新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

高松塚古墳はカマクラ(住居)だった。 桃源郷が藤原京 松本清張の説は卓越していた

2019-06-29 12:25:50 | 新日本意外史 古代から現代まで

    

     高松塚古墳はカマクラ(住居)だった。

 
 日本は万世一系の国だが、株主総会で役員が変るごとく、王朝も天(あま)の朝は天照大神を最後に、崇神、仁徳、継体と変遷がある。 さて、高松塚古墳が作られたとみられる飛鳥朝の欽明、推古期は、六世紀の後半から七世紀へかけてである。
その欽明朝は、継体帝第四子天国排開広尊だが、もちろん上にアマの字がついても、これは『日本書紀』を作った藤原体制の都合での命名で、天の朝とは無関係である。  なにしろ日本列島は、この時代から、 「世の中が変わった」という現象を示し、仏教が入ってきたり、唐風にすべてが変り、 「弁髪」と称して男でも豪い人は三つ編みのお下げを、だらりと垂らしていたから、「‥‥長い物には巻かれろ」とする日本人的精神が地下(ぢげ)人達の間にここに芽生え、今でいえば英会話学校のようなのが出来て、そこで、会計や計算を、 「イ、アル、サン、スウ」とやったものらしい。
 今日でも数の数え方を、「算数」とよんだり教科書のタイトルにするのも、その頃の名残りである。もちろん若い人は物覚えが早かったが、中年以上の者はそうはゆかず、といってカンニング・ペーパーを作ろうにも紙があまりなかった時代なので、木片を削って、「何であるか‥‥シヨマ」「判りました‥‥ミンパイ」「早く‥‥カイカイジー」などと、会話早判りを細かく書きつけたものを、みな持ち歩くようになった。
しかし、あんまり大きなのを担ぎ廻っては後の主婦連に間違えられるから、その範囲を一坪つまり3.3平方メートルの百分の一以下に定めて勺(しゃく)とよんだ。 今では何坪何合何勺といった使い方をされ、木片の方は「笏(しゃく)」の字が当てられている。イチイ、ヒイラギ、桜といった書き直しに便利な削りやすい物ばかりだけでなく、竹の太いのも使われていたのだろう。 しかし明治になると、この笏のすこしの大小でも問題になり、「爵位」となって、お公卿さんは公、侯、伯、に分けられ、旧大名は子爵となったのである。  さて、高松塚古墳は、ちょうどその頃のものゆえ、壁画のカラフルな美人画が、カラ風(ふう)な下ぶくれ型であっても別に可笑しくない。  しかし、藤原氏は天下を握りだすと、「カラ=唐」という用語は禁じてしまい、「韓=カラ」と呼ばせるようにしだした。 いわゆるカラ神と称されるのが、高句麗系だったり百済のであるのはこのせいである。
 
                  桃源郷が藤原京    (漢字の当て字に惑わされてはいけない)
 
そしてカラを韓にすり替えただけでなく、「漢」の字も、天の朝に似通ったアの発音をつけてアヤと称せしめた。『延喜式』などの「今来漢人(いまきあやひと)」も、漢つまり唐から来たばかりの新知識というのではなく、百済人をさして用いている。 つまり作成者の都合で、カラはすべて、みな唐ではないように書かれている。では、日本史で彼ら自身のことは何と自称したかといえば、そこは漢字の国の出身ゆえ、 「トウはトウでも、藤」としたものらしい。
うがった見方をすれば、春夏秋冬季節の移り変りがはっきりしていて、当時はスモック公害もない日本列島へやってきて、「これ、桃源郷か」と、「トウゲン」とよび、それが藤原の名のりになったのかも知 れぬ。なにしろ高松塚古墳の見つかったところも、「藤原京」というが音読では「トウゲンキョウ」なのである。
 
 なにしろ日本では明治中期までは、「漢字は当て字、つまり発音さえそれで通れば差し支えない」とされていたので、新選組が新撰組になったり、今の秋刀魚も昔の『浮き世風呂』や『吾が輩は猫である』 では、三馬と書かれているくらいのものである。
誤字とか当て字がうるさくなったのは、入社試験の問題にフルイとして意地悪く使われ出した時からで、まるでそれが常識や教養を計るバロメーターなみになったのだが、昔は、当て字どころか当て絵で、暦さえ出来ていた程である。
 
さて、今ではあまり豪くはないらしいが、かつては家長として威張っていたのを、「トウさん」とあがめて呼んだり、 「良家の子女」つまり京都大阪方面の、大きな商家の娘に対して、 「嬢さん」と文字はかくが、これを、「トウさん」「トウはん」とよぶのも、現代ならば、やはり「唐さん」と書かねばならぬところなのだろう。なにしろ河竹黙阿弥の、『白浪五人男』の浜松屋の店先の場でも、 「これは、トイチな御嬢さま」と、江戸でも判るような台辞になっているが、この場合でも字を当てるなら、(唐でも一番の)といった最高級の賞め言葉であろう。 「といち、はいち」といった俗語もそれからでているし、『枕の草子』に、「近衛の中将を、頭(とう)の中将と申しはべる」とか、「蔵人の頭」というのもあって、 「頭はトウ、つまり唐」を意味するから、最高位をやはり公家ではそう発音し、適当に当て字をして用いていたものだろう。
 また、人形屋やデパートの宣伝で、「ひな祭りは古くから宮中でまつられた由緒正しき奥ゆかしいもので‥‥」と勿体をつけるけど、御所が平安京の京都にあった明治までは、絶対にそんなことはないので ある。『続日本紀』によれば、
 
 
「唐武太后の故事をしのび神護景雲元年三月三日より、文士を西大寺法院に集め、帝は曲水の賦をなさしめ、頭初(第一位)に賞扶を賜わる」とさえ明記される。 『事物起源』では、だからして、「三月三日は曲水宴[きょくすいのえん]とよび、御所では流水に漢文の七言絶句の色紙を浮かべ、文武百官酒盛りをなす。夷祭は明正帝の御代のみ、御生母中福門院 (徳川英忠の娘の和子)がなせしが、その後は忌み嫌われて、これは斥けられる」と出ている。
 つまり内裏さまや親王さまが並ぶお白神の元型で、今のこけしの原点であるお雛さまであっても、三月三日、御所で行われる唐武太后の曲水宴には、到底うち勝てなかったくらいである。 「トウ」と名のつくものは、つまりすべてにおいて立ち勝り豪かったのが、高松塚古墳のできた頃から始まった日本風俗なのである、といっても決して過言ではなかろう。  さて、日本史の根本資料の『日本書紀』では、 「日本には確定した国家が既にあって、そこへ唐に滅ぼされた百済などの人間が、現在の言葉でいえば逃亡奴隷のごとく、亡命してくるのを帰化人として受け入れ、それらへ保護を加えた」といったような書き方をしている。
 
しかし、これは藤原体制によって編さんされた歴史だから、彼らに百済人が降伏帰化したのがそうなっているだけの話にすぎない。なにしろ三韓時代から一衣帯水の距離にあった日本は、そのコロニーの状態だった。
つまり、弁韓、辰韓、馬韓の三つが、それぞれ日本へ植民地を持っていたらしい。その名残りは、 「ムネサシ(胸刺)の国が、今の埼玉」 「ムウサシ(武蔵)の国が、今の東京」 「サネサシ(実刺)の国が、今の神奈川県」 の例は前にも述べたが、サネは、「首城、主城、中核城」をいうのだろう。 「むね」とか「むう」というのは、その後、「仰せをむねとし」とか「むうと念じ」などと日本語に転化し、「さねさし」の方も、「相模の枕言葉」とされていたが、やがて、「女性自身の枕言葉」とされていたが、やがて、 「女性自身の中核」をさすようにもなる。つまり日本中が、かつては、 「備前、備中、備後」「越前、越中、越後」「羽前、羽中、羽後」とよぶごとく、三つに分かれていたのも、なんといっても三韓の頃の名残りであろう。ということは、 俗にいう、「神功皇后の三韓征伐」などは、本当のところ三韓よりの征伐であったのが正しかろう。
 
 
 しかし大陸の魏が乱れ五胡十六国に分かれるような世になると、朝鮮半島に鼎立していた三韓も、次々と唐に滅ぼされた。 オランダがナポレオンに屈伏した際も、日本の長崎の出島だけには、オランダ国旗が世界でただ一流はためいていたというが、普通は本国が滅ぼされると植民地も奪われる。 それにフランスから長崎では速すぎるが、中国大陸から日本はきわめて近いのである。 『日本書紀』の「天智紀」に出ている処の、「白鳳二年八月二十七日、吾軍唐軍と白村江に戦って利あらず」とされる六六三年が、どうも日本へ彼らの進駐の、きっかけを与えたものではあるまいかと想われる。  つまり、高句麗らの北鮮系を追い、南鮮系の百済人がもっとも勢力をえていて、「百済にあらざれば人にあらず」とされ、 「百済ではない‥‥詰らぬやつ」というのが、「‥‥クダラないやつ」と今でも訛って残っているくらいの権勢をもち、百済語で、「国」を意味するところの、ナアラをもって、「奈良」の都まで建てていたのが、次 第にその勢力を増してきたトウ氏によって、「本国の百済はすでに滅び亡国の民のくせに、汝らはよい加減にしたらどうや」と、せっかくそれまで営々として築いてきた地盤を、百済人が奪われてしまうのが、ちょ うど高松塚古墳が出来たと推理されている八世紀の初頭に当たる。   
 松本清張の説は卓越していた
つまり紺屋の白袴というのか。これまでの文部省検定パスの自分の本が、教科書として売れなくなるのを怖れてか、歴史家の肩書きをつけられる人は、まだ、「遺骨は帰化人貴族の百済人か?」などと、臆面もなくコメントを発表しているが、 その点はっきりと作家の故松本清張は、 「日本と朝鮮は、同一民族」の説をうち出している。つまり、その意見は、「皆が思っているように吾々が朝鮮文化を吸収したのではなく、もともと同一民族で極言すれば、日本は朝鮮から分かれた国で、対馬海峡があるので向こうが動乱のとき 日本は独立し、先住原住民の風習を融合しより日本的になった。つまりアメリカが英 国から独立したごとく‥‥」というのである。
 
凡俗の歴史家の述べるところよりは卓越なものである。 だが、竿頭一歩すすめれば、これでも違う。 つまり八世紀に大陸から独立をしたのは、なにも日本の国そのものではない。進駐してきていた藤原勢力が、「もはや、われらは唐ではなく藤である」 と、彼らは勝手に独立したのだろう。征圧されていた高句麗系の北鮮人や、土着の 天の朝系の西南種らの日本原住民を、奴隷化して、ここに独立したのである。 いうなれば、故マッカーサー将軍以下が、あのまま住みついて日本各地に、その後も基地を置きっ放しで、新アメリカ日本州として独立させてしまったようなものである。
 
 
さて、日本古代史が専門という井上光貞説では、「七世紀後半の物と高松塚古墳は推定できる。八世紀に入ってからとは考えられない。 文武天皇の時から火葬になっているのに、高松塚には骨が残っていない」と、きわめて明快だが、これではあまりに単純すぎる。東大で講座をもっている方の説だから傾聴したいが、どうも感心しない。これは六国史の中の、 『日本文徳天皇実録』の中からの援用だろうが、高句麗人は西南系土着民と混じってから、「拝火教」の宣撫をうけ彼らの火葬に同化するが、百済人は土葬であって、これは858年の文徳帝の死後も、河内交野を初め百済系の多かった墳墓の発掘によっ ても、明白にされていることである。
 
それでは、その首級のない高松塚古墳の遺骨が誰なのか? つまり何族人なのか?というので、いろいろ談義されているが、草壁皇子にしろ高市皇子であっても、百済人であるとみれば問題ない。 それを七世紀後半の日本列島に、ちゃんとした日本国が厳然としてあって、そこに、「日本人」とよぶ民族が既に今のごとく、存在していたとするからすべてが可笑しくなる。 つまり『日本文徳天皇実録』をも含む六国史が、渡来したトウの人の漢文によって書かれたものと正確につかめず、それを、(日本国なるものがイザナギ、イザナミの二神によって、天の浮橋より天の鉾にて創 られた時から、ある程度の国家形態をととのえ七世紀まで確固として存続。
 
百済が滅びた時も断固武力にて本土防衛をして、亡命した帰化人を保護し得るだけの実力があった) とするような妄想に取りつかれるからして、ために種々の揣摩臆測が出るのだろう。
「皇子」なる文字からして、どうも誤まるのだろうが、 『日本書紀』の中でも堂々と、中大兄皇子が蘇我入鹿を大極殿で仆してしまう条を、「韓人、鞍作りを殺す」と、中大兄皇子のことを頭ごなしにそう呼び、後に皮はぎして馬鞍や馬具作りとなる北鮮系の、騎馬民族の末裔の蘇我氏を侮るごとくに書いてい る。だから、その遺骸から首級がなくなっているのも、埋葬後何人かが入って荒らしている事実も、盗人の仕業ではなく、つまり、「政争で世の中が変わり、敗者となり反体制となった被葬者への、制裁か報復での墓あばきとみられる」と、奈良県種原考古学研究所でも、高松塚への意見を発表している。 ということは、これも、 (クダラ系が押さえていた天下を、やがて藤原氏と自称する唐からの人たちに奪われ、かつては吾らの事をさえ、クダラでないのはクダラねえと罵りおった不届き者め‥‥) と、その墓を荒らされたのだとする裏書きともなるのだろう。
 
 なにしろ高松塚古墳の場所が、「藤原京」ともよばれた橿原の朱雀大路の下ってきたところ。大極殿の建物のあった個所から真っすぐの地点にあるゆえ、そこの地元の研究所の意見は正しかろうと想える。 また、被埋葬者を、持統・天武の御子、とされる草壁皇子や高市皇子とする推測の他に、 「天武帝の九番目の御子の刑部親王」ではないかとする説も出ている。
しかし、後の戦国時代以降になっても、藤原体制の公家なるものは、七世紀から八世紀へかけての彼らの建国の際に、あくまでも抗戦したゲリラの末裔。つまり捕らえ た後、「別所、、院地、院内」の名でよばれた捕虜隔離収容所へ抑留した俘囚の子孫の武家に対しては、それが大名でも、
「清掃人夫取締役----掃部守(かもんのかみ)」
 「配膳台所勝手役----内膳正(ないぜんのしょう)」
 「水くみ運搬の役----主水正(もんどのしょう)」
 「税金を徴収の役----主税(ちから)」
 
そして、現今と違って裁判官を、他から怨嗟の的となる嫌われ者の役としていたから、 「弾正」の名称で、武家につけたが、「刑部」も、おさかべとは読ませたが、今でいうなら捕物に向かう刑事のことで、これも、やはり嫌われ役として武家に限った。 これは、千金の子は盗賊に死せず、とする中国の格言からきていて、「トウとい藤原氏の子孫のする役ではない」 と定まっていたものである。なのに、その刑部をもって名とされているという事は、いくら天武さまの御子でも、その御生母がぱっとしなかったせいではなかろうか。
また『日本書紀』の持統帝五年の記に、 「百済王義慈の伜にて持統帝より、百済王の名のりを許され公卿となって、飲食物や衣裳などを拝受した」とでている善広が、その遺骨の主ではないかとする説もある。 だが、みなれっきとした百済系ゆえ、これなら火葬してないのも当然だし、壁画の女人が、顔は唐風でも、チョコリ[チョゴリ]やチョマ[チマ]を身につけているのもうなずける。 さて、木棺を布で巻き、漆をかけた棺として発見されたので、墳墓と扱われている。
 
 しかし宮殿や公共の建物、社寺は別として、十一世紀頃になっても、日本人の一般は堅穴を掘って生活していたのは事実である。 百済人もまた横穴を大きく掘り、石材で周りをかため、住居にしたのは、建築技術の進まなかった当時、冷暖房上きわめて自然だった。 という事は、棺があっても墳墓でなく、マイホームだったかも知れぬという疑問である。 なにしろ、そのマイホームの事を古代朝鮮語では、「カマクラ」とよぶ。 のち騎馬民族の末裔で、自分らこそ、「ミナモトの民なり」と自称した連中が、相州釜利谷(かまりや)別所の山にたてた鎌倉幕府の、「カマクラ」だが、今も東北で雪をかためて作る小さな氷室をよぶごとく、朝鮮系の マイホームは小さな円形横穴だったのである。
 さて、日本では、 「木が流れ、石が沈む」という真逆で倒錯した譬がある。
 
というのは、遺骸の主かともされている高市皇子が、十市(といち)(唐一)皇女の死をなげき、(山吹の咲く泉への道を知らぬのは悲しい)  とうたっている挽歌について、 「これは、シルクロードを通って伝えられた生命の泉の絵があったのだと、K・Dさんがいっているのを、高松塚古墳の墳墓の絵をみて俄然私の中によみがえってきた」  と、四月十八日付のY紙の夕刊に、成城大の某さんという人が書いている。
さて、高松塚古墳の副葬品の中に白銅鏡が発見されている。「海獣葡萄鏡」とよばれるもので、法隆寺五重塔の心礎から発見されている葡萄鏡と図柄が酷似している。 また同じく正倉院御物の、「金銀鈿荘唐太刀(でんかざりからたち)」の刀の柄と同じ唐草形の透かし彫りが、やはり副葬品の中にある。 これと壁画の「白虎」の後足にみられるなつめ椰子の葉をイラストしたとされる、「パルメット模様」について、高名な歴史家達は同じように筆を揃えて、 「シルクロードを通ってペルシャあたりから唐へ入り、それが日本へ伝来してきたもの」と、まことあっさりとかたづけられている。 勿論、なにもこれは今になって始まったことではなく、素戔嗚尊を祀る祇園祭のときに、山車に吊り下げられる古代ペルシャの布も、正倉院御物に入っているペルシャ布も、 「これらはシルクロードを通って、遥々と日本へ運ばれてきたものである」と注釈がつけられ、それが今では定説になっている。  
 
だから高名な歴史家達も成城大学の先生も、あっさりそのまま鵜呑みにしているらしい。
 しかしである。 「シルクロードが西暦何年頃に出来たのか?」  はたして調べてみたり、その研究書でも見たことが彼らにはあるのだろうか?  レニングラード大学モナザビスキー教授の1969年版の、 「シルクロード、その歴史」なる研究論文によれば、13世紀初頭の元の遠征のとき、今日のハンガリヤへ進軍路をひらくため、トルキスタンの多くの捕虜を使役にして、軍用道路として何万頭もの羊を通すため開発したものが、後には荒廃したが、14世 紀になって隊商によってまた踏み固められ、どうにか通れるようになったのだとある。 なにもロシアの教授を信用して、日本の学者をとやかくいうのではない。
 
しかし旧ソ連という国家では、もし怠惰とか研究不熱心を学生から告発されたら、大学教授といえど罷免されて、地方のウチーチェリとよばれる公学校の教員へ飛ばされてしまう国である。  日本のように十年一日のごとき講義をしたり、己れの本が多くの学校の教科書に採用されて、隠れたベストセラーになることだけを生き甲斐にしているのとは違う。
シルクロードをトラックで何度も往復している教授の研究論文では、これまでのように、なんでもシルクロードを通して日本へ入ってきたのだと胡麻かしている学説は、みな消し飛んでしまう。 日本のようにインフレ政策をとるため、産業道路をどんどん作るのは滅多にない例で、普通、ロードと呼ばれるのは、昔の軍用道路があとで民間人に使われだした例が多い。 やはりジンギスカンの羊の群れが踏み固め開発したとするのが、常識的にも正しいようだ。
 
 
勿論、日本列島は暖流寒流が交互に、突き当たるように流れてくるから、なにもシルクロードがなかった頃でも、ペルシャ湾からでも、潮流とよぶ時速6ノットから10ノットに及ぶ水中エスカレーターににのれば、筏でもこられないことはない。 「スメラミコト」の「スメラ山脈」や、「男山のスサノオ」「女山のオマン」が、そのペルシャ湾には今も面して聳えているのである。 そして十六枚の花弁をもつ菊も、原産地は朝鮮や中国ではなくて、ペルシャなのである。  だからして、ペルシャ独特の「パルメット図案」や、アラベスクの副葬品をみると、遺骨の主はペルシャ人だったかも知れない。  壁画そっくりの下ぶくれの型が、今でも向こうではビューティとされているから、姿や形はチョマリでも、ペルシャ女でなかったとする反証はないようである。
 

 タイ民族の日本移住

2019-06-29 10:23:24 | 新日本意外史 古代から現代まで

 タイ民族の日本移住

 今でも北海道のアイヌ系の人が、内地人のことを、 「シャモ(和人)」とよんだり、また今でも関西の河内あたりで、蹴合いに用いる闘鶏を、やはり「シャモ」と称し、また吾々の御飯をもりつけする板片を、「シャモジ」とよぶのは、何か関連があってなのか、どうも引っ掛かるものがあるようである。  梵語の「シャモ」が、日本の仏教用語では、「沙門」となり、「桑門」同様に出家の僧のことをさすから関係があるとする説もあるが、唯それだけの結びつきであろうか。

「シャモ」というと、現代のタイ国の古名が、「シャム国」または「シャモロ国」といわれ、昔はカンボジアから今のベトナムまでの版図をもつ、広大な国だったが、そこと日本とは関り合いが有ったのだろうか。これまでの日本歴史では、 「山田長政がシャモロ国へ渡航し、のち六昆王となり、元和七年(大坂夏の陣六年後)九月に、時の老中筆頭土井利勝に、新煙硝二百斤と虎皮の進物を届く」  と江戸中期になって、国交が初めて開け、江戸誓願寺を宿所としたシャモロ人が、山田長政の使者にきた旧九州浪人伊東久太夫を、通弁として貿易を始めたようにでているが、その以前からも、交流はあったものだろうか。

 「ベトナム戦記」のニュースなどを見ると、日本人そっくりの容貌をしたのが多いし、また、キック・ボクシングの試合でも、よく日本人に似たタイ国の選手が出てきて、びっくりさせられる。どうして東南アジア系は同じ有色人種とはいえ、ああまで日本 人の一部にそっくりなのだろうか。またかって日本人がベトナム戦にわが事にように心を痛める関連はなんであろうかと疑いたくもなる。  というのも、実際の処では徳川時代は、すべてが各藩単位で日本全体の歴史などはどうでもよく、「日本歴史」なるものは、明治二十年代の後半から四十年代までにかけて纏めあげられたものなので、どうしても、日清、日露の二大戦争で、 (下関----関釜連絡セ船----釜山。そして京城から新義州。鴨緑江から南満州鉄道で奉天)  といったコースが、強烈に植え付けられた歴史になっている。また、それが大衆にもすっかり馴染みになってしまったせいか。

 

 日本の対外相手は、これ朝鮮半島と中国に限定してしまった感がある。しかし釜山浦まで出て、そこから朝鮮半島経由で大陸へというコースより、実際は海上を年に二回交互に吹く季節風や貿易風によって、南支那海や東支那海を往復していた方が、遥 かに多かったのではあるまいか。織田信長の頃でさえ、香港に近いマカオと日本の泉州堺の間には、定期航路があった程である。 そして、その頃のポルトガル人は、マカオと印度のゴア、そこからリスボンとやはり潮流にのって航行していた位である。  だからタイ国、当時のシャモロ国から、日本へ吹いてくる風の季節には、彼らもまた、やはり黒潮を利用して、日本列島へ渡ってきたのだろう。
 
なにしろ『古事記』にでてくる処の、「野見の宿禰と当麻(たいま)の蹴速(けはや)の垂仁天皇天覧御前試合の情景」たるや、 「日本の国技相撲の始め」とされているが、「ハッケヨイ、ノコッタ」と、土俵で四股を踏むといった相撲ではなかった。つまり双方ともに正面で取り組むような勝負で はないのである。  野見の宿禰は西方に向かって三拝九拝。  当麻の蹴速は南方に膝まずいて叩頭。「ゴーン・ゴン」とゴングがなると、 「やあやあ」向き合った両人は、まわしなど当時はしめていなかったせいか、手など伸ばさず脚を高々とあげ、互いに相手の胸や腹にアタックを加えあい、「ハオ、ハオ」と声援をうけ、軍鶏の蹴り合いのような試合を続け、とうとう最後には、 「KO」で宿禰が、蹴速をキック・ダウンさせてしまい、今でいえばタイトルマッチをとって、勝名乗りをうける事となったと出ているのである。
 
 だから、キック・ボクシングの選手が、宿禰神社へお詣りするのなら話は判るがそうではない。 今では日本相撲協会の、役員が初場所をあける前に、横綱を従えて、「どうぞ大入満員、札止めになりますよう」と羽織袴で威儀を正して、恭しく参拝する慣わしになっている。すこし変てこである。 しかしヤバダイ国の連合グループに、投馬国というのが入っているのは前述したが、発音からすると、そのトウマと当麻は同じような感じもする。それゆえ、この勝負というのは、 (旧インド系と推理される倭人の国が、東南アジアから転入してきた国家体制に打ち破られた事実)を相撲に仮託して物語っている寓話かも知れないのである。 だが、とはいうものの、いくら野見の宿禰がタイトル防衛を続けて勝ったからといって、それで当時のシャモロ国の名が日本列島に響き渡り、色々の物にシャモの名が付いたとは考えられもしない。 これはやはりある時点において、彼らが大量に集団移住してきたものと見るべきだろう。

しかし、そんなに大勢の異邦人が、一度にどっと南の国から、「今日は」とやってきたら、これはどうなったろうか。現代の感覚なら、万博かオリンピック見物といった受け取り方もあろうが、昔そんなものが有る筈もないから、とても歓迎されて、「ウエルカム」と招じ入れられるような事は、いくら古代でもまあなかったろう。となると友好的に入国できたという事実は、観光目的でなければ、彼らが今日の国連軍のような恰好で堂々と進駐してきたものと、みなすことは飛躍であろうか。  また、それ程の大掛かりな進駐が有った裏には(何か突発事が有ったものと見なしうる)といった事実を意味すると考えてはいけなかろうか。これまでの日本歴史では、「仏教伝来は宋の国から、唐の国から」と、中国からみな来たことになっている。  が、あれはどうも誤りではなかろうかという仮説のもとでのことだが、 「中国から印度まで」の間を現在旅行してみても判ることだが、もっとも仏教の盛んな国は、それは朝鮮でも中国でもなく、なんといってもカンボジアとかタイである。なにしろ1970年9月5日の外電によれば、ベトナム解放軍の女兵が全裸体となって前線に現れたそうである。するとである。

(女人の裸体を己れの眼で見ると、戒律によって仏果がえられず、仏罰をうける)と教育されているカンボジア兵は、そのため、みな狼狽して、 「眼の汚れになり、色慾を勃起させては、御仏の戒めにそむくことになる」と、みな視ないように眼をとじてしまい、とてもこれでは迎撃にならず、次々と解放軍に攻め落とされ弱らされているとのニュースが伝えられている。  日本では黄ばく宗というのか、茶道具を包んだりする時に用いる、黄赤色の布地の長いのを、肩から曳ずり気味の托鉢の群れが、バンコックの町へゆくと集団で朝は町に溢れている。

 男は成人式みたいに一度は仏門へ入って、こうした修行をして仏果をうるのだそうだが、ぞろぞろ歩いているのは壮観である。  だからして陸路重点に考え、仏教伝来は中国からとみるより、釈尊の生まれたもうた本場のインドや旧シャムロのタイから、船舶民族によって吾国へ直接導入されたというような、発想はできぬものであろうか。  そうでないと足でキックするような相撲の原点は、やはり貿易風によって彼らに持ちこまれた体技としか思えないからである。

そして、キックボクシングや、シャモとよばれる軍用鶏をもちこんだ民族によって、それまでの騎馬民族系はとうとう征服されたか、または、「仏の功徳」によって折伏してしまう世になったのだろう。このため対抗上、クダラ系の人々は、「韓(から)神」さまを守って、仏派に対して各地に分散したらしく思われる。もちろん既得権益を守るために、朝鮮半島からの人々は結集もしたのであろう。 そこでシャモロ側も、「護法」のために貿易風を利用して、大兵団を日本へ送りこみ、彼らは、その当時クダラ系のコロニーであった河内から八尾方面を、まっ先に占領したろうことも考えられる。 そうでなくては、今もその地方に、闘鶏として、南方系軍用鶏が飼われ、「河内名物、軍鶏のかけ合わせ」となった由来が判らなくなるのである。 そしてバラバラのタイ国米になれていた彼らは、日本米のべたつくのに弱って、便箋の代わりにに用いていた木片の古いのを削って、これで飯盛りをしていたのだが、文字が残っている物もあったからして、「文字のついたシャク」ゆえ「シャモジ」 と転化し、それゆえ海路安全の守護神である安芸の宮島の厳島神社が、現在に到るも、日本全国のシャモジの75パーセントまでの製造販売を独占しているのかも知れない。

 

 

 

 

 

そういえば厳島神社の赤塗りは、香港あたりの水上飯店の建物によく似通っているし、「蛋民(たんみん)」とよばれる水上生活者が用いているサンパンと同じ物が、社宝の、「平家御一門参拝之図」の供奉船には描かれている。  だから寿永三年の壇の浦海戦のときは、たまたま西南へ貿易風が吹きだす季節だっ たから、平家の軍船の内で流されて行ってしまったものがあるのかとも想いたくなる。 「中国民族史」や「香港案内」にも、 「蛋民というのは氏族不明の漂流民である」などとでている。  もちろん逆に考察して、シャムかもっと西南から季節風が北東に吹く冬季に、向こうから流れてきて、それが戻ろうとした際、香港あたりに足止めになってしまって、そこに定着したのがそのままになったか。  これは、大陸からの久米の子らが、そちらへ戻ろうとしてならず、中間の沖縄に辿りついたきりになってしまったような見方もできるからして、それらと同じようなケースでなかったとは、とてもいい切れないものがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本美少年の系譜 天草四郎は美少年ではない 森蘭丸は容貌魁偉 忠臣蔵の大石主税は反っ歯だった

2019-06-29 09:21:05 | 新日本意外史 古代から現代まで

     日本美少年の系譜

◎天草四郎は美少年ではない
◎森蘭丸は容貌魁偉
◎忠臣蔵の大石主税は反っ歯だった
◎黒駒の勝蔵は勤王の大忠臣だった
現在赤穂浪士を有名にしたのは何かというと、江戸時代は芝居であり、明治に入ってからは桃中軒雲右衛門の浪花節である。 一般的に判りやすく文字で広まったのは、随分これは遅くて明治四十年以降のことで、浪花節や芝居で広まりそれから無慮三百余の本が出たのである。 これは今でも、活字で出して全然売れない本が、テレビ化された途端に、筋書を知ろうとする人達からプログラム代りに求められ、沢山売れるのと同じことである。 しかし唯漠然と広まったというのではない。目的意図があった事は明らかである。
 
これまで日本国は、建国以来一目も二目もおいていた清国を、日清戦争によって敗退させた明治軍部は、大国意識を国民に植えつけんとした。 ところが三国干渉ということが起きて、せっかく手に入れた旅順や大連を奪われた。 これは、せっかく戦勝に酔って、「富国強兵政策」を断行しようとしていた明治軍部には大打撃であった。 このとき。明治の偉人頭山満が現われた。 「全国民をあげて復仇の念に燃えさせる為」 翁は神楽坂の毘沙門さんの縁日で、「ちょぼくれ祭文」をうなっている青年を、近くの料亭の二階によび、 「オロシャ国は吾が日本より旅順大連を取りあげ、そこに難攻不落の己が要塞を作っちょる。このままでは、やがてどうなるとばい」 旅芸人の彼にいってきかせたあと、窓の下でハラハラ散る花を月の明かりで見下ろしつつ、
「われらが来るべき国難に殉ずるのは、一死奉公のまことしかない。花は桜木、人は武士といったような勇壮活発な、そして立派な仇討ちの話はないか」と翁は口にした。もちろん幕末から御一新にかけ、いわゆる世直しをした連中は、武士の恰好はしていても、坂本竜馬だって酒屋才谷の倅だし、吉村寅太郎も百姓の倅だったくらいは、翁もよく承知していた。しかし明治も三十九年になると武士というイメージは、懐かしい過去への郷愁にも似た幻想になっていた。
 
だから、 「仇討ちといいますと、まずは曾我五郎や十郎の敵討があります」と、ちょぼくれ青年がいうのに、 「いや、もっと多人数のもので、それも近世の武士のものがよいな」と翁は首をふった。 「集団の総蹶起でございますか」と考えこむ青年に、翁は赤穂浪士を教え、 「お国のためじゃ、確りやらんといかんばい」激励した。この結果、青年は考えて、「赤穂義士銘々伝」をもって、 「武士道鼓吹・浪花節」というものを始め、「桃中軒雲右衛門」となった。そして国民もみな自分らが義士であるかのような気になって、日露戦役に勇ましく突入したのである。
このため芝居や映画でも、忠臣蔵をやれば絶対に当る世の中になったが、さて大東亜戦争で日本が負けて米軍の占領下になると、GHQが、また復讐精神を鼓吹されては困ると、「忠臣蔵」の上演禁止を命じたのは、これはよく知られた話である。 また、「倭訓栞」などの古文献によると、「切腹」が一般化したり美化されだしたのは、この忠臣蔵の芝居からだというので、 「なぜ浅野内匠頭が吉良上野に斬りつけたのか‥‥従来のケチ精神の結果とする通説は、誤りではないか。真実はこうである‥‥」  と解明するつもりだったが、これまで何百と出た本にも出ていない新事実を発表するには、これは後廻しにして、芝居に出てくる大星主税。つまり、 「大石主税」を美少年とする愚説に、まず挑んでみたい。従来、天草四郎、森蘭丸の三人をもって、日本では美少年とするが、それがはたして本当だろうかという問題である。
 
 
今はそうでもないが昭和前期までは、「水死美人」という熟語があって、溺死した女は、みな美人とされて新聞に出た。 女だって土佐衛門になったら水でふくれて見るも無残な状態になるのを、死者への礼でというか、どれもこれも公平にみな「美人」という形容詞を使ったから、整形医のなかった当時はオカチメンコのブス女どもが、「せめて一度は美人とよばれたい」と願い、身投げをしたものである。さてまた、 「死せる児はミメよかりき」という言葉があって、十代で若くして死んだ少年は、みな「美少年」としてしまったようである。   しかし森蘭丸(正しくは乱丸)は本能寺の変のときは、美濃金山城主の他によだ島をも拝領する五万石の殿さまで、二つ違いの兄は、「森武蔵守」とよぶ信州二十万石の大名で、「鬼武蔵」の異名があった容貌魁偉な豪傑だった。だから蘭丸も最低二十三、四歳の偉丈夫であって、美少年扱いはおかしいのである。
 
 天草四郎こと益田四郎時貞も、美少年かどうか疑わしいのは、島原の乱で肥後細川家の足軽陣右衛門が首をとったはよいが、 「これが天草四郎の首でござる。というのが他に数十個も差出されていて、どれが本物やら生母をよび判別するのに何日もかかった」そうだが、類まれな美少年だったら、そんなに迷うこともなかったろうと想う。
大石主税にしても、義士資料の、「翁草」に、そっぱであったとある。 芝居ではピーターみたいな可愛らしい美少年だが、出っ歯の美少年というのはいない。
 
となると日本には、これまで本物の美少年んはいなかったのかと首をひねる方もいられようが、「信長公記」や「当代記」といった確定史料には、はっきりとした美少年が二人でてくる。なにしろ調べに調べて書くというのは大変なことなので、これまであまり誰も書いていないが、「佐合甚五郎」とよぶ岡崎三郎信康の小姓で武田方へ潜入した抜群の美童もいるし、「万見仙千代」というすばらしい天下第一の美少年も実存、つまり現実にいたのである。
しかし学校教育だけを義務となすだけではなく出産も軍事上兵士や工員資源とみて、夫婦以外の交際は認めず男女が同伴で歩いてさえも不審訊問をするような時代が長かった。まして受胎の見込みのないホモ行為は国賊扱いでした。それゆえ甚五郎や仙千代は黙殺されたのである。 「傾城」という言葉は江戸時代、遊里の美女の最高形容詞だったが、仙千代は、「荒木村重の伊丹、摂津、尼ガ崎の三つ城まで傾けさせて失わせている」から余程美少年だったことが歴史的にも考察できる。
以下は八切夫著作「八切日本史」からの引用である。先生は実に小まめに海外現地に赴いて歴史を発掘している。 膨大な費用と労力を厭わずのこうした真摯な姿勢こそ、日本の歴史屋共は見習うべきである。
 探すといえば足まめにアメリカのインディアン保護地区をまわった。 『海外武勇伝』という本も、これまた前人未踏のもので、オキナワのレジスタンスを初めて書いたものの他に、アメリカン兵は、 「アパッチのジェロニモ」は日本人ではなかったかというのもハワイの日系から聞いて出かけた。 「そんなバカな」という人は、アパッチ族が日本人そっくりなのを知らない方である。  またジェロニモというのはインディアンと、西部劇ファンはきめてしまうだろうが、スペインのマドリッドへ行けば、 「ジェロニモはスペイン人であった。彼は侵略アメリカ軍に対し、土民を率いてスペインの権益を守った英雄である」とされていて、私が昨年向こうでみた映画では、金髪の美少年のジェロニモが青服をきて、アラビアのローレンスみたいにアリゾナの山を駆けまわり、第七騎兵隊と戦っていた。  だから今でも、「国会議事堂前の大通り」は、「ジェロニモ通り」の名でよばれている。
ポルトガルへゆくと、ジェロニモは、「パイオニア」の別名のようになっていて、「ジェロニモ修道院」と名づけられた壮大なものが、リスボンの海事博物館の隣にある。だからフランスから出ている本でも、ジェロニモの国籍は今も不明とされているが、明治三十八年二月に、日本の女形役者板東玉三郎が桑港(サンフランシスコ)の博覧会で彼に逢ったとき、「ヤットカメダナモ」と尾張弁でよびかけられたという事実が残っている。そこで、 「明治元年に尾張の名古屋城で、佐幕派として殺掠されかけた内で一人だけ脱走し行方不明となった森次郎右衛門が、そうではないか」と、「日本版ジェロニモ」を書き上げた。
 
また南北戦争後、観劇中に殺されたアブラハム・リンカーン暗殺の下手人とし、舞台にいた俳優がその場で殺されたが、彼の向けていた拳銃は小道具で弾丸が出るはずもない。  そこでケネディ殺し同様に、 「誰が真犯人が判らないままに」一世紀たっているが、公人朝夕人(将軍家のオシッコを受ける竹筒をもち歩く旗本の家柄)の土田孫右衛門の弟の要助が、幕末だまされてアメリカへ渡航し、その後消息不明という「土田家譜」をもとに、この要助がリンカーン殺しの真犯人とされ、やがて消されてしまったのではあるまいかと、海外へ流れ者として出ていった侍たちの数奇な話。そして渡部華山が死んだとき、その門人佐波多三平がメキシコへ渡ってその子が映画でも馴染みな、 「革命児サバタ」になったのではないかというのは、愛知県田原町城宝寺の過去帳に、「さばた」の名が残っているところから考えついたのだが、メキシコやアメリカに流された、「サムライ無宿」の珍しく面白いものを集め一冊にした。
(注)これらを「荒唐無稽」だとか「馬鹿馬鹿しい」と一顧だにしないのが現在の歴史屋だが、果たして歴史に向き合う姿勢としては、   どちらが正しいのか読者の判断に待つしかないだろう。
さて、その無宿の名称たるや、「無宿者」といえば、今ではまるで犯罪人のような感じを一般に与えているのは、「現今の戸籍のように、誰もが人別帳に入っていて、それを削られたから無宿者」 いった観念がひろまっているせいではなかろうか。だが実際は違うのである。寺の人別帳に入っていたのは百姓だけで、お役人とか木こり、炭やき石切りなどは初めから人別帳には無関係な存在だった。
前にかいた陽の民族は、寺の人別帳に、「生まれた時から名を書きこまれ、年貢をとられたり助郷とよぶ伝馬の労力奉仕を課せられていたが、原住系の蔭の民は、寺や領主とは関係なしに、各地の何々太夫または、弾左衛門とか弾正とよぶ者の支配下にあって、まるっきり人別には係りなしだったのである。つまり二つの民族に分かれていたのだが、往々にして人別帳に入っている者の中から、法度とされていた欠け落ち者や心中のし損ない、破戒坊主が出た場合、これを陽の側では、人別からはずして蔭の民の方へと廻した。そして「」とこれをよんだ。  蔭の民の方は、これは奴隷みたいなものだから、女は遊女にして稼がせたが、男は使えるだけ使わねば損ゆえ、これを罪人の処刑人などに用いた。  よく罪人の引き廻しや槍で突き殺すのがそれだが、映画でみても、ぼろぼろの恰好をしているから、あれが無宿者かと間違われやすいが、 「人別に入っていて削られた」と、初めから人別帳に係りあいのない蔭の民の無宿者とは、まるっきり性質が違うのである。
 
この陽の民と蔭の民の争い。つまり、「高家」とよばれる陽の足利家の流れをくむ吉良上野介と、浅野弾正の名でも判る蔭の民の浅野の支流の内匠頭の衝突は、乱心でもなくケチでもなかった事が、こうかけばそれで想像がつくというものであろう。  しかし、その後徹底的に調べあげたところ、浅野は当日になって老中小笠原佐渡守によばれ、 「なんとしてでも吉良が抜刀するよう仕向けい。如何に振舞うても咎はせぬ」と命令された。  そこで挑発するごとくチョイナチョイナと突いたり叩いたが、吉良はのってこずに未遂におわった。すると浅野はすぐ坊主部屋に入れられ異例だがアミかけ駕が千代田城内までもちこまれ、近くの田村邸へつれてゆかれて切腹どころか烏帽子のままで斬首されてしまっている。
    われらの幻影
    なぜ蔭流か?
「日本刀こそ大和魂の発露」と大東亜戦争開始までの日本の有識階級の家には、ご真影と日本刀さもなくば刀剣銘の蔵書があったものである。テレビで、 「日本刀は切先三寸しか刃はついていまへん」と、かっての時代劇の大スターだった、嵐 寛寿郎が堂々といえるのも今だからである。昔だったら刀剣で儲けている連中、史学者や歴史作家から徹底にうちのめされた筈だ。あくまで日本刀を神聖視しカミカゼ特攻隊まで昭和刀を持ってゆくのは宣伝の行過ぎだった。 小説は虚構だし芝居や講談と同じで見せ場がいるのだから、抜きあってさしている刀を斬り合いさせても構わない。 さて話は違うが、「影丸」という存在と、その時代に始まったといわれる上泉伊勢守の神陰流、神道蔭流、柳生新蔭流、疋田陰流、天野破陰流といった刀技について、これまでは誰もいっていないが、改めて考えさせられた。
刀道に「陰」を流派に名のるのは多いが、「正」をつけたのはない。これは何故かというと、疑問である。さて、さかのぼって、 「刀」はいつ頃からの物かというと、その原形は朝鮮の鉾麻布刀らしいが、いわゆる記紀にも、刀なるものは出てこない。 <景行紀>に「みはかせる十拳(とつか)剣を抜き」とか「八握(やつか)」と、みな剣の文字であって、悪魔退治の呪術に、 (剣をふるって空中を斬る)のが、今も、「剣舞」として伝わっている。
八握とか十拳というのも、握り拳をもって寸法を計る単位としたもので、さしずめ80センチか1メートルの胴剣のことであろう。
 
さて、今でこそ刀が一般的になって、双刃(もろは)の剣は博物館物だが、かつては日本列島占領にこれが使われたと想われる。かつて私は敗戦後、満州から引き上げてきた。  そして、ソ連軍八路軍国府軍の三つ巴の中を三ヶ月掛りで奉天から脱出してきた疲労困憊から、内地では比較的食物のある滋賀県へ移った。落着いた所が何処かというと、<忍者武芸帳>の中で影丸が、仇とも敵とも狙う織田信長が天正十年五月に造営し、白目像、つまり大理石像のアポロか何かをここに祀り、「われ神なり、汝らも来りひざまずけ」  と、天に一神しか認めないイエズス派の宣教師までかりだして膝まづかせた事実がある。
だから、その憎しみをかうに至った總見社がある。今では寺とよばれているが、安土のそこの宿坊の厄介になり、毎日大きな樹のある池のところへ出ていると、 当時バタバタとよばれたモーター・バイクなどで登ってくるのが、本堂へは外から叩頭し決まって濡れ縁に何か紙包をおいて行く。
 
 
 開けてみれば白米や、物資不足の当時としては眼をむくような肉の塊りだったりした。 そこで不審に想った私が追いかけ、迷惑がられながらもあれこれと問いつめてゆくと、
「わしらは代々、他と宗旨が違う」くらいしか初めは洩らさなかったが、そのうちに、「もう前の世の中とは違って、なんでも本当の事が洗いざらい出てくる民主主義の世になったのだから、信心の違う自分らの歴史を教えてくれる本も、出てきてええんと違うか」といったような素朴を疑問を訴えてきた。 (信長の時代に、はっきりした一大変動が起きて、かつては影のようだった存在の部族がここに陽のあたる場所へ出たが、間もなく信長の死によって蔭に追いやられる存在になった。
 
ところが終戦で又しても再起できそうな機運になり、ヤミヤで儲けた彼らはここへ寄進にきている)  とまで、次第に判ってきた。 「戦時中の軍部は、ヤマト民族は単一人種だといっていたが、世界中どこへ行っても同じ人種で、別個の神をもっているのはいないにもかかわらず、神道仏教その他と日本にはありすぎる」という視点からして、これは、 「剣をもつ陽の部族に征服され、片刃をもたされ使われた蔭の部族がいたのだ」と、はっきりしてきたのである。つまり、
「天孫系とよばれる船舶民族にすぐ降服して、まず農奴化された者達もいるが、抵抗を続けた者達も七世紀あたりになると、やがて征服され俘囚として各地へ分散収容され、この末裔が十一世紀初頭の刀伊(刀一)族の来攻による国防軍に徴兵された歴史」が判ってきた。
 
ミナモトの頼光などといった人名や、坂田の山からの金時や渡辺の綱あたりが、史上に名を現すのはこの時点からであり、のち来攻はなくなったが、 「せっかく集めたものを勿体ない」というので転用されたのが東北侵略用で、「前九年の役」「後三年の役」では、ミナモト族も、義家をもって、ついに、傭兵隊長としての武功をたてられるようになり、平和になった後は、白河上皇の、「失業軍人救済の思召し」により1095年には、 「北面の武士」という、のちの皇宮警察官の誕生をみるようになった。しかし剣を彼らはもたされずに、片刃の刀をそのサーベルにされた。
そして信賞必罰というか、俘囚の子孫である武家(公家では地家とよび、地家侍の称はここから出る)は何か事があると、彼らは、「八」という蔑称があったから、すぐさま、八切りの目にあった。俗にいう切腹で、(八ラ切り)となっている。 この事を記した古文献もある。これは片刃の日本刀だからこそ押さえて出来るのであって、もし双刃の剣なら、両面に刃がついているから切腹など出来はしない。  だから日本人はみな切腹するような錯覚もあるが、武家はやっても公家は古来一人の例もない。正親町帝が豊臣秀吉に御位を奪われかけたとき、みずから宝寿を絶たんとされたが、 「初めは咽喉をつかんと遊され、のち食をやめてと変られし処」 と、当時の奈良興福寺の多聞院英俊は、その日記に書き残している程である。 刀というのが、日蔭の民である原住系の限定使用だったことは、切腹を例にもってきても、またその刀工の発生地が、 「越前加賀」とか「美濃関」「相州鎌倉雪の下」といった旧別所。つまり七、八世紀頃の捕虜収容所の跡だった点でも判りうるものと想う。
 
つまり被征服民となった原住系は、 「追われてみたのはいつの日ぞ」と山の中や離島へ、赤とんぼと共に追いたてをくったから、(八)を、「や」とも発音し、「厄魔」の別名があったのは「名月記」にも あるが、YANMAと蜻蛉をよぶのも、これが訛ったためであろう。  そして赤トンボの唄が皆に好かれるのも、占領系に比べ原住系の子孫は多いから、伝統の血の流れが今でも多くの人の感銘をよぶせいだろう。
      江戸は死して江戸っ子を残す
蔭も陰も、影丸の影も同じ意味だが、これを、八(鉢、蜂)とよぶ他に「え」という呼称の仕方もある。もちろん日蔭のことだから、女性の肉体でも一番かくされる部分には重ねて「エイン部」といわれる所もあるのである。 しかしこれを今は、会陰部と書き、「左右から会しあって陰となる」式に当て字されているからして、もっともらしくぴいんとこぬかも知れぬが、そこから出産のときに胎児が冠ってでてきて、すぐ棄てら れてしまうのをも、 「エナ」(胞衣)という。<続古今集>の中にも、 「エぐ(影供)し侍りしに」と、えは影に用いている。今こそ、 「ええ女を持つとってええな」といえば、(綺麗な彼女をなんして良いな)の意だが江戸時代の浄瑠璃ではまた、 「えおんな」とは「隠し女」のことで、近松門左衛門の作品でも「身うけの銀さえ払うて下されますなら、え女になって囲われてもいとやせぬ」とある。
 
 
つまり、「え=陰」だから、大村崑と小さな娘が出てくるCMで、しきりに、「ええ事しやはる」と乱発するが、本来の意味は陰事を行なう、つまり淫事をなるの意味である。 何故かというと、出雲系日本人の神話に、「天の橋立に立っていた女神がよき相手とみられる男神を見つけ給うて、『えな男や』と寄っていかれ、衝動的に立ったままで行為を遊ばされ、その落ちた樹液の雫によって、樹氷のようなオオヤシマ列島が出 来上がった」というのが話の起こりで、やがて船舶をつらねて渡海してきた文化民族のために追われ、 「えの民の逃げた島」ゆえ、「えだじま=江田島」「えのしま=江之島」といった地名や、東京みたいに、「えど」となって、えばらやえこだの地名すら今もある。
 山岡荘八の小説などでは、徳川家康が「厭離穢土」の旗をたてて進むが、穢土を好こうが嫌おうが、江戸はエドでしかない。そして今でこそ、当て字だの間違い字だのと、会社の入社試験でもうるさいが、 「珍文漢文わからない」と明治になっても、当時の団珍新聞が政府通達の漢文文字入りを批難したように、まだ大正までの漢字はみな発音の音標なみで、「edo」を発音できれば、穢土でも江戸でも構わなかった。だが江戸時代の江戸人 は、こうした意味合いで、できるだけエドとはいいたがらなかったものらしく、「ご府内」「府内」で通し、このため東京都になる以前は東京府とよばれた程である。
 
 
つまり本当のことを書くと身も蓋もないが、「江戸ッ子だァ」などとタンカをきりだしたのは、江戸がなくなった明治以後の事であるらしい。 さて、おおよその見当はこれでつくらしいが、「西方の極楽浄土を望むもの」と、「東方のエドにしがみついている原住系」の二つ。 つまりカラ(韓)神を崇ぶのと、五、六世紀以降に、船連、津連といった天智八種の姓による仏教をもって渡海してきた船舶民族に大別される。
そして被占領民族であり被圧迫民族である原住民が、「陽の照る所へ出られぬ種族」となり、これが「陰」になり「影」となったというのが実相なのである。 これを判りやすく簡単に説明すると、「西暦十世紀」の頃に、「われこそはミナモト(原住系)だぞ」と、二千数百あったという捕虜収容所の院地、別所から、白旗を掲げて集まり文治革命を成功させた連中も、やがて足利時代に入ると、もはや彼らは 公文書にさえ、「白旗党余類」としか書かれなくなった。
 
そして、なんとかまた陽の当る場所へでて、「立身出世」をと願うのなら、彼らが嫌った坊主スタイルになって、その上、ナンマイダナンマイダと唱えさせられ、「何とか阿弥」と名乗って洗礼をうけるしか他に、官公吏に採用される道はなかった。  それとても暴動でも起こされては大変との配慮から、茶湯、生花、能楽といった安全職種に限られていた。刀の手入れや鑑定が「本阿弥家」だったのもこのせいである。  日本ではヨーロッパ程に芸術が尊重されていないのも、その従事者が<蔭>の民族で、役者や講釈師などが、明治に入っても、「」と扱われたのはこの為で、今でもタレントが近代ビルの放送局でも昔のや くざの慣習そのままに、あたりが真っ暗でも、「オハヨウゴザイマス」と挨拶し、すこしも働いていなくても、ねぎらって、「オツカレサマ」とやりあうのも賭場の慣習そのもので、博徒が、長脇差と称して、 長刀をさしていられたのも、やくざの語源が、「蔭の民」であり、その流れで、戦国武者の末裔である俘囚の子孫だから、寺の人別帳にも入らぬフリーみたいなもので副業に興行をしていた連中だったからである。
 
       大小捨て槍一筋に
 天保五年版芝神明前和泉屋吉兵衛刊行の「武道初心集」の、従僕着具の部に、「小身の武士は不慮の変の時といえど、家来を沢山つれて行けるわけではないから、槍一本の他は持ってはならない。が多少でも供を連れてゆける者ならば、持槍が折れ 損した時の用心に、槍の身の予備を袋に入れて持ってゆけば、いざという時は竹の先に縛りつけても使える。なお刀というのは相手が甲冑をつけていると、殆んど打ち折れてしまうものゆえ、これを持ってゆく者は差しかえを若党に持たせ、若党の刀は草 履とりや馬の口取り仲間に、移動刀掛けのごとく差させてゆくべし」とでている。つまり従来のように武士というのは必ず戦国期でも大小を腰にさして歩くというのは、あれは絵空事でしかない。
 
 
いざという時、腰にジュラルミン製ならぬ本身の大小などさしていては、重いし邪魔で走れもしない。だから武士というのが、「槍一筋」といわれるのはこれによるのである。  では大小は差さなかったかというと、礼装用には用いていた。大刀を預けねばならぬ場所では換って小刀を腰にさしたのだが、幕末は物騒になったので一遍に二本ともぶちこむようになった。斎藤竹基の著では、 「嘉永三年」つまり国定忠治が死刑にされた年あたりからだという。なのに一般に、「武士は二本差し」という観念を、何故与え始めたかというと、これは村方の八部衆の風俗によったものらしい。
 
というのは、 「俘囚の裔」で武士になった者の他に、捕方や牢役人になった連中は、代官が田畑見廻りをする時や、神輿が出るとき、今でいえばガードマンとして先導役にたったが、差換えを持たせる若党や仲間を伴っていないから、重いのを二本さした上に六尺棒ま で手にした。そこで、「え」とよぶ連中の多い江戸以東ではそうでもなかったろうが、京阪以西の百姓は、中国語からとって、 「両個(リャンコ)」と蔑み、また二は、三と一の中間ゆえ、これをサンピンとよんだ。さて、 「江戸時代の武士の扶持の最低は三両一分だったから、それからとってサンピンという」  などと説明する「武家事典」もあるが、「江戸時代の士分の最低は、一人扶持つまり玄米一日五合」これは年にして一石八斗の扶持勘定で、「何両」というのは士分ではなく仲間小者の計算である。
 そして云わずもがなかも知れないが、箱根の関をもって東は金本位で西は銀本位制だったゆえ、江戸時代は一両といっても、小田原以西は(銀目一両)で、これは(金一両) に対して六掛か五掛だった。つまり三両一分といっても、箱根の向こうでは一両二分か、一両二分一朱の勘定で、今でもこの為に間違わぬように領収書には、金か銀を上につけ、 「一金何円」と書く習慣が残っている。
 
だから武家事典の類などはこじつけにすぎない。しかし、 「さんぴん(三一)とよばれた八部衆の連中(岡山から福山方面では三八とよぶ)は刀を二本もさして威張っていたが、明治七年に警察権を薩長閥に奪われるとこれが大変なことになり、 「よくも今迄は威張りくさったな」とばかり百姓から苛められ、つまはじきにされて、これが、「村八部」今の「村八分」の起りになるのは前述した。
 だからして、こうした匿された史実を掘り起こしてゆくと、いまテレビや三文小説で、「刀は武士の魂」などといわせているのも、あれは廃刀令で刀の売物の山を抱えた刀剣商が、明治から大正にかけて、なんとか売ろうとして考えついたCMではなかろう かといった疑さえもてる。というのは、刀は公刀とよばれ扶持を与える主人から、その防衛用にと腰に差すことを義務づけられているもので、時には折れたり曲がりやすい日本刀の性質上、スペアが必要だったから江戸中期の大道寺友山の説くように、 「士は自分の主人の替え差料を、生きた刀架けとしておびて供をしていた」という実際談からすると、主人は刀のことを武士の魂といってもよかろうが、家臣は、「刀は武士の腰にさし運ぶもの」にすぎなくなる。  つまり一人一人の侍が自分の刀を己が腰にさしていたというのは嘘ということになる。
 
大道寺友山の「岩淵夜話」にはさる大身の旗本が、刀自慢でいつも十握り程の刀を、自分は重たいから無刀だが、供の者に一本ずつささせて引きつれて歩いていた話がでて いる。明治初年の「廃刀令」というのも、武士の扶持がなくなったので、もう公刀を重い思いをして差して歩かなくともよいというのであって、やくざのような私刀を差して歩き廻る連中には無関係だったのもこのためである。 では、武士の魂とは何かといえば、これは槍の穂先だったらしく、心得のある武士は己れの頭上の長押(なげし)に槍を掲げておき、これを日課に砥ぎ磨いたものだと、 「武道用心集」には明白にでている。
         黒駒の先駆け
   黒駒の勝蔵は勤王の大忠臣だった
幕末のやくざで、清水次郎長と黒駒の勝蔵との争いは有名で、現在でも芝居や映画でも盛んである。 これは皆故子母沢寛の書いたものが下敷きになっている。
しかし「どうして清水次郎長と黒駒の勝蔵は、富士川や天竜川で退陣しあったり、あれほどまでに激しく戦わねばならなかったのか」  と、徹底的に調べてみたところ、黒駒という土地は、大和十津川と同じように、かつては天朝さま直領で年貢もなくて勤王の慕情あつい土地だったということが判った。
 
そして官軍史料にはでてこないが、賊軍として処罰された仙台藩家老の手記(大正二年十二月非売品として活字本刊行)(千部限定の『幕末確定史料大成』(日本シェル 出版)4800円の中にある)では、「甲府郡代加藤余十郎ふれ書」が収録され、勝蔵が王政復古の先駆けとして甲府城占領のため、その一味の黒駒党を投入し、このため徳川家より謀反人として指名手配さ れ遠州へ逃亡すると、中泉代官所の命令をうけた見付の友蔵が捕らえようとしたが、なにしろ、
「王政復古までは一人も妻帯しない」と女絶ちまでして、結集している黒駒青年団なので手のつけようがなく、一人銀三両の日当で、「清水の次郎長と、そのメンバー」を、ガードマンというか、御用の尖兵に雇用した。
 
そこで、かたや銭儲けのため。黒駒一家は天朝さまの為というので、長州の木梨精一郎や薩摩の西郷隆盛のバックアップで対戦したものらしい。  しかし明治四年に勝蔵が殺されてしまうと薩長は知らぬ顔。そして、「悪い奴ほど長生きする」というのか、ずっと生きのびた次郎長は善玉、黒駒一家は悪玉とされてしまった一部始終が判った。「われ王事に尽 す、なんぞ刀をもたん」と勝蔵は、やくざのはずなのに長脇差をささず、六尺槍を振り廻した話が残っている。
 米屋の倅でろくに文字もよめなかった次郎長と違い、勝蔵の方はその従兄も、「古川但馬守」の名で白川卿に随身し、自分ものちには四条卿に、親兵隊長として奉公した位だから、当時としては有識階級で、天誅組の那須信吾の友人でもあったから、 (刀は日陰者の持つもので、晴れて天朝さまにお尽くしする自分は、そんな物は持たん) といった気概があったのであろうか。
 
 また新徴組が結成された時も、丁日つまり偶数日は徹底的に槍術の指南をしている。 なにしろ、 「皮を切らせて肉をきり、肉を斬らせて向こうの骨をきる」のが刀法の極意というから、それでは斬りこんでゆく方も安全とはいえなく大変である。それより三米もある長い槍の先で遠くから突く方が有利に決まっている。だから幕末でも槍の方が重視さ れたのだろう。  また、刀道、刀客、刀家とはいわず、「剣道」「剣客」「剣豪」などと恰好をつけるのも、カタナとツルギは違うから、これまた変な話だが、では何故一般に、「刀と刀のチャンバラ」が、さも当然のごとく 普及したかとなると、これの真因は、江戸末期の聖天町三座によるのではなかろうか。
 
幕末の刀道流行に、芝居も便乗したといってしまえばそれまでだが、なにしろ昔は、国立劇場もなかったから芝居の舞台がせいぜい三米か四米しかなかった。  そこで三米の槍をもった役者を出しては、一人で舞台が一杯になって立ち廻りなど出来ない。ところが刀ならば、双方で雪月花山形と、「チャンチャン、チャチャ、チャンチャン」と振付がつけられ何人も絡みあって見せ場になる。だから芝居からして 一般に、間違えられて伝えられてしまったのではなかろうか。  これはまた今日伝えられる「切腹作法」が、「白砂をしいた上に裏返しの黄色い畳。青の上下に白衣の切腹者が、そこへ座って赤い血綿を効果的に腹から出してみせる」  という絵画的な芝居の場面から、引き移しにされているのと同じことであろうと想う。
 
 
 
 

名古屋不思議考 愛知県史 太閤秀吉

2019-06-28 11:42:51 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
 
戦国時代末期、三河の古い豪族で三宅氏というのが居た。 この当時は没落していたが、その名が残っているのは『広済寺旧記』位のものであるが、百済国から日本へ渡ってきた部族が、備前の小島半島に上陸して、これの一族が南北朝時代に活躍して、中でも「備前三郎高徳」こと通称「児島高徳」は、今では架空の存在と歴史学上されているが、「桜の幹に十字の詩」として昔の修身の教科書に出ていたくらい著名な人物で、これは『赤松再興記』にも出ている話である。
 
さて、明治時代の故渡辺世祐の解明によれば、「大永四年に前南禅寺の九峰宗成筆の宇喜田能家像の賛にあるから、動かしがたい事実だが、備前の宇喜田家の先祖は児島高徳であり、その祖は遡れば百済よりの三宅氏である」となっている。
 
 だから、今でも三宅姓を名乗る者は美男美女として知られているが、備前の児島半島に上陸した三宅氏の一部が、南北朝の頃に蒲郡あたりから三河へ上陸し、これを『三宅系譜』では、「児島高徳がその子の高貞(勘解由高盛という)のため興国年間に、現在西加茂郡猿投町大字東広瀬と呼ばれた矢作川に臨んだ高さ五十メートル周囲四百メートルの孤立した天嶮の地を選び築城し、その後この西加茂一帯を制圧していた」となっていて、没落したのは三宅右衛門高清の時とある。
 
さて、三河の松平蔵人元康が改名して徳川家康になったとする『松平記』によると、落城の時、三宅氏の奥方が矢作川へ下りて巨巌の下へ隠れていたところ、唐国渡りの狆(犬のチン)が慕って吠えたからそれで運悪く見つかってしまったという話が書かれている。
だが、後の徳川家康が世良田二郎三郎を名乗っていた頃、三宅氏の勢いは凄まじく、本城は広瀬だったが、同じ猿投町大字殿貝津には、高清の弟三宅清宣の伊保城。さらに豊田市の梅坪三丁目にある、高清の伯父の「三宅右近太夫光貞の梅坪城」。そして同じく豊田市挙母町大字城本町には、三宅高清の義兄に当たる者の「挙母城」と、つまり四つの城が三宅氏には在ったのである。 尚、家康別人説として「本能寺の変 徳川家康と松平元康は別人だった」は以下に詳細 http://blogs.yahoo.co.jp/jaotex555/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=3
余談になるが、当時の三河には『稗組』という言葉があった。意味は三河の松平蔵人元康が、今川領の駿府で人質として住んでいたので、松平の本城である岡崎城には今川の侍衆が城代として輪番で常駐していた。そして彼らは領内の米麦粟の類まで皆取り上げて駿府へ送ってしまっていた。
 だから岡崎城の士分で武者帖に載っている者といえども、一握りの扶持米も貰えなかった。よってこうなっては稗でも食さねば生きていけぬと、戦のたびに狩り出される士分を辞めてしまい、俄か百姓になった者らを云う言葉なのである。この連中の中に石川四郎や平岩七之助らが居て、世良田二郎三郎に協力している事実があり、この一事をもってしても、徳川家康と松平元康が別人だった証拠になろう。
       一夜のうちに四城を落とす
こうした状況の中、世良田二郎三郎の一党は、この当時別個の勢力として活動していたから、石川四郎や平岩七之助らの松平の家臣らと共に、同じく東三河出身の鳥居忠吉やその倅の忠元、修験者上がりの酒井浄賢、大久保党の面々と、総勢三百をもって、様々な奇計を駆使して落としてしまった。
『愛知県史』では、「永禄三年、徳川氏に攻められ、城主三宅右衛門尉高貞は討死。城は陥落しこれより廃墟となる」となっているが、この時、城はいくらか亡失したが、実際には高貞が討死して落城したのは実はこの三年後のことである。
            【愛知県史】  
桶狭間合戦で世良田二郎三郎(徳川家康)が信長に協力した
現在、日本中の県が出している「県史」という本があり、これは江戸時代の藩史にも当たる。その中の愛知県史というのは、他と違い特殊である。 その特徴として、郷土が生んだ英雄、豊臣秀吉が藤吉郎時代、背に付けて戦場を駆け巡っていた際、○に八の字を入れた旗指物を名古屋の市章にしている点である。そして家康の第九子徳川義直が尾張徳川の始祖になった藩史を採用しているが、それでも「徳川」と「松平」を同一に扱わず、これを別個に扱っている特徴がある。
 
 また桶狭間合戦で今川義元を倒したのは、織田信長一個の奮戦ということに通史はなっている。 しかしお膝元の尾張徳川家では、 「信長を勝たせたのは徳川家の力である。神君家康公のお力添えとお導きによって織田は今川に勝ち、またわが徳川家も開運の元を開いたのだ」という観念がはっきりしていたから、天明二年に藩学明倫堂をおこし、細井平州が学館総裁になった時も、その後、文化八年に家田大峰が朱子学派を退け総裁になった時も、「永禄三年庚申の時こそ徳川家発祥の年」というのが極めてはっきりしていたらしく、室鳩巣が、 「その文書が簡易平実。条理を尽くす」と激賞した堀杏庵が、次子道隣を尾張宗春へ仕えさせる為名古屋へ来たときに著述したという『庚申闘記』にも、これは明白に書かれていることである。
   大岡越前の出版統制令は世界初       
『厳神史巻・重代記』によって名古屋武士道を抉剔する
 
だが、享保七年十一月に、大岡越前守忠相が日本最初の出版統制令をしき、「権現様の御儀は勿論全て御当家の御事の版行並びに写字本は、自今無用に仕るべく候」つまり、家康の事は一切触れてはならないと厳罰令をしいたのも、 市井の一般の出版業者を弾圧するためではなく、実は尾張の宗春公に対してであった。 (松平蔵人元康が名を変えたのが徳川家康だ)という通説を、徳川本家の御用学者林道春が『本朝編年史』で設定してしまった後なので、 「若き日の神君二郎三郎が深謀をもって、信長を今川義元の本陣へ導いて裏切らせ殺させた・・・・」 という尾張徳川家の所説は異端になるからして、林大学頭の朱子学派より苦情が出て、御三家とはいいながら、ついに一人も尾張からは江戸の将軍家にはなっていない。それどころか、その後は宗春の子孫には六十二万石は継がされず、田安や一橋からの養子が入って尾張領主になっている。
さて、尾張徳川家の書物奉行が、代々受書を出して、名古屋城幅下三の丸の書庫で厳重保管されていた門外不出の『厳神史巻・重代記』がある。
 
それによると、前記した大岡越前の布令に関して重代記中の『章善院目録』によれば、その法令が出された目的相手たるや、尾張七代宗春で、彼は筆墨や紙の一切を取り上げられて「行跡宜しからざるをもって謹慎処分」と閉門にされているのである。
故野村胡堂の『万五郎青春記』を初め、多くの大衆小説はみな「宗春は次男で部屋住みの頃、公儀にたいして大活躍をした。そのため紀州の吉宗と将軍職を争そって敗れた後は、遊蕩三昧で天下のご政道に盾をつき、元文四年に謹慎押込めにされたもの」とするが、実際は前将軍家宣が、その跡継ぎにしようとしたのは、彼の兄継友の方であり、宗春は次男でも部屋住みでもなく「通春」の幼名で十四歳の時から、奥州梁川三万石を継いでいたのである。
 
 
そして兄の死により享保十五年に尾張六十二万石の当主になると『温知知要』を先ず著述した。 彼は、自分は家康の玄孫にあたる正当な血脈であるという自負からか、当時まだ尾張三河には、家康の伝承が数多く残っているのを、侍臣や儒臣を動員してしらべさせ、今で言う郷土史家の持っている史料を殿様の権威で徹底的に集めさせたのである。ところが、
(松平家康は長頭だったのに徳川家康は丸顔だったとか、二人の家康は石ガ瀬と和田山で再度戦をしている)と、書物奉行堀田恒山名で発表したものが、「徳川家のご先祖が二人も居ては怪しからん」と、徳川宗家の忌憚に触れ、版木どころか筆墨や半紙までも取り上げた上で閉門に下されたのである。 このため同じ御三家でも水戸学派は『大日本史』の仕事で認められたが、名古屋学派は、おかしなことを書く、裏目だといった具合に遇された。
それゆえ維新に際しても、かって尾張の儒者で塙保己一の塾頭で盲目の師を助けて『群書類従』を編纂した石原正明が、
「本居宣長の古事記は、為にせんための手作りの歴史である」と例証をあげて論難したのが、当時の神学国学派に嫌われ、名古屋学派は黙殺されて今日に到っている。こうした隠された徳川史観を見直すため歴史で飯を食っている学者共はには猛省を促し、もっと勉強しろといいたい。
 
しかし、「名古屋は日本の真ん中で別嬪さんが多いのは日本一」とか「名古屋は日本の中京で」と謂われる素晴らしい土地なのである。 だから「尾張六十二万石を棒に振ってまで、真実を解明しようとした殿様の下で、幕末の田宮桂園に至まで、家中全体が反骨一途だった名古屋武士道」というものを尊敬するのは私だけだろうか。
(追記) 『名古屋史要』によると、この尾張という国は信長の頃から遊女を置かぬ土地柄であった。 だから、家康の末子義直が封ぜられて名古屋城を築くとき、九州の加藤清正らも築城の応援に入った。 しかし、こうした事情を知らずに入った女好きの清正らは弱りはて「これは不自由ではござらぬか」と談判され、やむなく慶長十二年に執政平岩親吉が、飛騨屋町(中区蒲焼町)に赤線地帯を許したが、名古屋城が出来上がると(はいそれまでよ)と国禁にしてしまった。 そして西暦1610年から131年目の享保16年の徳川宗春のとき、ようやくのことで解禁された。 この時の理由は「人の家婦に間媱(人妻のヨロメキ)他邦にも有りといえども、此地最も甚しく、人妻に梅毒はびこるは、これ娼家を禁ずる故なるべし」 とある。この本は名古屋市役所が尾張藩の史料によって、明治四十三年三月に発行したものである。 これをみると、売春を禁じた結果は今も昔も変わりがないようである。 尾張は、人目忍んで男が来たと喜ぶお国柄で、信長の母も浮気をし、実家の平手一族に殺されている。また若き頃の木下藤吉郎も妻の寧々と一緒になるそのなれ染めも強姦紛いの非常手段だったらしい。
秀吉の妻「ねね」の素性 ねねが藤吉郎と結ばれた謎 http://blogs.yahoo.co.jp/jaotex555/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=12
 
 
          名古屋不思議考
 戦国時代、信長から秀吉が権力をふるっていた頃を安土桃山時代とう。  この当時の公用語というのは勿論日本語ではあるが、名古屋弁だったのは 余り知られていないようである。 何故なら信長も秀吉も共に現在の愛知県生まれだから、権力者の使う言葉に どうしても馴染もうとするから、諸大名や陪臣も名古屋弁に慣れるため必死に 覚えたらしい。     ここに書いてある(ここにきぁあたる)  良くしてあげる(よーけしたるぎぁあ) 等と、これはごく一部だがこうした今に続く独特の名古屋弁には当時の大名達も随分と泣かされたらしく、 関が原の戦いで徳川に味方した一つの原因として、「又豊臣の天下になれば、難解な名古屋弁を使わなければならぬ。
 
あんな苦労はもう沢山だ」とばかりに、徳川に付いた連中も多かったという。   この名古屋弁は、当時日本へ来ていたイゼズス派宣教師のガブリエは、 「名古屋弁はアラブ語にとても似ている」と本国へ通信した報告書も残っている。  そしてこの尾張名古屋という土地は、特殊な地域で、幕末までは名古屋全体が 巨大な特殊だったことが窺われる。   (注)特殊とは、海洋渡来で太平洋沿岸に住み着いていた日本原住民で、 仏教や漢字を持ち込んできて強制的に統治した大陸勢力に反抗したため、 まつろわぬ民、として強制的に住まわせられていた民族の住んでいた場所を指す。
 
 現在平家等というのは間違いで、原住民が集団で強制的に居住させられた 場所で、規模の大小はあるものの、これは日本全国にあり、これが問題の遠因ともなっている。 さて、尾張名古屋は六十二万九千五百石で、徳川御三家の城下町でる。 しかしここは明治になるまで、何人も通行させてはいなかった。   東海道でも往還ともに名古屋城下は、参勤交代の大名行列といえども通行禁止だった。  岡崎や池鯉鮒、鳴海から「宮の渡し」と呼ばれた熱田の浜へ出て、そこから海上七里で 船で桑名へと渡る道順なのである。   そして慶安の由比正雪一党の討幕運動があって、一年後には承応の変と、倒幕事件が続いたため 慌てた幕府は幕府へ不満分子の京阪から江戸の往来を厳重に取り締まる必要に迫られ、東西街道の要衝である名古屋には特に厳重な目を光らせた。為に七つ過ぎになって薄暗くなると渡し舟に乗船する者の人相が見分け難いというので、 夜間の船は禁止にしてしまった。
 
 だがここは木曽川の川口に当たっていたから、大雨の日や、強風の時には、桑名へ 七里、四日市へ十里もあるため船は出せなかった。  そこで五里もある佐屋の渡しまで歩いていって、そこから桑名行きに乗ったり、東下りの際も、桑名から宮の渡しへ直行できるのは平穏な日だけで、 佐屋から加守、万馬、岩塚、そして宮の渡しへと、絶対に名古屋城下へは立ち寄らせなかった。  だから一般の旅人は勿論、大名行列などはさぞ大変だったろう。  こうしたことが書かれているのは尾張藩の侍だった天野信景の「塩尻百巻」を読めば 理解できる。   何故に名古屋城下を他国者の通行をさせなかったかと言えば、つまり秘境とか、平家の落人といえば、山奥の人目につかぬ場所と思いがちだが、  名古屋というのは当時でも江戸や京阪に次ぐ大都会だったが、実際は名古屋それ自体が巨大なだったのである。
 
    (注)以下の「徳川吉宗は名君じゃない」に、尾張宗春や名古屋人が、髷を結うことさえ許されず、   如何に過酷に扱われていたかの真相が明記してある。   http://blogs.yahoo.co.jp/jaotex555/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%C6%C1%C0%EE%B5%C8%BD%A1&sk=0  
 
さて、足利時代の末期になると尾張の守護職斯波氏が今川に滅ぼさた。  そして今の名古屋城の辺りには、今川の軍勢が進駐軍として来ていた。  この当時の進駐軍は占領地の人間を兵力として自軍に徴用するものだが、今川はそうしなかった。何故なら 他の土地の者たちは、大陸から進駐してきた藤原氏の頃に、徹底的に奴隷化され、上の命令には絶対服従の掟が叩き込まれていたが、名古屋人は反骨精神旺盛で言う事を聞かない厄介な民族だったからである。
 
この傾向は大正、昭和時代の軍国時代までも続き、有名な「又も負けたか第三師団」と、日本陸軍の中で愛知県から徴兵された兵は、 弱兵の見本のように扱われていたのでも判る。  この意味は何も弱いことではなく、奴隷兵として、単純に命をかけてまで敢闘などしなかったからである。
 
 何しろ藤原時代には占領軍として、日本原住民を見下し、「身の終わり」とまで呼んでいた。これが「美濃」であり「尾張」なのである。 これは語呂合わせでも何でもなく、漢字を持ち込んできた彼らの「漢字のマジック」 なのである。
 
だからこの地を人間で無い者の住んでいる「人外の地」として、配流の土地として扱われていた程だから、藤原氏とは全く異種の民族が固まって住んでいる一種の開放地区のような土地柄だった。  というのは、昔は現在の地形と違い、愛知県の太平洋岸はもっと食い込んでいて南西からの黒潮暖流が名古屋湾から知多沖をどんどん流れていて、 今は国府宮の裸祭りで有名な愛知県海部郡津島も、その頃は海港として栄えていた。
 
 つまり今の愛知県や三重県は、南西から流れてくる暖流によって流され、運ばれててきた拝火教徒の難民が、次々と接岸上陸して、此処に彼らのタウンを作って住み着いていた。 この黒潮暖流の速さは6から12ノットもあり、いかだやアウトリガー付きの船でも 十分日本近海までやってこられることは現代潮流学でも証明されている。この西南方面からの古代海人族と今は呼ばれている人々は、北条時代を築いて、 北条政子は京の御所に根を張る大陸勢力を制圧し、上皇たちを佐渡島や各地に 配流している。 そして六波羅探題という京を取り締まる海洋系原住民の、いわば進駐軍司令部とも いうべき機関を南北に設置し、北条九代にわたって日本を統治した。
 
  しかし、その後に出来た足利政権というのは、がらりと変わり、大陸の当時の明国と提携といえば恰好がいいが、現在アメリカの属国となっていると同じように明国の属国となってしまう。 当時、日本へ毎年明国から使節がやってきて足利将軍を使節が謁見していた。日本史ではこれを朝貢外交といい、日本にとって大変な利益があったということになってる。
 
  だが日本から何を輸出して明から何を輸入したかが隠されている。  実態は当時日本に沢山採れていた金を、向こうからは鉄の粗悪なビタ銭を等量交換だった。  今も昔も鉄が全く採掘されない日本は、この銭を溶かして槍の穂先や弓矢の矢じりに作り変えていたのである。勿論、銭は通貨としても日本全国に流通された。しかし考えて見ると、例えば純金が10トンと鉄が10トンの等量だから、日本は大損である。
 
   北京の宮殿にこの日本からの金が山積みされているのを見たマルコポーロは 本国へリポートしているほどである。  また、明の使節を迎えた歴代の足利将軍家が、何十メートルも先から平伏しながらおでこを板廊下にコツンコツンと打ち付けるので、痛くて堪らぬから、もう少し回数を 減らして欲しいと願ったが、脚下されたという故事もある。  こうした事を例に取るまでもなく、決して対等外交でなかったことが判ろうものである。
 
  さて、閑話休題。   世界史を俯瞰すると、ヨーロッパの王侯貴族たちが、十字軍と称して現在のアラブへ攻め入り、略奪や 暴行はやりたい放題の時代があった。略奪した財物の半分はローマ法王へ献上し 残りは自分が盗るという取り決めで、おおいに荒らしまわった。 現地女への強姦も多く、この時の名残で現在のアラブ人は鼻が高くなったと謂われる程。  だからこの時多くの難民が海上へ逃れでて、前記したように海流に乗って、印度、ベトナム経由で紀州熊野灘、知多半島などに流れ着き、上陸し住み着いた。
 
 こうした者達は、新規外来人として京の三条へ集められ、そこの囲い地へ収容した。  そして寺の多い京だから、庶民から銭を巻き上げるため、今言う目玉商品にもあたる 客寄せを狙って、各寺の執事がきて、人間のセリにかけ、目の青いのや、真っ黒な肌の者達は三条の奴隷市場で高く売れたようである。
有名な達磨さんもインド系だが、言葉が判らず、大きな目をギョロつかせて 黙っていたのが有難く思われたのだろう。 面壁九年とこれをいうのである。 また、寺に買い取ってもらうことが出来なかった者は工人として親方に買われ、 武将の寵童として買われた者もいた。   こうした海洋渡来外来人に対しては、足利時代でも「平」の姓が被差別の姓として付けられた。  だから名古屋出身の信長にしろ秀吉は、このために平を姓としている。  つまり名古屋は他の秘境のように人里離れた山奥にひっそり隠れ住み、他と交渉を断っていたのと違い、堂々と大きな都市として存在していたので  徳川御三家の威力で統治し、他国者の通行を禁じたのである。  

三島由紀夫の肉声発見される 彼はなぜ壮烈な切腹を選んだのか

2019-06-27 16:22:30 | 新日本意外史 古代から現代まで

 

今年で三島由紀夫没後48年になる。  先日テレビで放映されていたが、何故彼のような優れた才能があのような 壮絶な死を選んだのかの分析は甘く、まるで本質を突いていなかた。 また、故三島由紀夫氏の遺書が発表されてもいる。私たちの年代の男にとっては 氏の市ガ谷での割腹自殺(実際の死因は日本刀による斬首だったが)の報道に 驚愕したもので、その遺書を今読み返すと氏の苦衷が読み取れ、心が痛む。

 文中には「全員あげて行動する機会は失われた」 「状況はわれわれに味方しなかった」とあり、氏の客観的な分析も窺える。 同時に日本の将来を憂い、当時の日本の姿を 「魂のとりかへしのつかぬ癌症状」と、とらえ、傍観しか出来なかった 「やむかたない痛憤」を少数の行動で代表しようとしたと、事件の動機を 語ってもいる。 そして、将来の日本が「少数者の理想が実現する」事の期待を述べ「天皇陛下万歳」と結ばれている。

  私の蔵書に氏のものは「宴のあと」「美の襲撃」「音楽」「肉体の校」 「金閣寺」「不道徳教育講座」「豊饒の海」位だが、流麗、華麗なその文書は 今でも大好きである。   頭脳明晰な氏は、自分の遺書が後世必ずや公開される事を読んでいただろう から、こうした美麗な内容になっているが、少し違った視点から、   ここで私なりの分析をしてみたい。 (私は三島氏と日本の高度成長期を疾けぬけた、同時代の同士として、 また、氏の理想に共鳴した一人として、ここに改めて”合掌”する。)   さらに先ごろ三島の死の九ヶ月前に対談した本人の録音テープが見つかった。

 そこにも複雑な氏の気持ちがにじみ出ていて「僕は油絵的に文章をみんな塗っちゃう。日本的な余白ってものができない」 川端康成の作品に対しては「恐いようなジャンプをします。僕には書けない」とも語っていた。 卑下しているようにも見れるが、日本語を自在に操る三島の華麗極まりない文章は今も愛読者が多い。 こうした心理の変遷に思いを馳せながらの考察を、再度してみたい。

 

何故悲惨な切腹を選んだのか 

 切腹についての有名な本に新渡戸稲造作桜井鴎村の「武士道」がある。 日本語版が出回ってから、迎合してあらゆる歴史上の知名な武将は、みな最期は 人手にかからず自決。しかもみな割腹となった。 そしてどれも言い合わせたように勇ましく、中には腹中から臓物をちぎって投げるのや、腹筋は横に裂けるから一文字なら切れるのに、柴田勝家などは縦割にしたり、丁重なのは十文字に切らせてしまった。 これは「武士道」の本の中にはっきりと、 「コンスタンチン大王の見たる徴・・・・・十字」と出ていて、さながら切腹の最高は十字切のようにも感じられたからだろう。   だが、そうした切方だけでなく、死せる子は眉目よかりの筆方で、皆死に方を美化しすぎてしまった撼みがある。

 さて、日露戦争終了後と共に、お役御免とばかり「武士道」の出版社裳華堂は無くなった。 しかし、単なる営利目的ならまだ売れるかもしれない「武士道」である。 だから解散した裳華堂の一人がその紙型を持ち出して独立した。   これが第十版以降の版元となる丁未出版社である。 大正三年の青島出兵からシべリア出兵。そうした時代が続いたから、やはり武士道や切腹は必要視され本は良く売れた。 だが、大正十二年九月の大震災で紙型は焼失した。 だから昭和十二年に研究社から、組み改めて刊行されるに際しては、新渡戸の未亡人の手紙を序につけ新装出版された。

 そして昭和二十年の敗戦の日まで、この「武士道」の本は星ひとつ二十銭の文庫本にまでなって広まった。 学徒出陣の恰好で営門を潜った二十歳の日の三島氏も、この本は持っていったろう。何しろ当時の学徒兵は一人残らずと云って良い程に、潔く死ぬためのテキストとして この本を読み、そして持って入隊したものだからである。  処が、彼は身体検査の結果、せっかく勇んで赴いたのに即日帰郷を言い渡された。この挫折が、彼をしてボデイビルをやらせたり、剣道にいそしむそんな型の男に自分を変貌させ、やがて二十余年後には「尚武の心」を説く作家にさえした。

 

 幼時に玩具をあまり買ってもらえなかった男が、成人してからプラモデルに凝り、子供みたいに 熱中するように、かって即日帰郷として、追い出されるようにして帰った記憶を持つ彼は、 「自衛隊」と名の変わった兵営へ出入りをし出した。勿論有名作家の彼のことゆえ、 「木戸御免」といった具合に、歓迎され大切にもてなされた。 もし兵制がはっきりしていなかった日本の明治初年や、又は南北戦争当時の米国なみに民間人から一躍抜擢され「大隊長」ぐらいにスカウトされたら、恐らく純粋な彼は、「はあッ」歓んで引き受けたに違いない。と書くと、まさかと否定する向きも多かろうが、   野坂昭如も「歌う直木賞作家」の看板で、歌とは程遠いガナリで一日十万円のギャラで、キャバレーに出演していたのだから、ノーベル賞候補作家といわれた彼が「ものかき大隊長」になったとしても、現代でも可笑しくも何とも無い。 処が、今の自衛隊は、新兵募集にはすこぶる熱心だが、隊長クラスの人材については関心が無く、あたら折角の好軍志望者を、部下協力者としてしか扱わなかった。

 つまりPRには利用したが、彼のひたむきな心情を無視したらしい。 これは彼として詰まらなかったろう。 これまで映画に出るといえば「からっ風野郎」では主演だったし、「人斬り」の田中新兵衛の役も回ってくる。 シャンソンを歌いたいといえばどうぞと舞台へだし、拍手喝采されできた彼としては、ただ利用されているような扱いに不満だったのだろう。    そこで、「それでは」といった考えが、やがて彼の言葉を借りれば、 「世界最小の軍備なき軍隊」となって誕生したものだろう。発会式の日、彼はたとえ少数 とはいえ、自分の率いる形のグループに満足して、晴々しく査閲をした。しかしである。

 

やがて隊員の彼らは、自分らにあてがわれたセンスの良い見事な隊服だけでは満足せず、服にマッチするユニークな内容、つまり精神面をも隊長である彼に求め出した。 これは彼としては期待などしていなかった事ではあるまいか。何しろ彼は、 (絶対服従して召集の時だけさあっと集まって分列行進をする・・・・彼の考案した制服に 似合えば良い青年)だけが欲しかったのであり、己の年齢の半ばにも満たない彼等を、「同志」として迎えたわけではなかったかもしれない。

 とはいえ、彼は一人だが学生は多く、やがて突き上げられていったのかも知れぬ。    さて、当時の盾の会の人気たるや凄まじく、何しろ彼は女子大生に圧倒的な人気があったから、文科系の大半は彼を卒論のテーマに選ぶといわれた。 だから、この会に入れた男子学生が如何に女子学生から羨望の目で見られたか、モテたか想像できよう。そうした結果が・・・・・・・ その作品は読まなくとも、作家としての名声に憧れる若者達から、入会希望が続々と寄せられてきた事である。  

 普通、会費や入会金を徴収する所ならこんな喜ばしい事は無い。しかし氏の会はそんなものは取っていなかった。それ処か、一人に付制服軍帽共で第一回の時でさえ4万円掛かったという。だから台所は苦しかったろう。といって、窮状を気の毒がって、氏の会へ寄付するような大会社もなかった。ペンは剣よりも強し、とも謂うが一本のペンでは会員一人の支度に 一枚8000円の原稿料で5枚書かねばならぬ。大変だったろうと同情を禁じえない。

  その内、各隊編成となって隊長制をとるようになってから、一応隊長へは5万円程度の月給にも似た手当て制となった。そして一般にも交通費として1万円位は支給されるように改定された後は、その経費は膨大なものになった。    だから夏頃からは1ヶ月の出費が300万から400万とも、密かに噂され出した。なのに9月頃になると、若干の手当てがつくらしいと噂が広まった為、さながら アルバイト気分で「来春大学へ入ったら入会したい」と高校生の申し込みが増え、隊長達が選考した採用予定候補者は、10月初めには100を越していたそうである。 100足らずの隊員を抱えているだけでも、四苦八苦なのに、それが倍加したらどう賄うかといった悩みは氏には在ったろう。いたわしい話である。つまり、 「あらゆる破局は、経済的破綻から生ずる」といわれるが、誰も指摘しないが、 これも一つの理由ではあるまいか。

  勿論20代の男は、受験に失敗したり女に逃げられても、それだけで、「くそ!」と忌々しがって 憤死できる。しかし45にもなると、一つや二つの腹立たしさは堪えてしまえる。よく、(若者は遺書を残すが、中年過ぎの自殺は何も言い残しも書き残しもしない) と言われるのはこの為で、理由が沢山ありすぎて、とても整理して言伝する気も無くなるのか、  又はそうするのさえ忌々しくなっての、どちらかであろう。    が、次の理由はどうも「葉隠」ではあるまいかとそんな気がしてならない。なにしろ「武士道」が昭和13年に、文庫本として刊行された後、直ぐその後を追うように   同じ文庫本から出たのが「葉隠」で昭和15年4月である。

  これを当時、双翼の書とか両輪の書と言って、入隊すれば「戦陣訓」だが、それ以前の若人の間では必読書とされていたのである。    だから氏もこの影響を非常に受けていて、 「武士道というは、死ぬ事と見つけたり。二つ一つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり」という葉隠聞書第一ノニの一節をよく口にして語っていたというから、  だからこれが起因となり「武士」をもって自認していた氏は、「死ぬ事と見つけたり」と壮絶な死を選んだのではなかろうか。

 さて、氏を自殺に追い込んだ誤った歴史を教えた歴史屋達は無責任な嘘をつき、あたら優秀な頭脳を失ってしまった。ここで彼らをこそ糾弾したい。 しかし私は天晴れな死に突入した、氏を非難する者ではない。  市井に、国を想い、国を愁うる人間は多い。しかし、この国を建て直す方法は”平成維新”しかないのだろう。三島由起夫氏は、46年前に現状の日本を予見し警鐘を鳴らしていた。しかし改革の方法を誤ったのだう。    ともあれ、新世紀へ入って早17年目に入り、この遺書の意味を改めて考えて見るのも今必要なのではあるまいか。

        「たれか一滴の涙をたむけざるや」(合掌)