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もっこうさんです。

岩手県一関市藤沢町で工務店を営業している「菅原木工」が、住まいや地域の情報と、個人的趣味の情報をお届けします。

【宮城県栗原市】 細倉鉱山跡で鉱山住宅跡を見学。

2011年11月04日 | 名所・旧跡


細倉にもあったんだ



東北自動車道古川ICを下り、国道47号線を山形方面へ行き、国道457号線を北上すると、細倉鉱山跡(細倉マインパーク)見えてきます。

細倉鉱山 細倉住宅跡 【宮城県栗原市】


細倉鉱山住宅跡 【宮城県栗原市】 


映画「東京タワー オカンとボクと,時々,オトン」のロケ地として知られる
細倉鉱山住宅跡。住宅を映画のために店舗などに改装し、そのままの状態で展示されています。



細倉鉱山住宅跡



昭和の街並みが再現されています。

細倉鉱山住宅跡 【宮城県栗原市】 


華やかだった当時の鉱山労働者の生活を垣間見る空間となっています。


細倉鉱山住宅跡 【宮城県栗原市】

【細倉鉱山とは・・・・】

細倉鉱山は、「安永風土記」によれば、天正年間(1573~92)に本格的な開発が始まったとされています。
宝永年間(1704~11)の「石母田家文書」には「細倉銀山之山師 古切支丹」とあり、当初は銀山扱いで、技術者はキリシタンであった者が多かったことがうかがえます。

細倉鉱山は金山奉行の支配を受けますが、仙台藩は直接生産には関与せず、運上を徴収して山師に経営を許可しました。

このことは、細倉鉱山の利益金を、本吉郡津谷村の御金山下代菅原伊兵衛が運上していることからわかります。

藩は精錬のための炭を藩有林から供給したり、堀子の食料を栗原から調達しました。また藩は、産出した地金を山師から買い占め、鶯沢の百姓に川口(現 栗原市一迫川口)まで輸送させ、問屋に卸し市中に販売させました。

鉛は、銀・銅の精錬に不可欠であったため需要が増え、そこで灰吹法の技術を導入して生産を増大させ、これにこたえたのです。

また、安政年間(1854~60)には「細倉当百」という山内流通の鉛の貨幣が鋳造されました。

この鉛貨は、厚さが2分(約6㎜)、縦横2寸(約6.4㎝)の正方形で中央に四角穴があり、大英博物館にも展示されています。

全山33ヶ山という分割採掘のため、坑道ごとに信仰する神々を祀っていたことが、鉱山山頂に残る石の祠からも知られています。

近代には、鉱山経営を引き継いだ高田鉱山が、亜鉛製錬を国産化して亜鉛も生産するようになったのです。

昭和九年(1934)、三菱鉱業株式会社に経営が移管され、昭和三十年代には岐阜県神岡鉱山につぐ鉛の生産量となり、鶯沢の人口も1万3000人ほどになったのです。

しかし、、非鉄金属の価格下落により1987年に閉山しました。

 

(出典 宮城県の歴史散歩

 


【細倉マインパークMAP】


栗原市鶯沢南郷字荒町

 


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東京にもあったんだ /福山雅治(映画「東京タワー オカンとボクと,時々,オトン」主題歌)

 

 


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【花巻市】 同心屋敷と宮沢賢治詩碑を訪ねる

2011年09月20日 | 名所・旧跡

花巻市桜町内、賢治詩碑バス停横に、2軒の茅葺きの曲がり家があります。

「同心屋敷」と呼ばれる建物です。




同心屋敷 【岩手県花巻市】



同心屋敷 旧今川家

同心屋敷 旧今川家



天正19年(1591)の九戸合戦の際、鳥谷ヶ崎城(花巻城)の守備にあたっていた浅野長政の家臣30人が、花巻に留まって花巻同心組となったものです。

彼らの住居30軒のうち、江戸時代末期に建てられ現存する2軒(旧平野家、旧今川家)を移築したものです。




宮沢賢治 詩碑 

同心屋敷から東に200m程進むと、サクラや松の古木に囲まれた羅須地人協会跡地に「雨ニモマケズ」の宮沢賢治の詩碑があります。

詩人高村光太郎の揮毫による碑の下には、今も賢治の遺骨と経文が納められています。



宮沢賢治 詩碑 下ノ畑ニ居リマス 【岩手県 花巻市】



羅須地人協会の玄関脇の黒板に書かれていたという「下ノ畑ニ居リマス」の「畑」が、詩碑の眼前に広がっています。
この、北上川沿いの広々とした農地は、賢治が農業振興に生涯を費やした仕事場と言えましょう。


現在、羅須地人協会の建物は、詩碑から8㎞ほど北にある県立花巻農業高校の敷地内に復元されています。

毎年宮沢賢治の命日にあたる9月21日には、ここで賢治祭が開催され、たくさんの賢治ファンが賢治の生涯を偲んでいます。

(参考文献 岩手県の歴史散歩



【同心屋敷・宮沢賢治詩碑MAP】



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【宮沢賢治関連書籍】

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【登米市登米町】 寺池城祉公園(登米要害跡)を散策してみました。

2011年09月15日 | 名所・旧跡




葛西氏から伊達氏へ 登米一万五千石の城下町



宮城県登米市登米町中心部にある寺池城祉公園は、戦国時代葛西氏の居城として、江戸時代は、登米要害として白石宗直を祖とする登米伊達氏の居城とだったところです。

寺池城址公園 【宮城県登米市】

戦国時代に、葛西氏の家臣小野寺氏が居住し、天文五年(1536)、葛西晴胤が石巻城から寺池城に移り以後葛西氏の本拠となりました。

城郭は、丘陵の先端部に位置し、北端の最高所を空地とし、その南側を本丸、さらに南側を二の丸としています。

丘陵の周囲には西、南、東側に水堀がはりめぐらせていました。

居館は本丸にあり周囲を土塀で囲んで南端に重層の大手門を設けていました。

 


 

【葛西氏とは・・・】

文治五年(1189)源頼朝も家臣でめざましい働きをした葛西清重は平泉近くに領地を与えられるとともに奥州総奉行をに任じられ、奥羽二国の御家人すべての統括を任じられたところからはじまります。

その後四百年という長きにわたって葛西氏の統治がつづきますが、豊臣秀吉の登場ともに幕を閉じることになるのです。

天正十八年(1590)、豊臣秀吉は北条氏の立て籠もる小田原城(神奈川県小田原市)を取り囲んだ、いわゆる「小田原攻め」です。

この頃、麻のごとく乱れていた群雄割拠は豊臣秀吉の名のもとに、天下統一は目前に迫っていました。

そこで、秀吉は未だ屈しない奥羽の諸大名に対し、小田原参陣を命じました。

葛西領内では意見がまとまらず、伊達氏や南部氏の動向もはっきりしない状態でした。



この年三月、秀吉は小田原城の大包囲陣を完成させ、小田原城内では関八州の精鋭六万が配備についていました。


このときの当主葛西晴信は、もともと小田原参陣の意向があったといわれ、天正十八年三月二十八日に三田刑部少輔(柏山氏宿老)に宛てた手紙に次のように記している。


「この度秀吉公、北条氏征伐のため相州に発向せられ、諸国の大名、日々小田原へ走り参り候。
われらも、近日まかりでる覚悟に候えども、先年、浜田逆意のみぎり、同心の者ども、かねがね富沢日向守に内通これあり候間、小田原にあるうち、諸事はかりがたく、相のび候えば、小田原の首尾も、いかが候かもゆかしく候条、留守のうちの儀、その方に頼み候。云々。」


気仙郡高田の浜田氏は、本吉郡の本吉氏とともに、葛西領東海岸の大族です。

富沢氏は栗原郡三の迫岩が崎城主で、葛西領の西部に位置して大崎領に接していました。

晴信が葛西太守を継いだのは、永禄三年(1560)二七歳のときでした。

晴信は、以後三十年間、領内のとりしずめや、近隣大名との応接に力を注がねばならなかったのです。

重臣千葉氏一族が唐梅館(一関市東山町)で評定をおこないましたが、上方邀撃論に傾くようになりました。

結果、葛西領では一抹の不安を感じながら軍備を整える状態となったのです。

そのころ、隣国の伊達家の家中では、若干二十四歳の政宗がついに小田原参陣を決意しました。
五月九日、小田原に向け出発し、到着したのは六月五日、その月の二十五日には、秀吉の使者を案内して会津に帰り、手に入れたばかりの会津城を引き渡しました。


小田原城攻略のあと、奥州仕置軍の主力は、七月十六日には会津に入城しました。

秀吉も八月九日に会津に到着し、三日間の滞在ののち、仕置軍の総大将を豊臣秀次に託しひきあげました。

仕置軍の諸将は蒲生氏郷・石田三成・浅野長政・木村吉晴・大谷吉継を中心に奥羽の動員された諸勢力を加えた、総数二万騎の軍勢でした。

寺池城でこれを聞いた晴信は、

「叶うべきはあらねども、まず以て迎え陣を出し一戦、叶わざる時は腹切らん。」

と評定して迎え陣を出したと言われています。

奥羽の諸大名のうち、仕置軍を迎え討ったのはおもに葛西勢力で、伊達・相馬・南部の諸氏は小田原に参陣していたし、おおかたは無抵抗で秀吉の命に服しました。

大崎勢は迎撃の配備につきましたが、仕置軍の偉容に驚き、戦わずして退散しました。



八月十一日、木村吉清の軍勢が、深谷和渕の陣に襲いかかって、合戦の幕が切られました。

仕置軍の巧みな突入で陣は破られ、大将西郡左馬之助が早くも討ち死に、八百騎は戦意を喪失しました。

仕置軍の一隊は、葛西の主力軍の守る神取山を避け、 まわりこんで直接寺池城目がけて突進しました。

あまりにも速い進撃に葛西勢は寺池城を捨てて、佐沼城に集結することになったのです。



こうして佐沼城の周囲は豊臣方の軍勢に何重にも囲まれ、城の櫓から見える限りは、敵方の幟や指物ばかりが立っている状態になりました。

最後の時が迫っていました。

伊達氏の縁を頼み、葛西家再興の道もあろうかと評定をし、葛西勢は、ひとまず城を出る決定を下しました。
夕闇の迫る頃、城門を開いて討って出て、血路を開こうとしたものの、最後の砦と頼んだ佐沼城も陥落。

栄光ある清重以来の名家葛西氏も、四百年にして歴史の幕を閉じたのでした。


その後、葛西・大崎領を木村吉清が拝領し居住しましたが、翌年には葛西・大崎の残党による一揆が起こり寺池城は攻められ落城します。

続く江戸時代、慶長九年(1604)に伊達氏の重臣白石宗直が一万五千石で拝領しました。

宗直は元和二年(1616)、伊達姓を賜り、以後、登米伊達氏は以後、四代宗倫の代に渡って登米要害として城下町を整備しました。最終的には登米伊達氏は明治維新まで居住し、二万一千石に達しました。


城の周囲には武家屋敷を配置し、北上川沿いに南北にのびる町屋を形作っています。

明治元年(1868)、土浦藩取締地となり明治二年に涌谷県が設置されました。

明治三年、涌谷から登米へ県庁移転が検討されましたが寺池城の痛みが激しいため、城下に新規で県庁舎が建てられました。
県庁舎は明治五年に水沢県庁舎として落成し、明治八年まで使用されました。


宮城県登米市 旧水沢県庁
 
(旧水沢県庁)



現在、二の丸は裁判所、その下段に登米懐古館の敷地となり、周囲の堀も埋め立てられ道路となっています。
寺池城二の丸 宮城県登米市 登米地方裁判所 

(仙台地方裁判所登米支部) 


寺池城址公園 懐古館 【宮城県登米市】

(寺池城址公園 懐古館)


平成元年(1989)に本丸の発掘調査が行われ二棟の掘立柱建物や五棟の礎石建物跡などが検出されました。
平成十二年に二の丸の一部が寺池城祉公園として整備されています。



宮城県登米市 寺池城祉公園

【宮城県登米市】 寺池城址公園

【宮城県登米市】 寺池城址公園
(寺池城址公園内)

登米伊達氏の菩提寺である養雲寺には、葛西氏時代とされる城門が移築されています。

養雲寺 山門 【宮城県登米市】 

(養雲寺 山門)

中世と近世の混在する町並み



登米町寺池地内は、旧水沢県庁舎や旧登米高等尋常小学校校舎などの明治建築と、武家屋敷が多数保存されていて、江戸と明治期の建物が混じり合う街並みになっています。

登米町 武家屋敷



登米町 武家屋敷 春蘭亭 

中世の面影を残す武家屋敷が多数存在しています。

熊谷弓麿邸の門 【登米市登米町】

熊谷弓麿邸の門です。

この門は、葛西氏の居館の裏門を移築したものです。


鉤形小路 【登米市登米町】

城下町特有の道路として、鉤形小路が今もはっきりと残っています。

鉤形小路 【登米市登米町】

クランク状に構成された道路割で城を守るための軍事的手法の一つです。


旧水沢県庁記念館 【登米市登米町】 

旧水沢県庁舎は、明治四年七月に登米県庁舎として着工したものの、同年八月の廃藩置県により、同年十一月に一関県、同年十二月には水沢県が置かれ、明治五年六月に水沢県庁舎として開庁しました。

【宮城県登米市】  旧登米高等尋常小学校校舎 教育資料館
(旧登米高等尋常小学校校舎 教育資料館)

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【寺池城址公園MAP】  

          登米懐古館

宮城県登米市登米町寺池桜小路103-9

0220-52-3578 ?

 
大きな地図で見る

 



【寺池城祉公園周辺施設】

登米懐古館 

みやぎの明治村(株式 会社とよま振興公社)

ヤマカノ醸造株式会社


【登米市登米町特産品】

【伊達氏・仙台藩関連書籍】


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【宮城県】 青い海と青空です。 宮城県鳴子温泉 潟沼に行ってきました。

2010年08月24日 | 名所・旧跡

宮城県 鳴子温泉 潟沼 


宮城県の山奥にとてもきれいな海を見て来ました。まるで、赤道直下の島々の浜辺にでも行ったかような素敵なところです。

ここは、宮城県大崎市鳴子温泉にある「潟沼」という沼です。火山地帯にある沼のため、エメラルドグリーンの色鮮やかな沼になっています。

同じ様な沼が宮城県の蔵王のお釜にありますが、この潟沼はお釜とは違い、沼のほとりまで車で行くことができ、エメラルドグリーンの水を堪能できます。

(画像 蔵王の御釜 蔵王町観光協会ホームページより)

鳴子温泉郷から車で10分くらいの所にありますので、ぜひご覧になってはいかがでしょうか。



【潟沼MAP】



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【鳴子温泉名物】

 


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