新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

信長の父 織田信秀 正妻の居なかった信秀 信秀は生涯二十三人の子供を残した

2019-05-10 13:26:02 | 古代から現代史まで

   信長の父 織田信秀          正妻の居なかった信秀

    
信秀は生涯二十三人の子供を残した
 
 
織田一門。 織田弾正忠から備後守になって死ぬまで、織田信秀は、四十二歳の生涯で、男十二人、女十一人の子供を残した。 その生涯を終えるまで、信秀は二十三人もの子を造った事になる。信長は三男になる。 これは大変な大仕事である。十八歳ぐらいから、次々と年児で拵えた勘定だから、定めし人並み優れた女好きと想われるが、そうではない。 まったくあべこべで、信秀の女嫌いは当時は有名な話だった。
当時、織田家といっても、信秀の生まれた家は、尾張の守護代斯波家の奉行職織田本家の又分家で、尾張八郡の内の一郡の四分の一ぐらいな所領しかない勝幡の城番だった。後年の前田利家の伯父与十郎が尾張海東郡荒子城で三千貫の身代だった頃、信秀はその十分の一もない身上だった。 大きな領主なら、首名(おとな)衆と呼ばれる重役共に任せて、己は花押だけ捺していれば済むだろうが、信秀のような中小勢力では、戦をするにしても自分が真っ先かけて槍をふるい、駒かけて先頭に立って奮闘するしかない。
そして身辺を固めてくれる者も同族だけなのである。
ところが一門、親族といった同族は、少しでも勢力を伸ばしてくると、やっかむのか、えてして協力はあまりしない。 信秀には、与二郎、孫三郎、造酒丞といった弟は居たが、どうしても新しい同族を、もっと拵えゆくしか、中小勢力としては発展のしようもなかった。 これが大領主なら、それ相応の隣国の大名からでも嫁をとり、婿をとりして、その里方と協力しあって国境を守り、他国へ攻め込みも出来るが、信秀のような小領主ではそんな大層なところからなど、嫁のきてがない。
といって、釣り合いの取れたところから妻を迎えてしまっては、それ相応の合力が得られるだけで、あまり先行きの発展が望めない。 そこで信秀は正妻を決めず、例え二百でも三百でも兵力の集められる国内の土豪を探し、片っ端からその娘や妹を借り、己の子を産ませるようにした。
したがって、土豪たちは、自分の娘や妹が信秀の子をつくり(お腹さま)になっては、その親や兄達はどうしても、織田の同族となって、一緒に頑張って戦わざるを得ないから、見る間に信秀の勢力は拡張されていった。
 
前田与十郎も、娘が女児を産んだので合力したし、青山与三郎も、娘が二郎、後の三郎五郎を産んだため合力し、平手中務は、末の娘が三郎、後の信長を作ったから、これも仕方なく同族となっている。
林新五郎兄弟みたいに、己らの姉が嫁入った土田久安の娘が産んだ、四郎のちの信行を跡目に立てようと謀叛しかけた者もいたが、これらの新しい同族を作ったのである。そのために信秀は、ついに尾張八郡を切り取りその名主にまで成り上がれたのである。
  女の美醜の選択は出来ない信秀
とはいえ、好きな女や綺麗な女を選んだのではなく、ただ、その父兄の兵力にだけ目をつけ、婚閥を作るために次々と、種馬のように苦労したのだから、信秀としては並大抵のことではなかったらしい。 浅井朝倉と宇佐山で戦った時、森蘭丸の父三佐と共に討ち死にした三人の上の兄の織田九郎の母御前などは、市江の豪族後藤の娘だったが、 蜂に刺されたように痘痕の痕が酷く、鼻のひしゃげた凄い面相だったという。
 
だが、女達の器量のよしあしで依怙贔屓などすると、その親兄弟がうるさいから、信秀は公平に「一腹一子」という家憲をこしらえ、 女が身ごもると、その岳父を生まれる子の御守役のように扱って、家臣の列に加えてしまい、そして次の女をと物色したらしい。 こんな制度だから、中には性愛好きの女だっている。信秀が子供が出来ると他の女に移り、どうしても足が遠のき性欲を抑えきれなくなった平手の末娘で信長の母は、異教徒(神徒系)の男と浮気をしたらしく、これが露見して一族に殺されている。このことを知った信長は後に平手一族を根絶やしにしている。
 
 
だから兄妹二十三人、これ皆異腹なのである。 幸い信秀は色白な偉丈夫で、女に好かれる型だったから、何十人もの女が喜んでその子を産んだのであろう。 だが男は気張って子種を出す方だから、そこは腕や足のように思い通りに動くところではない。だから男として相当無理をして、さぞや大変だったろうと想像される。
 
三河安祥攻めの時、長陣になって月余にわたったことがあった。見かねて近臣が伽の娘を進めたところ、信秀は手を振って、 「わしは女子は好きじゃない」憮然とした面持ちで、泣きっ面を見せたと伝わっている。 他人は、何十人も妻をもった信秀が「女嫌い」というと面妖に想うだろうが、普通の男なら一人持っても持て余す妻を、それだけ次々と抱えたら、嫌になるのもこれは当たり前だろう。
その数多い女の中で、一人でも気に入った者が居れば、その産んだ児を跡目にするように、そっと遺言でもしていたろうが、信秀は全く何もしていなかった。 つまり生涯、好きな、愛した女は一人も居無かったらしい。
三男の信長が跡目を取ったのも、妻の実家の父が、近隣に鳴り響いた美濃の斉藤道三だったから、その財力と兵力がものを言ったのである。 だから、織田有楽が駿河の今川の娘でも妻にしていたら、跡目は有楽に廻り、その後の天下の形成も全く変わっていただろう。
 
ちなみに、信長は実家の権勢を嵩にきて権高い奇蝶には相当苦労したらしく、本妻の奇蝶との間には子は無かった。 が、側室は七人居て多くの子は残している。しかし信長は家名を残すために子作りはしているが、実際はホモだったのは有名な話で、 当時、絶世の美少年とうたわれた万見仙千代を溺愛していたのは有名である。  そして彼を取り合うため荒木村重と文字通り城を傾けるほどの戦をしている。この事から転訛して「傾城の美女」なる言葉も生まれたのである。
また、秀吉は若い娘ばかりを側室にし、相当な乱行をしたが、子供は一人も生まれていない。 淀君との御ひろいや、秀頼は実際の父親は大野治長との説が根強く、きっと種無しだったと想われる。
一方、天下を取った徳川家康は、本妻には長男の秀忠をかわきりに、男女十六人の子をなしている。 秀吉と違い、側室にするのは意識して、後家や年増女を多用している。何故かなれば、単なる年増好きの性癖とは異なり、何といっても子孫を作ることが大目的だから、過去に妊娠した実績のある女を選んだのである。

日本武道史 吉岡憲法 鬼一法眼吉岡流

2019-05-10 10:28:02 | 古代から現代史まで

日本武道史 吉岡憲法 鬼一法眼吉岡流

 

--さて、俗に、「京八流・鹿島七流」と世にいわれる。  関東の刀流は鹿島神宮の禰宜から出たものが七派に分かれたが、関西では京の鞍馬山の衆徒八人が伝えたものであり、義経が牛若丸といったころに鞍馬山で天狗に習った……などというのは、 これは虚誕の説であると、江戸時代の貝原益軒の「知約」にはでている。  が、鞍馬というのは寺であっても仏法専一ではなく、延暦寺の七福神法のごとき修験道で栄えた所で、衆徒とはいえもともと坊主ではなく、山伏たちの事である。  また、「義経記」などというのは、もとより昔の大衆読物であって、なんの歴史的価値も信頼性もないものだが、それによれば牛若丸といわれたころの義経は、 京一条堀川に住む陰陽師鬼一法眼の末娘と馴染みを重ね、その手引きによって法眼秘状の唐の六韜三略を、まんまと盗み出すことを得、「このために牛若丸は鬼一法眼流の刀術の秘伝と兵法の極意をえて、 のち平氏を破るにいたるのである」となっていて、幕末・文政期の絵入り草紙「復讐銘々伝」などにかかると、もちろんでたらめではあるが、  「権勢の平家に招かれたが応ぜず、牛若丸を憐みたまい兵術秘書をさずけたまいしという。されど、この人はその来歴を知らず、かの異国の鬼谷子になぞらえて、その名をつけたものではあるまいか」となって、  (黄石公が漢の高祖の臣の張良に兵書を授けた)という故事をもじって書いているのだが、さて、 この鬼一法眼の名を、「帰一といい名を憲海とよび、今出川義円ともいうが、実在の人間で伊予国吉岡村の出身なり」とするものから、荻生徂徠は、「南留辺志」において、鬼一は紀一であるとし、 篠崎東海の「不問談」には、鬼一は紀一でなく紀氏、つまり紀州の一の氏ではないかなどと書いている。

京の吉岡憲法は染め物業だった

 しかし、明治になるまでは漢字はみな音標文字だったから、発音さえ一緒なら鬼一でも紀一でも同じことなのに、江戸時代の学者とは案外にのんびりとして他愛ないものである。 さて、これも幕末の絵本だが、「武楷百人一首」というのにかかると、やや本当らしく格好がつけられてきて、「鬼一法眼は四国伊予の産にて謙杖律師三代目吉岡憲清が子にて、幼名を鬼一丸とよび、 陰陽博士安倍泰永の門に学び、天文地誌を覚えし後は鞍馬山に参籠する。多聞天に祈ってその示現により、ついに兵法において天下万世に仰がれり」となっている。

つまり鞍馬八流とか京八流といわれても、まともに伝わっているのは、京では吉岡道場だけだったので、これに鬼一法眼や義経、それに鞍馬山の天狗などまで結びっけたのだろう。  「擁州府志」によれば、「京の西洞院四条通りに住む吉岡氏は染物業を営むも、黒茶色を好みて染めるをもって、その色を吉岡染ともいうが、布に型紙をおき防染糊を塗り乾してより、 豆汁に染料を入れて刷毛でひき、後に洗い落とすと、黒茶色の地に小紋模様が出るのを、憲法染めともいう」ともある。そして、「倭俗、毎事如法にこれを行なうのを、憲法」と註釈がっいている。 訳すれば、如法は仏教用語で、今でいう遵法精神のことだが、(足利時代の日本の風俗で、よく押しつけられた命令を、その通りに守る者や家を、憲法とか憲法の家といった……

つまり吉岡の家のように室町御所の命令を素直に守り、課せられた地子銭の税金を払っている模範的な家が、そうである)というのである。  さて、こうなると京に住まっていて、室町御所の足利将軍家の命令を守り税金を払っているだけで、あれは憲法を守る者だ、そこで染めた物だから憲法染めだと言われたという事は、 当時はあまり税金を払う者がなく、室町御所の命令をきく者もめったになく、珍しがられたというような事にもなるが、……田舎ではあるまいし京の四条や西陣に住まっている者が、権力に対し、そんな横着 な真似の出来ようはずもない。御所の番衆が棒をもって歩き回り、「これ、税を払わぬと承知せぬぞ」とやっていたのだろうから、とても常識的には考えられぬところである。  しかるに吉岡家では「武徳編年記」や「当代記」にもでているが、慶長十九年六月に御所で斬殺された吉岡又三郎も、憲法といったが、その父の直賢も憲法。祖父の直光も同じく憲法といって、 柳生新左衛門、新介親子が訪れたころの又三郎の曾祖父吉岡又一郎直元も、やはり憲法と号していたのである。  こうなると昭和二十年八月の満州で、ソ連軍がはいってくると赤旗を振り、国府軍が進攻してくれば青天白日旗をふってみせた残留日本人のようなもので、己れから、「憲法」と名のる事によって、 足利幕府の圧迫を逃れ、良民のように振舞って巧みに世渡りしていたのではあるまいかと思える。

 つまり西洞院四条の吉岡又一郎は、京の真中に住まっているとはいえ、れっきとした山者の出で、白山明神か薬師寺派の信者という事になる。  だからして、それゆえ小太刀などで槍の穂先を防ぐ、吉岡流刀術を編みだしたのであろうし、曾孫の又三郎が御所において、板倉勝重の家臣で名代の槍使い、 太田忠兵衛らの槍先に仕止められてしまったのも、(刀は刃先まで敵が側へ寄ってこずば斬れないが、槍の方は三間槍なら柄の中央を持っていたとしても四、五メートル離れていても 相手を突けるし、三メートルまで近づけば向こうの刀の届かぬ範囲で突き仆せる)といったきわめて簡単な理屈で、死命か制せられる、これは証拠であろう。  だからして「常山紀談」とか「積翠雑話」「撃剣叢談」の類には、みな筆を揃えて、この事を、 「小太刀をもって槍使いどもと闘いしは、これ異例の事にして、その勇威は誠に誉を一時に施し、勇名を千載に流したというべきだろう」と出ている。 幕末の文久三年から慶応にかけてのところでも、新選組の武術稽古は丁日、つまり偶数日は、槍をもって武技の第一とし、隊員の訓練をしていたものである」 とあるように、すぐ曲がったり折れて使い物にならなくなる刀より、槍を第一の武器として扱ったことが書かれている。