イロハ歌留多から見える日本史の真実
『芋の煮えたの御存じなく』
『鰯の頭も信心柄(からではなく、がらが正しい)』
『五木ひろしが売れた訳』
『五木の子守歌』の謎
芋の煮えたの・・・・・この唄は、
八代将軍吉宗が、芋学者と呼ばれる青木昆陽に命じ、小石川薬園で栽培した種芋を関八州に栽培させ、ついで東北から西国ににも広めさせた。
処が享保十七年夏から、関西から九州へかけて、イナゴの大群が発生して、収穫前の稲穂を殆んど食い荒し大凶作となったことがあった。
だから、江戸表にも西国より回送米は送られてこず、米価は、うなぎ昇りになって、町民は一升買いしたくも、辛うじて十分の一の一合しか人手できぬ有様となった。
「唐芋」つまりカライモと呼ばれた今の薩摩芋は、稲と違って地下根ゆえ、イナゴに地上の葉は食われても助かったので、どっと江戸へも出荷されてきた。
処が、まだ十八世紀には「焼芋」は考案されていなくて、米の購えぬ庶民は、芋を蒸かすことも知らず、これを鍋で煮て食事にした。
つまり大身の侍とか、オカミ御用達の政商や町役、町おとなの表通りに住む富裕な者たちはコメが買えて芋など食さなかったが、
貧乏人共は仕方なく食した。だから自分たちは「好んで食うわけではないが、これしか口に入れて腹のたしにするものはない」と言うので、
自嘲気味に米飯をくえる人間へ負け惜しみに口にしたのがこの唄なのである。
もちろん侍といっても下級武士は町人と同じように貧乏だったから芋を食した。だから、普段は侍だというだけで威張っていた彼らへの当てつけで、
「イモ侍」といった蔑称もこれから生まれたし、黄表紙本にも、繊維質の芋を食したため、腸内にガスがたまり、「放庇」がよく出るようにもなったのである。
関西では、「鰯の頭も、信心柄(がら)」というのがある。
何で生臭い魚の鰯の頭と仏教信心が関係あるのかと、首を傾げたくなる。
しかし、考えれば、あらゆる仏教の御本山は殆んど関西だし、神道とよばれる韓神(カラガミ)さまの御本社も、京阪大和の奈良から近畿四国にかたまっている。
それゆえ西の筋からなのかとも考えられる。
「有難やの有難や」とか「みたまに恐れ謹しみ、かしこみかしこみ」と拝む御神体やご本尊がある。
この勿体ながって祈る対象物が、何処でも秘宝とされていて絶対に他見はさせぬものである。
「寺」では、仏像というのを御本堂に安置して拝ませているから、まあ眼にみえて合掌することができる
だが、韓神さまの方は祭殿とよぶ御本堂にあたる建物正面には、何処も御簾がたれ下っていて、
「何ものが、おわしますかは知らねども、ただ有難さに涙ぞ流れる」とは、有名な歌である。
つまり信心というのは、心から信仰するのゆえ、好奇心をもってステッキの先で御簾にふれたりしては、薩摩人の文部大臣森有礼でさえ、不敬なりと壮士に暗殺の口実を与えてしまう。
処が、金目のものなら頂いてしまおうと、不心得者が忍びこんで御簾の裹へ入りこめば、殆んどが物置なみに箱が積まれているだけで、
恭々しく拝む御神体は、石ころ位でしか有りえなかったのが実態だった。
さて東は銚子沖が黒潮で流されてくる鰯の本場だが、西でも阿字浦あたりでも肥料にする程に鰯はとれる。
だから生乾しの乾鰯にしても、沢山とれて安価ゆえ、誰も頭などは食さない。
これが鰺なら頭でも猫が食するが。固くなった乾鰯の頭では猫も敬遠しがちで棄てられてしまう。
つまり塵芥箱に放られるような何の値もない物でも、御簾の後ろに置かれておれば、お賽銭をあげて三拝九拝して、家内安全とか、合格祈願を拝礼するのであると、きわめてシニカルなものであり、
「知らぬが仏」というのと同義語みたいな、まあ無神論者の言であろう。
といっても「一民族は一宗教」というのが世界の通説なのに、日本では、中国からの仏教、韓国よりの神道、西南海洋波来の四方拝があり、
今では拝火教と誤るものもいて、これが火祭りの密教にも変化している。
大和民族は「単一民族」だと、学校歴史では教えてくれるが、幕末までの日本は「日本六十余州」と呼ばれたくらいゆえ、
一州が一宗教とみれば、六十余の宗派があっても可笑しくはないのである。処が明治になる迄は土地というものは、総て公儀のものだったが、
住民は限定居住させられていたゆえ、各土地ごとの信仰に親代々どっぷりと漬かって居られたのである。
処が明治維新となって、人間も明治オカミの所有となった代りに、国内なら何処へでも移れるようになった。
そして新たに戸籍を作り「戸籍簿」に「本籍地」として記入されるだけで済むようになった。が、国中どこへでも自由に居住地が選択できるということは、
先祖代々の宗教から離れてしまうことになる。
こうなると、もはや何を信心し、何を拝んだら良いのか、わけが判からなくなって無信仰となってしまう者も多かった。
つまり結果的に、やむを得ずというか、無神論者になり、どうしようもなくての無宗教者が多くなる結果になった。
投げやりみたいな言い方だが、鰯の頭でもなんでも、信じたいものには信じさせたらよいと言うのである。
だから、世界でも類を見ないほどの、数えきれぬくらいな宗教法人が今の日本には乱立されているのである。
一方、サンカ側では「五木は勧進、ほいとしゅう」となるのである。
五木はイッキ(漢字で書けば居付き)であり、サンカの事である。
関西では、騎馬民族で四ツ足の獣を扱うという意味から、大和の柳生などを、ことさらに、「四ツ足の里」と差別するが、
他に「五」の「夷」の意味で、片手の指を揃えて払う真似をして区別する地区や「五箇庄」と地名につけている上地も、五のつくのはサンカ部族の居付地なのである。
これの意味するところは、サンカの問では「五きりは六月、盆の前きり」と変ってくるのであって、これは難しくて少し説明がいる。
「五は、六を一つ切る数で、六月は盆である」という意味合いから、「盆切り」と袮するのは、四ツを三越しというのと同じで、四越しというわけか「ヨツコシ(エ)」ともいう。
「五木の子守唄」で「オドマぼんぎり、ぼんぎり」の唄い初めは、前述の「盆切り」なのである。
五木の子守歌の、「おどま勧進、勧進」のカンジンも、銭集め、銭貰いのことで、昔は大きな寺などが寄付を乞い勧進帳に記入していた。
江戸期になると門付して物を乞うのは、正規の坊さんではなく、原住民(賤系)ゆえ髪を剃ることは許されず、有髪たったカンジン坊主で、当て宇は、
「願人坊主」だった。つまり、原住民は賤しい存在だから、人間ではない存在で、仏教に縋って人問となれるように願うものとされたのである。
そして、五木の子守唄は、赤ちゃんをあやす唄ではなく、子守娘の気持ちを唄った「守り子唄」なのである。
1950年(昭和25)から10年間、作曲家・古関裕而が編曲した「五木の子守歌」は、NHKのおやすみ番組の電波にのり、独特のハモンドオルガンの演奏とともに、
地元・五木村が知らない間に、一躍、民謡の花形となり日本の代表的な子守唄として、全国に知れわたっていきました。
サンカの娘が奴隷として売られ、ご主人の子をあやすが、泣き止まない子はどうしようもなく、子守の仕方が悪いと叱られる。
という哀しく、淋しい、そして厳しい己の境遇を唄った、「黒人霊歌」のようなものなのである。
相撲(角力)の由来
日本相撲協会のHPでは、次のように紹介している。
『相撲は人間の闘争本能の発露である力くらべや取っ組み合いから発生した伝統あるスポーツである。これによく似た形態のスポーツは古来世界各地で行われた。
我が国の相撲の起源としては、古事記(712年)や日本書紀(720年)の中にある力くらべの神話や、宿禰(すくね)・蹶速(けはや)の天覧勝負の伝説があげられる。
相撲はその年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として、毎年行われてきた。これが後に宮廷の行事となり300年続くことなる。』
国技として権威付けられている相撲協会の説明は全くの理解不足か間違いである。
そもそも角力は、もともと紀元前はササンエ伺のペルシャ体技で、王朝が分かれた後は、アラブ各国では紀元後も格闘技として伝わったものである。
この相撲士が、ガレリーナとアレキサンダー大王時代から名づけられていた、今のベトナムやマレーシア経由で日本列島へ流れてきて這い上って住みつき先住民族となったので、
同じ種族どうしでは勝負に身が入らぬから、中国渡来の格闘士である「当麻の蹴速」のような今の香港の「ジャッキー・チェン」みたいなのと闘わされたのである。
当時、文化の高い中国から見れば、日本列島は開発途上国並みで化け物の住み着く土地か、下等な人間の住む未開の地と見られていた。
だから、今は「夏至」というが、夏の季節風でしか日本へは来れないので「夏至」と書くが本来は「下等な人間の住む所へ至る」から
「下至」と侮蔑していたのである。
だから日本へやってきた中国人とは、本国で一流の人間は来る筈もなく、向こうでは身分の低い者か食い詰め者が多かった。
しかし、此方へ来てしまえば、をつかうエライさまになれるのである。
だから相撲取は、勝負してもエライさまに賤の者が勝っては申訳けなくて叱られるから故意に負けて見せる。
現在も時々やっている、八百長相撲の原点はここからきているのである。
だが相撲もボクシングと同じで、裸一貫のハングリースポーツだから、出場さえすればいくらかの銭を頂ける。
だから彼らは彼らなりの組合をつくり銭集めをして、相撲興行は大隆盛をなした。その名残りが、「国技」として特別に庇護されて谷町の御蔭で、今では立派な新国技館まで建ててのけた。
だから、歴史始まって以来の大繁栄で慶賀の至りで誠に結構と皮肉を込めて申し上げる。
元大関の朝潮太郎にしても、サラリーマンだったら望めえぬ高嶺の花の美女を妻にすることが出来た。
大関はどう見ても美男とは言えないのに、お世辞か、よいしょかしれぬが「近くでみるとハンサムで可愛い」とまで言われ、
結婚式場で大関は己れを知るだけに、女の子で私に似た顔の子がうまれたらと……冗談めかして神妙にいう好漢であった。
同じハングリースポーツとはいえ、ボクシングの世界チャンピオンクラスが廃業後は、不運にも次々と警察の御厄介になっているのに比べれば、
花龍部屋解散ぐらいしか、角界では揉め事はない。
これは相互補助の精神で引退する者には年寄り株の世話をし、髷を落しても生計がなりたち暮してゆけるように、配慮せねばならぬから、
金を稼ぐため、場所が増え、巡業も多いが力士にとっては温情あふれる社会である。だから「土俵には金が埋まっている」と、ある面美味しい職業でもある。
以前、大相撲のテレビ中継をみていたイタリヤ系の男だが、しみじみと、「あれは格闘士だ」といっていた。
ネロ皇帝臨席のローマスタジアムで、武器を振って相手を殺すまで闘いあう被征服民の子孫である。謂われてみれば力士は素手のままだが、
真剣そのもので勝負がつく迄は二コリともせず闘う。控えに坐っている時でも絶対に白い歯はみせぬ。ユーモアなどは微塵もなくて圧倒される。
昭和六十一年春場所優勝の小結保志にしても、狭いい通路まで出てきて、付け人を相手に丹念に最後の最後まで飽くことなく稽古を、入念に涙ぐましいまでに必死になって繰り返していた。
悲壮とか努力と言ってしまえば、それまでかも知れぬが、現代の浮わついた人種ではなく、「原日本人」の幻影が、どうも瞼に蘇ってくるのである。
我々日本人というのは、相撲では、「稽古」という言葉で当てはめるが、一般的に言えば「精進」とか「粉骨砕心」とかの語句でしか言いようのない、悲壮どころか、
ぎりぎりの必死の生き方をしたのが吾々の親であったし、先祖伝来のものではなかったろうか。
つまり日本列島という土俵の中で押し流されまいと寄りきられず、なんとか俵から足を滑らせぬよう、懸命に生きとし生きていたのが如実にみえる。
吾々が土俵に魅せられいまだに人気が衰えぬのも、がっての祖先の必死猛志な生きざまが体内の熱き血潮をよぶのだろう。
かつてアラブ連邦の外相が来日して相撲を見物して、すっかり度肝を拔かれたかのように、
「これは古来のアラブ競技だ」と感歎したのが、写真入りで新聞に大きく報道された事があった。
が、「日本の国技である」とみなす真剣さが一般では常識ゆえ、「相撲の原点はアラブだったのか」とはならず、まるで問題にもされずだった。
が日本列島の太平洋沿岸より三〇キロ沖合を黒潮暖流は南シナ海沿岸まで洗っている。中近東よりアラビア海、インド洋を回遊性海流で漂着してきたミイコトとよばれる逃亡避難民が、
黒潮に乗って流されてきて安房や津島や伊良湖岬の、黒潮が陸に近よってきた所から這い上って、
それが先住日本人になったのは人類学上では証明されている。これは本当だろう。
そして中国の豪いさまの前で、「必死に角力をとらされてきたのだろう」ことは誰も想像にかたくない。
そして彼らが居付きサンカに、十世紀からはなってゆくのである。
だから興行は今でも「勧進」とよばれているのであろう。
「日本人にはユーモアがない」とか「ユーモアを解さない」などと言われるが、これは無責任である。
何故なら、先住日本人には、そんなゆとりや余裕は許されなかったのである。
眉を釣りあげ四股を踏むように精一杯に努めて働かねば、大御宝(おおみたから)としては、とても生かしておいては頂けなかったのである。
里や村にひっそりと居付き暮らしのイツキサンカが敗戦後には殺されなくなったので、次々と子供を作るゆえその人口は増えた。
五木ひろしが人気の訳
「松山まさる」の名でデビューした歌手が、唄は巧いのだがレコードがてんで売れなかったので、次々に芸名を変えも変攴たり三十七回。
本人も努力したが次々にいくら改名しても無駄で、レコードはさっばり売れなかった。
以前、日本橋の料亭「平山」で徳聞書店の忘年会のあった時。ハードボイル作家の大藪春彦が酔って暴れたことがあった。
気分直しに、話題を変えて「さて、皆さん、新人歌手で売り出そうとしている男の芸名で、何か良い名はないだろうか?」と、
徳聞書店で当時レコードに手を出した矢先なので、徳間康快社長が流行作家たちに、お知恵拝借のように話題にした。
「五木」がいいと誰かが答えたが、言下に皆が「五木寛之からクレームがつくぞ」と同席していた当人を指さしたので、話はポシャった。
だがその後、徳間音工から発売のレコードに、本人が承諾したのか明白ではないが、「五木ひろし」と命名された途端に、それまでウダツのあがらぬ埋もれ木歌手に花が咲いた。
レコードが滅茶片茶に売れて、瞬く問に徳間のドル箱となって、今や演歌の王様となってしまった。
歌も良いが、イツキの名でレコードを買う人口が、夥しく増加している例証ともいえる。現在でもこのイツキ人口はも少子高齢化なのに増えに増えている。
余談だが、五木ひろしのデビューしたのは、1973年から1975年に放映された、歌合戦形式で行われていた視聴者参加型のオーディション番組である。
アマチュア出場者とプロの歌手が合同参加する方式で、ヒット曲に恵まれない歌手にとっては再起を賭ける登竜門的番組となっていた。
この番組に出場してグランドチャンピオンを達成し、スターの座を掴んだのが「三谷謙」時代の五木ひろしなのである。
その他現在でも活躍している、中条きよし、天童よしみ、八代亜紀、山本譲二などが居る。
審査員もそうそうたるメンバーで、銀座「姫」のオーナーママの山口洋子や淡谷のり子、船村徹、鈴木淳、竹中労、平尾昌晃らが居た。
現在、サンカ部族の出身で起業し、一部上場の大企業に発展させた会社が何社もある。これはサンカ伝統の掟である「統治されず統治せず、相互扶助」の精神で、
デジタル社会を反映して、新しいフラットな体制の企業システムが効を奏したものだろう。
だが、かっての徳川体制でオドマボンギリボンギリと限定収容されて過酷に扱われ「あんひとたちは良か衆」と羨望していた者からの後裔が、
今では逆に昔のエライさまを社員に使っている有様となっている。だから、故田中角栄首相の時代には昭和下剋上の世になったとまで言われていた程である。
又、故池田勇人首相がアメリカの公害企業の下請けをして、高度経済成長に変わった頃、文部省の指示で、「集団就職」とよぶ人間狩りがあった。
この時に、関西から東北地方に多く住み着いていたサンカ部族の子供たちは「企業戦士」という美名で、大阪や東京に出てきてブルーカラーとして工場で必死に働いた。
やがて、その子供たちの世代になると、親が何も判っていないゆえ、その子らへ、どうにも教えようがないから出自が判らなくなってしまい、
「イッキ」「イッキ」とわけも判らずに皆で集まってはただ騒いでいた。
それに、もともと日本列島原住民は、大古の女性は太陽だったという程に、女性がつよいのだから仕方がないのだが、
女がキャバクラやソープランドなどの風俗で稼いで、嫁人資金まで作っている時代である。また、その預金目当てに、片翼の天使へ歓んで求婚する、
サンカの子孫らしい若者もかなり多いという。
以前にも書いたことだが、サンカの血を引く日本人は「多産」という大きな特徴がある。
現在の少子化の世でも、子供は四人から七人ぐらいは平気で産んでいる。「貧乏人の子沢山」という馬鹿にしたような言葉が在るが、
これは貧しい人も裕福な人もあまり関係がない現象である。
テレビにもよく出る、名前を挙げれば誰でも知っている有名人から、市井に棲む名もなき庶民にも沢山いる。
これはセックス好きだとか、避妊もせず無計画な性交の結果等と言う卑近な事ではない。千数百年の長きにわたって、差別され、虐げられ、見つかれば即殺されるような、
厳しい境遇に耐え、民族の純潔と子孫を残すという崇高な行為であり、血を繋げる自然現象なのである。
少子化解消のため、政府は「移民政策」も「人口増加奨励策」のどちらも全く採っていない現在、サンカがいくら頑張っても焼け石に水。
五十年後の日本の人口は現在の半分になるという統計数字が出ている。
この国の将来に暗澹となるのは私だけだろうか。