新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

  日本花魁考 「縁は異なもの味なもの」 江戸の川柳に見る歴史の真実

2021-11-27 10:29:26 | 新日本意外史 古代から現代まで

    日本花魁考


  「縁は異なもの味なもの」

 江戸の川柳に見る歴史の真実

 
現代ではこの言葉は何気なく口にされている。 意味としては、

男女の縁はどこでどう結ばれるかわからず、非常に不思議でおもしろいものだということ。
理屈では説明できない縁があるという意。
多く思いもよらない二人が結ばれるようなときに使う。
「縁」とは、人の力を超えたところで、人と人を結びつける力の意。 単に「縁は異なもの」ともいう。

 こういう説明になっており歴史辞典なども同じである。 だがもともとの意味は違って、今言う「放送禁止用語」なのである。
というのは、これは元来、廓言葉から来ている。廓(くるわ)と謂っても若い人は判らないだろうが、江戸時代の幕府公認の売春場所なのである。
因みに現代の日本は「売春禁止法」により売春は禁止されている。が、これは表向きで、管理売春と未成年者の売春が眼目で、実態はざる法である。
その証拠に、大きな都市にはソープがあり、3万円も出せば堂々と本番ができる。
さらに、電話一本でデリヘルはホテルでも自宅にでも来てくれて、これも本番OK。
また、不倫サイトでは人妻から60代の婆さんまで、援助名目で3万円と手軽にできて盛況を博している。
ヨーロッパやアメリカでも売春は盛んで、一大産業にさえなっているのが現状である。
現代でもアムステルダムの「飾り窓の女」は有名だが、見聞記を記しておく。


オランダのアムステルダムには、映画でもお馴染みの「飾り窓」がある。
勿論映画はセットだから綺麗に見えたが、実物は古い石造りの家の通路に面した所へ硝子窓をくっつけただけの物が多い。
そして、それが一区画ずつ飛び飛びに繋がっている。水路と言っても五米幅の運河並のが、
その間にここからアムスの町を流れ、また二町おき位に横に細い水路が水を岸すれすれに満たしている。
初めて其処へ行った時、「こりゃあ日本の遊郭だ」と想った。

ただ違うところは、お歯黒溝(どぶ)がいつもすえたように臭かったのに、このアムスは海面より土地が低いせいで
水が速く流れるから、まるで澱んだ臭いがしないだけである。昔日本に遊里の在った頃、決まって入り口に交番があって、
うろん臭そうな眼で人相の悪いお巡りが立っていたものだが、この飾り窓のある一画の入り口にも、
「スコットランド・ヤード」と英国と同名のもののセカンドオフィス、つまり第二分署の建物がある。

そしてレストランみたいなガラスばりになっていて、十五、六人のポリスの勤務状態が、
彼らに給料を払っている納税者の市民から丸見えになっている。さぼって煙草ばかりくゆらしているのでも居ようものなら、
通行人がガラス戸を叩く。すると中からヤアと手を振って、ポリスは何の帳簿か判らないが、真面目くさってそれを拡げたりする。
日本みたいに官僚主義を発揮して、「公務執行妨害で逮捕するぞ」とは脅さない。
さて第二分署の二階はジム・クラブになっている。警官達の武道練習所かと思ったら、
ここは別個の民間経営で、西部劇の補助シェリフみたいに第二分署で人手が足らない時などは、
日当で応援することもあるという。ここのジムに昔私と知り合いだったキムと呼ぶコリアが居て、マネージャーをしている。
だから私はアムスへ行くと決まってここへよく寄る。

するとキムも歓んで迎えてくれるが、もっと歓迎してくれるのは階下のポリス達である。
何しろ日本国内にそうした施設が無くなってからというもの、日本男子は台湾の北投へ往復十万円の飛行機代を払って
一晩五千円のクーニャンを買いに行くし、和蘭へ彼らが来るのも、観光用に市内に保存されている風車を見るためでもなく、
またダイヤを求める為でもない。男性自身をスパークさせるために来るのが多い。

随行員を十名あまりも引き連れ、溝川の鉄柵の所に突っ立っていた超一流会社の社長も見たが、
一晩に集まってくる日本男児は多く、なにしろ百名ではきかない。

ところが和蘭の貨幣はギルダーで計算が判りにくい。そこで日本男児は気前がよいわけでもないが、
勘定が厄介だから「良きに致せ」と財布ごと出してしまう。当人とすれば、相手が適当にその中から掴みだし
お釣りをくれるものと思っての事だろうが、女はレジスターではない。

メルシー・ボウク。フィーレン・ダンケ。モテル・グラツィエ。
ムーチャス・グラシアス。どうもありがと。女は財布ごとの頂きである。

チップと認めて何も返してはくれない。諦めてしまうのもいるが、旅費まで盗られたと第二分署へ泣きこんでくるのも多い。
ところが日本人がオランダ語が苦手のように、アムスのポリスも日本語にはてんて゜弱い。
だからキムの友達の日本人と判るとバッジなど貸してくれて、仲裁役を頼んでくる。ところがこのバッジさえ持っていると役得で、
何処の店へものこのこ入っていける。
さて、アムスの飾り窓の通りに、いつもひしめき合い覗き込んで通るアベックの群を、初めは何の冷やかしかと怪しみ、

(未だものにしていない相手を同伴して、もし要求を受け入れなければ、おれはここの女と寝てしまうぞと脅かすための作為ではあるまいか)とも考えたたが、さてバッジを付けて、
カーテンを閉めたままの店へでも横から入れるようになると、 事の意外に驚かされたものである。

なにしろアベックは男女一組のまま店に入り、そこで店の女から実地教育指導を受けているので、
初めは偶然かと思ったがそうでもないらしい。アベックの殆どは若夫婦か婚前交際中らしく、
カーテンをこした硝子窓の向こうを通るさんざめく群衆ににも頓着無く、熱心に彼らはノートまで取って教示を仰いでいる。

客のアベックを裸体にしてベッドに重ね、店の女が体操教師のように位置を直しているのも見たし、
店の女によって夫が満足してゆく過程を、ぐるぐる周囲を廻って覗きこみ、その途中で交替を申し込んだ妻が、
自分も観察した通りに振舞い、女からフォームを直して貰っている状況も見た。

日本にもセックス・カウンセラーを名乗って物を書く人も居るが、ここでは全てが実技指導である。
だから「夫婦生活の知恵」なんていう本は書店には売っていない訳で、 もっと判りやすく手をとり腰を引っ張って二人に向くような体勢を伝授しているのである。

但し、そうはいっても飾り窓の女が全部そうではなく、
Klove niers河岸のHoogsir 通りに固まっている三十代のベテラン揃いの所に限定されている。
目下修行中の十代ぐらいの若い娘の所では、未だ自分が勉強するのに精一杯らしく、
通りかかる男達にウエスタンのカウボーイ・スタイルまでして「ヘエイ・ユウ」と黄色い声で呼びかける。
こうして訓練してやがては人に教えられるような立派なプロフェッショナルになるのだろう。
日本の吉原の遊女も「職人」と謂われていて、男を喜ばせるためのプロで洋の東西の類似性に感心する。  
 
   江戸時代の吉原遊郭


 江戸時代、明暦年間に大火があって、それまで日本橋の葦(芳)町にあった葦原遊郭(吉原)が隅田川の向こうの新地へ移転することになった。
それで今までと違い、建物を豪華にし、現今の設備投資をふんだんにし、営業形態も変更した。
引き手茶屋とよぶ、待合所を作り、ここでは中間搾取させたのである。これが吉原会所で此処の支配は弾左衛門の六人の手代の一人、花川戸介六にさせた。
この新吉原は先ず大門を入ると、美人ばかりをずらりと並べ顔見世をさせ、器量の良いのを売り物にして茶屋を仲介させた。
処が同じ新吉原の敷地ではあるが、羅生門河岸の方と言えば、奴女郎といって泊まり賃が百文。
 
チョンの間で三十文だった。というのは、夜たかよりも大変に安いということである。
何故ならば、女は女だが、人三化け七と当時は言ったくらい、大門の中へ置いてはおけぬ、まこと見かけの良くない女達がバーゲンしていたのである。
鬼のようなツラをした女ばかり、というので羅生門の名が付いたくらいのものだが、女は顔でもなく、
 心でもなく、女性自身、即ちあそこが問題なのだが、此処の女達は天は二物を与えずで、
御面相は酷いが、「あんまが泣いて喜ぶ羅生門」との江戸期の川柳さえ残っている。

 つまり羅生門河岸には、吉原大門を潜った張り見世には並べて置けないが、床の良い(セックスの上手い)女だけが、薄暗がり置かれていた。

 江戸後期には産婦人科の用語として、大陰唇を大股とか小陰唇を小股とも呼んだから
 (華岡青洲も書いている)「小股の切れ上がった良い女」とは現代も良く使われるが、本来の意味がわかっていない。
何しろミミズ千匹とか潮吹き、タコ、キンチャクなど、掘り出し物の生まれつきの珍品所有者だけを揃え、顔は般若やおかめでも、明かりを暗くして並べておいたから、
酔眼朦朧とした酔っ払いや、冷やかしで「......そんなに安く遊べるなら」と登楼すると、灯油代が高くつくからと真っ暗闇にされたが、「おう、これは凄い、味なもの」とすっかり有頂天にさせられて、
又忘れられずに夜毎に通いだすことを「縁は異なもの羅生門河岸」の川柳すらも 「末摘花」に在るほどで、現今の俗説とは違い、真実の語源はこれから来ている。



日本史解説 ラッパ、スッパ こがもん、いがもん ほら貝縁起

2021-11-23 10:21:29 | 新日本意外史 古代から現代まで


   日本史解説

ラッパ、スッパ こがもん、いがもん

 ほら貝縁起

 
(注)現代では彼らを忍者として、当て字で「乱波」「素破」と書くが間違いである。
 戦国乱世のころ、なんといっても山野をかけめぐって先陣を勤めたのは、このラッパとスッパなのである。
 さて、いまでも、サキソフォンや、トランペット、テナーサックスのような吹奏楽器のことを、どれもこれもバンドの連中は、ラッパとよんでいる。
 しかし真ちゅうの軍隊ラッパも、なかなか音をだすのに苦労したらしいが、その時代のラッパときたら何も、その目的にあわせて作ったものではなくて、ホラ貝のカラだった。
つまり他の生物の移動家屋を、勝手に人間が中の家主を追いだして、ラッパにしてしまったものだから、これまた大変だった。


 なにしろ大陸沿岸でとれる海のものが、日本列鳥の山で使われるのは、おかしな気もするが、法螺貝をラッパにつかいだしたのは、仏教伝来の時からで、鞍馬羽黒三山の山伏だそうである。
勿論、彼ら出身は、山ブセとは云わず、山ブシといっていた。これは今の時代、チョウリ士とか、ソクリョウ士とか、みな士をつけて「士業」と呼び、サムライに憬れるのと同しかもしれない。
だが、野武士と違って山武士は、盗みをしないことと云ったような、信仰に結ばれるという特殊な条件があったらしい。
が勿論、武士と名がつくからには、山の合戦には、彼らはすぐ加わって、「ブオーブオーブオー」と高らかに貝を吹いた。


 すると向うの山、こっちの谷から音がはね返ってきて、いまの時代のステレオみたいなコダマの音響効果をあげたと想える。
 それに「カッコがいい」ということは、どんな時代でももてるものらしい。とはいえ、山武士は護法の仏徙側につく僧兵で宗教団体だから、うっかり頼むと大変である。
 子供のゲンコぐらいの珠数玉を、ぐるぐるまわして、入信しなさいとシャクフクしにきたり、お守札を押しつけ、
時々は、「おどま勧進、勧進」といって、寄附金募集にくる。あれやこれやと、そこまで計算すると、音をだすだけに、なかなか経費がかかる。といって、それで音をあげていては、
これは戦をする上に士気に影響し、音のでぬ故障したテレビのように味気ない。
 
だから鳴物として、当時のしまつやの名将は、寺のボン鐘をもちだして代用品にした。三州岡崎城には、吝で有名な徳川家康が掻払ってきた吊鐘が、ずらりと今でも現物が飾ってある。
 つまり誰でも叩けば音がでる、もっと手頃なのは陣鉦と打太鼓だから家康などは、おおいにこれを用いたらしい。
 だが、こういう打楽器は、音響のサイクル周波数が狭いから、味方のカケヒキには使えるが、敵を威圧する程のステレオ式の音響効果はない。なにしろ、
 「ホラを吹く」という言葉があるくらいで、ホラ貝を鳴らすと、味方の人数が、敵には何倍にも多く印象づけられるから、これは心理作戦上まことに当時としては対敵用には重要な武器であったらしい。しかし、
 「フグは喰いたし、命は惜しし……なにぶん山武士どもを用いては、戦費が割高になる」と武将たちが頭をひねっているうちに、
「山武士ばかりが、やまものじゃない。山には、ヤマガツと呼ばれ山者がいる」と気づいた。


 ためしに、そうした山者を里へ連れてこさせて、ホラ貝を吹かせてみると、不器用なのは別だが、アジスアベバのアベベ選手ではないが山地居住民族というのは肺活量が大きいから、ホラ貝なんかさっさと吹きならしてしまう。
それにラッパ卒としては、比較にならぬ位給料もきわめて安い。経済的である。
 というのは、この連中は人買いが、一人でいくらと買ってくるので、奴隷みたいなもので一生の買切り制だったせいもある。
 実戦につかってみると、明治大正の修身の教科書にのった、日清戦争の木口小平の大先葷みたいに、矢に射たれても、石で叩かれても、「カレハ、シンデモ、クチカラ、ラッパヲハナシマセンデシタ」式にファイトがある。
といって、これは乱波がまじめだったというのよりも、この当時はホラ貝一個の方が、人間の乱波一人より高かったという貨幣価値の対差もあったろう。


 さて源平時代までは、頭巾ハットを、ちょこんと頭の上にのっけた修験者たちのラッパだったが、なみの山者でも吹けるとなると、今日のエレキみたいに、ホラ貝の需要が多くなった。
 だが、あんな大きなのは、日本近海では獲れぬ他国産である。


何処からかといえば当時のホラ貝全部これは明国から入ってきていた。もちろん貝ガラのままである。この尖端に孔をあけて吹奏口をつけ、携帯用バンドをつけていた所が、
忠臣蔵で名高い吉良上野介の先祖、三州吉良さまの領地浜松の庄だった。ここで明国の貝はきれいに天竜川の水で洗われ、山の葉で包まれ、日本楽器として生産され、
そして川の舟便で信州甲府方面へ。海上からは、弁天島の今切の渡しから、瀬戸内海方面へもへ販売されていた。
 しかし、明国からのホラ貝が、あまり一度に出まわると値下りをするから、西国では島の岩窟へ隠匿して、供給のバランスを計った。
現在のガソリン高騰を尻目に、産油国が増産しない構図と一緒である。
 
そこで、そういう穴を今でもホラ貝の孔から転じて「ホラアナ」というようになっている。さてその後、応仁の乱の時は需要が多すぎて、能島、来島の海賊衆が、貝の隠してあるアナバを探してあるき、
大穴をあてては儲けて、それで、大をなしたそうである。今も「競馬で大穴を当てた」などと使われる。
だからこの話はホラではない。「能島水軍伝書」に書かれている話である。


 さて毛利元就が強くなったのも、この能島水軍の大将河野通有の養女を後妻に迎え、のち村上武吉の伯父の乃美宗勝などを重く用い、そのホラ貝を借りたからである。
だから当時、こういう「貝ルート」をもってる武将を、「カイしょうがある殿」とよんでいた。
現代でもこの言葉は残っていて「うちの夫はかいしょうがない」とか「努力したかいがなかった」と多く使われている。


 なにしろ、その頃の兵制は、五人で一組になっていたが、十組に貝一つというのが、最高の装備だったらしく、そのホラ貝の割りあてがないと、戦にまけた武者衆は、責任転嫁に、
 「カイなければ」とか、「カイもなし」と堂々と、自己弁護をしてたそうである。だから、この縁起をかついで、鼠を沢山とらせる武運長久を祈って、アワビ貝ガラで、ネコには昔し餌をやったものだそうだ。
近頃の猫はネズミも獲らずゴロゴロしているだけの愛玩動物になったので、プラスチックの食器で合成食で済まされている。
 さて世の中が戦国時代に入ると、カイしょうのある武将は、吹奏者、つまり、ラッパ吹きをあつめ、専属バンドを編成するようになった。
 尼子の出雲ラッパ。武田の甲斐ラッパ。北条ラッパの方が、解明する史料もあるのだが、なにしろ後世になると、甲賀ラッパや伊賀ラッパの方が有名になってしまった。


だがこの頃は、マンガ本やテレビもなかったし、「忍びの者」をでっち上げた村山知義も生れなかったから、伊賀ラッパなんか、全く見とめられていなかった。忍術など話としては面白いが、あれは出鱈目で嘘八百のシロモノなので、現実はキビシイものである。


 臆病というか、警戒心が強いのか、彼らは、いつも山栗のいがを懐中にしていて、すぐそれをまく癖があった。十一世紀の康平年間、藤原の兼頼が、彼らの撒布した栗のいがで足の裏をいため、
化膿して苦しみ死んでからというもの、「イガをまくから、あいつらはイガモンだ」と世人にきらわれ、コウガの者のほうが、後年になっても、足利将軍家に用いられ、俗に甲賀ラッパ五十三家といい、
その首領として室町御所へ奉公していた和田氏の城跡も、現在、滋賀県甲賀郡油日村に残っている。コウガとは現在のくこ、からたちの古語である。
 現在でも日本には鉄の産出がすくなく殆どが輸入である。テレビや小説みたいに忍者が「まきびし」という鉄をまくのは嘘であって、菱の実や栗のイガ、からたちの殼をまいたのである。


甲斐の武田信玄が「四っ目菱」を家紋にしたのも、意味がある。
(当時甲斐の野山には沼が多く、固い棘で覆われているが、たぎった熱湯に素早く入れて、荒莚に並べ、外穀を平べったくするよう切れ目を入れ、中の果肉を取り出すと栄養価のある戦場食にもなる。
なにしろ昭和の戦前までは露店で、子供の菓子代わりに売っていた位だからすこぶる美味しい。現在忍者が鉄資源のないこの国なのに、大量に鉄製の「撒きビシ」なるものを投げる場面があるが、あれは与太話で、
実際は差別され、隠れ住んでいた日本原住民がその囲い地から脱出する際、追っ手をまくのに撒き散らしたものが、菱の殻なのである。
だから忍者とは、迫害に隠れ耐え忍ぶ者という意味。黒装束で屋根から屋根へ飛び跳ねる者などは、これ講談や劇画の話で実際は居なかった。)


後、信玄は本願寺門跡の妹を妻に貰い、仏教勢力とも手を握って、権大僧正の位も貰い、その説教僧を近隣諸国に派遣し「甲斐のごんそじょ鬼より怖い、どどっと来たって人を斬る」と大いに宣伝し恐怖を与えた。
この唄が江戸時代になると、やくざの武井村のども安が人斬りとして怖れられたので「武井のども安鬼より怖い、どどっとどもれば人を斬る」と転化された。
 とは云え、せめてもう五百年早く今の「忍者ブーム」が、まき起っていたら、彼らのコマーシャルになって、良かったんだろうが、〈運〉とか〈ラッキー〉は、いつも後手にまわって遅れてくるものであるから、仕様がない。

この甲賀の「山がつ部族」から大名になったのは信長に仕えた滝川左近将監一益が居る。
 彼ら山がつのラッパ衆は戦となればいつも先陣の真っ先で奉公した。
だから信長に目をかけられ天正九年には、上野と信濃半国を賜り、信州小諸城主となった。
彼は信長に忠義を尽くし、信長が本能寺で爆殺された後も秀吉と戦い、一益の養子・滝川義太夫が僅か五百の兵で伊勢峰城を守り、
秀吉二万の大軍を食い止めたのは有名な話でこれは「甲賀軍代記」に出ている。
  滝川一益の詳細は私のアメーバブログの以下に在ります。


   https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12646463072.html



当ブログの紹介です

2021-11-21 10:33:43 | 新日本意外史 古代から現代まで


  

 学校では教えてくれない、日本史の真実に迫ってみました。従って このブログの全ての記事は、俗説、通説とは大きく違う。だからこれを「信じられぬ歴史」とし、俗説、通説を天壌無窮のものとするのは自由である。
しかし、調べられる限りの史料、資料を読み解き、出典文献、確定史料は全てあげているばかりでなく、原文その儘を誤解のないよう引用している箇所もある。
だから、もし意外性に驚かれても、疑問をもたれる向きは、どれでも抜き取りで参考資料とつき合わせて確かめて頂きたい。
つまり、これは本当は意外史でも何でもなく、此方のほうこそ正しい真実を徹底的に調べ上げているのである。どうか安心して読んで頂きい。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。
しかしデカルトが、すべては疑え、それこそ知識であるといったのをとれば、今までの既成概念を捨てて、調べられるだけ調べあげて、そして、ここに新しく浮かべさせた事象は、
誰からの借物でもなく三十年という歳月を投影した私なりの所産である。そして私はこれを後世のもの書きの種本になるようにと書いたから、
わずらわしくても引用文献はいれておいた。とはいえ、おもしろいということも大切だから、興味本位の個所も随分ともにいれてある。だから、そうしたところを読まれて失笑したり哄笑されるのも、
またほろりとされたり、そしてまた全体的にみて、「ふうん」と感心して下さるのも、それは読者の自由である。
ただ私としては、プロの作家と違い下手くそだからごめんなさいと、言うしかないのである。
人生の頽齢期を迎えて、いくら長命の時代とは言え、神がいるなら、お目にかかる日はそう遠くないだろうと覚悟している今、市井に棲む草莽の募銘碑として記す。


 令和を拝し、忠烈萬世に燦たる皇恩に謝せり


源実朝と金槐集の考察 頼朝の子として生まれながら、悲しくも哀れな生涯の実朝

2021-11-18 11:53:22 | 新日本意外史 古代から現代まで
源実朝と金槐集の考察   
頼朝の子として生まれながら、悲しくも哀れな生涯の実朝

現在ウイキペディア等ではこの歌集は次のように解説されている。
『金槐和歌集』(きんかいわかしゅう)は、鎌倉時代前期の源実朝の家集(歌集)。略称で『金槐集』とも呼ばれる。
成立は藤原定家より相伝の『万葉集』を贈られた建暦3年(1213年)12月18日頃とする説が有力。全一巻、663首(貞亨本では719首)掲載されている。『金槐和歌集』の「金」とは鎌の偏を表し、「槐」は槐門(大臣の唐名)を表しているため、別名鎌倉右大臣家集といわれている。但し、実朝の大納言(亜槐)や大臣(内大臣、右大臣)叙任は建保6年1218年である。
昭和4年(1929年)に佐佐木信綱によって発見された定家所伝本と、貞享4年(1687年)に版行された貞享本の2系統が伝えられている。前者は自撰・他撰(定家による撰)両説あるが未詳。後者も、奥書に「柳営亜槐」による改編とあるが、「柳営亜槐(征夷大将軍と大納言)」が誰であるかは諸説ある。江戸時代の国学者賀茂真淵に称賛されて以来『万葉調』の歌人ということになっている源実朝の家集であるが、実際は万葉調の歌は少ない。所収歌の多くは古今調・新古今調の本歌取りを主としている。
しかしこの解説では、実朝がどんな状況で何故にこんな寂しい歌を、こんなにも沢山詠まなければならなかったのかには触れていない。

以下に実朝の歌の幾つかを抜粋したが、読んで判るようにいずれの歌も詠歎調で寂しげで、無常観が読み取れる。
それはまるで、ロドリーゴの奏でるアランフェス協奏曲のような、哀調を帯びた十弦ギターの音色が想起される。

◎神風や朝日の宮の宮遷 かげのどかなる世にこそ有りけれ
◎み熊野の梛の葉しだり雪降らば 神のかけたる四手にぞ有らし 
◎いそのかみふるき都は神さびて たたかにしあらや人も通わぬ
◎塔をくみ堂をつくるも人なげき 懺悔にまさる功徳やはある 
◎世の中は鏡にうつる影にあれ あるにもあらずなきにもあらず
◎神といひ佛といふも世中の ひとのこころのほかのものかは
◎黒木もて君が作れる宿なれば 萬世ふともふりずも有りなむ
◎山はさけ海はあせなむ世なりとも 君にふた心わがあらめらも
◎大海の磯もとどろに寄する波 われて砕けて裂けて散るかも 
◎みちのくにこににやいづく鹽釜の浦とはなしに煙立つ見ゆ 
◎いとほしやや見るに涙もとどまらず 親なき子の母を尋ぬる

実朝は源頼朝の次男に生まれている。嫡男は頼家で、長女が大姫、次女は三幡となっている。
嫡男の頼家には公暁と、一幡の二男が居た。

    父頼朝の怪死

時は正治元年(1199年)。当時千幡と呼ばれていた八歳の実朝の元に、「落馬して頭を強く打った」と父の頼朝の死体が運ばれてきた。
だが、その後にすぐ、誰かが待ち伏せして木の枝から飛び掛かって、切り石の角で滅多打ちをして撲殺したのけたのが死因との風評がすぐに広まった。
そしてすぐさま、梶原景時の郎党を捕まえた政子が、頼朝を襲ったのは梶原の家人の仕業だと発表した。
だから、その年の暮れになると、梶原の武者が六浦の赤松林に忍んでいたのを見たという証人や、密かに逃げ出していくのを目にしたと、訴える目撃者まで捕らえられた。

そこまで生き証人が揃っては、この時十八歳だった兄頼家は激怒してしまった。
それゆえ、屋島や壇ノ浦合戦に大功のあった梶原源太景時だったが、「所領召し上げ追放」の沙汰を十二月十八日に布令した。
驚いた梶原が「いわれなき濡れ衣でござる」と、家人を伴って鎌倉へ向かっているとの知らせが伝わると、
「梶原の郎党一人ずつの面体もよく知る三浦義村に討手を命じよ」と政子は頼家に代わって指図し、駿河の清見潟で、景時以下郎党の末に到まで一人残らず殺させてしまった。
この時実朝九歳の冬であった。

政子や北条一門の首脳たちは、頼朝の死後、順序から言えば次の将軍は実朝の兄である頼家だが、跡目にしたくなかったのだろう。
だからずっとほおっておかれた。しかし侍所別当和田義盛を初め、よってたかって皆が何度も進言したので、ついに健仁二年七月二十三日、ようやく二十一歳になった兄頼家が、
征夷大将軍になることが出来た。(これは日本史にも記されている)
こうした政子や北条一族の恐怖政治を目の当たりにした実朝としては、恐ろしい相手だと、政子に睨まれては命とりだと、毎日がまるで薄氷を踏む心地だった。
翌年健仁三年八月二十三日、「将軍となりたるが頼家は病弱の身、よって関東二十八か国の地頭取締の総守護は、頼家の子一幡、関西三十八か国は頼家の弟千幡にまかす」
といった発令が政所から出された。実朝はこれで当分殺されずにすもうとほっとした。
ところがである。(もはやこうなっては早晩、父頼朝の如く吾身も横死させられるは必定)と兄頼家は比企の手勢を頼みにして政所を攻めようとした。
だが、予期していたのか政子によって九月二日の夜、逆に軍議中の頼家の館は包囲され、火をかけられ、幼い一幡までもが焼死した。
そして五日後、実朝は政所へ呼び出され、政子よりいきなり兄に代わって将軍になるよう命じられた。

将軍になった実朝だが、全くの御飾りで権限もないから、毎日なすこともなく無聊をかこっていた。
この時期に政子から押し付けられた結婚相手が足利義兼の娘だった。しかし精一杯の政子に対する反抗で、足利の娘を拒み、坊門大納言信清の息女をを迎えた。
他の事ならこんな勝手は絶対に許さぬ政子だが、初めて言い分を許してくれた、これが最初にして、それも最後でもあったのた。

「あの海原の向こうに契丹国(宋)があるのか?」今は東大寺の仏像工として、鎌倉に来ている契丹の国人で、陳和卿に実朝は聞いた。
何時政子に殺されるかも判らぬ現実を脱出したいがため、実朝は聞いたのである。
そして大海を渡れる船の建造をするため、船造りもできる陳に設計させ、大江広元に造船工事を四か月かけてさせた。
由比ガ浜に宋船もどきの大船が出来上がった。だがこれが政子に知れて、進水差し止めの命令が来た。
いつ政子の命令で殺されるかも判らぬ鎌倉にいるより、実朝にしてみれば、契丹でも天竺でも何処でもいいから脱出したかったのである。

    北条焚書

承元二年正月二十六日。政所の廓内を避け、武者大路の端に設けてあった問注所が、政子の命令で火をかけられ、これまでの公事記録の入っていた土倉までが灰にされた。
頼朝の頃からの文書も全てが焼け灰となってしまった。(これを日本史では北条焚書という)

この後、政子とその母である牧御前が溺愛していた娘婿の平賀朝雄を、熊野浦から伊勢伊賀へ逃げ込んでいた敵側の残党を討伐した手柄で「将軍に換えよう」と、
夫の北条時政と画策した。しかし源氏の武者たちがまだまだ鎌倉に多かったため、時期尚早とみたか、政子と意見が合わず、父の時政は執権職をその子の義時に譲って引退した。
が、その代わり実朝が己が猶子にし跡目にした頼家の子の善哉を、
「鶴岡八幡宮の別当尊暁が承元三年に亡くなられてより、空位のままゆえ・・・・」と政子はさっさと命令して、公暁と改名させて鶴岡の別当にしてしまった。
時に実朝は二十歳に成人していた。そして実朝が幼児より頼りにしていた和田義盛の倅の義直、義重、胤長らが、いきなり謀叛容疑で捕らわれたり、殺されたり陸奥へ流されてしまった。
実朝にすれば、「さながら二階堂の大きな柿の木の実が一つずつ、もげ落ちるような有様じゃな」と心細かったろう。
だから、実朝は京の権中納言藤原定家(新古今和歌集の作者)と歌のやり取りをして、心細さを紛らわしていたのである。

今日、『金槐集』として残っている実朝の歌集は、渡宋に失敗した後の実朝自身の挫折した心の痛みなのである。
北条政子が、天照女神のお告げであると、甥の泰時に三十万余の軍勢を授けて京を討ち、天皇や上皇を隠岐の島や佐渡島に流罪にしてのけた、承久の役が、すでに数年後に迫っていた。
だからこの慌ただしい雲行きに京の朝廷では憂慮され、「何卒よしなに・・・・」との後鳥羽上皇よりの密書が、藤原定家卿の歌の添削の束に収まって届けられてきたのもこの時である。
(当てにして頂いても、将軍職といえ名ばかりの私めの立場でございまする・・・・・)と実朝は侘しくなりはしたが、それでも、
「山はさけ海はあせなん世なりとも、君にふた心われあらめやも」
といった三首を、定家を通じて上皇へ献じた。が、これがまずかった。
「歌作りなどに精を出しているいるゆえ、無難と思って放っておいたが、これから成敗せねばならぬ京方と通じ合っていては許せぬ」
実朝の側近につけてあった次女からの知らせを聞くなり、政子は直ちに鶴岡八幡の別当公暁をを呼び寄せた。

「今までいわずもがなと黙っていたが、そちの父の頼家や兄の一幡を殺させたのは、自分が取って代りたいため実朝めの野心のなせる業。よってそのほうの身も危ないと思えばこそ、
実朝の猶子より安全な鎌倉八幡宮の別当職につけたのである。」
まことしやかに政子にたきつけられると、まだ十九歳になったばかりの公暁はすっかり本気にしてしまった。
承久元年正月二十七日。
八幡宮の石段の銀杏の樹陰に身を潜めていた公暁は、体当たりで参拝に来た実朝めがけて飛び掛かり、力任せに一突きした。
こうして政子は源氏の血を根絶やしにし、頼朝の妹の孫にあたる九条家へ嫁していた倫子の二歳になる頼経を次の将軍にし、鎌倉へ迎えた。

すぐに北条一族の者に将軍職を渡してしまっては、まだ早きにすぎるととの深謀遠慮であったらしい。
そして有名無実の赤子の将軍頼経の後見役に、気に入りの兄の北条義時をたてて、政子は執権職になったのである。
こうしてこれ以後、北条九代の政権が続くのである。


漫才屋 太田光

2021-11-08 18:39:52 | 新日本意外史 古代から現代まで
漫才屋 太田光

 総選挙の結果を予想し、各テレビ局の「選挙特番」では視聴率競争が激しく、司会者やメーンキャスターの起用には苦労したようだ。
中でもTBSの番組で漫才屋の片割れ、太田光の傲慢不遜と下卑た毒舌がネットでは、批判と擁護の書き込みが喧(かまびす)しい。
この男、相棒の田中とは人間性がまるで違う。テレビで跋扈している「悪質性人間」の一人である。
同じくプレバト司会者で、出演者を馬鹿にし直ぐに頭を叩き、「ガハハ」と馬鹿笑いの浜田と双璧をなす下種悪相、芸無し、悪質漫才屋である。私なら頭に手が来た瞬間、みぞおちに一発喰らわしている。

落選した甘利氏や二階氏にも礼儀を弁えぬ物言いをしていたが、言われたほうの対応も「男」として情けない。
こうしたテレビの口舌の徒の無礼には「下郎ッ。下がれッ」と一喝するのが正しい。

今やテレビは「テレビ蔓延寄生悪性ウイルス」とも言うべき、漫才屋集団に席巻されて末期状態である。「漫才屋蔓延防止法」を発令してほしい。漫才屋の居ないテレビ番組を探すのが難しいほど。
女の漫才屋もデブ、ブスと気色が悪い。こう書くと偏見だ、差別発言だと、脳味噌が四分の一がどこかへ行っている人は批判するが、私は「区別」しているのである。
差別された人間には物理的損害が発生するが、区別や偏見は自己の精神的領域なのである。「芸人」を名乗るなら「芸」を見せてほしいものである。
ネットで太田の細君が「芸人は馬鹿なのよ」と擁護していたが、馬鹿を売り物にしてはいけない。
そしてなにより、こうした「芸無し漫才屋」に頼らなければ視聴率を稼げないという他力依存思考のテレビ界の衰退現象である。早晩テレビは消滅しネットに取って代わられるだろう。
ネットでは太田を評して「風情」との書き込みが在ったが、昔のを知らないのだろう。

以下に、「史料」に基づいた「」の解説をしておく。

〈下学集〉に、いにしえ院(因)地打ちで石合戦に使う河原の石を確保しておくため住みついたのが、芸事をしだしたゆえと「屠児也」とす。カワタとかカワ坊、カワッパとも謂う。
                                  
 「片居」「傍居」と〈和訓栞〉には、路頭に芸をなし食や銭を貰う者とし、、「別火人(ほかびひと)」つまり他の者とは火種を同じくせぬ者と〈楊氏漢語抄〉にはあり、「外居人」の文字をもってあてている。
 〈蜻蛉日記〉〈大和物語〉〈宇治拾遺〉〈土佐日記〉〈伊勢物語〉これらは当時の体制側で藤原王朝ものでは異端とされ、〈和漢三才図会〉では、
今いう芝居で顔に塗料を塗るのを、さもハンセン病のごとしとなし、それが広まって「カッタイ」とその病者の別名のごとく誤られています。まこと酷い話である。

この、火種を他と同じくしないのは、「同門同火の禁」という掟のある拝火宗徒のことを指す。それがカタイと同じにされているのは、もう藤原中期には共に被征服民どうしとし、
占領側の貴種の者からは、海洋民族と騎馬民族が一緒くたにされていたのだろう。

 カワタ、カワボウ、カワッパというのは騎馬民族の子孫が、死馬の皮をはいだり、獣をとって製革業をした名残りだが、米沢でいうカボウは火坊とかき「火の用心さっしやりませ」と拍子木を叩く夜廻りをいいます。
江戸でいう番太郎ですから、火の字がついても騎馬民族系の筈です。ボウをば誤って「坊」の字と当てているので可笑しいが、つまり蔑称とされるデクの棒の「棒」のことです。

 九州の隼人王朝は、あくまで唐に対して反抗した高麗系の子孫ゆえ、文武帝の〈大宝律令〉では、奴隷として都へ貢進され、儀式の時には四つ這いにされ犬のごとく吠えさせられ棒と呼ばれました。
 後には、六尺棒をもたされ田畑番や捕方にされたから、みな「ボウ」と呼ばれるのである。
大陸系は「防」とし鋼鉄製の青竜刀など持って威張っていたので、その従卒みたいに彼らは木の棒をもたされていただけの事で武装奴隷として戦時は送り出されていた名残りだったものといえるようです。

 「」の発生

日本史ではこのについて、誤解が多いのでここに真相を書いておきます。
先ず、古い浄瑠璃の<愛護の若〉では四条河原にたむろする「細工の者」といったとでている。
 さらに源頼朝の出したと云われる、頼朝御判28種では、細工人つまり職人はみな日本原住系の限定職種となっているのである。だから間違いではない。

平たく言えば、日本列島に自然にある動植物や鉱物を採取したり加工する権利は、原住民のものという権利を与えた。これは幕末まで続いた制度であった。
しかし、本当は公家とよばれる藤原氏は捕虜として奴隷百姓にして働かせている者らは従順だったが藤原体制にまつろはない彼らは、強制的に囲地に入れられた。

かれら原住民は藤原体制の奴隷になることを徹底して拒んだからなのである。
だから藤原体制は、奴隷になるのを拒む連中の許へ、毎年五月五日に限って百姓が石打ちに押しかけるのを許したのである。

何故なら、奴隷百姓は汗水たらして過酷な労働に追い立てられているのに、彼らは労働に従事せず、税も払わぬ部族だったからである。
だから百姓は羨ましがり、彼らを憎んでいたから日頃のうっぷん晴らしに年に一度に限り襲うことを官許したのである。

これを京では「院(因)地打ち」とよんだ、つまり人の上に人をではなく、その反対に人の下にわざとを作って、石つぶてで打ち殺しても構わぬものとしたのである。
官許というか公家後援があるため、白川とか山科、桂、大原といった収容所へ当日は群れをなして竹槍まで持って押しかけ、放飼いの鯉を戦利品として持ち帰って、
これ見よがしに竹の先に剌したのを、家奴隷も百姓奴隷も軒ごとにたてた。

これが後には「尚武の節句(本来は勝負の意味)」となり、現在の鯉のぼりになるのである。
 しかし襲われる者達も黙って待っておられぬ。石合戦ゆえ小石の多い河原を確保するために、四条河原から加茂川一帯に住みつきだした。
が小石を押えるため石の沢山ある河原に小屋掛けしていても、石では食せぬし銭にならぬ。

そこで細工物をしたり、芸をみせてやむなく生きてゆくために銭稼ぎをした。後に役者のことをそう呼んだり、河原埼権十郎といった名が生まれてくるのも、圧迫され通しの日本原住民系としては、
石合戦への応戦の必要があったからであって、やはりそれなりの訳があるのである。

だから芸人(漫才、落語、講談師、歌手、役者、タレント、)という人間たちは、差別と弾圧、迫害され続け、風雪に耐えた歴史の中から、その抵抗の精神を芸に昇華させるから素晴らしいのである。
だが、近頃の芸人と自称する者たちにはこれが全く見られない。
「芸」と呼べる代物でなく、全くのウルサイい馬鹿真似を芸と勘違いしている。


  漫才発祥の地「三河萬歳」

「へえ、あけましてお芽出とうござりまする・・・・・さて年の始めのためしとて、お寿の御祝い、ハアッさてもこの春も麗らかに、千年の丹頂の鶴。
 萬歳緑毛の亀。ともに舞い遊ぶ御代の春こそたのしけれ」
「・・・・・・千代のためしの数々に何をひかまし姫小松。縁起を祝うて緑の亀も舞い立てば、丹頂の鶴は一千年の寿命をば差上げ奉らんとこれも舞い上がる。よおッ」とポンポン。
このように、小鼓や笛で音を出し、身振り手振りを交えて面白おかしく二人の呼吸をぴったり合わせ、見る人から幾らかの銭を貰っていた。

故子母沢寛の「東海遊侠伝」の中で、清水の次郎長にくっついて歩く髪結常が、「結構うまくなったから三河萬歳になるか」といったくだりがあるが、これも間違いである。
三河は小坂井村の松永太夫、尾張萬歳は尾張あじま衆と厳然と決まっていて、今日のごとく、のど自慢で優勝したから流行歌手に、といった具合にゆかなかったのである。
ましてや、汗して労働をしたくないから、漫才やってテレビに出て番組を一つ任されたら「一生もんだァ」など気楽でも手軽でもなかった。
厳然と世襲制になっていたし、また猿飼部族と共に萬歳は一つの氏族になっていたのである。