天皇になろうとした秀吉
秀吉の新御所 聚楽第
豊臣秀頼は誰の子か??
山科の別所
天正十三年のことである。 自ら大軍を率い紀伊征伐をして、根来、雑賀を根絶やしにする程の大戦果をあげた豊臣秀吉は、 「亡き信長様でさえ手を焼き持て余した輩だったとて、わしに掛かれば赤児のようなもの」と豪語して京へ凱旋してくるなり、戻橋から二条へかけ、十二町四方の広大な土地に、 縄を張り巡らせてしまった。
根来は特殊な土地柄
現、和歌山県那賀郡岩出町に、新義真言宗の大本山根来寺が存在している。 ここは歴史的に本願寺派が雑賀衆を手なづけた頃よりもずっと早くに、紀伊、有田一帯の 日本原住民が押込められ、隔離されていた別所、、院内(呼び名は土地によって様々あるが 原住民が強制的に住まわされていた特殊地域)の者達を仏教に教化して、彼らを押さえ込んでいた。 高野山もヒジリと呼んで、お上に認められた官僧ではないため、頭を丸めることは御法度で、 為にぼうぼうの総髪のままの頭に(これを毛坊主という)編み笠を被らせて、日本各地に布教に 廻らせ上納金を取って儲けていた。
この高野山から別れて独立した根来寺も土地丸ごと押さえ込んでいたから、最盛期には寺坊が二千七百も有り、寺領としては何と三十万石もあったので大変な勢力だった。 だが天正十一年になると豊臣秀吉が仏教勢力へ政治献金を命じた。これに対して 献金を拒んだため、怒った秀吉によって全山を焼討ちにされてしまい、その勢力は衰退した。 この後浅野家によってようやく再興を許された時には、すっかり落ちぶれてしまい、 その寺領は二百六十石しかなかった。さて当時の先込めの火縄銃は、火蓋を切って落とし、先ず火皿にある火薬に引火させ、 銃底に詰め込まれている火薬を爆発させるという構造になっていて、先に詰め込まれている火薬(硝石、硫黄、木灰)の調合が悪いと、射手を自爆させる事故が多かった。
だから、この当時命を惜しまない者でなければ、鉄砲を扱うのは難しかった。 従って彼ら根来衆というのは、徹底的に仏教に教化されていて、「御仏のおん為に死ねば成仏間違いなし、更に次に生まれて来る時には常人として生まれ変わるのである」と説教されそれを信じて喜んで仏敵に向かって勇ましく死ぬために戦ったのが、この根来衆だったのである。何故彼らがこうした事を信じたかと言えば、日本に進駐していた大陸勢力が、徹底的に彼ら原住民を差別し弾圧したため、 人間とは認めない峻烈な政策をとって、要は差別と貧困の連鎖ゆえの止むを得ずの悲しい選択だったのである。これは現在のイスラム過激派の状態と全く根源は同じである。そして、死ぬことに恐れずという、不幸な信条ゆえ、大いに利用され、多くの命が失われた哀しくも憐れな衆(部族)でもあった。 だから江戸時代になって徳川家に仕えても、根来鉄砲衆は足軽扱いの最下級武士でしかなかったのである。
聚楽第の縄張り
京洛市街地の中心を、すっぽり包んでしまう大掛かりなもので、縄張り内の民家や武家屋敷は、もとより、寺や社にまで強制収用が命じられた。しかも秀吉の事ゆえ、余裕など与える訳は無く、即刻の立ち退きである。 京の者達がいくら抗議をしても、戦戻りの荒々しい兵達にかかっては一顧だにされず、「文句をぬかすと素っ首叩き落したる」と脅かされたり、本当にバッサリ斬られもした。 なにしろ兵達は、縄張り内の住民を力ずくで外へ出し、取り壊しをする前の家から、目星しい物を掻払って己の稼ぎにしようと、血眼になっていたから、病人まで放り出したりもした。 このため、時の天皇正親町帝のおわす御所へ、「お願いです、助けておくれやっしゃ・・・・」と泣訴哀願する者たちが列をなした。 勿論、御所の中でも関白二条昭実以下甘露寺大納言、水無瀬中納言、時持明院中納言らが、鳩首評議して善後策を講じていた。なにしろ市中の者らは家屋敷を奪われるので騒いでいたが、御所においては、もっと重大な事が起きかけていたからである。というのは、京の目抜きの市街の十二町四方を取り払って、秀吉が建てようとしているのが、後の「聚楽第」だったからである。初めのうちは公卿たちも、 「京のどまん中に大きな城など建てても、役にたちませんやろ」 「そうどすな。古来例もおまへん。いくら秀吉さんが豪気でも、ちいと可笑しゅうおすな」と、冷笑しながら陰口をききあっていた。
が、縄が四方に張られ、強制立ち退きが始まり出すと、只事ならぬ噂が洛中に広まった。 「・・・・秀吉が自分で帝位につくに当たって、従来の御所では手狭で物足らぬ故と、 平安京の昔に戻しての大内裏の新築造営」とはっきりしてきた。
総工事奉行は丹羽長秀。造営大工匠頭に引かせた図面にも、 「南北に美福門、朱雀門、皇喜門、達智門、偉整門、安喜門、東西は、上東門、陽明門、待賢門郁芳門、談天門、藻壁門、殷富門、上西門」とでていて、古式そのまま桓武時代さながらの 壮大なもので、後世の万博にも匹敵する大規模なものだった。
「こりゃ・・・・えらいこっちゃおへんか。御位を奪い、別に御所を新築するなど以ての外」 「秀吉が新帝にならはったら、うちら公卿はどないなりましょう」 と、御所の中では公卿達が己が身を案じて大騒ぎとなった。しかし文武百官の公卿全部が、秀吉の権勢を恐れて、唯おろおろと茫然自失していた訳ではない。
従二位権中納言山科言経四十三歳が、妻の兄冷泉為満、義弟の四条隆昌らと連盟で、「諸国に勤皇の士を集め、もって錦の旗を上げ秀吉を討ち滅ぼさん」と奏上し勅命を乞うた。建武の中興の時に帝のため決起したのが、上州新田別所の新田義貞、河内桐山別所の楠木正成、三河安祥筒針別所からは足助次郎といった者達だったが、山科言経の所領の洛北に在る山科という土地も、やはりそうした別所地帯で住民達は「こぞって、おかみの為に・・・・・」と 申し出てきたゆえ、言経も討秀吉の旗揚げを阻止せんとしたのである。 勿論、正親町帝は感涙され、歓ばれたものの、しかし秀吉を怖れる関白二条昭実は、 「とんでもないことに存じます。信長亡き後の秀吉は、最早天下に敵する者など一人も無き有様・・・・ それらに対して刃向かうは蟷螂の斧に飛びつくようなもの」と反対した。
大日本古記録・言経卿記
そして六月に入って秀吉が「四国征伐」の発令を出したが、仙石権兵衛を名代として、己が代理に差し向け、自分は何故か大阪城に止まっていた。これを不安がって、 「泣いて馬謖を斬るの諺もありますれば」と関白が、帝に強請したので、正親町帝も、 「やむを得ぬことである」と、尽忠勤皇を叫ぶ山科言経ら三卿に対して、位階剥奪の上、「勅勘」による京追放を宣された。 この帝位を狙った秀吉を阻止せんと企てた山科言経ら三卿の都落ちは、幕末の七卿長州落ちに比べて、全然それは知られていない。歴史屋の不勉強である。 だから岩波版『大日本古記録・言経卿記』天正十三年六月十九日の条を引用すれば、
「勅勘を蒙りて上京の柳原の住宅を棄て、ひとまず冷泉為満邸へ行き、二十四日には四条隆昌らその家族と共に、追われるごとく京を退散し川を下って淀へ向かう。淀城(大野宰相こと城主織田信雄) の城代衆大野弥三郎の厄介になり、大阪へおもむき本願寺光佐の妻冷泉為満の姉で、山科言経にも義理の兄弟に当たっていたから、その世話で和泉堺の大寺明王院へ二十六日より落ち着く」とある。
つまりこれを見ると、天正十三年六月当時は、淀に在った城は織田信雄のもので、「大野修理治長」となって 後には大阪落城の大立者になる弥三郎が、信雄には従妹に当たる後の淀殿である、弥々を守って、そこの城に居たことになるのである。 さて、ここに楠木勘四郎という、秀吉の野望を砕くため尽力した重要な人物が居る。 彼は楠木正成の子孫で、御先祖正成公の勘免を願い出た楠木甚兵衛成辰の子で、山科言経の室の妹婿という関係である。 彼は『楠木流軍学』『楠木流忍術』なる江戸期の版本に、楠木正辰なる編集名に使われ知られている。 (注)この忍術をテレビや映画に出てくる、黒装束、手裏剣、忍びの者と間違ってはならない。 あんなものは全てフィクションで、本当は、体制から差別され、弾圧された部族が隠れ住み、耐え忍ぶ生活の知恵ともいうべきものなのである。
『山科言経卿記』の天正十一年八月の条を見れば、彼はほとんど連日のごとく山科家を訪れては、「楠木甚四郎、小者共を召し連れて来たりて、庭の垣根縄結びを終日なさせる」といったように、 山科家の雑用もしている有様である。
また山科家の土地と言えば、言経の日記にも、 「山科在所より、年貢米の代わりに三毬打(蹴毬の一種)用細竹二百八十本を届ける」とある。 では非農耕地である山科の所領が米作りをしないのであれば、何処で飯米を入手していたかといえば、西梅津新地の三十石が蔵入り米だった。 これは言経の父言継の代に信長から貰ったものだった。 だが秀吉が、本能寺の変後に取り上げてしまった。
そこで天正十一年八月二十一日付けで、山科家の執事の大沢右兵衛太夫が、秀吉の京町奉行前田玄以宛てに差し出した抗議文も残っている。 食物の恨みは恐ろしいというから、山科言経が反秀吉の急先鋒となったのも、飯米用の梅津新地を返してくれぬ所為かとも考えられる。
さて、この当時織田信長の妹で、美人の呼び声の高かった於市御前だが、彼女には三人の娘が居た。
長女 弥々(後、秀吉の側室淀君) 次女 初子(京極高次の室西の丸殿) 三女 達子(初め尾張へ縁づいていたが、今は左大臣九条道房卿のもとへ秀吉が嫁がせた)
秀吉は体躯矮小だったのは有名な事実だが、この弥々は、亡父浅井長政似で、大柄骨太で肥満型。 だから秀吉の好みに合わず、この頃は放りっぱなしにしていたらしい。 これが何故にこの後秀吉が手をつけて、秀頼を産ませたのかという謎がここにある。
それは、秀吉の野望を断念させる為、山科と楠木達の戦略が在ったと想われる。 この当時大野治長は二十五歳。織田信雄に弥々を秘かに面倒を見てくれと請われて淀城に住んでいた。 弥々は亡父の浅井家の復興を切望していて、それには、秀吉の側室になり、世継ぎでも生まれればそれは可能だと山科言経に勧められる。 山科家は医王山薬師如来を本尊とする「東光教」の司掌の家柄にも当たっていたから、今で言えば医者と薬剤師のような立場にもあった。 だから御医道曲直瀬正盛と結託して、子種を切望していた秀吉に「肥満大兵体躯の女ごこそ受胎が出来やすく それは弥々様がよろしゅう御座います」と勧めた。
一品親王様毒殺される
さて、この時京町奉行前田玄以の手の者五六百が東宮御所を取り囲み、一品親王と呼ばれていた 次の帝位を継がれることとなっていた誠仁親王様が自害し崩御された。 「突然の死因は疱瘡、はしかの類である」と発表されたが、親王様は正親町帝に代わって帝につかれる筈のまだ三十五歳の壮年。そんな子供の病にとりつかれ急死とは可笑しい。 他害、自害の両説がでているが、これでは皇位継承者が死んだので、もはや秀吉が次に即位するのは決まってしまったようなものである。
とは現代活字本の『奈良興福寺多門院日記』にも明白に書き残されている。 これは医者上がりの前田玄以の毒殺と思推される。もちろんこれは秀吉の意を汲んでの事である。 そして秀吉は、迷信が蔓延っていた時代ゆえ、子授けの神と言えば当時は蔵王菩薩である。 主だった御祠へ秀吉の世継ぎを与え給えと祈願し、それぞれ新堂を勘請せよと、石田三成の兄の石田木工頭が、吉野山大嶺頂上、高野山山麓、本願寺川上地蔵の畔の三箇所を、天、地、人と三位に見立て、金銀を惜しみなく投じて、荘厳な子授け堂を落成させた。
しかし、如何なる天魔の仕業か入仏式を前に、それぞれ新築の三蔵王党は焼失した。
石田木工頭は秀吉の怒りを怖れて直ぐ再建に掛かったが、落成すると又も焼亡した。 これには流石に豪気の秀吉もへこたれて、 「誠仁親王の祟りかもしれぬ。仕方がない、十六歳の御子に人皇百七代の御位を返し奉る」と返答した。
そして(わしが帝位について居たら、こんな結構な所に文武百官は入れたのだぞ)と 示威するごとく、新帝以下を四月十四日に招いた。 日本史の大家と謂われる故黒板勝美博士のごときは、このことをもって、秀吉は勤皇だったと誉めているが、この博士はまったくこうした歴史を判っていない。 『皇朝年代記』などでは明白に、 「藤原氏に追われ廃帝となり、山に入り木地師の祖になられた人皇五十七代陽成帝と同じような御境遇なりというので、代百七代様には、後陽成帝の名がおくられた」とある。
これでも秀吉が勤皇扱いされ、山科言経、冷泉為満、四条隆昌らが秀吉に対する反体制というので、黙殺された儘の今の日本歴史は間違っている。 さてこの後、三卿には即位による恩赦令で位階も回復され、京へ戻ることができた。
さて、弥々は秀吉の側室となって淀城と大阪城を掛け持ちで往復していたが、正室のねねはもとより、他の側室は一人も懐妊出来ぬのに、彼女だけはやがて妊娠し、鶴松を生んだ。 「まさか焼けた小谷の城は築き直してやれぬが、子を産んでくれた褒美として、信雄から召し上げた 淀城を其の方にくれて取らす」と歓んだ秀吉は弥々を淀の城主にした。
そこで弥々のことはそれから、「淀殿」とか「淀君」と呼ぶようになった。 そして淀城と大阪城から、文禄・慶長の役の九州名護屋城まで淀は掛け持ちしていたから、鶴松は夭逝したが直ぐに色白で丸々とした後の秀頼が産まれた。
一方大野治長は、何時も淀君に影の如く付き従っていたが、天正十九年十一月の秀吉の三河鷹狩の時には供頭役を勤めたり、文禄三年の伏見城普請のときも出精して働いている。 (これは『続本朝通鑑』『関原軍記大成』『駿府記』に書かれている) だから秀吉は取り立て一城の主にしようとしたが、飽く迄も淀君の傍に居たい為、淀城の城代で甘んじていた。 そして秀吉の死後は、弟の大野治房や治胤と共に、淀君と秀頼母子の守護に任じている。 しかし他の誹謗を怖れて己も一万石で止め、弟達も千三百石、千二百石の微禄の儘でいた。
大阪落城の最期の時も、大野治長は淀君、秀頼とまるで親子心中の如く爆死している。 だから後には秀頼の種は大野治長だったのではないかという、噂も立ったし、本妻であるねねはこのことを知っていたため、 「秀吉の種ではない治長ごときの血脈に豊家を継がせるわけにはいかぬ」と、 家康に味方して豊臣家を滅亡させたのである。
結果的には山科言経や楠木甚四郎らの働きにより、皇位は守られ、豊臣の血脈も断たれた。
ねねは秀頼の父親を知っていた
秀吉の歿した翌年正月に、仏教徒の石田三成、増田長盛が淀君を大阪城へ移すと、ねねの憤りはついに爆発した。 初めは自分が本丸に頑張り、淀君は西の丸に入れて、本妻と二号の区別ははっきりつけていた。
ねねにすれば淀君には秀頼という子供がいる。だからねねは大阪城を出て京へ移った。 そして「打倒二号策」を伏見城の家康と謀った。 翌年九月の関が原合戦には、ねねは最初の夫の浅野長政はじめ、子飼いの頃から面倒を見ていた福島正則、加藤嘉明、加藤清正らの神信心系の大名を動員させ、石田方を破った。 (これを、文官派と武官派の争いと皮相的な見方の読物もあるが、実態は全く違う)そしてその後、十四年も辛抱して大阪冬の陣が起きるや、又も家康側について、大阪城総司令官の織田有楽を調略さして翌年五月八日、ついに淀君と秀頼を焼き殺してしまい、復讐を遂げた。家康からこの労に報いて一万六千石を貰っている。
そこでそれから非常に満足したらしく悠々とその後は、八十三歳までねねは長寿を保ち、寛永元年九月六日に亡くなったが、その墓所高台院には、江戸期まで古色蒼然とした扁額が寺宝に在ったそうで、その文字に曰く、「女の一念、それ岩をも貫く」と読めたという。 勿論これは贋作だという説もあり、明治に入ってからは無くなったが、 江戸時代の二鐘亭半山の紀行記には、書き写されて出ている。 なお、秀吉は大陸系の天皇や公卿達を中国に戻すため「チャンコロは国へ帰れ」とばかり 大陸遠征の壮大な計画の下、朝鮮の役を起こした。 朝鮮は通り道であって占領が目的ではなく、あくまで北京周辺の占領だった。
そして己が日本原住民系の天皇になろうとした。 (秀吉は原住民系「サンカ族の出身」家康も同じくサンカ"あおい族"出身と鹿島昇氏の考察に在る)
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