スパイの元祖 前田犬千代
桶狭間合戦は信長の裏切り
日本に鉄砲が伝来してから、器用な日本人はあっという間に模造品を造ってしまった。 それは、元々日本には鍛鉱技術が在ったからで、近江の国友鍛冶や紀州の雑賀鍛冶などがそうである。 しかし国産品は出来たが、一挺が銀二十匁もするという大変に高価なものだった。
だから織田信長なども尾張の貧乏小大名だったから、とても安易には入手できずだった。 一方、駿河、遠州、三河の太守の今川義元は、安陪金山で銀も掘り当てていたので、遠州今切の浜から、火薬を輸入し、鉄砲を造らせていたので、当時の信長はこれをおおいに恐れ、羨望と嫉妬の思いで居た。
だから、前田犬千代を表向き追放の形にして、今川領内に潜入させ、その数を調べさせ信長に報告させていた。 英国ではスパイのことをフォックス、つまり狐というが、フランスではムンクを当てている。 世界中何処へ行っても、ワンワンと直ぐに吠え出して持て余す犬ごときを、スパイの代名詞にする国はない。
何故日本だけが密偵が犬なのか、これを調べてみると、寛永四年十月の大地震で海中へ埋没してしまった今切番所の古記録の写しが、浜松の火鎮神社(旧白山神社)に在るのを転記した<塩尻文書>というのがあって、それに永禄十一年越前府中の城主にようやくなった前田又左衛門の名で、白須賀の白山神社へ何を奉納したのかは判明しないが、 「寄進」と記載がある。
又左衛門は後「前田利家」となるが、若い時は犬千代で「桶狭間合戦前の三年間は信長に追放され、何処か他国へ潜入していた」のは周知のことである。 そこで塩尻文書が今切番所と同地の白山神社の古記録である点を考えると、犬千代がここの番所へ潜り込んで白山神社へ出入りしていた事が解明できる。 信長は森乱丸のことを「乱」「乱」と呼んでいたから、犬千代も「犬」「犬」と呼んでいた。
そして前田犬千代は信長在世中は能登半島の七尾城主止まりで、柴田勝家の組下になっていた。 つまり犬千代の華々しい手柄は、今切番所に入り込んで鉄砲の数を秘かに調べていた事ぐらいしかないから、 口の悪い信長が「犬は間者じゃ、密偵だ」と言いふらしていたのが普及して、とうとう日本だけは「犬がスパイ」にされてしまった様である。 本物のワン公の名誉回復のために解明しておく。
明治維新は現在、表層的な解釈が定着しているが、革命とは一般大衆の支持なくしては成就しないものだ ということは世界の常識である。 日本も例外ではなく、一般大衆即ち神徒系住民の大同団結により成った。 だから彼らのために太政官の下に神祇省まで作って苦労に報いた。
しかし維新が成就した途端、薩長政府は彼らを裏切り、仏教勢力と手を握り、彼らを弾圧した。 これに反発した神徒系住民は各地で反政府運動を起こし、これに手を焼いた新政府は、弾圧のため政府資金で密偵を使い、密告を奨励した。 時のマスコミである新聞はこぞって反体制側にたって政府を糾弾た。 さらに薩長の人間で固めた警察も、殺人や窃盗の検挙をそっちのけにして、政治警察として神徒系を弾圧し神祇省は廃立された。ここに検挙至上主義が蔓延し、現在に繋がる冤罪が増えた。
桶狭間合戦は信長の裏切りだった
今ではこの戦いを信長が今川の本陣を奇襲して大勝したとしている。だからこれをまともに受けた 馬鹿な旧参謀本部は、圧倒的に物量で不利な日本軍は「小が大を撃滅する」、即ち 費用対効果の大きいこの奇襲に飛びついた。
そしてこれを、奇襲を戦術として取り入れ、多くの作戦で失敗し、あたら日本兵の犠牲を 増大した。思えば間違った歴史解釈により、あまた多くの日本人を無駄な死に追いやった 歴史屋共の罪は万死に値する。
今川勢の状況
しかしこの桶狭間合戦というのは、そもそもが和平話だったのでる。 考えても見てほしい。今川義元という当時の大名は、一に吉良立ち、二に今川といわれ、当時は駿河御所とも称されていた一流の武将である。 足利将軍家に何かの場合、吉良が代行し、その次には今川が天下に号令する立場だった。 当時の吉良家は内紛のため勢力が衰退していた。 だから義元は弱体化した足利将軍に代わって京に上り、自分が将軍になろうと、三万五千の軍勢を率い、 上洛の途中だった。この軍勢を出来る限り温存して京へ着かなければならない。
従って途中の抵抗勢力は前もって掃討しておくか、降伏、領地安泰を約定して無傷の通過策を採るのが戦略上の常識である。 だから織田家とは領地安泰という和平話が出来上がっていたのである。
永禄三年五月十日。 今川の先発隊二千が先ず駿府城を出発。 続いて十一日、遠州井伊谷城主井伊信濃守直盛が手勢千名を率いて発。 翌十二日に駿府城を出陣した今川義元三万五千の軍勢は、本陣は藤枝泊り。先手は掛川、日坂、金谷から島田にわたり、街道はさながら黒い潮の如く陣馬で埋った。
こうした情報が次々と物見の者によって早馬で、清洲の信長の許へ届いた。 次の日は五月十三日の夜明けと共に、今川の本陣は藤枝を出陣。 夕方になって掛川に入り総勢一万。 先手の五千は磐田郡豊田村の池田に野営。 二番手の七千は見付。 三番手八千は袋井。荷駄部隊の五千は掛川の原宿に泊り。 こうして駿、遠、三ヶ国の大軍がまるで怒涛のように野も山も街道も陣馬で真っ黒になって埋め尽くした。 そして「尾張へ」「尾張へ」と進軍してくる。
ときに織田信長二十七歳。
三年前の稲生合戦で、跡目を狙う異母弟武蔵守信行を倒し、ようやく位置を固めたとはいえ、尾張八郡の内、すでに今川方に蚕食された地は半分に近く、山口左馬之介の離反によって中村(現在の名古屋駅)から鳴海までもが敵の領地。 亡父信秀の居城だった古渡城も、熱田の浜に出没する今川水軍の足場になるのを恐れて破却した状態。
更に二年前より、今は長島温泉で知られる川内郡も一向宗の門徒に奪われてしまい、正味として信長に掌握できる土地は、尾張八郡の内、僅か三郡。よって駆り集められる兵力も最大動員数三千から三千五百。
巨人の如く西へ西へと進軍してくる今川義元の三万五千に比べれば、よくて一割の寡少兵力である。 次の早打ちは、 「昨五月十五日。今川義元本陣は本坂道を通って三州吉田(豊橋)の豊川稲荷明神の社務所に 設けられ、先手は赤坂、御油、小坂井一帯に野営。本日は最早岡崎城へ入りたる模様」 この報告を聞いても、何かを待つ様子の信長はじっと動かずだった。
従って織田の重臣達はまさか、折からのにわか雨で、 「今川の鉄砲も濡れていて火縄に点火も出来まい。只の棒っきれではないか」 と、咄嗟に心変わりし、決意した信長が、僅かな供回りだけで、後はぞろぞろ慕ってついて来た野次馬を 動員した。そして逆さ落としに雨宿り最中の今川義元の本陣を襲って大勝利を得たとは、清洲へ戻ってくるまで知らなかった者が多い。
(注)戦国時代は混乱期である。えてしてこうした時には野盗にも似た一旗組が生まれる。 信長が雨のため火縄が濡れて、使い物にならずだった今川の鉄砲を、「折れ曲がったものも鍛冶屋に直させる。たとえ一丁といえども粗末にすんな」五百丁に丸薬の樽は当時まだ珍しく高価なものだったゆえ戦利品に持ち帰った。 「天下布武」と号してのち信長が、次々と各地の攻略が出来たのも、入手したこの時の鉄砲が大いにものを言ったのである。 そして信長たちが引きあけた後、田楽狭間の今川本陣へ忍び込み、残された刀槍甲冑を奪いすぐさま即席に武装してのけたハイエナのような一団があった。 伊勢白子浦生まれの小平太(榊原康政)駿河七変化修験者浄賢(酒井忠次)遠州掛川生まれの平八(本多忠勝)などの若者達と世良田二郎三郎(徳川家康)だった。詳細は以下を参照されたい。
http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/serada.htm (家康は世良田徳川の出身)
つまり先代信秀の頃からの譜代の武者で、桶狭間合戦に加わった者はほとんど居ない。何故なら、 「三万五千の今川勢が無事に尾張領を通過して上洛するのを妨げぬ保障」に、信長の長子の奇妙丸を人質に入れ、尾張領の安堵状を貰ってくるものとばかり重臣は思っていた。
だから話しによっては、今川勢の先手となって入洛するのだろうと、その準備をする為に各々の所領へ戻っていた重臣がほとんどである。 ところが乾坤一擲の博打というか、信長の騙討ちが見事に成功してしまったのだから、不参加の重臣たちと信長の間は、それからどうも気まずくなっている。
----従来の説では、今川方から先制攻撃をされて、鷲津、丸根の砦が落とされ、全員玉砕したのを信長は宮の浜(熱田)から望見し、ここで決死の覚悟をつけ、善通寺砦から、桶狭間へ奇襲をかけたことになっている。
処が、世にも不思議なことに、その九年後の永禄十二年八月二十日に、伊勢出陣した時に信長が、武辺の者を選んで母衣衆二十名を選抜したが、その赤母布を膨らませて背へ着ける赤母衣十人衆の中に「飯尾隠岐守定宗」が入っている(当代記)。 鷲津砦が玉砕したものなら、そこを守っていた飯尾近江守の跡目が生き残れる訳がない。 また従弟に当たる遠州引馬城主の飯尾連竜の方も、今川義元の倅の氏真に、「信長を手引きして、父義元を殺した大逆謀叛人」とはっきり言われて、駿府へ来ているところを狙われ殺された。
この時のことは「駿府小路の戦い」というが、飯尾の妻が薙刀に白粉をはたき、血すべりを防ぎ、 十数人を叩き斬ったという武勇伝は、前の大戦中の女子挺身隊に「軍国日本女性の精華」というパンフレットが配布され、これは有名である。 つまり桶狭間合戦の真相は、人質を伴って降参に行った筈の信長の裏切りなので、表向きは 「先に攻撃されて止む無く」と取り繕っている。
だから丸根砦で討ち死にした筈の佐久間大学が、天正八年に信長から追放されて高野山へ追われた佐久間信盛と同一人物だという説さえもある。 というのは信盛というのは老臣とはなっているものの、桶狭間合戦から十年たった元亀元年の、長光寺合戦までは、何処にも名が出てこなく、そしてその二年後の三方ケ原合戦には堂々と、 信長の名代として徳川の加勢に出されるほどの旧臣だから、 従来の桶狭間合戦は、こうなると極めて疑わしい。