊員を抱えているだけでも、四苦八苦なのに、それが倍加したらどう賄うかといった悩みは氏には在ったろう。いたわしい話である。つまり、 「あらゆる破局は、経済的破綻から生ずる」といわれるが、誰も指摘しないが、 これも一つの理由ではあるまいか。
勿論20代の男は、受験に失敗したり女に逃げられても、それだけで、「くそ!」と忌々しがって 憤死できる。しかし45にもなると、一つや二つの腹立たしさは堪えてしまえる。よく、(若者は遺書を残すが、中年過ぎの自殺は何も言い残しも書き残しもしない) と言われるのはこの為で、理由が沢山ありすぎて、とても整理して言伝する気も無くなるのか、 又はそうするのさえ忌々しくなっての、どちらかであろう。 が、次の理由はどうも「葉隠」ではあるまいかとそんな気がしてならない。なにしろ「武士道」が昭和13年に、文庫本として刊行された後、直ぐその後を追うように 同じ文庫本から出たのが「葉隠」で昭和15年4月である。
これを当時、双翼の書とか両輪の書と言って、入隊すれば「戦陣訓」だが、それ以前の若人の間では必読書とされていたのである。 だから氏もこの影響を非常に受けていて、 「武士道というは、死ぬ事と見つけたり。二つ一つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり」という葉隠聞書第一ノニの一節をよく口にして語っていたというから、 だからこれが起因となり「武士」をもって自認していた氏は、「死ぬ事と見つけたり」と壮絶な死を選んだのではなかろうか。
さて、氏を自殺に追い込んだ誤った歴史を教えた歴史屋達は無責任な嘘をつき、あたら優秀な頭脳を失ってしまった。ここで彼らをこそ糾弾したい。 しかし私は天晴れな死に突入した、氏を非難する者ではない。 市井に、国を想い、国を愁うる人間は多い。しかし、この国を建て直す方法は”平成維新”しかないのだろう。三島由起夫氏は、46年前に現状の日本を予見し警鐘を鳴らしていた。しかし改革の方法を誤ったのだう。 ともあれ、新世紀へ入って早17年目に入り、この遺書の意味を改めて考えて見るのも今必要なのではあるまいか。