新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

五木寛之が書いたサンカ物語「風の王国」

2019-05-03 12:01:51 | 古代から現代史まで
五木寛之が書いたサンカ物語 
 
 
サンカの歴史はアイヌのユーカラのように、口伝えで伝承されている。 彼らは絶対に文字では残さない民族なのである。
 昭和になって作家の五木寛之が「小説新潮」に三回連載したのが「風の王国」の一冊として刊行された。これは1985年のことである。
 「先ず申し上げておこう。吾々は長い間ずっと口伝えによる文化の伝承を、文字による記録よりも大切にして生きてきた。(中略)しかし心のよりどころとしては文字より言葉、声による口伝えを根本とする」 とその237頁に、浪骨の言葉として、五木寛之は訴えたい事を書いている。 これはこの通りなのである。  
 
そして又サンカを次のようにも表現している。
「―― 山に生き山に死ぬる人びとあり。これ山民なり。
 里に生き里に死ぬる人びとあり。これ常民なり。
 山をおりて、里にすまず、里に生きて、山を忘れず、山と里のあわいに流れ、旅に生まれ旅に死ぬるものあり。
 これ一所不在、一畝不耕の浪民なり。山民は骨なり。常民は肉なり。
 山と里の間を流れる浪民は、血なり、血液なり。血液なき社会は、生ける社会にあらず。
 浪民は社会の血流なり。生存の証なり。浪民をみずからの内に認めざる社会は、停滞し枯死す。
 われらは永遠の浪民として社会を放浪し、世に活力と生命をあたえるものなり。 乞行(ごうぎょう)の意義、またここに存す。乞行の遍路、世にいれられざるときには、 自然の加工採取物をもって常民の志をうく。これ《セケンシ》の始めなり。
 山は彼岸なり。里は此岸なり。この二つの世の皮膜を流れ生きるもの、これ《セケンシ》の道なり。
 われらは統治せず。統治されず。一片の赤心、これを同朋に捧ぐ。されど人の世、歴史の流れのなかに―――」
これも文学的な上手い表現で秀逸である。
 
 かって五木は「戒厳令の夜」でも、少し触れているが、このサンカを書きたいために「さらばモスクワ愚連隊」を書いてから数十年かかって、ようやく正面切ってというか、 居直って全体の250頁以下に「フタカミ講」と「渾流組」といったものを、小佐野賢治をモデルにしたような、壮大な射狩野グループとの三つ巴の中で、当時世間を騒がせていた連中に迷惑の掛からぬようにとの用心から配慮して、流浪のサンカ集団を、僅か55人の紺脚絆の <へんろう会>の「天武人神講」としている。
 中間雑誌の「小説新潮」に三回の連載を加筆訂正してをして本にしたのだが、五木は賢い作家だから「この小説は作者の想像に基づく創作で実際のいかなる団体や人物とも関係が有りません」と書きしている。
これはサンカの子孫が現代でも夥しい数が居て、 古来より間違った理解や、歪められた実像のため一部は差別されている現状に配慮したものであろう。
 後書きの後に、参考資料として160余点の書名が列記されているものの、言っては悪いが、まあ増しなのは故宮本常一の「日本民衆史②」の「山に生きる人々」ぐらいのもので、他は「柳田国男著作集」辺りだろう。
 肝心な八切止夫の「サンカ生活体験記」を読んでいない。 彼が参考にしたほとんどの関係の本は、故菊地山哉が、サンカを差別した、即ち反サンカ側の仏教側資料によって解明しているところのものである。
 
 これは、日本列島に裏日本から渡来してきた騎馬民族に溶け込んで暮らしていた騎馬民族系 サンカ(白サンカ)までしか解明されていないもので、それをその儘に転用して自説としたものにすぎない著作ばかりだからである。 さて、五木の小説に戻る。 同書の252頁から晒野老人の語りとして書かれている部分は良く調べられている。 引用すれば、
「明治十年の竹内街道の工事に、非定住や無戸籍の人々を二上山の南麓の柵で囲んだ窪地へ強制連行してきた」(さながら類人猿でも捕らえたように両手両足を荒縄で縛り棒に通して、  泣き叫ぶ女子供まで、サンカ、サンカと物珍しそうにはやし立てて曳きたててきた)という。
 ここのところを原文では葛城哀の言葉として次のように話させている。
「吉野川の河原で捕らえられた者、大和川や石川や、もっと小さな川の付近に<セブ>っていて、捕まったもの。物乞いのグループもありました。蓑直しをやって回って歩いたもの。芸人、雲水、  病人たち。可哀想だったのは、葛城山中で捕らえられた<ケンシ>たちで、両手を縛って棒に通し 熊狩りの帰りみたいに<山窩狩り>だと、大声でわめきながら、ぶら下げられて連れて行かれたといいます」
 とのべ、その「連行の理由は」と聞かれると、
 「無籍流浪の人間は為政者にとっては困りものです。徴兵が出来ない、税金が取れない。  国家の義務教育を受けようとしない。つまり国民の(条件としての)三大義務を拒否する人々ですからね。  明治政府のみならず、古代から現代に至るまで<サンカ>という奇怪なイメージを大きく膨らませ、様々な猟奇的な犯罪を事あるごとにサンカに押し付け・・・・・」と語らせている。
【(注)】当時の政府は実際に、残酷で猟奇的な当時は誤解と好奇心から多くに読まれた「明治大正犯罪実録」等という本で    サンカを異常性愛者や凶悪犯罪者として描いている。   「大和地方王権の成立以来、人民の定住と戸籍の整備による管理政策は、この列島統治の土台でもあります。古代律令制の始まりとして、670年にいわゆる<庚午年籍>が制定されて以来戸籍は常に権力の基礎でした。にもかかわらず挙国一致体制のもとでも、なお戸籍編入を拒み、国民の三大義務である<徴兵><納税><義務教育>の三つを無視し続けた多くの人々が、この日本列島の地面の下を地下水のように秘かに流動していたことを誰も否定することは出来ないでしょう」
 と、流石に五木寛之らしい名文で、判りやすく適格に書かれている
 
 
ただ日清戦争の動員の後でさえ、二十数万人、第二次大戦後の昭和24年の時点でなお約14000人、その他様々な職業に就いた人々や、無職で漂白していた人々を加えれば八十数万の人々が、無戸籍で流動していた事実を五木寛之は知らなかったのだろう。
しかし、次の文章では、
 それらの体制側から見れば「非国民」を根こそぎ強制的に定着させたのが、昭和27年の朝鮮戦争だった。
この戦争を機に(GHQ指令による徴兵令発布準備のため)国家再編成を進める基本として、全国的に施行された<住民登録令>である。
 この法律によって、引越ししたら二週間以内に届出をしないと罰則、という具合に、米穀通帳、国民年金、健康保険、選挙人名簿の一括登録。国民オール背番号制に統一のための住民基本台帳法として完成する政令によって、戸籍を拒否する人間は一人たりともこの国には住まわせないという強烈な国家意志によって、これによって実質的に 千数百年の<浪民>の歴史は表面的にその幕を下ろした。と、明確な筆致で描写している。
 
 
おそらく次々の国勢調査の計算に基づき、住民基本台帳法の登録人口数との差し引きで割り出した数字で、 確実な調査法方によってはじき出された数字である事は間違いあるまい。 つまり今時米穀通帳など有名無実に過ぎないのに、米穀登録法の法律が頑として現存しているのもこの訳からなのだと良くわかりうる。
 しかし、である。この計算は「住民登録令」のコンピューターに打ち込まれた数字を絶対数値とみなしての差し引き算に過ぎない。選挙権も要らない、健保や年金も欲しくないといった連中が皆無で、 全員が住民登録を完全にしたという根拠は無い。 となると数字は大巾に変わる。  サンカに対して「浪民」といった、優れた造語を作ってくれた五木寛之には敬意を表する。
【(注)】サンカのポリシーは古来より、前記したように、『人間を統治せず、されず、相互扶助』である。  この社会形態は人間の営みにとって最高のしかけではなかろうか。 彼らサンカがこの日本列島へ漂着し、争いも無く平和に暮らしていた時代、大陸から漢字や仏教を 持ち込んで来た統治勢力が、有無を言わさず己らの凶悪な価値観を押し付け、言う事を聞かねば、 奴隷化したり追放や隔離、殺戮したことは、正当化出来るものではなかろう。
これは、平和に暮らしていたアメリカインデアンやペルーやオーストラリアなどの原住民を殺戮、略奪し 統治した白人達の所業と同根である。
 そして、幾多の戦争を繰返しながら、農業化社会から封建時代、二十世紀の工業化社会を経て、 二十一世紀の現在に至る情報化社会へと変遷し、欲望と物欲の跋扈する現状を何と見るかである。 そしてもう日本の現状はあの素晴らしいサンカのポリシーへは後戻りは出来ないのである。 となれば現実的に生きていかなければならない。 ゆえに日本も世界に伍して発展しなければならないという三段論法に帰結せざるを得ない。
たとえば、経済的には貧しくとも、文化に対する国民の造詣が深く、素晴らしい芸術を次々と生み出す国があっても一向に           かまわない。また、お金を追求する人生ではなく「清く貧しく美しく」という生き方に重点を置く人生があってもいい。            だが、これは価値観の問題なのだが、日本のような先進国の一員とさなった国家が、ここで価値観を180度変えることは           もう出来ないだろう。以下にこの考えを基本においての、考察をしてみたい。                       それは、簡単に説明すると、20世紀後半から現在にかけてのサイバー化が進んだグローバル経済の世界では、「勝ち組」が           国境を越えて「負け組」からどんどん富を奪い、しかも、その構造が固定化される恐れがあるからである。             今の時代、鎖国をして「我が国はどの国からも奪わないから、その代わりにどの国もわが国から奪わないでくれ」と宣言する           ことなど不可能であるということは、世界情勢を怜悧に俯瞰すれば誰でも判ることである。            このサイバー社会には「できるヤツ」と「できないヤツ」の二種類しか存在しないのである。そして現在、両者の格差は、本当の           格差社会とはこのことではないかと思えるほど急速に開いている。即ち、できるヤツに富は集まり、できないヤツは負け続けて           いるのである。このことに我々は恐怖と危機感をもつべきである。                       その上で、日本人一人ひとりがIQを高めていき、今後も経済的繁栄を維持できる日本を目指すべきなのである。           人々の経済的生活が豊かになればなるほど、世界中で起きている宗教的、民族的、或いはナショナリズム的紛争も解決の            方向へ向かうだろう。何故なら全ての破局は経済的破局に通じるし、中国的に言えば「衣食足りて礼節を知る」ということで           ある。  
 閑話休題。
 「五木寛之が書いたサンカ物語」
        第二部
さて、サンカの「箕づくり」というのは昔は「ささら衆」と呼ばれ今の流行歌では「ヤン衆」と間違って漁船乗りにされている。 しかし、豊臣秀吉の幼い頃は、甥の福島正則の生家も「ササラ衆」だったし、加藤清正の父親も 「藪塚」の弾正で、つまり竹藪ので、尾張の中村では棟梁だったぐらいだから、秀吉の出自もササラの八なのである。
 
 
 
これを日本史では「安国寺文書」に(藤吉郎さりとてハのものにて・・・・)とあるところから この八をハと間違って「藤吉郎はなかなかの者である」と解釈しているが、全くサンカの歴史を知らないからこうしたトンチンカンな苦し紛れの解釈となる。
 
秀吉と同じ八の素性だから取り立てた堺えびす島の、田中千阿弥の倅が、ササラ衆しか竹を扱うことが出来ない限定職の掟なのをよいことに、それまでは明国舶来の赤銅製の茶びしゃくや茶托類を、竹細工で代用させ製作させた。これは当時茶道の流行とあいまって莫大な利益になり、ササラ部族は大いに儲けていた。  この時、秀吉に対してササラ衆の謀叛の噂を堺奉行石田木工頭に察知された。 そこで門人の山上宗二を捕らえて尋問した所、大変な陰謀が在ることが判った。
それは、「秀吉はササラの出身なのに、ササラとは真逆の宗旨の坊主共から政治献金させ、先代信長様が未来永劫再建は許すまじと焼き払った、寺々の復興を許すとは、もっての外の沙汰である。よって豊富な軍資金を持って実力にて秀吉を倒さん。」 との謀叛計画であった。
茶の湯の詳細は以下に在。 http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/tyanoyu.htm
 
この謀叛話を聞いた秀吉は烈火の如く怒り「しゃッつら、見るだに憎らし」と石田木工頭の弟で、秀吉が子供のように可愛がっていた懐刀の石田三成に命じて、山上宗二の耳を削ぎ、鼻を削り取ったツンツルテンの生首を、堺の上エビスの木戸にさらさせた。
 「刀狩り」と全国的に、太閤検地をさせると同時に、土民共の武器を一切合財取り上げた。 そして千宗易を八付にして殺した。 宗易一派が茶道具を高値でさばき、膨大な利益を得ていたやっかみから、 「これで利も休みじゃろう」と明国よりの舶来茶道具商人は皆喜んで千宗易のことを「利休」とあだ名した。 妻の宗恩も捕らえられ蛇責めにされ、謀叛の詳細な取調べを受けたと、当時の神祇大福吉田兼見卿の 日記には出ていて、その際の千宗易の名前が「理休」と出ている。
 さて、一味したササラ衆も、秀吉の朝鮮外征の後顧の憂いのないよう、一網打尽にされ、日本各地のゲットーへ分散して放りこまれた。
 
大阪以西の各地に散見するには、今も「茶セン」の名が残るのが、この時放逐されたササラの子孫なのである。
 つまりサンカの箕作りは、太閤検地の二年後に全国的に各地のへ収容され、しかし追捕されるのを嫌い逃げたのがサンカササラで、当時はササラの同族の清洲25万石の領主だった福島正則の許へ逃げ込んだのである。
 
 
ササラ上がりの有名な豪傑、槍の半蔵と謳われた可児才蔵さえも、正則を頼って逃げ込んでいる。 正則も秀吉の甥なのにこのササラ同族の宗旨で、豊臣家を見限り、関が原合戦では家康側についた。
が、大阪御陣では、家康はササラ族の勢力を恐れて秀忠の居る江戸城に軟禁されてしまう。 後、当時は辺鄙な信州川中島二万石へ福島正則は流罪にされ、そこで死ぬのである。
 逃げた箕の作りサンカは、農耕する八の百姓に、昔は米やヒエ、粟の収穫時には必需品だった 箕のを竹細工で作って食物と交換して各地に秘かに行き続けた。 明治になるまで人頭税を納める昔ながらの白の弾正、赤の博士や太夫と違って、 サンカの頭領のオオモト様は、「箕一つ」だけでよく、これが最低の貢物として受け取り、決して贅沢はせず、それを集めて赤サンカに渡して得られる雑穀を、病人や貧しいセブリの者達に施して、相互扶助を続けたのである。
 かっては、箕を集めて歩いた世間師のツナギ(連絡係)も明治の全国統一の時代の貨幣制度になると、 かさばらぬように集めた銭も紙幣に変えて、余裕のある処からは少し多めに集めて配った。
 明治になってもサンカのオオモトさまさえ、贅沢はせず、サンカ独特のべったら漬けを副食にした粗食で堪え、皆からは崇められたという。
だから「サンカ=箕」という考えは誤りではなく、農耕器具の脱穀機が輸入されるまでは、百姓は箕が必需品で、重要な道具だった。
 さて、五木の書いた、二上山のサンカ狩りこみは250人となっているが、日本全国何処でも各地の県令は、中央政府からの任命官僚だから、サンカはただで使い殺しの低コストの労働力として 強制連行して使っていた。
「明治密偵史」には写真が出ているが、箱根登山の人力鉄道のトロッコ押しをさせ、明治になると鉄の鎖が輸入されたので、サンカ八名を一つの柱に括りつけ、これが後の「タコ部屋」の始まりで、 これをやったのは神奈川県の県令だった。
 また九州の県令は、西南の役の際、政府軍の危険な最前線の人夫には、棒に括りつけてきた サンカを強制的に使役し、そのほとんどを使い殺しにしたと伝わっている。
 

日本茶にまつわる考証 茶博打の発祥 茶道 茶の湯、茶博打、茶筅 裏千家の大恩人吉良上野介

2019-05-03 09:52:28 | 古代から現代史まで

日本茶にまつわる考証

 茶博打の発祥 茶道、

茶の湯、茶博打、茶筅

 裏千家の大恩人吉良上野介

現在、コーヒーや紅茶は言わないが、日本茶を出す時には「カラ茶ですけど・・・・」という事がある。 田舎では「お茶うけ」として漬物を出すところもあるが、今では、お茶菓なしの意味だが、本来は唐茶(からちゃ)のことで即ち唐から輸入の外来茶の意味。 最澄が唐より持参したお茶で昔は煎じて飲む薬だったのが、三百五十年後に栄西が日本でも栽培をなし奨励して般化した。

 しかし飲用というより唐風の蓋付茶碗の中に、茶柱が有るか無いか、また立っているのかどうかと賭けるためのものだった。 〈看聞御記〉に記されているように、伏見宮が茶博打が開帳されている寺へ出かけて「いっちややるべえと」言ったという記載がある。 これを「書見台子の茶」というが、これを庶民が真似をして、門前の小僧習わぬ経を読むというが、寺の近くで小屋がけして見習ったのが、賭け茶屋なのである。 今は(腰をかけるから掛け茶屋)なのだと歴史書にも書かれているが間違いである。今も昔も庶民は、ギャンブル好きゆえ、寺門の近くに集まり、 これが後の門前町となったのである。今でいうゲームセンターであろう。 腰掛に赤毛氈を敷き、軒先には目立つように赤旗をはためかせたのは、中国茶は赤茶色だから、赤茶博打を開帳しているという目印の為で客寄せだったのである。

茶の湯

 南北朝の頃は「林間茶湯」と呼ばれていた。 現代のサウナ風呂のような蒸し風呂で汗をかきつつ、木にぶらさげた賞品の奪い合いの茶博奕で、水で茶をいれる訳はないのに「湯」の字が付くのはそのためなのである。  足利期になると、日本原住民の者が体制側に勤めようとすれば、頭を丸めナムアミダと唱え阿弥とつけねば奉公できなかった。  己が民族へ食うためとは言え、これは裏切り行為でしかなかったのである。それゆえ、堺あたりで、口惜しさと悔いで集った連中が持ちだしてきた茶に、 緑青をまぜたのを廻し呑みしつ、「この中で誰かが死ぬかも知れへんが、それは皆に代ってのご先祖さまへの罪滅ぼしや」と急性胃炎で死ぬ者が出ても免罪符のごとく考え侘びの茶とした。 しかし革屋業の松屋あたりへ役人が見廻りにきて発見され、 「植物はつめば枯れて茶褐色になるものなのに、汝らが喫しているのは青黒色なのは何であるか」と、見つかって取調べを受けた時は、これは青葉のままで密封してます特殊な茶ですと誤魔化した。 だから戦国期に入ると、武州狭山とか駿府清水、宇治河原といった日本原住系の除地とよばれる特殊地にのみ茶は限定栽培されるようになり、江戸期に入っても抹茶は公家は喫しないのが実状だった。

茶道

 織出信長が茶道を盛んにしたのは道楽ではない。戦国時代は、家臣や降参した武将が、いくら口先で忠誠を誓ったり、起請文を書いてもすぐ裏切り者がでる。 故に信長は青茶をリトマス試験紙にしたのである。  亭主と呼ばれる側は茶をたてるだけで一口も喫らず、呼ばれた者が神妙に畏まって呑むのは、生死を賭けての試験場だったからである。 つまり逃げ出せぬように入口も、にじり囗と極めて狭かった。この作法は現在でもそのまま継承されている。  元禄期に入って仏教を国教にするため転宗せぬ原住民系の者らへの大弾圧が始った時、京へきた吉良上野介は千宗易の血脈をひくと称する宗室をもってきて別個に体制側千家を新しくたてた。 だが吉良はこのとき、茶を喫する前と後に甘味を口中へ入れ、先に胃壁にアルカリ膜をはらせ、三口半にゆっくり刺激せぬように呑みこみ、 また甘味を入れて中和させ絶対に急性胃炎を起さぬ茶道を創始した。 このため新興の裏千家の茶は婦女にも安心して親しまれ隆盛の途をたどるようになったのである。

茶博奕

始めは、茶碗の蓋をとって茶柱の有無に賭けるだけの単純なものだったが、本非の沙汰を味で見分け、唐渡来の本場茶なのか、内地産の茶なのかを、 呑みわけの難しいものになってきたのである。 現在、コーヒーのモカ何%キリマンジャロ何%とミックスを呑み分けて当てるように、茶の割合を舌で当てるポンピ(日本の「ポン」、いいやそうじゃない「非」) の勝負は銭を賭けて鉄火場となり、京の鴨川ベリで客引きするのをポンピぴきといった。 現在鉄火場は法律違反だから、キャバクラやぼったくりバーの客引きが「ポンピキ」と呼ばれている。  赤い唐茶は公家のものゆえ緑青茶で泡だてが、巧くゆくかどうかの、庶民の間での賭け茶屋もできた。 江戸期に入っても、尾張や出雲では盛んで、街道絵で紺色の旗をひらめかしているのがその茶店で、江戸期の浮世絵ではよく見られる。

お詫びの茶が賭に変ったのである。だが勝っても街道の茶店では銭をくれない。だからよしずの蔭の天水桶の生温い陽なた水に、ざぶっと飛びこみ汗を流させて貰う行水をさせてもらった。 冬なら寒いので行水はできない代わりに、どぶろく一杯が相場だった。 が、幕末まで雲州松江では江戸屋敷でも女中や腰元が泡だて比べをし、信長の城跡の清洲では近くの七社祭礼で開催していた。 そして前記のように、甘味を服用前後に口中に入れだしてからは急性胃炎はなくなり女でも安心して飲めるようになった。

茶せん

 正徳三年五月二十九日〈長州家代官覚書〉の第一条に「茶セン、桓之内、道の者、遊君、川田の取締のこと」とある。 菅茶山の〈福山志料〉にも「茶センは下り者にて夜番」とある。

「このたび私共の国にて、川田の者と茶センが争うておりますが、私共の縄張りを彼らが荒さぬようにお差図下さい。 正徳二年辰七月備後国福山多田三吉村三八 九郎助同関助 京都川田頭中様」原文は候文で書かれた歎願書が残っている。 三八とは福山城主となった水野勝成が三河より伴ってきた八の部族の事で、  つまり一般には、はちとか八部衆とよばれている処の、その筋の者とされていた拝火宗徒である。召捕入牢裁判断罪の一切をなした出雲地方の鉢屋と同じで、

茶せんより儲かるからと製革業に手を出してきたゆえ、御用っ御用と召捕りに向かったが恐れ入らず、自分らにも権利があると逆襲され、 困って牢へも入れられず京の大親方へ伺いをだしたのである。  岡山の吉備地方では、中元や年末年始に茶せんを作って配り、彼岸にはシキミを持って米麦や銭を集めた風習が在った。 関西だけに何故にかたまっていたかといえば、この起こりは堺である。革屋の松屋らが始めた侘びの荼が、従来の唐渡りの金属性の物でなく竹の茶せんに代えた。 織田信長はササラの連中が竹細工の荼せんを高価に売って利を得ているのに目をつけ、髷をたてて茶せん髷として流行させた。 次男の後の信雄に「茶せん丸」の名もつけて己れが味方にした。しかし秀吉の代になると情勢が一変した。 秀吉は大明国に討ち入って、北京周辺を占領し、中国系の血を引く天皇や公家に与えるため「チャンコロは国へ帰れ」とばかり遠征を企てた。 (己が日本原住民として初代天皇になろうとして、京に新御所として豪壮な聚楽第も建てた。しかし秀吉の急死のためこの壮大な計画は頓挫した) そこで遠征用の大量の火薬原料の硝石を人手するため、刀狩りをし、原住民を大掛かりに捕えて、堺や九州から見返りに船債みして奴隷輸出をした。 これに堪りかねたササラ者たちは千宗易や妻の宗恩に頼って一揆を起こそうとした。しかしこの情報をいち早く察知した秀吉は、ササラ者を一網打尽に捕らえて 大坂以西の別所囲地へ放りこんでしまった。それが茶せんと呼ばれだしたのである。 茶湯をたしなまれる方には悪いが、くり返すが日本人は8割か9割まで庶民でつまり原住系なのである。

裏千家の大恩人吉良上野介  

  吉良上野介といえば芝居の仇役だが、今日の茶湯を考えたのは彼である。千宗恩の連れ子の少庵が跡目をつぎ、その子の宗旦、宗佐と続いたが、 仏教を国教にと神仏混合令をだして徳川綱吉の代になると、反仏派の千家では困る。そこで後西帝を退位させ幽閉した時に京の公家達へ、妻三姫の実家上杉家の金をまいて人気のある彼へ、 柳沢吉保が体制側の茶道を作らせた。

 それまでは青茶だけを服用するのだったのを、甘味を初めに口中へ入れて胃壁に防幕を作り、ゆっくり三口半に啜って、残りの甘味を胃へ送りこんで中和させるという、 絶対安全な喫し方を考案したのも吉良だし、千宗易の血統という千宗室を探してきて、今日の裏千家を創立させたのも上野介である。 つまり、このために、まだ知らぬ人も多いが、煎茶ではなく抹消の「抹」をつける抹茶に関しては今でも厳然として吉良に権利があって、「転茶」とか「天茶」と称する混合する為の製品は、 現代でも三州の愛知県西尾町吉良が出荷権を握っていて、各地の茶問屋は吉良から仕入れねばならぬ不文律が業界では定まっている。  なにも吉良上野介が生前に善政をしいたから三河では「忠臣蔵」の芝居を上演させないのではなく、現代でも抹茶の利益で儲かっているから吉良さまさまなのである。 コーヒーや紅茶と違って、泡消化器や粉石鹸に入れる泡の原料のポエムや硫酸ナトリウムの加工物を入れる抹茶は、非衛生的であると外人には嫌われる。日本に来て活花を習うのはいても、 抹茶をやるのは絶無である。  以前、英国王エリザベス女王が国賓として来日したが、接待で野点の茶を演出した際、飲むふりをしただけで、茶は飲まなかったという。 三船敏郎が海外向きに製作した映画で失敗したのも、野立ての会で抹茶を喫する場面が愛想をつかされ、向こうの配給会社にそっぽをむかれたゆえと伝わるのも、むべなるかな、そのせいである。 いわゆる利休が茶道の祖なら表千家が栄えるべきなのに、今も裏千家が取って換っている。   幕末まで唐茶でない青茶は限定地栽培で、狭山事件で有名な狭山とか久能別所の清水と定まっていた。  また、堺を自由都市と歴史家は説くが、今の香港とは違う。えびす地はどこでもそうだったが、堺も除地として幕末まではずっと領主や代官から干渉されず年貢をかけられずにすんだのである。

 


寛永御前試合はなかった 文武両道の嘘

2019-05-03 09:29:24 | 古代から現代史まで
寛永御前試合はなかった
文武両道の嘘
 
 
 現在、映画やテレビの時代劇で「武士は文武両道に通じ」と平然とやっている。 そして寛永時代に御前試合が在って大いに盛り上がった等ともやっている。大体、良く考えてもらいたい。
徳川体制が天下を平定してしまった江戸時代に、国内にはもう敵対する相手もいないのに、 武張った剣術や槍術の調練や稽古をする必要があるだろうか。
逆に治安維持上、これらは取り締まって禁止するべきが常識なのである。 武芸とか兵法は格闘技であり、早い話が殺人の為の技や方法である。 従ってこれらは戦場でしか使われずのものを、天下泰平の世に、治安維持の総本山である徳川将軍家が、まるで国体開催みたいに台覧してまで武道を奨励する訳など無い。
 
 
一つ例を紹介すると、播州赤穂に浅野内匠頭の祖父、浅野長政が常陸笠間より入封するまでのここの藩主は池田輝興だった。
この輝興が正保二年に、木刀の素振りをなすのに家臣を相手にさせていた。 これが公儀に知れて「武家諸法度」の反乱予備罪に該当するものとの容疑で、領地を没収され永代身柄預けの処分となった。
のち赤穂浪士の討ち入り騒ぎが、芝居の忠臣蔵になったので、浅野家の前の池田輝興の御家断絶経緯も珍しく明らかにされていて「義士辞典」にも挿入されて今に残っている。
 
さて、こうした厳しい厳罰の時代だったことを考えると「武士は刀を差す。だから斬り合うに違いない」といった早とちりの単細胞では困る。
 
警官は拳銃を携帯している。だから直ぐ抜いて発砲するものだと想うのと、全く同じチャンバラ思考である。
 それでは寛永時代に御前試合は無かったかというと「御前取組」は確かに在った。これは史実にある。 しかしそれは江戸千代田城吹上御苑とは違う。 それは京の御所での人皇百九代明正女帝様の御前なのである。 明正様は寛永七年九月十一日に御即位された訳だが、まだ御齢七歳だったから、女帝がまさか所望されるはずが無い。
 というのは二代将軍徳川秀忠の娘、和子が僅か二万石でしかなかった京の御所へ、化粧料として一万石を持参して入られ、ようやく徳川の力で後水尾天皇を退位させて、和子女御の生んだ皇女が御即位あそばされた。
 そこで徳川の血をひく皇統となったそのお祝いの催事ということで、江戸表より和子のお供をして 御所入りし、これまで関東とは諸事異なる御所で馴れぬ苦労をしてきた御中ろうと呼ばれていた女達は、男に飢えていたのか、関東の相撲を観たいとなった。
 
 
 男が女の裸が好きで、ストリップを見たいというのと同じで、女だって男の裸は好きなのは今も昔も変わりない。これがもっと後世なら野郎歌舞伎になったろう。
 さて五木の子守唄の中にも「おどま勧進、勧進」と歌われるように、相撲は今でも「勧進元」の看板が大きな文字で出ているように、昔は全て勧進興行だった。 それを今で言うなら男のストリップの取組を見物し、以前の江戸大奥の女達は、馴れぬ御所勤めの憂さ晴らしとした。
さて問題は御所へ入って取り組みをした相撲たちにおきてしまった。 相撲は今も昔もハングリースポーツに変わりなく、御前試合みたいな勝ち抜き十番勝負が終わり、褒美というか、出演料彼らが頂戴して引き上げて御門を退出の際に、雑色と呼ばれる 御所の雑役の一人が、「あれは紺屋ではないか!!」と数名の者を見つけて指差した。
 このことが東下りの和子女御付き女中衆と対立していた後水尾帝の、御櫛の局付きの、昔からの御所全女官の耳に入ったから大騒ぎになった。
(注)何故このようなことになったのかは、日本史では隠されているが、この紺屋という職業は 現在藍染として有名だが、日本原住民のうちのサンカと呼ばれ、時のどんな体制にも属さない、いわば埒外の集団だったから、卑しい者達、卑賤の部族として差別されていたのである。
 だから以前、紺屋であったが運動神経抜群だった、吉岡流小太刀の始祖吉岡憲法が、御所で開催された薪能の拝観に、面体を隠し深編笠のままで観ていたのを、指先が紺色に染まっているのを見咎められて、衛士に引っ張り出され、ぐるりと取り囲まれてしまい、 「賤のくせに身の程知らずめ」と、よってたかって突き殺されてしまったという例が在るほどに、御所ではタブーだった。
 
 
だからこの騒ぎは、寛永十一年七月十八日に、御所に参内した徳川家光に随伴していた 土井勘三郎利勝に、秘かに耳打ちする如く訴えられた。 これが発端となって直ちに「寛永サンカ狩り」となって、同年五月二十八日に長崎で発布された、 「異国往来、異教宣布禁止令」に引っ掛けられ、日本各地でサンカと睨まれた者達は召し捕られ、 海路長崎へ送り込まれた。
 そして数珠繋ぎにされた彼らは、異教徒という名目で海外へ追放された。 この事は長崎犯科帳に「夥しき数」としか記載は無いが、サンカの口伝えでは、 「万にも及んだ寛政狩りこみ」となっている。
土井利勝は八代将軍吉宗の頃の大岡忠相にも劣らぬ辣腕家で、織田信長の血脈が 徳川家に入らぬように、江与の方(織田信長の妹)が生んだ駿河大納言忠長を高崎城へ 移し、そこで始末したほどの男である。
折角帝位を徳川の血筋にしたばかりの矢先、御所の掟を破ったのは重々怪しからぬと 土井利勝が全国一世摘発を断行し、抵抗すれば叩っ殺してしまい、女子供は捉えて 長崎送りにしてのけたのである。
 この時の土井の強硬手段に、サンカ絶滅の危機感を持った彼らは、徳川家によって帝位を 奪われた後水尾先帝の院宣によって決起したのが島原の乱なのである。
  つまり島原半島の三角湾が白銀海岸と呼ばれる故事来歴があり、島原半島に、奴隷として売り渡されるために集結させられた者達が、その頃は口の津と呼ばれていた半島突端の、 原の古城は、宣教師達やその従者たちが硝石の倉庫にしていたから、    彼らを襲って殺し占領して、硝石を奪って反乱したのが真実である。  海外へ積み出されたら、どんな悲惨な状況が待っているか知っていた男女が、死に物狂いで戦ったのである。    この反乱軍の中には関が原で敗走した小西行長の残党も多く紛れ込んでいた。 だから徳川幕府は、全国的な討幕運動を恐れ、切支丹の一揆だと発表し、局地解決を図ったのである。
 余談だが、幕府は天皇や公卿が討幕運動に勅旨を出すのを警戒し、京の周りに多くの大名を動員して、  十五万人もの兵を駐屯させ見張ったので、兵の慰安のため、京に島原遊郭を設置した。   この島原反乱を取って「島原遊郭」と名づけたのである。  さて、この反乱軍があくまでも頑強に幕府軍に抵抗したのは、海外奴隷にされるのは死ぬより恐ろしいと判っていたからだろう。   そうでなければオランダ商館長が軍艦を派遣し、同じキリスト教の者達を十五日にもわたって連続砲撃をするはずが無い。   反乱軍はキリスト教などと無関係で、同国人の宣教師を殺して硝石を奪って籠城したから復讐として参戦したのである。    ローマ法王庁には、長崎聖人26人殉死の記録や絵はあるが、戦死者四万人ともいわれる島原の乱に関しては、 もしもこれが殉教なら世界的に無比なことだから特筆されるべきなのに何の記録も無い。  日本ではキリスト教の旗があったから、切支丹一揆とするが、肝心な法王庁では認めていない。    また、天草四郎なる者が反乱軍の指揮をしたと伝わっている。そして豊臣秀頼の落胤だとか、 豊臣家の旗印を立てて戦ったとか、絶世の美少年だったとか・・・・・    こうしたことは全て後世に作られた与太話で、四郎の首実験をしたところ、何個も首があり  どれが本物なのか迷ったというが、そんな美少年なら直ぐ判るはずで、 四郎に似た少年も多数奴隷に売るため居ただろうから、それらも大人に混じって必死に戦ったことのこれは裏書に過ぎない。   だから現代、丸山明宏が、長崎生まれだということからか「自分は天草四郎の生まれ変わりだ」  と宣言しているが、こういう手合いを歴史知らずの、トンチンカンな勘違い人間という。