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振り出しに戻る「落陽日記」

旅や日々の生活の一コマ。60代半ば、落陽期を迎えながら気持ちは再び振り出しに戻りたいと焦る日々です。

山陰縦走ツーリング(1)初日は降ったり止んだりの雨、米子のコスパ充分の宿へ

2018-09-18 10:10:02 | バイクツーリング
9月の敬老の日3連休の前日、14日金曜日が3泊するバイクツーリングのスタート日。年金生活者の自分は365連休みたいなものだから連休や週末よりも平日のツーリングが希望だが、一緒に行く仲間には現役さんもいるので仕方ない。

地震だ洪水だ台風だと、やたら自然災害の多い今年の夏、台風22号が発生した時はヤバイと思ったが、フィリピンや大陸に向かうとわかってホッとした。あとは秋雨前線の動き次第では雨のツーリングになるので気を揉んだが、豪雨になることはなさそうだ。2泊の宿も帰りの夜行のフェリーも予約済みなので、1日や2日の雨は覚悟の上で決行となった。



スタートの朝、自宅前の路面は濡れ、天気は小糠雨だった。歩くだけなら傘も要らないほどだが、バイクではそうもゆかないのでバイクジャケットの上に雨具を着けて、20km先の集合地点にあるローソンに向けてスタートした。



10kmほど走った頃から小雨に変わってきてデニムのパンツが湿ってきたので、集合地点で雨具のパンツも履いた。ここからは国道9号線で老の坂を越えて亀岡に入るが、普段でも霧や雨の多い場所だ。滋賀県から来たT氏とJ氏と合流して、次は大阪から来るI氏と合流するために、須知のドライブインに向かった。



須知までは降ったり止んだりだったが、小雨程度。合流したI氏は雨具はもちろん、ブーツにも雨用カバーを着けて完全武装だ。ここから一路米子目指して出発。雨模様なので昼飯とトイレ休憩、給油以外は立ち寄りせず、宿まで直行することにした。

途中、先頭を走る私を突然追い越したJ氏が入った道の駅がハチ北。トイレをした須知から2時間で再びトイレは年齢的に仕方がない。ついでに昼飯にした。



この辺りは山の中なので細かい雨が降っていたが、鳥取県に入って日本海が見え始めると雨が止んできた。

そして道路も国道9号線と部分的に並走するように自動車専用の山陰道があり、対面式の片側1車線だが制限速度70kmで走りやすい。オマケに無料なのはありがたい。米子の宿までの鳥取県内では、恐らく半分くらいの行程が山陰道だった感じだ。

あとは給油とトイレ休憩で道の駅に寄ったくらいで、宿に近いコンビニで今夜の部屋飲み用のアルコールを購入。



午後4時には宿にチェックイン。場所は米子東南部の郊外で、今は民間の宿だが当初は公営の研修宿泊施設か何かだったように思えた。



トイレ付和室の8畳の部屋に4人で2食付きだが、一人4000円弱でビックリするほど安い。少し不安だった食事はバイキング形式で、上等な食材はあまりないが野菜類は豊富で品数は結構ある。あの料金でこれだけの食事なら充分だ。夕食だけを目的に車で来ている家族連れも多くいたが、入口には一人690円と書いてあった。



大浴場も温泉ではないが充分な広さがあり、翌日の朝食もバイキングで夕食ほどの品数はもちろんないが、都会のビジネスホテルの朝食よりはよほどいい。

部屋にはマッサージ機もあり、コスパ充分にありと言ったところだ。




台風一過の後にいつもの散歩コースを歩いてみると

2018-09-06 09:23:45 | 日記
6月には大阪北部の地震、7月には西日本での集中豪雨、9月になって台風21号による強風や高潮の被害、と思っていたら今日の早朝には北海道で大きな地震。自然災害が頻発する今年はどうなるんだ。

暴風を伴った台風21号が接近した時の強風がすごかった。7月末の逆走台風もあまり例のない強風で怖かったが、21号は更に怖かった。自宅は軽量鉄骨の住宅だが、風圧で建物が震えることもあった。

京都の最大風速は30メートル台で、大阪湾周辺の40~50メートル台よりは弱く、山に囲まれた内陸にあるためだと思うがそれでもすごかった。門の横に置いている植木鉢が風のために道路に転がり落ち、重たくて戻すのが大変だった。葉を剪定しておけばよかった。



4日の昼過ぎから強くなった風も、4時頃には日本海へ抜け、夕方には風もおさまってきた。翌朝は6時前からいつものように散歩に出て、台風の影響を確認してみた。カメラを持って出なかったので、画像は翌々朝に撮った。

まず気が付いたのは、TVのアンテナが倒れたり折れたりしている家が少なくない。







自宅のある組(ブロック)には17軒の家屋があるが、TVアンテナが3軒で倒れていて、付近よりも多いと思う。倒れないまでも傾いだアンテナも結構目にする。修理のために屋根に登って転落する事故も起きているようだが、やはりプロに任せるべきだ。あの強風にも耐えるように支線を張るのは素人では無理。

我が家は5年前に家の外壁を塗装した際、アンテナを撤去して光ファイバーで受信するようにしたので心配はなかった。

散歩の途中で時々お参りをしている伊勢田神社に寄ってみると、なんと石灯籠の一番上に乗っている宝珠が地面に落ちている。大人の頭の大きさぐらいある重い物だが、風で落ちた?木でも倒れた時に当たったかと思ったが、そんな様子もない。



境内の森にある大きな木も、何本か途中から折れている。





古木と言うか、樹齢100年以上ありそうな老木が多く、中心部分がムロになった木は根元からやられている。

6月頃にも強風で1本が倒れ、その後に危なそうな老木が2本伐採されていたが、それでもまたやられたようだ。老木だけに背丈も相当あり、近くには住宅もあるが幸いにも被害はないようだ。

参道の脇には落ちた枝木が集められているが、昨日は倒木と枝木で参道は塞がれていた。



昔からある伊勢田の集落の中に、古民家と言っていいような茅葺トタン屋根の家が1軒だけある。よく見るとトタンの一部がはがれてしまったようで、下地の茅が見えた。



自宅の西方に行ってみると運送会社のプレハブ家屋に被せたトタン屋根が吹き飛んで、電線に引っかかったまま排水路にぶら下がっていた。



画像左にあるプレハブ家屋の上にはブルーシートが敷かれている。電線は切断されてないようだが、撤去には手間がかかりそうだ。

自宅から北の方には巨椋池を干拓した水田が広がるが、稲は結構しっかりと立っている。部分的には斜めに倒れそうになった稲もあるが、これらもなんとかなりそうに見える。稲刈りにはまだまだ早いこの時期だったので幸いだったのかも知れない。



高潮で冠水した関西空港や、車がひっくり返った大阪などに比べると周辺の被害は小さいが、それでも台風21号の強風を記憶させるに充分な景色があった。











鞍馬口通り室町角の小松帯刀の寓居跡

2018-09-01 13:25:34 | 日記
今年は珍しく、NHK大河ドラマの西郷どんを(全部ではないが)視ている。先週はちょうど薩長同盟が結ばれるシーンだったが、NHKの別の番組、英雄たちの選択でも薩長同盟を取り上げていた。

3月にはブラタモリでも、なぜ鹿児島は明治維新の主役になれた?の番組をやっていた。大河ドラマを盛り上げる一連の連携作戦のようだ。

で、薩長同盟と言えばこれまでは、それを仲介したとされる坂本龍馬ばかりがクローズアップされてきたが、少し様子が変わってきたようだ。同盟が結ばれた場所が今までは薩摩藩邸内と思っていたが、近年見つかった史料から薩摩藩家老の小松帯刀の住む京都屋敷であったことがわかり、その屋敷の場所が特定されたらしい。

場所は、鞍馬口通り室町の南東角で、そこには石碑と解説板があった。









薩摩藩が家老屋敷として借りていた近衛家の御花畑御屋敷の場所が、今までは不明だったと思われる。

説明板の面している通りが室町通りだが、石碑のある角、つまり鞍馬口通りが室町通りの北端で、室町頭(むろまちかしら)と呼ぶらしい。ここから北は洛外になるのだろう。

ここからは相国寺の敷地内にあった薩摩藩邸までは近いので歩いてみたが、10分と少しかかった。幕府の目を盗んで長州の要人と会うには藩邸よりも適しているし、何かあれば藩邸からの応援も呼びやすい。





同志社大学の西門前に薩摩藩邸跡の石碑がある。在京時の小松はこの距離を毎日通勤していたのだろう。

小松は薩摩藩の家老という重職にあり、維新への大事な役割を果たしている。新政府でも要職につきながら、幕末維新の人物としては西郷や大久保ほどには名前が出てこない。明治3年、35歳の時に病で亡くなってしまうが、もう少し生きていたらと惜しい気がする。



帰宅する前に薩摩藩邸跡から1kmくらい北にある上善寺に寄ってみた。以前に読んだ本で、そこには禁門の変の際に戦死した長州藩士の首塚があると書いてあった。



放置されたままの遺体を見かねた福井藩が京の菩提寺である上善寺に葬ったようだ。明治になってそれを知った毛利家が塚を修復したとある。



首塚は墓地内にあるようで門内に入ったが場所がわからずに諦めたが、手入れが行き届いた静かな寺だった。