新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

新撰組異聞 間違いだらけの新選組「原田左之助」

2021-12-27 10:30:12 | 新日本意外史 古代から現代まで


   新撰組異聞
間違いだらけの新選組「原田左之助」



先日12/20(月) 11:30配信ヤフーニュースに、生き延びて中国に渡り馬賊の頭目になった男 “原田左之助”が載っていた。
(文中黒字はヤフーの記事。青字が調べ上げた記事)

 剣術に加え槍術を得意としていたと伝わる原田左之助。事実無根だが、坂本龍馬暗殺の犯人として疑われたこともあった。甲州勝沼の戦いのあと、永倉新八ともに新選組を離脱する。
新選組結成時からの生え抜きで、常に第一線で活躍した原田左之助(はらださのすけ)。剣客特有の暗さや政治的な動きとは無縁の直情径行な男の生涯に迫る。
 新選組には、奇妙な体験や人生を歩いた隊士が数人いる。原田左之助もそうした1人であろう。
 原田は、伊予松山藩の江戸屋敷で足軽の長男として生まれた。天保11年(1840)5月のことである。子どもの頃から頭が良く、読み書きもできたことから、江戸屋敷で足軽・中間として勤めるようになると、先輩などから苛められた。
ある時、上司ともいえる武士と口論になり「腹を切る作法も知らない卑しい奴」と罵られた原田は、カッとなってその場で刀を抜くと自らの腹を右から左に切り裂いた。
大騒ぎになったが、幸いに傷は浅く、命を取り止めた。この傷は、原田にとって自慢の種になったが、新選組に入隊後は「丸に一ツ引き」を自分の紋にするほどであった。

 伊予宇和島伊達十万石が正しい。
足軽、中間として勤めたというが、親は原田右エ門。石高12石取りの親代々の無役の徒士だった。国元で生まれ、そこで育って元服をしている。
そもそもこの人は、足軽、中間、小者の意味が解っていない。戦国時代からの制度で、先ず小者として働き、見込みのあるものが小者と、足軽の真ん中だから「中間」になれるのである。
豊臣秀吉も最初は信長に小者として仕え、れっきとした武士である木下家の出戻り娘「寧々」と結婚したため一躍三階級特進で武士になれ「木下藤吉郎」と名乗ることができた。


 この切腹騒ぎが元で脱藩した原田は、武者修行と称した旅に出て後、近藤勇の試誠館に転がり込んだ。原田は近藤よりも6歳年下であり。近藤を兄のように慕った。
試衛館を挙げて浪士隊に入り、京都を目指した後、新選組として出発した近藤らに加わっていた原田は、新選組の戦いの中心で活躍した。

 口論の後切腹したというのも与太話にすぎない。近藤勇の江戸牛込試誠館(試衛館は間違い)
 -俗説では『両雄士伝』にあるからと、〈試衛館〉としているが、牛込柳町にあった勇の養父近藤周助の道場は、試誠館である。
 この一帯の地所は前中大総長升本喜兵衛の祖父が、維新のどさくさ紛れに買い占めているが、そこは升本酒店土地台帳でも、「試誠館あと四十二坪五合三勹」とある。
 また、新選組となってから壬生の屯所が手狭になり、京都市左京区堀川七条の西本願寺へ移っていたことがあるが、その頃の遺物として、近藤勇が出動時に使ったという、
「誠」一字きりの角旗の他に、新隊士の訓練用に使ったといわれる新選組の、「試誠」の小旗も大正時代までは残されてあった。これからしても、試衛館というのはあくまでも誤りであろうと思われる。
この試誠館に転がり込んだのは文久二年で、原田は子供のころから宝蔵院流槍術を習ったが、筋が良かったか十五歳で元服した時には免許皆伝を受けている。だからその腕を買われ新選組では十番隊長を勤めている。
出奔して京へ出たが、京でも、これという仕事ももなく、出奔した当座は岩国の住吉町の遊郭で女郎屋の牛太郎(客引き)までやっている。が、いつまでもこんなことは続かず、
「では江戸へでも行ってみるか」と東下りしてきたのが、万延元年の五月。
その三月に桜田門外で井伊大老が首にされるといった殺伐な空気だったので、刀槍の稽古をする者も多くなり、
 「これなら本芸の槍の指南でも食ってゆけようか」と、左之助も張りきったか、自分で空店をかりて道場を開くだけの才覚はない。
 そこで牛込二十騎町の天然理念流の刀術道場へ、槍術を習いにくる者がある時だけ、一人いくらで頼まれて出稽古をしていた。
 その内に近藤勇、土方歳三、山南敬助らと貧乏徳利の回し呑みをする仲間となった。「浪士組募集」の話が伝わってきたとき、
 「京には二年近く居ったから、路地の裏々まで詳しゅうによお知っとる」と、まるで案内役をかって出るごとく、西国を知らぬ近藤勇や土方歳三を説き伏せ、京へ引張り出したのも原田左之助である。
 脱藩の原因も「切腹騒ぎ」なんかのカッコいいことではない。若気の至りから「人の家婦に間媱」というが、女関係で失敗し国に居られなくなったのである。

 
 芹沢鴨(せりざわかも)一派の粛清や池田屋事件、禁門の変、油小路での伊東甲子太郎(いとうかしたろう)暗殺など、主要な事件、戦いの現場に必ず10番組隊長の原田がいて、激しく戦っている。
 元治2年(1865)、26歳になっていた原田は、京都で町娘と知り合い正式に結婚した。菅原まさ、という女性である。新選組屯所の近くに居を構えた原田とまさに、長男が生まれる。「茂」と名付けて可愛がったが、
大政奉還などによって新選組の立場が変わってきた。原田は、妻・まさに軍用金として分配された200両をすべて手渡し、「茂を立派な武士に育て上げてくれ」と言い残して別れた。
その後、鳥羽・伏見の戦い、新選組の江戸帰還などもあって、原田と妻・まさは再会することはなかった。

 原田の妻は一緒になった経緯は判らぬが、長州藩百石取り山中幸子である。
元治元年の長州軍進発上洛に当り、山中家は成年男子がいなかったため、彼女は男姿でヘーゲル銃を担いで、備前尾ノ道より上陸し、来島又兵衛の銃隊に加わり、嵯峨天竜寺の陣で戦ったと、
叔父の山中喜平が書き残している。おそらく乱戦の中新選組に助けられ、新選組屯所へ連れていかれ、女好きの原田が世話したものだろう。
その後幸子の生死は不明だが、原田は彰義隊戦争で、爆死を遂げている。

この五月十五口の彰義隊戦争の一月前の四月八日に、流山で擂えられ板橋で刑死した近藤勇が、土佐藩谷干城の訊問に、
 「証拠品に原田左之助の鞘が残留されたのは、自分が刺客として差し向けた為である」
 と口供書をとられていたから、原田の首は斬られて土佐藩邸へもって行かれた。処が二年後。明治三年二月に兵部省で、「坂本竜馬殺しは見回組の手の者である」
 と今井信郎が自白したあとは、幸子の遺骨と共に、最後まで夫であった原田の骨は、山中喜兵衛の知行地の下関の吉見ヘ一緒に葬られた。川棚温泉の近くである。


 原田は永倉新八らと図って、近藤との確執・不信感を顕わにしたが、結局近藤の「甲陽鎮撫隊」による勝沼の戦い、さらには近藤と袂を分かった後の「靖兵隊」に加わったが、会津に向かう途中で原田は「所用あり」として江戸に戻った。
その後、彰義隊に参戦して戦死したと伝えられる。とすれば、原田は28歳の生涯だったことになる。原田の最期を妻・まさに伝えたのは、原田の同僚・岸島芳太郎であった。
その後、まさは、茂を連れて再婚し、昭和5年(1930)に83歳で亡くなった。
ところが、原田の死には異説がある。運良く生き延びた原田は、中国大陸・満洲に渡り、そこで馬賊(馬に乗って襲撃・掠奪する群盗)の頭になったというのだ。
 後日談はまだある。明治40年(1907)頃、松山に戻った原田は弟や甥たちに会って、満洲でのことなどを語ったという。日清・日露戦争では後方から日本軍を支援して戦った、とも語った。
そして原田はまたすぐに満洲に戻っていったと伝えられる。しかしながら、その真偽のほどは不明である。

満州に渡って馬賊になったなどは、義経ジンギスカン説、秀頼薩摩落ち説の亜流に過ぎない。
 新選組を扱ったものはほとんどが故子母沢寛か平尾道雄氏の著を下敷きにしている。それから一歩も出ていない。
今回この記事の投稿者は歴史小説作家、時代小説作家、ノンフィクション作家だというが、可哀そうだから氏名は伏せるが、私は全く別個の立場で考究してみた。
 人間の一生などは、英雄的でも特別なものでもない。もっといやらしく下らないものではなかろうか。そして真実とは途方もないものである。
どちらの説を信じるかは読者の良識に任せるしかない。



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