新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

細川ガラシャ殺しの秘密 (ガラシャは明智光秀の三女で玉子)

2019-11-29 17:55:22 | 新日本意外史 古代から現代まで

  細川ガラシャ殺しの秘密
 (ガラシャは明智光秀の三女で玉子)

 ガラシャことお玉は、当時、長岡与一郎といっていた、後の細川忠興の嫁となったが、天性まるで玉をあざむくような麗質だったゆえ、
忠興は二なき者として熱愛した、といわれている。
 それゆえ本能寺の変のあった時も、彼女に災いが及んではと三戸野(みとの)に秘かに匿し、秀吉に対して命乞いをした。そこで、その情にほだされ、
「明智光秀の娘とはいえ、そこもとへ嫁入りしてござったからには、なんの係りもないことゆえ、心配などせんでよろしい」と、秀吉も彼女がそのまま忠興の妻であることを許した。
 のち秀吉が亡くなって、関東関西お手切れとなったとき、忠興が家康について東下りしていたのを、なんとか味方に引き入れんと、
西軍は彼女を大坂城へ人質に迎え入れんとした。しかし、己れの玉をあざむく美貌をよくわきまえていたお玉は、
「私のような美しい女が大阪城へ連れてゆかれては、貞操を奪われるやも知れませぬ。それでは愛してくれている夫に申しわけとてなし」
 と留守居家老の小笠原少斎をよびよせ、己れを槍で突き刺すように命じた。
 少斎も、忠興の嫉妬が強いのはよく知っていたから、部屋へは入らず廊下から刺殺し、自分も屠腹して、屋敷に火を放った。
 そのため、戻ってきた忠興は、最愛の妻の死を悲しみ、少斎の黒焦げの屍を蹴飛ばすと、涙をこぼし男泣きに喚きたて、
「よくも早まった事をしおった」と口惜しがって泣き喚き、足蹴にしたとまで伝わっているが‥‥この話、はたして大衆作家が書くようなそんな愛妻物語だったのだろうか。

 長岡の姓を何故か改めてしまった細川忠興というのは、あの時代にあっては「きけもの」として知られた人物である。それが、そこまで取り乱すとはヒイキの引き倒しで変ではないかといった気がする。
 それにこういった話は実際に有ったにしても、今でいえばプライバシーにも当たる事柄ゆえ、伏せられてしまうのが当然である。
なのにどうして『細川家記』とよぶ家伝史にまで、これが入れられているかという謎である。
 普通なら匿し通すべきことが、事さらに記入されているのは、見せつけではないかといった疑いなのである。

 そこで、美人ではなく、この話を裏返しに組み立て直すと、
1.お玉はきわめてブスだった。が信長の命令ゆえやむなく嫁にした。
2.本能寺の変後、秀吉は何らかの必要上、お玉を殺し、差し出すよう細川忠興に命じた。しかし細川家では、幽斎が、何かの生き証人になるからと、
  出奔して行方知れずと報告して、その実は三戸野へ、切り札として隠しておいた。
3.このため秀吉としては、お玉を殺させる時機を逸したが、その内に、関白となり、もはや天下に憚るものもなくなったので、その儘で放任しておいた。
4.処が慶長三年(1598)八月に秀吉が他界。一年おいて慶長五年。上杉景勝がその有する黄金にものをいわせ、独力で天下を相手に謀叛せんとする企てに、
  徳川家康は討伐隊を率いて東上。これに細川忠興も従った。
5.さて小山まで兵を進めていた家康も、石田三成が旗上げしたとの報に接するや江戸城まで引き返し善後策をねった。その時に、忠興が家康に命ぜられたのは、
  伏見長岡屋敷へ住まわせてあるお玉の口ふさぎであった。
6.お玉が何かを知っていて彼女の口からそれが洩れでもすると困ると、かつて秀吉もおおいに案じたが、家康もこれからの合戦を前にして、これにはすこぶる難色を示した。
7.しかし忠興は、長年の妻でござればとこれをまず拒んだ。すると家康は恩にきるから大事の前ゆえ頼むとまでそれを求めた。
  よって忠興はそれではというので、安心して託せる小笠原少斎の許へすぐさま使いをだした。
8.もし、お玉が大坂城へつれてゆかれこの明智光秀の娘が、知っている事をもし責められ口外したとしたら、家康の信用はがた落ちして、
  関ヶ原合戦に先立ち東軍についた諸大名は、みな四散してしまう恐れがあったらしい‥‥ことにこれではなる。
  つまり、逆にすると、こうした結果になる。もちろん当て推量であって、唯まるっきり正反対にしてみた迄のことで、これにはなんら援用できる資料など有りようもない。

 だが、こうした大胆な推理ができるのは、信長殺しの斉藤内蔵介の娘阿福が、
「春日局」の名で江戸の実権を握るや、後述のごとく、片っ端から外様大名の取潰しをした家光の時代なのに、やはり取潰しにあっても仕方のない外様大名の細川忠興に対し、
十二万石から五十四万石へと常識では考えられぬような大巾の加増がなされるという奇怪さからである。
 とはいうものの、これまでの説を、まず順を追って当たって行かぬことには、話が飛躍しすぎるからそれに戻ってみるが、どうも話しは、もちろんみな真赤な嘘であるらしい。
いくらお玉が美人であったとしても、その夫を味方にする目的で、大阪城へ連れてゆこうとした西軍が、彼女の操など奪う筈はなかろう。これは常識である。
 それに、このとき彼女は既に三十八歳。長子の忠隆も二十歳になっていたのである。いくら美人であったにしろ、ろくな化粧品もなかった時代の、しかも四十近い女にそんな心配があろうか。
 また忠興は激怒して、少斎の遺骸を足蹴にしたというが、関ヶ原合戦の始まる前に火をつけたのが、凱旋してきた数ヶ月後まで、そのままだったというのも変てこだが、
熊本市に残っている『小笠原家記』をみると、
「小笠原少斎の跡目長基に、細川忠興は姪のたね(後に千女)を己れの養女として一緒にさせ、その間にできた長之という伜に、その二十三年後の話だが、
忠興はやはり弟の娘のこまんを己が養女として縁づけ」て居るのである。
 これは『細川家記』の方にも、その裏付けが、「細川幽斎の孫娘にあたる千(せん)
女が、小笠原少斎の次男長基に嫁した」と、はっきり記録されている。
 さてこうなると、妬情にかられ屍に鞭うつように蹴飛ばした男の跡目に、なぜ自分の養女を縁づけたのか。そしてその生まれた子にまで、また養女を作って一緒にさせ、
二重三重に縁結びして、少斎の遺族を雁字絡めにする必要が、どうしてあったのかと怪しくなる。
 さて寛永九年(1632)十月のことである。それまでも、それから先も徳川家というのは諸大名の取潰しや、減封ばかりしていた筈なのが、
「恐れ多くも、上さまの思召しである」と、春日局は、将軍家光の台命として豊前小倉十万石の細川をよびだし、
「其方は、わが亡父斉藤内蔵介とも入魂(じっこん)の者なれば‥‥」つまり、斉藤内蔵介の遺児の阿福として、亡父と仲良しだったから取り計ってあげましたのだと、先によく断ってから、
「肥後十二万石、豊後三郡しめて五十四万石」と、これまでの十万石に比べると、5.4倍のベースアップをした。しかも肥後の国というのは豪気な秀吉でさえ、
「彼地は収穫の多い美国である」と惜しがって、気に入りの加藤清正や小西行長にさえ、吝って半国ずつしかやらなかった処である。
 そうした屈指の最上等の国を、まるまる忠興に、格別これといった手柄もないのに、急にやってしまったのは、何故だろうか‥‥
 さて貰った忠興はどうしたかというと、お玉が産んだ長子忠隆は山城北野へ追放、次男興秋は江戸へ送り(途中で脱走し山城東林院で、首つり自殺を遂ぐ)、
お玉の死後に別の女に産ませた三男忠利をもって、五十四万石の当主にたてた。これでは忠興が、
(お玉を熱愛していた)という愛妻美談は、どう見てもまったくの嘘になる。
 そして、お玉を殺し自分も死んだ小笠原少斎の遺族を、何重もの婚姻政策で縛ったのも、そこには秘密漏洩を気づかっての、糊塗策としかみられぬものがある。つまり、
忠興にとって、お玉を大坂城へ入れずに少斎が殺したのは、非常な恩恵であり、そのために五十四万石になれたような、何かがあったものらしい。
 ということは初めに疑わしく書いておいたが明智光秀の娘であるお玉が、大坂城内へ連れてゆかれ、そこで口を割って、もしも本当の処を、
「実は、信長殺しの真相は、かくかくでございました」とでも真相を明らかにしていたら、東軍に加担していた大名の中でも、旧織田系はいたから、
それらが家康から離れて東軍は危うくなり、関ヶ原合戦で勝てなかったかも知れぬ、というキーポイントがそこには秘められていたのだろうと推理される。だから、
「その口をふさぐ為に、お玉を殺し、自分も格好をつけるため死んでくれた少斎は、細川家にとっては大忠臣」という事になって、代々殿様の御養女を下賜されるご一門の扱いになったものらしい。

 では、その秘密とはなにかというと、
「天正十年六月二日の夜明けに、信長のいた本能寺を包囲した軍勢は、丹波口から京へ入ってきた」という事実によるものである。
 丹波は誰、丹後は誰と、国別に大名領の区画整理ができたのは、関ヶ原合戦から後のことで、天正十年の頃はまだ入りまじっていて、丹後でも三戸野辺りは明智領だったが、
丹後も京への入口の船津、桑田の二郡は、これは当時長岡藤孝を名のっていた細川家の領地である。
 つまり、その昔、
「大江山」とよばれた老の坂から京の入口までは、「長岡番所」とよばれる細川家の見張番小屋が何ヵ所も続いていて、京への出入りを監視する役目をいいつかっていた。なのに、
「敵は本能寺にあり」と叫んだかどうかは判らぬが、斉藤内蔵介の率いる軍勢が、この何ヵ所もの細川番所の関所を、六月一日夜から二日にかけて、堂々と通ってきたのである。
しかも僅かの人数が巧く身をひそめ、隙を窺って通り抜けてきたというのではない。
 一万三千の頭数が堂々と大手をふり、フリーパスで通行してきたのである。こうなると、細川忠興やその父の幽斎は、斉藤内蔵介としめし合せていたか、
前もって徳川家康に頼まれてOKしていたかということになる。
 そうでなければ、一万三千の内の何パーセントかは、細川忠興または幽斎の率いていた丹波桑田か船津の兵ということにもなる。
 つまり細川家こそ、巧く生き残った信長殺しの下手人の一人で、「その汚名をかぶせられた明智光秀の三女であるお玉」は、その真相を知っていたからこそ、
もし大坂方に暴露されては、徳川家の不為と考え、少斎がこれを刺殺したのだろうし、「その時の借りを返すため」に徳川家は、斉藤内蔵介の遺児の春日局の手をへて、
5.4倍の増禄をあえてしたのだろう。なお、
『細川家記』には、明智光秀の手紙と称する物が入れられてある。
 光秀自身が自分が謀叛をしたのは与一郎(忠興)の為であるといった内容のものである。これは、文章が次々とおかしく、与一郎に敬語をつけている点などから、
細川家の家来の贋作ではなかろうかと、故高柳光寿氏も指摘しておられたが、細川家といえば名家という事にはなっているが、
十二万石から明確でない理由で熊本一国の領主になっただけあって、なんとか取りつくろおうと懸命になって、その係りの専属家臣をも代々おいて、
さも尤もらしい色々な話を創作したというか贋作させ、それをまとめて、
「細川家記」として今に伝えているのだろう。もちろん後半はなんということはないが、幽斎、忠興の二代の間の記録ときたらみな眉つばものであるといっては過言ではあるまいといえる。
 なにしろ、イギリスの推理作家アガサ・クリスティでさえ、
「アリバイが揃いすぎ、もっとも尤もらしいのこそ怪しい」といい切っているのが、細川父子にも当てはまるのではなかろうか。
 だが、それは信長や光秀、そして殺されたお玉お側からいうことであって、五十四万石に所領を増やし家臣一同をうるおした忠興の存在は、
細川の家来にとっては神様みたいな存在だったから、肥後一国の全力を結集して色々と庇うように、手作りの史料などを付け加えたのでもあろうか。


織田信長の出自 信長マカオ占領計画

2019-11-26 10:19:45 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
信長の出自で、諸説は色々在るが故菊池山哉の研究に「アマの国は淡海の国か」とある。
天の王朝のことで、この王朝の民は尾張むらじの系図の中に隠しこまれていて、判然としないが、 判りやすく言えば近江八田別所に隔離されていた一族が、越前、加賀の仏教勢力である一向宗の勢力から逃れて尾張へ行き、織田家に仕え勝幡城の城番となったのである。

そして織田の姓を貰った旧姓八田信秀の子が織田信長なのである。
そして信長が美濃を入手するや伊勢を占領し、やがて近江に入り琵琶湖畔の弁天崖に七層の安土城を建てて君臨したのも、 彼だけの武勇知略ではない。

<天下布武>では尾張、伊勢に多い「八」の民が、天の王朝復活のために彼に協力し、世直しをして欲しさに米穀の在る者は出し、男は皆武器をとって、信長に従って進撃したものらしい。

「・・・又も負けたか三師団」といった言葉が戦時中あった。
これは東北健児や九州の師団と比べ、京都と名古屋の兵は弱いのが有名で評判にされたのである。

「名古屋商法」といわれる程、銭儲けにはたけているが、戦場で勇ましい話しはあまり伝わっていない。
つまり接近戦の苦手な尾張兵のため、信長は鉄砲が喉から手が出る程欲しかったのである。

だから、大国ロシアと戦うには奇襲戦法しかないと、明治軍部が桶狭間合戦、をおおいに宣伝したが、この時ついていったのは山口飛騨守、佐脇籐八、らの四人の近習者だけにすぎない。

大勝利の筈の桶狭間合戦なのだから、その時の近習達を重用するのが普通だが、信長は棄て殺しにしようとしたため、 彼らは家康の許へ身を寄せ匿って貰っている。

(こうした彼らの謎の行動に歴史家は何故目を向けないのだろう)

という事は、三万五千からの大軍を率いて上洛せねばならぬ立場の今川義元が なにも近くの尾張で戦うならば、前もって掃討していた筈であるし、それが戦国の常識である。

だから実際は信長は既にもう降参していて、尾張領内は無事通過の保証がされていたと見るのが常識である。

 なのに俄かの大雨で、信長が畏怖していた今川本陣の火縄銃が濡れ、全く唯の棒っきれになっている田楽狭間の光景を見て、 信長は心変わりして、ぞろぞろついてきた野次馬や一旗組を指揮して本陣目がけ逆襲したのが真相らしい。

 これは戦などというものではなく”裏切り行為”である。

だから家康は裏切りの生き証人として万一の際に備えて彼ら信長の近習を匿っていた。
だからその為、高天神城が攻められた時は信長は援軍を一兵も送っていない。
だが三方が原合戦の時は、家康は彼ら生き証人を最前線に出して棄て殺しにしてから、信長に救援を乞うたのである。互いに虚々実々の駆け引きである。

  さて分捕った五百挺の銃を持ち帰り、秀吉の妻、ねねの兄の木下雅楽助を鉄砲奉行にして、 永禄三年から、毎年夏になると美濃へ日帰り進攻をくり返した。
が、新兵器を持たせても尾張兵は弱い。

毎年連戦連敗。みかねた信長の妻の奇蝶が、まむしの道三と呼ばれた斉藤道三の娘ゆえ、買収戦術に切り替え、美濃三人衆の安東伊賀、稲葉一鉄らを抱き込んでようやく永禄七年に美濃、 井之口城を占領した。

岐阜城と名を改めて大増築工事中の永禄十年に、斉藤龍興が、服部右之亮らを先手として一向宗の力を借り舟をかり集めて長良川から攻めこんできたのを、本城は改築中ゆえ今の洲股大橋の処の中州に砦を作って、
木下籐吉郎が防いだだけの話しである。

  こんな事も歴史屋共は判らなく、講談の儘なのが現状である。
明治に入って学士会を押さえる華族会会長の徳川公爵が青山堂から「松平記」を刊行して、
家康はの出身だった、と暴露した「史疑徳川家康」を書いた村岡素一郎の刊行本に対抗させると、東大史学会は徳川家の「松平記」の方を創作と知りつつ確定史料と認定した。
 有体は史学会の歴史屋共が、徳川慶喜に金を貰って嘘と知りつつ買収されたのである。
その中に斉藤龍興の美濃合戦が狂歌として入っているので、岐阜城陥落は永禄十年が学説とされている。

  余談になるが、那古野と呼ばれていた時代から奴隷扱いされていたので、尾張兵は弱かったと想われる。
それが調略とはいえ、伊勢を押さえ近江まで進出出来たのも天の王朝復活のため、 八の民が進んで協力したからである。

  播州赤穂の森城主が今で言えば体育のため、木刀の指南を召し抱えたというのが、 今で言う治安維持法の叛乱予備罪容疑とされ、城地を没収され妻の里方へ身柄お預けになった。その後へ浅野内匠頭の祖父が上州から転封されたきた。
この時に「塩尻」と呼ばれる製塩奴隷として那古野者が、強制移住させられたことがある。
関西へ行けば扱いで苛められるからと、連行中に脱そうを企てた連中は漁食人種なのに 山国の信州の囲い地へ送り込まれてしまった。

此処が今では「塩尻峠」の地名で残っていてトラック便の中継地点になっている。
つまり天の王朝の民は名古屋を中心に伊勢の荒神山から三重の桑名に近い矢田河原まて住まわされていたので、
愛知県海部字市江町が、かっての邪馬台国ではなかったかとの異説をたてる者もあるくらいである。

現代でも名古屋市が市章に○に八を入れているのも、かって弱かった尾張兵がこの紙旗で進軍していたせいである。
彼ら旧平氏の祇を信仰する者には、同堂、つまり同じ宗教の者とは戦わぬとされる厳しい戒律があった。

神社とか神宮はネギというのを、彼らの拝み堂で、博士、とか小太夫と呼ぶ。元締めは太夫とかと呼ぶ。
一方騎馬民族では、の元締めは弾正とか弾左エ門という。

だから信長は鉄砲隊を全面に押したてて、尾張から美濃、伊勢、近江と進軍して、三河以東の騎馬民族の末裔たちが頑張る土地は家康に委せたのも、それなりの訳があったのである。
どうも信長は初めの内は、日本全土制覇といった野望は無く、同宗の圧迫されていた地域解放だけを目指していたようである。
 しかし本能寺で爆死する数年前辺りからは、マカオの火薬を一手に入手し、「八」の民の大同団結を図り、 天の朝の復活を目指して日本統一の計画があったふしも窺える。

というのは、秀吉の代になると「何処方面を討伐せよ」と、武将達に軍資金を渡していたが、
信長はもともとアマの民の物を取り戻すだけだからというのか、金は出してやっていない。何しろ永禄六年に商売はハチの者に限ると布令を出している。
つまり物の売買は「八」と呼ばれる同族に限ったで、清洲を税金無しの楽市にしたり、当時は課税のため設置されていた関所の徹廃もしてのけた。
「八」はヤとも発音するゆえ、これが尾張屋、近江屋、松阪屋といったヤ号となって現在も残っている。

また、蜂屋頼隆らを使わし、勝手に商売をしている地区からヤ銭を徴収させ、それを軍費に充当させていたのである。
まあ、やらずぶったくりの合理的戦法である。

永禄十一年信長は堺衆に対して「矢銭二万貫の割当て」と日本史にる。

従来この矢銭の解明が出来ず、(弓矢の矢代=軍費のこと)
(屋銭と解釈して=棟別銭)の二通りの分け方がされている。

  しかし尼子資料の「出雲鉢屋記録」でははっきりと「八銭(やせん)」となっている。だからこれは、八族である原住系が、
(これまで同族を奴隷に売り払って不当利益をあげていた仏徒に対する罰金)として強制徴収したものらしい。

この年の上洛の時の信長は、弓矢より良く飛ぶ最新兵器の鉄砲で武装していた。
だから、もし軍事費名目なら弾薬代とか、弾銭、というべきで、もうこのの時代の名目としては「矢銭」では可笑しい。

  秀吉時代になると「段銭」という文字が出てくるから、一町一段というような 田畑の面積への課税とも間違えているが、幕末までの漢字は皆当て字ゆえ、段は弾丸の弾なのである。

  
 


『文をやるには書く手をもたぬ』  サンカが伝えたというコトツ(口頭、口伝え)の意味は・

2019-11-24 12:11:39 | 新日本意外史 古代から現代まで


 『文をやるには書く手をもたぬ』
 サンカが伝えたというコトツ(口頭、口伝え)の意味は・・・・・・・・
現在、テレビの時代劇で、江戸の街中で瓦版売りが登場し、まるで現代の新聞の号外のような
設定で辻ごとに立ち売りしている様子を放映している。
そしてその瓦版なるものを庶民共が群がって銭を払って購入している。
 しかし、当時一般庶民は文字など書けもしないし、読めもしなかったのである。
だから瓦版などを買う訳がないのである。
現代では誰もが義務教育制度のため、読み書きの出来ない人間はおよそ居ない。
だから昔もそうだと思い込んでいて、テレビを見て誰もが不思議にも思わないし、疑問も感じない。
文政時代の実際の瓦版を見たことがあるが、現代の人間にはとても読みこなせはしない。
 また江戸時代は貸本が流行っていて、庶民には人気があった黄表紙本となると「読み本」
と呼ばれるだけに、もっと字が混み合っていて、文字の読める者でも、果たして読み通す事が
出来るかと自信が持てないから、文字の読める者に読んでもらったり、料金は十日で二十文
だったから、何人もの仲間とぐるぐる廻しにして読んだものなのである。
だからここに「将門記」、筆記者柳亭徳枡の文政版の本のコピーを掲載するので読めたら読んでみるのも一興である。
さて、江戸も幕末に近い文化文政時代となると、大衆読物の黄表紙本は何版と出て、おおいに読まれたが、崩し文字の文章で、当時の"文を書く手"を持つくらいの人には読めたとしても、現代人では一行も読めはせぬ。


 書道をやっていて草書に堪能な人でもなくては、一般ではとても読めない。
つまり貸本として出回った黄表紙のベストセラーが「春本壇ノ浦合戦」とか「女忠臣蔵」といった
ポルノ本だったのも、これだけ読み難いものを、借り賃を払ってまでも首っぴきで懸命にかじりつかせるには、やはりそれなりの、意味深長な内容があるせいだろう。
 神田神保町の紀陽銀行の先に古書店の源喜堂があるが、ここには江戸時代の貸本類が積んであるから一見をお勧めする。


   さて、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」ときたら、他の同種の物はポルノばかりなのに、
道中に宿場があり、飯盛り女郎が次々に客を引いていたのに、壮年のヤジキタが何故か
酒も飲まず、女にも触れずに旅をしている、全く面白くもない読物なのに、何故に大流行した
のかという疑問が残る。これが明治維新の原動力となったのである。
 徳川幕府の政治的立場というのは、源氏と平氏が団結して徳川に反乱するのを怖れ、
中華思想の夷をもって夷を制する、これを真似て、源氏と平氏を交互に組み入れ、互いに反目させあっていたのが実際のところなのである。
 喜多(キタ)、つまり北へ北へと追いやられていた騎馬民族系の、民族色は白で、動物の四本足から
とって四っと呼ばれる民族と、七世紀からアラブ方面から黒潮に乗って逃れてきた、海洋渡来系の
 弥次(ヤジ)、民族色は赤の平氏、この二大民族の相互牽制政策である。
 東の江戸には四っの弾佐衛門側と、西の八っの水上の側を、日本各地で双方を
睨み合わせ噛み付かせていたのを、双方を代表するヤジとキタが一緒に仲良く旅をする・・・・・・
 というそれまでには考えられもしなかった世直し(革命)の読物のおかげで、やがて明治の御一新に
なるのだから、たいしたものである。
 十返舎一九にヤジキタのストーリーを考えて書かせた陰の演出者は誰だったのか判らずじまい
であるが、恐らく薩、長、土の誰かであろうが、当時の日本人には実に飛び抜けて頭の良い策士がいたものであると感心する。


 さて、京等寺院の足利尊氏の木像の首をはねたのに、付けられていた立て札や、
安政の大獄の仕返しに、髪結いや呉服屋の手代たちまで贈収賄罪で捕らえて斬首させた
目明しや、井伊大老の為に働いた村山こうを、捕らえて私刑にして始末した死体に
添え立てかけた斬奸状こそが、本物の高札なのである。


 テレビでは、奉行所などのオカミは高いところからから命令するものと解釈して、だからこれを
高札としてしてしまい、製作小道具部に作らせて、画面に放映している。
そして時代考証○○と権威付けているが全く何も判ってない輩である。


  しかし考えてもみるがいい。明治維新後に諸政一新のため、義務教育制度が出来るまでは、
テレビのように寺子屋などに義務教育でもないのに、子供を通わせるような家は、表通りの
大店ぐらいのものだったのである。


文化文政の幕末近くになってコウゾの製紙原料を石臼で引き、マスプロ化されて、
美濃武儀川で開発されてから、紙の値段がぐっと安くなった。
 それでも「日本紙業史」によれば、文政七年の相場では「美濃半紙一帖四百二十文」と出ている。一帖は二十枚だから一枚の単価は二十一文となる。

江戸時代二八そばというようにそばが拾六文だから半紙一枚分にもならない。
なのに高価な白紙を積んでいろはを書かせるような勿体無いことを日銭暮らしの庶民が
出来る訳はない。


昭和三十年ごろでさえ、小学校の習字の時間は、習字用の白紙は高いので、練習用には古新聞を使っていたものである。
つまり江戸幕府の政策として「民は由らしむべし、知らしむべからず」だったから、お上が
 町人達に読めもしない角ばった漢字で布告などする筈がないのである。
 つまり、今言う高札とは、奉行所の役人は読めるので、逆に過激派の不逞浪士の中で筆の立つ者がいて、それが書いて立てたものが高札なのである。

虚妄の忍術 悲しき忍術 何故忍術は消えたのか

2019-11-23 12:24:48 | 新日本意外史 古代から現代まで
 

  忍術の本家は 尊卑分脈では、山科家は天皇家と同じ藤原氏で、四条家の分かれで中御門家成の六男実教を祖とし、その子教成は、母の二位丹後の局が夫の業房の他に後白河法皇の寵をも忝うし、よって法皇の別業山科の地を賜り、もってそれを氏となすとある。そして、実教より十四代目が言経となっている。
ところが、山科という土地は、この伝承とは相違して、建長五年(1252)の、「近衛家所領目録」に、その山科が含まれていて、「」だから年貢もなく、雑色の行事というものが係りとなっている。
この「」というのは、長和二年(1013)の「小右記」正月四日の条に初めて、「中将朝臣云、白馬朧近衛、称随身、前例不然也」と書かれてある。
この文面の意味は、
「白色の馬をひっぱってくるとは何事か。公家が白を忌むのをから随身した輩は知らぬのか。これは前例もないことだ」
つまり、「」とは「山所・産所」の当て字をするが、桓武帝が京へ都を定めた時、天孫系に刃向かった原住民を捕まえ、収容した捕虜地域の別所(院内・院地)の分散収容所の事であり、彼等は白山信仰で白旗を立てていた連中ゆえ、馬を探してこいといわれて白馬をもっていっては叱られたというのが、この記事の意味なのである。
江戸時代の延宝二年の坂内直頼の、「山城四季物語」の<七月二十四日六地蔵参りのこと>にも、「山科」の地名ははっきりあるし、「山科名跡志備要」には、「山科は、鉢叩き、ささらと呼ぶ竹伐りの者住み、茶筅売り、唱門師支配」と明記されている。
 また、この傍証となるものは、天正十三年正月十三日の言経卿の日記にも、「山科在所より細竹二百八十本持来」の一行が残されている。
「尊卑分脈」というものは重要史料のごとく扱われているが、あまりにも作りものすぎて、その記載では、
「山科に領地を賜った。そこの百姓が耕した米を年貢として受領していた」と間違えやすいが、系の原住民というのは元々が遊牧民族系で、一切農耕はしていないので、米など作るはずが無い。
初めは近衛家管轄で、後に山科家に渡ったとはいえ、そこからは細竹や燈芯の物納があって、それで換銭はできたが、飯米の年貢はなかったという事実が、この証明にもなるのである。
「では、山科家の食糧はどうしていたか?」といえば、天正十一年八月二十一日、当時の京町奉行前田玄以に、山科家の執事である大沢右兵衛大夫が、
「西梅津新地で賜っていた飯米三十石は、先代山科言継宛名義になっていたので、天正七年三月二日の死亡の節、御朱印の伺いを出したところ、上様(信長)は山科家でその侭に致すよう言われて、当主言経が相続していました。なのに、本能寺の変から五ヶ月目に筑前守殿(秀吉)に押さえられて一粒の米も入ってこないのです。食糧に事欠きますゆえよろしく、この段頼み奉ります」という抗議を出しているように、飯米は山科以外の農耕地から収納していたのである。
もし「尊卑分脈」で説くように、山科家が天孫系であったならば、月二斗五升の飯米さえ他から納入せねばならぬような土地を、なぜ押しつけられていたという事になる。
それに系の原住民は同族以外とは、「通婚同火の禁」を明治まで固守してきたという歴史がある。また大江匡房の記録にもあるように、同族以外の者の支配はこれを絶対に受けていない。
「大乗院文書」によると、筒井順慶の五代前の筒井順永というのが大和の国の大半をうち従えて勢威があがったとき、である五ヵ所の者に軍夫に出るよう命令したところ、「長禄三年(1459)六月十六日付」五ヵ所の者から、先例もない事であると訴えてこられた。そこで、室町奉行御所申次衆が、「筒井方へ従い申さずともよい」の採決をした旨の案文が今もある。

つまり、これまでの日本歴史では、
「戦国時代というのは弱肉強食の世の中で、右に強力な戦国大名が現れれば弱小豪族は右傾し、左に出てくれば左傾し、たえず反復これを繰り返していたものである」というが、これは虚構であって、系の者はたかだか軍夫供出ぐらいの事でも敢然としてこれを拒んでいる。だから、もしも山科家が土地の者と同族でなかったら、竹を切り揃えて年貢代りにもって行くこともなかったろうと思える。
さて、この時点より二十一年後の「親長卿記文明十二年九月」の条には、
十一日 夜に入り所々物騒。土一揆蜂起。
十二日 土一揆蜂起、方々鬨の声聞ゆ。
十五日 伏見殿御門に一揆押寄せ門前放火し浄花院焼く。禁裏騒動す。とある。
この土一揆に「蜂起」という文字があるのは、別所の原住民には「蜂屋」「鉢屋」の他に色々の文字をあてるHACHIの別称があったからで、なお、これに関しては、「夜は京都の内外から大坂辺にまで彼等は横行して、押込み、辻斬、追い剥ぎといった忍びの夜討ちをして万民を苦しめ、富裕な者の財宝を片っ端から奪って分け合った。

なにしろ官がこれを取り締まって警戒しても、元来、忍びに馴れた連中で、ここと思えば又あちら、燕のような早業で飛鳥の如く立回り、明るい時は岩屋の洞穴などに隠れて寝ているから捕えようもない。
そこで毒をもって毒を制せよと、鉢屋支配という制度を作って同族の頭を定め郡郷を分配したところ効果あり、日本全国がその方式になった」という古記録さえある。つまり、山科も鉢屋支配の土地で、言経も権中納言の官位ではあるが、実は頭目の素性だったと推理してゆくと、彼が書上げた「喋書」なる系図が「忍法相伝」と伝わるのも、また無理からぬ事になる。また言経の父言継の日記には、「江州八田別所織田の庄出身」の肩書きのある信長の父織田信秀の許へゆき、勝幡城で蹴鞠興行をなし、盆の料として銭の配分をし合ったという記載もあるのは前に書いたが、こういう事は普通の公卿はやっていない事である。
さて、忍者も山科家が家元として伝えるだけのものだったら、当時の蹴鞠や香道なみに優雅なものとして今も受け継がれてきただろう。ところがこれを一変させられる時代がきた。

            忍術の系譜
だが、今日では忍術というとこれは、「甲賀」「伊賀」の二つに分けられて、「山科」などという分類は見つからない。
なぜかというと、言経の書いたという忍法相伝は、皆目その片鱗も残っていないが、「甲賀は、その藤林保武の<万川集海>」
「伊賀は、服部半蔵口伝の<忍秘伝>」の二つが今も伝わっているせいだろう。
 だが、この二つの忍術書が、いかに荒唐無稽な物であるか。それが別に指南書や解説書ではなく、虚妄の一語につきることは、平凡社刊、足立巻一著の「忍術」に詳述され、彼と尾崎秀樹、山田宗睦の三人の共著である三一書房刊の「忍法」では、二つの秘伝書たるや、
「天下泰平になって形式化された具象」として「徳川家の権力機構に組み込まれた伊賀者、甲賀者が生活保持のために家系強調、祖先及び忍術そのものを伝説化」と説明されている。そして、「万川集海」と双璧をなすものとして、「名取青竜軒」の「正忍記」も、それは上げている。

だが、それらの忍術書なるものは、入れ歯や含み綿による「変顔」および「変装」をまず説いて、これで「変幻化姿ノ始計ナリ」と強調している。
つまり府中の三億円強奪事件のようにオートバイを白く塗り替え、白バイのごとく見せかけ自分自身も警官に変装し、車の下から白煙をふかせドロンドロンと消えるような詐術が、それらのモチーフとなっている。
これは亨保十八年(1733)奥付の、「加藤作左衛門筆の忍秘伝」巻一の、「伊賀甲賀伝記」の導入部分に、「ソレ窃盗ノ始メハ漢高祖ノトキ軍法ト忍ト一度ニ始マリ、ソノ後ハ忍窃盗ヲ間トイウフノナリ」とあるように、「間者」つまりスパイは忍者であるし、「窃盗術こそ、これ忍術の精華なり」、つまり泥棒の石川五衛門が忍術使いであってもおかしくはないというような説明になる。
そして、この伊賀流の「忍秘伝」巻ニは、「忍道具秘法」で「まき菱」「結び梯子」「水中下駄の浮踏」と、今も映画などでもっともらしく出てくるもので、トリック撮影で下駄で濠を渡る場景まで見せられてる。
巻三は、三十八項目からなる火器火薬の使用法。ノーベルが黒色火薬とニトログリセリンを結合させてダイナマイトを作った時より一世紀も前に、既に風爆火などもあったというが、
「これは大秘事ゆえ、ここに書かず口伝」と、製法や内容は何も書いていない。
巻四は、忍び込む潜入方法で、猿の皮をぬいぐるみになし、これを着ていくこと。もし田畑で通行人に出会ったら、両手を平行にのばし、案山子の真似をする秘伝などもある。
「万川集海」の方は朝鮮の兵書「間林精要」と、中国明の兵法書「武備志」そのままの内容であり、そして、それらの原典は何かというと、「列子」の黄帝篇、周王篇であるらしい。
「穆王の時、西から化人がきて水中火中をものともせず、金石の間をくぐり抜け山川をひっくり返し、町や村を動かし空を飛行した‥‥」
といったものや、「方仙の道をなし(仙人の修行をし)、形をなくし消失させうるのは、これ鬼神のこと(業)による」とある「史記」の「封禅書」「文選」の「西京賦」に、「奇幻たちまちに起れば、万物その姿を異物に変え、刀を口中へ呑み代りに火をはく。雲霧が沓冥して辺りが暗くなれば、大地は割れて川となり、また一瞬にして水をなくして平坦な道となる魔可不思議‥‥」
などと出ている「方術」「神仙術」が、鬼面、人を驚かす作用があるのをもって、それを空想戦術として兵書に執り入れて孫引きし、
「万川集海」は、さももっともらしく形を整え、これを権威づけたのではあるまいか。

さて、こうなると伝承される忍術または忍法には、形而上学的なものと、まるっきりその反対のものと、二つがあることがわかる。
そして、「児雷也」のガマの妖術のごとく、天竺徳兵衛の大蛇のような妖怪ブームの先鞭をつけたものから、仁木弾正の鼠の忍術が芝居として当たり、尾上松之助の活動写真から立川文庫の猿飛佐助、霧隠才蔵にまで伝わり、戦後も五味康祐の「柳生武芸帖」、柴田練三郎の「赤い影法師」、司馬の「梟の城」とつながる忍術の系譜となるものは、どうしてもこれは外来系となる。
忍術小説「飛び加藤」にしても、抜刀して花を切り落とすと樹の上に登っていた男の首が切り落とされて転がってくるのは、中国の「平妖伝」そっくりそのままである
と、新人物往来社刊の本で水野美知が指摘しているのも、その裏付けであり、また、「猿飛佐助」が孫悟空の翻案なる事も周知されている。つまり、「万川集海」や「忍秘伝」に基盤をおく忍術というものは、印度波羅門から中国へ入ってきたものの換骨奪胎となる。

とはいえ、人間誰しも何か事があった時、他人の物を盗もうといった受益目的でなく、自己嫌悪にかられて己れの存在を他から隠してしまいたい、消えてしまいたいといった願望を持つ。そうした時に、「手足を屈め、近所へより、うつむきに伏し、隠形(おんぎょう)の呪文を口中で唱えれば、これ観音隠れ又は鶉隠れといい瞬時にその身を消す」といった忍法蒸発の術を知っていたら、暮しよいというか、少しは生きていく事の助けにもなろう。なのに、そんな便利なものが、江戸初期から実存していたと研究家は云うが、その後は技術が開発されずに消滅してしまい、今では小説やテレビの中だけの虚像になってしまったというのは何故だろうかということになる。不思議な話しだが、これに関して本当の事は誰も言わない。何か秘密があるらしい。

         なぜ忍術は消えたか
これまでの説では滅亡した第一の理由を、
「江戸期に入って天下泰平になると、需要がなくなったからである」としている。
しかし、戦国期で彼等は、それ程強力な戦闘部隊だったかというと、これは信じられない。
伊賀出身の菊岡如幻の「伊乱記」によれば、
「天正九年、織田信長の長子信忠の伊賀攻めにあって、僅か二十日にて伊賀の者は僧侶男女の別なく殺戮されつくした」とある。
甲賀の方も慶長五年、関ヶ原合戦の始まる前、百九十名の者が伏見城へ立てこもったが、火遁水遁の術もだめだったのか、伏見は落城し彼等の大半も戦死してしまっている。
しかし、これではまずいからと、甲賀者が裏切ったゆえの落城ともいう。だが、殆どが死んだのは事実である。つまり彼等が強かったとか、戦いに役立ったという例証はあまりないのである。
「永禄五年に家康が今川方の蒲郡城を攻めた時、甲賀の伴太郎左ら八十名の忍びの者を呼び、これらを城内へ潜入させたところ、城櫓に放火し城将鵜殿長持の首を太郎左の弟である伴与七郎がとり、鵜殿の二人の伜は、太郎左の伜の伴資継が生け捕りにした」
という勇ましい武勇談が一つだけはある。
しかし、これは、「改正三河後風土記」所載のものなのである。ところが、この本は元禄時代の、沢田源内とよばれた近江の百姓上がりで筆のたった男の贋本で、史料でも何でもない事は、既に江戸時代から「大系図中断抄」などで暴露されている。
ただ、「淡海故縁」に長享元年(1487)足利九代将軍足利義尚と戦った六角高頼の先陣に加わった甲賀者五十三名が、夜襲をかけて足利勢を追い払った手柄話が出ているが、「重篇応仁記」には、これとは全く反対で、甲賀者が先に逃げたと出ている。
そして、四年後の延徳三年には、甲賀の連中が命からがら逃げて、六角方は完敗している。とても忍びの者の連中が戦に強かったとは義理にもいえない。
だから、家康が後に伊賀者を召し抱えた時も安直で、二百人が込みで千貫だった。
一貫を一石に換算すると、平均一人五石、というのが伊賀同心の給与体刑で、一升の米を二百円とすれば年俸十万円。月にすれば八千五百円。いくら官舎があって食するだけにしても、これでは生活難だったろう。
 しかし総評も官公労組もなかった当時なので、やむなく彼等伊賀者が値上げ要求のデモとしてプラカード代りに書かれたものが、今も伝わる宣伝の忍術書ではなかろうか。
 また甲賀者にしても初めから最低の伊賀者以下の扱いだった。
だから江戸期になって戦争がなくなり、需要が跡絶えたから、忍術そのものがドロンドロンと消えていったというもっともらしい説は、初期の彼等甲賀伊賀の者らの人足以下の待遇をみても、どうも単なるこじつけ以外のなにものでもないことになる。
 「戦国の忍者は戦乱がなくなると失業同然、殆どが帰農、あるいは神札配りや薬売りとなり、忍術も無用となって秘密が不用となり、その秘密社会も崩壊。その時期が『万川集海』の書かれた時点にあたり、それまで秘事口伝によった忍術が集大成され著述化されたのも、また秘密の消滅を意味する」足立巻一はこう結論をつける。
 しかし、農耕民族とは「天孫系と、それに融和した民族」の事で、「神札配りや薬売りは非農耕の原住民系のもの」という区別が明治六年まで厳然としていたのだから、誰もが勝手に帰農できたり、薬屋になれるわけのものではなく、これを同一視するのはまずいような気がする。
 それに忍術が消えた最大の理由は、全然また違うのである。
「万川集海」の末尾二巻にも、「火器は忍術の根元である」と書かれ、のろし火薬(狼糞、もぐさ、硝石、硫黄)卯花月夜(肥松硝石等による黄色照明剤)
義経炬火(水銀を利用した不滅たいまつ)をはじめ四十種の火薬を用いたものが、「これが忍術だ」といわんばかりに、いろんな製法や使用法が列記されている。
 「天文十二年種子島に鉄砲伝来」とは周知の事実だが、鉄砲を用いるには火薬がいる。そして当時の九州南部で採れても、主成分の硝石は日本列島では全く産出しない。つまり鉄砲の国産は国友鍛冶や根来の雑賀鍛冶が大量生産したが、用いる火薬はすべて輸入依存だったのである。
 信長時代はポルトガル船をマカオ経由、秀吉時代はイスパニア品をマニラ経由で輸入した。だから戦国時代というのは、武将や武者故人のバイタリティーで覇を競ったように今ではいわれるが、どうもそうではなく、良質な火薬エージェントをつかんだ戦国大名が、勝利を勝ち取ったもののようである。
 ところが、日本歴史というのは、鉄砲は火薬なしで使用できるものと誤認したのか、これまでそこを誰一人として解明していない。軍需用硝石ほしさに、言葉もわからぬまま宣教師と仲良くしたり洗礼したりした連中までが、「信仰あつき切支丹大名」としてしまう。(秀吉の時代には印刷機が持ち込まれ辞書も作られたが、信長が殺されるまでは、代用に採用したイルマンでさえも「ドチリナ・キリシタン」の一言しか知っていなかったのはフロイス日本史にも明記されている。
 さて、徳川家は寛永十四年の島原の乱に懲りて、長崎に出島を築き、渡航許可をオランダ船のみに限定した。ということは、硝石の独占輸入法案で、他への横流しを一切認めぬ禁制をとったことになる。こうなると他の大名やその他にしても、硝石が入手不能では火薬ができぬ。それがなくては鉄砲も大砲も使えない。
 だから幕末になって、長州が上海へ硝石の買付けにいって叛乱するまでは、なんとか天下泰平が続いたのである。「鎖国」というのはつまり、なにもキリスト教に怯えたためでも何でもなく、硝石を独り占めにして治安維持を図った巧妙な徳川家の政治目的による偽装だったにすぎない。
 金の切れ目が縁の切れ目というが、治安上硝石の一般の売買を禁じてしまったから、鉄砲や大砲と同様に、忍術も火薬が入手できなくては、もはや策の施しようもなく、「ありし日の思い出」に訣別の形見として各忍術書を残してドロドロ消え去ったのが真相らしい。

         悲しき忍術
 さて、故子母沢寛の随筆に、ある高名な親分が、「かたぎの百姓衆に迷惑をかけてはいかぬ」と口癖に子分共をいましめ、村の百姓家のある所を通るときは、羽織を脱いで履物も手にとって腰を屈めて通り抜けた‥‥「実るほど頭の下がる稲穂かな」というが、やくざでも昔は、えらい親分にはこういう謙虚さがあったものである。といったような話しがある。
勿論、現在でもやくざはいるが、人口比例からゆくと、やはりどうしても非やくざの方が圧倒的に多い。だから案外やくざを怖れる心理的傾向もまだ一般にあるからして、そこで、
(そうか、昔のやくざはそんなにエチケットを守っていたのか。なら恐くはなかったな)と、こういうものを読んだ人はすこぶる優越感を抱き満足もしたらしい。
しかし、なぜその親分がそうした態度をとったかという理由は、「その親分の人間形成の慎み深さ」程度の浅い読みでしか見ていては判るものではない。
まるで、普段いかさま賭博ばかりして百姓を苛めているから、その罪滅ぼしに頭を下げ気兼ねしているようにも、これではみられてしまう。
そして、徳川政権が農業国家の方針をたて、士農工商の順位を作ったから、百姓はえらかったのかとも誤解される。しかし、それだからといって商工業者が、裸足で村内を通行したとはきかない。すると、何故「やくざ」だけが遠慮しなければならなかったのか。彼等が賭博行為に劣等感や羞恥をもっていたものとみるべきか。といった命題に突き当たらざるをえない。
 さて、話しは戻るが、火薬が一般に入手困難になった時点において、ほろびゆく技術の種明しに書かれた「万川集海」や紀州新楠流の「正忍記」が、ただ文字を羅列したに過ぎない荒唐無稽にしろ、その根底において中国・朝鮮の兵書や烈士の孫引きであるのとが一目瞭然とすると、
「単にデフォルメされた話しであったにせよ、忍術とは外来した舶来のものであったか」
の疑問がはっきりしてきて、それでは、「山科言経の書いたような原住系の忍術とは、そもそも何か」ということになる。この疑問は押えようもない。
が、それを解明するためには、明治五年に施行された、いわゆる壬申戸籍が手掛かりとなる。

従来から「たみ・百姓」と言われはするが、これは決して「たみ=百姓」ではない。
併称される「たみ」なるものは、「非農業人口の原住系」を指すものであることが、その新しい戸籍では明確にされた。
つまり明治五年に、これまでの百姓はその檀那寺の人別帖にて人口を把握されていたが、「たみ」の方は皆目不明なので、これも一斉に戸籍を作ったのがそれであるから、これによって従来の仏教人口二千万が一躍四千万に増加したという事実。ここに問題があるのである。
 百姓の人口に等しい原住系が幕末まで竹を切り茶筅造りぐらいの無職渡世や博奕打ちで、農家の収穫に寄食していたのではたまらない。そこでまず、土佐の百姓から蹶起した吉村寅太郎の天誅組が口火を切って、これが明治革命になってゆくのだが、それ以前においても、原住系へ天孫系の白眼視は相当にひどかった。関白一条兼良の「尺素(いきそ)往来」にも、
「白河の鉾が洛中に入ると山科ら六地蔵の党との印地打ちが、例年のごとく起るかも知れぬから、侍所の者達が警戒に河原へ繰り出した」
とあるし、また「平家物語」巻十五にも、「堀川の商人や町冠者ばらの向かえつぶて勇し、乞食法師と合戦のさまをいつか習うべきか」
また、「古今夷曲集」ニ夏の部には、
「印地にし、深入りしつつ深手すは、負うは不覚な深草の者 久清」の詠草もある。
 印地とは院地の事で、京周辺の原住系の捕虜収容所の名残り。地方の別所・と同じだが、ここへ天孫系の者が投石してゆくのが「印地打ち」という石合戦なのである。原住系もやられてばかりはいられぬからと、山科やその他の院地の連中は、石ころの多い河原を、御所の機動隊の来る前に占領し迎え打つようになった。が、天孫系も勇ましく堀川の商人までが突撃し、御所の深草少将の家来も深入りしすぎて逆にやられた‥‥といったところが、この詠草の訴える意味であろう。
 さて、今日でも伊賀上野の百々地砦は、上野市から向かって南西と、その反対の北西から入る道しかないが、「界外(かいげ)」というが双方に残っている。ということは、つまり講談の忍術名人百々地三太夫のいた地帯は、一般の土地とは違い、
そこはかつて「界外」とばれていた別天地の場所であり、印地であり別所の原住系の民の収容隔離所だったとわかる。
そこで彼等は羽を持っていない限り、橋のない川を渡って他へ出かける時は、百姓から投石され撲殺される危険を覚悟で、界外から外へ出なければならない。
だから百姓の目をかすめるために獣の皮を着てゆけとか、見つかりかけたら案山子に化けろなどという悲しい技術がそこに生れ、これが忍法の極意ともされるのである。だが、「印地打ち」として外部から天孫系の百姓に狙われる事は江戸期にはなくなった。なぜかというと生活の知恵で、要領のよい者は代官所役人の下働きとなって御用風をふかせたり、牢役人となって、これまでとは逆に百姓を苛め返したからである。
しかし、大多数の者はやはり百姓に見つかったら苛められ半殺しにされる弱い立場にあったのであろう。
つまり、その伝統から原住系俘囚の伝統といった意味で、無職渡世のやくざというのは百姓に遠慮しきっていたのである。親分が羽織をとり尻ばしょりし、裸足で村を通るのは謙虚でも礼儀でもなく、「長年迫害されてきた原住民系の劣等感」による悲しき習性ではなかったろうか。
つまりテレビや小説の攻撃的忍術は、中国や朝鮮の兵書からの借り物で荒唐無稽だが、日本の本当の忍術というのは自己防衛のため、殺されまいと必死にあえぎながら考えだされた原住系の民の知恵ではなかったろうかといえる。
占領アメリカ兵に数奇屋橋から川へ放りこまれて溺死した人間の出た頃、我々はどう振舞っていたか‥‥満州で日本女性は引上げまで、なぜ皆坊主頭になり、顔に墨をつけていたか‥‥あれこそ日本人の忍術であり、おそらく山科言経がしたためた「忍法相伝」も、そうした自己韜晦の自嘲というか、自虐めいたものではなかったろうか。
 淋しくなったついでに書くが、「続応仁私記」に「堀を深く掘り直して、その前面にひしをまく」という個所がある。湖や沼に生える黒い菱の実の事である。これは四方に棘が出ているのが一番固く、それは山梨県によく生えていたから、これを攻撃よう武器として甲斐から武威を振るった武田信玄は「四つ目菱」の旗を陣頭に立てた。昔は馬も藁沓、人間も素足か草履ゆえ、そうしたものをまかれては踏み抜きし足裏を痛めるから近寄れなかったからである。
さて、「記録御用所古文書」に入っている和田八郎定教の事を書いた「和田兵談」に、
「甲賀に住いしとき郷人の襲撃をおそれ、こがの実をまく定めありしとか、今も邸囲りにこがの生垣を二重にもうく」とある。
こがとはからたち、くこの実のことをいう。これが語源で「こがもの」「甲賀者」となるのであり、伊賀の方はというと、

「丹波は山栗の産多し、いがを集め俵に入れて運ぶ」と、丹波亀山内藤党の古文書にあることように、武田勢と同じ事で、伊勢加太山の山栗の毬(いが)を今の界外あたりにまき、苛めに来る百姓の来襲を防いで、界外の中でひっそり世を忍んできたのが、家康に拾われるまでの、まことの伊賀者の歴史ということになるだろう。そして、それが、「忍んで生きてゆく技術」つまり「忍術の本質」ではなかったろうか‥‥
これまでの面白い幻想を破ってしまった事をお詫びするが、真実とはこのようなものなのである。
今や「忍者村」なるものが北は北海道から南の沖縄まで、日本中到る所に雨後の筍の如く発生している。
そして、訳も判らぬ外人忍者オタクに人気で、えらく儲かっているというが、外貨を稼いでくれて結構な話である。
日本人ですら忍者を信じているのだから、無理もない話しであるが、まったく馬鹿げている。




御歳暮 中元 贈り物社会日本 音物問答

2019-11-22 17:36:55 | 新日本意外史 古代から現代まで
   
日本では、やくざが他を訪れるとき、形式だけでも手拭を包んで持って行ったり、武士が他を訪れるときは先ず持参の色代を式台に置くという慣わしがあった。これは江戸時代に収賄が一般化しだしたゆえ、今ではごっちゃにされてしまっている。
 つまり歳暮は、その年いっぱいの挨拶であるが、中元はとなると、全くその起源も判らなくなっている。
百科事典を見ると、正月と暮の中間だから「中元」で、江戸時代、贈り物をする風習が始まって、中元大売出し等というのが行われだした、となっているがこれは間違いである。
唐六典』には、「七月十五日、地官為中元、懺侃言罪」となっている。
つまり、一月十五日の上元は天帝に対し、供物を寿ぐのだが、中元は地にある同じ人間どうしが、平素の交際における不行届を詫びて、物を贈ってその謝罪をするのだ、というのだから江戸時代からというのは、とんだ間違いで、唐六典が輸入された平安期以降が正しい。
 勿論これが形式的になりだしたのは江戸時代からのことで、「音物問答」という文化年間の本では、

○武家屋敷入り口に敷台があるは、玄関に立つ時の踏台の用の為ではない。もしその用途なれば根太材を組み厳重にするべきだが、四方かまちのみで中央が空になっているのは、その上の音をよく反響させる為なのである。
○これは挨拶のことを色代と書き、しきだいと訓するごとく、訪問客が手土産持参の節、昔は銭束が多かったので、どさりと敷台に置くと、その目方でおよそどれ位か音で判るゆえ、取次ぎの申次衆は聞き耳を立て(まだ不足)と思えば知らん顔をしていて、追加して重くなった音が聞こえると、ようやく腰を上げ「・・・・・どうれ」と初めて案内に出たもので、今の世に、よく銭を追加するのを「色をつける」等というのも、色代から始まった言葉なのである。
○音信不通などと、沙汰の無いことを言うのも、その昔は銭の事を指して、銭も送ってこなければ、便りも来ないというのである。
 さて、近頃流行の辻講釈的歴史小説では、「武人不銭愛」(武士たる者は銭に執着しないものである)等というものがあるが、
あれは見てきたような嘘を言っているのであって、七月の声を聞くと日本橋の本阿弥邸などに行列ができるのは、切紙を求めに大名諸家の用人などが集まってくるからである。と書かれている。
    本阿弥家が賑わった訳
 これだけでは今の人には判るまいが、江戸時代に本阿弥家の切紙が中元にもてはやされたというのは、鰹節の切手や松坂屋の商品券が贈答用になったというのではない。武士にとって、槍は「槍一筋の家柄」という如く、攻撃用具だが、刀は「打ち刀」と、古来から呼ばれるように、突いて来る槍や飛び来る矢を打ち払うために用いた、いわば自己防衛の用具だったから、この刀を贈答品にするというのが、好適のものとして喜ばれたせいらしい。
 が、刀には勝手に銘を切り込む贋刀、つまり偽作品が多いので、良いものだと思って贈っても、それが不良品だったら返って逆効果になる。
だから本来は、本阿弥のような専門目利きの鑑定書をつけて贈るのが、武士としては進物をする心得というものだった。
しかし此処が難しい処で、とにかく人間はそうした立場になると、悪いことをやりたがるもので、江戸中期の本阿弥の何代目かが、目利きの鑑定師の立場なのに
眼が眩んで盗作をやってのけた。
 刀の銘を切り変えたか、贋と承知で証明書を出したか判らないが、やってしまったのである。
こういうことは現代でも、文学博士の肩書きで、道具類に対してそういう事をする者も居る。
 刀剣類に今も偽物が多いのは事実だが、江戸時代は社会的制裁を受けるどころか、露見した上は、自分で制裁しなければならなかった。
幸い刀の手持ちは沢山あったから何代目かの本阿弥さんは、一本を腹へ、一本を咽喉へ、そしてもう一本を心の臓へ突き刺し自決してしまった。
するとこれが、
「一刀でも痛かるべきに、三刀も刺すとはさぞや苦痛であったろう」と江都の同情をひいた。
 日本人は死にさえすれば、その罪を憎んでその人を憎まずといったモラルがあるから、本阿弥家はその徳で続くことになった。

 しかしそういう事があった後ゆえ、代は変わっても、鑑定書を貰ってもどうしても疑心暗鬼になりがちである。
 そこで本阿弥家では、本物に証明書をつけるのを止めにして、
「一金五十両也、右金員引き換えに、何々銘の刀と引き換えまする」といった切紙を出した。
勿論、五両、十両の贈答用にはもってこいのものも、どんどん作製したから、中元の季節になると門前に行列が出来た。
 というのは、なにしろ天下泰平の世では、
「貰うはよいが、錆びないようにたえず手入れしたり、時々砥ぎに出さねばならぬ実物の刀は厄介千万」と、その切紙を持って、交渉に行くと、本阿弥家でも、
金準備高を無視して乱発している日本国の紙幣のようなものだから、
(本物と交換と言って来られては困るが、金で引き換えるのは願ったり叶ったりである)と、それゆえ、
「これは十両の切紙でございまするな、当方の手数料を一両二分引かせて頂き、はい八両二分どうぞ」と直ぐ現金払いに応じた。
 
こうなると刀剣鑑定は看板だけで、手形割引業のようなものだが、贈る方も貰う方も、手数料はとられてもこんな重宝なことは無い。
だから中元は本阿弥家の切紙が便利がられたが、不思議に下元、つまり暮のお歳暮には用いられなかった。
おそらくこれは、現金のやりとりゆえ、暮は露骨すぎるということで、贈るのは慎んだものらしい。