新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

秀吉の家臣 加藤光泰に学ぶ日本の人口減少解決法

2019-05-13 15:51:41 | 古代から現代史まで

 この名前は故高柳光寿博士の「戦国人名事典」にも紹介されている。下記に詳細が在るので 併読し、比較してみれば良いだろう。これは経歴と軍功だけの羅列だから、国政の内容などはまったく書かれていない。    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%85%89%E6%B3%B0        前説として、余談になるが日本は今や少子高齢化、人口減少問題が今後この国の未来にとって最大の課題だが、安部政権は何の政策も提示していない。 人口を増やし、労働力を確保するには、年間50万人規模の移民を受け入れるか、 子供を沢山生めて、安心して育てられるような、大胆で斬新な政策が必要だが、日本得意の対処療法のみで、抜本策は無く、現政権には全くやる気が見えてこない。  この問題に関しては、数々の提言をしている大前研一氏が、次のように述べているので以下に引用する。
 
  この状況を打開するためには、スウェーデンやフランスのように「戸籍」という概念をなくすことが重要です。 すなわち、正式に結婚していなくても生まれた子供を認める、というものです。実際、婚姻件数も減少していますから、結婚に期待するべきではありません。また年齢別の出生数を見ると、一番多いのは「30~34歳」、そして「25~29歳」「35~39歳」と続きます。 昔は20代後半が最も多かったのですが、どんどん高齢出産の傾向が強くなってきています。高齢出産になると、2人目、3人目が難しくなります。この状況を考えても、戸籍をなくし、自然婚を認めて、早い段階から出産しやすい環境を整える必要があると思います。 フランスでは、子ども手当が充実しています。子どもを育てる過程で、金銭的に言えば2000万円ほどの手当が受けられることもあります。
日本もフランスの制度を研究するべきです。今の状況は、小手先の政策ではどうにもなりません。 根本的な制度、環境を見直して、構造変化をもたらさなければ解決しないでしょう。  
さて、かっての日本には、この人口増産政策で国を治め国を富ませた人物がいたのである。 明治から台頭し、最後には国を滅ぼした軍部も殖産興業と「産めよ増やせよ国のため」 のスローガンで人口増産政策を国民に押し付けたが、消耗品としての兵士となる人間の増産が主目的であった。
これから紹介する男のやったことは全く内容も違い、破天荒の一語に尽きる。 歴史に学ぶとすれば、こうしたことが大いに参考になるだろう。勿論21世紀の現代に、このままの政策は無理だが、かってのスエーデンでも労働力確保の為に行ったフリーセックス政策のように、現代的仕掛けを作れば、十分参考に成り得る。                
 
 
  『本題』  
 
 木下藤吉郎時代の組下で、父は加藤権平(20貫扶持)の息子で加藤作内と呼ばれていた頃から 親子で籐吉郎に奉公していた。 藤吉郎が羽柴秀吉を名乗る頃には、作内も700石に加増された。 そして天正元年、二年、三年、四年と良く働き、天正六年からの三木城攻めの時には、包囲戦となり、戦は長引いたため、作内は己の陣場近くに畑を作り、黍や稗の種を蒔いて植え、秀吉に誉められ、5000石の加増となった。   天正十年六月二日。本能寺で信長が爆殺され、時の国家権力者の急死を受け、治安維持のため天皇から征夷大将軍の拝命を受けた明智光秀を、秀吉は山崎で騙し討ちに殺し、天下は 秀吉のものとなった。   (秀吉の最大のライバルであった光秀は、信長の妻、奇蝶の腹違いの弟に当たり、木こりから成り上がった秀吉にとっては、常に煙たい存在であった。それが武門の棟梁たる、征夷大将軍をかしこき辺りからいち早く授けられたとなっては、秀吉としては彼を殺すしかなかったのである。だから秀吉は生涯、光秀の後塵を拝すことを嫌って、征夷大将軍を受けず、関白になり己が天皇になろうともしたのである)            
 
光泰、フリーセックスを奨励する
 
  秀吉はその家臣達にも大盤振舞いをし、加藤作内にも、 「加藤遠江守」と従五位下に任官し、名前も厳しく光泰と改め、丹波周山一万七千石の城主にしてもらえた。 すると自分でキビやヒエの植え付けまでする男だけに、所の領主とて、   『空き地は遊ばせて置かず何でも植えろ。領内の女ごも腹を遊ばせておかんと、子種を仕込め・・・・とかく戦国の世では人的資源は何よりの宝である。よって一人の女ごが一人の男とだけ睦みあっていては、たえず妊娠するとは限らん我が領内の男であれば何人でもどしどし廻しを取ってよい。もし夫がやきもちをやくようであれば叱ってやるし、未婚の母のままで子作りをしてよい。 腹は借物と古来から言うから、城内に未婚女の家を作ってやるし、子供の面倒が見られぬ者には、代わって城内の女中共が里親にもなってやる』   と、当時としては破天荒な布令を出した。
 
今日で言うならフリーセックスを奨励して、受胎能力のある女で腹ぺちゃの者には、城兵を何人も当てがって種馬代わりに用いた。 勿論領内の男にも、女と見たら掛かって行き、孕ませるのが忠義だと教えた。 これで男も女も安心して昼間は荒地を開墾し食料作りに出精し、暗くなると夜なべ仕事として、 相手を取代えひっ代え、文字通り、精を出して励みに励んだ。 さてこうなると丹波周山は一万七千石だが、一年もたつと実際は二万石余になり、人的資源もオギャアオギャアと満ち溢れて、人心は穏やかになり、皆んな加藤光泰を慕った。   これは秀吉としても領地の収穫が増産され、豊臣勢力下の人的資源がどんどん増えるのは、まことに好ましいところところなので、   「一夫一妻なんてのは詰まらんことはわしもよお知っとるが、住民に慕われつつ国を富まし人民を増やしてゆくは、彼奴の人徳の致すところで行政手腕じゃな」と、次は近江見塚二万石へ移してみた。
 
  光泰はそこでも直ちに前の時と同じように、破天荒な話だが、 「出陣の時、お城へ奉公する男に限り、領内にては人妻であれ、娘であれ全て勝ってたるべし但し無駄なく子種を送り込めるよう、良く落ち着いて事を成すべし」と、布告した。   随分乱暴な布令をしたものだが、戦国時代というのは戒厳令下のようなもので、 自国の人民を増やすためには当時、娘は十三四から嫁入りさせられていたから、有り難い布令が出たものと、すっかり貝塚の者たちは喜び、勇み立ち、ほら貝がブオーと鳴ると二万石の領内なのに、やがて何千もの兵が参集するような、富国強兵振りを示した。   「彼奴め、なかなかやるのう・・・・・・」 と秀吉は、ついで三千石アップしてやって近江高島二万三千石へ移した。ここでも、 「未婚にして、子を産む娘には褒美を与える」とか、進んで軍令に付く志願者には領内の女ごは勝手たるべしの許しまて与えた。
 
 そこで新しい領地の高島も、間もなく男は軍役、女は産役で忙しくなり、赤ん坊が雨後のタケノコのように増えだした。そこで秀吉は、 「思い切って二万石のアップをしてやり、次は美濃大垣」ということになった。 しかし、こうとんとん拍子に行くと加藤光泰も、 「うん、男と女のあれは本能・・・・まんまと本能寺の変で天下を盗った秀吉様の家来の自分がやはり本能を上手く使うのは、こりゃ当然ではなかろうか・・・・・」   とばかり悪乗りしてついとんでもない放言をしてしまった。 実際のところ秀吉は明智光秀を信長殺しに仕立てて、山崎近郊に誘い出し、戦を仕掛け、騙し討ち同然に、葬ってしまったから、まだ後味の悪さに気を遣っていた時期だけに、これを聞き伝えると憤慨して、   「とんでもない馬鹿なことをいう奴だ。すぐ大垣城四万石を取り上げてしまえ」とどなった。
 
 しかしそれでも可哀想と思ったのか、異母弟の羽柴秀長に預け、とりあえず一万石だけ捨扶持を与えることにした。 が、秀長も、加藤光泰の手腕は知っているから、何とか上手く使おうと、千石を自分がくれてやって、一万一千石の大和秋山城主となした。 するとこれを聞き知った秀吉は、秀長に彼を取られてしまっては大変と「勘気赦免」の 早馬の使者を立てた。そしてすぐ二万石を与え近江佐和山城を持たせることにした。 そして天正十八年の小田原征伐後の七月七日、「のう光泰、おぬし厄介じゃが甲斐一国の軍配をふるってくれぬか・・・・・何しろ武田信玄、勝頼父子の頃には栄えた国じゃが・・・今では火が消えたような有様。なんとか其の方が民政手段を振るってくれぬかや・・・・・」と、秀吉から呼び出され加藤光泰はその場で命じられた。 甲斐一国とは甲府城の二十四万石で、今までの十二倍になる。
 
 光泰はこれには仰天したが、秀吉は平気の平左だった。  この時光泰が甲斐一国二十四万石なったのは、余りにも異例な加増だったので、 『寛永系図伝』『甲斐国史』『豊鑑』の類にも記載されている程である。だから 「こりゃ、とんだ大事になったぞ。
 
郡の一つ位の大きさや、二万石位なら、わしの試みは何となく上手くいったが、甲斐一国の広さではとてもそうはゆくまい。・・・・しくじれば責任を取らされまた御勘気にあうのだから困る」 そして甲府城へ移ると家臣共を集め、皆でよい知恵を出してもらいたいと、号令した。
 
 こうした相談の結果、積極的に女たちの腹を膨らませる為には、やはり女が積極的に臨むのが良いと いうので、ここに女の夜這い令が発布された。   「甲府よいとこ男極楽、寝てまちろ、待てば来るぞな、女ごの夜這い・・・・・」 と、この歌は幕末まで甲府エンコ節として残った。 甲州風俗はこの時から始まったのである。   さて、素人の女達が、積極的に男のアタックを始めたので、その影響で弱らされたのは、甲府柳町の遊郭の女達であった。 ただより安いものは無いから遊郭は営業不振となり、女達は暇をもてあまし、淋しがった。 その淋しいが、今も甲州弁で女郎のことを訛って「さぼし」と呼ばせているのである。とんでもない赤線泣かせであった。