細川ガラシャ殺しの秘密
(ガラシャは明智光秀の三女で玉子)
ガラシャことお玉は、当時、長岡与一郎といっていた、後の細川忠興の嫁となったが、天性まるで玉をあざむくような麗質だったゆえ、
忠興は二なき者として熱愛した、といわれている。
それゆえ本能寺の変のあった時も、彼女に災いが及んではと三戸野(みとの)に秘かに匿し、秀吉に対して命乞いをした。そこで、その情にほだされ、
「明智光秀の娘とはいえ、そこもとへ嫁入りしてござったからには、なんの係りもないことゆえ、心配などせんでよろしい」と、秀吉も彼女がそのまま忠興の妻であることを許した。
のち秀吉が亡くなって、関東関西お手切れとなったとき、忠興が家康について東下りしていたのを、なんとか味方に引き入れんと、
西軍は彼女を大坂城へ人質に迎え入れんとした。しかし、己れの玉をあざむく美貌をよくわきまえていたお玉は、
「私のような美しい女が大阪城へ連れてゆかれては、貞操を奪われるやも知れませぬ。それでは愛してくれている夫に申しわけとてなし」
と留守居家老の小笠原少斎をよびよせ、己れを槍で突き刺すように命じた。
少斎も、忠興の嫉妬が強いのはよく知っていたから、部屋へは入らず廊下から刺殺し、自分も屠腹して、屋敷に火を放った。
そのため、戻ってきた忠興は、最愛の妻の死を悲しみ、少斎の黒焦げの屍を蹴飛ばすと、涙をこぼし男泣きに喚きたて、
「よくも早まった事をしおった」と口惜しがって泣き喚き、足蹴にしたとまで伝わっているが‥‥この話、はたして大衆作家が書くようなそんな愛妻物語だったのだろうか。
長岡の姓を何故か改めてしまった細川忠興というのは、あの時代にあっては「きけもの」として知られた人物である。それが、そこまで取り乱すとはヒイキの引き倒しで変ではないかといった気がする。
それにこういった話は実際に有ったにしても、今でいえばプライバシーにも当たる事柄ゆえ、伏せられてしまうのが当然である。
なのにどうして『細川家記』とよぶ家伝史にまで、これが入れられているかという謎である。
普通なら匿し通すべきことが、事さらに記入されているのは、見せつけではないかといった疑いなのである。
それにこういった話は実際に有ったにしても、今でいえばプライバシーにも当たる事柄ゆえ、伏せられてしまうのが当然である。
なのにどうして『細川家記』とよぶ家伝史にまで、これが入れられているかという謎である。
普通なら匿し通すべきことが、事さらに記入されているのは、見せつけではないかといった疑いなのである。
そこで、美人ではなく、この話を裏返しに組み立て直すと、
1.お玉はきわめてブスだった。が信長の命令ゆえやむなく嫁にした。
2.本能寺の変後、秀吉は何らかの必要上、お玉を殺し、差し出すよう細川忠興に命じた。しかし細川家では、幽斎が、何かの生き証人になるからと、
出奔して行方知れずと報告して、その実は三戸野へ、切り札として隠しておいた。
出奔して行方知れずと報告して、その実は三戸野へ、切り札として隠しておいた。
3.このため秀吉としては、お玉を殺させる時機を逸したが、その内に、関白となり、もはや天下に憚るものもなくなったので、その儘で放任しておいた。
4.処が慶長三年(1598)八月に秀吉が他界。一年おいて慶長五年。上杉景勝がその有する黄金にものをいわせ、独力で天下を相手に謀叛せんとする企てに、
徳川家康は討伐隊を率いて東上。これに細川忠興も従った。
徳川家康は討伐隊を率いて東上。これに細川忠興も従った。
5.さて小山まで兵を進めていた家康も、石田三成が旗上げしたとの報に接するや江戸城まで引き返し善後策をねった。その時に、忠興が家康に命ぜられたのは、
伏見長岡屋敷へ住まわせてあるお玉の口ふさぎであった。
伏見長岡屋敷へ住まわせてあるお玉の口ふさぎであった。
6.お玉が何かを知っていて彼女の口からそれが洩れでもすると困ると、かつて秀吉もおおいに案じたが、家康もこれからの合戦を前にして、これにはすこぶる難色を示した。
7.しかし忠興は、長年の妻でござればとこれをまず拒んだ。すると家康は恩にきるから大事の前ゆえ頼むとまでそれを求めた。
よって忠興はそれではというので、安心して託せる小笠原少斎の許へすぐさま使いをだした。
よって忠興はそれではというので、安心して託せる小笠原少斎の許へすぐさま使いをだした。
8.もし、お玉が大坂城へつれてゆかれこの明智光秀の娘が、知っている事をもし責められ口外したとしたら、家康の信用はがた落ちして、
関ヶ原合戦に先立ち東軍についた諸大名は、みな四散してしまう恐れがあったらしい‥‥ことにこれではなる。
つまり、逆にすると、こうした結果になる。もちろん当て推量であって、唯まるっきり正反対にしてみた迄のことで、これにはなんら援用できる資料など有りようもない。
関ヶ原合戦に先立ち東軍についた諸大名は、みな四散してしまう恐れがあったらしい‥‥ことにこれではなる。
つまり、逆にすると、こうした結果になる。もちろん当て推量であって、唯まるっきり正反対にしてみた迄のことで、これにはなんら援用できる資料など有りようもない。
だが、こうした大胆な推理ができるのは、信長殺しの斉藤内蔵介の娘阿福が、
「春日局」の名で江戸の実権を握るや、後述のごとく、片っ端から外様大名の取潰しをした家光の時代なのに、やはり取潰しにあっても仕方のない外様大名の細川忠興に対し、
十二万石から五十四万石へと常識では考えられぬような大巾の加増がなされるという奇怪さからである。
とはいうものの、これまでの説を、まず順を追って当たって行かぬことには、話が飛躍しすぎるからそれに戻ってみるが、どうも話しは、もちろんみな真赤な嘘であるらしい。
いくらお玉が美人であったとしても、その夫を味方にする目的で、大阪城へ連れてゆこうとした西軍が、彼女の操など奪う筈はなかろう。これは常識である。
それに、このとき彼女は既に三十八歳。長子の忠隆も二十歳になっていたのである。いくら美人であったにしろ、ろくな化粧品もなかった時代の、しかも四十近い女にそんな心配があろうか。
また忠興は激怒して、少斎の遺骸を足蹴にしたというが、関ヶ原合戦の始まる前に火をつけたのが、凱旋してきた数ヶ月後まで、そのままだったというのも変てこだが、
いくらお玉が美人であったとしても、その夫を味方にする目的で、大阪城へ連れてゆこうとした西軍が、彼女の操など奪う筈はなかろう。これは常識である。
それに、このとき彼女は既に三十八歳。長子の忠隆も二十歳になっていたのである。いくら美人であったにしろ、ろくな化粧品もなかった時代の、しかも四十近い女にそんな心配があろうか。
また忠興は激怒して、少斎の遺骸を足蹴にしたというが、関ヶ原合戦の始まる前に火をつけたのが、凱旋してきた数ヶ月後まで、そのままだったというのも変てこだが、
熊本市に残っている『小笠原家記』をみると、
「小笠原少斎の跡目長基に、細川忠興は姪のたね(後に千女)を己れの養女として一緒にさせ、その間にできた長之という伜に、その二十三年後の話だが、
忠興はやはり弟の娘のこまんを己が養女として縁づけ」て居るのである。
これは『細川家記』の方にも、その裏付けが、「細川幽斎の孫娘にあたる千(せん)
女が、小笠原少斎の次男長基に嫁した」と、はっきり記録されている。
「小笠原少斎の跡目長基に、細川忠興は姪のたね(後に千女)を己れの養女として一緒にさせ、その間にできた長之という伜に、その二十三年後の話だが、
忠興はやはり弟の娘のこまんを己が養女として縁づけ」て居るのである。
これは『細川家記』の方にも、その裏付けが、「細川幽斎の孫娘にあたる千(せん)
女が、小笠原少斎の次男長基に嫁した」と、はっきり記録されている。
さてこうなると、妬情にかられ屍に鞭うつように蹴飛ばした男の跡目に、なぜ自分の養女を縁づけたのか。そしてその生まれた子にまで、また養女を作って一緒にさせ、
二重三重に縁結びして、少斎の遺族を雁字絡めにする必要が、どうしてあったのかと怪しくなる。
二重三重に縁結びして、少斎の遺族を雁字絡めにする必要が、どうしてあったのかと怪しくなる。
さて寛永九年(1632)十月のことである。それまでも、それから先も徳川家というのは諸大名の取潰しや、減封ばかりしていた筈なのが、
「恐れ多くも、上さまの思召しである」と、春日局は、将軍家光の台命として豊前小倉十万石の細川をよびだし、
「其方は、わが亡父斉藤内蔵介とも入魂(じっこん)の者なれば‥‥」つまり、斉藤内蔵介の遺児の阿福として、亡父と仲良しだったから取り計ってあげましたのだと、先によく断ってから、
「肥後十二万石、豊後三郡しめて五十四万石」と、これまでの十万石に比べると、5.4倍のベースアップをした。しかも肥後の国というのは豪気な秀吉でさえ、
「彼地は収穫の多い美国である」と惜しがって、気に入りの加藤清正や小西行長にさえ、吝って半国ずつしかやらなかった処である。
「恐れ多くも、上さまの思召しである」と、春日局は、将軍家光の台命として豊前小倉十万石の細川をよびだし、
「其方は、わが亡父斉藤内蔵介とも入魂(じっこん)の者なれば‥‥」つまり、斉藤内蔵介の遺児の阿福として、亡父と仲良しだったから取り計ってあげましたのだと、先によく断ってから、
「肥後十二万石、豊後三郡しめて五十四万石」と、これまでの十万石に比べると、5.4倍のベースアップをした。しかも肥後の国というのは豪気な秀吉でさえ、
「彼地は収穫の多い美国である」と惜しがって、気に入りの加藤清正や小西行長にさえ、吝って半国ずつしかやらなかった処である。
そうした屈指の最上等の国を、まるまる忠興に、格別これといった手柄もないのに、急にやってしまったのは、何故だろうか‥‥
さて貰った忠興はどうしたかというと、お玉が産んだ長子忠隆は山城北野へ追放、次男興秋は江戸へ送り(途中で脱走し山城東林院で、首つり自殺を遂ぐ)、
お玉の死後に別の女に産ませた三男忠利をもって、五十四万石の当主にたてた。これでは忠興が、
さて貰った忠興はどうしたかというと、お玉が産んだ長子忠隆は山城北野へ追放、次男興秋は江戸へ送り(途中で脱走し山城東林院で、首つり自殺を遂ぐ)、
お玉の死後に別の女に産ませた三男忠利をもって、五十四万石の当主にたてた。これでは忠興が、
(お玉を熱愛していた)という愛妻美談は、どう見てもまったくの嘘になる。
そして、お玉を殺し自分も死んだ小笠原少斎の遺族を、何重もの婚姻政策で縛ったのも、そこには秘密漏洩を気づかっての、糊塗策としかみられぬものがある。つまり、
忠興にとって、お玉を大坂城へ入れずに少斎が殺したのは、非常な恩恵であり、そのために五十四万石になれたような、何かがあったものらしい。
ということは初めに疑わしく書いておいたが明智光秀の娘であるお玉が、大坂城内へ連れてゆかれ、そこで口を割って、もしも本当の処を、
そして、お玉を殺し自分も死んだ小笠原少斎の遺族を、何重もの婚姻政策で縛ったのも、そこには秘密漏洩を気づかっての、糊塗策としかみられぬものがある。つまり、
忠興にとって、お玉を大坂城へ入れずに少斎が殺したのは、非常な恩恵であり、そのために五十四万石になれたような、何かがあったものらしい。
ということは初めに疑わしく書いておいたが明智光秀の娘であるお玉が、大坂城内へ連れてゆかれ、そこで口を割って、もしも本当の処を、
「実は、信長殺しの真相は、かくかくでございました」とでも真相を明らかにしていたら、東軍に加担していた大名の中でも、旧織田系はいたから、
それらが家康から離れて東軍は危うくなり、関ヶ原合戦で勝てなかったかも知れぬ、というキーポイントがそこには秘められていたのだろうと推理される。だから、
「その口をふさぐ為に、お玉を殺し、自分も格好をつけるため死んでくれた少斎は、細川家にとっては大忠臣」という事になって、代々殿様の御養女を下賜されるご一門の扱いになったものらしい。
それらが家康から離れて東軍は危うくなり、関ヶ原合戦で勝てなかったかも知れぬ、というキーポイントがそこには秘められていたのだろうと推理される。だから、
「その口をふさぐ為に、お玉を殺し、自分も格好をつけるため死んでくれた少斎は、細川家にとっては大忠臣」という事になって、代々殿様の御養女を下賜されるご一門の扱いになったものらしい。
では、その秘密とはなにかというと、
「天正十年六月二日の夜明けに、信長のいた本能寺を包囲した軍勢は、丹波口から京へ入ってきた」という事実によるものである。
丹波は誰、丹後は誰と、国別に大名領の区画整理ができたのは、関ヶ原合戦から後のことで、天正十年の頃はまだ入りまじっていて、丹後でも三戸野辺りは明智領だったが、
丹後も京への入口の船津、桑田の二郡は、これは当時長岡藤孝を名のっていた細川家の領地である。
つまり、その昔、
「大江山」とよばれた老の坂から京の入口までは、「長岡番所」とよばれる細川家の見張番小屋が何ヵ所も続いていて、京への出入りを監視する役目をいいつかっていた。なのに、
「敵は本能寺にあり」と叫んだかどうかは判らぬが、斉藤内蔵介の率いる軍勢が、この何ヵ所もの細川番所の関所を、六月一日夜から二日にかけて、堂々と通ってきたのである。
しかも僅かの人数が巧く身をひそめ、隙を窺って通り抜けてきたというのではない。
一万三千の頭数が堂々と大手をふり、フリーパスで通行してきたのである。こうなると、細川忠興やその父の幽斎は、斉藤内蔵介としめし合せていたか、
前もって徳川家康に頼まれてOKしていたかということになる。
そうでなければ、一万三千の内の何パーセントかは、細川忠興または幽斎の率いていた丹波桑田か船津の兵ということにもなる。
つまり細川家こそ、巧く生き残った信長殺しの下手人の一人で、「その汚名をかぶせられた明智光秀の三女であるお玉」は、その真相を知っていたからこそ、
もし大坂方に暴露されては、徳川家の不為と考え、少斎がこれを刺殺したのだろうし、「その時の借りを返すため」に徳川家は、斉藤内蔵介の遺児の春日局の手をへて、
5.4倍の増禄をあえてしたのだろう。なお、
前もって徳川家康に頼まれてOKしていたかということになる。
そうでなければ、一万三千の内の何パーセントかは、細川忠興または幽斎の率いていた丹波桑田か船津の兵ということにもなる。
つまり細川家こそ、巧く生き残った信長殺しの下手人の一人で、「その汚名をかぶせられた明智光秀の三女であるお玉」は、その真相を知っていたからこそ、
もし大坂方に暴露されては、徳川家の不為と考え、少斎がこれを刺殺したのだろうし、「その時の借りを返すため」に徳川家は、斉藤内蔵介の遺児の春日局の手をへて、
5.4倍の増禄をあえてしたのだろう。なお、
『細川家記』には、明智光秀の手紙と称する物が入れられてある。
光秀自身が自分が謀叛をしたのは与一郎(忠興)の為であるといった内容のものである。これは、文章が次々とおかしく、与一郎に敬語をつけている点などから、
細川家の家来の贋作ではなかろうかと、故高柳光寿氏も指摘しておられたが、細川家といえば名家という事にはなっているが、
十二万石から明確でない理由で熊本一国の領主になっただけあって、なんとか取りつくろおうと懸命になって、その係りの専属家臣をも代々おいて、
さも尤もらしい色々な話を創作したというか贋作させ、それをまとめて、
光秀自身が自分が謀叛をしたのは与一郎(忠興)の為であるといった内容のものである。これは、文章が次々とおかしく、与一郎に敬語をつけている点などから、
細川家の家来の贋作ではなかろうかと、故高柳光寿氏も指摘しておられたが、細川家といえば名家という事にはなっているが、
十二万石から明確でない理由で熊本一国の領主になっただけあって、なんとか取りつくろおうと懸命になって、その係りの専属家臣をも代々おいて、
さも尤もらしい色々な話を創作したというか贋作させ、それをまとめて、
「細川家記」として今に伝えているのだろう。もちろん後半はなんということはないが、幽斎、忠興の二代の間の記録ときたらみな眉つばものであるといっては過言ではあるまいといえる。
なにしろ、イギリスの推理作家アガサ・クリスティでさえ、
「アリバイが揃いすぎ、もっとも尤もらしいのこそ怪しい」といい切っているのが、細川父子にも当てはまるのではなかろうか。
だが、それは信長や光秀、そして殺されたお玉お側からいうことであって、五十四万石に所領を増やし家臣一同をうるおした忠興の存在は、
細川の家来にとっては神様みたいな存在だったから、肥後一国の全力を結集して色々と庇うように、手作りの史料などを付け加えたのでもあろうか。
なにしろ、イギリスの推理作家アガサ・クリスティでさえ、
「アリバイが揃いすぎ、もっとも尤もらしいのこそ怪しい」といい切っているのが、細川父子にも当てはまるのではなかろうか。
だが、それは信長や光秀、そして殺されたお玉お側からいうことであって、五十四万石に所領を増やし家臣一同をうるおした忠興の存在は、
細川の家来にとっては神様みたいな存在だったから、肥後一国の全力を結集して色々と庇うように、手作りの史料などを付け加えたのでもあろうか。