振り出しに戻る「落陽日記」

旅や日々の生活の一コマ。60代半ば、落陽期を迎えながら気持ちは再び振り出しに戻りたいと焦る日々です。

山城(木津川市)の高麗寺址

2019-12-21 21:07:03 | 日記
11月の中旬だったか、天気が良かったので久し振りにバイクを走らせた。10月に車検の更新をして以降、初めての走行だ。

目的地は以前から行ってみようと思っていた場所で、木津川市にある高麗寺址。和束町まで茶畑を見に行く際、すぐぞばを何度か通過しているが、時間がなかったりウッカリ見落としたりで、実現してなかった。

何故に高麗寺へと言うと、最近になって読み始めた本で「京都の歴史を足元からさぐる」と言うのがある。著者は既に他界されている考古学者の森浩一先生。日本史の古代や中世にはあまり興味を持っていなかったが、この本を読んで少し変わってきた。

昔の国名である山城の南部を、南から北に流れる川が木津川で、宇治川などと合流して淀川となっている。その木津川を遡るとL字形に流れる方向が変わる地点が現在の木津川市になり、京から奈良に至る街道の要衝と言える。古くは泉川と呼ばれ、百人一首にある「みかのはら わきて流れるいずみがわ」に登場する。

「木津」は水運で木材を扱う港「津」があったためらしい。飛鳥や平城の都を建設するための木材が上流や下流からも運ばれて来て、ここから南へはは陸路で運ばれたのだろう。

高麗寺址は木津があったであろう場所に近い田園に囲まれた高台にあり、史跡として復元整備の工事がすすめられていた。







この辺りの地名は現在も上狛と呼ばれ、渡来人の狛氏の一族の住居があったそうで、高麗寺も狛氏一族のための寺と考えられている。

また、日本書記には570年に北陸に着いた高麗国の使者をもてなすための迎賓館として「相楽館」を建てたと言うのがあるが、森浩一先生によると高麗寺は相楽館のあった場所に7世紀の初めに建てられたのではないかとのこと。


考えてみると日本海を渡ってきた渡来人や文物、また各地からの献上品を大和朝廷に運ぶルートとして、木津川やその沿道は重要な存在だったのだろう。木津川沿いに遺跡や古墳などが多くあるのもそのためか。わずか数年間だけだが、聖武天皇が平城から都を移したと言われる恭仁宮もここから上流に5kmしか離れていない。さらに上流には8世紀初めに銅銭を造る鋳銭司があった。

木津川沿いの古代史跡、なかなか興味深いことがわかった。