新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

天下の豪傑藤堂高虎の虚像

2019-05-02 15:55:26 | 古代から現代史まで
天下の豪傑藤堂高虎の虚像
 
         (長編なれど面白く書いてます)
講談や大衆小説の類では、藤堂高虎は世にも稀な天下の豪傑として描かれている。 しかし、戦国時代の秀吉と家康時代を生き抜き、伊予半国十五万石の城主にまでなったこの男は豪傑などとは程遠く、その行動は、間諜としてのし上がったしたたかな男だったのである。初め秀吉の走狗となり、次に家康につきその走狗となって豊臣を裏切っている。片桐勝元もその部類で、この時代の武将は多かれ少なかれこれに類した行動は皆やっている。しかし高虎はその中でも主君殺しまでやってるしたたか者なのである。以下にその実像を記す。
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          高虎の実像
高虎は尾張阿古井の庄の藤堂源助の倅として、弘治二年(1556)に生まれている。さてその年の夏。 阿古井の豪族土田久安の娘が産んだ織田四郎信行は那古野城代林佐渡美作の兄弟に擁され、異母兄である織田三郎信長に取って代わろうと旗揚げした。だが一戦してもろくも敗退した。「からす勘十郎」とも呼ばれていた色黒の信行は、翌年清洲城へ詫びを入れに行ったが、信長は後顧の憂いが有りすぎるからこれを殺して始末してのけた。ついでに末森城の信行の倅も「成人後はうるさいから殺せ」と信長に言いつけられたのが、当時まだ柴田権六とよばれていた後の勝家。
そしてその権六の父権蔵の妻が土田御前の姉で、つまり権六は信行の従兄だった。しかし信長に命じられて信行を伴ってきて殺されてしまった後ゆえ、 「・・・・なにとぞ幼い和子様だけはお許しくだされませ」と大男が這いつくばって助命を嘆願した。 そして許されると権六は、己の姉にその養育を頼み込み、用心棒の如く警護役につけたのが、藤堂高虎の父に当たる源助だった。 さて、信長の異母兄に、三郎五郎信広というのが居た。この人も弘治三年には美濃の斉藤義竜と組んで信長に謀叛しかけたが失敗。のち、 「津田信広」と改名して信長に仕えている内、天正二年九月の長島一向門徒征伐の折に戦死した。 その家名がその儘になっているのを、柴田勝家は信長に願い出て信行の遺児に継がせた。 ついで、津田信澄を名乗るようになると勝家は、明智光秀の二女を貰いうけその室にさせた。 そして勝家は己の働きで信長から譲られた近江大溝の城を二万石の領地をつけ、信澄のものとした。これが勝家の律儀さでもある。 だから長年奉公の藤堂源助の倅高虎もこのため三十貫扶持になれて、大溝城の近習頭となった。
 
     高虎、信長の急死で巧く立ち回る
 
処がその八年後、高虎三十三歳になった六月。本能寺で織田信長が髪の毛一本残さず爆殺されるという事件が起こった。それゆえ二日当日出発予定の渡海艦隊を整えていた織田信孝を総大将とする四国攻めの本営があった大阪城でも大騒ぎとなった。 住吉浦に停泊中の出発間際の軍船から、次々と船夫ばかりでなく、武者までが裸になって海中へ飛び込み逃げ去る有様に、副将の丹羽長秀も腕をこまねいた。さて、大阪城二の丸には、近江大溝城主津田信澄も詰めていて、近習頭の藤堂高虎も当然共して来ていた。
この混乱に乗じて、高虎に近づき、大巾な扶持加増を餌に謀略を授けたのが、羽柴秀吉の弟羽柴秀長の家臣である。 勿論これは兄羽柴秀吉から出た深謀策である。それはこの後秀吉は「信長殺しは明智光秀」として、近々明智征伐を計画していたからである。 なにしろ、高虎の主君の室は明智光秀の二の姫である。さらに高虎の立場は光秀の娘婿津田信澄近習頭。 そして高虎が授かった謀略の策とは、デマを拡散することであった。
さてその夜からというもの、大阪城内には、 「本能寺の変は明智光秀の仕業じゃそうじゃ・・・・となると二の丸に居る津田信澄は仇敵の片割れ」といった噂が秘かに流れ出した。そこで血迷った信長の三男信孝は丹羽長秀を呼び、すぐさま手勢を率いて津田信澄を襲撃させた。不意を撃たれた信澄は驚き藤堂高虎を呼んだが、デマを流した高虎は、もうその頃には姿をくらましていた。このため津田信澄はここで殺され首を取られてしまい、丹羽長秀の兵たちによって留守の大溝城は荒され、奥方の明智光秀の二の姫も殺された。
 
    高虎、賤が岳の役に間諜本領発揮する
 
柴田勝家は北国の雪解けを待って天正十一年三月九日越前北の庄を出発し、秀吉と対戦するために十二日近江路の京街道へ出た。 するとその勝家の陣地へ藤堂高虎が手勢五十名を率いて馳せ参じた。勝家はそれを聞くと、「ほう藤堂源助はわしの親爺様権蔵殿の妹婿である。その倅の高虎ならわしには従弟か又従弟に当たろう。よくぞ駆けつけてくれた」と喜び面会した。 高虎は目通りを許されると「手前を先陣に加えて下され」と勝家に申し出た。人の良い勝家は「佐久間盛政が陣を敷いている行市山へいき、そこに加わるがよかろう」と命じた。 さて佐久間盛政は、昨年まで津田信澄の近習頭で三十貫扶持にすぎなかった者が、纏まった手勢を率いてきたのを怪しみ、(はてな・・・・・)と首を傾けたが盛政も勝家の甥だからして「藤堂高虎も縁に繋がる一族ゆえ、かくは無理して人集めしてきたのだろうか」と考え、本陣へ置いた。
 
 
そして十九日には、中川清秀のたてこもる秀吉方の大岩城を攻撃し大いに活躍した。そこで盛政が中川清秀の首級をあげると、これを高虎にもたせ、 「この大岩城は要地で、ここを押さえておけば北国街道の隘路口から自由に出られる。よって叔父の勝家へ速やかに本隊を繰り出し秀吉の本陣を攻めるようにしかと言上せい」と繰返し何度も行って聞かせて連絡におもむかせた。 しかし高虎は勝家の本陣へ到着すると、 「佐久間盛政様口上は・・・・大岩山並びに山崎山の敵は下しましたなれど、なにしろ左禰山には堀秀政、田上山には羽柴秀長の大軍が控えていますゆえ、軽々しく動かぬようにとのこと・・・・」 と、まるっきり反対なことを告げた。勝家はまさか従弟の藤堂高虎が嘘を言ってるとは思わず、佐久間盛政に戻ってくるよう命じた。 こうしてもたついてる時、秀吉は今の時間で言うならば午後四時に大垣を発つと、垂井から藤川をへて午後九時には十三里の道を一気に駈けけ戻った。 この知らせを聞いた佐久間盛政は「叔父の勝家が愚図ついていなさるゆえ、かかる結果になったと無念がって、ひとまず行市山へ戻った。 秀吉は賤ガ岳の砦からこの撤収を眺めるや「それッ敵は、わしが戻ってきたのを恐れ、戦わずして崩れ去っておるぞ。追え、皆の者、功名をたてるは今ぞッ」と、 まだ小姓の加藤虎之助や福島市松らに
 
まで、大きな槍を持たせて戦場に送り出した。
これが後には賤ガ岳七本槍として有名になるのである。 このため佐久間盛政の本隊も崩れかけた。すると茂山にあって佐久間勢左側面の援護に当たっていた前田利家が突如裏切った。 だから盛政の本陣が乱れかけた時、それまで味方を装っていた藤堂高虎が、いつの間に引き入れたか羽柴秀長の軍勢の先頭に立ち、挟み撃ちにせんと掛かってきた。この状態を『フロイス日本史』では、 「戦闘は激烈で槍で互いに殺戮し合い、勝敗はつかなかったが、やがて柴田方は、森へ逃げ込み、武具や剣をも棄て、命を全うせんと、折からの暑熱にうだって衣服まで取った。そこで忽然として山頂に一万五千余の半裸体の姿が浮かんで、やがてそれは雪崩をうって敗走した」 といった惨憺たる有様となって、流石の柴田勝家も、己が旗印を毛受庄助に授け、越前北の庄へ逃げさった。が、二日後には羽柴秀吉が前田利家を伴って北の庄を包囲。柴田勝家は於市御前を初め、近臣八十余名と共に、火薬を仕掛けて大爆発の中飛び散って果てた。
この時の手柄で藤堂高虎は秀吉から目通りを許され、八千三百石になった。が、それでは半端だと思われたのか、主君羽柴秀長が二年後に大和郡山へ百万石で移封された際には高虎も増えて「一万石」にまでなったと『武家事紀』には記載されている。
      
 
           高虎、秀吉の密命で殺しをなす
 
しかし、高虎でも一回位はまともに戦って名を挙げたこともある。 天正十四年四月に主君秀長の共をして九州攻めに渡海した際のことである。 島津勢が夜討ちをしてきて、宮部善祥坊の率いる四国兵の見城へ押し寄せたとき、藤堂高虎は薩摩兵が秀長の本陣へ近づかぬように、どんどん篝火を焚き、これを迎え撃って島津家久を撃退した。 この手柄で加増され、二万石になった。そして秀吉の命令で高虎は、郡山百万石羽柴秀長の筆頭家老になった。
 
そこで秀吉の許へ御礼言上のため伺候したところ、秀吉は声を潜め、 「秀長は子なしゆえ、関白秀次の末の弟を養子にさせてあるが・・・・どうも上の小吉秀勝同様に、わしを恨んでいるらしい節がある。よいかそこのところを考えて善処せいや・・・」と、耳打ちする如くに秘かに伝えた。だから天正十九年正月二十二日に、秀長が亡くなり、養子の秀保が跡目を相続し、十四位下参議右近衛権中将になり、ついで翌文禄元年正月には「従三位権中納言」に任官し、名護屋城普請に九州へ渡た。 藤堂高虎も共をして行き、また秀吉に逢った。 「いつかの事、良く用心して見張り、何か在ったら直ぐに自分で知らせに参れ・・・よいか」と言いつかった。
そこで一年おいて文禄三年二月、盛大な秀吉主催の吉野の花見の時、高虎は、 「御長兄秀次様の事は判りませぬが、知行不足を言い立て上様から、先年所領を没収されし次兄小吉秀勝殿と、このところ頻繁に逢っております。どうやら御長兄をも引きずりこまれている模様・・・・」 すると秀吉は顔色を変え「始末せい・・・・」と言いつけた。
 
 
         秀吉の策謀に高虎応える
 
信房というのは秀吉の姉の夫で、昔は清洲城で足軽の小頭をしていた一若のことである。 己に子供がないところから秀吉は、その長男の秀次を養子にして関白にさせ、次男を信長の子であった羽柴秀勝の死後、すり替えて同名を名乗らせ、丹波亀山十万石を継がせ、三男を弟秀長の養子にさせたのだが、さて淀君から生まれた秀頼が元気に育ってくると、どうしてもこの三人の兄弟が気になってならなかった。そこでかねて目をつけていた藤堂高虎を、郡山百万石の筆頭家老にさせて様子を窺がわせていたのだが、何か企てていると聞いては、最早ほおっては置けず、(三人兄弟の内、一人でも早く処分せねば)と腹を決めたのである。
この密命を受けた藤堂高虎は、四月十六日(昔は大陰暦だから五月末に当たる)秀保が暑いから水馬をしたいと言い出した。 しめたとばかり、高虎は己の家来の仲から水練の巧みな者を選抜して、川中で水中へ引っ張り込み溺死させた。
 
そして高虎は「自分が家老として付けられていたのに、申し訳ない、許されるべきことではない」と嘆き悲しみ慟哭して見せ、亡き殿の菩提を弔うため出家すると高野山へ登ろうとした。これ全てが芝居なのだが、これを聞いた秀吉は「天晴れ忠義な者である。わしが召抱えよう」とこれまた芝居で褒めちぎった。 そして伊予宇和郡で七万石の領地をすぐさま与えた。この話しは戦国確定史料の『当代紀』に明白に記載されている。 二万石から七万石へのベースアップは、つまり主君殺しの代償という事になる。
この後『武家事紀』によれば「慶長二年の朝鮮征伐の時、七月に唐島で敵の番船を捕獲、ついでスウエンで敢闘負傷帰朝せり」と勇ましくなっている。 そして『桃山分限帖』では、「慶長三年六月二十二日に、伊予喜多、浮穴二郡の内で一万石加増」とあり、伊予板島城主として八万一千石にまで昇進している。だから藤堂高虎は秀吉を有難がって、豊臣家の為に極力奉公したろうと思うのは、凡人の考えであって、
 
「慶長三年八月十八日」に、伏見城で秀吉が死ぬと高虎は「てまえの身でお役に立つ事はござりませぬかな」と、 直ちに徳川家康の許を訪れた。そこで家康は、 「誰が見ても藤堂高虎は豊臣恩顧の大名として代表的な存在。それがこの家康に加担して大阪城の事を何かと通知してくれるとは、これは十五万石の価値は楽に在るな」といった。ここで話しが決まって、それからというもの高虎は、大阪城内に在って五奉行の動性を見張り、次々と家康の元へ、報告をしだした。 そのくせ、しきりに悲憤慷慨して、 「今にしてあの狸親爺を打ち倒さんことには・・・・・豊臣家の運命は危ぶまれる。かくなる上は只もう断あるのみで御座ろう」等と言って回った。 これには実直な石田三成などは、すっかり感激してしまい、
 
藤堂高虎、福島正則をたきつけ、まんまと東軍勝利に貢献した
 
「豊臣秀保様の菩提を弔うと出家しかけた・・・お人だけの事はある・・・・ああいう誠忠無比な士が揃っている内に旗揚げを致さん」 といった決意をするようになった。そこで東西が風雲急を告げだした。すると変わり身の早い高虎はさっさと本性を現して東軍につき、直ぐ尾張の清洲城へ赴き、 城主の福島正則をつかまえて、「石田三成らは、貴公のことを桶屋上がりの馬鹿者というとるのを、大阪城で散々聞かされてきた」と、 真面目くさって告げたから、単純な福島正則はかっして、 「大阪城内にずっと居た藤堂殿が言われるのは嘘ではあるまい、おのれ憎っくき石田三成め」と、激怒した。 こうして、福島正則は、豊臣恩顧の大名達を清洲城へ集めた。 (加藤嘉明、浅野長政、池田輝政、細川忠興、黒田長政、田中吉政、一柳直盛、桑山元靖らである) そして家康からの使者の村越七十郎を迎えると、藤堂高虎は、 「我らは西軍東軍のいずれにも味方せぬ腹で、この清洲へ集まったのであるが、家康公の思し召しでは、もし御味方すれば所得倍増を約束してくださる」と、一同に図った。福島正則は秀吉の母方の縁者ゆえ、大阪方へたてつく気など初めは毛頭なかった。
何しろ十数余の大名が清洲に集まってきて、豪気な正則はそれらの兵の糧食を一手に引き受けていて、その出費は膨大だった。 手持ちの米も使い果たし、すっかり弱りきっていたので、そこで岐阜攻めの話が出ると、渡りに船と、皆が清洲から出て行ってくれるだろうと賛成した。
八月二十二日。清洲城にいて中立を標榜していた三万五千の兵が、突如行動を開始して木曽川を渡り、西軍側の岐阜城を攻めたから、ここに東軍の形勢が有利になり、翌九月十五日の関が原合戦でも、東軍は大勝利を得た。この結果家康は喜び、 「・・・・局外中立の福島正則ら荒大名をまんまと計って味方とせしは、さすが藤堂高虎だけのことはある」と、 約束通りに伊予半国十五万石に取り立てた。が、その代わり「続けて励めよ」ともいいつかった。 そこで高虎は何食わぬ顔でその後も大阪城へ出入りして、しらばっくれて、「手前一人だに世にあらば、豊家の土台は磐石とご安心あれ」と秀頼や淀君に高言していた。 しかし、また大阪の戦役になるとさっさと徳川方についてしまい、夏の陣には河内八尾で、大阪方の長曾我部盛親と戦って勝った。 しかし家康は、 「間諜には高禄を与えるものではない」と、もう昇禄はさせず、代わりに大阪城焼跡の夥しい竿金や分銅金を褒美に与えた。 しかしこの当時は未だ銀が貨幣であって、金はおかねではなかったら高虎はむくれて、その腹いせに、 「あの狸親爺め・・・・・」と、その金で置物や茶湯台子一式、茶釜を作ってのけた。
 
 文福茶釜に狸が化ける話しは、もうその頃から有ったらしい。
なお、これらの品の一部が、昭和二十年の敗戦前まで藤堂家に在った。これは前日本歴史学会会長の故高柳光寿博士が実際に見ているという。 この後、高虎は家康の下では譜代大名並に扱われ、従四位下左少将の官名だったと「高山公実録」に記されている。
藤堂高虎、寛永七年十月五日死す。享年七十五歳だった。
 

二階幹事長の無様な姿 これからの中国との関係 古代シャモロ国地図による日本人ルーツ 中近東→インド→マレーシア→ベトナム→日本

2019-05-02 13:55:42 | 古代から現代史まで

 

古代シャモロ国地図による日本人ルーツ

 中近東→インド→マレーシア→ベトナム→日本

これからの中国との関係

 二階幹事長の無様な姿

タイのバンコック博物館には、秘蔵古代シャモロ国地図がある。 それによると、現在でこそメコン川上流のケンカン市の先で、雲南の車里となっており、ソンコイ川のラオカイの上流の川口から、江河と名が変わって、 そこはベトナムの国境になっている。そこからインドシナ山脈を境にして四川省までが雲南省と、全くトンキン湾から遠ざけられ、山国の感がある。 だがシャモロ国の栄えていた頃の古地図では、ソンコイ川までが、ずっと版図に入っていたのである。つまり今いう雲南が、かつては南シナ海に面していたのである。

 日本のラテン語呼称のヤバアン、ヤバアーナの語源ともなっているマレーシアことヤバンからは、黒潮暖流でボルネオ海を二日で流れ拔けてつく地帯である。 もちろん紀元前5世紀ペルシャのアケメネス王朝の頃、ダイオレス王がインダス川右岸まで占領していた時代もあったし、紀元前三二七年になると、アレキサンダー大王がインドへ進攻し、 当時のアケメネス王朝を仆し統治国となした。

 ついでマライ半島もインドの版図ゆえ、タッコーラとカターハに占領軍のギリシャ兵達が進駐していた。  ギリシャ名で「カテイガラ」と呼ばれた今のヴェトナム民主共和国、つまり海岸までのびていた当時の雲南へ、小麦耕作奴隷とし、タッコーラやカターハから集めたのを、二コバルから筏輸送していた。 このことは〈ギリシャ史〉に明確にでているから、これは世界史の中で、本当といえる日本史創生の歴史である。

 現代の地図でみるから判らないが、ベトナムは昔の雲南の海岸地区のカテイガラで、黒潮渡来の古代海人族が日本列島へ、バシー海峡から四国や瀬戸内海へと入ってきたのである。  だから、かって東ドイツのコンベルグ紙は、ベトナム撤退のアメリカ軍を評して「ヒロシマの仇を、その祖国がとったのだ」とするような記事をのせもしたのだろう。 これまで世界史の中で日本は、「マレーシア経由の西南有色人種によるもの」とされて、英語読みではバハンだが、ギリシャ発音のヤアバンからとされているゆえ、 ドイツ、ペルシャ、インドといった昔はギリシャ語圏内の国では、国連用語ではジャパンだが、とはよばずに、今でもヤバアン、ヤバーナなのであるのは周知の通りである。  「八」とよばれ「ヤァ」とされていた吾ら庶民の祖先は、黒潮によってマレーシアへ運ばれ、そこから今はベトナムとよばれていた昔の雲南へ移され、さらに、そこからと逃亡してきた古代縄文人であろう。

 流行のシルクロード説みたいに全てを陸路から来たという説では、長安の都からは遥か雲の彼方の南の遠い所で、そこからテクテク日本へ移動とは無理がある。 が海路で、黒潮にのってくるのなら、現代でも、かってベトナム戦争の頃、ベトナム難民の筏が多数日本に漂着した事実でも理解できるだろう。  だから今のように海上ラッシュで船舶が多くなかった昔は、スイスイと暖流にのってしまえば楽に日本列島へ人つてこられたのである。また、日本に上陸せず、 その儘でまたも流されていった者らが、太平洋を横断し、ハワイ諸島に着いた人々も居る。 さらに、今いう処のエクアドル縄文人やカナダインデアンとなった人々もいるのである。 日本では「縄文人海を渡る」と不思議がるが、日本から渡ったのではなく、前記したように日本に上陸せずそのまま流されて、漂着地点でそれぞれ文明が発達したのである。

日本は吹き溜り列島ゆえ各方面から人間が流入してきているのに、鉄剣や鉄矛で武装した大陸人(中国)が威張りくさって弥生時代となし、それまでの縄文日本人を先輩とはせず被征服民とした。 原住民の内、降参しないのは捕えてきて奴隷オークションにかけた。逃げるのはゲットーに入れ、さも自分らが国の初めから居たように歴史を偽造した。そして「主客転倒」というが、 後から入ってきた他所者が押しこめられたのが、いわゆるなのだとと決めてしまう。 だから世界史の中でも通用する日本史である為には、ぜひこの問題を明白にせねばならぬのに、「それには絶対にふれてはならぬ、抗議がくるから」と何処のテレビ局や雑誌社も厳禁である。 どうも問題にふれると解放同盟から抗議が来るというのは違って、圧力をかけてくるのは別の組織らしい。 なにしろ<日本の特殊の研究>をこの世に残した菊池山哉でさえ、古代史の部分では「延喜式」をひいて「何々地方は何年前には稲束何千束賜与であったが、この頃には零になっている。

これは、その間に俘囚も耕やして自給自足の状態になったのであろうか」と文字通りに解釈し説明している。  しかし王朝時代の記録や公卿の日記は、数多く残されて活字本になっていても文字通りに理解してはならない。 稲何千束というのは、種もみで渡しては、食してしまう惧れがあるから、芽が出だした苗代何千束のことなのである。奴隷にした者らへ今の小学校みたいに給食したのではなく、 王侯貴族の食糧を作らせるよう課役したにすぎない。つまり最初の年は苗を渡されても、翌年からは取り入れ九分の中から次の種もみは間に合ったゆえ、次年の何束下賜というのは、 新規に編戸された農業奴隷の分だけに搾ってで、施しなどしない。

日本史では判りにくいから西部劇の映画を想い浮かべてみるのがよいようだ。 合衆国政府は、平和協定を結んだインデアンを一定地へ収容し、唐もろこしの種を一つかみずつ与える。インデアンは狩猟民族ゆえ当惑するが拒めば、日本の多賀城にあたるリオグランデ砦から、 騎兵隊が出動討伐にくる。  やむなく水をくんできて耕やし荒地を次々と開墾して、コーン畑に苦労して造成してゆく。すると、耕地になったから良い値段で転売できると、ワシントンに顔のきく政商が、騎兵隊長に出動を命令する。  せっかく食えるようになったと喜んでいるインデアンの女子供まで、騎兵隊はみな殺しにしてのけたり、捕えたのは次の岩山だらけの居留地に送りこむ。これと同じ事が当時の日本では行われていたのである。  アメリカでも今になると、インデアン迫害史を匿したがるように、日本でも高名な学者T氏の「日本奴隷経済史」のごときは、大宝養老神亀天宝の戸口簿人口と人口との対比表をだしている。

竹越与三郎の「日本経済史」でも正倉院文書で全人口の三・九%と見たり片方は五・六四%なりとみなしている。 これだと、が一人もいない地域が三分の一をしめる表である。農耕漁業をなす奴や寝間勤めや掃除洗濯の婢がいなくて、全ての労働をしない彼ら王侯貴族は、どうして暮らし得たのだろうか。 つまり竹越や滝川の根本的な誤りはその年に里長の許へ送られたの数だけの拾い出し計算による。

常識で考えても全人口の四%から五%のの働きで残りの者の食糧など生産できる筈はない。真実は反対であって、総人口の九五%がである。  そのくせアメリカの「ルーツ」なみに、主人が婢にうませた子供さえも奴隷として売ったのが、「養老律令」にあるとし、西行法師の〈選集抄〉は後世の偽作とはことわりながらも、 その中の「越後上村の海浜にて、人馬の族を売買その中に幼きあり老いもあり、そぞろ涙こぼれぬ」を引用している。 人馬の族を人と馬とのせり市のごとくみているが、出てくるのは売られてとなる人間ばかり、滝川は知らないようだが、人馬族とは騎馬民族の末孫のシシをさすのである。

 ついでに書けば、奴隷価格でも〈正倉院文書〉を現行の読み方通りに判断して価格を誤っている。 「直布一端」は後の一反つまり八・五米ではない。〈唐令書〉では、掌をひろげ親指から小指までの巾としているゆえ二十㎝弱で四十二分の一。

また〈賦役令集〉和銅八年五月十九日の格の条文からして、「奴一口六百文、婢一口四百文」を引用するが、賦役令の一口とは宝くじの何組と言うような集団をさし、 一組のことで一人の事ではない。また織田信長の晩年でさえも、「一文斬り」といわれ、「罪人一人を斬り殺し穴を掘って埋めるまでが一文」ゆえ現在の壱万円相当。唐の玄宗皇帝の頃は一分で、 一文でなく、和銅銭とて鉄のビタ銭でなく銀、銅だった。こうした出鱈目な誤りを弟子や孫弟子もその儘受け継いでいるのが現状なのである。  王朝時代の公卿の日記が数多く残され、これが活字本となり確定史料とされているから、架空の平将門が実在化したり、総てに可笑しくなります。 あれはみな藤原日本史でしかないのです。  「自分らこそ天下って日本を統治しているのだ」という宣伝文書が歴史屋の史料とされていては、真相など解明出来はしない。 大和民族は単一だとしながらも、同和問題の本質も解明できていない。

原住民を卑下して、賤の者(卑しい人間)と見下して、彼らを「帰化人」の子孫としてしまいます。 しかし、日本原住民が、最初の「賤」とされたのは、奈良時代の非クダラ系日本原住民なのである。 西暦六六三年からは反仏教で、原住民は拝火教や山岳信仰だったから、大陸人がいくら全国に国分寺を建てて仏教を広めようとしても、絶対に転向せぬ異教徒原住民を「賤」とした。 次が北条体制による旧源氏残党の追放になる。そし足利時代に南朝方(朝鮮高麗系)についた地域全部というのが、所謂「」の発生の真実です。 アメーバや草木でも初めに種がなくては生えません。  日本列島へ次々と入ってきた子孫が、今の日本人の八割以上ですから、「所謂」の者らこそ古参の我ら日本原住民の大先輩なのである。  藤原王朝のごときは7世紀からの新参者で、鉄製武器で征服者になっただけの話にすぎません。 そしてこの子孫は現在でも原住系と混血を重ねてはいるが、全人口の一割は居るのである。

もう二度と中国の下風に立ってはいけない

余談になるが、記紀には仏教伝来は404年、漢字は552年と書かれている。 「仏教は素晴らしい宗教ですから、どうか日本人に広めて下さい」とお願いした訳ではない。 白人がキリスト教を持ち込んで、有色人種世界を植民地化した手法と全く同じなのである。 それまでの日本には拝火教や拝水教、山岳信仰などの「自然教」が在った。

さらに、漢字は実際は漢の時代の物なのに唐になってから「漢字」として占領軍が持ち込んで、自分たちの歴史を書いてしまった道具にすぎない。 そして古典四書として崇め奉られている「古事記」「日本書紀」「旧事紀」「古語拾遺」が漢字で書かれた。 だが古伝四書といわれる「ウエツフミ」「ホツマツタエ」「ミカサフミ」「カタカムナのウタヒ」と、古史四書「九鬼神伝精史」「竹内太古史」「富士高天原朝史」「物部秘史」がある。 さらに異録四書に「但馬事記」「東日流外三郡史」「忍日伝天孫記」「神道原典」もある。漢字以前の文字として岩戸蓋石古字やアヒルクサモジもある。 これらは「神代文字」と云い、銅鐸や古墳壁画の文様などを「絵文字」として一部は解読されても居る。 だが、これらはこの国の歴史学者たちに問題提起はしたが、その後の研究は進んでいないのが現状。 記紀を金科玉条とし、国民の税金で録を食んでいる各大学の教授連中は横着なのか、頭が悪いのか、はては難解すぎて手が付けられないのか。 大学で江戸時代そのままの師弟関係で、助手や助教授の昇進、転勤権を握っているため、若い者は新しい研究に突き進むことができないでいる。 歴史学会も「白い巨塔」なのであ。

さて、今や中国は巨大な怪物に成長した。最後の清朝崩壊後(1911)、中華民国から現在共産党一党独裁の中華人民共和国に変貌した。 この間約100年以上を経たが、ここ十年、経済力と軍事力を背景にした中国の台頭は凄まじい。 習近平王朝ともいうべき中国の一帯一路政策はまさに宗教でもなく、武力でもない「金」(かね)による世界制覇戦略に他ならない。 先日も安倍総理の特使として二階幹事長が訪中し、うやうやしく「親書」を手渡していた。これぞまさしく朝貢外交そのものではないか。 「あなたにひざまずきます」という「へつらう」姿がテレビ画面に映っていた。 安倍総理は一帯一路に協力する姿勢を見せているが、絶対これに乗ってはいけない。当面はアメリカと強力に連携して中国と対峙しなければならない時に、 何という無様な外交をしたものか。

中国は尖閣を盗りに来て、沖縄にも様々な形の謀略の手を伸ばしている。 何しろ彼の国は孫氏の兵法を作り、謀略と戦術に長けた古狸で、周辺国を侵略し、収奪し属国化した歴史が山ほどもある前科者なのである。 中国数千年の歴史とは侵略の血塗られた歴史である。 中国が少し位「親日的」態度を見せたからと言って、甘く考えてはいけない。それも「悠久の戦略」と分析するべき。 いずれ、朝日新聞のような左巻きのマスコミや知識人を抱きこんだ「親中国国家」か、中国の太平洋の要である「中国日本省」建設を目指しているのであろう。 その兆候は日本国内の至る所で見られる。 大型連休だ、新元号(令和)に浮かれ、オリンピックに五兆円も使って舞い上がっている場合ではない。そんな金を使うなら、海上警備力増大のため保安官増員や巡視艇を建造し、 厳しく取り締まるべきである。現状を漢文調に書けば、

「弱士儒夫らが金権を母とし豪奢淫蕩の暮らしを貪る軟弱軽佻の気風を一変しなければならない。 公務員は質素倹約を旨とし陋屋破壁の内に公務を弁ずる覚悟が必要なのである」