新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

「敗走千里」  本の紹介 焚書図書が72年ぶりに甦る!!

2020-05-30 19:20:04 | 新日本意外史 古代から現代まで

「敗走千里」  本の紹介
焚書図書が72年ぶりに甦る!!
中国人兵士が自ら語った、中国軍の腐敗と略奪の記録。昭和13年に刊行されるや、またたく間に100万部を超えるベストセラーとなった、「知られざる」戦争文学の名著が、現代に甦る! 
著者について
【著者】陳 登元
 中国・重慶出身。父親が親日家であったことから、10代なかばで日本に留学。
その後、大学卒業を翌年に控えた昭和12年8月に本国へ一時帰国したところ、
中国軍に強制徴募され、江南地方の戦線に送られた。
2カ月間におよぶ日本軍との激闘ののち、重傷を負って戦線を離脱。収容された上海の病院を退院する直前に脱出すると、本書の原稿を一気に書き上げ、日本にいる別院一郎氏に送付した。
その後の消息は不明。
 【訳者】別院 一郎
 著者・陳登元氏の留学生時代に日本語の個人教授を務めていたことが縁で、
本書の原稿を受け取る。預かった原稿は大いに出版の意義ありと判断し、
必要な訂正を加えた上で、昭和13年3月に、訳者という形で刊行した。戦後、GHQ(連合国軍総司令部)は本書を「宣伝用刊行物」に指定し、
その結果、日本国内における、個人と図書館の蔵書を除くすべての本が、当局によって没収され、事実上の廃棄処分にされた。

内容詳細
中国人兵士が自ら語った、中国軍の腐敗と略奪の記録。昭和13年に刊行されるや、またたく間に100万部を超えるベストセラーとなった、「知られざる」戦争文学の名著が、現代に甦る!
目次 : 塹壕生活、 斥候、 恐ろしき芋掘り、 日本の恋人、 慰労隊、 仲間喧嘩、 呪われた中隊、 白兵戦、 逃亡か投降か、 中隊長帰る(一部抜粋) 
 本書の前半は前線における支那軍の様子と兵士たちの人間模様を中心に描かれ、後半は李芙蓉という女性との王上尉(大尉)とホウ中尉、次に王上尉と陳子明の戦争の中でも揺れ動く男女の三角関係が描かれている。
前半で主人公の陳子明が見たものは、給料の満足に支給されない支那の兵隊にとっては、表面は如何ともあれ、掠奪が依然として給料であり、戦争なるものが一つの掠奪商売であり、
軍隊なるものはその最もよく訓練された匪賊であると述べている。
何しろ彼らは自軍の塹壕から、夜ごと「偵察」名目で少人数が出動するが、その目的が自国の村民や町民への略奪(食料、貴金属、衣服などありとあらゆる物)、暴行、輪姦なのである。

 著者は「戦争というものは非常に揮発性を持った感覚の集合体、これが発揮してしまっては戦争の抜け殻になってしまう」としています。
戦後GHQが7000冊以上を焚書し、プレスコードや4大教育指令などで歴史が捻じ曲げられて72年。昭和13年に出版され100万部以上の大ベストセラーとなった本書は、
当時の日本人が支那事変(日中戦争)をどのように捉えていたかの材料としては良い資料といえる。
≪当時の時代背景≫
1936年12月 〈西安事件〉共産主義者が国民党軍と日本軍を戦わせて双方を弱体化させるために蒋介石を罠にかけて日本との戦闘を仕向けたと言われている。
1937年7月7日〈盧溝橋事件〉国民党軍と日本軍の双方に発砲して戦わせる共産党の作戦であったと1949年の中国独立の演説で周恩来が発表した。
1937年7月29日〈通州事件〉北京郊外の通州で支那軍により日本の民間人200名以上が文字通り虐殺された。
1937年8月13日〈第2次上海事変〉日本軍の10倍近い支那軍が突然日本軍に攻撃し、8年に及ぶ支那事変(日中戦争)が開始された。
1937年11月 主人公の陳子明が2か月間の戦闘の後、生死にかかわる負傷し戦線を離れる。
1937年12月13日〈南京陥落〉戦後の歴史捏造である南京大虐殺や日本軍の略奪、強姦などの暴行は支那軍の仕業であることが本書により容易に推測できる。
1938年1月 著者の陳登元から訳者の別院一郎のもとに1通の手紙と共にどっさり原稿が届けられる。
1938年3月 『敗走千里』が出版され100万部以上のベストセラーとなる。

一九三七年七月、盧溝橋で火ぶたを切られた支那事変は、その年の暮れの南京攻略戦となり、南京陥落で逃亡した蒋介石は徹底抗戦を呼びかけた。
翌三八年十月、シナ事変で最大の激戦となった武漢作戦で敗れても蒋介石は和平に応じず、さらに奥地の四川省の重慶に立てこもり抗戦を続けた。
支那事変発生から一年あまりがたち、この武漢作戦でもって大規模な戦闘はほぼ終了したわけである。武漢と広東を日本に占領されて重慶政権は外部への出口を失い、経済的な打撃を受け、反撃する力もなかった。
 そのあとは日本軍が占領した広大な点と線に沿って、散発的にゲリラ戦が生じる程度である。八年間に及ぶシナ事変中、もう一つの戦闘らしい戦闘が行われたのは、
戦争末期の一号作戦、いわゆる一九四四年の大陸打通作戦である。それ以外は一見牧歌的と思えるような膠着状態が、中国大陸で続いていた。
従って筆者の陳 登元は、南京戦から武漢戦までの敗走の状態を描いている。

日本が敗戦後、アメリカGHQがいち早く発禁処分にした本だというが、その理由が判然としない。
強いて言えば、内容が中国国民党軍の腐敗が酷いためか。
当時の支那軍の内情の酷さが暴露されていて、戦勝国になった中国軍の恥部が描かれているためだろう。
また、支那軍にも日本の慰安婦のような「慰安隊」があって、兵隊と士官間の醜い争奪戦の様も描かれていて、興味深い。
だが、これが戦争文学の名著だというが果たしてそうだろうか。私には「良書」とは思えない。
この当時、日本軍と戦闘したの支那軍と一括りに言うが、蒋介石率いる「国民党軍」で、共産党軍は奥地に逃げ込んで、実際の戦闘はしていない。
逆に周恩来は、「日本軍のお陰で共産軍が勝った」と感謝しているぐらいである。
従って、現在の中国共産党が「日本と戦って中国を築いた」という宣伝は「嘘」である。


いろは歌留多から見える日本史の真実 「割れ鍋に、とぢ蓋」  「男は四人の敵あり」

2020-05-26 12:56:05 | 新日本意外史 古代から現代まで


いろは歌留多から見える日本史の真実

 「男は四人の敵あり」

この唄は、若狭地方に住むサンカたちから出たものである。
仏教は派が、無理やり転向させた赤系の海洋渡来民族と、白系の騎馬民族、黄系の雑色と言われた土着系の民族を、それらを指揮する、
墨染衣を着た、黒坊主の四種類の者たちは、若狭サンカたちの娘を輪姦し、殺す輩ゆえ、見つけ次第殺してしまえという、サンカには珍しい過激なコトツである。
 が、江戸では「しちや」とよぶ質屋を、西では今日でも「ひちや」と堂々と看板を出して商売をしているくらいゆえ、これが今となると「男は外へ出ると七人の敵がある」とも、される。
というのは京の御所側の延暦寺は、奈良の興福寺は平重盛に荒されたが、比叡山上の天険へ巧く逃げこんで被害がなかった法相経宗派の残党の坊主らは勢力を増し、
別派をたてて、「六道講式」というのまで今でさえ伝えている。恵信僧都作といわれるが、後朱雀帝の頃に、「地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道」の六道の間で生死をくり返し苛められるのを、
伝来の阿弥陀仏の仏恩に縋れば救済されて、エタとて極楽往生できるという讃歌を、声明(しょうみょう)とよぶ古代インドからの仏教典礼音楽と、地獄極楽の渡来絵図みせて斉唱をさせた。
 なんせ延暦寺は平氏憎さに木曾義仲が攻めてくれば陣所に貸し、戦国時代には上杉謙信らサンカシノガラ(隠れサンカ)領主の奉納銀を狙って「七福神法」を弘め、
だから謙信も七福神の内の「毘」を毘沙門さまの旗と馬印にし多額の銀を奉納した。それゆえ仏教側の巧妙な[七信仰操り]を敵視せよとの戒め唄なのである。
ちなみに「七人の敵」という意味は、七福神の敵ということで、即ち仏教のことである。

「割れ鍋に、とぢ蓋」
これは、一般にも広まって、現在もよく使われている。
その意味として、破損した鍋にもそれ相応の蓋があること。どんな人にも、それにふさわしい伴侶があることのたとえ。また、両者が似通った者どうしであることのたとえ。
[補説]「綴じ蓋」を「閉じ蓋」と書くのは誤り。「綴じる」は縫い合わせるの意で、「綴じ蓋」は修繕した蓋のこと。 となっているが全く意味が違うのである。
江戸では、鋳物の鍋が、今の埼玉県から入ってきて広まった。しかし、これは高価だったため、一般では土鍋である。だが、火力が強いと土鍋はヒビ割れができやすく、
上や斜めから物が落ち当っても毀れやすい。だから、それを防ぐために、土鍋には大きな蓋をするしかない。土鍋に細いヒビ割れが入って鍋の汁が滲みでて、火の上で毀れてしまう用心である。
 今では前記のように安易に、割れ鍋しかもたぬような貧乏人には、女であるだけが取り柄のそれ相応なゲスなひどい面相の女でも恰好で釣合がとれる。だから身分相応がなによりも良い、というよう
な釣合いを諭ずように使われている。
しかし昔の「夷也」が恰好よく「稲荷」とされる江戸では、まったくこの意味合いは、今の解釈とは違うのである。これはサンカを侮蔑するための歌なのである。

 さて髪剃法師という職業は、仏僧にはなれぬ原住民系の私僧のことである。仏教徒が死ねば、寺の墓場に土葬として埋葬される。
しかし、日本原住民は拝火教徒が多いから、死ねば火葬して、骨は壺に入れて神棚に収める風習だった。
だからこの髭剃り法師は、死人の着物を、礼として火葬の野辺の送りの後に貰うのが当時の習慣だった。
そして、この時、土でこねたカマドで、鍋釜の火入れをさせ、土器や鍋をば拵えたものである。
江戸期に入っての鋳物の鍋も、やはり砂中に型をこしらえて砂鉄を熔解したのを流しこんで作る。火花の散る危ない火仕事ゆえ先住の原住民たちの八の限定職種とされていた。
村や町の鍛冶屋と呼ばれたが、いつも火を扱う危険な作業ゆえ限定居住地の端くれに居らされていた奴隷使役であった(大正時代貸本屋のベストセラーの「明治大正犯罪実話」の反サンカ物で、
彼らを退治させる為の本には「鋳掛松」の人名さえ、はっきりと出てくる程である)。
ヒビ入りの煮たきする土鍋や鋳物鍋の上から、ぼろでもよいから割れた閉じ蓋でものせれば、どっちもどっちもの似合いで巧く火にかけられると解釈される。
 しかし実際の意味はヽそんな常識的なものではない。はっきり言えば江戸以東北においては居付きのサンカが多く住んでいて、彼らの夫婦生活というのは、一般の交合とは違って、
元気のなくなったヒビが入ったような心許ないヨボヨボの割れ鍋みたいな夫からでも、今の内に子種をとっておこうと女房が上から被さってゆく。
今でいう「女上位」の性交形態である。
これだと、男は下でじっとしていても、勃起さえ持続していれば、女がかぶさってトジ蓋となる。
口で咥えて元気をすこしでも出させるなり、握って己れに当てがって、トジこんで、ぬけ落ちぬよう、確り締めっけ、子種をとりこもうとぴったりくっついて、巾着のように締め付けるのである。
しかし、「やつらの女はスキモノだ、もう使いものにならぬ夫の一物を脚絆みたいにぴったり捲きつかせ子作りするため必死猛志やっている」とセブを覗き見した者から、好色夫婦と誤られ、
それが一般に広まった。だが、まさか子供作りの為の目的だけのものとは説明できなかった。
故にごくあたり前の釣り合いの教訓のごとくにしただけの話である。
色気違いでもないのに、民族の純血種を一人でも多くとの行為を性愛とか肉欲というより、神聖な行為と、シノガラはしたいようである。
昭和になって、サンカ研究家の三角寛が関東各地のセブリを回って、彼らの生活状態を調査した。年齢、食べ物、子育てなど、生活全般にわたり詳細なものだが、
中の項目に、それぞれの夫婦の年齢と、性交渉の回数があり、二十代は日に三回、四十代五十代でもほぼ毎日とある。
七十代でも週に三回とあるのに、三角寛は驚いたと書いてあるが、確かに性交はお互いがその気にならなければ、こうはゆかぬから、男女とも精力は強い。
「サンカを殺さば殺せ。吾ら種族の血脈を絶やさぬように、補充の子供はムレコの夫婦が、セブで汗水流して昼夜つくり続けろ。純粋子種を産めよ増やせよ」のオオモトさまの訓辞がムレコたちにも掟になっていて、
SEN、(千、仙、浅、先、銭、洗、箭、尖、餞、賎、泉、)のつく地名は、名古屋市内だけではなく各都市にも多く、今はチグサ(千種)と呼ばれている。


サンカ いろは ことつ唄 知らぬが仏(日本人の無宗教感が凝縮されている)

2020-05-23 10:24:34 | 新日本意外史 古代から現代まで

サンカ いろは ことつ唄
  いろは歌留多から見える日本史の真実
   知らぬが仏(日本人の無宗教感が凝縮されている)

「知らぬが、ほとけ」この歌留多は、勿論、徳川五代将軍綱吉の神仏混合令という法律が出来てからのものである。
なにしろ寺社奉行はというのは、奉行といっても、幕府の職制では、老中、若年寄につぐ程の大役なのである。
その名の通りに寺の下に神社が隷属しているか否かを取締まる今なら国務長官にもあたる。
これが国家命令として、御仏を本置する寺を守護するのを仕事とし、神社は各寺の支配下にちやんと入っているかどうかを監察した。ところが祇の御宮に対しては目の敵にし苛めて酷に扱った。
 神社は各仏閣の執事や別当が派遣されて管理下に入っているのゆえ、寺からの報告だけで事たりたが、祗の御宮や御堂には、国家権力である徳川家ご威光によって、
徹底的に頭ごなしに押えこんでゆくしかないとばかり、情け容赦もなく手厳しい弾圧と差別をくりかえし加えたのである。
当ブログの「吉田松陰」のところで、祗の御宮というものが幕末でも冷酷に扱われた在り方を克明に書いておいた。宮守りはエタとされて婦女を犯されても殺されても、寺人別帳に入っていない以上は人間扱いをされない存在だった。
そのため己が留守中に嫁ぎ先の両親から夫や妹までも、一家皆殺しにされても、何処へ訴えようにも相手にされぬ宮の嫁が、自力で一家の仇討ちをしようと十八年掛って本懐をとげたのを吉田松陰が感心し、
彼女から口述筆記をとるため、松下村塾へ招いて逗留させたところ、高杉晋作ら門人は、塾の汚れとなるから、早く女を追い出して、松下村塾のおきよめをするように再三にわたって陳情どころか抗議をした話である。
 今日の日本では、雑多な宗教が溢れすぎて、どれを信仰してよいのか国民は判らないでいる。地方では昔ながらの氏神さまを祖神にしているような土地ではまだ救いがあるが、
都会ともなると有りすぎる信仰対象に迷ってしまう。結婚相手が見つかるかも知れぬから創価学会の集会へ行くとか、車免をとって車を買うと、交通安全を祈願して、成田山詣でをし、お守りをぶら下げている。
妊婦は安産がしたいと水天宮詣で。結婚式をするなら白のウェディングドレスの似合う教会でキリスト教の数時間だけの信者と、まるで受験の時だけ天神さまへ祈願する学生のように、
目まぐるしく拝む対象が次々と変ってしまう。だが信仰は、薬みたいに用途別というものではありえない。こんな国は日本だけである。

 一つの信仰対象に対して、すべてを託してゆくのが信心であって、アクセサリーみたいに、向き不向きとか、似合う似合わぬの問題で、拝む相手を変えたりするものではないのである。
 「過ぎたるは及ばざるがごとし」つまり余りにも多いということは、まったく何も無いのと同じだというが、このせいで日本人には、何を拝んでよいか判らぬゆえ、無宗教者が多いという。
 特に都会ヘトケコンでいる人々は、テレビで地方の祭りを放送し、ワッショイワッショイやるのを、もの珍しく視るというより羨望の眼ざしで釘づけされたみたいに眺めるか、さもなくば
コバカにし、祭りを無視してしまうのは、宗教心が自分の心の中で混乱しきってのせいである。現在でもキリスト教国のごとく一つの宗派で総ての住民が纏まっている処は先進国となっている。
 「多神教の国」といって、色々なのを雑多な民族が拝む地方を、さも未開発後進国のごとく軽視みたいな解釈をつけて放映するのは、変てこだが、日本一に大きい有料放送ネットワークである。
 「先端技術開発国」の国民とされつつも、宗教心となると面白可笑しく放映されてしまう。
男根の木型に似せたものを担ぎまわるのや、その反対に女性自身に似た割れ目の大きな貝殻を拝む、天下の奇祭珍祭ばかりの取材ビデオを、フラッシュ式に茶の間で放映されてばかりなのである。
 「五穀豊穣を祈っての農作信仰」であると、そうした奇祭には、さも取ってつけたような尤もらしいナレーションが必ずつけられる。それゆえ信仰とか宗教心なるものは田舎者に限っての、
農耕民特有の儀式かと間違えたり、夏場の海辺神事をみると漁師だけのものかと誤られる。
といって信仰心を向ける対象が、さっぱりわけがわからずでも、心のウズキは感じているのかもしれない。
 「お祭り好き」といった表現で、ワッショイワッショイと女性でも御神輿担ぎに廻るのもいる。まったく宗教心抜きで金儲けだけの観光客集めの「七夕祭り」といったのや、ひどくなると、
「産業復興祭り」などと堂々とやるから、「銀座祭りパレード」までが信仰でもなく宗教でもなく、ただ人集めと物を売るだけの目的で、盛大に催されているが、誰も疑義を挟む者がいない。
つまり「祭り」というのが、もはや「祀り」ではなくなってしまって、お金儲けだけになっている。
 「阿波踊り」にしても昔は徳島の大麻神社の神事だったのに、今は、よしこの連を始め一人も詣りにはゆかず、観光客に囲まれて街路をねり歩いてエライヤッチャと踊りだけの行進をみせる。
では、どうして唄を忘れたカナリヤみたいに、こんなに各自の信仰が忘れさられてしまい、日本人が無宗教になってしまったかといえば、この原因たるや徳川オカミの「神仏混合令」なのである。
  『知らぬが仏』とばかり、明治の神祇省廃止なのが、今では歴史屋さんさえも知らぬせいなのである。
 なにしろ五代将軍綱吉の時代、法律によって、それまでは相互に睨み合い戦国時代までは共に殺しあっていた朝鮮系の「神道」が、中国系の「仏教」の下に組み入れられる法治国体制が確立した。
  「この世には、神も仏もないものか」とか[神仏にお縋り申して]と、将軍綱吉の側用人、柳沢吉保の側室染子の方の実家、正親町家の青侍兵馬だった近松門左衛門によって、
オカミヘの迎合浄瑠璃で宣伝されて広まり今日に到っている。
なんせ、かつては「壬申の乱」から「南北朝合戦」まで、朝鮮勢力と新興明国の中国勢力との代理戦争ばかりしていた国なのに、その二つだけが徳川オカミによって混合され、近松によって神仏といつに括られてしまった事が原因らしい。
 朝鮮クダラの祖神として河内に祀られていた平野四神が、皇大神となった神道と、建国統一のための舶来宗教の仏教とは、ともに為政者側の宗教であり信仰であったにすぎない。
人口比率からゆけば僅か5%から10%のものなのである。日本列島に先住していた為に、奈良朝時代から被征服民とされ奴隷扱いされてきた九〇%から九五%の者らの信仰は、まったく別個なものである。
 『神祇省』を設立し、諸政一新の明治新政府が、太政官の上においた最高権威の「神祇」こそが日本列島原住民というか先住民たちの建国以前からの心よりの信仰対象そのものなのであった。
 しかも「士農工商」と徳川体制オカミに都合のよいランク付けの法治国にし、使い棄てしてもよい旧被征服民族をランクの枠には入らぬ、江津多と埒外の存在とした。
前足利体制はまだ役に立つ者には、念仏を百万遍唱えさせ阿弥名をつけ、セミ同胞の同朋衆にしたけれど、徳川家光以降は、まったく、騎馬民族系の白ッや、海洋渡来民族の赤の八ッは、
二本脚で歩く人間なのに、四本足の動物なみにしか認めようとはしなかった。
 五代綱吉の神仏混合令にしても、韓神は中国渡来仏教の下に格下げというだけで、まだ寺社奉行支配で神社は保護はしなくとも認定はした。
しかしである。「祗」の方は、「淫祠」「邪教」として徹底弾圧を加え、信者は迫放し宮は破壊しつくした。つまり徳川オカミ公認以外は、すべて抹殺すべしというのが寺社奉行の仕事であった。
徳川家だけが独占輸入の火薬原料の硝石を出島で確保し他は抜け荷で持ちこまぬようにした後は、切支丹伴天連狩りは一切していない。
寺社奉行が厳しく取締まっていたのは、保護せず抹殺したい各庶民信仰そのものであったのが実態なのである。現在それぞれの宗教家が「埋没したカミガミ」とか「匿されたカミ」と掘り出そうとしているのもこれである。
さて厄介なのは、新羅を「白木」とした白山神社や白髭神社といった神社である。本来ならば徳川家からすれば反体制の存在の信仰であるが、京の吉田垂加神道が、上納金をとって、
新羅も朝鮮国ゆえと、庇ったから、江戸期には加賀白山を本社に四千社近く存続した。一方、京では吉田習合神道御本家に直接上納金をいれて、祇園、八坂は、社として残れたものの、
地方ではそうはゆかない。そこで庶民の智恵というか、プレッシャー除けに八幡の藪知らずのような人目につかぬ処へ放置して拝みもしたが、都市では逆手にとって、七福神信仰にしても、
本堂に見せかけの仏像をおいて「寺」という恰好に化けさせて信仰した。つまり「賤」と「草」の祗宮でも「浅草寺」と寺としてしまうような例は、毘沙門さんを初め、限りなく多く、
当時は「知らぬは仏ばかりなり」だったにしても、今では「知らぬは庶民ばかりなり」である。
また、菅原道真を祭った天神(雷神)というのも盛んである。契丹系の道真を、唐系の藤原氏が大宰府へ流し、死なせてしまった。その後天変地異が多発したため、道真の祟りを恐れて、
天満宮へ祭った。藤原氏は大陸系で仏教勢力だから、原住民(サンカ)は反仏で神祇側ゆえ圧迫されていた。
体制側は当時まだ迷信が幅を利かせていたせいで、前記のように祟り除けとして北野天満宮や、湯島天神といった、いわば官製の宮を建てた。
これは拝む対象とは全く違い、サンカたちは道真を拝む「隠し天神」なのである。だからサンカたちは戒めとして、
「通りゃんせ、通りゃんせ。ここはどこの細道じゃ、天神様の細道じゃ、どうか通してくだしゃんせ、・・・・・・行きはよいよい、帰りは恐い・・・・・・・・」の歌で子供の時から用心した。
従って、この歌の意味は「お参りに行くときはバラバラで行っても、帰りは見つけられやすいから、集まって帰ってはならない。」なのである。



サンカ いろは コトツ唄 下駄のほう歯がカルタ札になった

2020-05-16 16:31:55 | 新日本意外史 古代から現代まで


サンカ いろは コトツ唄
 

サンカいろはコトツ(口頭、口伝)唄の由来

下駄のほう歯がカルタ札になった

サンカの現存のイロハ唄は、正月の子供のカルタ遊びのために考案されたものではない。文字を使うと、その痕跡から追補され、殺されるので、
やむを得ず、文字でない音声で伝達をするために考案された悲しい歴史から生まれた。
体制側からの危害にあわぬようにと、戒めに、歌えるような短文で纏め作られたというのが本当のところなのである。
サンカが生き抜くために作り出したのが始まりで、その歴史は古く、契丹系の菅原道真が殺され、祟り除けに太宰府に天満宮が作られたころからである。
それは藤原体制から、反体制の民族として敵視され、見つかり次第問答無用で叩き殺されだした、十世紀ごろになる。
サンカ同族への周知の伝達にと、今の原型は出来ていたらしい。
それは、サンカ族が固まって住んでいた名古屋で纏められ、居付きの商人になった者たちが、西や東に送り込まれたイロハ歌留多は、現在のような紙を張り合わせたものではなくて、木曽産のホウの木の薄板だったのである。
そして、江戸時代のサンカは、職業として下駄の歯入れもしていた。当時、歯入れ板には、足には軽いホウの木を皆使っていた。
しかし下駄の歯には、節目や窪み、年輪が入っていて、折れそうなのは使えぬから、これが銭に換えられる唄板に使ったものらしい。
 つまり当今と違って文政年問から江戸で流行しだした犬棒カルタは、紙板ではなく足駄の歯なみのホウの薄板だったし、関西とてもやはり同じであった。
ということは文字を使わぬサンカのことゆえ、それに何か文字を書きこんで売りさばいたというのでは、決してないのである。
 下駄の歯入れ屋のシノガラ(サンカが村や町に溶け込んで暮らしている状態)が、集まった材料の内から割れがきそうで商売ものにはならぬ歯入れ板のはねだしで、屑として炊きつけにするしかないのを俵につめて玩具問屋へ納入し、
それで得た銭で栗とかヒエといった食物を購い、家族を養っていたであろうとは想像にかたくない。
 問屋ではヒビ入りしかけや、節穴の入った物でも、下駄の歯入れ用に、同じ大きさに揃えてあるし、両面きれいに鉋がかかっているから、明治頃までは「砥の粉」とよぶ白い塗料を両面に塗らして乾かせ、
四十八枚を一組にして、下絵かきの職人や、文字のかける女房連に家内賃仕事で安く内職で仕上げさせ、十二枚ずつで色つき和紙の帯をかけさせ、四段割りに箱入りにした。
 その頃、ザラ紙に武者絵を石版で刷り、古祗再生ボール紙に貼りつけのメンコは、乾いた処を円形の形抜き機にかけて製作するのが、大正年間から需要も増えて従来のものにとって変った。
 ホウの屑板に両面塗ったり、黒くフチ取りし乾かして、文字をかかせて作るカルタより、石版印刷なら五百枚から八百枚は四六四半裁断で刷れるから、ボール紙を裏面にくっつけた物とに変わった

 これなら一刷りで千組ぐらいが短時間にでき、夏の暇な時に取り掛っておけば十一月の初めには、玩具屋の店先にホウの板のカサばって高価なのより、子供のお年玉でかえる、一組二、銭ぐらいなのが、
ずらりと山積みされて安い羽子板や独楽類と共に人量に卸せるようになったからである。
下一色のサンカでは、昭和の初めごろまで、ホウの木を挽いたのを担いできて、歯入れ用に寸法を揃えて切っていたが、節のあるのや傷のついたのを選りわけてはずした物も銭なったという。
 という事は人正の初めは、まだホウ歯には出来ぬ屑板がイロハカルタに使われていた事になる。
(今の人は、下駄など祭りの時ぐらい、それも若い娘が浴衣姿で履くぐらいだが、昭和35年頃まで、子供たちは履いていた。私も、小、中、高と下駄通学だった。
 だから、当時は下駄屋がいくらでも在ったが、鼻緒が切れれば、ボロ布をより合わせて自分で直したものである。また、歩き方が悪いと歯は偏った減り方になる。
 それに気を付けて平均に減らせれば、下駄は長持ちする。大人になってもこの癖は抜けず、靴底の減りは少なく、姿勢もよい。下駄は体にも良い日本人の優れた履物である。)
 といって、文字を絶対に使わぬサンカが、ホウ板カルタ材は玩具問屋へもっていっても、彼らが字を書くわけはないから、サンカかるたというものはないのである。
つまり名古屋のクズシリのカミ(サンカの地方の責任者)が作ったというのは、口伝えで覚えやすい文句だけだろうが、名古屋弁が嫌われていたせいか、その儘は使われてないようである。
それとも地方ごとに文句が換えられたのかも知れぬ。
 なにしろ私としても名古屋の水谷学派の「山入り唄」しか似通ったものは浅学にしてみていない。本を売る為にホッタマフエやウエッフミがサンカのものだとか、焙り出し文字を使っていた、などと出鱈目を書く歴史屋もいるが、
彼らは何度も言うが文字拒否の部族なのである。書き残しなどする筈は全然ない。「本草学」の本にはサンカから聞き書きしたものが書かれている。
日本語の原点 AKASATANA HAMAYARAWA
 さて京都が権力に対して反体制的になったのは、驚くかもしれぬが「新選組」が原因なのである。
彼らは、日本最初の制服集団(赤穂浪士の討人りの、揃いの羽織は芝居の舞台だけのことで、本当は各自思い思いのバラバラの服装だった)として槍、刀、鉄砲で武装し、
三多摩の弾左衛門支配地から出てきた、近藤勇や土方歳三が、壬生の八木源之丞宅は五ヶ月たらずで出てしまったが、その後は西本願がの御本堂脇の会所に陣取った。
そして御公儀を笠にきて、「坊主憎けりや、ケサまで憎い」と放歌高吟して、寺や仏具店ばかりの京を次々と廻り歩き、「……これまで、よくも屍を畜生塚や投げこみ穴へ放りこんできたな、その仇討ちだ、思い知れ」と
隊伍を組んでは、脅かし廻ったのが起因なのである。
その為、昭和になっても共産党の蜷川知事体制が続き、現在でも共産党の勢力が強いのである。
 が、名古屋もんが虐められた歴史は幕末の新選組より古く、八代将軍吉宗の頃から、散々に痛めつけられている。
 その恨みつらみが、文化の頃に現われた犬棒カルタにも、露骨に徳川御政道への、それとなく揶揄し批判を敢てしているものの、西カルタ、つまり大坂、京ものは逆に教訓めいて作られている。
 この両者の差異とサンカ自身のクズシリからムレコ(各地に散らばって住んでいるサンカの家族)達へ、判りやすく伝えるものは、「アヌさん唄」つまり(太陽讃歌)とか、明治中期まではアイウエオではなく、
アカサタナハマヤの横並びが、江戸期から同類音とされていたので、それから取って言いならわしたか、加賀梅鉢衆(加賀の前田家もサンカの為、ここにも集団で住むサンカは、前田家の家紋が梅鉢だから梅鉢衆と呼ばれた)
は、「アカサ唄」といった呼び方をしている。大槻文彦の「言海」からの伊呂波が、昭和三十年からは文部省の義務教育の国語ではA、KA、SA、TA、NA、HA、MA、YA、RA、WAの十音が、俄かに、AIWEOの五母音に変わってしまうのである。
 そもそもアイウエオ五十音図というのは、表音のない則天文字(いま言う漢字)をもって西暦六六四年五月十九日に、奈良王朝の御所を押えた勢力が、建国統一の際に、従来の倭言葉や馬韓語に当てはめて使用させたが、
唯それだけでは、なんとも巧く総てに当てはめにくいからして、「反切」とよぶ中国大陸の音標方式をもってして、テ、二、ヲ、ハ式に、漢字と漢字を繋ぐ接着剤の用途によって生まれたとも言われる。
つまり白文と呼ばれる漢字には一二三の上下天地昇号と、返り点の「レ」の二つしか、訓読するのに使うものがないので、それでは言語統一には、あまりも支障があるので、
漢文では「朝道聞死可」となる処を、「朝ニ道ヲ聞ケバ夕ニ死ストモ可ナリ」といった具合にアイウエオは使われだした。「反切語」となし、天武天皇御即位の西暦六七三年よりとか、トウ学問所で、
後に文教省にあたる西暦八二一年の勧学院が出来てから考案されたものであると、二説すらもある。
 七世紀の大陸政権は唐で、高宗の時代である。のち則天武后となる女傑が妃として当時の今いう当用漢字を、「則天文字」と呼ばしめたばかりの時代である。まだ唐自体が漢字の選定をしていたのである。
 とても器用に、まだ、反切などをもち出してこられるわけはない。常識をもってすれば、なんとかして初めは、返り点と送り点だけで、倭(日本)を教育しようとしたが、なにしろ化(げ)の未開発人種どもゆえ覚えが悪く、
大東亜戦争の時に皇民教育として諺文をやめさせ、強制的に朝鮮半島で日本語を使わせたようには巧くゆかなかった。
そこで統治教育に手をやいた勧学院の先生たちが、なんとかバカでも判るように、反切をもちだしてきたのは九世紀でも末期だろうと思われる。
 しかし、これは、あくまでも従来の官学派の通説が、「平安中期頃に発生」などと決めてかかるのへ、常識をもって反切を解明しただけであって、私のアイウエオ考はまるで違うのである。
 孔子が、「みずから兵を率いて攻めて来たりなば汝らは何んとなす?」と問われると、塾生共が、「はい、謹んで旗をまき、武器を棄て降伏します」と、異口同音に中国大陸を崇拝していた、
儒教万能の江戸期の徳川綱吉以降でさえ、中国よりの「反切」ならば尊重すべきなのに、庶民は、「金釘で引っ掻いたような字を書きやあかって、なんでえ」といった具合に、片仮名は軽蔑していた。
そのくせ平仮名の方となると、[水茎の跡も麗し]と伊呂波の方は遥か段違いに格をつける。しかしである。昭和になってから、泉州堺から輩出したとされる茶道の有名人たちの遺墨展がよく開催される。

が、茶人の手紙は武野紹鴎にしろ千利休でも、みな片仮名であって決して誰一人として、いろはの平仮名は使っていないものが現存している。
これは、泉州はSeNの人々の押しこめの地で(日本先住民でも原住民でもよいが、つまり「先」に住み着いていた日本人の事)七世紀から、大陸勢力が入り込んできて、世変りしてしまった。
だから、大陸から押しつけてきた仏教にかかると「日本先住民」のSeNが賎民、つまり賤しい民族となってしまう。
 つまり日本列島原住民というか先住民たちは賤と差別され、すべて当てはめ則天漢字は、「仙」とか「千」にし、賤は和訓ではシズと発音ゆえに、静岡も仙台と同じ当てはめ文字となる。
浅間、浅草、仙台なども全てSENの発音になる。賤ケ岳の七本槍で有名な羽柴秀吉と柴田勝家の合戦場だが、ここは琵琶湖と余呉湖の中間で400メートルほどのさして険しい山ではない。
ここに先住民が集団で住み着いていたから、賤ケ岳というのである。だから、中国の「反切」という説も、こうなると可笑しくなる。
   徳川家光は男色家だった
江戸時代の学者、熊沢蕃山でさえも堂々と将軍に献言し、「中華や朝鮮の人々は貴種ゆえ、何びとであれ王となれる素質あるも、倭は卑種なれば不可なり」と、
当時は新皇と称するようになった、徳川綱吉に諌言した為に、今いう不敬罪で下総古河に幽閉され後に毒殺されている。
綱吉は三代将軍家光の子である。しかし、器量良しだった側室のお玉の方を家光が見初めて綱吉を生んだのだが、このお玉が問題だった。
 三代将軍家光が上洛のみぎり、京の三条近くでかしこまって居る少女が美少年型なのに目がゆき、そのまま男だと思い込んで、召し抱えて江戸へ戻ってきた。
もちろん、その頃は家光の性癖が、男色一辺倒だったからである。
だから、江戸に連れてきても、その於玉を、女体としては扱わず、もっぱら後尻の方だけを溺愛した。しかし遠くて近きは男女の仲というが、稚児さん用に男として用いられる個所から、
その頃、「前尻」と俗に呼ばれていた女体の秘所とは「蟻の戸渡り」という如く、小指の長さ程の距離もない。だから、ぬるりとつい滑りこんでそちらへ脱線してしまったのか於玉は身寵る事となった。
 「ご寵童代りになさる御坊主役と思い、あまり身許も、よく確かめんと京より召し抱えて参った於玉じゃが、上さまの御種頂戴とあれば、これは放っておけぬ事と相なった」
 当時まだ在世中だった春日局もあわてた。そこで京所司代板倉重宗に命じ、身許調査をさせた。
これがなんと、朝鮮済州島生まれだと判明した。この報告をきいて春日局も狼狽した。
 が、懐妊しているものを今さらどうしようもなく、於玉の親が借りていた京三条木屋町横の長屋の大家で、表通りに店を構えている八百屋久兵衛の娘ということに、ひとまず取り繕ろった。
そして、久兵衛の祖先が武州本荘の出であるというので、「本荘氏」を新しく名のらせ、名も厳めしく「可平次」とした。そして、まさか八百屋の店先で大根を売らせてもおけぬから、取りあえず五百石どりの武士に取りたてた。
そして、於玉は桂昌院となって増々家光の情が深くなり権力も増したため、桂昌院祐筆頭となり、加増され禄高千石御役扶持切米千俵の堂々たる武士になった。
さらに桂昌院の実父と縁続きの男を済州島から呼び寄せ、隆光と名乗らせ、江戸音羽に護国寺を建立し、大伽藍の大和尚としている。
この護国寺は時の権力で支えたから、全国に末寺があり、現在も栄えている。
綱吉は己が生母の於玉の方が済州島の出で、器量良しゆえ京の八百屋の養女となり、父家光に見染められての出生だから、自分は貴種の出であると言い張って、以降は徳川が王となった。
 だから十五代慶喜の時には、大政奉還王政復古(天皇家から取り上げた「王政」を返した)ともなるのである。が江戸期というのは家康秀忠はサンカ系でも、家光、綱吉は仏教系の京の蜷川の春日局の血で、大陸系となる。
しかし吉宗からクダラ系と変ることになる。日本史では隠されているが、日本列島は天武天皇の時代から朝鮮と中国との代理戦争の大戦場であったのが実態なのである。
壬申の乱によってクダラ系は滅ぼされるゆえに、笠井忠氏の「竹取物語の思想的背景」の日本第二学園刊の「教育研究」第九号の論考の33頁にも、壬申の乱の天武側の中華公卿の五名の実名が、はっきりと列記されていて、
作者がクダラ系のせいか、中華公卿たちを卑下して、かぐや姫にふり廻される道化者として描かれている。
後の南北朝合戦にしても、中国の明の代理政権の足利氏(北朝)と、古来よりクダラのコロニーであった三の宮から湊川で南朝側は布陣した。が戦ったのに南朝が敗けてしまったのである。
 つまり壬申の乱の七世紀から江戸期になっても双方の代理として争いの坩堝だった。徳川吉宗からはクダラ系ゆえ、中華系の公卿を軽んじて、公卿たちが東下りの際は、ひとまず京で退官させしまい、
前侍従とか前中納言と無官にして江戸へこさせ、伝奏屋敷へ入れてから将軍が謁見して、今ではクダラ勢力が返り咲き八百万石だぞと、僅か三万石の田舎大名なみのトウ御所をクダラ徳川は散々に見下した。
 
さてここで、ややこしくなるのは、外題でさえ「いろは」とよび、親が「高野の弘法大師の作らせられた四十八字のイロハを教えてやろう」で始まるところの能狂言の一幕なのである。
現代では「幼いころからイロハを習い、イロハ忘れて色ばかり」と、駄洒落のめしているが、イロハはこんな軽いものではないのである。
 最近、新羅古文研究家が、万葉仮名はそもそも新羅個有のもので、クダラ滅亡後も唐に抵抗して頑張ったが亡国となった。そして唐軍に勝利品として持ち去られたのが「新羅郷歌」四千五百首で、その唐語に訳され
た詩から、壬申の乱で殺した連中が、化けて出てきて、祟りをなしたら困ると挽歌として、ずらりと日本向けの人名に変えただけのものなのだ、と発表している。
なお、「万葉集と新羅郷歌」についてはいずれUPする予定です。
 日本人の常識では、まったく判らなくなっていることは、十九世紀にフルトン蒸気船が究明される迄は、船は水中の潮流まかせで動かされ、勝手気儘に運行などはできえなかった事実である。
 
  冬至は唐至 夏至は下至が正しい
                                        
 それにしても伊呂波であるが、空海こと弘法大師という存在は、高野山歴史では、開祖として有難い色々な伝記をこしらえてしまっている。だが十九世紀に、フルトンの蒸気船が発明されて、
船が進みたい方向ヘエンジンの力を借りて動き出せるようになるまでは、日本列鳥に流れてくる海流は、親潮なのである。
それに太平洋岸へ、沖合三十キロを西南からシーベルトというか、水中エスカレーターのように早く流れてきて太平洋へ突き出て抜けていってしまう黒潮暖流がある。
それにフィリピン海溝と堺との問を流れている赤道潮流。四国と今のベトナムとを数日で結ぶ越南海流が日本列島の各所へ流れついたり通っているのである。
したがって、日本から大陸の唐へ流れてゆけるのは、今は冬至と書く唐至(唐に至る)で、毎年冬の東北風の時だけである。その反対に唐から、化物のような人間が住むと見下していた倭へこられるのは、
西南の潮流の夏と決まっているので「外至」と昔は書き、それが発音だけの変な当て字だが「夏至」と称する。夏を「げ」と発音するのは呉音にも漢音にもない。
つまり二年かかって、一往復しかできないのは潮流学では証明されている。
 なのに空海が西暦八百四年の冬に入府し、西暦八百六年の秋に戻ってきたとされる。今でいえばトンボ返りである。
船待ちというか順風待ちを三十日以上とみて、広州海岸から長安の都までの往復も、それくらいかかるとみれば。延べ合計し差引けば、正味二十ヶ月とは滞在していない計算になる。

 中国人で、向こうから鑑真和尚みたいに来だのなら納得できるが、短期間で唐語のヒヤリッグやスピーキングをマスターし、真言密教なるものを会得し、その二世紀後発生の、
契丹文字の伊呂波まで予知能力で覚えてこられるような奇跡が、はたして常識をもってして納得しうるだろうか。
 この裏書は、森田誠吾氏の「伊呂波仮名」の考疑論文にもある。トウを藤と当て字し、御所勢力を握っていた藤原道長が人道した後で、唐が滅び、契丹(日本史では宋)が中国の支配者となってからの西暦十世紀末から、
十一世紀になって伝来したものと、日本の国学者達の研究もほぼ一致しているという。
日清戦役が避けられぬようになってきた明治二十二年の「言海」が、それまで唐制とはいえども、実際は政権交替後の契丹国の伊呂波四十七文字を、かなぐりすてアイウエオ五十音にし、
また大東亜戦争敗戦後、十年目の昭和三十年からはオカミの義務教育が、A、KA、SA、TA、NA、HA、MA、YA、RA、WAが「A」が基礎母音となる処の、十音にGHQ教育指導部が戻した。
 よって今いう処のイロハかるたは、昭和二十年までの産物ということになるのである。もちろん十音の子音による五十音のアイウエオが何処から伝わってきたかは、一切これにふれぬことにされ、
さも昔から立派に存在していた日本国特有な自然発生のものと言語学者たちは恰好づけている。
よく言えば、愛国心の発露であり、悪くいえば彼らの頭脳では探究しえぬ難題だからだろう。

 さて「イロハカルタ」について、現在の通説つまり官学派においては、これを二つに分ける。
だが、京都、中京(名古屋)、江戸の各三都説や、又は、京、大坂、江戸のご三都説に一般はする。
というのは西暦1824年の文政7年に尾張の小山駿亭によって「絵本以呂波戒」が、黄表紙本として木版化され残っているからして三都説の一にもなったのである。
といって、これは尾張サンカのものではない。彼らは文字を使用しないし、反体制のものが事前検閲出版の時代に、黄表紙といえど奉行から許される筈などはない。小山は儒教化したカルタを残しただけである。
 が、ということは名古屋では、口から耳への独得のカルタ言葉が多くの人々に話されていて、小山の耳にも入り、この儘では御公儀に知れてはお咎めを食うと、教訓的な無難なものを版木にしたらしい。
今いうカムフラージュであった。圧政下に喘ぎ、紀州と江戸の双方の台所入り分まで押しつけられていて、搾取されていた名古屋人を、これ以上は苦しめぬようごまかしカルタだろう。
 



万葉集の原点は 新羅郷歌 (注)郷歌(きょうか)とは、新羅時代の朝鮮語の歌謡の事。

2020-05-11 18:26:43 | 新日本意外史 古代から現代まで

天皇陛下と新元号「令和」と歩む新世紀
   万葉集の原点は 新羅郷歌 
(注)郷歌(きょうか)とは、新羅時代の朝鮮語の歌謡の事。

 新元号「令和」の出典は、日本最古の歌集「万葉集」から採用された。元号は記録に残る限りすべて中国の古典(漢籍)から採っており、
日本の古典を典拠とした今回の元号選定について専門家は「思想的に大きな転換」と指摘する。一方、引用部分について有名な漢籍に似た表現もあり
「出典が日本か中国かで分ける意味は小さい」と冷静な受け止めもある。
元号は中国の制度を取り入れたものだが、日本は中国とは別の独自の元号を使ってきた。
だから元号もやっと中国古典から脱却できたと、喜ぶ向きも多い。だが果たして本当だろうか?
以下に万葉集の考察をしてみたい。
結論から先に記す。
一、最初に朝鮮半島の国家、新羅に「新羅郷歌」が在った。
二、唐国が新羅を占領し、新羅郷歌を奪う。
三、これを漢字に書き直し、日本の古典と誤魔化した。

「万葉集の歌は、古代新羅の郷歌そっくりで、驚くほど似ている。ともに漢字(則天文字)を当てはめられて同型である。違いは日本では、万葉仮名といったもので漢字から翻訳し直され、
(まるで日本古来からの独得の伝承のごとく、それぞれ読み人まで、)さももっともらしくつけている。
だが、本来は新羅の郷歌で、朝鮮半島が唐によって、百済がまっ先に占領され、ついで高句麗が、やがて新羅と次々と征服されたので、新羅文字でなくなってしまい唐字(則天文字)の儘で、
さながら唐のもののごとくに、されてしまっているだけの差異である」と、「韓訳万葉集」を、「新羅語の郷歌が唐文字化され、次に日本万葉文字化されたのを、現代の韓国のハングル大衆に還元作用した」
と第一巻を出し、間もなく第二巻、第三巻も出した。韓国人の金思燁が十余年かけて研究したものだという。
かつて彼が大坂外大で講師をしていた事もあるので、副題の恕句の通りに、そのままでとられ、「日本語を知らないハングル世代に、日本の優れた古典文学を知らせたい、といった謳い文句でつられたためか、
昭和60年の山片幡桃賞をうけた。四千五百首にのぼる万葉集のハングル訳が刊行されるとなると、従来のごとく日本人が作ったものの集大成とされている「万葉集」が、
実は新羅を攻略した唐によって戦利品として没取され、その唐訳万葉集が日本へくる占領派遣官吏によって持ちこまれ、万葉仮名と称する新羅文字で、江吏らによって作り換え作業をなさせ、
適当に日本書紀にでてくる名前をそれぞれつけたのが今の本だという真相は酷すぎるのではないか。
(注)「江史部集は太田単行本の写本」
「江吏部集は太田単本の写本」とし下級役人の愚痴話で、作者名のない個人の日記集である。一部紹介すると、
「去年の八月十五日の夜のこと。(下役人として)尾張へ出向し、今年は江州(近江のことで信長が安土城を築いた弁天涯が、額田大キミこと死後は祟りよけに、
天照の大神さまとなされたもうた御方が、野(矢、八)瀬の大原の河原で最後まで、鉄剣部隊に抵抗なされたもうた古戦場近江野洲、エの州と呼ぶ)
そこで漢宮(唐とは書けず、今も唐字とはせず漢宇とするにひとしい)藤原王朝の宮殿のある都の月見もできず、梁(西暦502~557までの中国大陸の国名で、
日本列島へ宣撫のために仏教の伝来が、この梁国の承聖元帝の西暦552のことと日本歴史年表にはある)つまり旅から旅へ転勤させられて、梁園の月も次々の名令に追われて仰げなかったという下賤の身の辛さ。
 「ショウやヒチリキの音声も聞かず」と続くのは、大陸の血を引かない原住民の素状ゆえ、同じ原住民、ハチ部族が多く住む地方へ出向ばかりさせられ、
宮殿で雅楽も拝観できるどころか、近付いて洩れ聞くことも許されなかった、という不満を書き綴っている。

さて、六世紀の頃の馬韓、つまり後の百済より進攻なされた神功さまから、日本列島では今でも「クダラでないクダラヌ(否定語)ヤツ」といった言葉が残っているように、
吾々の御先祖は被征服民として扱われ、もし抵抗などしようものなら、今も東北に残る根蓋みたいに生きながら自分らの手で掘らされた大穴へ次々と突き落され、上から泥をかけられ、
(根は死ゆえ神話では死の世界を、根の国という)降参した者らが、根蓋した土の上を命令通り踏みつけかためさせられた。が、生き埋めにされているのは、親とか子とか夫であるからして、
どうしても力強くは踏みつけられないから、爪先で軽く跳るような恰好だけで奇妙にみえる。これを現在は「はねこ」と云っている。

 ゆえに「東北の三大奇祭」とよばれている地方では世変りした建国統一後は進駐トウ勢力に帰順帰化したクダラ人(今の光州人)の坂上当麻呂の子の田村麿が将軍となって、進攻してきて穴へ生き埋めしたのが、
今では土地の各企業が、自社のPRに坂上田村麿の似顔絵の山車を賑わしく並べて観光名物にして有名になっている。
韓国は、近視眼的な見地から、伊藤博文の日韓併合の植民時代から大東亜戦争終戦までの70年たらずの期間だけの双方に不幸だった具象だけをもって、日本人を加虐者の立場においてだけみる。
 しかし五世紀六世紀の、まだ開発途上国だった昔の日本列島の原住民たちは、片っ端から虫けらのごとく虐殺されてきた歴史が真実であるらしい。 
 身近な最近の事より遡れば建国前から虐待してくれた朝鮮半島の人達の先祖のひどい圧政を何と見ればよいのか。
 建国統一の七世紀以降は百済は、白村江敗戦で祖国喪失してしまった。助命され道案内して日本の御所へ戻ってからは、進駐軍にすべて明け渡して全員が唐に帰順帰化した。
今いう傭兵化された彼ら百済人は八世紀になっても、命令されて吾ら先祖や、在日新羅人や高麗人をも唐に対して彼らの本国がこの当時、まだ徹底抗戦してるゆえ
「蕃族」として討伐された。捕虜となったのは都へ連行され、途中で食を与えるのが惜しいゆえ高値で売れそうもないのは、親子や夫婦でも道の分れにくると情け容赦なく追いたてて棄て殺しに
した時の名残りが、今でも「追分」の地名に残るのだが、その頃に唐は分捕品の新羅郷歌を、「万葉集」として日本列島へもちこみ、派遣進駐軍の後裔の公家によって弘めたものである。
現在、通説となっている、天武天皇、天智天皇兄弟説は嘘である。額田王が絶世の美女ゆえ奪い合ったというのも歴史をロマン化するためデッチあげにすぎない。
万葉集の原歌が、いわゆる万葉仮名とされる契丹文字ではなく、前文はそもそも則天文学の漢字の唐詩だった。
 東京新聞の昭和60年12月4日の朝刊紙上で(万葉集の研究で山片膰桃賞を受けた金思燁73歳)と写真入りで、京城在住の彼の「韓訳万葉集」が日本の研究賞をうけたと報道された。
当人の堂々たるコメントが掲載され、「万葉の歌は古代新羅の郷歌に驚くほど酷似していて、まったく同一のものとしか考えられぬ。日本の万葉集も新羅の郷歌も共に、
漢字で当てはめられている、が、新羅古代文字の形象が日本の万葉仮名とまったく同じだったのです」とまでいう。
 せっかく岩波書店あたりが本背に☆印をつけベストセラーになって、日本では誰もがみな、「吾国古来の文化的遺産」と信じこんでやまなかったものが、新羅の血をひく政権が認め奨励
したかも知れないが、日本で授賞し認められたとなると、これでは明治軍部御用歴史屋らの、「日朝同祖論」が皮肉なことに裏書きにされてしまう。
韓国系出版社やKCIA御用作家は、それでもよいかも知れぬが、各地の万葉集勉強会に出席の御婦人連中はどうなってしまうか。
 漢文が日本における万葉集の原点だとは、足利期の手書本の漢詩集からきている、とは承知をしていた。がシラギの郷歌が、そのまた遡っての原点とまでは、
とても考え及ばなかった不明をはじる想いだが真実とはいえ呆然とせざるをえない。
さて、唐に戦利品として没取され、唐詩化され、それがトゥ王朝にょって日本へ入り、(さも古来よりの、日本人らの歌集のごとき錯覚を与えられ)いまの21世紀の岩波文庫の和訳をよんで、
これを心の糧にしている日本人も、言っては気の毒だが成人した人口の九割はいよう。
「シコの民」の疑問
 「万葉集」の中の大伴家持の、「今日よりは顯えりみなくて大君の醜(シコ)の御楯と出で立つあれは」というのを、シコの民とは何かと引っ掛かった。
昭和の軍国主義の頃、天皇のために出征する軍人は「シコの御盾」として多くが死んでいった事実が在った。
「シコとは飼戸の文字が当てられて、日本海を沿海州や北満北鮮から能登半島や佐渡へ、寒流で流されてきて、突き当り左右に分かれ出雲方面に流された者、一方秋田方面へ入った、
先住の遊牧民族の子孫で、六世紀のナラ時代には課役として牧夫をさせられ、馬飼いゆえ飼戸と侮称されていた」
 と、どうにか解明できるまでには、どの本にも書いてないので独学で40年も解明にかかった。
 飼戸の子らは飼子とよばれ、人買いに売り飛ばされて、シシ舞いと辻で乞食芸をしいられ、娘は山中温泉や片山津へやられたゆえ、白首女つまり飯盛女郎のことを「シシ」とよび、
遊興しすぎたことを「シシ食った報い」といい、頼山陽の伜三樹三郎が「志士」と当て字変えしたということも判ってきた。
そして幕末になると「人斬り」の田中新兵衛や岡田以蔵は、志士の美名に煽動され殺し屋として京へ送りこまれ、捕われると「賤」の者とし獄門首にさらされ維新の下敷に死なされていった。
 さてである。「万葉集が日本のものでなく、新羅の郷歌だった」と明白に京城在住の新羅系の人に暴露されてしまい、あわてて韓国大使館内の芸術院の方に教示を願った処、
「『反歌』とされている(答歌)の形式は、日本建国前からの新羅独得のものであって間違いない」との返事で、改めて岩波版の万葉集四千五百十六首を全部チエックしてみた。
すると驚いた事に、大伴家持の作が、長歌46、短歌432それに旋頭歌や漢詩まで入れると、計480首もある。
 それに大伴家持へと限られたものとみられる贈詩だけでも、他に123首ある。合計すれば六百余。全体の14%をしめている。なおどの別の歌も「大伴家持集」としても別に可笑しくない。
この「大伴氏」というのは、七世紀までは、佐伯、来目、靱部らの中央豪族と戦っていた物部氏と同じ騎馬民族系で、大ムラジとし天智クダラ王朝まで仕えたものの、勢力は天皇家に匹敵する程だった。
だが、天智が父で額田王が実母の大友皇子が弘文帝として即位なされた時、もはや不用なりと進駐勢力が天武さまに換わる壬申の乱のときには、大伴氏は物部氏と共に出兵し奮戦した。
 家持の父の大伴旅人が九州の大宰帥で死んだ後だが、家持は大伴眸子の子の望多や弟の吹負と共に、大和を確保し難波まで進攻、天武さまの御為に一族の多くを討死させ忠義を尽した。
 よって天武即位後は軍事大臣として世変りしても仕えられるようになった。が新体制が、騎馬系を蕃族とみて弾圧の時代になると、「続日本記」にもあるように、
応天門の変のでっちあげで大伴家持の曾孫の伴善男が罰せられ配流処分となって、これで大伴嫡流は廃絶し消えてしまう。
……と「日本書紀」ではなっているが、真実は家持は弘文帝派らしい。九世紀の西暦876年に歿した大友ノ黒主が、六歌仙の一人として「古今集」にも集録されているゆえに、
さも彼の祖先が大伴家持でもあったかのように、その妻坂上大嬢の母となす大伴坂上郎女の84首までも加えている。これは大友ノ黒主が生きていた貞観元年の西暦859年より、38年前に、藤原冬嗣が、
 「勧学院」とよぶ文書所というか内閣修史局みたいな建物を作っている。しかし、建物が建っても教授連が、年一回の夏に吹く季節風に乗らなければ日本には来れない。
それまでは仕事にならないのでまっ先に作成したのは日本書紀の編纂だったから、「新羅万葉集」も、まさか新羅郷歌の内容の儘では漢詩集としても恰好がつかぬ
から、壬申の乱で滅ぼした者らが祟らぬようにとの挽歌とし、壬申の乱後に岡山の奴可へ移し、阿波の岩窟へ逃げたもうたのを、書紀では「天の岩戸」となしてしまった額田のおおきみを、
神話では天照さまにした埋め合せに、歌人にしてしまい、しかも意味深重に、その112番には「いにしへに恋ふらむ鳥は、ほととぎす、けだしや鳴きし吾が思へるごと」、
つまり「鳥」とか「雲」というのは額田系の太平洋沿岸に漂着した民族をさす枕言葉みたいなものゆえ、その歌の意味は、
「その昔の八の民族だけが押さえていた頃のことを懐しく忍べば……鳴いて血をはくホトトギスが、さえずるごとく、私としては想いもする」と皮肉ったり、
さらには「天離る夷の荒野」とまで、ずばり天の王朝を、夷として歌っている。
唐が持ち去った証拠
 岩波文庫版万葉集は、北条時代の文永十年八月八日に書写終了したものだ、と、初めに書いておきながら、権律師仙覚が、その七年前の「文永三年八月十八日」と明記の奥付を堂々とつけて、
余白にその矛盾についての説明もされていない。そして南北朝和議の西暦一二五二年の文和二年に、また権ノ僧都成俊の記入名を入れ、編者は、
江戸時代の徳川家光の寛永20年に京三条寺町の安田十兵衛新刊と、下巻の終りには、続けて附記して、さも代々にわたって伝承のごとくする。
 しかし江戸時代の版木本でも、それ以前の筆写本にしても、まったく正確を期さない御国柄ゆえ「将門記」の例をみても、奥付は承徳三年つまり酉暦千九九となっている。
だが、この将門記実は17世紀末の徳川綱吉が、自分が新皇だと自称のため著述だと、荻生徂徠門下の子孫が、大給に同書の下書き原稿を保存しているのが判って、七世紀のゴマ化しが歴然とした。
都の呼称「京帥」の間違い
 埋蔵品が日本で発掘されるとみな日本製とし、日本に在住すれば、王貞二のように、日本国民栄誉賞の第一回授与も、申国籍でも日本にいる者は該当だとしてしまい、
世界は一つ人類はみな兄弟の素晴しい国が日本である。
 新羅の郷歌でも、唐の勢力が勝利品とし奪えば「唐葉集」にされてしまい、倭国へ持ちこめば、古来より天孫民族支配の日本書紀に内容を合わせるため建国時に処分した、
海洋渡来民族や、騎馬民族の鎮魂歇集にしてしまう。
 「頭隠してシリカクサズ」というが、当初の倭文章化に唐詩にしたのを訳する際に、夏の潮流で渡ってきたばかりで、唐本国では出世の見込みが望めぬ連中ゆえ、色々と判らぬのも当然だが、
もっと不可解な誤りを処々している。ミスツているのである。例えば第167句目の長歌に、
 「天の河原に八百万、千万神」と始めにでてくるのを、ヤオヨロズ、チヨロズとしてしまうが、ヤは額田王ら太平洋岸海洋民族で発声が八母音ゆえ可だが、
千はチヨではなく干昌夫のSenなのを間違っている。
このSenでなくては、のち四つ足の獣を扱うからと、「四ツ」とされる白山や住吉系ゆえ可笑しい。神亀五年戊辰(西暦七二八年)大伴家持の父の旅人が作ったという「京師なる荒れたる家に」の、
第四百四十句のごときは、平安京の名前が、京師となったのは万葉集編纂の六十八年後の西暦七百九十四年の話である。
 それを「平城」つまり奈良が、大和朝廷の首都だった時代にするのゆえ飛んだ間違いである。勧学院の建物ができ、筆生が仕事をしていた頃の都は「京師」であったことに違いはない。
が第四二六十句の「大君は神にしませば、赤駒の腹ばう田居を京師となしつつ」も、これまた事実相違である。
壬申の乱によって、クダラ系天智さまの歿後に第一皇継者の大友皇子が即位されるや追い落し、換った天武さまの御所の時は、まだ京師でなく奈良が首都だったのである。
 四十六の防門で囲れた新京が山城に設営されたのは、天武即位より一世紀余、つまり百二十一年後のことなのである。
さらに、その俄作りのための誤りより気になるのは上の歌の「赤駒」の二文字である。
この意味は赤とは後の平氏になる海洋渡来民族。駒は馬を伴って日本海より入ってきたの遊牧民(騎馬民族)の事。つまり被征服民共が潜伏していたという事を指す。
だからこの歌の意味は、唐系の天皇を、神のごとき慈悲深いと宣伝して、海洋渡来系、騎馬民族系の原住民共が抵抗していたが許して、ここを都となしたのである、
という唐系政権の正統性を歌ったものである。
こうした、唐から流れてきた、下っ端役人の筆生は、至る所で間違いを犯している。大体、当時は未開発地域だった日本列島へ、向こうで一流の人間など来る筈がない。
食いつめ者か一旗組と決まっている。世界文化史的に見ても、高い文化の国に影響を受けるのは当然で、その下風に立って卑下することなどなく、恥ずべきことではない。
受け入れた文化は、風土寒暖や民度によって咀嚼され、その国独自の文化を開花させるのである。
それが複合民族である、日本民族の優秀さの所以なのであり、誇るべき特質でもある。
だから、異論はあっても新元号令和を素直に受け入れ、日本民族は一致団結して新しい天皇陛下と共に、新しい時代に進まなければならないのである。
後記と余談
例えば大伴家持作とされる第四七八の、
「かけまくも、あやにかしこし、わがおおきみ、みこのみこと。もののふの八十(やそ)伴の男を召し集へ」の他にも「八十」を「やそ」と読ませる歌は他にもあり、
第四千百の大伴家持作も、「もののふの八十氏人も、吉野川絶ゆることなく仕えつつ見む」同じく第四一四三にもある。
 「もののふの八十を、とめちがくみ、まがう寺井の上の、かたかごの花」とも間違えられている。
 つまり、こうした誤りでも今の万葉集が適当に読みびと当てはめている、偽物とは裏付けられる。
つまり飛鳥時代か神話時代か判然とはしないが、アナヒーターの水の女神を奉じたり、アルファダの火神を奉じた民が、海流に乗って渡ってきて権力を持った時。
それより古くから既住していたエの民は統合され支配下に入っただろうし、騎馬系が裏日本から入ってきた時もそのまま弾圧はされなかった。
しかし、奈良王朝に続き藤原王朝になると、彼ら「ヤ」のつく海洋渡来民族も一緒くたにされ蛮族とされ、反体制の民とされてしまい、エビス、エベツ、エゾと総称されてしまった。
とはいえ、日本列島に進駐してきた藤原氏を一とすれば、このエゾは数万倍の割合で先住していた同じような黄色人種なのです。
「初春の、はつねの今日の玉ぼうき」と<万葉集>に大伴家持の歌があります。「初音」と当て字をしますが、【子(ね)日宴・ねの日遊び】と呼んで、
 野辺で小松の根を引き抜く酒宴が御所には在りました。これは大国主命が根の国へ追われたという神話からで、反抗してまつろわぬ根の者を、根本より根絶やしにすべし、という挽歌です。  
また、万葉集にも遊女は出ていて、「凡有者左毛右毛将為乎恐跡 振痛袖乎忍而有香聞」(オホナラバ カモカモセンヲ カシコミテ フリタキソデヲ シノビテアルカモ)
と天平二年(730)に太宰帥大伴卿が九州へ戻って行くのを遊女が名残を惜しんだ歌がある。
これを俗っぽく判りやすく訳すと、
「 私は左の毛右の毛をこすりあわせてカモカモしたいのを、おおみことのりを恐れかしこみ、私は袖を振るのさえ忍んで見送る。アモーレアモーレ、アモーレミヨと(おお、私の可愛い人よ)」
という、そのものずばり遊女の相聞歌になり、これが後年の「チンチンカモカモ」の語源であるとされている。