新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

スパイの元祖前田犬千代 桶狭間合戦は信長の裏切り

2019-05-01 17:32:22 | 古代から現代史まで
    スパイの元祖 前田犬千代                   
 
 桶狭間合戦は信長の裏切り
 
 
 日本に鉄砲が伝来してから、器用な日本人はあっという間に模造品を造ってしまった。 それは、元々日本には鍛鉱技術が在ったからで、近江の国友鍛冶や紀州の雑賀鍛冶などがそうである。  しかし国産品は出来たが、一挺が銀二十匁もするという大変に高価なものだった。
だから織田信長なども尾張の貧乏小大名だったから、とても安易には入手できずだった。 一方、駿河、遠州、三河の太守の今川義元は、安陪金山で銀も掘り当てていたので、遠州今切の浜から、火薬を輸入し、鉄砲を造らせていたので、当時の信長はこれをおおいに恐れ、羨望と嫉妬の思いで居た。
 だから、前田犬千代を表向き追放の形にして、今川領内に潜入させ、その数を調べさせ信長に報告させていた。  英国ではスパイのことをフォックス、つまり狐というが、フランスではムンクを当てている。 世界中何処へ行っても、ワンワンと直ぐに吠え出して持て余す犬ごときを、スパイの代名詞にする国はない。
 何故日本だけが密偵が犬なのか、これを調べてみると、寛永四年十月の大地震で海中へ埋没してしまった今切番所の古記録の写しが、浜松の火鎮神社(旧白山神社)に在るのを転記した<塩尻文書>というのがあって、それに永禄十一年越前府中の城主にようやくなった前田又左衛門の名で、白須賀の白山神社へ何を奉納したのかは判明しないが、 「寄進」と記載がある。
 
  又左衛門は後「前田利家」となるが、若い時は犬千代で「桶狭間合戦前の三年間は信長に追放され、何処か他国へ潜入していた」のは周知のことである。 そこで塩尻文書が今切番所と同地の白山神社の古記録である点を考えると、犬千代がここの番所へ潜り込んで白山神社へ出入りしていた事が解明できる。  信長は森乱丸のことを「乱」「乱」と呼んでいたから、犬千代も「犬」「犬」と呼んでいた。
そして前田犬千代は信長在世中は能登半島の七尾城主止まりで、柴田勝家の組下になっていた。 つまり犬千代の華々しい手柄は、今切番所に入り込んで鉄砲の数を秘かに調べていた事ぐらいしかないから、 口の悪い信長が「犬は間者じゃ、密偵だ」と言いふらしていたのが普及して、とうとう日本だけは「犬がスパイ」にされてしまった様である。 本物のワン公の名誉回復のために解明しておく。
 
 明治維新は現在、表層的な解釈が定着しているが、革命とは一般大衆の支持なくしては成就しないものだ ということは世界の常識である。  日本も例外ではなく、一般大衆即ち神徒系住民の大同団結により成った。 だから彼らのために太政官の下に神祇省まで作って苦労に報いた。
しかし維新が成就した途端、薩長政府は彼らを裏切り、仏教勢力と手を握り、彼らを弾圧した。  これに反発した神徒系住民は各地で反政府運動を起こし、これに手を焼いた新政府は、弾圧のため政府資金で密偵を使い、密告を奨励した。  時のマスコミである新聞はこぞって反体制側にたって政府を糾弾た。 さらに薩長の人間で固めた警察も、殺人や窃盗の検挙をそっちのけにして、政治警察として神徒系を弾圧し神祇省は廃立された。ここに検挙至上主義が蔓延し、現在に繋がる冤罪が増えた。
 
       桶狭間合戦は信長の裏切りだった
 
 
 
 今ではこの戦いを信長が今川の本陣を奇襲して大勝したとしている。だからこれをまともに受けた 馬鹿な旧参謀本部は、圧倒的に物量で不利な日本軍は「小が大を撃滅する」、即ち 費用対効果の大きいこの奇襲に飛びついた。
そしてこれを、奇襲を戦術として取り入れ、多くの作戦で失敗し、あたら日本兵の犠牲を 増大した。思えば間違った歴史解釈により、あまた多くの日本人を無駄な死に追いやった 歴史屋共の罪は万死に値する。
 今川勢の状況
 しかしこの桶狭間合戦というのは、そもそもが和平話だったのでる。 考えても見てほしい。今川義元という当時の大名は、一に吉良立ち、二に今川といわれ、当時は駿河御所とも称されていた一流の武将である。 足利将軍家に何かの場合、吉良が代行し、その次には今川が天下に号令する立場だった。  当時の吉良家は内紛のため勢力が衰退していた。  だから義元は弱体化した足利将軍に代わって京に上り、自分が将軍になろうと、三万五千の軍勢を率い、 上洛の途中だった。この軍勢を出来る限り温存して京へ着かなければならない。
従って途中の抵抗勢力は前もって掃討しておくか、降伏、領地安泰を約定して無傷の通過策を採るのが戦略上の常識である。 だから織田家とは領地安泰という和平話が出来上がっていたのである。
 
永禄三年五月十日。 今川の先発隊二千が先ず駿府城を出発。 続いて十一日、遠州井伊谷城主井伊信濃守直盛が手勢千名を率いて発。  翌十二日に駿府城を出陣した今川義元三万五千の軍勢は、本陣は藤枝泊り。先手は掛川、日坂、金谷から島田にわたり、街道はさながら黒い潮の如く陣馬で埋った。
 こうした情報が次々と物見の者によって早馬で、清洲の信長の許へ届いた。 次の日は五月十三日の夜明けと共に、今川の本陣は藤枝を出陣。 夕方になって掛川に入り総勢一万。  先手の五千は磐田郡豊田村の池田に野営。 二番手の七千は見付。 三番手八千は袋井。荷駄部隊の五千は掛川の原宿に泊り。 こうして駿、遠、三ヶ国の大軍がまるで怒涛のように野も山も街道も陣馬で真っ黒になって埋め尽くした。 そして「尾張へ」「尾張へ」と進軍してくる。
  ときに織田信長二十七歳。
三年前の稲生合戦で、跡目を狙う異母弟武蔵守信行を倒し、ようやく位置を固めたとはいえ、尾張八郡の内、すでに今川方に蚕食された地は半分に近く、山口左馬之介の離反によって中村(現在の名古屋駅)から鳴海までもが敵の領地。  亡父信秀の居城だった古渡城も、熱田の浜に出没する今川水軍の足場になるのを恐れて破却した状態。
 更に二年前より、今は長島温泉で知られる川内郡も一向宗の門徒に奪われてしまい、正味として信長に掌握できる土地は、尾張八郡の内、僅か三郡。よって駆り集められる兵力も最大動員数三千から三千五百。
 巨人の如く西へ西へと進軍してくる今川義元の三万五千に比べれば、よくて一割の寡少兵力である。 次の早打ちは、 「昨五月十五日。今川義元本陣は本坂道を通って三州吉田(豊橋)の豊川稲荷明神の社務所に 設けられ、先手は赤坂、御油、小坂井一帯に野営。本日は最早岡崎城へ入りたる模様」 この報告を聞いても、何かを待つ様子の信長はじっと動かずだった。
 従って織田の重臣達はまさか、折からのにわか雨で、 「今川の鉄砲も濡れていて火縄に点火も出来まい。只の棒っきれではないか」 と、咄嗟に心変わりし、決意した信長が、僅かな供回りだけで、後はぞろぞろ慕ってついて来た野次馬を 動員した。そして逆さ落としに雨宿り最中の今川義元の本陣を襲って大勝利を得たとは、清洲へ戻ってくるまで知らなかった者が多い。
 
(注)戦国時代は混乱期である。えてしてこうした時には野盗にも似た一旗組が生まれる。    信長が雨のため火縄が濡れて、使い物にならずだった今川の鉄砲を、「折れ曲がったものも鍛冶屋に直させる。たとえ一丁といえども粗末にすんな」五百丁に丸薬の樽は当時まだ珍しく高価なものだったゆえ戦利品に持ち帰った。 「天下布武」と号してのち信長が、次々と各地の攻略が出来たのも、入手したこの時の鉄砲が大いにものを言ったのである。  そして信長たちが引きあけた後、田楽狭間の今川本陣へ忍び込み、残された刀槍甲冑を奪いすぐさま即席に武装してのけたハイエナのような一団があった。 伊勢白子浦生まれの小平太(榊原康政)駿河七変化修験者浄賢(酒井忠次)遠州掛川生まれの平八(本多忠勝)などの若者達と世良田二郎三郎(徳川家康)だった。詳細は以下を参照されたい。
http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/serada.htm (家康は世良田徳川の出身)
http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/ieyasu.htm (史擬 徳川家康) 
 
つまり先代信秀の頃からの譜代の武者で、桶狭間合戦に加わった者はほとんど居ない。何故なら、 「三万五千の今川勢が無事に尾張領を通過して上洛するのを妨げぬ保障」に、信長の長子の奇妙丸を人質に入れ、尾張領の安堵状を貰ってくるものとばかり重臣は思っていた。
 だから話しによっては、今川勢の先手となって入洛するのだろうと、その準備をする為に各々の所領へ戻っていた重臣がほとんどである。  ところが乾坤一擲の博打というか、信長の騙討ちが見事に成功してしまったのだから、不参加の重臣たちと信長の間は、それからどうも気まずくなっている。
 ----従来の説では、今川方から先制攻撃をされて、鷲津、丸根の砦が落とされ、全員玉砕したのを信長は宮の浜(熱田)から望見し、ここで決死の覚悟をつけ、善通寺砦から、桶狭間へ奇襲をかけたことになっている。
 処が、世にも不思議なことに、その九年後の永禄十二年八月二十日に、伊勢出陣した時に信長が、武辺の者を選んで母衣衆二十名を選抜したが、その赤母布を膨らませて背へ着ける赤母衣十人衆の中に「飯尾隠岐守定宗」が入っている(当代記)。  鷲津砦が玉砕したものなら、そこを守っていた飯尾近江守の跡目が生き残れる訳がない。 また従弟に当たる遠州引馬城主の飯尾連竜の方も、今川義元の倅の氏真に、「信長を手引きして、父義元を殺した大逆謀叛人」とはっきり言われて、駿府へ来ているところを狙われ殺された。
 この時のことは「駿府小路の戦い」というが、飯尾の妻が薙刀に白粉をはたき、血すべりを防ぎ、 十数人を叩き斬ったという武勇伝は、前の大戦中の女子挺身隊に「軍国日本女性の精華」というパンフレットが配布され、これは有名である。  つまり桶狭間合戦の真相は、人質を伴って降参に行った筈の信長の裏切りなので、表向きは 「先に攻撃されて止む無く」と取り繕っている。
 だから丸根砦で討ち死にした筈の佐久間大学が、天正八年に信長から追放されて高野山へ追われた佐久間信盛と同一人物だという説さえもある。  というのは信盛というのは老臣とはなっているものの、桶狭間合戦から十年たった元亀元年の、長光寺合戦までは、何処にも名が出てこなく、そしてその二年後の三方ケ原合戦には堂々と、  信長の名代として徳川の加勢に出されるほどの旧臣だから、 従来の桶狭間合戦は、こうなると極めて疑わしい。
 
 

天皇になろうとした秀吉  豊臣秀頼は誰の子か??  秀吉の新御所 聚楽第

2019-05-01 14:44:09 | 古代から現代史まで
 
          天皇になろうとした秀吉        
  秀吉の新御所 聚楽第
       
        豊臣秀頼は誰の子か??              
 
 
           山科の別所
 
 
 天正十三年のことである。 自ら大軍を率い紀伊征伐をして、根来、雑賀を根絶やしにする程の大戦果をあげた豊臣秀吉は、 「亡き信長様でさえ手を焼き持て余した輩だったとて、わしに掛かれば赤児のようなもの」と豪語して京へ凱旋してくるなり、戻橋から二条へかけ、十二町四方の広大な土地に、 縄を張り巡らせてしまった。  
          根来は特殊な土地柄
現、和歌山県那賀郡岩出町に、新義真言宗の大本山根来寺が存在している。  ここは歴史的に本願寺派が雑賀衆を手なづけた頃よりもずっと早くに、紀伊、有田一帯の 日本原住民が押込められ、隔離されていた別所、、院内(呼び名は土地によって様々あるが   原住民が強制的に住まわされていた特殊地域)の者達を仏教に教化して、彼らを押さえ込んでいた。    高野山もヒジリと呼んで、お上に認められた官僧ではないため、頭を丸めることは御法度で、 為にぼうぼうの総髪のままの頭に(これを毛坊主という)編み笠を被らせて、日本各地に布教に  廻らせ上納金を取って儲けていた。
 
この高野山から別れて独立した根来寺も土地丸ごと押さえ込んでいたから、最盛期には寺坊が二千七百も有り、寺領としては何と三十万石もあったので大変な勢力だった。    だが天正十一年になると豊臣秀吉が仏教勢力へ政治献金を命じた。これに対して 献金を拒んだため、怒った秀吉によって全山を焼討ちにされてしまい、その勢力は衰退した。    この後浅野家によってようやく再興を許された時には、すっかり落ちぶれてしまい、 その寺領は二百六十石しかなかった。さて当時の先込めの火縄銃は、火蓋を切って落とし、先ず火皿にある火薬に引火させ、 銃底に詰め込まれている火薬を爆発させるという構造になっていて、先に詰め込まれている火薬(硝石、硫黄、木灰)の調合が悪いと、射手を自爆させる事故が多かった。
 
 だから、この当時命を惜しまない者でなければ、鉄砲を扱うのは難しかった。 従って彼ら根来衆というのは、徹底的に仏教に教化されていて、「御仏のおん為に死ねば成仏間違いなし、更に次に生まれて来る時には常人として生まれ変わるのである」と説教されそれを信じて喜んで仏敵に向かって勇ましく死ぬために戦ったのが、この根来衆だったのである。何故彼らがこうした事を信じたかと言えば、日本に進駐していた大陸勢力が、徹底的に彼ら原住民を差別し弾圧したため、 人間とは認めない峻烈な政策をとって、要は差別と貧困の連鎖ゆえの止むを得ずの悲しい選択だったのである。これは現在のイスラム過激派の状態と全く根源は同じである。そして、死ぬことに恐れずという、不幸な信条ゆえ、大いに利用され、多くの命が失われた哀しくも憐れな衆(部族)でもあった。  だから江戸時代になって徳川家に仕えても、根来鉄砲衆は足軽扱いの最下級武士でしかなかったのである。
     聚楽第の縄張り
 京洛市街地の中心を、すっぽり包んでしまう大掛かりなもので、縄張り内の民家や武家屋敷は、もとより、寺や社にまで強制収用が命じられた。しかも秀吉の事ゆえ、余裕など与える訳は無く、即刻の立ち退きである。 京の者達がいくら抗議をしても、戦戻りの荒々しい兵達にかかっては一顧だにされず、「文句をぬかすと素っ首叩き落したる」と脅かされたり、本当にバッサリ斬られもした。  なにしろ兵達は、縄張り内の住民を力ずくで外へ出し、取り壊しをする前の家から、目星しい物を掻払って己の稼ぎにしようと、血眼になっていたから、病人まで放り出したりもした。  このため、時の天皇正親町帝のおわす御所へ、「お願いです、助けておくれやっしゃ・・・・」と泣訴哀願する者たちが列をなした。    勿論、御所の中でも関白二条昭実以下甘露寺大納言、水無瀬中納言、時持明院中納言らが、鳩首評議して善後策を講じていた。なにしろ市中の者らは家屋敷を奪われるので騒いでいたが、御所においては、もっと重大な事が起きかけていたからである。というのは、京の目抜きの市街の十二町四方を取り払って、秀吉が建てようとしているのが、後の「聚楽第」だったからである。初めのうちは公卿たちも、 「京のどまん中に大きな城など建てても、役にたちませんやろ」 「そうどすな。古来例もおまへん。いくら秀吉さんが豪気でも、ちいと可笑しゅうおすな」と、冷笑しながら陰口をききあっていた。
 
 が、縄が四方に張られ、強制立ち退きが始まり出すと、只事ならぬ噂が洛中に広まった。 「・・・・秀吉が自分で帝位につくに当たって、従来の御所では手狭で物足らぬ故と、  平安京の昔に戻しての大内裏の新築造営」とはっきりしてきた。
 総工事奉行は丹羽長秀。造営大工匠頭に引かせた図面にも、 「南北に美福門、朱雀門、皇喜門、達智門、偉整門、安喜門、東西は、上東門、陽明門、待賢門郁芳門、談天門、藻壁門、殷富門、上西門」とでていて、古式そのまま桓武時代さながらの 壮大なもので、後世の万博にも匹敵する大規模なものだった。
「こりゃ・・・・えらいこっちゃおへんか。御位を奪い、別に御所を新築するなど以ての外」 「秀吉が新帝にならはったら、うちら公卿はどないなりましょう」  と、御所の中では公卿達が己が身を案じて大騒ぎとなった。しかし文武百官の公卿全部が、秀吉の権勢を恐れて、唯おろおろと茫然自失していた訳ではない。
 従二位権中納言山科言経四十三歳が、妻の兄冷泉為満、義弟の四条隆昌らと連盟で、「諸国に勤皇の士を集め、もって錦の旗を上げ秀吉を討ち滅ぼさん」と奏上し勅命を乞うた。建武の中興の時に帝のため決起したのが、上州新田別所の新田義貞、河内桐山別所の楠木正成、三河安祥筒針別所からは足助次郎といった者達だったが、山科言経の所領の洛北に在る山科という土地も、やはりそうした別所地帯で住民達は「こぞって、おかみの為に・・・・・」と  申し出てきたゆえ、言経も討秀吉の旗揚げを阻止せんとしたのである。 勿論、正親町帝は感涙され、歓ばれたものの、しかし秀吉を怖れる関白二条昭実は、 「とんでもないことに存じます。信長亡き後の秀吉は、最早天下に敵する者など一人も無き有様・・・・  それらに対して刃向かうは蟷螂の斧に飛びつくようなもの」と反対した。                     
 
大日本古記録・言経卿記
 
 
 そして六月に入って秀吉が「四国征伐」の発令を出したが、仙石権兵衛を名代として、己が代理に差し向け、自分は何故か大阪城に止まっていた。これを不安がって、 「泣いて馬謖を斬るの諺もありますれば」と関白が、帝に強請したので、正親町帝も、 「やむを得ぬことである」と、尽忠勤皇を叫ぶ山科言経ら三卿に対して、位階剥奪の上、「勅勘」による京追放を宣された。  この帝位を狙った秀吉を阻止せんと企てた山科言経ら三卿の都落ちは、幕末の七卿長州落ちに比べて、全然それは知られていない。歴史屋の不勉強である。  だから岩波版『大日本古記録・言経卿記』天正十三年六月十九日の条を引用すれば、
 「勅勘を蒙りて上京の柳原の住宅を棄て、ひとまず冷泉為満邸へ行き、二十四日には四条隆昌らその家族と共に、追われるごとく京を退散し川を下って淀へ向かう。淀城(大野宰相こと城主織田信雄)  の城代衆大野弥三郎の厄介になり、大阪へおもむき本願寺光佐の妻冷泉為満の姉で、山科言経にも義理の兄弟に当たっていたから、その世話で和泉堺の大寺明王院へ二十六日より落ち着く」とある。
 
 つまりこれを見ると、天正十三年六月当時は、淀に在った城は織田信雄のもので、「大野修理治長」となって 後には大阪落城の大立者になる弥三郎が、信雄には従妹に当たる後の淀殿である、弥々を守って、そこの城に居たことになるのである。  さて、ここに楠木勘四郎という、秀吉の野望を砕くため尽力した重要な人物が居る。 彼は楠木正成の子孫で、御先祖正成公の勘免を願い出た楠木甚兵衛成辰の子で、山科言経の室の妹婿という関係である。  彼は『楠木流軍学』『楠木流忍術』なる江戸期の版本に、楠木正辰なる編集名に使われ知られている。 (注)この忍術をテレビや映画に出てくる、黒装束、手裏剣、忍びの者と間違ってはならない。  あんなものは全てフィクションで、本当は、体制から差別され、弾圧された部族が隠れ住み、耐え忍ぶ生活の知恵ともいうべきものなのである。
『山科言経卿記』の天正十一年八月の条を見れば、彼はほとんど連日のごとく山科家を訪れては、「楠木甚四郎、小者共を召し連れて来たりて、庭の垣根縄結びを終日なさせる」といったように、 山科家の雑用もしている有様である。
 また山科家の土地と言えば、言経の日記にも、 「山科在所より、年貢米の代わりに三毬打(蹴毬の一種)用細竹二百八十本を届ける」とある。 では非農耕地である山科の所領が米作りをしないのであれば、何処で飯米を入手していたかといえば、西梅津新地の三十石が蔵入り米だった。  これは言経の父言継の代に信長から貰ったものだった。 だが秀吉が、本能寺の変後に取り上げてしまった。
 
そこで天正十一年八月二十一日付けで、山科家の執事の大沢右兵衛太夫が、秀吉の京町奉行前田玄以宛てに差し出した抗議文も残っている。  食物の恨みは恐ろしいというから、山科言経が反秀吉の急先鋒となったのも、飯米用の梅津新地を返してくれぬ所為かとも考えられる。
さて、この当時織田信長の妹で、美人の呼び声の高かった於市御前だが、彼女には三人の娘が居た。
長女 弥々(後、秀吉の側室淀君) 次女 初子(京極高次の室西の丸殿) 三女 達子(初め尾張へ縁づいていたが、今は左大臣九条道房卿のもとへ秀吉が嫁がせた)
秀吉は体躯矮小だったのは有名な事実だが、この弥々は、亡父浅井長政似で、大柄骨太で肥満型。 だから秀吉の好みに合わず、この頃は放りっぱなしにしていたらしい。 これが何故にこの後秀吉が手をつけて、秀頼を産ませたのかという謎がここにある。
 それは、秀吉の野望を断念させる為、山科と楠木達の戦略が在ったと想われる。 この当時大野治長は二十五歳。織田信雄に弥々を秘かに面倒を見てくれと請われて淀城に住んでいた。 弥々は亡父の浅井家の復興を切望していて、それには、秀吉の側室になり、世継ぎでも生まれればそれは可能だと山科言経に勧められる。 山科家は医王山薬師如来を本尊とする「東光教」の司掌の家柄にも当たっていたから、今で言えば医者と薬剤師のような立場にもあった。 だから御医道曲直瀬正盛と結託して、子種を切望していた秀吉に「肥満大兵体躯の女ごこそ受胎が出来やすく  それは弥々様がよろしゅう御座います」と勧めた。           
 
 一品親王様毒殺される            
 
さて、この時京町奉行前田玄以の手の者五六百が東宮御所を取り囲み、一品親王と呼ばれていた 次の帝位を継がれることとなっていた誠仁親王様が自害し崩御された。 「突然の死因は疱瘡、はしかの類である」と発表されたが、親王様は正親町帝に代わって帝につかれる筈のまだ三十五歳の壮年。そんな子供の病にとりつかれ急死とは可笑しい。 他害、自害の両説がでているが、これでは皇位継承者が死んだので、もはや秀吉が次に即位するのは決まってしまったようなものである。
 
 とは現代活字本の『奈良興福寺多門院日記』にも明白に書き残されている。 これは医者上がりの前田玄以の毒殺と思推される。もちろんこれは秀吉の意を汲んでの事である。 そして秀吉は、迷信が蔓延っていた時代ゆえ、子授けの神と言えば当時は蔵王菩薩である。 主だった御祠へ秀吉の世継ぎを与え給えと祈願し、それぞれ新堂を勘請せよと、石田三成の兄の石田木工頭が、吉野山大嶺頂上、高野山山麓、本願寺川上地蔵の畔の三箇所を、天、地、人と三位に見立て、金銀を惜しみなく投じて、荘厳な子授け堂を落成させた。
 しかし、如何なる天魔の仕業か入仏式を前に、それぞれ新築の三蔵王党は焼失した。
 
 石田木工頭は秀吉の怒りを怖れて直ぐ再建に掛かったが、落成すると又も焼亡した。 これには流石に豪気の秀吉もへこたれて、 「誠仁親王の祟りかもしれぬ。仕方がない、十六歳の御子に人皇百七代の御位を返し奉る」と返答した。
そして(わしが帝位について居たら、こんな結構な所に文武百官は入れたのだぞ)と 示威するごとく、新帝以下を四月十四日に招いた。 日本史の大家と謂われる故黒板勝美博士のごときは、このことをもって、秀吉は勤皇だったと誉めているが、この博士はまったくこうした歴史を判っていない。 『皇朝年代記』などでは明白に、 「藤原氏に追われ廃帝となり、山に入り木地師の祖になられた人皇五十七代陽成帝と同じような御境遇なりというので、代百七代様には、後陽成帝の名がおくられた」とある。
 
 これでも秀吉が勤皇扱いされ、山科言経、冷泉為満、四条隆昌らが秀吉に対する反体制というので、黙殺された儘の今の日本歴史は間違っている。 さてこの後、三卿には即位による恩赦令で位階も回復され、京へ戻ることができた。
 さて、弥々は秀吉の側室となって淀城と大阪城を掛け持ちで往復していたが、正室のねねはもとより、他の側室は一人も懐妊出来ぬのに、彼女だけはやがて妊娠し、鶴松を生んだ。 「まさか焼けた小谷の城は築き直してやれぬが、子を産んでくれた褒美として、信雄から召し上げた 淀城を其の方にくれて取らす」と歓んだ秀吉は弥々を淀の城主にした。
 そこで弥々のことはそれから、「淀殿」とか「淀君」と呼ぶようになった。 そして淀城と大阪城から、文禄・慶長の役の九州名護屋城まで淀は掛け持ちしていたから、鶴松は夭逝したが直ぐに色白で丸々とした後の秀頼が産まれた。
 
一方大野治長は、何時も淀君に影の如く付き従っていたが、天正十九年十一月の秀吉の三河鷹狩の時には供頭役を勤めたり、文禄三年の伏見城普請のときも出精して働いている。 (これは『続本朝通鑑』『関原軍記大成』『駿府記』に書かれている)  だから秀吉は取り立て一城の主にしようとしたが、飽く迄も淀君の傍に居たい為、淀城の城代で甘んじていた。 そして秀吉の死後は、弟の大野治房や治胤と共に、淀君と秀頼母子の守護に任じている。  しかし他の誹謗を怖れて己も一万石で止め、弟達も千三百石、千二百石の微禄の儘でいた。
大阪落城の最期の時も、大野治長は淀君、秀頼とまるで親子心中の如く爆死している。 だから後には秀頼の種は大野治長だったのではないかという、噂も立ったし、本妻であるねねはこのことを知っていたため、 「秀吉の種ではない治長ごときの血脈に豊家を継がせるわけにはいかぬ」と、 家康に味方して豊臣家を滅亡させたのである。
結果的には山科言経や楠木甚四郎らの働きにより、皇位は守られ、豊臣の血脈も断たれた。
    ねねは秀頼の父親を知っていた
秀吉の歿した翌年正月に、仏教徒の石田三成、増田長盛が淀君を大阪城へ移すと、ねねの憤りはついに爆発した。   初めは自分が本丸に頑張り、淀君は西の丸に入れて、本妻と二号の区別ははっきりつけていた。
 ねねにすれば淀君には秀頼という子供がいる。だからねねは大阪城を出て京へ移った。 そして「打倒二号策」を伏見城の家康と謀った。    翌年九月の関が原合戦には、ねねは最初の夫の浅野長政はじめ、子飼いの頃から面倒を見ていた福島正則、加藤嘉明、加藤清正らの神信心系の大名を動員させ、石田方を破った。  (これを、文官派と武官派の争いと皮相的な見方の読物もあるが、実態は全く違う)そしてその後、十四年も辛抱して大阪冬の陣が起きるや、又も家康側について、大阪城総司令官の織田有楽を調略さして翌年五月八日、ついに淀君と秀頼を焼き殺してしまい、復讐を遂げた。家康からこの労に報いて一万六千石を貰っている。
 
そこでそれから非常に満足したらしく悠々とその後は、八十三歳までねねは長寿を保ち、寛永元年九月六日に亡くなったが、その墓所高台院には、江戸期まで古色蒼然とした扁額が寺宝に在ったそうで、その文字に曰く、「女の一念、それ岩をも貫く」と読めたという。  勿論これは贋作だという説もあり、明治に入ってからは無くなったが、  江戸時代の二鐘亭半山の紀行記には、書き写されて出ている。    なお、秀吉は大陸系の天皇や公卿達を中国に戻すため「チャンコロは国へ帰れ」とばかり 大陸遠征の壮大な計画の下、朝鮮の役を起こした。 朝鮮は通り道であって占領が目的ではなく、あくまで北京周辺の占領だった。
そして己が日本原住民系の天皇になろうとした。 (秀吉は原住民系「サンカ族の出身」家康も同じくサンカ"あおい族"出身と鹿島昇氏の考察に在る)
 
 

千利休は誤り、本当は千宗易が正しい 茶の湯は死の儀式

2019-05-01 09:44:49 | 古代から現代史まで
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     千宗易
 
 
  茶の湯は死の儀式  
      【千利休】
  
  千利休は誤り、本当は千宗易が正しい
 
千利休(1522~1591)父与兵衛亡き後19歳に与四郎の名から千宗易と改名。家業の乾魚問屋をつぎ、25歳の時長男道安をもうけ、後同年生まれの少庵を連れ子にした宗恩と再婚。天正19年に大陸遠征の後顧の憂いをなくすため山上宗二につぎ、家元の彼も秀吉に殺され、妻宗恩も石田三成の兄木工頭正澄に蛇牢で拷問死と「兼見卿記」には出ている。   「千」の姓は、先住民族の「先」をとったものである。今でも出雲大社や隠岐の神主の苗字になっている。
 
「安来千軒」というのも数多く家があったというのではなく、先住民地帯を指すのである。さて文禄四年八月と言えば、追捕を怖れて逃げ隠れしていた千少庵とて五十歳である。そして利休と今では呼ばれる宗易が殺された時は四十三歳。なのに柴野大徳寺を訪れ仙岳宗洞に対して、「利休とは何どっしゃろ」と質問。それに「あんさんの親父のことやないか」と答えたのが尤もらしく「利休号頌」の一輔となって裏千家の宝物として現存。   またそれから十年後に、秀吉が死んだのでほっとして宗易の実の倅の道安が、飛騨の高山から戻ってきて、やはり春屋宗園を訪れて、彼に同じように不思議そうに、「いったい利休とは何や」と聞きに行ったと國學院派の茶道具歴史の大先生は<一黙稿>なる本に入っている話しだから真実なりと説明する。
 
  しかし、ともに四十三歳の時まで父とは一緒だった腹違いの二人の倅共でさえ知らなかった利休名は、とても生前の天正十九年までは実在しなかったものと見るしかなかろう。つまり「利休の手紙」等という本もあるが、手作りつまり贋作ものと見るべきだが私が読売新聞の連載や「茶の湯は死の儀式」で明白にしてから、道具やさんに出回っている昨今の物は「休」一字署名のものが多くなってきた。というのは生前の宗易夫妻と親交のあった吉田神道の神祇大副だった兼見の日記にも、皆彼の事を「理休」としているゆえ、利休署名は作り物だと証明されたからであるらしい。  
 
それまでの茶というのは、足利時代から卓を囲んでの茶は、中国渡来の唐茶で、道具類もみな明国の舶来品に限られていた。  それなのに、堺の皮屋松屋らが始めだした新しい茶湯を、千の宗易が引き継ぐに当たって「ささら衆」と呼ばれるヤ衆の者らに、竹細工で茶筅、なつめ、花挿し、まで作らせて売り捌きもした。だから茶道具商売の者らが、「ただみたいな竹で作った物を高値に売りおっが、死ねば儲けもふい、利は休みじゃろう」と冷やかして死後に付けた渾名らしく、「名利共休」とか「名利頓休」等と苦し紛れの引用もされるが、これらはみなこじつけにすぎない。   利休居士の名を下賜された旨が「顕如上人貝塚御座所日記」にも出ているが、後年の加筆であろう。伝奏役でそうした扱いの担当官だった公家の、「吉田兼見卿記」には一行も出ていない。つまり、世界に比類なき宗教的とも言える日本独特の家元制度。それは茶道具で儲ける商売人や、その御抱え歴史屋が結託して、勝手に虚像を開祖にして神聖化しているだけの話しである。
 
 現代の差別被差別制度が一般化したのは足利後期からである。だから当時としては「御先祖足利尊氏様の創業に反対し邪魔した悪党共の子孫を区別地に入れてしまえ」となったから、明治までの未解放地帯には、菊水とか楠木、湯浅、新田、足助の地名が何処にも残っている。ドイツ人アドルフ・リースによって指導された明治史学は、楠木正成らだけをスター扱いにし、銅像にもしたが、俄か歴史屋共の悲しさで、その子孫や郎党の末裔の解明は全くなされていない。さて、十五代続いた足利時代にあっては、旧南朝の方の子孫だけでなく、反仏教派の神信心派が居た。「祇」と呼ばれる拝火教徒も同じ扱いをされ「えびす」として区別していた。
  
 堺は特殊だった  
 
 堺は今でこそ町名が普通についているが、幕末までは一括して「えびす島」と呼ばれ、町割りは東西南北を上に付け、各町ともにエビスがついてよばれていいたのは古地図で見ると明白である。つまり幕末までは特殊の土地だった。   さて、今で言う官途にこのエビスの者が就こうとすれば、後年の踏み絵のごとく、頭を丸められてから「ナムアミダ」をくり返し唱えさせられてから、その名も○○阿弥、というように転向者と判るように付けられた。それでも警戒されて武士には登用されず、活花、画師、などの無難な役目に限られていた。何しろ自由人として商売するには、官界に渡りをつけるしかないのは、今も昔も変わりない、まこと体制べったりでなくては生きて行けぬお国柄が、この国である。
   堺の者は別に足利家に仕えるためでなく、足利家の三好衆によって阿弥名を貰い、商売をしていた。勿論限定職業である。  利休とよばれる宗易の祖父にしても「千阿弥」だった。「同朋衆」と呼ばれたのは、えびすから常人扱いされ、彼らも同胞並になった衆との意味である。しかし織田信長の出現で世の中は変わった。下克上という世変わりである。
 信長の出現で世の中は変わった
 
近江八田別所出身の後裔で、拝火宗の多い尾張を地盤にのし上がった彼は、商売の権利をヤ衆にだけ許可し、三好衆庇護で勝手に商売している堺に対しても、蜂屋頼隆らのヤ衆を差し向けて、これまで勝手に商売していたのはけしからん、と今までの落とし前に二万貫の請求をした。が、限定職業の皮革業や魚屋、染料屋、鋳物屋の堺では、信長がヤ衆に商売を限定し、ヤ号をつけさせ、近江屋、尾張屋とさせているのが判明すると、自分らも元来はヤ衆だからと妥協した。
 
 信長も後に堺とマカオ間に硝石輸入のため、海流を利用して年一回の定期航路を開くぐらいだから、堺衆が竹で茶筅を作り出すと、次男三七の後の信雄に「茶筅丸」と命名している。己の前頭部が禿げ上がってくると残りの毛を棒のように立て、茶筅髷と名づけて流行させた。信長としては「天下布武」の計画に彼らの協力を得るための、同族間の信頼獲得の手段だったろうこと宗易宗恩夫妻を叛乱予備罪で刀狩りの後で始末し、その与党を区別地へ押し込んだ。ゆえに今でも岡山当たりでは未解放地を「茶せん」とよんでいる。      
 
わび、さびの意味  
 
 堺衆の者たちが、かって心ならずも、先祖が阿弥を名乗ったのを恥じらい、詫びの茶を始めたので、信長は自分も応用する事にした。(現代はワビ、サビの茶として権威あるものとされる。が、虐げられ続けた原住民が、悪党と罵られながらも武者働きして、一城の主になったり、商人として成功し、店の一つも持てる身分となった。祖父や曾祖父の頃までは山間僻地で苦労してきた、その頃を忘れぬように反省し互いに協力し励まし合うため、侘びしく静かな、先祖を偲ぶ寂しい茶湯。この精神がワビ、サビの由来である)   なにしろ戦国の世である。かっては忠誠を誓い、長子新五郎に信長の重臣明智光秀の長女を貰い受けた荒木村重でさえ、美童の万見仙千代を信長が奪ったとなると、叛乱してくる時勢である。「いくら血判を押させたり、神祇誓文を呑ませても口先だけの忠誠など信用できぬ」と信長は茶室から逃げ出さぬようにし「にじり口」と呼ぶ狭い出入り口を考案して、忠誠を申し出て来る者らを集めると、  「わしが点てる青茶を服すがよい」と試験をするのに応用した。古今東西木の葉は植物で、茶の葉も摘んで干して日が経てば枯れて黒ずむものである。だから眼前の青茶を見て(銅鍋にわく緑青でも混ぜなくてはこう青黒くなるものではない。
 
うかつに一気に飲みほしたら腹が痛み出しておっつけ死ぬかもしれんぞよ)と皆怖じ気を震い、ゆっくり三口にも四口にも分けて服用した。つまり茶席が今も厳粛なのは、死の儀式でもあったからである。    亭主と呼ばれる側は茶をたてるだけで、「乾杯」と絶対に一緒に呑まぬのは、茶席に招くのはなにも互いに親交を温める為でなく、御馳走するのでもない。ただ忠誠心をテストする試験だからである。さて緑茶はそれ程には猛毒ではないが、胃腸疾患のある病弱者は死んだ。
 
 伊達政宗が小田原陣へ降参をし、忠誠を誓いに行った時も、先ず底倉で青茶テストをされたが、若くて元気がよく無事であったという。それゆえ始めは本家本元の堺衆は順繰りに、茶頭の亭主役から、かって阿称名を貰った者やその子や孫が服用し、時に胃弱な者が、それでばったり急性で倒れたりすると「たたりじゃ」と先祖に対するお詫びの茶の意義を強めた。
信長を真似た秀吉や家康も風流や数寄ではなく、あくまで自己保全のための信頼テストに利用し、やがて武家社会に広まったのだ。
 
秀吉は天皇になろうとして、
「わが母は亡き後奈良帝の寵を受け身ごもって尾張へ戻って産んだのが、この秀吉である」と時の正親町帝に譲位を求め、皇太子誠仁親王が邪魔だからと、はしかと言う事にし急死させた秘話は、奈良興福寺の多聞院英俊が書き残している。
 しかし、天変地変が次々と続いて「故親王の祟りなり」と山科言経に言われて断念した。  秀吉も十六世紀では迷信には勝てなかったのだろう。「やむをえぬ」と親王の忘れ形見の後陽成帝を立てはした。  だが折角京の中心を取り壊し、己の新御所にと建てた聚楽第が無駄になるからとそこで秀吉は大陸進攻をを考えた。
 
  【補記】
座頭市の墓まで建てる歴史音痴の日本人
 
寺の都と呼ばれる程、京では各宗の寺が多い。観光バス廻りの現代では、石庭とか山門や色んな見せ物で拝観料をとって収益をあげる。しかし昔は、暇にまかせて筆のたつ坊さんが、もっともらしい由緒書を作ったり、空地に有名人の墓をたてて檀家や参詣人の布施を狙った。   仏教嫌いで、武田攻めでは生きながら僧侶をみな殺しにしたり、竹生島で寺詣りをした待女たちを憤り並べて手打ちにし、「終生、復興まかりならぬ」と比叡山では僧俗一人残らず全山の者を殺掠した信長の墓が、京花園妙心寺にあるのでびっくりしたが、観光客呼び寄せに、座頭市の墓を笠間にたてるのと同じで、儲けるためには真実の歴史は何もないのが日本人の国民性であるらしい。
 
 茶せん髷をたてた信長が仏教嫌いであったように、利休こと理休も反仏であったことは間違いない。となると、各寺にある利休関係の由緒書は、いくら国学院教授のお墨付きでも真偽は問えない。だから茶人に尊重される<南方録>のごときは、常識をもってみるなら噴飯ものである。「茶湯」を由緒あるものにするための、その途ではバイブル扱いであるのは、道具の型録にコジつけだけ。   よって本当に心ある歴史家は問題にもしていない。そもそも茶湯とは南北時代には、ばさら茶とよばれる闘茶であった。   足利期では「書見台子」などと勿体ぶっても、しょせんは賭奕、蓋をとって茶柱が立っているのが勝ちという賭茶。各寺で開帳して一割づつの布施をとったのが,バクチの寺銭の起源。そして、『花園天皇記』や『師守記』にもあるし、『看聞御記』には、親王さまが一茶やるべえとギャンブル通いをなさった記載さえある。今日の「イッチョヤルベエ」の語源である。      
 
 茶の湯の起源は博打だった 
 
が、庶民は寺へ入って賭けられぬから門前の店で丁半ならぬ茶柱博奕をやった。つまり腰掛けるから掛け茶屋となったのは後年で、賭け茶屋が起りである。これに対して神祗側でも、儲かるならと、赤い唐茶は仏教側ゆえ青茶を考案して、その混合がトガノオ産と他との割合を当てさせる「本非」とか「四種十服の勝負」といったのを始めたが、寺側のように固定客層がいないから、八坂神社あたりは弦召とよばれる下人が客引きに加茂川べりまで出かけた。これが今日でも使われるポン引きの語源だし、加茂で拾ってくるゆえ、「カモ」と上客をよぶのも今なお残っている。
 つまり茶湯の起源は、今いうような高尚なものではなく、初めは賭奕。後には忠誠心テスト用で、現代では花嫁修行と恰好よくなっている。硬質陶器のノリタケチャイナが出来たのは明治になってからで、ただ土をこねたきりの信長や秀吉の頃の茶碗が、地震国の日本にも多く残っているというのは眉つばものだが、道具商とか御用歴史屋が各派の家元と組んで、もりたてて今日に至っているのである。日本では歴史は真実を追究するものではなく儲けの道具。      
 
 
 裏千家の大恩人吉良上野介  
 
 吉良上野介といえば芝居の仇役だが、今日の茶湯を考えたのは彼である。千宗恩の連れ子の少庵が跡目をつぎ、その子の宗旦、宗佐と続いたが、仏教を国教にと神仏混合令をだして徳川綱吉の代になると、反仏派の千家では困る。そこで後西帝を退位させ幽閉した時に京の公家達へ、妻三姫の実家上杉家の金をまいて人気のある彼へ、柳沢吉保が体制側の茶道を作らせた。
 それまでは青茶だけを服用するのだったのを、甘味を初めに口中へ入れて胃壁に防幕を作り、ゆっくり三口半に啜って、残りの甘味を胃へ送りこんで中和させるという、絶対安全な喫し方を考案したのも吉良だし、千宗易の血統という千宗室を探してきて、今日の裏千家を創立させたのも上野介である。つまり、このために、まだ知らぬ人も多いが、 「茶」ではなく抹消の「抹」をつける抹茶に関しては今でも厳然として吉良に権利があって、「転茶」とか「天茶」と称する混合する為の製品は、現代でも三州の愛知県西尾町吉良が出荷権を握っていて、各地の茶問屋は吉良から仕入れねばならぬ不文律が業界では定まっている。
 
 なにも吉良上野介が生前に善政をしいたから三河では「忠臣蔵」の芝居を上演させないのではなく、現代でも抹茶の利益で儲かっているから吉良さまさまなのである。コーヒーや紅茶と違って、泡消化器や粉石鹸に入れる泡の原料のポエムや硫酸ナトリウムの加工物を入れる抹茶は、非衛生的であると外人には嫌われる。日本に来て活花を習うのはいても、抹茶をやるのは絶無である。  以前、英国王エリザベス女王が国賓として来日したが、接待で野点の茶を演出した際、飲むふりをしただけで、茶は飲まなかったという。
 三船敏郎が海外向きに製作した映画で失敗したのも、野立ての会で抹茶を喫する場面が愛想をつかされ、向こうの配給会社にそっぽをむかれたゆえと伝わるのも、むべなるかな、そのせいである。    いわゆる利休が茶道の祖なら表千家が栄えるべきなのに、今も裏千家が取って換っている。   幕末まで唐茶でない青茶は限定地栽培で、狭山事件で有名な狭山とか久能別所の清水と定まっていた。  また、堺を自由都市と歴史家は説くが、今の香港とは違う。えびす地はどこでもそうだったが、堺も除地として幕末まではずっと領主や代官から干渉されず年貢をかけられずにすんだのである。