新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

江戸の遊廓 吉原と根津遊廓の考証

2019-05-28 10:14:59 | 古代から現代史まで

 

「根津は東の生駒」といういろは歌留多がある。 

今は跡形も無いが昔は浅草観音様の裏手に吉原遊郭があった。   同じように江戸の有名な遊郭として、徳川家康を祀った根津権現の裏の一帯に根津遊郭もあったのである。   さてサンカのセブのことを「勢振り」と恰好をつけるみたいに言うが、その他にサンカ用語でツキコミというのがある。   これは突出して敵の内部に入り込み、情報収集隊のことである。  徳川時代には、西の頭領、京の綾部に居たオオモト様直轄のクズシリは、京の御所の対サンカ政策と徳川家の京所司代の方針とでは同じでないゆえ用心して双方に、小者とか渡り中間といったのを潜入させて情報をとらせていた。
 
(注)クズシリとは例えば「武蔵のクズシリ」というように、その地区の責任者、世話役のような意味である。    だがこれが江戸となると将軍家のお膝元である。千代田城は身元調べが誠に厳重で、滅多矢鱈と小者やお端下の下女でも、潜りこませられるものではない。   といっても江戸の政策や意向はどうしても調べたいし探りを入れなければ危険である。  それゆえ、家康が江戸に入府の時に家康の温情で、サンカ限定の居付地とされた根津の地に、「さぐり里」として、遊郭を家康直筆の朱印状を提出し、吉原会所なみの賦課金を幕府に納入することを申し出て許可を受けた。   モグリで岡場所などにしては探索が厳しかったので、それよりおおっぴらに税を払っての商売の方が危険がが少ないとのサンカ側の読みである。  つまり江戸府内の噂や町方役人共の話も聞き集めて、それを総合して判断を下すためでる。 これは女を使って情報を盗る、現代諜報戦のはしりといえよう。  よって女達はサンカの中でも器量よしばかりを選りすぐっては根津へ送り込んできたから、吉原よりも美女揃いなので、「遊びは根津に限る」と粋客が集まってきておおいに繁盛した。        
 
 根津は女上位専門の遊郭だった
 もともと根津遊廓が出来る前からサンカは、「遊女記」に大江匡房が書いているように江口の浦が11世紀から  12世紀まで情報集めに四国の塩飽衆の舟に乗って、都よりの客をとっていた過去がある。   だが14世紀の足利時代になると、塩飽衆たちは南朝に味方をして敗れたため、足利体制から賊とされ、ゆえに京辺には近づくことが許されなくなったので、サンカのツキコミの情報集めに舟が使えなくなった。 だから今の生駒に集まり「夷駒」ともされ「イコマは悲しい女街」の唄が現代にも残され、演歌にもなっている。  根津や生駒が器量よしの女ばかりを集めていたことが人気の理由だというより、もう一つ大きな訳がある。
 
 吉原や生駒、京の島原などの遊廓では、「床をつける」という所作は、女が下になる正常位が、金を払う客を上にのせて、満足させる慣わしだったのに、根津はその逆だったからなのである。江戸時代の川柳の歌留多にも、「押っかぶせ、根津は好きものばかりなり」との句が残されている。  つまり女上位で覆いかぶさってくるゆえ客は、自分に惚れているので女の方が積極的に迎えてくれるのかと嬉しがる。 何時の時代も男は自惚れ屋で、馬鹿が多いということをサンカは知悉していたのだ。
 
 処が他に聞いても誰にでも女上位で乗りかかって来るというから、それでは此処の女は、よほど皆好き者で、するとなると、ヤラセで致すよりも、本気になってヤル気で歓んで掛かってくるのだろうと、 遊び好きな者には堪らない吸引力となって、町方の役人まで評判に釣られ通ったものらしい。これは男の手前勝手な都合のいい、思い込みというものだろう。 現代でも、売れっ子デリヘル嬢には、客に惚れたふりをし、女上位でこってりサービスする女が居て、馬鹿な男は「俺は好かれている」と勘違い。 こうなれば直ぐに「裏を返し」て貰え、デリヘル嬢は大いに繁盛する構図は、根津に原型があるのである。
 
 だが事実は違うのである。 サンカは川畔の安全な所を見つければセブるが、女は冬でも冷たい水の中へ入って、腰湯ならぬ腰水に浸って  女の急所の奥まで指を入れて丹念に洗う風習がある。この行為は訳ありなのである。    なにしろサンカは大陸人や百済の男たちに、慰安婦にされたり、種付けされる前に、山や河や孤島へと逃げた純粋日本人の誇りを持っている。    しかし体制に追われる立場となっても同族を守ってゆかねばならぬから、  探索方として選ばれて廓女にはなったが、いくら商売とはいえ、異民族の子種を体内の奥深くに放出されて妊娠しては困る。    よって女が上になって射精させておけば、下腹を左右からもみ下して屈めば、下へぽとんと白い液体が容易に便壷へ落とせる。 そしてよく拭っておけば子種は入らず安全と、民族の純潔を護るために、遊女勤めを、当時は用心して考え騎乗位で務めたのである。
 
  余談になるが、江戸時代には避妊薬は色々在ったらしい。黄表紙本の今で言う広告にも「月浚え月水散」「逆日丸」などいくらでも見られるから、庶民の需要も多かったと思われる。  さらに堕胎となると「中条流」が有名である。 しかし明治になると軍部の富国強兵策で、兵隊になるはずの子供の避妊や堕胎は国策上拙い。  従って、そうした庶民には便利でもオカミにとって都合の悪い書物などは、羅卒に命じて徹底的に集め焚書した。  だから現代でもこの手の書き物はめったにお目にかかれないのである。    さて、江戸期のこうした歌留多には性を扱った物が意外と多い。特にサンカのものは目を引く。  そして現代の乱れ切ったSEXの氾濫する時代は、サンカのこうした行動は不可解で、  助べえだとか、欲望や欲情、性欲などの概念で捉えがちだが間違いで、純粋日本民族の種族保護活動の一端と捉えるべきである。 そして、サンカの掟は「統治されず、統治せず、相互扶助」だから、この精神を護るため、時の体制に虐げられ、 差別され、殺されても耐え忍び、逃げ隠れるということで抵抗した誇り高き平和的民族とみられる。
 
  吉原は夜専門、しかし根津遊郭は昼遊びが専門だった。               
 
  その訳とは??(一部重複する)
江戸時代、吉原遊郭は有名だが、あまり知られては居ないが、幕末まで栄えて流行した根津権現の 根津遊郭が在る。 幕府公認の遊郭である吉原は夜間営業が専門だが、此処根津は違った。  「根津の昼遊び」といって、此処で働く女達は亭主を仕事に送り出し、夕食の支度まで根津で客をとって、そ知らぬ顔で帰宅するというシステムで 売春業に精出していた、珍しい場所なのである。    現代でも旦那の仕事中、妻がソープやデリヘル等で稼いでいるのも居るが、根津はそのハシリの様な所だった。  そして此処の女達は「馬乗り」とか「お馬さん」と呼ばれて話題になっていた。  つまり此処は吉原などの正上位と違って、全ての女が女上位で、男の上に跨るから、上からだと硬く勃起して無くては挿入できないが、鞘かぶせとなると爺さんのふにゃちんでも何とか咥え込んでくれるので喜ばれたのである。
 
それに根津の女は前借とか鞍替えなどはなく、遊び代金も四分六か七三の配分だったから その日に稼いだ分は其の日に持ち帰っていく。    気の向かない時や、生理の日には自由に休むことも出来たから、日本版「昼顔」を堂々と行っていた世界でも珍しい売春形態だったのである。  (現代のデリヘルなどはこのシステムを真似して、女達にはすこぶる評判がいい)  それに当時の江戸という町は、現代のように女の仕事はOLやサービス業なども無く、 下女か、自分の体を開いて稼ぐ売春ぐらいしかなく、だから此処の女達は趣味と実益を兼ねてしかも搾取も無いから、女が己の性を己の意思で使い出した皮切りでもあった。  
 
 
「根津でもて、男もどうやら一人前」と言われる位で、江戸期の川柳には数多く残っている。  さて、この女上位で馬乗りになるという性行為と、搾取が無いというという制度は、 これはまさしくサンカ社会の特徴である。  と言う事は、湯島天神の飛び地の中に根津権現は在るのだから、共に江戸におけるサンカの溜まり場ということになる。    (注)このブログではサンカの事を何度も書いているが、このサンカの記事は三角寛の以下の物は参考にしていない。
 『縛られた女たち』大日本雄辯會講談社 (1939/08)  『慈悲心鳥―山窩史話』日京書院 (1948)  『名刑事捕物帖』蒼生社 (1948)  『愛欲の瀬降―山窩綺談』東都書房 (1956)  『山窩小説シリーズ』徳間書店 (1966)  『味噌大学 』 文芸社 (1969)  『漬物大学 』 文芸社 (1969)  『人生坐大騒動顛末記 』
 何故なら彼は、警察廻りの朝日新聞記者として取材しているわけだが、サンカ(山窩)の中の騎馬民族系だけしか書いていない。 サンカにはこの他に海洋渡来系も居り、一方だけからの解明は片手落ちである。 さらに彼は、サツ廻りだったゆえ、警察情報を元に、即ち体制側から見たサンカを書いているわけで、好色な民族だとか、凶暴だという悪意と偏見に満ちていて、サンカの実態とは程遠いものになっている。
 
 作家の五木寛之も「風の王国」でサンカ集団を描いているが、これもあくまでも小説で、実態を解明していない。 本邦唯一、サンカと共に暮らしその真実に迫った書物として、八切止夫著「サンカ生活体験記」「サンカいろはことつ唄」「サンカ民俗学」の三冊が、「サンカ真書」ともいえるべきものであろう。
現代でもサンカの血を引く日本人は多く、その特徴としては、頑固で唯我独尊傾向の人間が多いが、家ではよき父であり母であり、家族を大切にし、動物好きで、管理社会には向かなくても、 その才能と努力によってスポーツ、芸能界で活躍している人が驚くほど多い。
 
 不撓不屈のど根性をもっているといえるから、その名を挙げればきりがないほど、かなり有名な人も多い。  なにくそと頑張って自己主張する血の流れがそうさせるのではなかろうか。 何と言っても彼らの一番の特徴は多産系である。 少子化日本の現代、五人や七人という子供を平気で育てているそのバイタリティには敬服する。 そしてこのサンカ男性の性格は、きわめて、反逆精神というか、反骨精神が多分にあり、また血の流れの伝統として、圧迫生活に堪えるといった〝ど根性型人間〟といえる。 何代か後の総理大臣は是非、サンカの血をひく日本人から出て欲しいものである。