天皇陛下と新元号「令和」と歩む新世紀
万葉集の原点は 新羅郷歌
(注)郷歌(きょうか)とは、新羅時代の朝鮮語の歌謡の事。
新元号「令和」の出典は、日本最古の歌集「万葉集」から採用された。元号は記録に残る限りすべて中国の古典(漢籍)から採っており、
日本の古典を典拠とした今回の元号選定について専門家は「思想的に大きな転換」と指摘する。一方、引用部分について有名な漢籍に似た表現もあり
「出典が日本か中国かで分ける意味は小さい」と冷静な受け止めもある。
元号は中国の制度を取り入れたものだが、日本は中国とは別の独自の元号を使ってきた。
だから元号もやっと中国古典から脱却できたと、喜ぶ向きも多い。だが果たして本当だろうか?
以下に万葉集の考察をしてみたい。
結論から先に記す。
一、最初に朝鮮半島の国家、新羅に「新羅郷歌」が在った。
二、唐国が新羅を占領し、新羅郷歌を奪う。
三、これを漢字に書き直し、日本の古典と誤魔化した。
「万葉集の歌は、古代新羅の郷歌そっくりで、驚くほど似ている。ともに漢字(則天文字)を当てはめられて同型である。違いは日本では、万葉仮名といったもので漢字から翻訳し直され、
(まるで日本古来からの独得の伝承のごとく、それぞれ読み人まで、)さももっともらしくつけている。
だが、本来は新羅の郷歌で、朝鮮半島が唐によって、百済がまっ先に占領され、ついで高句麗が、やがて新羅と次々と征服されたので、新羅文字でなくなってしまい唐字(則天文字)の儘で、
さながら唐のもののごとくに、されてしまっているだけの差異である」と、「韓訳万葉集」を、「新羅語の郷歌が唐文字化され、次に日本万葉文字化されたのを、現代の韓国のハングル大衆に還元作用した」
と第一巻を出し、間もなく第二巻、第三巻も出した。韓国人の金思燁が十余年かけて研究したものだという。
かつて彼が大坂外大で講師をしていた事もあるので、副題の恕句の通りに、そのままでとられ、「日本語を知らないハングル世代に、日本の優れた古典文学を知らせたい、といった謳い文句でつられたためか、
昭和60年の山片幡桃賞をうけた。四千五百首にのぼる万葉集のハングル訳が刊行されるとなると、従来のごとく日本人が作ったものの集大成とされている「万葉集」が、
実は新羅を攻略した唐によって戦利品として没取され、その唐訳万葉集が日本へくる占領派遣官吏によって持ちこまれ、万葉仮名と称する新羅文字で、江吏らによって作り換え作業をなさせ、
適当に日本書紀にでてくる名前をそれぞれつけたのが今の本だという真相は酷すぎるのではないか。
(注)「江史部集は太田単行本の写本」
「江吏部集は太田単本の写本」とし下級役人の愚痴話で、作者名のない個人の日記集である。一部紹介すると、
「去年の八月十五日の夜のこと。(下役人として)尾張へ出向し、今年は江州(近江のことで信長が安土城を築いた弁天涯が、額田大キミこと死後は祟りよけに、
天照の大神さまとなされたもうた御方が、野(矢、八)瀬の大原の河原で最後まで、鉄剣部隊に抵抗なされたもうた古戦場近江野洲、エの州と呼ぶ)
そこで漢宮(唐とは書けず、今も唐字とはせず漢宇とするにひとしい)藤原王朝の宮殿のある都の月見もできず、梁(西暦502~557までの中国大陸の国名で、
日本列島へ宣撫のために仏教の伝来が、この梁国の承聖元帝の西暦552のことと日本歴史年表にはある)つまり旅から旅へ転勤させられて、梁園の月も次々の名令に追われて仰げなかったという下賤の身の辛さ。
「ショウやヒチリキの音声も聞かず」と続くのは、大陸の血を引かない原住民の素状ゆえ、同じ原住民、ハチ部族が多く住む地方へ出向ばかりさせられ、
宮殿で雅楽も拝観できるどころか、近付いて洩れ聞くことも許されなかった、という不満を書き綴っている。
さて、六世紀の頃の馬韓、つまり後の百済より進攻なされた神功さまから、日本列島では今でも「クダラでないクダラヌ(否定語)ヤツ」といった言葉が残っているように、
吾々の御先祖は被征服民として扱われ、もし抵抗などしようものなら、今も東北に残る根蓋みたいに生きながら自分らの手で掘らされた大穴へ次々と突き落され、上から泥をかけられ、
(根は死ゆえ神話では死の世界を、根の国という)降参した者らが、根蓋した土の上を命令通り踏みつけかためさせられた。が、生き埋めにされているのは、親とか子とか夫であるからして、
どうしても力強くは踏みつけられないから、爪先で軽く跳るような恰好だけで奇妙にみえる。これを現在は「はねこ」と云っている。
ゆえに「東北の三大奇祭」とよばれている地方では世変りした建国統一後は進駐トウ勢力に帰順帰化したクダラ人(今の光州人)の坂上当麻呂の子の田村麿が将軍となって、進攻してきて穴へ生き埋めしたのが、
今では土地の各企業が、自社のPRに坂上田村麿の似顔絵の山車を賑わしく並べて観光名物にして有名になっている。
韓国は、近視眼的な見地から、伊藤博文の日韓併合の植民時代から大東亜戦争終戦までの70年たらずの期間だけの双方に不幸だった具象だけをもって、日本人を加虐者の立場においてだけみる。
しかし五世紀六世紀の、まだ開発途上国だった昔の日本列島の原住民たちは、片っ端から虫けらのごとく虐殺されてきた歴史が真実であるらしい。
身近な最近の事より遡れば建国前から虐待してくれた朝鮮半島の人達の先祖のひどい圧政を何と見ればよいのか。
建国統一の七世紀以降は百済は、白村江敗戦で祖国喪失してしまった。助命され道案内して日本の御所へ戻ってからは、進駐軍にすべて明け渡して全員が唐に帰順帰化した。
今いう傭兵化された彼ら百済人は八世紀になっても、命令されて吾ら先祖や、在日新羅人や高麗人をも唐に対して彼らの本国がこの当時、まだ徹底抗戦してるゆえ
「蕃族」として討伐された。捕虜となったのは都へ連行され、途中で食を与えるのが惜しいゆえ高値で売れそうもないのは、親子や夫婦でも道の分れにくると情け容赦なく追いたてて棄て殺しに
した時の名残りが、今でも「追分」の地名に残るのだが、その頃に唐は分捕品の新羅郷歌を、「万葉集」として日本列島へもちこみ、派遣進駐軍の後裔の公家によって弘めたものである。
現在、通説となっている、天武天皇、天智天皇兄弟説は嘘である。額田王が絶世の美女ゆえ奪い合ったというのも歴史をロマン化するためデッチあげにすぎない。
万葉集の原歌が、いわゆる万葉仮名とされる契丹文字ではなく、前文はそもそも則天文学の漢字の唐詩だった。
東京新聞の昭和60年12月4日の朝刊紙上で(万葉集の研究で山片膰桃賞を受けた金思燁73歳)と写真入りで、京城在住の彼の「韓訳万葉集」が日本の研究賞をうけたと報道された。
当人の堂々たるコメントが掲載され、「万葉の歌は古代新羅の郷歌に驚くほど酷似していて、まったく同一のものとしか考えられぬ。日本の万葉集も新羅の郷歌も共に、
漢字で当てはめられている、が、新羅古代文字の形象が日本の万葉仮名とまったく同じだったのです」とまでいう。
せっかく岩波書店あたりが本背に☆印をつけベストセラーになって、日本では誰もがみな、「吾国古来の文化的遺産」と信じこんでやまなかったものが、新羅の血をひく政権が認め奨励
したかも知れないが、日本で授賞し認められたとなると、これでは明治軍部御用歴史屋らの、「日朝同祖論」が皮肉なことに裏書きにされてしまう。
韓国系出版社やKCIA御用作家は、それでもよいかも知れぬが、各地の万葉集勉強会に出席の御婦人連中はどうなってしまうか。
漢文が日本における万葉集の原点だとは、足利期の手書本の漢詩集からきている、とは承知をしていた。がシラギの郷歌が、そのまた遡っての原点とまでは、
とても考え及ばなかった不明をはじる想いだが真実とはいえ呆然とせざるをえない。
さて、唐に戦利品として没取され、唐詩化され、それがトゥ王朝にょって日本へ入り、(さも古来よりの、日本人らの歌集のごとき錯覚を与えられ)いまの21世紀の岩波文庫の和訳をよんで、
これを心の糧にしている日本人も、言っては気の毒だが成人した人口の九割はいよう。
「シコの民」の疑問
「万葉集」の中の大伴家持の、「今日よりは顯えりみなくて大君の醜(シコ)の御楯と出で立つあれは」というのを、シコの民とは何かと引っ掛かった。
昭和の軍国主義の頃、天皇のために出征する軍人は「シコの御盾」として多くが死んでいった事実が在った。
「シコとは飼戸の文字が当てられて、日本海を沿海州や北満北鮮から能登半島や佐渡へ、寒流で流されてきて、突き当り左右に分かれ出雲方面に流された者、一方秋田方面へ入った、
先住の遊牧民族の子孫で、六世紀のナラ時代には課役として牧夫をさせられ、馬飼いゆえ飼戸と侮称されていた」
と、どうにか解明できるまでには、どの本にも書いてないので独学で40年も解明にかかった。
飼戸の子らは飼子とよばれ、人買いに売り飛ばされて、シシ舞いと辻で乞食芸をしいられ、娘は山中温泉や片山津へやられたゆえ、白首女つまり飯盛女郎のことを「シシ」とよび、
遊興しすぎたことを「シシ食った報い」といい、頼山陽の伜三樹三郎が「志士」と当て字変えしたということも判ってきた。
そして幕末になると「人斬り」の田中新兵衛や岡田以蔵は、志士の美名に煽動され殺し屋として京へ送りこまれ、捕われると「賤」の者とし獄門首にさらされ維新の下敷に死なされていった。
さてである。「万葉集が日本のものでなく、新羅の郷歌だった」と明白に京城在住の新羅系の人に暴露されてしまい、あわてて韓国大使館内の芸術院の方に教示を願った処、
「『反歌』とされている(答歌)の形式は、日本建国前からの新羅独得のものであって間違いない」との返事で、改めて岩波版の万葉集四千五百十六首を全部チエックしてみた。
すると驚いた事に、大伴家持の作が、長歌46、短歌432それに旋頭歌や漢詩まで入れると、計480首もある。
それに大伴家持へと限られたものとみられる贈詩だけでも、他に123首ある。合計すれば六百余。全体の14%をしめている。なおどの別の歌も「大伴家持集」としても別に可笑しくない。
この「大伴氏」というのは、七世紀までは、佐伯、来目、靱部らの中央豪族と戦っていた物部氏と同じ騎馬民族系で、大ムラジとし天智クダラ王朝まで仕えたものの、勢力は天皇家に匹敵する程だった。
だが、天智が父で額田王が実母の大友皇子が弘文帝として即位なされた時、もはや不用なりと進駐勢力が天武さまに換わる壬申の乱のときには、大伴氏は物部氏と共に出兵し奮戦した。
家持の父の大伴旅人が九州の大宰帥で死んだ後だが、家持は大伴眸子の子の望多や弟の吹負と共に、大和を確保し難波まで進攻、天武さまの御為に一族の多くを討死させ忠義を尽した。
よって天武即位後は軍事大臣として世変りしても仕えられるようになった。が新体制が、騎馬系を蕃族とみて弾圧の時代になると、「続日本記」にもあるように、
応天門の変のでっちあげで大伴家持の曾孫の伴善男が罰せられ配流処分となって、これで大伴嫡流は廃絶し消えてしまう。
……と「日本書紀」ではなっているが、真実は家持は弘文帝派らしい。九世紀の西暦876年に歿した大友ノ黒主が、六歌仙の一人として「古今集」にも集録されているゆえに、
さも彼の祖先が大伴家持でもあったかのように、その妻坂上大嬢の母となす大伴坂上郎女の84首までも加えている。これは大友ノ黒主が生きていた貞観元年の西暦859年より、38年前に、藤原冬嗣が、
「勧学院」とよぶ文書所というか内閣修史局みたいな建物を作っている。しかし、建物が建っても教授連が、年一回の夏に吹く季節風に乗らなければ日本には来れない。
それまでは仕事にならないのでまっ先に作成したのは日本書紀の編纂だったから、「新羅万葉集」も、まさか新羅郷歌の内容の儘では漢詩集としても恰好がつかぬ
から、壬申の乱で滅ぼした者らが祟らぬようにとの挽歌とし、壬申の乱後に岡山の奴可へ移し、阿波の岩窟へ逃げたもうたのを、書紀では「天の岩戸」となしてしまった額田のおおきみを、
神話では天照さまにした埋め合せに、歌人にしてしまい、しかも意味深重に、その112番には「いにしへに恋ふらむ鳥は、ほととぎす、けだしや鳴きし吾が思へるごと」、
つまり「鳥」とか「雲」というのは額田系の太平洋沿岸に漂着した民族をさす枕言葉みたいなものゆえ、その歌の意味は、
「その昔の八の民族だけが押さえていた頃のことを懐しく忍べば……鳴いて血をはくホトトギスが、さえずるごとく、私としては想いもする」と皮肉ったり、
さらには「天離る夷の荒野」とまで、ずばり天の王朝を、夷として歌っている。
唐が持ち去った証拠
岩波文庫版万葉集は、北条時代の文永十年八月八日に書写終了したものだ、と、初めに書いておきながら、権律師仙覚が、その七年前の「文永三年八月十八日」と明記の奥付を堂々とつけて、
余白にその矛盾についての説明もされていない。そして南北朝和議の西暦一二五二年の文和二年に、また権ノ僧都成俊の記入名を入れ、編者は、
江戸時代の徳川家光の寛永20年に京三条寺町の安田十兵衛新刊と、下巻の終りには、続けて附記して、さも代々にわたって伝承のごとくする。
しかし江戸時代の版木本でも、それ以前の筆写本にしても、まったく正確を期さない御国柄ゆえ「将門記」の例をみても、奥付は承徳三年つまり酉暦千九九となっている。
だが、この将門記実は17世紀末の徳川綱吉が、自分が新皇だと自称のため著述だと、荻生徂徠門下の子孫が、大給に同書の下書き原稿を保存しているのが判って、七世紀のゴマ化しが歴然とした。
都の呼称「京帥」の間違い
埋蔵品が日本で発掘されるとみな日本製とし、日本に在住すれば、王貞二のように、日本国民栄誉賞の第一回授与も、申国籍でも日本にいる者は該当だとしてしまい、
世界は一つ人類はみな兄弟の素晴しい国が日本である。
新羅の郷歌でも、唐の勢力が勝利品とし奪えば「唐葉集」にされてしまい、倭国へ持ちこめば、古来より天孫民族支配の日本書紀に内容を合わせるため建国時に処分した、
海洋渡来民族や、騎馬民族の鎮魂歇集にしてしまう。
「頭隠してシリカクサズ」というが、当初の倭文章化に唐詩にしたのを訳する際に、夏の潮流で渡ってきたばかりで、唐本国では出世の見込みが望めぬ連中ゆえ、色々と判らぬのも当然だが、
もっと不可解な誤りを処々している。ミスツているのである。例えば第167句目の長歌に、
「天の河原に八百万、千万神」と始めにでてくるのを、ヤオヨロズ、チヨロズとしてしまうが、ヤは額田王ら太平洋岸海洋民族で発声が八母音ゆえ可だが、
千はチヨではなく干昌夫のSenなのを間違っている。
このSenでなくては、のち四つ足の獣を扱うからと、「四ツ」とされる白山や住吉系ゆえ可笑しい。神亀五年戊辰(西暦七二八年)大伴家持の父の旅人が作ったという「京師なる荒れたる家に」の、
第四百四十句のごときは、平安京の名前が、京師となったのは万葉集編纂の六十八年後の西暦七百九十四年の話である。
それを「平城」つまり奈良が、大和朝廷の首都だった時代にするのゆえ飛んだ間違いである。勧学院の建物ができ、筆生が仕事をしていた頃の都は「京師」であったことに違いはない。
が第四二六十句の「大君は神にしませば、赤駒の腹ばう田居を京師となしつつ」も、これまた事実相違である。
壬申の乱によって、クダラ系天智さまの歿後に第一皇継者の大友皇子が即位されるや追い落し、換った天武さまの御所の時は、まだ京師でなく奈良が首都だったのである。
四十六の防門で囲れた新京が山城に設営されたのは、天武即位より一世紀余、つまり百二十一年後のことなのである。
さらに、その俄作りのための誤りより気になるのは上の歌の「赤駒」の二文字である。
この意味は赤とは後の平氏になる海洋渡来民族。駒は馬を伴って日本海より入ってきたの遊牧民(騎馬民族)の事。つまり被征服民共が潜伏していたという事を指す。
だからこの歌の意味は、唐系の天皇を、神のごとき慈悲深いと宣伝して、海洋渡来系、騎馬民族系の原住民共が抵抗していたが許して、ここを都となしたのである、
という唐系政権の正統性を歌ったものである。
こうした、唐から流れてきた、下っ端役人の筆生は、至る所で間違いを犯している。大体、当時は未開発地域だった日本列島へ、向こうで一流の人間など来る筈がない。
食いつめ者か一旗組と決まっている。世界文化史的に見ても、高い文化の国に影響を受けるのは当然で、その下風に立って卑下することなどなく、恥ずべきことではない。
受け入れた文化は、風土寒暖や民度によって咀嚼され、その国独自の文化を開花させるのである。
それが複合民族である、日本民族の優秀さの所以なのであり、誇るべき特質でもある。
だから、異論はあっても新元号令和を素直に受け入れ、日本民族は一致団結して新しい天皇陛下と共に、新しい時代に進まなければならないのである。
後記と余談
例えば大伴家持作とされる第四七八の、
「かけまくも、あやにかしこし、わがおおきみ、みこのみこと。もののふの八十(やそ)伴の男を召し集へ」の他にも「八十」を「やそ」と読ませる歌は他にもあり、
第四千百の大伴家持作も、「もののふの八十氏人も、吉野川絶ゆることなく仕えつつ見む」同じく第四一四三にもある。
「もののふの八十を、とめちがくみ、まがう寺井の上の、かたかごの花」とも間違えられている。
つまり、こうした誤りでも今の万葉集が適当に読みびと当てはめている、偽物とは裏付けられる。
つまり飛鳥時代か神話時代か判然とはしないが、アナヒーターの水の女神を奉じたり、アルファダの火神を奉じた民が、海流に乗って渡ってきて権力を持った時。
それより古くから既住していたエの民は統合され支配下に入っただろうし、騎馬系が裏日本から入ってきた時もそのまま弾圧はされなかった。
しかし、奈良王朝に続き藤原王朝になると、彼ら「ヤ」のつく海洋渡来民族も一緒くたにされ蛮族とされ、反体制の民とされてしまい、エビス、エベツ、エゾと総称されてしまった。
とはいえ、日本列島に進駐してきた藤原氏を一とすれば、このエゾは数万倍の割合で先住していた同じような黄色人種なのです。
「初春の、はつねの今日の玉ぼうき」と<万葉集>に大伴家持の歌があります。「初音」と当て字をしますが、【子(ね)日宴・ねの日遊び】と呼んで、
野辺で小松の根を引き抜く酒宴が御所には在りました。これは大国主命が根の国へ追われたという神話からで、反抗してまつろわぬ根の者を、根本より根絶やしにすべし、という挽歌です。
また、万葉集にも遊女は出ていて、「凡有者左毛右毛将為乎恐跡 振痛袖乎忍而有香聞」(オホナラバ カモカモセンヲ カシコミテ フリタキソデヲ シノビテアルカモ)
と天平二年(730)に太宰帥大伴卿が九州へ戻って行くのを遊女が名残を惜しんだ歌がある。
これを俗っぽく判りやすく訳すと、
「 私は左の毛右の毛をこすりあわせてカモカモしたいのを、おおみことのりを恐れかしこみ、私は袖を振るのさえ忍んで見送る。アモーレアモーレ、アモーレミヨと(おお、私の可愛い人よ)」
という、そのものずばり遊女の相聞歌になり、これが後年の「チンチンカモカモ」の語源であるとされている。