新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

日本談合列島の考察 談合のルーツを探ってみる

2019-07-31 10:53:15 | 新日本意外史 古代から現代まで

日本談合列島の考察

 

先日新聞各紙に「カルテル課徴金399億円」「公取委舗装合材8社過去最高額」の見出しが躍っていた。 これもまさしく談合の一種で、道路舗装に使うアスファルト合材の販売価格を不正に引き上げるカルテルを結んだとして、公正取引委員会は30日、 独禁法違反示当な取引制限)で、舗装大手の前田道路や大成ロテックなど八社に対し、過去最高となる総額約399億円の課徴金納付命令を出した。

談合【だんごう】 国や地方自治体の公共事業などの入札の際に,入札業者同士で事前に話し合って落札させたい業者を決め, その業者が落札できるように入札内容を調整すること。 私法上は公序良俗違反で無効であり,刑法上は談合罪(刑法96条の3)の適用がある。  上記が談合の意味である。

こうして毎年のように談合やカルテルは摘発され、企業が課徴金や罰金を払い、一件落着を繰り返している。 様々な業界でこうした不正な事案は在り、おそらく根絶できないだろう。私が特に問題提起したいのは、国民生活に直結するれ建築資材である。 ガラスもアルミサッシも石膏ボードもトイレもタイルもほとんどが独占、もしくは寡占状態になっている。 海外から安い部材を取り寄せても、日本の住宅には使えない。業者とつるんだ行政当局が厳しい建築基準や規制を盾に認可しないからだ。  水道関係ならJWWA(日本水道協会)などの認可を得ていないと自治体は水さえ流してくれない。世界中の材料が使えるようになれば、建築費は半分になる。 そうなれば住宅ブームも起きるだろう。しかし現在金利1%を切るフラット35でも、借り手が少ない。これも政府を巻き込んだ壮大な談合と云えるだろう。

 談合のルーツを探ってみる

日本史では、江戸時代の国民を士、農、工、商という区分けで説明しているが、  実は隠されているが、この枠外にと間違えられている、東の弾左衛門支配の人間と 西の綾部に水上の穏坊が支配する人間が居たのである。  更に、この部族に隠れてこっそり溶け込んで暮らしていた部族にサンカがいて弾左衛門や水上穏坊に、年間二朱の人頭税を納めていた。   しかしサンカの掟は「統治せず、統治されず、相互扶助」の精神だから、納税や統治されることを嫌って、家族単位で日本各地の山河や海辺を転々として暮らしていたサンカも多く居た。  (この現象は、戸籍を持たずの彼らの生活状態は昭和30年代まで続いていたといわれる)   だから明治維新となった時、新政府が人口を調べたところ、士農工商の人口の他に 同数ぐらいの弾左衛門系とサンカ系が居て驚いたという実態がある。  この事を念頭において以下を読んで貰いたい。     

    日本談合列島     江戸がトウケイと呼ばれた東の京になると、それまで江戸時代を通じて、  箱根以東の貨幣制度、即ち金本位制を掌握していた弾左衛門(本名矢野内記)家の協力が新設された東京市としてはどうしても必要になった。   だから新設東京市役所の運営をするに当たって、市の第一助役、第二助役以下の 実務役を弾家の手代や番頭たちが、各自分担で仕切った。  彼ら手代といっても、実質的には万石並みの身分だったから、高級で招き市政を委任した。

(六人の手代)

 一、山田浅右門(八の部族)首切り専門。

 二、石出帯刀(四つの部族)牢屋奉行で三百石の旗本になっている。

 三、車善七(八の部族)鈴が森の刑場担当。

 四、山谷権兵衛(八の部族)奥州支配。

 五、花川戸助六(四つの部族)吉原遊郭支配で、江戸以北の屋根付興行の一切を仕切っていた。  

六、三河松助(八の部族)俳人として有名で俳号井上石香。馬飼と呼ばれる猿回しや辻芸人の取り締まり担当。

  これは実にうまくできていて、騎馬系と海洋渡来系を交互に置き、互いに監視し合わせて、幕府に対する反乱を牽制したのである。 この六人衆の一人で井上石香は弾家の所有地の中の飛び地で神田お玉が池に、 当時江戸市中にも増えてきた剣術の町道場を千葉周作のために建ててやった。  現在で言うこれはスポンサーに当たろう。     これまで町道場など日本国中何処も無く、これは徳川幕府の治安維持上の政策で、  武張った事は一切禁止だったが、ペリー来航以来世上騒然となり、諸藩も武装しようとしたが、  徳川の鎖国政策で鉄砲を飛ばす火薬の原料の硝石が手に入らず、仕方なく斬り込みの為の剣術が流行し、これを幕府は黙認したのである。

  井上は馬飼と呼ばれる猿回しや辻芸人の取り締まり担当だが、小菅方面も管理していた。 そこの徴税係のような下役をしていた者に白根一郎というのがいた。  この白根が東京市役所に入って、彼の出身地が日野に近い土方と呼ぶ弾左衛門地のせいで、 東京市の土木部長になった。  この白根の正体が問題で、弾左衛門も、手代番頭達にしても全く知らなかったが、白根はこの土方に何代も前から正体を隠して住み着いていたサンカ部族だった。 さて、明治六年十一月に太政官令が出され、国内治安を強化するため内務省が設置された。  この時サンカ部族は日本各地に隠れて都市や村に暮らしていた者達へ、サンカの頭領から通達が出され、各都市や府県の土木部にそれぞれ同族を立てることになった。   つまり日本全国の公共事業発注側の役所を一斉に掌握したのである。  従って工事を受ける側の土建業者も、サンカ系の者に限るとなった。

 

  現在も大手が引き受けた工事が、下受け、孫受けと何段階も廻され、業界特有の談合入札が大きな社会問題になっているが、こうした習慣化されてしまっているのも、 同じ血を引く民族の流れだと見れば納得できる。  勿論明治六年からすんなりといったという訳ではない。  弾家の六人衆の一人の柳橋助六は、白根一郎を弾左衛門支配の人間(海洋渡来の八の部族か騎馬系の四つの部族)と思っていたのが、実は隠れサンカだと知れたから激怒した。  そして弾家本家に直訴した。  だがこの時の弾家は、薩摩の益満休之助に「弾家の御先祖は、源頼朝公の血を引く源氏の頭領ではごわせんか。是非薩摩に味方してくださらんとですか」と説得されていたが、  逆に新撰組の近藤勇に資金援助したため、薩長が天下を取ると怨まれ仕返しされた。   これに対して弾家(この頃には本名の矢野内記に戻っていた)の妻が激怒して、  「さつまホイトは勘弁ならん」と江藤新平の反乱に軍資金を出し、熊本神風連の乱には九州まで乗り込んでいる。

だからいくら明治になるまでの箱根以東の金本位制を握っていた弾家とはいえ、 次々と軍資金を援助していては堪ったものではなかろう。 ここのところを日本史では表向き、  「弾家の手代の使い込みにより没落した」となっている。  しかし実際のところは薩長政府によって反乱幇助罪でも適用して、所蔵金没収されたのが 真相である。こうして矢野本家が倒産に追い込まれてしまっては、柳橋助六の訴えも無駄に終わり、 全国の土木関係のサンカは着実に勢力を進展させたのである。

  こうして港湾、河川、ダムなど、水辺に関連する事業者は赤サンカ(海洋渡来系に隠れ住んでいて事業者名にはアカサタナハノヤが付く。鹿島建設、青木建設、浅沼組、安藤建設、アイザワ工業等々)   土木工事、トンネル、道路建設、採石事業などの水辺以外の工事は白サンカ(騎馬民族系に隠れ住んでいてオコソトノホモが付く。大林組、奥村組、鴻池組、国分建設、戸田建設、飛島建設など)   これは嘘のようだが、全国土建業者一覧を見れば一目瞭然である。  ここで談合を正当化するつもりは無いが、明治大正と、国土開発、殖産興業と日本の近代化に貢献したという側面は否定できない事実である。  さらに第二次大戦敗戦後の復興にも、この談合制度は素早く対応でき、裾野の広い建設、土建関係の業界を潤したことも間違いの無い事実である。 はっきり言って談合は日本中で行われていて、決して無くならない必要悪ならば、税金が安く済む新しい仕掛けを考えるべきだろう。

 

 


敵は本能寺 第三部 光秀にはアリバイがある 光秀は何処にいたのか

2019-07-31 09:26:07 | 古代から現代史まで
敵は本能寺 第三部
 
 
 
       光秀にはアリバイがある
    光秀は何処にいたのか
 
殺人者つまり加害者は、殺された人間の、殺された現場にいなければならないことに、<密室の殺人>という例外を除いては、推理小説でも、これは決まっている。 ところが、信長殺しに限っては、被害者の側に光秀がいた形跡は全くないのである。 殺害された日時は、今の暦なら七月一日だが、当時は太陰暦なので六月二日に当たる。 時刻は、夜明け前というから、午前四時とみて、それから出火炎上する午前七時から七時半までの間。推定で計算すると、およそ三時間半の長時間であるが、この時間内において、明智光秀を本能寺附近で見かけた者は、誰もいない。これは動かしがたい事実である。 つまり光秀は本能寺どころか、京都へ来ていなかったのである。いやしくも謀叛を企てて信長を殺すならば、間違いのないように自分が出てきて監督指揮をとるのが当り前ではなかろうか。もし失敗したら、どんな結果になるか、なにしろこれは重大な事である。 それなのに、従来、加害者とみられている光秀は来ていないという事実。もし彼が真犯人であるなら、世の中にこんな横着な殺人者はいない。ということは、 「信長が害された殺人現場に光秀はいなかった」という具象を明白にし、現代の言葉でいうならば、「光秀の不在証明説」の成立である。 もちろん、これに関しては、日本歴史学会の会長であり、戦国期の解明にあっては、最高権威である高柳光寿氏も春秋社刊行の<戦国戦記>の、 「本能寺の変・山崎の戦い」の五十四頁において、はっきりと、「六月二日、つまり信長弑逆の当日。午前九時から午後二時までしか、光秀は京都に現れていない」と、これは明記している点でもはっきりしている。
 念のために当時の山科言経の日記。つまり<大日本古文書><大日本古記録>の<言経卿記>の内から、事件当日の原文を引用する。
「その日、午前九時から午後二時までしか、京にいなかった光秀のために」それは必要だからである。
(天正十年)六月二日戌子。晴陰(曇) 一卯刻前(註、卯刻というのは午前六時、又は午前五時から午前七時をさす。だが、この場合、何刻から何刻というのでなく、 ただ午前六時から前であったいう、つまり時間的な例証になる。なにしろ午前九時すぎに上洛してきた光秀には、これでは関係がない)  本能寺へ明智日向守謀叛ニヨリ押シ寄セラル(註、この言経記にも、一応は、こう書いてある。いないものが押寄せるわけはないが、みなこう書いてある。つまり、こう書くほうが、この十一日後に光秀は死んでいるから、死人に口なしで、何かと、みんなに都合が良かったかもしれない)  前右府(信長)打死。同三位中将(岐阜城主にして跡目の織田信忠)ガ妙覚寺ヲ出テ、下御所(誠仁親王の二条城)ヘ取篭ノ処ニ、同押シ寄セ、後刻打死、村井春長軒(村井長門守貞勝)已下悉ク打死了、下御所(誠仁親王)ハ辰刻(午前七時から午前 八時)ニ上御所(内裏)ヘ御渡御了、言語同断之為体也、京洛中騒動、不及是非了
 
 
つまりこれは、四条通りの本能寺が炎上してから、織田信忠が妙覚寺から引き移った二条にある下御所へ押し寄せたから、誠仁親王が、まだ早朝なので、お乗物がなく、辛うじて里村紹巴(しょうほ)という連歌師の見つけてきた町屋の荷輿に乗られ、東口から避難されたという当時の状景を現してたものである。  ただし、この時代は陰暦なので、六月二日は初夏ではなく、もう盛夏である。そして当時は、今のように電気はなかったから、一般は灯火の油代を倹約して、早く寝て夜明けには起きて働いていた。だから、「早朝で輿がなかった」というからには、午前七時前が正しいかと想える。遅く見ても午前七時半迄であろう。農家は午前四時、町屋も六時から、当時は起きていたものである。  という事はとりもなおさず、まだ明智光秀が京へ入ってくる迄には、二時間以上のずれがあった。という事実がこれで生じてくる。
さて二条城に立て篭もった織田信忠達が何時頃全滅(脱出できたのは織田有楽と苅屋城主水野宗兵衛の二名のみと<当代記>にある)したのかは記録がない。  しかし前後の経過からして、本能寺炎上後、二条御所も炎上して、全てが終わったのが午前九時頃とも思える。  そうなると、明智光秀が上洛したのは、もう、すべてが終わってしまった後ということになる。  もし、そうでないにしても、光秀が京へ入ったのは二条御所が包囲され、親王が脱出されてから既に二時間経過した後である。もはや、やはり「万事終われりの時刻」でしかない。  これは推理でもなんでもない。当然な計算である。  そうなると、ここで疑問になるのは、「明智光秀は、それまで何処にいたのか」ということになる。
 
 もちろんヘリコプターもなかった頃だし、午前九時には現場に到着していたというのだから、午前五時頃には、馬に跨って京に向かっていた事は事実であろう。そうなると、この問題は、 「何処からスタートしてきたのか」ということなる。  これに関しては正確なものは、何も残っていない。ただ判っているのは三日前の五月二十八日に(この時の五月は二十九日までしかない)愛宕山へ登って、同日は一泊しているという証言が、里村紹巴らによって後日提出されている。  さて、<言経卿記>によって天候をみると、
五月二十七日 雨   二十八日 晴   二十九日 下末(どしゃぶり) 六月  一日 雨後晴となっている。
 二十八日は晴天だから、この日に登山したのはわかるが、問題は二十九日である。 これまでは、この日の下山となっているが、下末とは「どしゃ降り」の事である。  だから、馬で愛宕の山頂までかけ登った光秀が、今と違い鉄製の馬蹄ではなく、藁で編んだ馬沓の駒の尻を叩いて、相当に険阻な山頂から血気にまかせて、滑り落ち転落する危険を冒してまで、降りてきたとは考えられない。勿論、今となっては正確には明智光秀の年齢は判らない。だが<明智軍書>という俗書に「五十五年の夢」という辞世の一句がある。  その本では真偽の程は判らないが、時に信長が四十九歳なら、やはり、それくらいかも知れぬ。そうなると、今でも昔でも人間は似たようなものである。どうして五十過ぎの男が血気にはやって、雨の中や、まだ地肌がぬるぬる滑る山道を、駈け降りてくるなどとは、とても常識では考えられない事である。  だから、通説では二十八日登山。一泊して二十九日下山となっているが、正確な当時の天候から推測して、下山は六月一日が正しかろう。  しかも、この六月一日も夕方まで沛然たる雨で、小止みになってから妙覚寺滞在中の織田信忠が、夕刻から本能寺を訪問しているくらいだから、光秀が下山したのも、家来に足許を照らさせて山道を降りたのは、やはり雨が止んだ後と、考えるべきが至当であろう。だが、京と愛宕とは、後者が山だけに、なお降り方は悪かったとも想える。  そうなると、光秀が、もし丹波亀山に着いたとしても、一万三千は出陣した後という事になってしまう。だから、光秀は後を追い、まさか一人ではなんともなるまいから、 「支城の坂本へ引返し、そこで三千余の兵を率いて、至急、京へ駆けつけたという次第ではないかと」とも思われる。 もう一回ここで、この日の順序を追ってみると、
六月二日(新暦7月1日) 午前四時、本能寺包囲される 午前七時 炎上、信長行方不明      引き続き二条御所包囲      誠仁親王御所へ動座      信忠軍と包囲軍交戦 午前九時 明智光秀入洛 午後二時 明智光秀出洛 午後四時 光秀、瀬田大橋に現れる 午後五時 三千余の軍勢のみにて光秀は、坂本に帰城す
といったような経過を光秀は辿っている。
     奇怪な山岡景隆の行動
 そして、これは吉田神道の<兼見卿記>によるのだが、この二時以降の、光秀の行動はわりと詳しくわかっている。(だが、この兼見という人は、この時点の日記を、後から別個に書き直している)つまり日記の二重帳簿である。そして、その表向きのしか、残念ながら今は伝わっていない。  それでも、それによると光秀は当日、持城の山崎勝竜寺城(つまり占領して奪ったのではなく、前から自分の支城)へ寄って、そこで城番をしていた重臣の溝尾庄兵衛と相談した結果、午後二時に、そこを出発し大津へ向かい、午後四時に、安土へ伺候 するため瀬田へ向かったとある。さて、現在残っている、その表向きの日記では、これからの状態を原文で引用すれば、
「誘降せんとするに、(瀬田城主)山岡景隆は、かえって瀬田大橋を焼き落とし、己が城(瀬田城)にも放火し、光秀に応ぜずして山中へ入る。(止むなく光秀は残火を消し止めさせ)橋詰(めに足場にする砦)を築かす。夕景に入って、ひとまず光秀は、 坂本へ戻る」となっている。もちろん、これは明智光秀犯人説が正論化されてからの日記であるから、一応は、白紙に戻して考えてみる必要もある。
そうなると、「元禄十四年三月十四日に、浅野内匠が吉良上野に刃傷し、即日処刑をされてしまったと伝わるや、主家の大事とばかり赤穂城へ大石内蔵助以下家臣の面々が集まったように‥‥この時点でも、信長の異変の善後策に、家臣の光秀が安土城へ駈けつけようとしたのは、自然な行為ではなかろうか」と考えるのは無理であろうか。
 
 
 さて、それなのに、それを阻止して橋を焼き払ってしまうというのは、これは一体どういう事なのだろうか。  もちろん後年のように、光秀謀叛説が確定してしまった後から書かれた<兼見卿記>では、さも光秀が安土城占領に赴くのを防ぐために、防衛の見地から、これを邪魔したようになっている。また、そうとしか読めない。  だが実際は、六月二日の当日の事である。
本来ならば山岡景隆は光秀を迎えに出て、「一体いかなる事が出来(しゅつたい)したるのか」と話を聞き、共に善後策を講ずるのが、ごく普通の途ではなかったろうか。なにしろ、かつては十五代将軍足利義昭に共に仕えた仲であり、この十年前に、 山岡景隆は、その弟山岡景友と共に信長に叛き誅されるところを、光秀に助命され、つつがなく瀬田城主の位置を保てた男である。
 もしも山岡景隆が、当日の午前中に在京し、この異変が「明智の謀叛」と確認しているのならば、いわゆる正義感をもって、僅か三千の兵力では占領は考えられなくても、 「おのれ、逆臣、光秀め。通しはせじ」と、橋を焼いてしまった事も理解できる。  ところが本能寺の異変は、午後三時頃になって、安土への急使か、又は通行人によって、この景隆は耳にしたにすぎない。何も詳細は知っていない。それなのに何故、確かめもしないで一時間で断固として橋を焼き、自分の居城まで焼き落とす様な、思 い切った事を企てたのであろうか。  まず、このひっかかりから先に考えてみたい。
もともと、明智勢をば対岸の山頂から湖水越しに望見していた山岡景隆というのは、先に足利十代将軍の義稙(よしたね)が、近江半国の守護代六角高頼(たかより)を討つため、延徳三年八月に出陣した際の大本営の三井寺(みいでら)の光浄院の出である。この時から室町幕府に奉公しだした光浄院は、その後、山城半国の守護に任ぜられていて、天正元年二月には、十五代足利義昭の命令によって、当主の暹慶(せんけい)が西近江で挙兵。
 
 
「打倒織田信長、仏敵退散」の旗印のもとに一向宗の門徒を集め、石山の本願寺と連絡をとりながら、石山と今堅田に砦を築いて抗戦。  二月二十四日に、柴田勝家、蜂屋頼隆、丹羽長秀、明智光秀の連合軍に攻められ石山陥落。二十九日には今堅田の砦も力戦かいなく落されて、改めて信長に降人。その名を山岡景友と改名して助命され、勢田の城主の地位は遠慮して、兄の山岡景隆に譲った。この兄こそ、十年後、橋を焼きすて、じっと山頂から、光秀の様子をしかと眺めていた山岡景隆になるのである。なお、彼の弟には近江膳所(ぜぜ)城主の同景佐(かげすけ)。次が玉林斎景猶(かげなお)、そして四男が山岡景友である。
 
 
<慶長見聞録案紙>によると、この男は二年後において伊勢峰城にあって秀吉方と激戦し、「徳川家康の黒幕」と言われた「山岡道阿弥」に名のりを変え、秀吉の死後、伏見城に家康が入ると、その守護に、伏見城後詰に取出し屋敷を構えて、鉄砲隊で固めたり、関ヶ原戦においては、長束正家を破ったり、ついで尾張蟹江の城を攻略し、懸命に家康に奉公するのである。
それは後年の事であるが、この山岡景隆・景友らの兄弟はなぜか、この時つまり本能寺の変の二年後には、事実不明の柴田方加担の罪のもとに秀吉の為に城地を追われてしまい、やむなく家康を頼って行ったと、<武家事記><寛政譜>には残っている。  さて、こういう事は、とりもなおさず六月二日の午後三時から四時までの間に、急いで「安土への通行を止めるように」瀬田の大橋を焼き払ってしまったという事は、これは秀吉又は家康から前もって予告され、密令が下ったのではあるまいか、と不審に想える。どう考えても、このやり口は山岡兄弟の肚ではない。
 
 
もし光秀が当日安土へ入っていたら、信長の生死不明の侭にしろ、重臣の一人として、なんらかの善後策をとっていたであろう。そうなれば天下は動揺する事なく、当時、伊勢にいた織田信雄か、住吉の大物浦で出航するため大坂城にいた織田信孝かの、どちらかに跡目は落ちつくに決まっている。だからこそ、それでは困る人間が、安土へ光秀を入れないようにと、橋を落させてしまったのではないか。勿論これは想像であるが、架橋するために砦まで構えたという事は、琵琶湖の対岸から山岡勢に弓鉄砲を撃ちかけられ、修理を妨害されていたことになる。もし、それほどまでに山岡一族が安土城に忠義ならば、光秀が引揚げた後、すぐにも彼等は安土へ駆けつけるべきである。なのに、全然行ってはない。これでは信長のために、瀬田の大橋を焼いたことにはならない。自分らの私益の為である。 <兼見卿記>の記述と事実はここに於いて相違している。  つまり何者かが、光秀を陥入れる為にか、彼を安土へ行かせず孤立させる事によって、全てを彼に転嫁させようとする謀みではなかろうかという疑惑が、色を濃くしてくる。
    信長を爆殺した火薬の謎
 次に奇怪な事は、まだある。 光秀が、丹波亀山の本城から出てきたのなら、そちらへ戻るべきである。  ところが、光秀は本城へは行かずに坂本へ向かっている。  ということは、その伴ってきた武者共が、丹波亀山衆ではなく、別個の近江坂本衆であったという事になる。いくら取り違えても、丹波から出てきた連中を、間違えて近江へ連れ戻す様な気遣いはない。  つまり光秀がこの六月二日に上洛してきた時に、同行してきた(推定三千)ぐらいの連中が坂本城の者となると、これは、とりもなおさず光秀が、坂本から上洛した、という例証になるだろう。亀山ではないのである。  すると、光秀が京へ姿を見せるより早く、夜明け前から丹波方面より上洛していた連中は、それでは、どこの部隊かということになる。幻の軍団である。  まず二つに分けて想定できる。なんといっても、その第一は織田信長の軍団編成のもとに、近畿管区団となった各師団である。これは
寄親(よりおや) 明智光秀丹後衆  細川藤孝、倅 忠興                    大和衆  筒井順慶             摂津衆  高山重友(高槻) 中山秀清(茨木)             兵庫衆  池田恒興(伊丹) 倅 元助
 ところが、この連中はその十日後の山崎合戦では、秀吉方となって戦っているか、さもなくば細川みたいに中立している。だから、これまでの歴史は、彼等は上洛しなかったことにしている。合計の兵力がちょうど一万二千から一万五千であって、謎の上洛軍と員数は合うのだが、どうであろうか。なお、有名な話だが、呂宋へ後に流される高山重友は「ジュスト右近」といわれて、こちこちの信者だし、他の者も、<1507・9・19臼杵発ルイス・フロイス書簡>によれば、池田恒興も、入斎という名の他に「シメアン」の洗礼名をもち、その娘は、岡山城主ジョアン・結城に嫁し、みな神の御為には何事もいとわなかった信者だそうである。中川瀬兵衛清秀にも「ジュニアン」の洗礼名がある。
 
 
 だから、<ヨハネ黙視録>にあるように、「この後、我見しに、見よ天に開けたる門あり、初めに、我に語るを聞きしラッパの如き声にていう『ここに登れ』我、この後に起るべきことを汝らに示さん」といった 具合に、本能寺から一町もない四条坊門の三階建の教会堂へ登って、その上から、「我らの主なる神よ、栄光と尊貴と能力とを受け賜うは宜(うべ)なり。神は万物を造りたまい、万物は、みな御心によりて存し、かつ造られしものなればなり、アーメン」ドカーンと爆発させてしまって、本能寺を葬り去ったのかもしれない。
 
永遠の神の恩寵を得るためには、現世の信長を吹き飛ばしたところで、別に高山や池田、中川といった切支丹大名は、良心の呵責に苦しむような事はなかったであろう。もし、そうしたことを<罪>の意識で感ずるぐらいなら、その二年後、現実的に彼等は秀吉の部下となって故信長の伜と戦いなどできない筈である。  というのは、当時のポルトガル商人は、火薬を輸入するにあたって、ヨーロッパやインドの払下げ品を集めてきて、マカオで新しい木樽に詰め替えて、さも、マカオが硝石の産地のように見せかけて、日本へ入れていた形跡がある。これは、ビブリオテーカ(政庁図書館)所蔵の<ジャバーウン(日本史料)>の中に、木樽の発注書や受取りが混っているのでもわかる。まさか日本へ樽の製作を注文する筈はないから、当地の中国人細工物師に、西洋風の樽を作らせたものだろうし、それが日本関係の古い書付束に入っているのは、日本向け容器として、新しく詰め替えされたものと想える。  
 
古文書の<岩淵文書>の火薬発注書にもあるように、当時の輸入火薬は湿気を帯びていて、発火しないような不良品も尠なくなく、一々「よき品」と但し書きをつけなくては注文できぬような状態だ。そこで良質の火薬ほしさに、切支丹に帰依した大名も多かったのである。  だから、ポルトガル船の商人は「これはマカオで詰め替えてきて、樽だけは新品ですが、中身は保障できません」などとはいわず、「マカオでとりてたの、ほやほやです」ぐらいの事は言っていたかもしれない。  だから信長としては、鉄砲をいくら国内で増産しても、火薬がなくては始末につかないから、てっきりマカオが硝石の原産地だとばかり、間違えて思い込んでいたと考えられるふしもある。
 
 <津田宗及文書>の天正二年五月の項に、当時岐阜城主だった信長に招かれて行ったところ、非常にもてなしを受け、宗及ら堺の商人が当時マカオからの火薬輸入を一手にしていたのに目をつけた信長は、彼らの初めだした「わびの茶」を自分もやっていると茶席を設けてくれた。  それまでの「ばさら茶」では唐金だった茶器を、宗及らの一派が「竹の茶筅」に変えたのに目をつけた信長は、この時初めて「茶筅髷」とよぶ、もとどりを立てた髷に結って、その席に姿をみせ、おまけに給仕役に召した次男の信雄を、この時から「茶筅丸」とよばした事は、有名な事実である。  つまり安土城を築く前から「天下布武」の目標のために、信長は良質の火薬の輸入確保に焦っていたのである。が、従来の歴史の解明では、近江長浜の国友村で鉄砲を大量製産させたとか、紀州の雑賀部族に量産命令を出したとか、といったような銃器の方だけに捉われていて、鉄砲というのは、火薬がなくては使い物にならないのを失念している傾きがある。当時の火薬の配合は75パーセントが輸入硝石で、こればっかりは日本ではどこを掘っても見つかっていないのである。
 
 
 そして、その硝石、当時の言葉で云えば「煙硝」の原産地を、仲継地とは知らず信長はマカオと思っていた。  普通ならば国内を平定してから、国外へ勢力を伸ばすのであるが、天正十年の情勢では、九州へ輸入される硝石によって、西国の毛利や、豊前の大友、秋月、竜造寺、薩摩の島津が武装を固め、信長に敵対をしていた。こうなると抜本塞源の策は、硝石の原産地がマカオであるなら、そこを先に奪取して、西国、九州への火薬輸入をくいとめるしか、この場合、完全な打つ手はない。
 信長が天正八年あたりから、ポルトガル風の長いマントを羽織ったり、ラシャの大きな南蛮帽をかぶりだしたのを、今日では「珍しい物好き」とか「おしゃれ」といった観察で片付けているが、あれは外征用の準備ではなかろうか。十九世紀の明治初年 でも、外国旅行をするとなると、横浜関内の唐物屋へ行って、洋服を注文して仕立てさせ、それを着込んで出かけたものだが、信長の場合にも、これはあてはめて考えるべきであろう。
    信長が建造した巨鑑の謎
 さかのぼって1571年の9月30日。  日本暦の九月十二日に信長が延暦寺の焼討ちをした時には、<フロイス書簡>は、「このような余分なものを一切滅却したもうたデウスは、賛美されるべきかな」 と、天主教布教の障害であった仏教の弾圧にのりだした信長を、神の名によって、マカオから来ていた宣教師は褒めた。  この年の十月、カブラル布教長の一行は、九州の豊後から、まず堺へ入り、マカオ火薬輸入業の櫛屋(くしや)町の日比屋了珪(りょうけい)宅へ泊まった。河内、大和、摂津、山城と次々に廻って歓迎を受けた。といって、彼らが天主教の司祭だから尊敬されたというのではない。  マカオから来ているカブラル達には、硝石という後光がさしていたからである。 「良質の硝石を入手できるか、できないか」が、この時代の戦国大名の生死を握っていたから、よき硝石をマカオ商人から分けてほしさに、反天主教徒の松永久秀や三好義継も、丁重にもてなしている。中には宗教よりも硝石欲しさに参詣にきた武将達も 多かったという。  十二月には、カブラルは、フロイス、ロレンソの使僧を従え、堺の火薬輸入代理業者に案内されて岐阜城の織田信長を訪れている。  火薬が欲しい信長は、彼らの機嫌とりに、庭で放ち飼いにしておいた珍しい丹頂鶴でコンソメスープをつくらせ、当時は貴重品だった美濃紙八十連をプレゼントに贈っている。  1573年4月30日。  日本暦の天正元年三月二十九日に僅か十二騎の小姓だけを引き連れた信長は、突如として岐阜から上京し、洛北知恩院へ入った。  やがて軍令を四方に出してから、白河、祇園、六波羅、鳥羽へ翌日には一万余の兵が終結した。
 
<フロイス書簡>によると、彼は信者の一人であるリュウサ(小西行長の父)を使者にたて、その陣中へ、黄金の南蛮楯と、数日後には瓶詰のキャンデー(金米糖)を贈り、 「仏教徒を庇う足利義昭に勝つよう」にと、それに神の祝福を授けた旨が記録されている。
 さて、本能寺へ、信長が小姓三十騎連れてきたのが疑問視されているが、当時マカオから来ているポルトガル人は「信長は、いつも小人数で出動し、そこから、すぐ兵を集めて編成し、自分から引率 して行動を開始する習慣がある」のを知悉していた。つまり、 日本側の史料では「信長は本能寺にあって、光秀らに中国攻めを命じた。だから備中へ向かって進撃すべきなのに、大江山の老の坂より途中で変心して、『敵は本能寺にあり』と、右折禁止を無視して出洛した」のが、明智光秀の謀叛をした確定的な証拠であるとして主張するが、向こうの資料とはこういう点がはっきりくいちがう。
つまり京都管区長のオルガチーノにしろ、フロイスにしろ、彼等は「五月二十九日に安土城から三十騎を伴ってきた信長は、翌六月一日は雨降りだったが、二日には、また黒山のような軍勢を、ここに終結し、自分から引率してゆくもの」と従来の慣習どおりにみていたようである。 ということは、日本側の史料では、「六月二日の早暁に、丹波の軍勢一万三千が入洛、本能寺に近寄った事は、これは予想外の出来事、異変」と解釈しているのに、 「本能寺の門前に早朝から集ってきたのは、従来通りの軍団の命令受領」と、彼等は、そういうとりかたをしているようである。  そして、従来の日本歴史では信長とか家康、秀吉の個人のバイタリティーに重点をおき、英雄主義を謳歌するあまり、天文十二年の鉄砲伝来は認めているが、その弾丸をとばす火薬を無視しきって、「銃器弾薬」と併称されるものなのに、片一方をなおざりにしているのは前述したが、持ってくる方の、ポルトガル人の目からすれば、「自分達がマカオから輸入してくる硝石によって、この日本列島の戦国時代は烈しくなり、供給している火薬の良不良で勝敗が決まっている」と、明瞭だった事だろう。
 
 
 なにしろ足利十五代将軍義昭にしろ、「仏教側だから火薬を売るな」とフロイスたち宣教師に指図されると、堺のエージェントは販売を禁止。鉄砲があっても火薬がなくては戦えないから、さすが強気な義昭将軍も<和簡礼経>によると、四月二十七日付で、信長の申し出のとおりに泪をのんで無条件降伏をしてしまう。  こういう具合であるから、天主教では、「信長をして、今日あらしめたのは、我らの火薬供給である」という信念を抱いていた事は疑いない。  また、信長も、事実そのとおりだから、天主教を守護し、安土に神学校まで建てさせている。
 のち秀吉や家康が切支丹を弾圧したり鎖国したりするのも、彼らが仏教徒だったから、嫌ったということより、本質的問題は、やはり、この輸入硝石である。他の大名の手へ宣教師を通じて入っては困るからと、治安上とった自衛手段である。秀吉は備前備中から、徳川家は長崎から自分らだけが独占的に硝石を輸入する事によって、その平和を守ったのである。
 信長がマカオを狙って、輸入に頼らず硝石を押さえたがっていたのは、その部下の信者の大名達の密告で既に宣教師達は知っていた。 <オルガチーノ書簡1578年。月不明>に、「昨日、日本の重要な祭日の日に、信長の艦隊七隻が堺へついた。私は急いで、その巨艦の群れと大なる備砲を調べに行った」と出ているぐらい神経質になって、彼らは用心していたのに、本能寺の変の1ヶ月前に、従来の友好的な態度を、信長は自分から破棄しだした。これは後で詳しく書くが、「マカオ神学校」から赴任してくる宣教師達が「天にまします吾らの神」と、教えを広めているのに、信長は従来は安土城の五層で祀らせていた白目(しらめ)石の自分だという神像を、五月一日總見寺(当時は寺とは言ってない、社であろうか)を建て、ここで一般公開し、 「我こそ、まことの神なり」と宣言した。  参拝人が黒山のごとく集まり、何列もの長蛇の列をなしたと伝わっている。 「天地に、二つの神なく、地に、二つの神なし」という教義に対し、挑戦以外のなにものでもない。  マカオから来ていた宣教師にしてみれば、こうした信長の行為は神を冒涜するものであると同時に、これは背信行為として、その目にうつったであろう。  そして、「我々に楯をついて、火薬をどうして入手するつもりなのか」  畏れ疑っていた矢先、五月二十九日。信長は小姓三十騎をひきいて本能寺へ現れた。  そしてその日の午後、  大坂の住吉の浦の沖合いに、オルガチーノがかねて警戒していた七隻の巨艦と、夥しい軍用船が集結された。  司令官として、敏腕家にして勇猛とよばれている信長の三男織田三七信孝。副司令官は丹羽長秀で、司令部は大坂城に設けられ、本能寺の信長と絶えず伝令がゆききしている。非常事態である。
 
 
「出帆は六月二日」と明白になってきた。日本側史料では「四国征伐のため」となっているが、だが、彼らは、「マカオへ出帆?」と勘ぐったのではあるまいか。
 1579年日本へ巡察に来たルイス・フロイスは、日本準管区長コエリオより「日本歴史」の草稿を求められて、それを書いたという。  だが、原本がマカオにあったから、十八世紀まで所在不明で、その後モンタニヤ、アルバルズの両修道士により、イエズス派マカオ日本管区文庫で発見されてポルトガル本国へ写本として送られた。これがアジュダ図書館に保管され伝えらたが、なぜか、 織田東洋艦隊が建造された天正七年から、本能寺の変。および、その後の天正十六年までの間の分は、どうしたことか、欠本にされていた。おそらくなにかと都合が悪いからであろう。  フランシスコ派の宣教師シリングが1931年3月に、その前半をトウールズで、翌年リスボアにて、後半を見つけ、ここに、昭和の満州事変の頃になって、 <フロイス日本史>は神の恩寵により定本になったというが、肝心な原本は、マカオで焼かれてしまっている。
 二百年もたって同一人のシリングが相次いで欠本を見つけられるなんて信じ難い話だから、その間のものは何処まで真実か判らない。それが何よりの証拠には、織田艦隊のことは少しは出ているが、肝心な「信長殺し」は完全に抜けてとばされている。
 
そんな「日本史」なんてあるものではない、と私には思える。 <老人雑話>というのに、明智光秀の言葉として、「武者の嘘を、計略といい、仏の嘘を、方便という」とあるが、「神様の嘘は恩寵というのだろう」とさえも言いたくなる。あまりにおかしい。リットン報告書が出された頃である。  さて「何か知っていられては都合の悪いことを、知っている者」は、民主主義の本場でも、次々と死んでしまうものだと、テキサス州のダラス市民について、アメリカのニューヨーク・ポスト紙は書いているけれど、天正年間の日本においても、やはり同じ事であった。
 
 ジュスト右近は、二度と戻ってこないように、フィリッピンへ追放されている。また、シメアン・池田父子は、本能寺の変から一年十ヶ月目に、何の御手柄か、一躍、岐阜城主、大垣城主と栄典させてもらえたのに、長久手合戦で「討死」という形式で共に抹消。  ジュニアン・中川は、もっと早く、本能寺の変後、十ヶ月で大岩山で消されている。残った者は誰もいない。
 だが、俗説では、 「六月二日に上洛したのは、丹波亀山衆一万三千」と、どの本にも出ている。これが第二の答えで、定説である。もちろん光秀も、丹波亀山から彼等を率いてきたと、(途中で六時間ぐらい光秀がいなくなってしまって、辻褄が合わないが)そういう事になっている。
 
 しかし、もし亀山から丹波衆を率いて、光秀が上洛したものなら、そちらへ戻るべきなのに、同日午後四時、瀬田から右折せずに光秀は坂本へ左折している点は、先に指摘した。だが、こんな明白な事実さえ、誰からも今日まで問題にもされていない。  そして、もっと奇怪なことは、その次の日も、次の日も、光秀は死ぬまで一度も、丹波亀山へ戻っていない。 (もし一万三千の亀山衆というものが、光秀の命令で動いたものなら、亀山は光秀の本城であるし、なぜそれを掌握せずに放りっぱなしにして、三千の兵力しかない坂本城を、その後の根拠地にしたのか、さっぱりわからない)だが、何人も疑いを抱かない。変に思わない。
 
 もちろん直属であるべき丹波亀山のこの兵力が、信長殺しの後、光秀から離れてしまったために、六月十二日、十三日の山崎円明寺川の決戦において、光秀軍は旧室町幕府の奉公衆を加えても一万に満たぬ寡兵となってしまい、三万に近い秀吉軍に対して破れ去ってしまうのである。
 
 そうでなくて、もし、この六月二日の上洛軍の一万三千を光秀が掌握していたら、安土城守備にまわしていた秀満らの坂本衆三千は別計算にしても、天王山の険を押さえる事もできたし、これに前述した旧室町奉公衆の伊勢与三郎、諏訪飛騨守、御牧三左衛門ら約四千と、新たに味方に加わった近江衆三千をみれば、山崎合戦での光秀は、旧部下師団の中川、高山、池田、筒井、細川の全部に離反され孤立したにしても、なおかつ二万の直属部隊でもって、この決戦に臨めたわけである。  なにしろ奇怪なのが、この丹波亀山の一万三千の正体である。これを誰が指揮し、誰が尻押ししたのかということも、やはり、「信長殺しの謎をとく」大きな鍵なのではあるまいか。
 
 
 

敵は本能寺 第二部 光秀二君に仕える

2019-07-30 18:58:30 | 新日本意外史 古代から現代まで
敵は本能寺 第二部
          光秀二君に仕える
 
永禄十一年十月十八日、織田信長に擁せられて上洛した足利義昭は、十五代足利将軍の宣下を受けた。だが室町御所以来の奉公衆の細川藤賢、上野信恵、一色藤長、細川藤孝、三淵藤英、上野秀政、和田惟政といった連中が頑張っていたから、 <公卿補任記>などをみると、信長を斯波管領家の跡目に推す内書には「なほ藤孝、惟政に申す可きなり」と「申次(もうしつぎ)」と呼ばれた最高位の、官房長官名には、光秀などは、まだ入ってない  骨折って織田家に橋渡しをしたとはいえ、金の力でのし上がってきた光秀は、歴々の譜代の奉公衆に比べれば、まだ、まったくの新参なのである。  翌年正月五日に、三好三人衆や美濃の残党に、義昭が本圀寺で囲まれた時、光秀も防戦したことが、<御湯殿上日記>に出てくるくらいの身分なのである。  ところが三年後の元亀二年七月五日になると、<曇華院文書(どげいんもんじょ)>に、はっきりと、「同院の領地である山城国の大住の荘に関する信長よりの、室町御所への抗議書の名宛人は、上野秀政、明智光秀」となって現われてくる。  つまり、この頃になって光秀は、その財力にものを言わせて、足利義昭の申次衆として、上野と同格にまで昇進しているのである。  翌年九月二十四日には、足利幕府奉行衆の一員として、明智光秀は兵千を率いて、今の大坂の高槻城へ入ったと、その出陣ぶりが<言継卿記>には出ている。なお、<年代記抄節>の同年四月の条には、これもはっきりと、 「河内出兵の織田方へ加勢のために出陣した公方(くぼう)衆の一人」として、光秀の名前が見えている。  ところがである。<毛利家文書>に入っている元亀元年五月四日付の一色藤長から波多野秀治宛書状には、 「朝倉征伐に出陣した信長は、秀吉、光秀を金ヶ崎に残して引き揚げてきた」と出ている。
 
 そして、同年九月の志賀山の宇佐城が落ちたとき、光秀は、柴田勝家と共に、京の二条城防衛に二十一日夜、摂津から帰洛している。もちろん、この時は、十五代将軍家の足利義昭も信長に合力して出陣している。  高柳光寿氏の<明智光秀>では、この時点では「光秀は義昭と信長の双方から扶持を貰って、二君に仕えていたもの」と推定されている。江戸中期以降、「貞婦は二夫にまみえず、忠臣は二君に仕えず」という言葉が大陸から持ち込まれ、そういう観念 からゆくと判らないが、私はこれを問屋の店員が百貨店の売り場に勤務しているような出向社員と考えたい。なにしろ足利将軍家の仕えていれば直臣(じき)であって、信長とも同輩の立場でいられる。それが信長の臣となってしまっては陪臣(また)に 落ちてしまう。この差異は、江戸期に入っても、河内山宗俊のせりふではないが、「こうみえたって、お直参(じき)だぜ」といって雲州松江侯の家老を堂々と、玄関先で脅かせるぐらいの箔があったのである。  さて、信長は、近畿地方をば手馴ずけるために、今の大阪西成区にあたる当時の摂津中島城主へ、於市御前の妹にあたる於犬(おいぬ)を嫁がせていた。
この男は、初めは喜んで信長の一字を貰って「細川信良」といっていたが、やはり将軍の直臣がよいとみえ、いつか足利義昭側になり、右京太夫の官位を貰うと、昭の字を頂いて「細川昭元」と改名してしまった。 これでは頼りにならないと、信長が目をつけ秘かに身代りにスカウトしようと、手心を加えていたのが、光秀ではなかったかろうか。と私は考えたい。  公然と、光秀が信長の為に奉公しだしたのは、こののち天正元年二月に足利義昭が信長に宣戦布告し、西近江守護代の三井寺の光浄院暹慶(せんけい)に兵を上げさせた時である。 <原本信長記>によれば、二月二十四日に石山の砦を攻め、二十六日には陥落させ、二十九日には今堅田を、明智光秀、柴田勝家、丹羽長秀、蜂屋頼隆の四軍に攻撃させたところ、光秀の攻め口から破って、ついに光浄院を降伏させたとある。 この光浄院が、のちの山岡玉林房景之(かげゆき)であり、その長子の山岡景隆が、天正十年六月二日の午後四時に、瀬田の城主として、光秀が安土へ渡れぬようにと瀬田の大橋を焼き払ってしまう男なのである。  簡単に考えると、「天正元年の仇を十年後に討った」ということになるが、背後関係を調べると、そんな、なまやさしいものではない。これは後の話だが、いったい光秀という男はどんな人間だったのだろうか。現代でも、頭が良いということと、賢い というのは違うが、どうも彼も、頭脳の回転は早かったが世俗的には、あまり利口だったとは考えられない。<多聞院日記>の天正二年の記載に、「大和多聞城へ入った光秀が、同じ奈良の大乗院尋憲に命じて、寺宝になっていた法 性五郎の長太刀の差出しを命じた。見せてほしいという指図だが、取り上げられるものと覚悟して出したところ、後になって礼をいって返してよこした。意外さに、戻された側はびっくり仰天した」とある。  つまり、国家権力を振舞わせる立場にある者としては、愚直な振舞いであると呆れてしまったというのである。
正直というのは他人に利用価値のあるモラルである。 だから光秀は、死後ずうっと、利用されっぱなしの侭である。「正直者は損をする」という江戸期の言葉は、光秀から起きたような気がしてならないこともある。なにしろ、その為、どこを探しても<信長殺しは光秀ではない>に役立つようなものは見つ かりはしないのだ。ただ、そんな時、ふと想い出てきては、おおいに元気づけをしてくれるのは、昔聞いた事のあるモラエスが洩らしたという言葉である。だから本国から、その全集を取り寄せてもらった。  英文の方も揃えてみた。だが日本の全集だと書簡や日記の類まで再録されているが、あちらでは、そこまで丹念には集めていない。たまたまポルトガル駐日大使館に、文学の好きな若い参事官がきていたから、本国へ、色々照会してもらった。私も四国へ一月ほど行って調べるだけは調べに回ってみた。解明にかかって十年目ぐらいだから、昭和三十年頃の事であろう。
        本能寺の、当時の状態
 それから四年ほどして、戦時中、東洋堂で刊行されていた<キリシタン研究>の三集が、米軍爆撃で消滅していたのを、吉川弘文館から、改めて再刊される事になった。  その中の<岡田章雄・布教機関の分布について>という研究論文をみると、<天正十六年(1588)フロイス報告書>と<バリニヤニ目録>並びに<天正九年ガスパル・クエリヨ書簡>を引例して、その128頁に、 「安土のセミナリヨ神学校建築に使って残った木材を、オルガンチノが京へ運び四条の坊門の姥柳(うばやなぎ)町つまり現在の蛸薬師通り室町西入るの地点に、三階建の礼拝堂と住居を作った。そして、この建物は四条西洞院にあった本能寺とは、一町 とは離れていなかったから、1582年つまり天正十年六月二日の暴動の時は、もう少しで類焼の厄にあうところであった」と、当時の、「ドチリナベル・ダデイラ(真の教えの会堂)」とよばれていた礼拝堂の事を説明している個所が見つかった。  この建物は、<狩野元秀の洛中洛外名所図扇面画>にも残っている。だから真実あったものと断定できる。疑いを挟む余地はない。なお、<天正十一年バリヤニ摘要録>によれば、 「ここにはポルトガルパードレ(司祭)一名、イルマン(使僧)一名が常駐している他に、神学校寄宿のコレジョ(屯所)として日本人神学生十一、二名も宿泊していた」とも明記されている。
つまり、本能寺の変があった時に、信長が死んだ現場から一町以内の地点に、三階建ての礼拝堂があって、そこにポルトガル人二名と十余名の日本人神学生が寝泊りしていたという事実である。 しかも、危うく類焼しかけた程だったから、いくら六月二日の夜明けから午前八時近くまでの椿事とはいえ、彼らは朝寝坊などはしていなかったろうということ。しかも、この時代に、城は別にして三階建ては珍しいから、彼らは高見の見物というか、 見晴らしのきく所から、つぶさに実状を観察しているに違いないという結論も、これから引き出せない事はない。 ということは、とりもなおさず、本能寺事件に対しては、はっきりした目撃者がいたという<真実>になってくる。 そして十余名の日本人神学生と一人の使僧の方は、その後の足取りはつかめないが、ポルトガル人の司祭の方はマカオへ戻っている。これはその翌年の、<1583年における日本プロビンシヤ及び、その統括する事項>の<アレッサンド ロ・バリヤニ報告書>にも出ているし、それから九年後の、<1592年11月現在・イエズス教会の日本管区における教堂、駐在所の目録。並にそこに居住するパードレ(師父)、イルマン(使僧)の異動名簿>においても、これは裏書きをされている。
 
 
こうなると、「信長殺しは誰なのか」を実地に見聞した目撃者が「マカオへ行った」というT・Hのモラエス説は、全集本に載っていなくても、そうまんざら頭ごなしに否定もできはしない。 なにしろ当時のマカオというのは、今のようにカジノで知られたギャンブルの名所ではなく、そこは神の名による都市。つまり東洋一の神学校をもっていたからである。 <1606年度耶蘇会(天主教派)年報>にも、「プラチェンカ出身のザカリヤス・ワリニヤノ司祭は、日本からマカオへ戻って神学校を教え、そして1600年1月2日に昇天されるまで、彼はよき神のオブレーロス(司牧者)であった」  とあるように、天文十二年(1543)八月二十五日。種子島へポルトガル船が寄って、鉄砲を伝来させた信長の十一歳の頃から、マカオは、東洋における神の福音の都市であると共に、その十三年後からは、火薬という新兵器を輸出する死の商人の港 とも変貌していた。
     プロフェツショナル
 日本語の資料によると、この当時は、白人はみな、南蛮人、彼らの持ってきた神の教えは、当今の字なら「吉利支丹」その頃の当て字ならば「貴理師端」と概念的に一括されている。  だが、どうもそんな単純なものではなかったらしい。  というのも鉄砲伝来の二十三年前の1517年、ローマ法皇レオ十世が、サン・ピエトロ寺院の建築費用捻出のため、免罪符を売り出した。今でいえば宝くじである。 しかし、くじの場合はたとえ一等が一千万円であっても当たりは一枚きりで、殆どは求めた人々の百円札が紙屑にされてしまう。また、これが、くじの非情さだが、博愛なる神の代理人である法皇猊下に、そんな残酷な冷たい仕打ちができよう筈もない。 よって一枚残らず、これことごとく神の思し召しをもって、皆当りにされた。  もともと Indulgentia 免罪という思想は原始キリスト教会にもあった。善行さえつめば贖罪されて、天国へゆけるという保証だった。だからレオ十世猊下においては、命から二番目とも言われる金を出して、教会の建築基金に出すような善行を施す者は、 もうそれだけの功徳で天国に入れるものとみな認められたのである。今の日本だって、社会事業に寄附金を出せば、紫綬褒章なんて勲章をくれる。昔は五円以上だすと「赤十字なんとかの家」という木の標札をくれて、戦時中なんかは、町内にたいして恰好がいいからと、どこでも献金して、そのお礼を入り口に掲げておいたものだ。昨今だって、白衣に青い袴をつけた人が「家内安全」といったお守りを「思召しです‥‥」と、セールスに来る事だってある。成田山なんかになると、あすこは、こちらから車でいって「交通安全」のお札を、大きいのはいくら、小さいのはいくらと、言い値通りで皆頂いてくる。誰も値切りはしないところをみると、あれだって、神様に認めてもらえそうな善行をしている人間ばかりが行くとは限らないから、やはり免罪符の購 入に他ならないのである。
それに金なんてものは、なんでも購えるからこそ、それで、その流通価値があるにすぎない。もし私がレオ十世であったとしても「愛は金では買えない」などと、尤もらしいような口調は使わず、もっぱら「金で仕合せが求められるなら、いいじゃない ですか。天国行きの座席指定券はいかがです」と、まさかダフ屋みたいには言わないが、せめて交通公社の宣伝部ぐらいのPR方法は採ったであろう。本当の事をいえば、私なんか、他人に売るより、もし頂けるものなら、何とかして今からでも自分が是非 とも一枚欲しいくらいである。ところが、いつの時代にも、いやあな奴はいるものである。
 
 
頭の悪いくせに自己優位を誇示したがって、愚にもつかぬ事を、さも尤もらしく言ったり書いたりして、それで銭儲けをしたり人気とりをしようとする Professor という種族がいる。レオ十世の時代にもいた。Wittenberg大学にいたMartin Lutherという男だ。なにも命は一つしかないのだから、それに合わせての切符なんだから免罪符だって一枚でいい。だから、欲しければ一枚買えばよし。いやなら買わなければいい。ただそれだけの事なのに、その男たるやヴィッテンベルグ大僧院の門扉に95項目からなる抗議ポスターをはりつけた。まあケチ精神の現れであり、彼の売名行為であろう。
 
 
おかげでゲルマニヤ地区の免罪符大売捌元のテッツェルは、その営業を妨害された。 世に、これを「ルーテルの宗教改革」という。なぜかというと評論家の彼をサクソニアのフリードリッヒ公が早速、御用作家として匿い、時の国家主権者のカール五世が、トルコ戦争後、また国内の新教徒を弾圧しだしたのに、対抗馬として利用したからである。つまり、織田信長が生まれる五年前の享禄二年のシュバイエル国会において、フリードリッヒ公をはじめ、打倒カール五世の陰謀派は、ここにProtestatio(抗 議書)を提出した。今で云えば「国王不信任案」の上程で、その退位要求である。  この時点から、新教徒はプロテスタントと呼ばれ、草案起草のルーテルみたいな男の職業はプロフェッサー。商売人はプロフェッショナル。身体で商売して身売りする女はプロスティスト(彼女等が営業的に使用しだしたゴム製品も、当初は彼の名をとってルーテルのサックと呼ばれる)そして、ルーテルみたいに、ポスターなんか貼ることはプロパカンダ。それを見て騒ぐ大衆の事をプロレタリアート。
 
 
 そして、ルーテルみたいに申込みをすることが、皮肉に意味を置き換えられ、今で言うプロポーズ。彼のように文句をつけてダメ出しをしたがる人間を後世、プロデューサー。彼みたいな爆発したらドカンと被害を受けるガスを、プロパンガス。なお危険を防ぐための野球の捕手の胸あてなどをプロテクター。また彼のような一か八かの 商売をするのをプロモーター。今では興行師や香具師の事をいっている。  数え上げたら際限ないくらいに、プロのつく言語が旧教のカトリック国で、憎悪と恨みをこめて作られ相当数が今や日本語化して私達も使用しているようだ。
さて信長が十四歳の天文十四年には、シュマルカルデン同盟のプロ派の諸侯がカール五世に宣戦布告した。勿論プロが弱いわけはない。相手のカール五世は敗けた。だから信長二十二歳で、美濃から嫁に来ている奇蝶御前に内緒で、生駒将監の後家に、 後の三位中将信忠になる奇妙丸を生ませてしまった弘治元年。  アウグスブルク宗教会議でカール五世は、ルーテル側の布教プロパカンダを認めざるを得なくなった。もちろん、その間の(信長の義父の斎藤道三が二十九で、まだ油屋渡世をしていた)大永二年には、「騎士戦争」や「ミュンツァー暴動」もあった。  その二年後、毛利元就が多治比猿掛三百貫の身分から、一躍安芸吉田城主になった時点には、原始キリスト教の共産制を理想とする、中世紀コミュニストの大規模な農民戦争も勃発していた。
 
 
 こういう情勢では、神聖なるローマ法皇のカトリーコ(旧教)の方は、俗界で言えば営業不振。従って新しい販路拡張に迫られた。そうなればセールスマンによる新規開拓のパイオニア精神しかない。ヨーロッパでは英国のヘンリー八世までが、カザリ ン妃を離婚して侍女のアン・ボレインと一緒になるため、カトリックを捨てて、侍僧のクランマーをカンタベリーの大僧正にして、新教に走り、「愛は何物よりも強し」なんて勅語を出していたし、一般的にも「離婚できないカトリックなんて、亭主の乗り換えができないじゃないの」と、きわめて進歩的な婦人達にも不人気であった。だから、やむなく神のセールスマンであるカトリックの修道使達は、南米、何阿、東洋と、当時の低開発国へ向かって、トランクをぶら捧げ、思い思いに散らばって行った。  だから、織田信長が十五歳で那古屋城で結婚式をあげた天文十八年、まさかウェディング・ケーキなど、お祝いに持ってきたとも思えぬが、フランシスコ・ザビエルが鹿児島へやって来た。そして山口、豊後、京都と布教して廻って、やがてマカオへ引 きあげ、そこで神の途を教えつつ天文二十一年に昇天。死んでいる。
 その五年後、マカオがポルトガル領になると、そこから日本へ、もちろん火薬商売もしに来たが、売れ残りの免罪符をさばくつもりか、ポルトガルのカトリックのゼズス会の宗教セールスマンがどんどん入ってきた。  さて、私は村上直次郎氏の多年の労作に文句を言うわけではないが、彼が<長崎叢書・日本耶蘇会年報>とか、<異国叢書・耶蘇会日本通信史料>といったタイトルで、南蛮史料を刊行するものだから(耶蘇教=切支丹=キリスト教)といった誤謬を与え、 そのため日本における中学校高校に教科書に採用される<世界史>が一冊残らず、皆同じように間違いをしてしまっているが、<Ignatius Joyola>が海外布教のために1534年に創立した(Company of Jesus, Jesuits>は、これを「耶蘇会」と訳すのは誤りらしい。「耶蘇会」という日本語をあててよいものは、1530年のルーテル派のヒランヒトンの書いた<アウグスブルグの信仰告白による懺悔録>を参照すれば、よく判る事だが、これはプロテスタントの新教の方である。明らかにこれは困った誤訳である。つまりフランシスコ・ザビエルによって、日本列島へもたらされ、マカオをば宗教基地として、<天正十一年(本能寺の変の翌年)アレッサンドロ・バリニヤンよりの、ポルトガル本国のエボラ大司教報告書>にも記載されているところの、「この日本列島において、 神の御名は讃うべきかな。わが聖堂は既に二百に近く、祈祷所程度のカザやコレジョは、その数に加えず、されど、これとて二十余ヶ所に、その建物あり」という宗教分野は、これは「耶蘇教」ではなく「天主教」のカトリックの方である。  つまり、「日本耶蘇教会」というのは、根本的な間違いで「日本天主教会」でなくては、すべてが混乱してしまうのである。即ち「耶蘇教」と区別されて呼ばれるべきプロテスタントの新教が東洋へ入ってきて、その布教活動をしだしたのは、これは三 百年あとの十九世紀の清朝末期で、日本へ伝わったのは明治からである。  そこで村上直次郎博士および、その門下生の記したものを引用するにあたっては、私は、この根本的な誤訳を避けるために<天主教>という文字に改めて用いる。
 さて、本能寺の変の起きる四年前。  マカオにとって、それは重大な事が起きた。  領主にして君主であるポルトガル国王セバスティヤン一世が、事もあろうに南アフリカへ攻め込んで、モロッコ人の騎馬隊に殺され、ついに敗戦してしまったのである。  だから、その2年後の天正八年の1580年8月12日に、当時マカオから日本へ赴任して一年目のアレッサンドロ・ワリニヤノ神父は、九州の口の津から、「カスチリア人(西班牙)のフランシスコ派(原始会則派会派)の修道者が、フィリ ピン(当時は西領)からマカオへ来ています。吾々ポルトガル人の勢力圏内を荒らしているのは、これは、きわめて不快をおぼえます」といった意味の書簡も本国へ送っている。マカオに当時の原文がある。これは、のちに彼がゴアから送った、「聖にして偉大なるローマ法皇アレッサンドロ六世猊下は、新しく発見された世界の分配を、神の僕である宣教師になされましたが、西印度と東印度を境にして、スペインとポルトガルは境界線を引いている筈です。それなのにポルトガルのセバスチャン一世陛下が戦死されてから、わが王国は隣国スペインのフェリッペ国王の統治になりました。もはや自分達の王様や政府を持たぬ哀れな亡国の民であるポルトガル人は、こうなっては、もはや優越と名誉を少なからず奪われてしまったのでございます。」 という一文と対照してみると、よく納得できる。
 そもそも初代フィリピン総督のミゲル・ローベス・デ・レガスビというのは、本能寺の変の勃発した天正十年から、遡って十五年前に、アグスチン派の修道者を伴って来た。そして天正五年になると、フランシスコ派の修道者が、スペインから大西洋を 渡ってメキシコへ行き、そこから貿易風を利用。フィリピンのマニラへ集まってきた。そして本能寺の変の一年前の1581年には、初代ドミニコ会のドミンゴ・デ・サラサールが、 「ポルトガル人の天主教派を一掃して、日本占領のため」強力な修道士をあまた率いて、本国からやって来ていたのだ。これは、その、<1581年・ガスパールコエリ年譜>にもあるように、 「日本列島は東洋一の有望地で、すでに信徒は十五万人を越え、天主堂が二百もあるのに、ポルトガル人がマカオから来ているのは僅かで、日本人の助司祭のパードレ・イルマンを加えても八十余人で、とても手がまわりかねている」 という実状に目をつけて、手薄を狙って乗っ取りに来たものらしいと想像される。
       疑惑
<ワリニヤノ書簡>にも、 「マカオの司祭は三千エスクードに価する一修道院の許可を、渡来したカスチリヤ人のフランシスコ修道士達に与えました。しかし彼等は、マカオより中国本土の方を、 メキシコやフィリピンのように、自分達の手で征服したがっています」というのが明白に書かれてあるからである。
 
 
 いくら神の光栄が偉大であっても、その国自体を占領するとしないとでは、布教活動がまるで違うはずである。それに当時、ポルトガル国王セバスチャン一世が死ねば、まるまると、その国が統治できたスペインである。その三年後に、また野心を起し、 当時の日本の主権者の信長を倒せば、否応なく日本列島に君臨できると考えたとしても、これは少しもおかしくない。  なおワリニヤノは、スペインのカスチリヤ人の中国本土征服の野心しか、書き残していないが、あの広大な中国より、どう考えたって、こじんまりとした日本列島の方が、占領する足場としては手頃ではあるまいか。  そして「安土か京にいる織田信長一人さえ亡きものにすれば、この国は手軽く奪えるもの」とでも考えたのでなかろうか、と想える。  また、このワリニヤノ書簡を裏返しに判読すれば、「先んずれば人を制す」のたとえで、 「スペイン人に奪取されるくらいなら、まずポルトガル人がやろう」とも受けとれるし、当時、印度を東西に分けて、その勢力を二分していたポルトガルとしては、ローマ法皇に対し、 「スペインが中国本土を狙うのなら、我々は対抗上、まず日本列島をいただかねばなりません」と献言していたのかもしれない。
 と、疑惑が持てるのは、ウイジ・タードル(印度派密使)の資格をもって、天正七年七月にマカオから日本へ来朝したアレッサンドロ・ワリニヤノは、翌天正八年十月に、豊後府内の教会堂において、天主教の神父達を集め、スド・コンスルタ(九州協議会)を開き、続いて安土の天主堂でスエ・コンスルタ(中央協議会)。そして天正九年十二月には、長崎のトドス・サントス会堂で密議がもたれた。そして、これを最後にして正式の会合は姿を消し、翌天正十年の六月二日に、京都四条の三階建の天主堂から一町もない至近距離の本能寺で、いきなり突如として信長殺しは起きたのである。
 
 
もし、当時の十字軍遠征用に考案されていた折畳み分解式のイサベラ砲を、この天主堂の三階へ運び上げていて、一階建の眼下の本能寺の客殿へ撃ち込むか、もし、それでは人目を引くものならば、その火薬を本能寺の境内へ持ち込んで導火させてしまえば、ドカンと一発。それで、容易にかたのつく事である。  詳しい状況は後述するが、本能寺は午前4時に包囲されたのに、突然、火を発したのが午前7時過ぎという、時間的ギャップと、前日までの大雨で湿度が高かったのに、火勢が強くて、まだびしょ濡れの筈の本能寺の森の生木まで燃えつくし、民家にまで 類焼した。  そして、信長の焼死体が行方不明になってしまったぐらいのの強度の高熱状況からみても、木材や建具の燃焼温度では、火力の熱度が不審である。つまり、今日の消防法規でいうA火災ではなく、これは化学出火のB火災の疑いがある。  当時の化学発火物といえば、文字どおり「火薬」であるが、小銃などによって発射された程度のものでは、これは炸薬だから、たいした事はない。性能の強い火薬による本能寺焼討ちとなれば、コムンバンド(火裂弾)しかない。  もちろん、これは皆目、日本側の史料にはない。だが考えられることである。
さて、当時のワリニヤノ協議会草稿というのは、<Cousulita>の名目で、ローマのバチカン法王庁に<Japsin1-34・40-69>の註がついてスペイン語とポルトガル語で現存している。 しかし、まさか神の書庫に納められているものに、今となっては殺人計画書など附記されている筈もあるまいと考えられる。
 さて、ここに、もう一つ訝しな事実がある。  ワリニヤノは天正九年十二月の長崎会議の後、翌年二月二十日。つまり本能寺事件の起きる百日前に、九州の大友、大村、有馬の三大名の子息を伴って、秘かに日本脱出をしている。
 
 
 これは、信長を倒したあとの、日本列島のロボット君主に、この三人の中の一人を、ローマ法皇グレゴリオ十三世に選ばせるためではなかろうか。昔から「三つに一つ」とか、「三位一体」というように、カトリックでは、ものを選ぶときに同じ様なもの を三個並べてその一つを神の啓示にもとづいて採決する古教義が伝わっているからである。  ところがである。マカオへ彼が渡った時、 「ポルトガル王統断絶によって、従来は委任統治形式であったスペイン国王フィリッペ二世が、新たにポルトガル国王フィリッペ一世を名乗って、ここに改めて、二つの王を正式に継承した」  つまり二国が完全に合併した、という知らせが届いたのである。
 だから、ポルトガルの勢力を一挙にもり返そうとしたワリニヤノの計画は挫折した。 しかし、当時は無線も航空便もない。そして、季節風をつかまえないと船も進めないから、日本列島へ指令を出して計画変更を訓令する暇がなかったのではあるまいか。  かくて同年六月二日。本能寺の変。  そして、ワリニヤノはローマへ行く筈だったのに、急に、日本の異変によって禁足され、印度管区長に任命され、途中で雄図空しく足止めされてしまった。だから九州三候の子息達は、日本語の通じる彼と別れて、バードレのロドリーゲスに伴われてヨ ーロッパへ行き、手土産の屏風などをプレゼントして歩いた。何をしに出かけたか、いまだに訪欧の目的はわからない。疑問とされている。
 さて、さらに奇怪な現象が、ここに発生する。 本能寺にて信長が殺害されたという日本列島の政変が本国へ伝わった後、直ちに新しいポルトガル王になったフェリッペ一世は、印度副王のドン・ドアルテ・デ・メチーゼスに対し、(スペインとポルトガルは今や合併し、一つの国になっているにもかかわらず)スペイン領のフィリピンと、旧ポルトガル領のマカオの交通を、まったく、だしぬけに、断固として、固く禁止させてしまった。  しかも、その上、印度副王は、突如として、マカオのカピタン・モール宛に対し、<マカオ・ビブリオテーカ(政庁図書館)所蔵>
「陛下の御名により、特に許されしパードレ以外の者は、いかなる聖職者は修道者も、これが日本に渡航することは、固く禁止する。支那人の司教といえども、マカオに今いる宣教師は一人といえども、これを日本へ行かせてはならない。もし彼らの中で、 既に日本へ赴いた者あると耳にしたら、陛下の御名によって余が命令するところであるから、いかなる方法をもってしても、直ちに追いかけ引っ捕らえて、これをマカオに送還せよ。本命令は、何等の疑念故障を、これにはさまずして完全に履行する事を 命じ、その命令通りするよう通告する。なお本書はフェリッペ一世陛下の御名に於いて認可され、陛下の御玉章を捺印されたものと、全く同一効力を有するものである」
 と発令をしている。もちろん表向きの理由は、色々な宗派の宣教師が日本へ入り込んでは混乱するからだというのである。  しかし、この当時フィリピンのマニラへは、ドミニコ派のサラサールが初代司教として、スペインの国策として、本国から集団で来ていた。  もちろん、日本列島に勢力を植えつける為である。あまたの戦闘的なフライレ(托鉢修道士)も率いていた。  だから、それゆえ当初は、マカオのゼズス教派のポルトガル人は邪魔をした。しかし国王の戦死によってスペイン統治下におかれていたから、本能寺の変の後では、もう反対の余力もなかった筈である。  だったらサラサールの率いる宣教修道士の一行は堂々とマカオへ渡り、そこから日本へ行くべきである。それなのにサラサールを保護する立場のスペインの王様が、あべこべにこれを断固として禁止してしまったのである。 一体、何を危惧したのであろうか。  続いてマカオ在住者の禁足。日本へ行った者は、逮捕してでも連れ戻せという緊急命令。こんな不審な話があるだろうか。二百二十の大小の教会にポルトガル人の師父が数名で、あとは改宗した日本人の俄か助司祭。それも合計して八十名。これでは、あと の百四十の教会は信者が集まっても、それを司ってアーメンを言う者もいない。  つまり二千人の信徒に一人の宣教師では、手が足らないのはわかりきった話なのに、たくさん日本へ渡航しては混乱するから、一人も遣るなという。この弾圧は、全く奇怪であると言わざるを得ない。  しかも、こうした宗教上の問題ならば、(ローマ法皇のグレゴリオ十三世から、ゴアのレアルコンセ・ホデラストインジャアス(王立印度参事会)を経て、マカオのセズス教会の大司祭へ通達されるのが、当時としては順序というものである。  それなのに、この命令系統は無視され全く違う。
「カピタン」というと、江戸期に入って長崎の出島へきていたオランダ商船の船長を考えがちだが、信長の頃の「カピタン」とは、何十門かの青銅砲を積んだ軍艦の艦長で、「マカオのカピタン」といえば、今日のマカオ・アドミラール(海軍総督)に当 たるものである。(国王から印度福王。そして海軍総督)という伝達は、これは宗教問題というより、どうみても明白な軍事命令としか受け取れぬ。  まるでマカオに一大異変でも発生したかのように、(フィリピンからは渡航を厳禁し、マカオ在住者は一人も日本へやるな)という、この武力通達は、何に起因しているのだろうか。
 私は、これを(本能寺の変)は、スペイン人であるフェリッペ国王は、前もって聞いていない寝耳に水の事なので「東洋の利権を失っては」と驚愕した、と考える。  そこで陛下は善後策をとるため、新法皇に連絡して帰国中のワリニヤノを途中の印度に足止めさせた。  ついで、その部下として日本にあって、四条坊門にある天主堂から本能寺を爆発させたのを見て、その場からマカオへ逃げ戻ってきたポルトガル人と日本人のパードレやイルマンを、他と接触させては厄介であると、監禁させた。そして、その秘密の洩 れるのを警戒し、マニラに待機中のスペイン神父らの渡航を禁じた。勿論マカオは非常警戒で、もはや天主教の大司祭などには委せてはおけぬから、モール海軍総督の兵力によって、戒厳令をしいて、ポルトガル人の謀叛事件を極力隠蔽しようとした‥‥ といった具合にも解釈できるのである。
 これに関してポルトガル系の資料はないが、マカオ及び日本への渡航を禁止されたフィリピンのドミニコ派の宣教師が、同じスペイン人であるフェリッペ陛下へ送った陳情書は、今も残っている。天正十八年、つまり、これは本能寺の変から八年目のも のである。 <1590年6月23日附・フィリピンのマニラに於て、フランシスコ教派監督フライ・ペトロ・バフチスタより、陛下に奉る上訴文>という書簡である。 「当地からマカオへ渡る途が絶えてしまってから、もはや本国から来る宣教師もいなくなりました。ですから既に受洗させた信者も放りっぱなしの有様で、これでは新しい芽として育て、その徳行を増すための教理の伝道にもことかきます。なんとか本国 の修道士達が当地へ来てくれるよう、つまりマカオや日本へ入れるように理解を加えられ、どうか渡航禁止の軍令を解除していただきたく、ここに神の御名により、切に懇願するものであるます」(Porez,Cartas-y RelacioneeⅠ収録)
 この当時、スペイン船はマカオへ行って、中国の生糸や絹布。そして日本から運んできた金銀や銅の地金を求め、メキシコやインドへ運んで巨利を占めていた。渡航禁止というのは宣教師だけではなく、船舶自体の渡航を遮断したものであるから、スペ イン兼ポルトガル国王として、フェリッペ陛下の損害は、きわめて莫大なものだったろうと想像される。  それなのに天正十八年の時点でさえ、まだ禁止は解かれていない。つまり陛下は、極東貿易の巨利を、すっかり放棄されているのである。スペインの国策が本能寺の変を境にして、こんな変更を余儀なくされたのは、何故であろうか。これでは、マカオ へ戻って行ったのは単なる目撃者ではなくて、殺害者自身ではなかろうか。そんな疑問さえも、はっきり言って抱かざるをえない。
 
 
 
 

姓の法則による日本史の真実を考察する 第二次大戦とイ姓列勃興の関係 第二次大戦に脈うつ<血>の方則

2019-07-30 10:44:20 | 古代から現代史まで

姓の法則による日本史の真実を考察する。

 第二次大戦とイ姓列勃興の関係

 第二次大戦に脈うつ<血>の方則

 ヒトラーはマイン・カンプ『わが闘争』の中で、 「わが民族の歴史を振り返ろう。かつての神聖ローマ帝国を、西暦四七年に滅ぼしたわがゲルマンは、スペインに西ゴート王国。ガリヤにフランス国。半島にイタリア国。スカンジナビアに北欧三国。 ブリタニア島にイングランド国。そしてババリアにドイツ総本部を建国し、ヨーロッパの全支配をなしていた。しかるに千五百年の後、われわれはベルサイユ条約によって、不当な弾圧をうけ領土も削られた。 かっての主人であるゲルマンが、今は鎖につながれている。この辱しめをわれわれは忍ぼうとしても、わが体内に脈々と流れるゲルマンの血の誇りはこれを許さないのである…… われわれを毒しているものは、異民族による雑血の混入だった。わがゲルマン民族は、今こそここに血の粛清を求め、純血の尊さを確保せねばならない」と宣言した。

 大戦が始まると、彼らは次々の占領区域のユダヤ人をとらえて、アウシュビッツの処理場へ送った。そして異血民族は大量にあの世へ送られた。  戦後ユダヤ人は憤った。生き残った連中が『アンネの日記』を出版し、映画「夜と霧」を製作して、その残虐性を世界に訴えた。  だが、これに同調して「ナチス・ドイツは残酷無惨だ」と、知識階級までが、その宣伝に踊ったのは、雑種国家のアメリカと、わが親愛なる東洋のニッポン国だけだそうだ。                                             「なにしろ原爆を落とされ数十万の同胞を殺されたくせに、『過ちはくりかえしません』と、てめえでおわびするバカな国民性もあろうが、なぜユダヤに同情するかわからん」  と、R・H・ブーツの『ユダヤ人問題』にはでている。とはいえ日本には、「拳々服膺する」というむずかしい言葉があるが、純血種を守るためセイリされたユダヤ人の血潮をしのんで、 これを「股々(ここ)服用」の紙ナプキンに「アンネ」と命名するお国柄である。なんでユダヤ人との血のつながりを、無縁の日本女性が身をもって肌で確かめあう必要があるのか、 男の私などは下腹に手を当てていくら考えたって理解に苦しむ。

 なにしろ本場のヨーロッパでは、ゲルマンのドイツ人はもちろんのこと、ユダヤ系以外は、「民族の血を守るのは、正当なことだ」と女までが、決して大量虐殺を非難していない。  これは国旗をみれば敬礼し、ストリップーホールでさえ国歌を演奏する異国の人民どもと、「『君が代』って大相撲のフィナーレだろ」という子供のいる国民性との相違であろう。

 情報社会に適応したイ列

 とはいうものの大局的にみれば、第二次大戦は、純血主義と雑血主義の争いで、雑の方が勝ってしまったのだ。だから日本でも、第二次姓のイキシチニの頭文宇のつく連中が<列姓遺伝>で、 逞しく戦後五十年間に成長し、今や彼らの黄金時代になっているのだということが判る。なにしろ現代では「血統」なんていうと、「ああ、犬ですか」と答えられてしまう。  不公平な話だが、犬屋の商売上の謀略によって、犬の世界だけは、血統書付きという権威によって、国産ア列の秋田犬や、舶来ウ列のウールーコステリアの珍種から、 フのブルドッグまでが威張っている。  だが、これは仕方がない。なにしろ現代の人間社会は、イ横列の時代だから、昔みたいに毛並みの良し悪しをいうよりも実力本位ということになっているし、頑固な大人物型より、  「情報社会」というのは、こまわりのきく頭の廻転のはやいのを求めているから彼らがもてるのだが、また講談や浪花節の流行するような世相に逆転すると、 今度は、またもっともらしいことのいえる型が大切にされて、ウクスツヌ型の時代がカムバックしてきて、「復古ムード」ともなろうともいえる。

 さて、今でこそ、「この世の中に神も仏もないものか」という芝居のせりふから、神仏を一つに考えるが、江戸元禄時代までは違っていた。 つまり神を信ずるのは原住民。仏信仰は大陸からの外来民と決まっていて互いに敵視しあった仲である。 戦国時代など「出陣にあたって神仏に祈り」などと書く輩もいるが、そうしたてあいは歴史を本当に知らない寝言の類であって、「神を信ずる者」と「仏信心」が衝突したのが戦国時代である。 <加越闘争記>などでは、「仏法こそ、武士の仇敵なり」と一向門徒によって奪われた加賀の国を取り戻そうと、武士が集まって仏家の寺や道場を焼討ちする次第が書かれている。つまり、 「織田信長は、本願寺を攻め延暦寺を焼き払い、高野山の僧侶何千人を、みな殺しにした凶悪無惨な武将だった」というが、神信心の信長が、外来系である仏信信心の敵をうつのは当然のことだし、 中世紀はヨーロッパだって、  「百年戦争」「三十年戦争」とカトリックと、ルーテル派の新教国との争いが激しかった。そして異教徒であるサラセンの回教徒に対する十字軍の、宗教戦争の時代だった。  そして、この戦国時代に各地から、新興プロレタリアートとして勃興した武者階級が、出身地を名のって姓を広めたのである。 例えば常陸の国、多賀谷から出れば「多賀谷長兵衛」を名乗り、信濃の日根野から出ると「日根野高広」と名乗ったように、その出身地を姓にした戦国武者や大名が多く、 <濃飛両国通史>や<摂戦実録>等に書かれているように豊臣秀吉の馬回りにもこれは多い。 江戸期に入ると「家名」とか「家門」という形になったもので、もともとが集団集落の地名からでている姓とというものが、横つながりの連係をもっていたのも、このためである。

【契丹も、日本史では「宋」となっているが、唐に代って中国大陸を支配した国ゆえ、同じとしておくが、厳密にはキの付く姓とスは、フの藤原系の傘下に入ってしまう。 公家ではなく庶民として扱われてきている点を注意しなければならない】

  二十一世紀の主導権を握る者

 片仮名が純日本系のわけ

 アイウエオは「インドの声字学」つまり<悉曇・しったん>によるという説がある。たとえば、インド語のカースト。  (caste)という階級を意味する言葉が、ラテン語の純血、  (Castus)からでて、ポルトガル語の家系、(血統のcaste)になり、今は英語になっている。  このように言葉というものは、国から国へと変わるから、あえて否定もできない。  さてこの、インドのカースト制というのは、  ① ブラーフマナ(バラモン=僧侶)  ② クシャトリヤ(王侯貴族と武士階級)  ③ ヴァイシャ (平民=町人)  ④ シュードラ (被占領民=奴隷。)  と厳然と最近まで階級制をしき結婚も交際も許さなかった。そして日本にもそれに似た階級制の、②、③、④がそのまま、百年前まであったし、今もすこし残っている。  さて、アイウエオというのは縦読みすれば、インドできのような疑いもあるが、この方則みたいな横読みに直せば、これまた日本式に意味が通ずる。  つまり、 「赤沙汰な(赤い模様の)浜矢羅わ(はまなす、はまなしともよぶ赤い花。実は古代の食料)(わ=は)  生き死ちにひみいりゐ浮くすつぬ(人の生き死に関係なく花は咲き実も浮き漂う)  踏むゆるう(固い実を足で柔らかく殼をふむ)えけせてね(良くしてね)へめえれゑ(めでたい)  烏滸外(おこそと)の頬(ほ)もよろを(つまらぬ民草たちも木の実か食え満腹でき頬をほころばせ満足する)」となる。ただし、(おご)は海髪(おごのり)という海草の意もある。  だから、こういう解明がつけば、どうにか判ってくるというものである。

 そもそも縦書きしだしたのは、明治に入って発音記号が輸入され、アイウエオを縦にして母音にすれば、あとは力行はK、サ行はSと分離できたからである。そして、  (いろは)は大陸のサンスクリットの変型文字だが(アイウ)は日本原住民用とした意味もあるが、日本原住民が固まって隔離されていた堺の茶人たちは、平仮名は使わなかった。 その一例として、  「サシスセ列の千利休」へ「アカサ列の奈良商人の松屋久松」が、天文六年九月十三日に出した手紙あたりからしか手掛りは今は実存しない。  それは、茶席のメニューであるが、 「シヲヒキ、汁菜、引汁ススキアメナマス、飯、アユ、ヤキテクワシ、イモモチ、ヤキクリ」  と、当時一般に使われていた、(いろは)の平仮名をさけ、わざと(アイウ)の片仮名が用いられている特殊性などである。 何故かとこれをもとにして、戦国時代から秀吉時代までの茶湯関係を調べてみると、 「わびの茶」をもって従来の中国風の唐茶に対抗した堺の皮革商の武野紹鴎や千利休の一派は、公文書には、 (いろは)を用いたが、相互の通信や自分の日記には、みな(アイウ)を使っていることが判ってくる。 <宋湛日記>や<利休百会記><宗及他会記><松屋全記><天王寺茶会記><山上宗二記>にもことごとく、原文は(いろは)を用いず、わざと(アイウエオ)で書いている。 つまり大陸から輸入された茶は南北朝から足利期にかけては「書見台子のばさら茶」と呼ばれ、 茶碗は唐渡り、茶びしゃくや茶せんも唐金ときまって中国風に卓をかこんで蓋つきの茶が飮まれていた。

 それを当時の被圧迫階級の純原住系の連中が提携し、 「サ」の(ささら衆)に竹の茶せん、 「カ」の(かとう衆)に上がまで碗、 「マ」の(まつばら衆)に静岡で茶、 (サの狭山衆にも茶を栽培させた)が、こうしてオール純国産の青いグリーンティーの時代をつくり、そして(まつ)から名をとって、「まっ茶」とよんだ。 こうして青茶は従来の大陸から入っていた赤や黒っぽいブラックーティーを追い払ったのが彼らの歴史なのである。  今でこそ、茶は自由栽培だが、江戸中期まではそうではない。この植えつけの地域は限定されていて、  「久野別所」のあった清水とか、善枝ちゃん殺しで有名な狭山といったような旧別所の特別区域に定っていたし、また岡山から広島へゆくと、  「茶せん」とよぶのが、限定地域の人への侮称になっているのでも、これは判りうるというものである。

だが、当時とは違い、現在はリプトン紅茶が大手をふって入ってきて、日本に植えられた方は、  「唐茶ですみません」と断わりをいってさしだされるくらい、赤い茶は、肩身を狭くしている。  しかし、これを誤ってしまい、お茶受けのつまみなしでだすのを、(茶オンリー)の意味かと、  「空茶ですみません」式にいうが、それは間違いで元来は唐の茶のことをいうのである。  しかしこれがエスカレートして近頃では昔の川柳クラスでさえ、如何なるわけか青っぽい色がでるようになっている。  さて、そうした後世のまやかしは別にして、その時代の、「まっ茶グループ」が、ことさらに(アイウエオ)を用いるからには、これぞ純日本系の文字であろうと推測したのが、 この<姓の方則>なのである。  だが、この話は、これまで『茶湯古典全集』にも残っていないし、今まで書いた人もない。 「わびの茶の極意が、幽玄枯淡」とあるのを考えれば、 「これは大陸から進注してきたウクスツの連中に山奥へ追い込まれた逃亡奴隷の日本原住民のインデオ族が、 戦国時代に山から出てきて武者として働き、目出度く一城の主となって美服美食に恵まれながら、時として郷愁にやるせなくなって、山中の暮らしを追慕して、 そのほろ苦さを嗜んだんだもなのだ」と解明すれば、すぐ判るのだが、そうなると、茶湯の歴史がみみっちいものになって、茶湯の道具が高価に売れなくなるから、 よって勿体をつけるために頬冠りされているのだろう。

 

 


真田の赤備え 「海洋渡来民族の民族カラーは赤」

2019-07-28 09:12:51 | 新日本意外史 古代から現代まで

真田の赤備え

 
 「海洋渡来民族の民族カラーは赤」
 
 だいぶ以前になるがホメイニ革命以前の、イラン建国三千年祭には、 日本から三笠宮も招かれた様子がテレビで放映されていた。
  観兵式では中世式の乗馬兵が、真紅の赤長旗を林立させての行進は見事だった。 このイランに限らず中東の国は、アラーのイスラム教以前の宗教と言えば太陽や火を崇める拝火教が主な宗教だった。勿論、水を崇める拝水教などもあった。 この拝火教徒が民族のシンボルとしての色が「赤」なのである。
 これら拝火教徒が住むアラブの地から、インド、マレーシア経由で多くの人間が、この日本列島に漂着し定住していたことを日本史では隠している。
 これらは、日本民族の中でも海洋渡来民族で、日本史では源、平、藤、橘、と分類するが 
 源は裏日本、沿海州から入ってきた騎馬民族。民族カラーは白  
 平は海洋渡来で太平洋沿岸各地に漂着。民族カラーは赤  
 籐は藤原氏を名乗る中国よりの占領軍。色は坊主の着る墨染めの黒  
 橘はタチバナとも読むが、唐を滅ぼして取って代わった契丹族のキ ツ色は黄色     
 
 
日本でも平家と呼ばれる、即ち海洋渡来系民族は赤旗を目印としてる。
 真田幸村が全軍赤旗を立てて戦ったのも、宗旨の為であるし、遠江井伊谷出身の井伊直政が滅亡した武田の遺臣団を召抱えて、部下の甲冑まで朱塗りにしたのも同様である。
 さらに大岡忠相が堂(道)の者と呼ばれるようになった拝火宗徒の、旅回りの芸人達に五街道目付けを命じた時も、それぞれに捕縄と朱鞘の公刀を渡したのも同じ。街道で川渡しの人足も赤ふんどしで、一方騎馬系の雲助や駕籠かきは白ふんどしと決まっていた。
 日本民族はこの海洋渡来と騎馬系が大半を占めるため、全国に赤鳥居と白木の鳥居が多い。 紅白の幔幕は縦は紅白で二分されていても、海洋系が多いことを慮って幔幕の上位は赤になっている。
 こうしたことが背景にあるため、日本人は何かと紅白に分かれたがるのである。 運動会然り、紅白饅頭、紅白かまぼこ、紅白水引、紅白歌合戦さえある。
 「安芸の宮島」
観光地で有名だが、アの発音で始まるということは海洋渡来系の平氏の建てたもので、今でも朱塗りである。
そして宝物殿には、平家の公達が用いたという佩刀が飾られているが、 日本刀とは似て非なるものである。即ちストレーと呼ばれる直刀でしかも両刃の剣である。
この日本刀の創始者は足利義満だが、彼は豊富に取れた日本中の砂金を明国に送って粗悪な鉄銭をバーター交換して、北条時代に元寇で懲りていたので、故意に「臣源義満」と名乗って明の属国に甘んじて足利体制を維持した。 そして入道した時に南蛮族来寇(これを刀一の来寇と日本史では言う)があり、 防戦のため日本原住民を駆り集めて防人として九州へ送り出した。
その際両刃の剣は、鋼の無い日本だから片刃で付け焼刃の刀を持たた。
今でも日本刀は鋼はごく一部で美術品としては良いが、折れやすく曲がりやすく実用には向かないのである。  外人に人気なのも、間違った武士道と、美しい波紋の神秘性ゆえでる。
 幕末の新撰組でさえ、刀術は奇数日、槍術は偶数日と決めていたが 実際にはほとんどが槍術の稽古だったという。  人殺しには槍の方が数倍有利であることは論を待たないだろう。 だから映画やテレビの切り合いは全部芝居の影響で嘘。        足利義満に関しての詳細は以下。      http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/ashikaga.htm
 さて、宮島には硝子ケースの中にはガレー船と呼ぶ、奴隷に漕がせる船体の模型や絵図もある。こんな形態の船は日本中何処を探しても無いが、同じモデルシップがスペインのマラガ博物館やポルトガルの海事博物館にも陳列されていて、それには困ったことに「平家一門御座船」とは出ていなくて、「ムーア王の艦隊」と出ている。
 このムーア人というのはアラブの民がアフリカ大陸に入り混血した民族なのである。 その歴代の王の名が出ているのをどう考えるかである。
 そして宮島神社の国宝級の直刀や太鼓はベイルートやバクダッドの空港売店にも全く同型の新しい物が、御土産品だから色彩は派手でサイケだが10ドルで売っている。
 
これらから必然的に浮かび上がる事象は、昔アラブ方面からの民族の流入がこの日本列島には在ったということだろう。 そしてその子孫は今でも日本人の半分を占めるほどに増えて、庶民として暮らしている。