新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

イロハ歌留多から見える日本史の真実 『五木ひろしが売れた訳』

2021-03-30 11:51:45 | 新日本意外史 古代から現代まで


イロハ歌留多から見える日本史の真実



『芋の煮えたの御存じなく』
『鰯の頭も信心柄(からではなく、がらが正しい)』
『五木ひろしが売れた訳』
『五木の子守歌』の謎


芋の煮えたの・・・・・この唄は、
八代将軍吉宗が、芋学者と呼ばれる青木昆陽に命じ、小石川薬園で栽培した種芋を関八州に栽培させ、ついで東北から西国ににも広めさせた。
 処が享保十七年夏から、関西から九州へかけて、イナゴの大群が発生して、収穫前の稲穂を殆んど食い荒し大凶作となったことがあった。
だから、江戸表にも西国より回送米は送られてこず、米価は、うなぎ昇りになって、町民は一升買いしたくも、辛うじて十分の一の一合しか人手できぬ有様となった。


「唐芋」つまりカライモと呼ばれた今の薩摩芋は、稲と違って地下根ゆえ、イナゴに地上の葉は食われても助かったので、どっと江戸へも出荷されてきた。
処が、まだ十八世紀には「焼芋」は考案されていなくて、米の購えぬ庶民は、芋を蒸かすことも知らず、これを鍋で煮て食事にした。
 つまり大身の侍とか、オカミ御用達の政商や町役、町おとなの表通りに住む富裕な者たちはコメが買えて芋など食さなかったが、
貧乏人共は仕方なく食した。だから自分たちは「好んで食うわけではないが、これしか口に入れて腹のたしにするものはない」と言うので、
自嘲気味に米飯をくえる人間へ負け惜しみに口にしたのがこの唄なのである。


もちろん侍といっても下級武士は町人と同じように貧乏だったから芋を食した。だから、普段は侍だというだけで威張っていた彼らへの当てつけで、
「イモ侍」といった蔑称もこれから生まれたし、黄表紙本にも、繊維質の芋を食したため、腸内にガスがたまり、「放庇」がよく出るようにもなったのである。




   関西では、「鰯の頭も、信心柄(がら)」というのがある。


何で生臭い魚の鰯の頭と仏教信心が関係あるのかと、首を傾げたくなる。
しかし、考えれば、あらゆる仏教の御本山は殆んど関西だし、神道とよばれる韓神(カラガミ)さまの御本社も、京阪大和の奈良から近畿四国にかたまっている。
それゆえ西の筋からなのかとも考えられる。
 「有難やの有難や」とか「みたまに恐れ謹しみ、かしこみかしこみ」と拝む御神体やご本尊がある。
 この勿体ながって祈る対象物が、何処でも秘宝とされていて絶対に他見はさせぬものである。
 「寺」では、仏像というのを御本堂に安置して拝ませているから、まあ眼にみえて合掌することができる
だが、韓神さまの方は祭殿とよぶ御本堂にあたる建物正面には、何処も御簾がたれ下っていて、
「何ものが、おわしますかは知らねども、ただ有難さに涙ぞ流れる」とは、有名な歌である。
 つまり信心というのは、心から信仰するのゆえ、好奇心をもってステッキの先で御簾にふれたりしては、薩摩人の文部大臣森有礼でさえ、不敬なりと壮士に暗殺の口実を与えてしまう。
 処が、金目のものなら頂いてしまおうと、不心得者が忍びこんで御簾の裹へ入りこめば、殆んどが物置なみに箱が積まれているだけで、
恭々しく拝む御神体は、石ころ位でしか有りえなかったのが実態だった。
 さて東は銚子沖が黒潮で流されてくる鰯の本場だが、西でも阿字浦あたりでも肥料にする程に鰯はとれる。
だから生乾しの乾鰯にしても、沢山とれて安価ゆえ、誰も頭などは食さない。
 これが鰺なら頭でも猫が食するが。固くなった乾鰯の頭では猫も敬遠しがちで棄てられてしまう。
つまり塵芥箱に放られるような何の値もない物でも、御簾の後ろに置かれておれば、お賽銭をあげて三拝九拝して、家内安全とか、合格祈願を拝礼するのであると、きわめてシニカルなものであり、
「知らぬが仏」というのと同義語みたいな、まあ無神論者の言であろう。


といっても「一民族は一宗教」というのが世界の通説なのに、日本では、中国からの仏教、韓国よりの神道、西南海洋波来の四方拝があり、
今では拝火教と誤るものもいて、これが火祭りの密教にも変化している。
大和民族は「単一民族」だと、学校歴史では教えてくれるが、幕末までの日本は「日本六十余州」と呼ばれたくらいゆえ、
一州が一宗教とみれば、六十余の宗派があっても可笑しくはないのである。処が明治になる迄は土地というものは、総て公儀のものだったが、
住民は限定居住させられていたゆえ、各土地ごとの信仰に親代々どっぷりと漬かって居られたのである。
処が明治維新となって、人間も明治オカミの所有となった代りに、国内なら何処へでも移れるようになった。
そして新たに戸籍を作り「戸籍簿」に「本籍地」として記入されるだけで済むようになった。が、国中どこへでも自由に居住地が選択できるということは、
先祖代々の宗教から離れてしまうことになる。


 こうなると、もはや何を信心し、何を拝んだら良いのか、わけが判からなくなって無信仰となってしまう者も多かった。
つまり結果的に、やむを得ずというか、無神論者になり、どうしようもなくての無宗教者が多くなる結果になった。
 投げやりみたいな言い方だが、鰯の頭でもなんでも、信じたいものには信じさせたらよいと言うのである。
だから、世界でも類を見ないほどの、数えきれぬくらいな宗教法人が今の日本には乱立されているのである。


一方、サンカ側では「五木は勧進、ほいとしゅう」となるのである。


五木はイッキ(漢字で書けば居付き)であり、サンカの事である。
関西では、騎馬民族で四ツ足の獣を扱うという意味から、大和の柳生などを、ことさらに、「四ツ足の里」と差別するが、
他に「五」の「夷」の意味で、片手の指を揃えて払う真似をして区別する地区や「五箇庄」と地名につけている上地も、五のつくのはサンカ部族の居付地なのである。
これの意味するところは、サンカの問では「五きりは六月、盆の前きり」と変ってくるのであって、これは難しくて少し説明がいる。
「五は、六を一つ切る数で、六月は盆である」という意味合いから、「盆切り」と袮するのは、四ツを三越しというのと同じで、四越しというわけか「ヨツコシ(エ)」ともいう。
 「五木の子守唄」で「オドマぼんぎり、ぼんぎり」の唄い初めは、前述の「盆切り」なのである。




五木の子守歌の、「おどま勧進、勧進」のカンジンも、銭集め、銭貰いのことで、昔は大きな寺などが寄付を乞い勧進帳に記入していた。
江戸期になると門付して物を乞うのは、正規の坊さんではなく、原住民(賤系)ゆえ髪を剃ることは許されず、有髪たったカンジン坊主で、当て宇は、
「願人坊主」だった。つまり、原住民は賤しい存在だから、人間ではない存在で、仏教に縋って人問となれるように願うものとされたのである。
そして、五木の子守唄は、赤ちゃんをあやす唄ではなく、子守娘の気持ちを唄った「守り子唄」なのである。
 1950年(昭和25)から10年間、作曲家・古関裕而が編曲した「五木の子守歌」は、NHKのおやすみ番組の電波にのり、独特のハモンドオルガンの演奏とともに、
地元・五木村が知らない間に、一躍、民謡の花形となり日本の代表的な子守唄として、全国に知れわたっていきました。
サンカの娘が奴隷として売られ、ご主人の子をあやすが、泣き止まない子はどうしようもなく、子守の仕方が悪いと叱られる。
という哀しく、淋しい、そして厳しい己の境遇を唄った、「黒人霊歌」のようなものなのである。




相撲(角力)の由来


日本相撲協会のHPでは、次のように紹介している。


『相撲は人間の闘争本能の発露である力くらべや取っ組み合いから発生した伝統あるスポーツである。これによく似た形態のスポーツは古来世界各地で行われた。
我が国の相撲の起源としては、古事記(712年)や日本書紀(720年)の中にある力くらべの神話や、宿禰(すくね)・蹶速(けはや)の天覧勝負の伝説があげられる。
相撲はその年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として、毎年行われてきた。これが後に宮廷の行事となり300年続くことなる。』
国技として権威付けられている相撲協会の説明は全くの理解不足か間違いである。

そもそも角力は、もともと紀元前はササンエ伺のペルシャ体技で、王朝が分かれた後は、アラブ各国では紀元後も格闘技として伝わったものである。
 この相撲士が、ガレリーナとアレキサンダー大王時代から名づけられていた、今のベトナムやマレーシア経由で日本列島へ流れてきて這い上って住みつき先住民族となったので、
同じ種族どうしでは勝負に身が入らぬから、中国渡来の格闘士である「当麻の蹴速」のような今の香港の「ジャッキー・チェン」みたいなのと闘わされたのである。
当時、文化の高い中国から見れば、日本列島は開発途上国並みで化け物の住み着く土地か、下等な人間の住む未開の地と見られていた。
だから、今は「夏至」というが、夏の季節風でしか日本へは来れないので「夏至」と書くが本来は「下等な人間の住む所へ至る」から
「下至」と侮蔑していたのである。
だから日本へやってきた中国人とは、本国で一流の人間は来る筈もなく、向こうでは身分の低い者か食い詰め者が多かった。
しかし、此方へ来てしまえば、をつかうエライさまになれるのである。 


 だから相撲取は、勝負してもエライさまに賤の者が勝っては申訳けなくて叱られるから故意に負けて見せる。
現在も時々やっている、八百長相撲の原点はここからきているのである。
だが相撲もボクシングと同じで、裸一貫のハングリースポーツだから、出場さえすればいくらかの銭を頂ける。
だから彼らは彼らなりの組合をつくり銭集めをして、相撲興行は大隆盛をなした。その名残りが、「国技」として特別に庇護されて谷町の御蔭で、今では立派な新国技館まで建ててのけた。
だから、歴史始まって以来の大繁栄で慶賀の至りで誠に結構と皮肉を込めて申し上げる。


元大関の朝潮太郎にしても、サラリーマンだったら望めえぬ高嶺の花の美女を妻にすることが出来た。
大関はどう見ても美男とは言えないのに、お世辞か、よいしょかしれぬが「近くでみるとハンサムで可愛い」とまで言われ、
結婚式場で大関は己れを知るだけに、女の子で私に似た顔の子がうまれたらと……冗談めかして神妙にいう好漢であった。


 同じハングリースポーツとはいえ、ボクシングの世界チャンピオンクラスが廃業後は、不運にも次々と警察の御厄介になっているのに比べれば、
花龍部屋解散ぐらいしか、角界では揉め事はない。
これは相互補助の精神で引退する者には年寄り株の世話をし、髷を落しても生計がなりたち暮してゆけるように、配慮せねばならぬから、
金を稼ぐため、場所が増え、巡業も多いが力士にとっては温情あふれる社会である。だから「土俵には金が埋まっている」と、ある面美味しい職業でもある。


 以前、大相撲のテレビ中継をみていたイタリヤ系の男だが、しみじみと、「あれは格闘士だ」といっていた。
 ネロ皇帝臨席のローマスタジアムで、武器を振って相手を殺すまで闘いあう被征服民の子孫である。謂われてみれば力士は素手のままだが、
真剣そのもので勝負がつく迄は二コリともせず闘う。控えに坐っている時でも絶対に白い歯はみせぬ。ユーモアなどは微塵もなくて圧倒される。


 昭和六十一年春場所優勝の小結保志にしても、狭いい通路まで出てきて、付け人を相手に丹念に最後の最後まで飽くことなく稽古を、入念に涙ぐましいまでに必死になって繰り返していた。
 悲壮とか努力と言ってしまえば、それまでかも知れぬが、現代の浮わついた人種ではなく、「原日本人」の幻影が、どうも瞼に蘇ってくるのである。
我々日本人というのは、相撲では、「稽古」という言葉で当てはめるが、一般的に言えば「精進」とか「粉骨砕心」とかの語句でしか言いようのない、悲壮どころか、
ぎりぎりの必死の生き方をしたのが吾々の親であったし、先祖伝来のものではなかったろうか。
つまり日本列島という土俵の中で押し流されまいと寄りきられず、なんとか俵から足を滑らせぬよう、懸命に生きとし生きていたのが如実にみえる。
 吾々が土俵に魅せられいまだに人気が衰えぬのも、がっての祖先の必死猛志な生きざまが体内の熱き血潮をよぶのだろう。
かつてアラブ連邦の外相が来日して相撲を見物して、すっかり度肝を拔かれたかのように、
「これは古来のアラブ競技だ」と感歎したのが、写真入りで新聞に大きく報道された事があった。
が、「日本の国技である」とみなす真剣さが一般では常識ゆえ、「相撲の原点はアラブだったのか」とはならず、まるで問題にもされずだった。
 が日本列島の太平洋沿岸より三〇キロ沖合を黒潮暖流は南シナ海沿岸まで洗っている。中近東よりアラビア海、インド洋を回遊性海流で漂着してきたミイコトとよばれる逃亡避難民が、
黒潮に乗って流されてきて安房や津島や伊良湖岬の、黒潮が陸に近よってきた所から這い上って、
それが先住日本人になったのは人類学上では証明されている。これは本当だろう。


そして中国の豪いさまの前で、「必死に角力をとらされてきたのだろう」ことは誰も想像にかたくない。
そして彼らが居付きサンカに、十世紀からはなってゆくのである。
だから興行は今でも「勧進」とよばれているのであろう。
「日本人にはユーモアがない」とか「ユーモアを解さない」などと言われるが、これは無責任である。
何故なら、先住日本人には、そんなゆとりや余裕は許されなかったのである。
眉を釣りあげ四股を踏むように精一杯に努めて働かねば、大御宝(おおみたから)としては、とても生かしておいては頂けなかったのである。
里や村にひっそりと居付き暮らしのイツキサンカが敗戦後には殺されなくなったので、次々と子供を作るゆえその人口は増えた。


五木ひろしが人気の訳


 「松山まさる」の名でデビューした歌手が、唄は巧いのだがレコードがてんで売れなかったので、次々に芸名を変えも変攴たり三十七回。
本人も努力したが次々にいくら改名しても無駄で、レコードはさっばり売れなかった。
以前、日本橋の料亭「平山」で徳聞書店の忘年会のあった時。ハードボイル作家の大藪春彦が酔って暴れたことがあった。
気分直しに、話題を変えて「さて、皆さん、新人歌手で売り出そうとしている男の芸名で、何か良い名はないだろうか?」と、
徳聞書店で当時レコードに手を出した矢先なので、徳間康快社長が流行作家たちに、お知恵拝借のように話題にした。
「五木」がいいと誰かが答えたが、言下に皆が「五木寛之からクレームがつくぞ」と同席していた当人を指さしたので、話はポシャった。


だがその後、徳間音工から発売のレコードに、本人が承諾したのか明白ではないが、「五木ひろし」と命名された途端に、それまでウダツのあがらぬ埋もれ木歌手に花が咲いた。
レコードが滅茶片茶に売れて、瞬く問に徳間のドル箱となって、今や演歌の王様となってしまった。
歌も良いが、イツキの名でレコードを買う人口が、夥しく増加している例証ともいえる。現在でもこのイツキ人口はも少子高齢化なのに増えに増えている。
余談だが、五木ひろしのデビューしたのは、1973年から1975年に放映された、歌合戦形式で行われていた視聴者参加型のオーディション番組である。
アマチュア出場者とプロの歌手が合同参加する方式で、ヒット曲に恵まれない歌手にとっては再起を賭ける登竜門的番組となっていた。
この番組に出場してグランドチャンピオンを達成し、スターの座を掴んだのが「三谷謙」時代の五木ひろしなのである。
その他現在でも活躍している、中条きよし、天童よしみ、八代亜紀、山本譲二などが居る。
審査員もそうそうたるメンバーで、銀座「姫」のオーナーママの山口洋子や淡谷のり子、船村徹、鈴木淳、竹中労、平尾昌晃らが居た。

現在、サンカ部族の出身で起業し、一部上場の大企業に発展させた会社が何社もある。これはサンカ伝統の掟である「統治されず統治せず、相互扶助」の精神で、
デジタル社会を反映して、新しいフラットな体制の企業システムが効を奏したものだろう。
だが、かっての徳川体制でオドマボンギリボンギリと限定収容されて過酷に扱われ「あんひとたちは良か衆」と羨望していた者からの後裔が、
今では逆に昔のエライさまを社員に使っている有様となっている。だから、故田中角栄首相の時代には昭和下剋上の世になったとまで言われていた程である。
又、故池田勇人首相がアメリカの公害企業の下請けをして、高度経済成長に変わった頃、文部省の指示で、「集団就職」とよぶ人間狩りがあった。
この時に、関西から東北地方に多く住み着いていたサンカ部族の子供たちは「企業戦士」という美名で、大阪や東京に出てきてブルーカラーとして工場で必死に働いた。
やがて、その子供たちの世代になると、親が何も判っていないゆえ、その子らへ、どうにも教えようがないから出自が判らなくなってしまい、
「イッキ」「イッキ」とわけも判らずに皆で集まってはただ騒いでいた。
 それに、もともと日本列島原住民は、大古の女性は太陽だったという程に、女性がつよいのだから仕方がないのだが、
女がキャバクラやソープランドなどの風俗で稼いで、嫁人資金まで作っている時代である。また、その預金目当てに、片翼の天使へ歓んで求婚する、
サンカの子孫らしい若者もかなり多いという。


以前にも書いたことだが、サンカの血を引く日本人は「多産」という大きな特徴がある。
現在の少子化の世でも、子供は四人から七人ぐらいは平気で産んでいる。「貧乏人の子沢山」という馬鹿にしたような言葉が在るが、
これは貧しい人も裕福な人もあまり関係がない現象である。
テレビにもよく出る、名前を挙げれば誰でも知っている有名人から、市井に棲む名もなき庶民にも沢山いる。
これはセックス好きだとか、避妊もせず無計画な性交の結果等と言う卑近な事ではない。千数百年の長きにわたって、差別され、虐げられ、見つかれば即殺されるような、
厳しい境遇に耐え、民族の純潔と子孫を残すという崇高な行為であり、血を繋げる自然現象なのである。
少子化解消のため、政府は「移民政策」も「人口増加奨励策」のどちらも全く採っていない現在、サンカがいくら頑張っても焼け石に水。
五十年後の日本の人口は現在の半分になるという統計数字が出ている。
この国の将来に暗澹となるのは私だけだろうか。


尾張「いろはかるた」の考察(第一部)いろはかるたから日本史の「闇」を考究する

2021-03-27 11:45:28 | 新日本意外史 古代から現代まで

尾張「いろはかるた」の考察(第一部)
いろはかるたから日本史の「闇」を考究する  
                             


             「序」

「尾張名古屋は芸どころ」と昔から言われ、下手くそな芸は受けつけられないとされている。
 それゆえ現在でも俳優座にしろ文学座でも、まず名古屋で初公演をして観客の反応を観察してから、演出効果の手直しをするし、配役変えまですることさえある。
といって今でこそ名鉄ホールがあるけれど他は御園座ぐらいで、昔は四方拝の火縄を信者にわけてくれ若宮さまの脇の末広座とても今はない。
大須の演芸ホールでさえ滞納家賃が溜りすぎて危ぶまれていると聞いていたが今はどうなったのか。


 しかも名古屋育ちの芸人は名古屋からでは絶対に売れず、育たないとまで古来いわれている。
 今では名古屋での芸ごとは西川流の踊りぐらいのもので、やはり中部の東海地方だけに限定されているのが現状である。
 最近のテレビ時代になってからは、名古屋うまれのタレントも活躍しているけれど、それでもタモリにかかるとクソミソの扱いである。
名古屋弁が八毋音の発音のせいだけだろうかと大いに疑問がわく。
ここで安土桃山時代とよぶ中世の文化華やかな頃に遡って考えてみよう。


尾州から出た三人の英雄


戦国時代、近江に居た八田信秀が、尾張守護職斯波家の被官で尾張を委せられていた織田家に奉公した。昔は「禄を家名に賜る」とか「扶持を家門に授く」といったように、
武士の扶持(給料)は現在のように個人の能率や、やる気とは無関係だったから、八田信秀は織田家に採用されはしたが、その代りに「織田」の姓となって勝幡城の城番を勤めることとなった。
(ここの経緯は、岩波書店刊行「山科言経喞全二巻」の内の言経の父の「言経卿記」に書かれている。疑問に思う方はどうぞ読んで頂きたい)


信秀の息子の内、長兄次兄が早死にしたため、信秀の跡日をついだのが織田三郎信長である。
それに毛利へ送った、安国寺文書で「さりとて、秀吉は八(はち)の者にて」と、きめつけられている名古屋の中村の出身である、後の豊臣秀吉が居る。
次に愛知県岡崎生まれだと間違えられているが、本当は上州世良田で生まれで、浜松で育った徳川家康がいる。


 この三人が築いた安土桃山時代は重臣団もやはり東海地域の者が主ゆえ、どうしてもみな、「あのよお」「いかんぎやあ」「やっとかめだなも」といった八母音の名古犀弁が日常会話だった。
 今にしていうなら当時は、この名古屋弁が標準語であって、九州の島津にしろ青森の津軽にしろ安土城へあがったり大坂城や、伏見城へ伺候する時は、
名古屋弁のよくできる者を近習に、無理をして会話練習をし稽古をしていたのは、他の関東や関西の大名とてみな同じだったろうと想われる。
(名古屋弁が厄介で難しいのに関口していた諸大名が、秀吉が死んだ慶長三年から一年たっての関ヶ原合戦で、また名古屋弁を苦労して使わねばならぬのは辛いから、
京の蜷川財閥から銀も貰っていることだし、裏切りと呼ばれてもかまわぬ、言葉が自由だという家康の方へつくべし)となったのだとする異説すらあるのである。
かつて、井上ひさしの「国語元年」というテレビドラマでも、現在の標準語を作成した川島が、吉原遊郭の廓言葉まで参考に苫労した経緯がでていたが、
それより四世紀前の関ヶ原の戦いのことである。馴染めぬ名古屋弁で苦労するよりはと、続く大坂冬の陣や夏の陣にも名古屋弁の豊臣方へ味方する大名は少なかったのは事実。

 まさか言葉だけでそんなことがあるのかと思う方があるだろうが、
津軽のズーズー弁などで「あのよお」と喋舌るのは、録音機もなかった時代である。多くの大名たちとしては切実な苫労で厭がったのも無理はない。
 つまり名古屋弁嫌いの風潮が大坂夏の陣からは一般に定着してしまった嫌いがないでもない。
そして、徳川家康はサンカ出身であるから三家(みけ)を重んじて「御三家」とよばれるものを創立してのけた。この三家の説明をすると、
(サンカは「ミツクリの一」「フキタカの一」「エラギの一」の三つの区分があった。ミツクリ一は蓑作りの一団、フキタカ一は、笛や茶筅など、竹製品を作る一団、
エラギ一は、芝居、門附け、猿回し等の遊芸者の一団。この上に全国のサンカを統括する「オオモト様」という統領が居て、サンカ集団が成立していた。
これを家康は取り入れ、自分の直系血脈を尾張、紀州、水戸に配置して御三家を設立したのである。)

 尾張藩主にもその子をもってしたのだが、八代将軍吉宗が紀ノ川系つまり朝鮮クダラ系の血筋だったゆえ、邪魔な尾張宗春を閉門処分にし、その後毒殺している。
そして、支藩高須より代って尾張藩主が入ったが、吉宗は吾が伜に田安家と、一橋家の両家を設立させると、幕末まで交互に尾張領主に送りこませ、紀州の属鍜なみにしてしまった。


 「塩尻百巻」の絵図のごとく、尾張付家老犬山三万五千石の成瀬隼人正家の倍くらいも大きな、紀州よりの付目付邸宅の方が人きい有様だった。これ差別の証拠である。
今も○に八を入れたのが名古屋の市章だが、津島が文字通りのまだ、島だった頃から尾張伊勢美濃の東海地方は海洋民族が往みつき栄えていた土地柄だった。


 しかし日本海を渡ってきた青銅剣を持った騎馬民族に、食糧課役を命ぜられても相互扶助しあって、「豊アシ(遊牧民族の馬の餌)原、瑞穂(農耕の栄える)の国」として未問発でも平穏に暮らしていた。
 処が日本歴史では、日本に仕みついてしまわれたので、神功皇后とよぶ馬韓(後のクダラ)人が九州から進攻し、近畿地方を占領してしまい、古代クダラ語の国を意味する処の「ナラ」から、
「奈良王朝」ができるようになると、それまでの四ッの騎馬系と八ッの海洋系の先住民たちは、「クダラぬやつ」「クダラない」「クダラぬ真似はするな」とされ、クダラ人だけが人間で、
そうでない征服された先住民共は扱いされた。だが壬甲の乱から、乂しても世変りをするのである。そして江戸時代になると、千代田城が徳川綱吉の代から「江戸が朝廷なのだ」と、
徳川家八百万石の権力をもって自称しだし、将軍家が「我こそが新皇」と名のるようになってよりの八代徳川吉宗は、とんでもない暴れん坊将軍で、
トウ(藤原)王朝の京の御所が、畏れ多くも僅か二万石の小大名なみで窮乏しているのにつけこみ、昔の天智の世をば今に戻そうとするみたいに、クダラ王朝の復活を試みたのである。


 尾張領は六十二万石なのに、別個に二十万石を紀州が搾取して、公儀台所領に半分を取り、残りを和歌山へ送らせたのである。
そのため尾張では衣紋税といって、着ている物へも課悦した。尾張西部は一向宗が綿の実をもちこみ植えさせ、ガチャマンと機織りをさせふんだんに作っていた。
なのにみな紀州へ運ばせ、名古屋もんは明治になる迄はオガラ編みとか、籐の繊維で織ったものしか着られなかったのである。
 もし逆らえば罪人として召捕えられて国境まで追いこまれ、海洋民族なのに、山国の信州へ峠から蹴落されるような、追放の苛酷な囗にあわされていた。
昔の塩尻峠は現をは市になっている。
また、尾張の徳川宗春が、その曾祖である徳川家康の事を、尾張領内にまだ生きている土地の古老達に聞きとりをして、家康と松平元康は別人だとする、家康出生の秘密を「章善院目録」として書かせて世に出した。
 これに怒った吉宗は、大岡越前に前もって、徳川家の事を書くことは一切まかりならんと、 出版統制令を布令させておいて、この法に引っ掛けて宗春は閉門処分にした。
 そして、支藩高須藩より、宗春が紙という紙を取り上げられ、厠用の落し紙にも不自由していると聞き、差し入れがあったことを探索し、
「紙は紙である。又しても徳川家不為のことでも、秘かに書こうとしている所存ならん」と尾張目付けにしていた村垣左太夫の弟の手で処分した。
そして己の子供に田安と一橋の両家を創設しておいた吉宗は、すかさず代々の新藩主として送り込み、次々と名古屋城へ交互に入れさせている。
名古屋城の濠端の土居下に村垣左太夫の輩下共を住まわせて、万が一にも尾張者が反乱した際には、「掘割から庄内川に藩主を奉じて漕ぎ出し、紀ノ川へまで出て脱出せよ」と特別命令されていた。


そして一橋出身の名古屋城主の時でも、田安家出身の殿様になっても、吉宗の遺言通り、 大陸系の血は尊いのだとする、原住民差別政策は続いていて、
つまり名古屋城下に隠れ住み着いていた「居付きサンカ」に対しても、寺人別に入っていない者は、
「髪を結ってはならぬ。雨天といえど蓑笠は許されず、裸足のままにて歩くべし」となったのである。
この結果が八の部族、即ち海洋渡来系の多い名古屋では、皆乱髪、裸足の者ばかりになった。こうなるといくら御三家の一つとは言え、他国者を名古屋城下へ、外聞が悪くて通すことは、
見た目があまりにもみすぼらしく、出来なくなった。
 つまり東海道五十三次といっても、「池鯉府」つまり「知立」は今の星ケ崎で、中日球場のある、 鳴海潟だったが、そこから旅人は名古屋城下へは入れなくて、内海廻りで熱田へ出て、
そこから海路五里で桑名の渡しに出る道順だったのである。
 大名行列だけは海上三里と近回りをさせたが、一般には絶対陸路を通さずの原則が、 明治まで続けられた。
この原則が破られたのはトコトンヤレの官軍の東上進軍が初めてだったという。隠されているがこれが尾張名古屋の実態なのである。

名古屋者の怨念、維新戦争で爆発す


つまり名古屋者は、紀州からきている町目付に見恨られ、熱田浜の塩作り漁の課役や田んぼ作りに、休みなしに働かされ、遁がれようとすれば逃散の罪で、
すぐ捕えられるように、見通しが良い整然とした碁盤割の地区に、穴居させられていたのである。
戦前でも名古屋市内は碁盤割りの町並みだったのである。戦後は爆撃の後を綺麗に整地し、全国でも珍しいほどの広域道路の街に見事に復興した。
だから、戦前はまるで文化都市の先駆けのように云われていたが、実態はそんな生易しいものではなかったのである。
京都を始め都市の中へをとじこめていた処は、逃げても見つけやすいようにと枡目になっていたのである。


 明治までは奴隷という言葉はなくて、やっ(八ッ)とかヤッコ(奴)と呼んでいた。今でも豆腐を枡目に切って冷やして食べるのを「冷ややっこ」と呼ぶのはここからきている。
さて宗春を始末してからの紀州系の代々の領主は従来の30%増しの搾取をなすために、休みなしに裸同然の領民を働かせ続けた。この八代将軍吉宗の代から次々と代々にわたって
奴隷使役された名占屋もんの怨念は、維新戦争によって爆発したのである。


 本来なら徳川御三家の一つで、地政学的にも日本の中心で、東上する官軍をここでせき止め、江戸を守る筈の名古屋が、西軍が東北へ進攻となると、
雲風一家のやくざ達と共に名古屋もん達は、進んで西軍の先発隊となって「集義隊」として結集した。


 かつて大陸占領軍は、東北の多賀城とよぶ、倭製リオグランデの砦を築き、奴隷となるのを拒んで山の台地に隠れた先住民たちを賤とし、山裾の四方から火をつけて焼き殺した。
そして、センとつく仙台の地名を残したのである。これを東北の宮城として、昔は栄えた今の宮城県を、七世紀からの恨みつらみをはらすため仙台藩や会津藩を徹底的に荒らし廻り、
虐げられてきた名古屋もん達は意趣ばらしをした。
東北戦争で、会津藩家老西郷頼母の娘を隊長とした娘子軍をひっ捕えて、廻しにかけてレイブしてのけ暴れまわったのも尾張集義隊だったのである。


 さて名古屋は八ツ、つまり赤の上地である(海洋渡来民族の民族色は赤)。だから騎馬系の白の四ッが入りこもうとするのには、
白から転向する意味で、転白川でのミソギをせねばならなかったのだが、今日となると、「天白川」と発音は同じでも文字を別に当てはめてしまって、昔を今では判らなくしてしまっている。


さて、序説が長くなると読者も飽きるだろうから、ここで有名な「犬棒カルタ」で、「犬も歩けば棒にあたる」について解説しましょう。(再掲載になります)
掲載した犬棒画像は間違いである。棒が空から降って来る筈もなく、本当は棒は棒でも番太郎の持つ六尺棒なのである。

いろはかるた
「犬も歩けば棒に当たる」の真実



旧陸軍参謀本部編の五万分の一の群馬県分図の利根川流域の今もある尾島町世良田の徳川なのである。日本全国が結成された世良田事件発祥の地である。
つまり、明治十七年に華族令が制定され、畏れ多くも「華族は皇室の藩屏にして」との御勅語が出て、華族会の会長に徳川公爵が選任され、明治宮内省が文部省丸抱えの東大に命じて、
「松平記」なる蔵本が以前から在ったことにして、「東京帝国大学蔵版」の朱刷で東京青山堂刊として、明治三十五年五月の発行で出してのけた。


この発行年月日に問題があるのである。「上手の手から水が洩る」というが、今でこそ天下の東大でも、明治の東大は抜けていた。
そもそも、この本の刊行は明治三十二年に村岡素一郎が「史擬徳川家康公事蹟」を出版し、家康は松平蔵人が改姓名したのではなく、
全く別人物の上州世良田の徳川の出身で浜松の七変化で育てられた二郎三郎だと、調べ上げて刊行したのに対して、時の明治宮内省が慌てた。


「皇室の藩屏たる華族会長の公爵家の御先祖が、特殊出身とは何たる不敬か」と、本は警察を使って発禁処分にさせ、当人は執筆発表禁止にされたらしい。


と言うのは村岡はその一冊以後は、何処にも執筆発表はしていないからである。
 明治新政府は、楠木正成の銅像と新田義貞のそれを一対にして建てる計画だったのを、銅像は出来上がったが中止した。
楠公よりも立派な出来栄えだったそうだが、陽の目を見ることなく鋳潰されてしまい、代わりに「ネコ満」と呼ばれていた岩佐が他の叙爵にずっと遅れて「新田男爵」として爵位を賜った。
しかし徳川公爵が彼を拒んで宮内省に働きかけた結果。
 一時金の名目だったが渡航費を渡され、家族とロンドンへ渡ると、外務省にわたりがついていたか、生活費を支給され永住となった。


さて、バロンとしてよりは猫の画で有名だった新田男爵は、「画伯」扱いされていたネコ満男爵の許へ、英国王立動物愛護協会の公爵夫人が訪ねて来て、
「世界中の王侯貴族で、己が愛犬や愛猫を溺愛したのは数多くいたが、ジャパンのイヌクボウみたいに国中の犬を愛した王は例が無い。


是非当協会の名誉会員として肖像画を飾りたい」と依頼してきた。
 是に対して新田男爵は、島流しみたいに異郷に永住させられていた恨みつらみもあったろうが、
「とんでもない、徳川綱吉の生類憐れみの令とは、騎馬民族の後裔で、動物の革剥ぎで儲けていた彼らが、綱吉の命令、即ち仏教に転向しない彼らを憎み、製革業者弾圧の政治目的で、
彼らの限定収容所の四谷や中野に故意に犬小屋を建てて虐めたのが真相である。


だから綱吉は生涯一匹の犬や猫も飼わず、よって元禄地震で餓死者の多かった四谷や中野の限定地とは製革業者の住んでいた場所だった。
『犬も歩けば棒に当たる』と、獣の少ない国ゆえ、辻番所の六尺棒を持った番太郎に野良犬を撲殺させ、縄でくくらせていた者を処罰させ、
これ見よがしに『猫を追うより皿を引け』と、犬が殺されぬよう避難の犬小屋で、一匹あたり米二合と干鰯一合を与え、餓鬼のようになった
限定住民が羨ましがって犬小屋で野良犬の食い残しを奪い合うのを、見張り役人が追っ払って監視した。
と、本当のことをぶちまけてしまったので、綱吉の王立協会の名誉会員は見合わせとなった。


 さて、村岡の著より故意に遡った明治三十五年五月の綺麗な木版の「松平記」の刷りであるが、
既に明治二十年の始めより大阪玉林堂よりの刊行物は、当時の講談の速記本ではあるが、全部かもはや活字での組み本である。
新聞にしても明治初年からバレン刷り版木でなく、既に活字版になっていた。
 なのに明治三十年のもはや何でも全てが活版の時代に、時代錯誤の木版刷りを何故に東大ともあろうものが、上からのプレッシャー とはいえ、敢えてなしたのかと言うことになる。
「馬脚をあらわす」というが、もし東大蔵版と称されるものが、当時としては普通の活字本で出したものなら、まあ話が合うのだが、古くからの蔵版だと誤魔化したいゆえ、
本当は明治三十五年に配布したものを、五年前と故意にし、バレン刷りと、和紙閉じにした。こういうのを猿知恵というのである。
 そして三河普代となっている者は、徳川公爵家を始め片っ端から、三河出の統一民族の旗本だったとすることによって、日本人は単一民族といった学説に繋いでゆけるのである。
「松平記」の原本も桐箱は無くしたが現物は持っている。



 王毅外相・暴言と属国根性 もう二度と中国の下風に立ってはいけない

2021-03-23 16:57:04 | 新日本意外史 古代から現代まで




古代シャモロ国地図による日本人ルーツ
中近東→インド→マレーシア→ベトナム→日本
これからの中国との関係
二階幹事長の無様な姿
侵略国家中国


タイのバンコック博物館には、秘蔵古代シャモロ国地図がある。
それによると、現在でこそメコン川上流のケンカン市の先で、雲南の車里となっており、ソンコイ川のラオカイの上流の川口から、江河と名が変わって、
そこはベトナムの国境になっている。そこからインドシナ山脈を境にして四川省までが雲南省と、全くトンキン湾から遠ざけられ、山国の感がある。
だがシャモロ国の栄えていた頃の古地図では、ソンコイ川までが、ずっと版図に入っていたのである。つまり今いう雲南が、かつては南シナ海に面していたのである。


 日本のラテン語呼称のヤバアン、ヤバアーナの語源ともなっているマレーシアことヤバンからは、黒潮暖流でボルネオ海を二日で流れ拔けてつく地帯である。
もちろん紀元前5世紀ペルシャのアケメネス王朝の頃、ダイオレス王がインダス川右岸まで占領していた時代もあったし、紀元前三二七年になると、アレキサンダー大王がインドへ進攻し、
当時のアケメネス王朝を仆し統治国となした。


 ついでマライ半島もインドの版図ゆえ、タッコーラとカターハに占領軍のギリシャ兵達が進駐していた。
 ギリシャ名で「カテイガラ」と呼ばれた今のヴェトナム民主共和国、つまり海岸までのびていた当時の雲南へ、小麦耕作奴隷とし、タッコーラやカターハから集めたのを、二コバルから筏輸送していた。
このことは〈ギリシャ史〉に明確にでているから、これは世界史の中で、本当といえる日本史創生の歴史である。


 現代の地図でみるから判らないが、ベトナムは昔の雲南の海岸地区のカテイガラで、黒潮渡来の古代海人族が日本列島へ、バシー海峡から四国や瀬戸内海へと入ってきたのである。
 だから、かって東ドイツのコンベルグ紙は、ベトナム撤退のアメリカ軍を評して「ヒロシマの仇を、その祖国がとったのだ」とするような記事をのせもしたのだろう。
これまで世界史の中で日本は、「マレーシア経由の西南有色人種によるもの」とされて、英語読みではバハンだが、ギリシャ発音のヤアバンからとされているゆえ、
ドイツ、ペルシャ、インドといった昔はギリシャ語圏内の国では、国連用語ではジャパンだが、とはよばずに、今でもヤバアン、ヤバーナなのであるのは周知の通りである。
 「八」とよばれ「ヤァ」とされていた吾ら庶民の祖先は、黒潮によってマレーシアへ運ばれ、そこから今はベトナムとよばれていた昔の雲南へ移され、さらに、そこからと逃亡してきた古代縄文人であろう。


 流行のシルクロード説みたいに全てを陸路から来たという説では、長安の都からは遥か雲の彼方の南の遠い所で、そこからテクテク日本へ移動とは無理がある。
が海路で、黒潮にのってくるのなら、現代でも、かってベトナム戦争の頃、ベトナム難民の筏が多数日本に漂着した事実でも理解できるだろう。
 だから今のように海上ラッシュで船舶が多くなかった昔は、スイスイと暖流にのってしまえば楽に日本列島へ人つてこられたのである。また、日本に上陸せず、
その儘でまたも流されていった者らが、太平洋を横断し、ハワイ諸島に着いた人々も居る。
さらに、今いう処のエクアドル縄文人やカナダインデアンとなった人々もいるのである。
日本では「縄文人海を渡る」と不思議がるが、日本から渡ったのではなく、前記したように日本に上陸せずそのまま流されて、漂着地点でそれぞれ文明が発達したのである。

日本は吹き溜り列島ゆえ各方面から人間が流入してきているのに、鉄剣や鉄矛で武装した大陸人(中国)が威張りくさって弥生時代となし、それまでの縄文日本人を先輩とはせず被征服民とした。
原住民の内、降参しないのは捕えてきて奴隷オークションにかけた。逃げるのはゲットーに入れ、さも自分らが国の初めから居たように歴史を偽造した。そして「主客転倒」というが、
後から入ってきた他所者が押しこめられたのが、いわゆるなのだとと決めてしまう。
だから世界史の中でも通用する日本史である為には、ぜひこの問題を明白にせねばならぬのに、「それには絶対にふれてはならぬ、抗議がくるから」と何処のテレビ局や雑誌社も厳禁である。
どうも問題にふれると解放同盟から抗議が来るというのは違って、圧力をかけてくるのは別の組織らしい。
なにしろ<日本の特殊の研究>をこの世に残した菊池山哉でさえ、古代史の部分では「延喜式」をひいて「何々地方は何年前には稲束何千束賜与であったが、この頃には零になっている。


これは、その間に俘囚も耕やして自給自足の状態になったのであろうか」と文字通りに解釈し説明している。
 しかし王朝時代の記録や公卿の日記は、数多く残されて活字本になっていても文字通りに理解してはならない。
稲何千束というのは、種もみで渡しては、食してしまう惧れがあるから、芽が出だした苗代何千束のことなのである。奴隷にした者らへ今の小学校みたいに給食したのではなく、
王侯貴族の食糧を作らせるよう課役したにすぎない。つまり最初の年は苗を渡されても、翌年からは取り入れ九分の中から次の種もみは間に合ったゆえ、次年の何束下賜というのは、
新規に編戸された農業奴隷の分だけに搾ってで、施しなどしない。


日本史では判りにくいから西部劇の映画を想い浮かべてみるのがよいようだ。
合衆国政府は、平和協定を結んだインデアンを一定地へ収容し、唐もろこしの種を一つかみずつ与える。インデアンは狩猟民族ゆえ当惑するが拒めば、日本の多賀城にあたるリオグランデ砦から、
騎兵隊が出動討伐にくる。
 やむなく水をくんできて耕やし荒地を次々と開墾して、コーン畑に苦労して造成してゆく。すると、耕地になったから良い値段で転売できると、ワシントンに顔のきく政商が、騎兵隊長に出動を命令する。
 せっかく食えるようになったと喜んでいるインデアンの女子供まで、騎兵隊はみな殺しにしてのけたり、捕えたのは次の岩山だらけの居留地に送りこむ。これと同じ事が当時の日本では行われていたのである。
 アメリカでも今になると、インデアン迫害史を匿したがるように、日本でも高名な学者T氏の「日本奴隷経済史」のごときは、大宝養老神亀天宝の戸口簿人口と人口との対比表をだしている。


竹越与三郎の「日本経済史」でも正倉院文書で全人口の三・九%と見たり片方は五・六四%なりとみなしている。
これだと、が一人もいない地域が三分の一をしめる表である。農耕漁業をなす奴や寝間勤めや掃除洗濯の婢がいなくて、全ての労働をしない彼ら王侯貴族は、どうして暮らし得たのだろうか。
つまり竹越や滝川の根本的な誤りはその年に里長の許へ送られたの数だけの拾い出し計算による。


常識で考えても全人口の四%から五%のの働きで残りの者の食糧など生産できる筈はない。真実は反対であって、総人口の九五%がである。
 そのくせアメリカの「ルーツ」なみに、主人が婢にうませた子供さえも奴隷として売ったのが、「養老律令」にあるとし、西行法師の〈選集抄〉は後世の偽作とはことわりながらも、
その中の「越後上村の海浜にて、人馬の族を売買その中に幼きあり老いもあり、そぞろ涙こぼれぬ」を引用している。
人馬の族を人と馬とのせり市のごとくみているが、出てくるのは売られてとなる人間ばかり、滝川は知らないようだが、人馬族とは騎馬民族の末孫のシシをさすのである。


 ついでに書けば、奴隷価格でも〈正倉院文書〉を現行の読み方通りに判断して価格を誤っている。
「直布一端」は後の一反つまり八・五米ではない。〈唐令書〉では、掌をひろげ親指から小指までの巾としているゆえ二十㎝弱で四十二分の一。


また〈賦役令集〉和銅八年五月十九日の格の条文からして、「奴一口六百文、婢一口四百文」を引用するが、賦役令の一口とは宝くじの何組と言うような集団をさし、
一組のことで一人の事ではない。また織田信長の晩年でさえも、「一文斬り」といわれ、「罪人一人を斬り殺し穴を掘って埋めるまでが一文」ゆえ現在の壱万円相当。唐の玄宗皇帝の頃は一分で、
一文でなく、和銅銭とて鉄のビタ銭でなく銀、銅だった。こうした出鱈目な誤りを弟子や孫弟子もその儘受け継いでいるのが現状なのである。
 王朝時代の公卿の日記が数多く残され、これが活字本となり確定史料とされているから、架空の平将門が実在化したり、総てに可笑しくなります。
あれはみな藤原日本史でしかないのです。
 「自分らこそ天下って日本を統治しているのだ」という宣伝文書が歴史屋の史料とされていては、真相など解明出来はしない。
大和民族は単一だとしながらも、同和問題の本質も解明できていない。


原住民を卑下して、賤の者(卑しい人間)と見下して、彼らを「帰化人」の子孫としてしまいます。
しかし、日本原住民が、最初の「賤」とされたのは、奈良時代の非クダラ系日本原住民なのである。
西暦六六三年からは反仏教で、原住民は拝火教や山岳信仰だったから、大陸人がいくら全国に国分寺を建てて仏教を広めようとしても、絶対に転向せぬ異教徒原住民を「賤」とした。
次が北条体制による旧源氏残党の追放になる。そし足利時代に南朝方(朝鮮高麗系)についた地域全部というのが、所謂「」の発生の真実です。
アメーバや草木でも初めに種がなくては生えません。
 日本列島へ次々と入ってきた子孫が、今の日本人の八割以上ですから、「所謂」の者らこそ古参の我ら日本原住民の大先輩なのである。
 藤原王朝のごときは7世紀からの新参者で、鉄製武器で征服者になっただけの話にすぎません。
そしてこの子孫は現在でも原住系と混血を重ねてはいるが、全人口の一割は居るのである。


もう二度と中国の下風に立ってはいけない


余談になるが、記紀には仏教伝来は404年、漢字は552年と書かれている。
「仏教は素晴らしい宗教ですから、どうか日本人に広めて下さい」とお願いした訳ではない。
白人がキリスト教を持ち込んで、有色人種世界を植民地化した手法と全く同じなのである。
それまでの日本には拝火教や拝水教、山岳信仰などの「自然教」が在った。


さらに、漢字は実際は漢の時代の物なのに唐になってから「漢字」として占領軍が持ち込んで、自分たちの歴史を書いてしまった道具にすぎない。
そして古典四書として崇め奉られている「古事記」「日本書紀」「旧事紀」「古語拾遺」が漢字で書かれた。
だが古伝四書といわれる「ウエツフミ」「ホツマツタエ」「ミカサフミ」「カタカムナのウタヒ」と、古史四書「九鬼神伝精史」「竹内太古史」「富士高天原朝史」「物部秘史」がある。
さらに異録四書に「但馬事記」「東日流外三郡史」「忍日伝天孫記」「神道原典」もある。漢字以前の文字として岩戸蓋石古字やアヒルクサモジもある。
これらは「神代文字」と云い、銅鐸や古墳壁画の文様などを「絵文字」として一部は解読されても居る。
だが、これらはこの国の歴史学者たちに問題提起はしたが、その後の研究は進んでいないのが現状。
記紀を金科玉条とし、国民の税金で録を食んでいる各大学の教授連中は横着なのか、頭が悪いのか、はては難解すぎて手が付けられないのか。
大学で江戸時代そのままの師弟関係で、助手や助教授の昇進、転勤権を握っているため、若い者は新しい研究に突き進むことができないでいる。
歴史学会も「白い巨塔」なのであ。


さて、今や中国は巨大な怪物に成長した。最後の清朝崩壊後(1911)、中華民国から現在共産党一党独裁の中華人民共和国に変貌した。
この間約100年以上を経たが、ここ十年、経済力と軍事力を背景にした中国の台頭は凄まじい。




習近平王朝ともいうべき中国の一帯一路政策はまさに宗教ではなく、武力を背景にした「金」(かね)による世界制覇戦略に他ならない。
以前、安倍総理の特使として二階幹事長が訪中し、うやうやしく「親書」を手渡していた。これぞまさしく朝貢外交そのものではないか。
「あなたにひざまずきます」という「へつらう」姿がテレビ画面に映っていた。
安倍前総理は一帯一路に協力する姿勢を見せていたが、絶対これに乗ってはいけない。当面はアメリカと強力に連携して中国と対峙しなければならない時に、
何という無様な外交をしたものか。


 王毅外相・暴言と属国根性
 さらに、11月24日に行われた日中外相会談後の共同記者発表の場でとんでもない暴言が飛び出し日本人を唖然とさせた。
王毅外相は、「正体不明の漁船」がひんぱんに釣魚島の敏感な海域に進入しているため、中国公船がやむを得ず「必要な反応をしている」と「追尾」の理由を説明したのである。
日本では2020年5月以来、中国公船が尖閣領海に侵入し、「日本漁船を追尾している」との報道が目立つ。
追尾とは聞こえがいいが、内実は漁船を追い回し、漁をさせない悪質で危険な挑発行動である。
これに茂木敏充外相はその場で反論しませんでした。一事が万事、日本の現状をよく表しています。
日本は中国に完全に舐められているのである。


今、中国は人権問題で欧州各国から批判されている。日本は「クアッド(QUAD、日米豪印四力国戦略対話)」という「中国包囲網」を推進してもいる。
そんな四面楚歌の国際社会だからこそ、中国は習近平国家主席の「国賓来日」を実現したいのである。つまり、中国は日本に頼みごとをする立場なのである。
 にもかかわらず、王毅外相は日本の首都東京で「尖閣の領有権」を堂々と主張した。これを言語道断と言わず何という。

茂木外相はこう述べるべきだった。
「中国はなぜ日本の領海を侵すのか。国連調査で大量の石油資源の可能性が明らかになった。1970年以前には貴国は全く領有権を主張していない。
尖閣はわが国固有の領土であり、領海侵入を固くお断りする」
そして即刻帰国を促すのが、外交の常道なのである。
日本は政治家、文化人、マスコミにも「中国様大好き人間」が多くて、彼らの根底をなすのは「属国根性」である。

今や中国は尖閣を盗りに来て、沖縄にも様々な形の謀略の手を伸ばしている。
何しろ彼の国は孫氏の兵法を作り、陰謀と謀略戦術に長けた古狸で、周辺国を侵略し、収奪し属国化した歴史が山ほどもある前科者なのである。
中国4000年の歴史とは侵略の血塗られた歴史である。
中国が少し位「親日的」態度を見せたからと言って、甘く考えてはいけない。それも「悠久の戦略」と分析するべき。
いずれ、朝日新聞のような左巻きのマスコミや知識人を抱きこんだ「親中国国家」か、中国の太平洋の要である「中国日本省」建設を目指しているのであろう。
その兆候は日本国内の至る所で見られる。
大型連休だ、新元号(令和)に浮かれ、オリンピックに五兆円も使って舞い上がっている場合ではない。そんな金を使うなら、海上警備力増大のため海上保安官増員や巡視艇を建造し、
厳しく取り締まるべきである。


考察 原日本人

2021-03-20 18:43:26 | 新日本意外史 古代から現代まで


   考察 原日本人


日本人は、頭の小さなのは大陸、朝鮮系。長頭や大頭系が西南渡来系の先祖をもつとされています
だが、日本人をユダヤ系だなどと盲説を唱える者もいるが、そんなことはなく、れっきとした大陸渡来系と海洋渡来のサラセンの黄色人種なのである。
 日本人の元祖は……といっても、ジャワの「ピテカントロプス」とよばれる処の、〈ジャワ原人〉と、「フンナントロプス」とよばれる〈北京原人〉のいずれかしか考古学上では考えられはしません。




なにしろ五十万年位前の人間が進化して地球に出現してきた頃は、日本も大陸と地続きです。
 「更新晩期」から中期の時代には、ジャワも今のように赤道の向こうではなく、大陸と繋かっていたからでしょうが、上海の新聞には、江蘇省の鎮江地区丹徒県で、
北京原人と同時代らしい別個の古代人の化石が発見されたといいますが、やはり今の我々そっくりな有色人種で同じでしょう。


 ジャワ原人にしろ有色人種である事は間違いありません。イエスキリストが現われたのは二千年前の事で古代人は、その四、五十万年も昔の人間の先祖ですから、
すくなくとも紀元前十万年ぐらい迄の古代人は、熱帯では肌が黒色。他では亜熱帯の地に合う保護色みたいな黄色人種であったらしい。


今いう白っ子みたいな色素のないのが生まれてきたのは、当時は寒冷地だった現在のヨーロッパへ追われ、そこで繁殖した連中共なのです。寒さを防ぐために胸や腕に毛が密生したのでしょう。
 古代人骨として発掘されるのは北京原人やジャワ原人だけで、ヨーロッパ原人の化石は見つがらぬからの仮説ですが、もちろん白人の間では、北京原人やジャワ原人のような類人猿的原人が進化して、
純粋に人間らしくなったのが白色人種で、その進化に収り残されたのが鼻の低い有色人種なのだと、白人史観では主張します。


しかし、紀元前三千年のエジプト文明や、アラブ文明の頃には、白人はまだ毛むくじゃらのバイキングで、彼らは有色人種の奴隷だったのです。
そのせいか世界史はいつも、白人対有色人種の闘争史なのです。
つまり日本人の原点もジャワ原人と北京原人の複合民族で、紛れもない黄色民族なのです。

 原人の末裔

日本史は海洋潮流学を無視して、人間や文化が、朝鮮半島や中国とだけに結びつけたがるが、日本人の額は北京原人のごとく出張ってはいない。
だから、海洋渡来民族こそ真の先祖ではなかろうか。


 「シナントロプス・ペキネンシス」とよばれる北京原人は、洞穴の中で火を用いて煮炊きをしていた石器人種で、これは狩猟民族である。
動物や、彼らよりも古い「猿人」とか「藍田原人」とよばれる、押しひしやがれたような頭をもつ連中も捕えて、その肉を食していたらしい。


食糧に乏しく、獲物のない時は集団ごとに食う肉をうる為に戦もしていたものらしい。
彼らは紀元前五、六十万年の存在で、その後は、火によって青竹の先を焼き矢にした弓をも持つように進化していったのを人類学的には、「ネアンデルタール人」とよび、
一般には北京原人やジャワ原人と区別して「旧人」とよび、紀元前数千年ぐらい前からの人類を、「クロマニョン人」とよび、これを「現代人」とか「新人」とします。


日本列島では、原人や猿人、旧人の遺骨も発見されず、ただ静岡県の三ケ日で、新人の頭骨が発見されただけです。
中国の柳江や山頂洞で見つかったのと同じ特徴で、門歯の裏側が臼みたいになっているのは、もはや穀物を主食にしだしていた事を証明しています。
これこそが日本での原人の先祖です。


 が北京原人が肉食人種でジャワ原人が果食人種であったらしい想定からしますと、すでに日本列島にもその頃から果樹がはえ茂ったり、食べられる草根がもう植えられていた事になってきます。
 人類学的に中国大陸に比べて未開発途上国だったことは否定できませんが、明治時代に水戸の荒磯神社近くに、臼歯で前歯をくだいた頭骨の古くなって風化しかけだのが、
多量に深い地底から見つかった事があります。


ジャワ原人の後裔の頭蓋骨の大きな門歯臼歯のあった南方新人のものです。となるとエケセテネの発音を今も姓の上につける古代海人族こそ日本人の先祖で、
それを大陸からの北京原人の子孫が、押し寄せてきて人間狩りを次々とし征服したものと想われます。


さて、話は日本の縄文から弥生時代に飛びます。紀元前の縄文時代、中国では夏、殷、周、春秋の時代でした。
弥生時代になると、秦、前漢、後漢、三国時代です。鉄武器を持った王朝が続き文化の高い国でした。


弥生時代の日本列島には、海洋渡来で様々な民族の流入がありました。
アラブ系、インド系、ポリネシア系、インドネシア系、マレーシアやベトナム系が、海流に乗って流れつき、太平洋沿岸の各地に上陸して、農業生活をしておりました。
さらに中国大陸からも、朝鮮半島からも流入はありました。さらに沿海州からは蒙古族の騎馬民族も入ってきました。
日本には宝船に乗った「七福神」伝説が有名でが、
七福神とは、大黒天(だいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、恵比寿天(えびすてん)、寿老人(じゅろうじん)、福禄寿(ふくろくじゅ)、弁財天(べんざいてん)、布袋尊(ほていそん)の七つの神様の総称です。
これが海から来た民族の証拠なのです。ですから「大和民族単一説」は間違いです。


北朝鮮、韓国は泥棒国家 帰属財産とは  覇権国家中国

2021-03-14 18:39:27 | 新日本意外史 古代から現代まで

 北朝鮮、韓国は泥棒国家
 帰属財産とは


韓国はいわゆる「従軍慰安婦」と「強制労働者」問題を蒸し返し、反日政策を展開している。
一方の北朝鮮は日本人を拉致し、何十人もの人間を国内に隠し、拉致問題は「解決済み」と惚けている。
「解決済み」という言葉は日本が云うべき言葉なのに、恥知らずにも程がある。


そして朝鮮を併合したことに謝罪し、金を寄こせと言っている。
この条件をのまなければ対話に応じないと、勝手な熱を吹いている。全く二国とも「泥棒国家」でまともな対話ができない現状である。
朝鮮半島は日本が戦争に負けたため、アメリカが一時統治したのは衆知のことです。


1945年にポツダム宣言によって第2次世界大戦が終わりました。そして、それまで日本に統治されていた朝鮮半島がソ連とアメリカによって統治されます。

ソ連:北緯38度線から北の地域(今の北朝鮮)
アメリカ:北緯38度線から南の地域(今の韓国)
このように分けて統治された朝鮮半島でしたが、1945年の時点では1947年に選挙を機会として南北を統一する予定でした。
しかしながら、朝鮮の北部では選挙を前にして、北朝鮮は現在の指導者「刈上げデブ」金正恩の爺さんに当たる金日成をトップとした改革が進み、選挙は南部が先に始めるなどして、朝鮮半島の統一は決裂。
このようにして、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が1948年に誕生します。とはいえ北朝鮮と韓国は、互いに不満がたまった状態での建国だったこともあって1950年には朝鮮戦争が起こります。


この帰属財産が何であるかを理解すれば、韓国はアメリカと日本に感謝の念を抱かずにはいられないだろう。
 韓国と日本の間には、金銭的、非金銭的な損益計算書が存在する。その中で、まず第一に挙げられるのがこの「帰属財産」なのである。


帰属財産という名称は、米軍政がつけたものだが、日本が朝鮮に残した財産をアメリカが全て差し押さえ、その所有権を韓国政府に引き渡した財産という意味だ。
韓国の人の中でこのような事実を知っている者は少ないだろう。この帰属財産が何なのかということを理解すれば、アメリカと日本に感謝の念を抱くことができるのではないだろうか。
そして、韓国が、国際協定を破り、蒸し返す現状では、低次元で泥沼の土俵で勝負することはないが、相手を脅す意味で、
日本もこの帰属財産返還要求も視野に入れてもいいのではないか。


 二千一五年十月、成均館大学の李大根名誉教授は『帰属財産に関する研究、植民地統治の遺産と韓国経済の道のり』という七〇〇ページに及ぶ本を出した。
その内容を要約したのが『反日への最後通告』の著者 韓国人評論家 池萬元氏である。(以下はその著書からの引用になる。)

一九四五年、日本は三十六年間朝鮮の地に建設したダム、鉄道、道路、港湾、電気、鉱工業、製造業など、様々な分野の社会的間接資本を丸ごと残したまま引き揚げた。
日本人は運用していた個人・企業財産その全てを置き去りにした。米軍は、朝鮮から退却する日本人たちのポケットの中まで調べ、紙幣一枚残らず押収した。
北朝鮮には二十九億ドル、韓国には二十三億ドル相当の公共財産が転がり込むこととなった。日本が韓国に残した二十三億ドルは、米軍政が李承晩政府に委譲したが、これは当時の韓国経済規模の八割以上を占めていた。
一言で言えば、この帰属財産が存在しなければ、当時の韓国経済はお先真っ暗の状態だった。


 それから二十年経った一九六五年、朴正煕政権が日本から無償で供与された額は三億ドル、上述の二十三億ドルはこの八倍。このような莫大な財産を、
あえて言うならアメリカが日本から無理やり韓国へ引き渡したのだという事実を我々は知らなければならない。
 では、李氏朝鮮五一八年を代々統治してきた二十七人の王たちが成し遂げた国の資産について考えてみたい。道路や鉄道の整備などはされたのか。近代的企業が出現する環境が作られていたのか。
ハングル辞書などのまともな単語帳を一つでも作ったか?二十七人にものぼる王たちは、道路を作れば中国から女真族が侵入してくると信じて疑わず、元々あった道すらなくしてしまう程であった。
宣柤(朝鮮十四代目の王)は、壬辰倭乱の渦中、中国に亡命することしか念頭になかった。彼らは、民を奴隷のようにこき使っていた。五一八年間の歳月で朝鮮の王たちが残したものは、藁の家、道路のないソウル、
糞尿だらけの路地、禿山、迷信と陰謀にふりまわされる未開人たちが共存する辺境であった。


 その一方日本は、たった三十六年の問に朝鮮に五十二億ドルの財産を残してくれた。この莫大な財産をアメリカがいわば奪うようにして、大韓民国の建国者である李承晩に「贈り物」のように与えてくれた。
アメリカは、我々の力では守り切れなかった国を日本から取り返してくれた上に、当時としては想像もつかないような天文学的な金額の財産も日本から取り返してくれた。
我々は、アメリカだけでなく日本にも感謝の気持ちをもつべきなのだ。我々が恩知らずな民族となってしまったのは、共産主義者たちの歴史捏造のせいだ。


 米軍政は当初、日本人の私有財産を差し押さえの対象から除外していたが、軍政法令第八号(一九四七年十月六日制定)により、その後私有財産も差し押さえとなった。
公的・私的財産目録は十七万六〇五件、李承晩政府に渡されるまでの三年間、米軍政はその管理に多くの人員と経費をかけていた。
米軍政に引き渡されず、農林部などに登録されていた日本人の財産は十二万一三〇四件にのぼる。この全てを合わせた総財産は二九万一九〇九件に及んだ。

 アメリカはどこまで日本人を丸裸にしたのかというと、帰国する日本人が所持できる金額を極度に制限し、民間人は千円、軍の将校は五百円、士兵は二五〇円とし、これ以上は所持を許さなかった。
釜山港から帰国する日本人の荷物検査も徹底した。一九四五年末までに朝鮮半島から日本に引き揚げた民間人は、四十七万人余りだった。
駐韓米軍司令部情報参謀部が一九四五年十一月三日に作成した『情報日誌』五十四号によると、一部の日本人が一五〇円払って、密航船を利用したという記録もある。
これらの資料は韓国の国史編纂委員会電子資料館に保管されている。だが、密航船を使い脱出した日本人は果たしてどれぐらいいたのか。我々が記憶しておくべきことは、
アメリカが日本人を身ぐるみはがした状態で日本に送り返したという事実である。


 日本人が残していった数多くの株式会社級の企業は、その後どうなったかというと、大部分は、その会社の職員または関係のある朝鮮人たちに安価で売り渡され、大企業へと成長を遂げた。今日の韓
国の大企業は、ほぼ例外なく元々は日本企業で、朝鮮人たちが個人で創った会社には「商会」という称号がついていた。
下記の事例は、現在の韓国の大企業が解放後、自らの力でIから会社を興したわけではなかったということを証拠づけている。


昭和麒麟ビール、サッポロビール、朝鮮油脂、鮮京織物、永岡製菓、小野田セメント、韓国貯蓄銀行、三越百貨店、丁子屋百貨店、朝鮮精錬、是川製鉄所、朝鮮生命、朝鮮燃料、
三国石炭、森永製菓、朝鮮郵船、東洋紡績、浅野セメント、京城電気、朝鮮電業、鐘紡紡績、朝鮮米穀、朝鮮重工業、朝鮮火災海上保険、中外製薬、(以下略)

これらが韓国の会社へ二束三文で売り渡されたり、タダで受け渡されている。
だから、現在我が物顔をしている韓国企業は、そのほとんどが日本人が設立し、経営していた会社なのである。
一つ笑い話がある。それはサッポロビールや、麒麟ビールが、製造方法やノウハウをそっくり置いてきたのに、韓国人技術者が下手なため、味が悪い。
何故なら、日本の会社は日々消費者の動向を調査し、「改善」するが、韓国人はしない。従って自国のビールを飲まず、日本からサッポロや麒麟ビールを大量に輸入している始末。
現在、日本製品ボイコット中だから、美味しい日本のビールが飲めず「やせ我慢」しているのである。


もう一つある。以前私がグアムのホテルで食事していた時、隣の席で大声で騒いでいる韓国人の一団が居た。
そして、ビールを頼んでいたが、それが何と「サッポロビール」なのである。グアムのホテルは、日本はもとより、バドワイザーから青島、ドイツビールまで揃っている。
他国に観光に来てまで、日本のビールを飲まなけばならない彼らの日本好きの一面が垣間見えた一事である。韓国の「反日症候群」と中国の「武漢病毒悪性肺炎」の絶滅は何時になるのか。




さて、日本的商法の大きな特徴は「道徳と利益は一致する」なので、お客を満足させ、喜んで貰ってお金を頂く。
しかし韓国人(朝鮮民族)は儲け第一主義で、良い品を売ろうとしない。利幅が多くリベートが入るものを優先する。要するに儲ければ何でもいい。
戦前、満州の日本人社会で語られていた有名な言葉がある。




「チャンコロ(中国人)は手強いぞ。アサ公(朝鮮人)はずる賢い。ロスケ(ロシア人)は図太いから気を付けろ」だった。
人の良い日本人が、商売や様々な交渉事で難儀したことの戒めである。
当時の日本人は、表向きは彼らを差別し、尊大に振舞ってはいたが、裏返した内心では「畏怖」していたことになる。
ちなみに、中国人の民族性にも触れておく。

 覇権国家中国

信じがたい隠蔽によって、武漢病毒肺炎(新型コロナウイルス)を世界に広げ、戦後世界最大の悲劇を人類にもたらした中国。
2021年1月20日、世界の感染者は9600万人、死者は200万人を突破した。
この武漢病毒肺炎過禍に関し謝罪どころか「対応に成功した」と、自画自賛のうえ「世界は感謝せよ」傲然と言い放った国である。

彼らはあくまでも自分第一である。その次が家族で、次が宗族て最後は同郷となる。
(宗族については右を参照  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%97%8F)
彼らは基本的に「公」の概念が無い。従って時の政府や政権、国家などは実はどうでもいいのである。


だから、現在、習近平共産党独裁国家でも、国民は体制に入り込んでよい生活ができればそれで良い。共産党員は一億人近くいるのでも理解できる。だから腐敗は絶えない。
さらに一般でも、独裁の網の目を縫い、家族と宗族、同郷が団結して甘い汁が吸えれば幸せ。これが中国民族4000年のしたたかさなのである。
ましてや、「弱い振り」してアメリカや日本を騙し、隠忍自重して力を付け、今や経済も軍事力もアメリカを凌駕する勢いである。そこへ、
「中華民族が世界を指導する」とスローガンを掲げれば国民の士気は否が応でも上がる。


日本人は他人の失敗を「お互い様」と宥恕するが、中国人は自分の失敗を「お互い様」と正当化する。
さらに、日本人にとって嘘をつくことは「恥ずべき行為」だが、中国人は「恥ずべき行為を隠すため」嘘をつく。

ここに、中国共産党が掲げる「二つの百年」という奮闘目標がある。
一つは「結党百周年」の二〇二一年、「建国百周年」の二〇四九年の二つがそれである。
 二〇三五年までに「社会主義現代化」を実現し、建国百周年の二〇四九年までに「中華民族の偉大なる復興」を成し遂げ、世界の覇権を奪取するという目標である。
これは、中国の前に立ちはだかっていたトランプ氏の退場で増々加速するだろう。
そして、中国寄りのバイデン大統領の登場で、香港の民主化を殺し、次は台湾進攻の足音さえ聞こえてきた。


 昨日のチべットーウイグル、今日の香港、明日の台湾。これはもはや、それは紛うことなき現実として、私たちの目の前に迫っているのである。
 中国の台頭と膨張によって、彼らの力による現状変更”の危機が日本にも近づいている。尖閣を「核心的利益」と表現し、「台湾の独立分子は武力で排除する」と強弁する中国に、
では、日本はどんな。備え”をしているのか。
中国によるチベットや、ウイグルへのジェノサイド、内モンゴルの文化破壊、香港では「一国二制度」が葬り去られ、人権弾圧の嵐。次は台湾が危ない。
そして、尖閣を盗り、沖縄を盗ったら、次は日本なのである。
つまり中華帝国の秩序に組み込まれたらどうなるのか、日本はこの恐ろしさに気づいていない。日本が占領されたらどうなるか以下の書に詳細。
(門田隆将&石 平 両氏の著書『中国の電撃侵略』)




日本は、こうした韓国や中国の邪悪な戦略を見据えた国策を取る必要が出てきた。米国の新バイデン政権も、米韓同盟の危うさに対する懸念も表明している。
こうした、中国の尖閣奪還や韓国の日本敵視政策を目前にして、日米同盟に頼り切っている日本は果たしてどの道を進むのか。
重大な岐路に立たされている。