新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

みずほ銀行の問題点

2021-09-24 15:36:55 | 新日本意外史 古代から現代まで


みずほ銀行の問題点


最近新聞には、みずほ銀行のトラブルを取り上げ、次のような見出しが躍っている。
「みずほ障害多発」「怒りの金融庁直轄」「検査待たず応急処置」「自助能力の欠如露呈」「金融庁の行政処分」
「みずほ銀に改善命令」「金融庁がシステム監視」その他等々。


これは金融庁が、みずほ銀行の基幹システムを事実上の「直轄」とする非常手段に乗り出したからである。障害の連鎖に歯止めがかからず原因も特定できない現状に、
監督官庁の堪忍袋の緒が切れたということだろう。
銀行業務の屋台骨であるシステムの成り立ちを疑問視する声も上がり、今後の成長戦略にも影を落とす。
私は四月にこの問題が起きたとき、以下の記事で指摘したが、一部書き足しての再掲載である。

   ITに遅れた日本の銀行


日経新聞に、「金融、IT競争力が左右」と題する記事が掲載されていた。要約すると、
みずほFG(みずほ銀行)は、一連のシステム障害を受けて、みずほFGがまとめた報告書によると、基幹システムの運用を担う専門の人材を減らしてきたことが明らかになったと紹介している。
金融庁の統計によると、米大手銀行は全従業員に占めるITエンジニアの割合が30%なのに対して、日本は4%に留まり、システムの維持と更新に追われ、中長期的な競争力を生む投資が手薄になっているとしています。
ゴールドマン・サックスは、10年以上前から「投資銀行はテクノロジーカンパニー」と認識し、エンジニアの採用を積極的に行っています。
今では新規採用の約半数はエンジニアで、給与も技術力も高い人材を揃えています。


それに対して、日本の金融機関では、いまだにエンジニアの割合がわずか4%しかいないという、お寒い状態が続いているのである。
日本の銀行は旧態依然とした「行員は営業で貯金を獲得してこい」なのである。


さらに日本の金融機関において、エンジニアの割合以上に大きな問題なのは、システムを提供しているシステムベンダーなのである。
ここで、近頃よく耳にするITソリューション・ベンダについてのおさらいをしておこう。


ITソリューション・ベンダーの意味。


ITとは。
Iはインフォーメーション
Tはテクノロジー
ITとは、インターネットなどの通信とコンピューターを駆使する情報技術の事になる。


ソリューションとは、問題を解決するという意味だが、ITソリューションと言えば、
企業がかかえる課題に対して人員やノウハウ、ソフトウェアなどをさまざまなリソースで解決するのがソリューション。
そのなかでIT技術をつかって解決するものをITソリューションとよびます。ベンダーとは、販売会社のこと。
従ってITソリュション・ベンダーと言えば、


インターネットなどの通信とコンピューターを駆使し、企業がかかえる課題に対して人員やノウハウ、ソフトウェアなどをさまざまなリソースで解決する会社を指す。
蛇足ながら、最近評判のいいSAGAWAのテレビコマーシャルがある。やり手のビジネスウーマンに扮した「戸田恵梨香」が、
「我が社が提案します」と「ロジェステック」という言葉を使うが、「ロジェステック・プロジェクト」と言えば、
物を保管して運ぶだけではなく、物の流れを顧客のニーズに合わせて効率的な形で計画・実行・ 管理することになる。
つまり、「仕入れから出荷までを」を表すサプライチェーンプロセスの一部という意味も含まれている。
現在IT関連の横文字が氾濫しているが、現役のサラリーマンは、自己啓発のためこうした勉強は必須になっているようである。
閑話休題。


こうしたシステム・ベンダーという会社は日本にも多く、以下に上位50社を記してみた。


1. 東芝ソリューション
2. 野村総合研究所
3. 日立情報システムズ
4. 富士通ビジネスシステム
5. 日立ソフトウェアエンジニアリング
6. 新日鉄ソリューションズ(簡易個票)
7. NECソフト(簡易個票)
8. 住商情報システム
9. TIS(簡易個票)
10. 東芝情報機器
11. インテック
12. 三菱電機インフォメーションシステムズ
13. CRCソリューションズ
14. 電通国際情報サービス
15. シーエーシー
16. 日本情報通信
17. シーイーシー
18. 大興電子通信
19. オービック
20. 日本電子計算
21. 富士通アドバンストソリューションズ
22. キヤノンシステムソリューションズ
23. JFEシステムズ
24. 富士通ビー・エス・シー
25. アルゴグラフィックス
26. 内田洋行
27. コベルコシステム
28. ニッセイコム
29. 扶桑電通
30. アルゴ21(簡易個票)
31. 日本コンピューター・システム
32. アイネット
33. キーウェアソリューションズ
34. クオリカ
35. クレオ
36. 日本証券テクノロジー
37. エヌアイデイ
38. ミロク情報サービス
39. パナソニックソリューションテクノロジー
40. アイティフォー
41. アイ・エス・ビー
42. フォーカスシステムズ
43. 東京日産コンピュータシステム(簡易個票)
44. ソフトクリエイト
45. ソルクシーズ
46. インテリジェントウェイブ
47. ビーコンインフォメーションテクノロジー
48. システムリサーチ
49. 大阪電子計算
50. テクノバン


さて、特に、今回問題を起こしたみずほFGの場合、日本IBM(旧富士)、富士通(旧第一勧銀)、日立製作所(旧興銀)、NTTデータという4社のシステムベンダーが担当していて、
こうした事故を起こすのだから、各社が有機的に機能しているとはとても思えない。


合併前の3社(富士・第一勧銀・興銀)時代からシステムを担当していたベンダーがそのまま居残っていて、それぞれの会社が「仕事を失いたくない」という気持ちで争っているのである。
そこにやや中立的なNTTデータが絡んできて、ますます混乱を極めている。


2019年までに約4500億円を投じてMINORI(新勘定系基幹システム)へ全面移行したということですが、その結果として毎週事故を起こしているのだから、レベルが低いというしかない。
(注)図は MINORI開発における品質管理(QMD)体制。HPから転載。

みずほFGに見られる「各ベンダーが絶対に仕事を失いたくない」という問題は非常に深刻である。
システムに対する責任者が曖昧になり、さらにシステムを刷新しようとしてもお互いを牽制しあうため、刷新のスピードが非常に遅くなります。
つまり問題の根源は、システムを提供するシステムベンダー側にあり、「彼らが答えを持っていない」ということです。
この構造が是正されない限り、また同じ問題を繰り返す可能性が高いと思います。


とは言え、1つのベンダーに任せるとなると、血を見る戦いが繰り広げられることが予測されるから厄介である。
みずほFGだけでなく、昨年システム障害を起こした日本取引所も全く同じ問題を抱えているし、地方自治体のシステムについても同様なのである。
各県や市町村がばらばらのベンダーにシステム構築を依頼しているため、ネットワークの互換性がないのが現状。
さらに、前述した銀行と同じく、IT技術者が少なく、自分のところのシステムの故障を直せず、何か不具合が発生すれは全てベンダー任せだから、時間も金もかかる。
自社や、各自治体の中に「情報通信技術」に長けた人材の不足も大きい。
だから、システムやアプリを作ってもらうに際して、ベンダー側に、大まかな構想や設計図を提案できない。
技術力、人材以前の構造的な問題だということを認識し、抜本的な解決に乗り出すことが重要。


即ちベンダーは一社に絞り、みずほ自らの社員の「デジタル能力」を高めることが重要なのである。
さらに「金融庁」は役人の集まりだからIT技術やデジタル能力に長けた集団ではない。「直轄」にしたところで混乱は収まらない。
みずほは、無駄な金はかかるが、新システムの構築をするしかない。「システムの安定稼働に一丸となって取り組む」などと寝ぼけたことは言っていられない。
さて、私事になるが、
この画像は東芝が1993年に発売したノート型パソコンのダイナブックEZ486である。


電源を入れるとご覧の様に立派に立ち上がり、未だ使うことが出来る。
まるで土方弁当箱の様な無骨で重く当時の値段で30万円もした。
ハードディスクはオプション・フロッピー内蔵・記憶領域がなんと2MBのみ。
CPUはインテルのi486SXまだOSはMS-DOS3.1で、Windows95も発表前だった。

勿論今のようなエクセルやワードも未だ出ていない。

でもこれ、ジャストシステム製一太郎初期のVer.3とロータス123というワープロと表計算ソフトがプリインストールされてたいたという当時では画期的な製品でした。
まだマウスも無い時代で、キーボードオンリーでの操作でした。
当時私は21世紀は機械化時代が終わり激しい情報化時代の到来を見越していた。
従ってパソコンの普及が早くなるだろうと予測していち早く購入した訳である。
購入後パソコンの仕組み、パソコン通信、ネットワーク、インターネットの仕組みなど独学で猛勉強したものである。

この後マイクロソフトの様々な資格の習得やシステムアドミニストレーター1級(現在は廃止された)試験も取る事になる。
ゆらい、PC駆使して一意専心30年になる。
さらにこの頃、日本のインターネットの父といわれる、慶應義塾大学の村井純教授の著書を読んで大いに勉強させてもらった。
当然インターネット普及以前で、パソコン通信といっていて、この通信業者はニフテイとPC-VANが主だった。
この後Windows95が発売され、次のパソコンはゲートウエイのデスクトップと、NECのノート型を購入した。
そしてプロバイダーサービスが始まって一挙にインターネット環境が普及し個人もサービスが受けられるようになる。
と、同時に会社を早期退職し「インターネットとデジタル変換業務の総合企画」としてSOHO企画を設立し、クリエイター2人を雇い営業を開始した。当時の業務内容は現在のITソリューションベンダーの走りのようなもので、
以下のようなものだった。

 【業務容】
                        
●企業の情報システムのサポート、支援。
(ピアtoピア・クライアントサーバー)
●ネットワーク利用と運用に精通し、情報リテラシーの高い人材の育成。
●ビジネスモデルの考案と特許申請。
●ホームページの企画・制作
●(Window95.98.ME..XP対応)操作の簡単なソフト制作(販売管理、売上、仕入、在庫管理、見積書、一般用決算書各種申告書、経営 分析ソフトその他各種)
●企業、個人向けパソコン操作の出張指導(インターネット接続、メール設定、周辺機器の設定、ワード98、エクセル97、オフイス2002
表計算、関数、グラフ、ビジュアル文書、マクロ等を実務利用のレベルまで指導)
●葉書、名刺、会員証、ポスター、メニュー、の作成(ラミネート加工)印刷等デジタル変換業務全般。
●その他、各種イベント、セミナーの企画、運営。


この後WindowsはXPが出て、ビスタ、Windows7,8と続き、現在10まで来ている。そして此処三十年のIT技術とスマホの普及発展はまさにドッグイヤーであり、感慨ひとしおである。


  追記


現在どこの会社でもPCを使っての業務は当たり前である。
しかし次のようなトラブルは日常茶飯事で、その都度専門業者に修理依頼をしているところは多い。その間の時間と修理代は無駄で、何より顧客に迷惑が掛かる。
・インターネットがつながらない
・メールを受け取れない
・メールが送れない
・画面のアイコンがおかしい
・パソコンが起動しない・動かない
・突然、パソコンが起動しなくなった
・使用中、勝手に電源が切れて落ちてしまう
・いつもと違う、変な音がして起ち上がらない

こうした現象に直面しても、素早く原因を特定して、システムやキャッシュファイル、ネットワーク、デレクトリーを修復できる人材は貴重である。
近頃、武漢病毒悪性肺炎の影響でリモートワークが盛んだが、これもベンダー任せにせず、自社の人材に構築させるべきである。
こうした人材には月に二万円位の手当てを出しても、トラブルの際、すぐに対応できるため会社は助かる。


プラモデルの断捨離

2021-09-18 18:58:43 | 新日本意外史 古代から現代まで

プラモデルの断捨離


老生、男の終い支度として、身の回りの物をほとんど捨てた。
その中に趣味で作ったプラモデルが数百点在る。これも業者に綺麗さっぱり全て引き取ってもらった。
プラモデルなどというシロモノは興味のない人間にとってはただのプラスチックの厄介なゴミにすぎない。
ただ、比較的印象に残っている作品は画像としてクラウドサーバーにUPし保存してある。
これはその中の一点だが、当ブログの「小難しい文章」の合間の一服としてお許しいただきたい。
武器はどんな綺麗ごとをいっても紛れもない「殺し道具」でしかない。しかし小は拳銃やナイフから戦艦大和まで、その機能と美しさが一致した究極の造形美は事実であり、皮肉でもある。
なお、作品のほとんどはリアルさを追求する「汚れ技法」は使っていない。武器が綺麗だということは、戦争がないということだから。




ドイツ空軍ジェット戦闘機 ホルテン(Ho229)


以下、実物写真と説明文はウイキペディアからの転載です。


ホルテン兄弟は少年期からグライダーや全翼機に興味を持っていた。彼らは当時のドイツで盛んだったグライダー競技会の少年向けスケールモデルグライダー部門で1931年~1933年に連続優勝するほどの腕前であった。
1931年にはH Iを初飛行させた。主として設計は弟のライマールが担当し、パイロットでもある兄ヴァルターがその支援や試験を行っていた。1936年にドイツは再軍備を宣言し、兄弟は新生ドイツ空軍に入隊した。
兄のヴァルターは情報士官パイロットとして、弟ライマールは飛行教官として任官した。兄弟は空軍での勤務の傍ら、無尾翼機の研究開発を行っていたアレクサンダー・リピッシュ 博士の指導も受けて、
全翼機の設計・製作を続け、1936年~1938年の間にH II,III,IV,Vを誕生させた。
2年後の1941年、戦闘機査察技術部に転任したヴァルターはライマールを転属させ、11月以降、兄弟揃って全翼機開発に取り組んだ。1943年、ヘルマン・ゲーリングは3×1000計画(„Projekt 3000“).を計画した。
これは時速1000キロメートルで1トン(=1000キログラム)の爆弾を搭載して1000キロメートルの距離を行動できる爆撃機を作るというものだった。
1943年2月、ホルテン兄弟はこの計画にジェットエンジンを動力とする全翼機を製作するというホルテンIX計画で応募した。その提案では速度900km/h、爆弾搭載量700kg、航続距離2,000kmを目指すものであった。
1943年8月ゲーリングは兄弟と面会し提案内容を承認、ドイツ空軍はホルテン兄弟に50万ライヒスマルクの援助を約束し計画は実行されることとなった。


1944年3月1日、無動力のプロトタイプ、型式番号H IX V1の初飛行が成功。搭載エンジンとして当初はBMW 003が予定されていた。このエンジンは小型大出力を目指す野心的な設計だったが、開発の遅れによる供給困難のため、
より大型のJumo004にエンジンの変更を余儀なくされた。Jumo004は直径が大きく重量も重かったため、緊急に設計変更が行われたが、兄弟はこの問題を解決し、1944年12月にH IX V2が完成した。
翌年2月2日にテストパイロットエルヴィン・ツィラー中尉(Elwin Ziller)により初飛行したV2は満足すべき性能と安定性を見せた。


ただ、V2は2月26日のテストフライト時(通算4回目、飛行時間2時間弱時)にエンジンのフレームアウトを起こし墜落、炎上した。緊急着陸に失敗したパイロットのエルヴィン・ツィラーは死亡した。
ただテストフライト自体の結果は良好であり、高性能を喜んだ空軍は本機をHo229として制式化した。量産能力を持たないホルテン兄弟の代りにゴータ社とクレム社に量産を発注した。
戦局を覆す可能性がある高性能機として軍当局の期待は高く、複座型や夜間戦闘機型といった多様な派生型が計画、製作された。


鋼管フレーム構造が良く分かる写真


本機は鋼管のフレームに接着剤でベニヤ板を組み付けるといった簡易な構造で製造が容易であり、またアルミニウムといった戦略物資を多用しないように配慮されていた。塗料には炭素粉を使用するなど、
世界初のレーダーステルス機といえる。。派生型はV3からV6まで各地で製作途中であったが、結局ドイツは敗戦し製作も打ち切られた。
翼型はS字キャンバーではないことが判る一番完成度が高かったV3はフリードリヒローダ(ドイツ語版)にあったゴータ社工場で侵攻してきたパットン将軍指揮下のアメリカ陸軍第3軍に鹵獲された。
現在はアメリカ国立航空宇宙博物館のP.E.ガーバー施設にて保管されている(ただし両翼の先端は現在失われている)。
この機体の後尾部に書かれている鉤十字は捕獲時の記録写真にはなく、戦後にアメリカ側が記入したものである。ホルテン兄弟の作成した他のほとんどの機体には鉤十字は垂直尾翼に書かれていた。
2009年にナショナル・ジオグラフィックは本機を復元する特別番組を制作。ノースロップ・グラマンの協力により本機の設計図を元にレプリカを作製してステルス性を検証し、
当時のイギリス軍レーダー網に対する十分なステルス性を確認した。なお、このレプリカはサンディエゴ航空宇宙博物館に寄贈されている。



日本軍ハワイ占領 山本五十六と日本の戦略の失敗

2021-09-15 18:54:02 | 新日本意外史 古代から現代まで




日本軍ハワイ占領

山本五十六と日本の戦略の失敗


近頃、テレビの下らぬ馬鹿番組に辟易して、古い映画のDVDを観ている。そのうちの一つに、映画の山本五十六について。主演の役所はそれなりの演技で無難に演じていた。
しかし脚本は山本を美化しすぎ、形而上的に捉えすぎている。
原作は故半藤一利だが、先に亡くなった阿川弘之著「山本五十六」の方が秀逸といえるだろう。


 この山本を演じた役者は私の知る限り歴代8人居り、時系列では以下となる。
大河内伝次郎、佐分利信、藤田進、三船敏郎、小林桂樹、古谷一行、丹波哲郎、役所広司。一番はまっていたのは小林桂樹ではなかったろうか。


さて、米国の国力を知り尽くしていた山本が、「一年や二年暴れてみせる」等と嘯くのは所詮は軍人の悲しいさがでしかない。
この山本を名将と評価する人も、凡将という人もいる。山本は米軍戦闘機に座乗していた爆撃機が撃墜され、戦死したため元帥となり、軍神と崇め奉られた。
しかし、真珠湾でもミッドウェーでも、数百キロ後方の、大和ホテルと皮肉られた、冷房付きで快適な旗艦大和に座して、陣頭指揮を執っていない。
しかも戦時においてさえ、高級幕僚や幹部士官と昼食時、軍楽隊付きの豪華ディナーを食べていた。これはイギリス海軍の真似をした、貴族趣味の悪しき伝統である。
日露戦争時の東郷のように、危険を顧みず第一線での陣頭指揮を執っていたら海軍の士気はいやおうにも高まったろう。

映画は、開戦にそれほど反対なら、山本の内面の葛藤にもっと迫るべきである。
山本は戦前、山口多門を連れて米国滞在中、彼の国の国力をつぶさに見聞して、米国を恐れ、米国との戦争には反対だった。 


しかし、開戦となったら彼の戦略としてはハワイを徹底的に叩き、太平洋艦隊が二年位活動できない間に早期の和平を結ぶことだったのである。この戦略は正しい。
海軍の有名な参謀で黒島亀人がいたが、彼は緻密な戦術は得意でも戦略思考は全く無い。これは日本軍の参謀に総じて見られる現象である。
山本の戦術では、艦船や飛行場だけでなく、石油タンク、ドック、修理工場、艦隊司令部までも徹底的に叩くつもりであった。


だがこの時の海軍の軍令部の戦略は、山本の強いハワイ奇襲作戦の要請に引きずられつつ許可したが、ハワイの艦艇をやったら、自軍の艦艇の損害を恐れて、さっさと逃げて来いという方針だった。


だから南雲は艦船と飛行場をやったら、もう浮き足立って逃げ腰になって、指揮官としては失格。これは言われた事しかやらないという官僚的体質の最たるもの。
虎の子の空母を沈めて自己の経歴に傷を付けたくないという、責任逃れで海軍軍人といえども所詮は官僚でしかない。山口多門は第二次攻撃を主張したが聞き入れられていない。


余談になるが、太平洋戦争敗戦後、旧帝国海軍参謀が語った処によると、海戦初頭、海軍各艦艇の高射砲の弾丸は250発、機銃弾は2500発しか用意してなかった、と暴露している。
これは海戦となった場合、どちらも約10分しか持たないという。これは当時でさえ如何に火薬が不足していたかを物語っている空恐ろしい実態である。
更に海軍のパイロットは、戦闘機、艦爆合わせて、機動部隊で750人、内地と外地の航空隊で500人しか居なかったという。
後に続く練習生はもっと少なく、ミッドウェーで機動部隊空母が四隻やられて、ここで日本は実質的敗北が決定した。従って当時のこうした状況は海軍幹部たちも薄々知っていただろう。
だから作戦が大胆さを欠き、消極的になったのもうなずけはするが。

 山口多門が第一航空艦隊の司令官だったら、この後の戦いの展開はかなり日本に有利に働いただろう。
(戦後、ミニッツはその回顧録で「真珠湾の石油タンクやドック、修理工場を爆撃されていたら、ミドウエー海戦は無かった」と言っている。従ってその後の展開は大きく違ってきて、日本は、あんな惨めな負け方はしなくてもよかった)
 米国のように戦時ともなれば人事はガラリと変わり、ハワイ空襲の責任をとらされキンメルが解任されると、
新太平洋艦隊司令長官抜擢されたミニッツ(当時は少将)は26人も飛び越えての大抜擢人事を平気で行う柔軟性がある。
 比べて日本は戦時といえども相変わらずの年功序列主義を棄てきれず、あたら山口のような稀有な勇将の抜擢も出来なかった。


近著「太平洋の巨鷲」山本五十六でも、海軍戦力増強の失敗と、艦隊決戦は見込めないと見抜いていた山本は、現在の最高度になっていた航空戦力で、真珠湾を叩き、時期を見つけて和平に持ち込む。
後は外交の力に待つという内容になっている。これなら私の考えにも合致する。


英国の歴史家E・Hカーはその名著『歴史とは何か』で「歴史上の未練を話題にして楽しむことはいつでもできる」と皮肉っている。
これは歴史にIFは無いということだろう。だがあえて此処からは歴史のIFに挑戦してみたい。


先ず、百歩譲ってどうしても真珠湾をやるのなら、山本は海軍軍令部と陸軍参謀本部を説得して以下のような作戦を日本は採るべきだったと想うのだが。


先ずその戦略だが、正規空母6隻の他に、輸送船団と、小型空母5隻に陸軍3個師団を乗せ、オアフ島の砂浜に乗り上げてでも上陸しハワイを占領する。
勿論、戦艦部隊(山本も大和に座乗し陣頭指揮を執る)は同行して艦砲射撃で援護に当たる。


当時ハワイに居なかった米空母、ヨークタウンやレキシントン等は、占領阻止の為、急遽迎撃して来るだろうから索敵を厳にして、これらと戦闘の末たとえ日本側空母に3隻程度の損害がでてもこれらを撃沈する。


 こうして太平洋艦隊の米空母を全滅させ、太平洋艦隊艦隊司令部も占領、全員を捕虜にしてハワイを占領後、次の作戦は、
(捕虜に関しては後の停戦交渉を有利に進めるため、ジュネーブ条約を遵守する)


 米国西海岸全てのドックや港湾施設の爆撃を周期的に行い、パナマ運河も向こう二年ぐらい使用不能にするため徹底的に爆撃破壊する。
さすれば新造空母や戦艦を建造するのは、東海岸の港湾に限定され、艦隊を太平洋に回航するには南米最南端のドレーク海峡を通るしかない。


 そして日本は、南極大陸最北端のエレファント島に潜水艦基地を造り、伊号潜水艦を網の目条に配置し、通過する米国艦隊(特に空母)を補足雷撃し、網から漏れた艦船を追跡し、
位置や航路を連合艦隊に逐次報告し、情報を分析し、日本空母艦隊はこれを補足殲滅する。これらの全作戦計画をハワイ占領後一年以内に行うのである。


日本が米国と戦ってワシントンに日章旗を掲げること等荒唐無稽なのである以上、これらの作戦は所詮、米国の工業力がフル稼働し、大攻勢をかけて来るまでの時間稼ぎでしかない。


この後の段階として、アジア地区の米英仏植民地を順次開放し、体制は王政でも民主主義でも、その国の民意に委ね、日本軍の軍政は厳に慎む。文字通りの大東亜共栄圏の確立になり、日本はその盟主の位置を確保する。
結果として南方の石油や鉱物資源も手に入り、日本の国力もつく。


戦後の歴史が解明しているが、米国は戦争したかったのである。だから最初に日本に攻撃させたかった。
だから日本にとって到底飲めない無理な条件を突きつけ、先に手を出させるように仕向けた。真珠湾攻撃も知っていたのである。が、ハワイ上陸占領までは思い至らなかったろう。
 いずれアメリカは最終決戦を仕掛けてくるだろうから、ヨーロッパではドイツに勝たせるため、日本関東軍は満州に置き続ける。
これは極東ソ連軍をヨーロッパ戦線に投入させないためのブラフである。(当時極東ソ連軍は100万が日本のために配備されていた)
 ドイツがソ連に勝てば、それまでにアメリカと講和を成立させておいて、今度は日本は連合軍に参加して、中東の石油資源を確保する。其の為ドイツ軍と戦うためのアラブ作戦も立てておく。
(実際参謀本部はアラブ作戦は立てていた事実がある)


これらの計画を元に米国との休戦又は和平の時期、条件(日本は相当譲歩することになるが、満州も返し、ハワイも捕虜と一緒に返す。負けて国土が焦土になるよりは余程マシである)を探る。
以上が戦争に負けないための壮大な戦略である、というよりこうした方が少なくとも原爆は落とされなかったし戦争には負けなかった。
 戦争とは絶対負けてはならないものであり、次善の策として勝てないなら何処かの時点で終戦か和平に持ち込むしかない。明治の軍部は大国ロシア相手にそれを実践している。


昭和の軍部の仮想敵国は、陸軍はロシア(ソ連)で海軍はアメリカだった。だから海軍は米国太平洋艦隊を日本近海におびき寄せ、艦隊決戦で雌雄を決するという戦略だった。
一方陸軍は、ノモンハンで負けてからは、大陸に百万からの関東軍を展開していた。
この戦略が、日本の南進政策によって、一挙に崩れ去り、陸軍は全く経験のない、太平洋での島嶼防衛に専念せざるを得なかった。
グアム、サイパン、ガダルカナル、ペリリュー島、ニューギニア、沖縄と全てが島の防衛戦争だった。そして激烈な艦砲射撃と爆撃と強襲上陸作戦に完敗した。
こうした日本軍の戦記を見聞して何時も思うのは強い怒りと、深い悲しみである。
戦略を間違った国家が、国民をいかに悲惨な状態に陥らせるか、改めて考えさせられる。
そして、南冥の多数の戦場で、ひたすら祖国を、家族を思い、歯を食いしばって戦い散っていった英霊たちの声なき声にただ涙する現在である。


河野太郎新総理大臣で「北方領土」は還ってくるか。

2021-09-14 11:42:16 | 新日本意外史 古代から現代まで


  河野太郎新総理大臣で「北方領土」は還ってくるか。


河野太郎行政改革担当相は9月10日の自民党総裁選の出馬会見で、対ロシア外交について「北方領土問題を解決し、平和条約を締結していくというのは非常に重要なことだ」と語った。
 河野氏は安倍前政権下の外相とし3年間、日口交渉に携わっている。安倍晋三前首相が18年11月の日口首脳会談で、日ソ共同宣言を交渉の基礎に位置付け、
事実上の2島返還方針に転換したことへの評価について、河野氏は「現時点で申し上げるのは避ける」と述べた。 


ここで先ず北方領土が盗られたそもそもの経緯を振り返ってみる必要がある。何故なら日本人は「ソ連が悪い」と一方的に思い込んでいる。
これに全く異論はないが実は原因はアメリカに在るという事実に目を向けるべきだろう。


 ソビエト極東軍が突如、国境を越えて満州に進攻したのは1945(昭和20)年8月9日未明だった。日本がアメリカに降伏する6日前のことである。
当時、広島に原爆が投下されたことで日本が降伏するのではないかと、ソ連はやきもきしていたという。ソ連は日本と中立条約を結んでいたため参戦できず、このままでは日本をアメリカに持って行かれてしまうからだ。


 そこで、ソ連は日本が降伏する直前に日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦し、「ソ連にも日本を分捕る権利がある」と主張する既成事実をつくったのである。
 事実、日本が降伏すると、ソ連のスターリン首相は、「北海道の北半分を寄こせ」とアメリカに主張したがさすがにこれは拒否されている。
 その代わりとしてアメリカは、北方領土の占領を許したのである。アメリカが譲歩したことになる。
だからソ連は部隊を国後、択捉、歯舞、色丹など北方領土へ上陸させ、全千島を占領した。そして日本兵をシベリアへ抑留する。抑留された日本兵は中国大陸の関東軍を合わせ六十万人におよび、厳寒の地での過酷な労働で、
六万人以上が亡くなる。これは、ポツダム宣言(日本に発せられた降伏条件)にある「兵士は、速やかに祖国に帰還させる」という条項に明らかに違反する。
 ソ連-すなわちロシアはそういう国であり、こうした卑劣漢を、日本では「火事場泥棒」と呼んで蔑む。
 その「火事場泥棒」の後継者であるロシアが居直り、北方領土を政治的駆け引きに使ったり、これをテコにして東シベリアのガス田開発をもちかけ、資金援助を引き出そうとしているのが現状なのである。


   
ロシアのプーチン大統領は3日、極東ウラジオストクで開催した東方経済フォーラムで演説し、北方領土に日本企業などを誘致するための特区を創設すると表明した。
また、プーチン氏は、「日本との平和条約がないことはナンセンス」と述べ、平和条約締結交渉の進展に意欲を示している。
安倍前首相は、在職中に約30回もプーチン大統領と会談したのに、この問題を全く進捗させることなく退陣してしまった。今までの交渉と、ウラジミール、シンゾウと呼び合った信頼関係は何だったのか。
時間と金の無駄遣いだったのではないか。


一昨年の東方経済フォーラムで、プーチン大統領は「領土の話よりも、平和条約を締結する方が先決」という意向を示していた。
先日もテレビに、ガルージンロシア大使が出演し、同じ内容を話していた。
すなわち、領土問題は条約を締結した後に、国と国の関係が出来上がってから考えるべきことである、という主張で一貫している。
ロシアからすれば、領土返還と言われても、前述のように、そもそも第二次世界大戦後に米国から譲られた領土であり、「日本に返還する」ということ自体が筋違いであるという認識である。
それに日本は決定的な外交上の間違いを犯している。




数年前に領土問題について協議した時、谷内正太郎氏がロシアのラブロフ外相から「日本領になった時には日米安全保障条約の対象になるのか」と問われた際、
「日米安保の対象になる」と回答したことが致命的だったのである。


日米安保の対象となるということは、米軍が駐留することを意味する。
これはロシアにとって大きな内政問題に発展する可能性があり、それを解決しない限り領土を引き渡すことなどできないというのは当然と言えるだろう。
この谷内正太郎は、外交官で事務次官にまで登り詰め、安倍内閣で初代国家安全保障局長になっている、外交と危機管理のプロなのである。


それが「北方領土にも米軍基地はありうる」と答えたのだから、ロシアは仰天しただろう。
ロシアという国家は、古来より異民族の侵略が繰り返された国である。韃靼、蒙古、ナポレオン、ヒットラーのナチス。そして日露戦争では日本に負けている。
モスクワから見れば極東の一小島に過ぎない北方四島だが、戦略上の重要位置なのである。


テレビで解説している外務省のOBたちは、様々な言い訳を並べて、谷内贔屓で庇っているが、「日本外交の大失態」には間違いない。
ちなみに私は外務省廃止論だから、明治の外交官は国益を考え剛直な者が多かった。
しかし昭和の戦前戦後外交を見渡せば「軟弱パーテイ外交」で、骨のある外交官は少ない。だから国家に害を及ぼす「害務省」と呼んでいる。


そのような事情を踏まえて、日米安保の対象外とする代わりにロシアから統治権を譲り受ける、というのが最善の落とし所だったのではなかったか。
しかし残念ながら、当時の安倍前首相にはそれを実行に移すだけの裁量と器量がなかったということであろう。


このような経緯から考えれば、今回の経済特区というのは当然の帰結になる。
河野太郎氏は、当然こうした裏事情も理解しているだろうから、首相になったら是非頑張ってもらいたい。その内容は、
そもそもアメリカ外交の失敗に端を発した領土問題だから、
先にアメリカと外交交渉で、「北方四島は安保条約の適用外」という確約を執った後、ロシアと平和条約を結び、その後歯舞と色丹両島の「施政権」だけを日本に引き渡してもらう。
ロシア住民は日本国籍でも、ロシア国籍でも彼らの自由意思に任せる。これが当面の解決策になると思う。


わが終活 「もうろくたかって死ぬの忘れた」

2021-09-11 17:12:11 | 新日本意外史 古代から現代まで




  わが終活


「もうろくたかって死ぬの忘れた」老人が多くなった昨今、
老生、人生の頽齢期を迎えて、いくら長命の時代とは言え、神がいるなら、お目にかかる日はそう遠くないだろうと覚悟している。
世間は武漢病毒悪性肺炎や政治の混沌で騒然としているが、己の身辺整理にいそしんでいる。


紅灯緑酒の巷で気違い水を呑み、泥水家業のホステスとの交遊も断って十数年。
「死に損ないの老いぼれ野郎」と呼ばれぬよう、静かに、世間様の迷惑にならぬよう、暮らしている。


「鶴は千年、亀は万年、我は天年」と喝破したのは禅僧仙崖だが、生きようとして叶わず、死のうとして叶わず、これ全て寿命という天の配剤に依るという意味になる。
「人生、古(いにしえ)より誰か死なからん」とは南宋の政治家、文天祥が詠んだ詩句の一節だが、これが私の死生観である。


終活は現在の流行りだが、老生も様々な終活をしている。常人と比べれば凄まじい生き方をしてきた。他人様に迷惑をかけたのは数知れず。助けられたり助けたり。
だが、御恩になって方には誠意を尽くしお返しをした。家人と共に三途の川を渡る「死に装束」も用意し「生前葬式」も済ませた。
身の回りの様々な"物質"も断捨離した。


拙宅を建てる際、居間に書物収容用の写真の本棚も作り付け、重量受けの為土台も補強した。書斎には史資料が乱雑に積まれていたが、これは大学に引き取ってもらった。
書物は読むために購入したものだが、知らず知らずのうちに約三千冊になった。これも市の図書館に寄付した。おかげで写真のようにガランとした本棚は何か寒々しくなった。
残りの人生「達観してなお枯れず」そんな晩年を送るつもりである。