臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の「朝日歌壇」から(10月3日掲載分・其のⅣ)、斯界切っての鬼才盆栽・鳥羽省三氏の戯作的な短歌評論、昨日に続いての大公開!乞う、一読三嘆!!

2016年10月22日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]
○  「エリーゼ」の二階の奥の暗い席そこがいっとき青春だった  (坂戸市)山崎波浪

 えっ?
 「『エリーゼ』の二階の奥の暗い席」が、「いっとき」山崎波浪さんにとっての「青春だった」んですか?
 「『エリーゼ』の二階の奥の暗い席」に座って珈琲を飲んでいた頃ではなくて?
 思わず悪戯してしまいましたが、こうした悪戯癖は、私の「青春」が実り少ないものであった所為なのかも知れません。
 それにしても、今は、朝日歌壇・入選者席の常連中の常連とも言うべき、埼玉県坂戸市にお住まいの山崎波浪さんが、その昔、あの横浜駅西口に在る純喫茶「『エリーゼ』の二階の奥の暗い席」に腰掛けて、一日中、歌想に耽って居られたとは、私・鳥羽省三にとっては、全く以て羨ましい限りです。
 [反歌]  お茶の水駅前十円寿司店のまぐろの味こそ私の青春  鳥羽省三 
      さぶちゃんの半ちゃんラーメン旨かった店主の爺さん未だ息災か?  鳥羽省三
 

○  ものごとにこうして慣れてゆくのかとミサイル発射またかと思う  (船橋市)山崎三千子

 詳細に、かつ正しく言うと、「テレビで『(北朝鮮に依る)ミサイル発射』のニュースに接したが、つい、先日も同じようなニュースに接したばかりだったので、私としては『またかと思う』。そして、北朝鮮の『ミサイル発射』は、一度ならず、二度、三度のことであるので、このニュースに接した、私の気持ちとしては、『ものごとにこうして慣れてゆくのか』と『思う』」ということになりましょうか?
 と亦、例に依って例の如くの無駄言を書き連ねてしまいましたが、それにしても、私たち人間にとって恐ろしいのは「慣れてゆく」っていう事ですね。
 その昔は、銀行や郵便局に貯金をすれば、知らない間に利息が付いて、十年経ったら倍になっていた、なんてコトもあったのですが、あの安倍の馬鹿が総理になったお陰で、今ではいくら貯金しても増えなくなってしまいましたし、安倍の野郎のそうした悪政にも、私たち国民が、いつの間にやらすっかりと慣らされてしまいました。
 マスコミの報道に拠ると、来春そうそう衆議院が解散されて総選挙が行われるとの事ですが、そうは言っても、自公連立政権の対抗馬があの頼り甲斐のない民進党では、私たち国民は、今、「お先真っ暗」という状態に置かれている訳ですね!
 つい、うっかり、またまた、まるっきし無駄なお喋りをしてしまいました。
 [反歌]  饒舌は口の運動経費ゼロ我が饒舌は駄弁にあらず  鳥羽省三


○  嫁解かれ妻も解かれて今朝もまた母が旅立ち娘解かれる  (宮城県)尾形和子

 この記事の筆者の私から前掲一首の作者の尾形和子さんにお訊ねしますが、それまで荒縄で縛られ、身柄を拘束されていた不幸な女性は、作中の「嫁」と「妻」と「娘」とのお三方だったんですね。
 そのお三方が、この度、荒縄の縛りから解放されたことは、何はともあれ、極めて幸せな事と思われますから、筆者の私からも、「荒縄の縛りからの解放、真におめでとうございます。これからの自由気儘な人生を、十分にお楽しみください」との、お祝いの言葉を言わせていただきとう存じます。
 それはそれとして、私から尾形和子さんにもう一点質問させていただきますが、作中に「今朝もまた母が旅立ち」とある点から推測すると、「母」なる人物には、普段から松尾芭蕉にも似た放浪癖があり、今回の「旅立ち」は、これまで数十回行われたそれの中の、新たなる一回でしかないのですね。
 だとしても、高齢者の旅行や散歩には、それなりの危険や心配が伴いがちですから、これからはよほど気を付けなければなりませんし、場合に拠っては、荒縄で縛って、自由に外出することが出来ないように拘束する事も必要でありましょう。
 冗談もこれくらいにして止めておきますが、然しながら、こんなにも効率的な言葉使いをされた作品に接しますと、何方でも、この程度の悪戯をしてしまいたくなるもんです。
 宮城県の郡部のとある田舎町に住まいの尾形和子(年齢不肖、たぶん還暦前後?)さんは、今から四十年ほど前に、同じ宮城県内の郡部のとある町のさる旧家にお輿入れなさったのでありましたが、その後数年を経て、件の旧家のご当主ご夫妻(和子さんの舅と姑)が相次いでお亡くなりになったので、彼女は「嫁」という窮屈な立場から解放されて、婚家の主婦の座にお座りになったのでありましたが、それも束の間、その後数年を経て、ご亭主殿がご逝去されたので、彼女は、「妻」という立場からも解放されたのでありました。
 斯くして、尾形和子さんは、寡婦として立場とは相成り、その間、和子さんは、ご自宅とご実家とを自由に行き来出来るような立場にもなり、しばらくの間は、今は亡きご亭主殿をはじめとした、尾形家の仏様たちに対して、わずかながらの罪の意識を感じながらも、ご実家とご自宅とを何の区別もせずに、自由に往来していたのでありました。
 ところが、そんな生活はそれほど長くは続かず、平成二十八年初秋の「今朝」になって、突然、ご生母様がお亡くなりになられたので、彼女は、この度、今は亡きご生母様の「娘」という立場からも解放されたのでありました。
 一人の成人女性が、成人女性であるが故に立たせられなければならない立場は、前述の「嫁」「妻」「娘」といったところが代表的なところでありましょうが、その他にも、例えば、「母」としての立場、「伯母」や「叔母」としての立場、更には「田舎町の居住者」としての立場、或いは、「朝日歌壇への投稿者」としての立場など、いろいろ様々でありましょう。
 そうした数ある立場の中の三個の立場、即ち、「嫁・妻・娘」の立場から、この度、本作の作者・尾形和子さんは解放された訳ではありますが、ご承知の通り、才女・尾形和子さんが置かれている立場は、それで全部ではありません。
 従って、緒方和子さんのこれからの生活は、これからの彼女が立たせられている、数多くの立場、即ち、「母親としての立場」、「姪御さんや甥御さんなどの伯母・叔母としての立場」、更には、「これから生まれてくるはずの、可愛いお孫さんのバアバとしての立場」や、「地域社会の良きリーダーとしての立場」などをも、よくよく考えた上での生活でなければなりません。
 そうした点に就いては、本記事の筆者である、私・鳥羽省三からも、何卒、宜しくお願い申し上げます。


○  病室のベッドに寝たまま髪を刈る頭の下に新聞紙を敷き  (三原市)岡田独甫

 「生臭坊主の増上慢も、これくらいになると全く手が付けられません。斯くなる上は、この生臭坊主の始末は、地獄の閻魔様の手に委ねるしかありません」なんちゃったりして。(笑)
 [反歌]  病室のベッドの中での吸煙が火災を起こした例もあるぞ  鳥羽省三


○  葛の葉に覆ひ尽くされ河原の道端標識こんもりと立つ  (和歌山市)吉田 孝

 作中の「道端標識」の〈よみ〉は如何ならんや?
 [反歌]  雷鳥の糞に覆はれ山頂の一等三角点未だ識せず  鳥羽省三


○  熱き陽をゆっくり冷まし風が過ぐ藁の匂いと籾焼く煙  (埼玉県)島村久夫

 「クソ面白くもねぇ!」
 「〈しまむら〉と入力して〈島村〉と変換しようとしたら、元の〈しまむら〉のままであった!」
 「でも、それも仕方がねぇな!なにしろ、あの安物買いの銭失いの〈しまむら〉の店舗は日本全国至る所に在るのだからな!」
 「息子の大学時代の親友の一人が、何社受けても内定を貰えなかったから、その当時はフリーパスみたいに内定を呉れた〈しまむら〉に入社したら、一年足らずに店長にされて高給取りになったという話を聴いたことがあったが、今頃、彼は何処の〈しまむら〉の店長になってるんだろうか?」
 [反歌]  熱き陽をじつぱり浴びて「しまむら」は日本各地に店舗網広ぐ  鳥羽省三 


○  下瞰する月夜の湾に戦艦の燃ゆるを見つつ疎開したこと (横浜市)田口二千陸

 「『それがどうしたってんだ!」なんちゃったりしたら、二千陸さんに叱られるかな?」
 [反歌]  俯瞰する関東平野のどの辺に城を築いて守りとせむか  鳥羽省三 
       俯瞰する多摩丘陵のどの岡を買ひ占め僕の墓所とせむか


○  いつまでも纏ふ思ひを取り敢へず〈感情π〉と名づけておこう  (羽咋市)三宅立美
 
 「如何に学力検査日本一の石川県人だからと言っても、あんまり恰好付けねぇでけろな!つい昨年までは、俺の故郷の秋田県がダントツの日本一だったんだから、あんましえばらねでけろな!『取り敢へず〈感情π〉と名づけておこう』なんちゃったりしてさ!」
 [反歌]  童貞を掠め奪つた大年増〈初恋未満〉の遠い思ひ出!


○  道に出て踏まれたままのカマキリの踏まれたままを蟻運びゆく  (館林市)阿部芳夫
 
 「蟻さんよ、いくら何でもそれではあんまりではありませんか!同じ冬期間の餌として死んだカマキリを巣の中に運ぶにしても、例えば、手足と胴体を切り離して運ぶとか、様々の運び方があるはずでしょう!」
 「カマキリ君よ、いくら死んだからと言っても、それでは踏んだり蹴ったりだなや!」
 [反歌]  財布から溢れた五円玉なれどころころ転げ賽銭箱に  鳥羽省三 

日暦(10月22日)

2016年10月22日 | 我が歌ども
○  お茶の水駅前十円寿司店のまぐろの味こそ僕の青春   鳥羽省三
  
○  さぶちやんの半ちやんラーメン旨かりき店主の爺さん息災ならむ

○  雷鳥の糞に覆はれ山頂の一等三角点未だ識せず

○  熱き陽をじつぱり浴びて「しまむら」は日本各地に店舗網広ぐ

○  童貞を掠め盗られし大年増〈初恋未満〉の遠い思ひ出!

○  財布から溢れし五円玉なれどころころ転げ賽銭箱に

○  俯瞰する関東平野のどの辺に城を築いて守りとせむか

○  俯瞰する多摩丘陵のどの岡を買ひ占め僕の墓所とせむか
  
○  饒舌は口の運動経費ゼロ我が饒舌は駄弁にあらず

○  病室のベッドの中での喫煙が火災を起こした例もあるぞ 

今週の「朝日歌壇」から(10月3日掲載分・其のⅢ)決定版、堂々と一般公開!乞う、国民大衆の御目文字に叶わん事を!読者諸氏よ、失笑すること莫れ!

2016年10月22日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]
○  秋川を遡りゆく鮠の眼に渦巻きをらむ曼珠沙華の赤  (福山市)武 暁

 「秋川を遡りゆく」魚が、鯨でもイルカでも鮭でもサクラマスでも岩魚でもなくて「鮠」であるところに、本作の面白さがあり、作者の頭の良さ(想像力の豊かさ)が示されているのである。
 「曼珠沙華」の特質の一つは、「夏の終わりぐらいから秋の初めにかけて、40cm〜50cmくらいの枝も葉も節もない花茎が地上に突出して現れ、やがて、その先端に六枚の花弁が放射状を為して並んで咲く点」にある。 
 思うに、本作の作者・武暁さんは、こうした特殊な形のこの花をよく観察した上で、それを、例えば〈風車〉や〈水車〉や〈鳴門の渦潮〉などの「渦巻き」状に回転するものに見立て、「渦巻きをらむ曼珠沙華の赤」と述べたのでありましょう。
 短歌鑑賞の要諦の一つとして、「鑑賞者は余計な気を起こさずに、先ず最初に一首の叙述を素直に言葉通りに解釈してみなければならない」という点が上げられる。
 ならば、私たち本作の鑑賞者は、先ず最初に余計なことを一切考えずに、本作の叙述を素直に捉えて、「秋の川を遡って行く、あのあまりにも小さな小さな淡水魚、即ち、鮠の小さな小さな目に、川岸に群れを成して咲いている曼珠沙華の放射状の花が映り、その真っ赤な色が、恰も野辺のお地蔵様が手にしている赤い風車の如くにくるくると廻っている光景」を目に浮かべなければなりません。
 この場合、「鮠の目」は小さければ小さいほど宜しいし、曼珠沙華の花の色は赤ければ赤いほど宜しいのである。
 現実的には、こうした現象などは起こり得ようはずがありませんし、仮に起こったとしても、人間である作者の目には捉えられようはずもありません、
 従って、本作に詠まれている事象は、人並み以上に観察眼と想像力に恵まれた、作者・武暁さんの胸に去来した幻想世界なのでありましょう。
 [反歌] 渓谷を遡上して行く桜鱒のまなこに映れ童女の姿  鳥羽省三


○  ふるさとを長き不在の後に訪ふ入日も雲も海も金色  (東京都)奥村けい子

 「長期間、『ふるさと』から離れて暮らしていた作中主体が、久方ぶりに『ふるさと』を訪ねてみたら、『ふるさと』の夕景色を彩る『入日も』空の『雲も』、その雲の下の『海も』、みんなみんな『金色』に輝いていた」というだけの内容でありましょう。
 だが、この一首の持つ普遍性と世俗性と永遠性とが、高野公彦選・二席という「金色」に輝く結果を齎したのでありましょうか?
 歌い出しの三句「ふるさとを長き不在の後に訪ふ」に込められた情感の深さと、「ふるさと」に対する作者の郷愁の思いの深さを、私たち本作の鑑賞者は感得しなければなりません。
 [反歌]  ふるさとを捨てて三十六年後野狼の想ひ抱きて還る  鳥羽省三
 

○  世も人も変われど稲は弥生より種をつなぎて今年の実り  (安中市)鬼形輝雄

 「世も/人も/変われど/稲は/弥生より/種を/つなぎて/今年の/実り」と、一気呵成に詠み上げた点が高く評価されましょう。
 然り!
 「弥生」以来の稲作に携わる方々のご苦労と、稲という禾本科植物の〈‎DNA〉の存在が在ってこそ、安中市にお住まいの鬼形輝雄さんは、「今年の実り」を目にすることが出来たのでありましょう。
 [反歌]  人も世も移れど早稲田大学は三人寄れば『都の西北』 


○  語尾にみなサウルスつけてはねまわる四歳おの子はジュラ紀に住めり  (杵築市)長野なをみ

 数多い中には、「ナヲミサウルス」などという、元気で可愛らしい雌恐竜もいるかも知れません。
 [反歌] サウルスの名をば背負ひて跳梁すスガノサウルス官房長官  鳥羽省三


○  「筋トレは貯筋」と今日もジム通い傘寿の女子のバンダナ眩し  (宝塚市)河内香苗
 
 「『筋トレは貯筋』とばかりに洒落のめして、私は『今日もジム通い』をしているが、そんな私にとっては、私と同じ『ジム』に通っている『傘寿の女子のバンダナ』姿が、とてもとても『眩し』い」とも解釈する事が出来るし、また、「私の知人の一人である『傘寿の女子』は、『筋トレは貯筋』とばかりに、頭に『バンダナ』を巻いて『ジム通い』をしているが、そんな彼女の『バンダナ』姿は、私にとってはとてもとても『眩し』い」とも解釈する事が出来ましょう。
 それにしても、「筋トレは貯筋」とは!(笑)
 [反歌]  ジム通ひしつつ我が家の主婦殿は町内一の細腕自慢  鳥羽省三


○  玉子焼き焦がし舌打つ夕餉どき核実験をテレビは伝う  (名古屋市)磯前睦子

 「玉子焼き」の「焼き」と「焦がし」が、「核実験」と結び付くのでありましょう。
 「玉子焼き焦がし舌打つ夕餉どき」は日常的な光景、それに対して「核実験」は非日常的な光景である。
 然るに、昨今に於いては、その非日常が日常化しているのである。
 [反歌]  顔パック剥がして見入る画面には小池百合子の厚化粧顔  鳥羽省三
 

○  体感で震度1でも判ります余震二千回馴らされました  (熊本市)高添美津雄

 本作に詠まれている事象も亦、「非日常が日常化している事象」そのものでありましょう。
 最大震度が6強の本震に見舞われた上に、震度6弱、二回をはじめとした「余震」に「二千回」も見舞われたならば、作者の体質そのものが、地震に対応出来るようなものになっているのでありましょう。
 「馴らされました」との、五句目七音に込められた、作者・高添美津雄さんの諦念の深さを感得しなければなりません。
 作者ご自身が主役を演じた悲劇を、作者自らが喜劇として詠じているのである。
 [反歌]  体感でもて記憶せる事なれど照国の四股は震度七強  鳥羽省三
       性感は震度一以下零以上老いたれど未だ女性性

○  泣くことは浄化になるとふ幼子も言葉にできぬ想ひこぼすか  (奈良市)山添聖子

 「泣くことは浄化になるとふ」という上の句の叙述と、「幼子も言葉にできぬ想ひこぼすか」という下の句の叙述とは、必ずしもきちんと対応している訳ではありません。
 しかし、その不対応は、必ずしも本作の欠点とは言えません!
 [反歌]  泣くことは精神浄化になると言ふ彼の議員らも大いに泣きな  鳥羽省三 


○  腰痛の友が電動自転車で届けてくれたる梨と新米  (志木市)小高美江子

 「腰痛の友が電動自転車で届けてくれたる梨と新米」とは、確かに有り難い。
 涙が出るほどにも有り難い!
 然しながら、余計な事かも知れませんが、朝もぎの「梨」一個の市販価格は、ほぼ百五十円以上であり、例えば、埼玉産ならば、「新米」十kg入りひと袋の市販価格は、三千円前後でありましょう。
 という事態になりますと、豊葦原瑞穂の国・日本の米作の農家の経営は、破産状態に置かれていると言えましょうか!
 [反歌]  独り身の友が育てし米なれば埼玉産とてなほ有り難し  鳥羽省三 

今週の「朝日歌壇」から(10月3日掲載分・其のⅡ)決定版として再掲!

2016年10月22日 | 今週の朝日歌壇から
[佐佐木幸綱選]
○  負傷兵の一人もゐない日本の選手団なりパラリンピック  (東久留米市)関沢由紀子

 本作は、過日、南米はブラジル連邦共和国のリオデジャネイ市で大騒ぎをして挙行された「パラリンピック」なる催しにこと寄せて、我が国の紛れも無き憲法違反の軍隊である自衛隊の海外派兵問題にも言及せんとした野心作でありましょう。
 ここだけの話とさせていただきますが、私はあの「パラリンピック」とやらを、オリンピックの終わった直後に、オリンピックと同じ会場を使って、オリンピックと同じように大騒ぎをして開催することには、必ずしも両手を挙げて賛成している訳ではありません。
 然しながら、そんなことをほんの少しでも口に出してしまうと、人権思想が広く行き渡った(そのこと自体は、少しも悪いことではありません)今日の我が国に於いては、その当日から東京銀座の表通りを胸を張って歩けないような立場に追い遣られてしまうようなことだって有り得ますから、その理由に就いて少し弁解させていただきます。   
 ここ数回行われている「パラリンピック」、即ち、オリンピックの直後に、オリンピックと同じ会場を使って鳴り物入りで行い、〈何処の国が何個の金メダルを獲った〉とか、〈日本が獲った金メダルは前回よりも十個も少なかった〉などと大騒ぎをするような愚行・パラリンピックは、〈人権思想や社会福祉に名を借りたショーに過ぎない〉と、私は思っているのであります。
 と言っても、私は何も〈身体に障害を持つ人々は運動をする必要がない〉などと思っている訳ではありません。
 決して、決して!
 だが、〈物事には程度というものがあり、同じ健康増進、同じ健康保持の為に運動をするにしても、健常者のそれと身体障害者のそれとでは、それぞれ遣り方が異なっていて当然だ〉と、私には思われるのであります。
 例えば、あの〈車椅子バスケットボール〉だとか〈シッティングバレーボール〉だとかでありますが、あれは、〈勉強嫌いな高校生が小田急電鉄電車や川崎市営バスの優先席を独占して興じている、俗悪なスマホゲーム以下のゲーム〉、〈他人の不幸を笑いものにしたい健常者が見物席にでんとして座り、笑いながら見ている見世物〉ではありませんか!
 それ以外のゲームにしても、本質的にはそれと同じことではありませんか!
 そして、あれらのゲームは、〈身体障害者の方々が、ご自身の健康の保持の為、ご自身の健康の増進の為には、どうしてもあの種のゲームを遣らなければならないと念じ、遣るからにはどうしてもその奥義を極めて国を代表してパラリンピックという身体障害者だけが出場することを許される国際スポーツ大会にしなければならないと切望して出場するゲーム〉なのでありましょうか? 
 あれらのスポーツ大会紛いのシヨーは、〈その勝利者として自分の為にも祖国の為にも、どうしても金メダルを獲得しなければならない〉と、〈身体障害者の方々ご自身が切なく願い、自らのご意志で以て出場し、自らのご意志であの大舞台に立つような性質の国際的なスポーツ大会〉なのでありましょうか!
 この度のパラリンピックに出場し、〈色の良いメダル〉を獲得された身体障害者アスリート諸氏の中には、「自分が身体障害者という名の身体が不自由な立場に立たされたからには、是が非でも〈アルミニウムやチタンで作られたレーサー車椅子を操作してのフルマラソン〉の選手として選ばれ、パラリンピックに出場しなければならない、その事は自分自身の長年の夢であり、運命でもあったから、今、その願望を果たし得た今こそは、最高の気分である」などと思って居られる方も、或いは居られるかも知れません。
 だが、それはあくまでも極めて特殊なケースであり、大方の身体障害者アスリートの方々の思いとしては、「自分は不運にしてこういう立場に置かれているけれども、これからの長い人生を生きて行くためには、自分の心身の健康を保ちたい、可能ならば健康の増進をも図りたい。その為には、自分の極めて限られた心身機能とも相談して何か運動をしたい。出来るならばその運動とは、ただの健康保持の為の運動では無くて、スポーツと名の付く運動をしたい」と、お思いになって居られるものと推測され、そうした方々の裡の何人かの方々は、「そうした私の願望を果たすためには、現在の私を取り巻いている生活環境が、今少し改善されなければならない。それを実現するための国家や地方公共団体の確固たる施策が望まれる。そして、ボランティアの方々のご協力が望まれる」と、切にお思いになって居られるかも知れません。
 私のこうした推測が的外れのものでなかったとしたならば、昨今行われているような、身体障害者のスポーツ大会の多くは、必ずしも身体障害者の方々からの〈絶っての望み〉に基づいて行われているスポーツ大会とは思われませんし、ましてや、その究極とも思われる現今のパラリンピックは、身体障害者の方々からの切なる希望に基づいて行われている国際スポーツ大会とは、到底、思われません。
 以上、縷々書き連ねましたが、昨今行われている「パラリンピック」なるメダル獲得ゲームは、〈身体障害者ご自身の健康の保持と増進の為に、身体障害者ご自身の希望に基づいて企画され実施されている、身体障害者のための国際スポーツ大会〉とは、到底思われませんし、むしろ、それとは裏腹な関係にある国際的なスポーツ大会、健常者たちの〈上から目線〉で以て企画され、挙行されている国際的な似非スポーツ大会のようにも、私には思われます。
 彼の「パラリンピック」こそは、勉強嫌いな高校生たちが、小田急電鉄の電車や川崎市営バスの優先席を独り占めして血眼になって興じているスマホゲームにも劣る、俗悪な似非スポーツ大会のようにさえも私には思われます。
 その昔、江戸は浅草の奥山に俄作りの藁苫小屋を張り、木戸銭を取って行った俗悪極まりない興行にも類似するショーのようにも、私には思われます。
 彼の「パラリンピック」こそは、〈身体障害者の心身障害者としての存在を見世物にする、健常者目線で企画され、挙行されている興行〉でしかありません。
 彼の「パラリンピック」なる、当初から健常者の身体障害者に対する差別的な発想に基づいて企画され、挙行されているスポーツ大会を、オリンピックと同規模な国際スポーツ大会として位置付け、オリンピックと同じように大騒ぎをして行うよりは、米露対立の代理戦争の如き様相を呈しているシリア戦争の、抜本的かつ根本的な解決を図る方が優先して行なわれるべきかと、私には思われます。


○  故有りて日本に住みつくカナダ人燈籠流しの花火に見入る  (仙台市)福原幹夫

 「燈籠流し」そのものに「見入る」というのでは無くて、「燈籠流しの花火に見入る」とは、なかなかに手の込んだ遣り方であり、描写でもある。
 しかも、その「見入る」「カナダ人」が、「故有りて日本に住みつくカナダ人」であるから、益々手が込んでいるのである。
 一口に「故」と言ってもさまざまでありますが、その「故」に就いて、いろいろと考えてみるのが、本作の鑑賞の要諦の一つでありましょう。
 [反歌]  故ありて爆買ひしてた某国人爆買ひ止めたらたちまち不況  鳥羽省三 


○  「ありがとよ」言葉残してあとも見ずサンダルばきで退院する人  (松原市)久木山恵

 本作に詠まれているのは、必ずしも〈望ましい退院風景ではない〉と同時に、必ずしも〈憂うべき退院風景ではない〉、とも言えましょうか?
 その昔、国民健康保険制度が確立される以前の我が国に於いては、「お医者様のお世話になる時は、息を引き取る時だけである」との考えが、私たち庶民の間では為されていたのであり、国民健康保険制度が確立された以後に於いても、何かの大病に罹患して、長期入院する必要に迫られたり、手術しなければならない場面に於いては、患者の主治医に当たるお医者様に大枚の円の入った封筒を手渡したり、郵送したりしなければならなかったのである。
 そうした過去の事実に就いて考えるとき、私は、「『ありがとよ』との言葉を残してあとも見ずサンダルばきで退院する人」が現れ出でるのも、世の中の必然的な流れである、と思うのである。 
 この頃、私はかれこれ五十年もの長い間、苦楽を共にして来た妻を相手に、「なんだ神田と言っても、私たちは、一番いい時代に生まれ合わせ、暮らしているのではなかろうか?」などと語り合っている始末なのでありますが、それは、私たちが暮らしている今の時代が、我が国にとっての一番いい時代である、と言うよりも、これからの我が国の政治や経済の事情が右肩下がりに急激に悪化して行くに違いない、という私たち日本人の昨今の認識を裏返しにしたようなものなのかも知れません。
 [反歌]  「ありがと」も言はず謝礼を送らしめ碌な治療も得為ぬドクター  鳥羽省三



○  学童のたんぼに稲が実るころ妖怪ウォッチの案山子も並ぶ  (下野市)石田信二

 「『学童のたんぼに稲が実るころ』になってから、『妖怪ウォッチの案山子』が『並ぶ』」ようでは、既に手遅れですよ!」
 「美味しいお米を沢山収穫する為には、稲の花がそろそろ咲くだろうと思われる頃から、『妖怪ウォッチの案山子』であろうと、どんな意匠の案山子であろうと、『たんぼ』に『並ぶ』ように配慮しなければなりません。」
 [反歌]  「遅かりし内蔵助」との声ぞする 妖怪ウォッチの案山子の遅し  鳥羽省三 


○  午後三時近所の寺の勤行に誘われて読む般若心経  (上尾市)清水昇一

 檀家制度が崩壊してからは、宗派の別を問わず、寺院を営むことに依って得られる収益が、極端に少なくなってしまいましたから、そうした事態への対応策として、寺院の住職たちは、かつては彼らの公然たる本分とされていた、妾狂いや酒場通いを止めて、ありとあらゆる行事を設定して、お布施稼ぎに奔走しなければならない状態に置かれているのである。
 毎週行われる「般若心経」の写経会は、坐禅会や和讃の会などと共に、その中核を為す行事である。
 そのかみのお寺様は、境内に小規模の幼稚園などを経営して、それなりの利益を得ていたのでありましたが、それも遠い昔の夢物語となってしまいました。
 [反歌]  夜八時肥満の主婦が集ひ来て梅花詠讃稱ふ本堂  鳥羽省三 


○  道場の脇の笹百合すり抜ける袴姿の弓道部員  (千葉市)愛川弘文

 是亦、真に手の込んだ作品である。 
 なにしろ、結社誌「かりん」所属の愛川弘文先生が顧問をなさっている高校の「弓道部員」たちは、愛川弘文先生に一首の短歌を詠ませる為に、「袴姿」になって「道場の脇」を通り過ぎるだけならまだしも、「袴姿」で「道場の脇」に咲いている「笹百合」を「すり抜けて」通らなければならないのですから。
 ところで、「笹百合」でもどんな種類の百合でも、大凡、百合の類の花の咲く時期は、初夏の頃の一定の期間に限られていますから、件の弓道部員は、「笹百合」が咲いていない時期は、どうしているのでありましょうか?
 [反歌]  道場のトイレの臭気を我慢して的を狙へる弓道部員  鳥羽省三 
       道場のトイレの臭ひ堪へ得ず的を外せる弓道部員 


○  雨上がり空のかけらをこなごなにして自転車の少年が行く  (静岡市)山下奈美

 作中の「空のかけら」とは、降雨に因って生じた〈水溜り〉でありましょう。
 その水溜りをものともせずに、「こなごなにして自転車」を漕いで行く「少年」の元気な姿が彷彿とされる佳作である。
 [反歌]  雨上がり腰を空にぞおつ立てて塾へと急ぐ自転車少女  鳥羽省三 
  

○  黒雲に追いかけられてひた走る首都高の空に縞のひび割れ  (船橋市)押田久美子

 「黒雲に追いかけられてひた走る首都高の空」に生じた「ひび割れ」とは、稲妻でありましょう。
 本作は、そうした類型的な暗喩だけが手柄の作品である。


○  西洋の魔法使ひが乗るやうな穂先ではない日本のすすき  (川越市)小野長辰

 「すすき(ススキ・芒・薄)」とは、「イネ科ススキ属の植物。尾花とも言い、秋の七草の一つ。また茅(かや、〈萱〉とも書く)と呼ばれる有用植物の主要な一種。 野原に生息し、ごく普通に見られる多年生草本である」とか。
 ところで、「西洋の魔法使ひ」のお婆さんは、「すすき」に乗って空を飛ぶのでは無くて、箒に乗って空を飛ぶのではありませんか?
 仮に、私のそうした推定が正しいとしたら、「西洋の魔法使ひ」のお婆さんの乗る「すすき」の「穂先」と、日本の「すすき」の「穂先」とを比較対照して詠んだ、小野長辰さんの作品は、そもそもの発想の根拠が失われるのではありませんか?
 [反歌]  西洋の魔法使ひの婆さんの箒おつ立て来客撃退  鳥羽省三


○  バラバラに独り言いい作業する部長と二人六時の事務所  (茅ヶ崎市)臼井 彗

 なんだか冴えない「事務所」ですね。
 本作の作者の臼井彗さんは、こうした魅力の欠片も無い職場に、一体全体、いつまで勤めようとしていらっしゃるんですか?
 人間には、我慢の限界というものがありますから、臼井彗さんは、一日も早く、職替えをなさった方が宜しい、と、私は思います。
 [反歌]  ばらばらに咲くしか術なき薔薇扱ぎてパンジー植えたき我が家の庭に  鳥羽省三

日暦(10月21日)

2016年10月21日 | 我が歌ども
○  「遅かりし内蔵助!」との声ぞする妖怪ウォッチの案山子の稲田  鳥羽省三

○  「早々に参られたな!」との叫び声 すずめ群がる田圃の穂波

○  故ありて爆買ひしてた某国人爆買ひ止めたらたちまち不況  

○  ばらばらに咲くしか術なき薔薇扱ぎてパンジー植えたき我が家の庭に

○  西洋の魔法使ひの婆さんの箒おつ立て来客撃退

○  雨上がり腰を空にぞおつ立てて塾へと急ぐ自転車少女

○  雨上がりけつをかちやにしチャリンコで塾へと急ぐ自転車少女

○  道場のトイレの臭気を我慢して的を狙へる弓道部員

○  道場のトイレの臭ひ堪へ得ず的を外せる弓道部員

○  夜八時肥満の主婦ら集ひ来て梅花詠讃稱ふ本堂

○  「ありがと」も言はず謝礼を送らしめ碌な治療も得為ぬドクター 


 

結社誌「かりん」9月号より(作品・岩田欄)挑発族、今し、歌林の聖域を侵さむとす!覚醒せよ、会員諸氏!

2016年10月21日 | 結社誌から
○  なにやらむ厨にものを刻む音人なき廃屋も夏は賑はふ  (川崎)岩田 正

 「廃屋」とは、いかにも岩田先生らしく、いささかならずご謙遜なさっていらっしゃいます。
 わずかばかりガタが来ているようには思われますが、岩田正先生のご邸宅はなかなか瀟洒なお住まいであるとお見受け致します。
 ところで、岩田先生のご邸宅には、毎年、夏ともなると、岩田・馬場両先生のご両親様やご先祖様方のご霊魂様がご帰宅なさるのでありましょうか?
 [反歌] キッチンで胡瓜を刻む音がする暁子の母さんまた出て来たか?  鳥羽省三


○  心配ごとあれば心は緊張す心配ごとはわれを生かしむ

 人の世に〈悩み〉即ち「心配ごと」は尽きません。
 因って、岩田正先生は百数十歳までものご長寿を約束されているのである。


○  住みしことなき家の夢またも見る堂堂めぐりは夜に及びて

 もしかして、茅ヶ崎辺りのあの家の光景が、岩田先生の見る夢の中で堂々巡りを………?
 ところで、先般読んだ、穂村弘氏との対談に依る馬場あき子先生の自叙伝『寂しさが歌の源だから』の記するところに拠ると、馬場あき子先生は、一時期、多忙を理由にして、ご亭主の岩田正先生と別居なさって居られた
とか。
 ならば、作中の「住みしことなき家」とは、或いは、その時期の馬場あき子先生のお住まいなのかも知れません。
 ならばのならば、「住みしことなき家の夢」を「またも見る」のも道理であり、その夢が「夜に及びて」も「堂堂めぐり」するのも道理でありましょう。
 [反歌]  独り寝のあまりに侘し彼の人の夢は今宵も堂々巡り  鳥羽省三


○  一対一裸一貫すがしくて相撲の人気野球にまさる

 初場所の琴奨菊に続いて、秋場所では豪栄道が優勝しましたから、大相撲に人気は益々高まることでありましょう。
 [反歌] 一対一蓮舫さんよ遣りなさい!鈴木庸介落としちやならぬ!  鳥羽省三


○  お利口さんぶつて昭和を生ききしが平成のわれさすが老いたり

 「お利口さんぶつて」とは、これは亦、岩田正先生らしく、「カマトトぶって」いらっしゃいますことよ!
 [反歌] 土俗派振りて短歌史を渡り来しも真実は叙情派ならむ  鳥羽省三 


○  夜の道うしろの足音不気味にて離りゆく音なにかなつかし

 「夜の道」を歩いている時の「うしろの足音」は「不気味にて」、「離りゆく音」は「なにかなつかし」とは、事の真実に迫る見事な表現である。
 [反歌]  この秋も去り往く今はなつかしく傾く月に見蕩るるばかり  鳥羽省三


○  老いが笑みうかぶるはたのし生真面目な仏頂づらこそ憎々しけれ

 その所為かどうかは解りませんが、お写真の中の岩田正先生のお顔は、いつ見ても微笑んでいらっしゃいます。
 あれは、〈微笑み顔〉と言うよりも〈含羞み顔〉と申し上げた方がより適切な言い方なのかも知れませんが!
 [反歌]  写し絵に笑みを浮かべて居られるも幾多の恥辱忍ぶるならむ  鳥羽省三 


○  眠るまでいくたび襖をあけてしめあけてしめ母は夜にとりすがる  (市川)日高尭子

 「眠るまでいくたび襖をあけてしめあけてしめ母は夜にとりすがる」とは、まさしく、私たち後期高齢者にとっての「身過ぎ夜過ぎ」を適切かつリアルに表現したものである。 
 [反歌]  消して灯し消して灯しのLED消さずじまひで明けにけるかも  鳥羽省三  


○  花終へて匂ふほかなきどくだみよ妻に嫌はれ狭庭に揺るる  (つくばみらい)坂井修一

 作中の「妻」とは即ち、彼の閨秀の誉れ高い米川千嘉子先生でありましょうが、米川先生は「どくだみ」の「匂」いが嫌いなのでありましょうか?
 [反歌]  花も香もありてめでたきこの世にて香をば厭へる米川先生  鳥羽省三 


○  朝の廊下ゆつくりと母の歩むとき氷上のやうに床は光りぬ  (千葉)川野里子

 川野里子さんの御母堂様にとっては、「ゆつくり」と「歩む」「朝の廊下」の「床」こそは、新横浜プリンスホテルのスケートリンクのようなものなのでありましょうか?
 ところで、「氷上のやうに床は光りぬ」とは、「『朝の廊下』を『ゆつくり』と『母』は『歩む』が、その母の前途は輝きに満ちている」とも解釈されましょうし、また、「『朝の廊下』を『ゆつくり』と『母』は『歩む』が、その母の『歩む』『床』は滑って危険だ」とも解釈されましょう。
 そのような多様な解釈を可能にしているのが、この作品の魅力の一つである。
 [反歌]  朝の廊下ゆつくり吾は歩むともたった五秒で玄関に着く  鳥羽省三 


○  子の多き公園に虫取り網を見ずせみに聞き入るものはをらぬか  (台湾)日置俊次

 作者のお住まいになって居られる台湾の子供たちは、夏休みになってもカブトムシやクワガタムシなどを獲って遊ばないのかしら?
 そう言えば、「私たち、飢渇に苦しむ人類に残された最後にして最良の食糧は昆虫であり、その事を既に知り、既に実践しているのは、お隣りの某経済大国の人々である」という謳い文句の書物を目にしたことがあります。
 [反歌] 蚤・虱・蜱に苦しみ蕉翁の一夜宿れる尿前の関  鳥羽省三


○  夜目に澄む水路にかかる右衛門橋ここゆけば右衛門に出会えるような  (横浜)佐波洋子

 作中の「右衛門橋」に該当する橋脚を、寡聞にして私は渡ったことは勿論、その名前すら聞いたことはありません。
 そこで、その名称に「衛門」の二字を伴った橋を挙げれば、「太郎右衛門橋とは、埼玉県の桶川市川田谷と川島町東野の間に架かり、荒川を渡る埼玉県道12号川越栗橋線の橋」である。
 また、「久右衛門橋」とは、「府中街道と玉川上水が交差する地点に架かる橋」であり、小平市の小平中央公園の入口に当たるが、直ぐ近くに津田塾大学が在るので、もしかすると、この橋を渡っている途中で才色兼備の女子大生に出会えるような」可能性だってありますから、是非、おみ足をお運び下さい。
 [反歌]  霧に咽ぶ南鳩ヶ谷の五右衛門橋の袂で逢ひしをみな真知子  鳥羽省 


○  丘の上の新総合病院しんと立ち蟻一匹ももらさぬ構へ  (川崎)池内桂子

 作中の「丘の上の新総合病院」とは、私の掛かり付けの病院、即ち「新百合ケ丘総合病院」でありましょう。
 小田急線新百合ケ丘駅から徒歩十分の「丘の上」に建つねその威容及びその施設設備の良さは、首都圏内の他のそれを圧するものがありますが、その警備状況が「蟻一匹ももらさぬ構へ」であるかどうかは、斯く申す、私も知りません。


○  一夜一編汲めども尽きぬ味はひの怖ろしをかし『山の人生』  (浜田)寺井 淳

 柳田国男の著『山の人生』は、私のかつての愛読書でありましたが、「陸封魚 – Island fish」により第36回短歌研究新人賞を受賞なさって寺井淳さんの、この著に取材した作品に接して、とても懐かしく思われました。
 因みに、彼の第一歌集『聖なるものへ』には、次のような魅力あふれる傑作が満載されているので、その一部を以下に転載させていただき、本作の鑑賞の足しにさせていただきます。
   水面よりたまゆら跳ねて陸封魚海の匂いを恋ふる日あらむ
   閉ぢられし世界に卵生みながら海にひかるる陸封魚われ
   水面より無数の指たつといふたつべし或は北斗をささむ
   さざなみはつひにさざなみ 極彩の愛しき疑似餌に釣られてゆかな
   軋みつつ人々はまた墓碑のごとこの夕暮れのオールを立てる
   神の贄なる鮑の太るわたつみは温排水の美しきたまもの
   ウツクシイニホンニ死せり日の丸の翩翻と予後不良の通知
   海風に揚がる奴凧(やつこ)の足にせる新聞の記事 たとへば「サカグチ」
   寸分も違はぬさまに礼なせる童顔の父子死者に何告ぐ
   軽々と春を孕みてゆく柳絮爪先立ちの手の少し先
   閉ぢられし世界に卵生みながら海にひかるる陸封魚われ  
   木末よりしたたるみどり一滴に世界をすべて閉ぢこめて 
   蕭々と降れる紅葉よわれのうちの小暗き湖をゆくうつほ舟
   ここを世界の中心とせり表徴はベンチの背なるカスガヰドロップ
   半日の喪服を解きて妻はいま夕餐の蓮根を煮るひと
   八月の身体髪膚気毀傷してピアスの穴ゆ青き空見ゆ
   耳たぶに鮮血のごときピアスつけ愛しき双子千代と八千代と
   チェロを抱くそのため息の低きにも女男ありて鳴るソナタそのほか
   死者はうたふあかときの窓むらさきのそのむらさきの葡萄のしづく
   悪友が美人局(デコイゲーム)の経緯を語りつつ割く落ち鮎の腹
   貴妃の喉縊らば洩れむ緋の吐息無花果の実をもぎていましも
   神よりの前借りならむ夏麻引く命をかたに馬券(うま)買へわが夫
   蕭々と降れる紅葉よわれのうちの小暗き湖をゆくうつほ舟
   どの花に恋を擬へむ曼珠沙華さながら子等に首を折られて   


○  白百合に薄き茶のしみ広がりぬ女ざかりは強く香りぬ  (川崎)尾崎朗子

 「白百合」に限らず、ユリの花には、6枚の花弁があるように見えるが、よく見ると、その裡の外側の3枚は〈萼片(外花被)〉であり、内側の3枚だけが〈本物の花弁(内花被)〉である。
 また、ユリの花には、外花被、内花被を問わず、それぞれの基に1本ずつ、計6本の雄蕊がついていて、それは蕾の時期や開花して間もない時期は、花粉が雌蕊の先の柱頭に着き易いように内側に傾いているのであるが、花盛りを少し過ぎた頃になると、それとは逆に外側に傾き、周囲の花弁の内側を茶色に染めて汚してしまうのである。
 本作の上の句の「白百合に薄き茶のしみ広がりぬ」という叙述は、最盛期を過ぎた白百合の花弁と雄蕊の花粉との関わりを、よく観察して活写しているのである。
 という事になりますと、下の句の「女ざかりは強く香りぬ」という二句は、本作の作者の思いとは別に、観察を怠ったための誤解に基づく描写と言えましょう。
 何故ならば、「白百合」の6枚の花弁の内側に「薄き茶のしみ」が「広が」るのは、その「白百合」の花が最盛期を過ぎている事を示しているからである。
 こうした事は、一に「白百合」に限らず、この世の中の動植物のどんな種族に於いても共通した事である。
 例えば、私たち人間が、特に人間の中の雌が、所構わず威張り散らしたり、「今日はユニクロ、明日はデパ地下」と日柄も構わずに出歩いたりするのは、その者が人生の盛り、生物としての盛りを過ぎている事の、何よりの証しでありましょうから!
 [反歌]  眉毛描き厚化粧して出掛けたりうちの嬶さま還暦近し  鳥羽省三 



○  若者は洗ふ車を持たざれば噴水の辺に虹を分けあふ  (横浜)鹿取未放

 いにしえより雨上がりの空に立つ「虹」に託して夢や希望を語り合ったり、苦労を分かち合ったりするのが、その性別を問わず、私たち若者の特権的な生き様なのであり、真の大人になるための通過儀礼なのであり、我が国の風俗なのであった。
 然るに、今の都会の〈イクメン〉とかと呼ばれる若者たちは、「虹」に託して語るべき夢も希望を持たず、否、かつての若者たちの夢で希望であり、現実でもあった、カッコいい日産の自動車さえも持つことがなく、たまの休みに女房子供連れで出掛けて来た、川崎市多摩区の生田緑地の子供広場の小さな「噴水の辺」に立つ小さくて哀れな「虹」を見て、「あっ、虹が立った!虹だ!虹だぞ!あそこに虹が立ったぞ!あれが本物の虹だよ!消えないうちに早く見ろよ、未来ちゃん!」などと、乳母車に乗っている赤ん坊に向かって人目も憚からず叫び、大人のくせしてペロペロキャンデーをぺろぺろ舐めているばっかりの女房に嫌われている始末なのである。
 「若者は洗ふ車を持たざれば」という上の句の表現から読み取れるのは、「失業者や非正規雇用者が若者人口の五十%にも達しようとしている、現在の我が国の政治・経済事情に対する、本作の作者の激しい怒りの情や悲しみの情」であるが、であればこそ、昨今の若者たちは「『噴水の辺に』立つ『虹を』見て、悲しみや苦労を『分けあふ』しか為すすべを知らない」のでありましょう。
 文句無しの傑作である。

日暦(10月20日)

2016年10月20日 | 我が歌ども
○  渓谷を遡上して行く桜鱒のまなこに映れ童女の姿
 
○  独り身の友が育てし米なれば埼玉産とてなほ有り難し

○  ふるさとを捨てて三十六年後野狼の想ひ抱きて還る

○  泣くことは精神浄化になると言ふ彼の議員らも大いに泣きな

○  体感でもて記憶せる事なれど照国の四股は震度七強
  
○  性感は震度一以下零以上老いたれど未だ女性性
 
○  顔パック剥がして見入る画面には小池百合子の厚化粧顔

○  ジム通ひしつつ我が家の主婦殿は町内一の細腕自慢

○  サウルスの名をば背負ひて跳梁すスガノサウルス官房長官

○  ふるさとを捨てて五十八年余野狼の想ひ抱きて還る

○  人も世も移れど早稲田大学は三人寄れば『都の西北』 

日暦(10月19日)

2016年10月19日 | 我が歌ども
○  キッチンで胡瓜を刻む音がする因果な姉よまた出て来たか?

○  独り寝のあまりに侘し彼の人の夢は今宵も堂々巡り

○  一対一蓮舫さんよ遣りなさい!鈴木庸介落としちやならぬ!

○  土俗派振りて短歌史を渡り来しも真実は叙情派ならむ

○  この秋も去り往く今はなつかしく傾く月に見蕩るるばかり

○  写し絵に笑みを浮かべて居られるも幾多の恥辱忍ぶるならむ

○  消して点け消して点けてのLED消さずじまひで明けにけるかも

○  花も香もありてめでたきこれの世に香をば厭へる米川千嘉子

○  霧に咽ぶ南鳩ヶ谷の五右衛門橋の袂で逢ひしをみな真知子

○  朝の廊下ゆつくり吾は歩むともたつた五秒で玄関に着く 

○  蚤・虱・蜱に苦しみ蕉翁の一夜宿れる尿前の関 

○  眉毛描き厚化粧して壇上に小池知事殿六十五歳

 

今週の「朝日歌壇」から(10月17日掲載分・其のⅢ)掲載遅延多謝!平身低頭!

2016年10月19日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]
○  空爆で傷を負いたる少年の目はシリアより我等を見つむ  (石川県)瀧上裕幸

 人間は、特に私たち日本人は、「何処からか、或いは何方からか、常に眺められているという意識」を持ちたいものであり、そうした意識を持たない時の私たちは、「人を人とも思わないような傍若無人の振る舞いに及んだり、〈カロリー控えめのケーキ〉で人気のデパ地下に行列を作ったりする」のでありましょう。
 本作の作者・瀧上裕幸さんは、言わば〈覚醒の人〉であり、であればこそ、彼は決して、決して「人を人とも思わないような傍若無人の振る舞いに及んだり、〈カロリー控えめのケーキ〉で人気のデパ地下に行列を作ったり」はしない男性でありましょう。 
 「瀧上裕幸さんに限らず、私たち日本人は常に、『空爆で傷を負いたる』『シリア』の『少年」の『目』で以て『見つ」められている存在であることを忘れてはいけません」とは、斯く申す、私自身に向けられて発せられた自戒の言葉でありましょう。 


○  変声期だみ声交ざるハーモニー自覚はないのに男子の絶妙  (芦屋市)室 文子

 「変声期」の「だみ声」が「交ざるハーモニー」が何故に「絶妙」ならむ?
 文意不明、言葉足らずの凡作である。
 本作の作者・室文子さんは、或いは、自ら「自覚」せざるままに「変声期」の「男子」合唱部員に恋心を抱いているのかも知れません。


○  沖縄のサタキリ洞の旧石器人オオウナギ釣りモクズガニ焼き  (愛知県)赤羽一郎

 「沖縄の→サタキリ洞の→旧石器人→オオウナギ釣り→モクズガニ焼き」と、それらしき語や語句、道具立てを並べ連ねただけの凡作である。  


○  寂しさに胸に手にくる秋蠅よ我は良寛の御手にふれたし  (いわき市)馬目弘平

 「寂しさに胸に手にくる秋蠅」を目にして「我は良寛の御手にふれたし」と乞い願う作者。
 ものみな滅ぶ秋ともなれば、「蠅」も「我」人間も何かに縋り付きたくなるものと思われる。
 

○  冷房の管はずされてし穴ひとつプレス作業所閉鎖せし壁  (岐阜市)後藤 進

 「着眼点が素晴らしい!」との一言あるのみ。
 [反歌]  萎え果てし我が去りゆけば穴ひとつ空閨かこつ吾妻哀しき  鳥羽省三


○  独房に昼の光の射すときは活字立ち来るマルクスを読む  (ひたちなか市)十亀弘史

 なるほど、「昼の光の射すとき」の「独房」に「読む」本は「マルクス」でなければなりません!
 仮に、「昼の光の射すとき」の「独房」に「読む」本が、あの秋本治作の人気漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』だったりすると、「活字」が「立ち来る」ような不可思議な現象は起こりませんからね!
 [反歌]  マルクスを読んだりしたら逮捕だぞ!どうせ読むなら『バカボンのパパ』!  鳥羽省三


○  ギラギラは退職とともに消え失せてキラキラとなる第二の人生  (下関市)乗安 勉

 私見を述べさせていただきますと、「第二の人生」こそは「ギラギラ」と目を輝かせて生きて行きたいものです!
 [反歌]  ギラギラと目を輝かせサンマ選る秋刀魚の嘴黄色くあらず  鳥羽省三 


○  高三のねえちゃんせっせとつるしてる五人の笑ったてるてる坊主  (富山市)松田わこ

 「高三のねえちゃん」の高校では、明日、学園祭でも行なわれるのかしら?
 そんなことはどうでも宜しいが、ねえちゃんの梨子さんも妹のわこちゃんも、「自分たちがいつも空爆で傷を負いたるシリアの少年の目で以て見つめられている存在であること」を忘れてはいけません。
 [反歌]  姉ちゃんは盲滅法吊るしてる照る照る坊主所詮迷信  鳥羽省三 

日暦(10月18日)

2016年10月18日 | 我が歌ども
○  うすくこく紅葉錦のぐらでいしよん奥山寺の秋たけにけり  鳥羽省三

○  磐を背にもみぢの傾りいろ淡し朱は少なくて黄ばかり目立つ

○  カメラ手に歩く九キロ二時間半二口林道あき真つ盛り

○  老い独りそぞろ歩きの山道のした見下ろせば怖し断崖

今週の「朝日歌壇」から(10月17日掲載分・其のⅣ)掲載遅延多謝!平身低頭!

2016年10月18日 | 今週の朝日歌壇から
[佐佐木幸綱選]
○  牧水の生家を訪ねしその足で独り酒買うコンビニありて  (小林市)笹尾茂章

 「生家」と漢字書きして「いえ」と読ませようとしているが、これだけで、本作は落第!
 彼の若山牧水の〈酒好き〉〈酒狂い〉は人も知るところであるが、その「生家を訪ね」て「その足で独り酒買う」ような似非スタイリストは、歌人にあらざる似非歌詠みでありましょう。


○  耳遠く会話少なくなる人と心をつなぐ朝日歌壇  (戸田市)安部題子

 今や、「絆」や「癒し」は勿論のこと、「心をつなぐ」とか「心を結ぶ」と言っただけで短歌作品としては落第である。
 「絆」だとか「つなぐ」だとか「結ぶ」だとか「癒し」だとかという、表面だけはカッコいい言葉の中には、どれだけの先人の手垢が滲んでいて、どれだけの俗臭が滲んでいることでありましょうか!
 本作は題材から推察しても、〈入選作狙いの作品〉であることが明らかである。
 短歌というものは、投稿して入選する云々よりも、先ず、「詠みたい人が詠みたい事柄を詠みたいように詠むべきもの」であり、投稿したり入選したりするのは、その結果として後から従いて来るものである。


○  汚染水どぼどぼ流れているけれど本当にやるの東京五輪  (須賀川市)伊東伸也
 
 「汚染水」が「どぼどぼ流れている」のは、被被災地・フクシマでありましょうか?
 それとも、「東京五輪」の開催地であり、昨今話題となっている豊洲市場の在る東京でありましょうか?
 折が折だけに、あれやこれをゴチャ混ぜにして歌を詠んではいけません。
 元を糺せば、「東京五輪」の開催は、彼の安倍晋三なる人物の「私は皆さんにお約束します。状況はコントロールされております、汚染水による影響は第一原発の港湾内の0.3平方キロメートル範囲内の中で完全にブロックされています」との嘘から始まった事であり、私たち日本国民はこの事を百も承知の上で、彼・安倍晋三とその取り巻きの輩に我が国の政権を委ねたり、我が儘放題の国家財政の浪費を許したりしているのである。
 従って、今更に、「汚染水どぼどぼ流れているけれど本当にやるの東京五輪」でもありませんよね、被災地・フクシマは須賀川市ご在住の伊東伸也さんよ!
 私が本作を佳しとしない理由の一つは、被災地・福島県県民である本作の作者が、あれから数年経った能登後の現在に於いても、旧態依然として被災者然として振舞って居て、恰も世の不幸を我が身独りで担っているような態度で歌を詠もうとしている点にある。 


○  猿知恵のごとき凍土遮水壁猿も苦笑の結果となりぬ  (東京都)野上 卓

 作中の「凍土遮水壁」とは、「凍結管と呼ばれる鋼製の管を地中に埋め込み、管の内部に冷却材を送り込んで循環させ、周囲の土を凍らせて地中に壁を作り、地下水の流入や土の崩落を防ぐ技術」であり、「元々は、都市部のトンネル工事などに活用されてきたが、東京電力福島第一原子力発電所における汚染水の増加を抑えるための対策の一環として、時の自公連立政権と東京電力とが結託して計画し、2013年8月3日、総額約四百七十億円という巨額の国費を投入して着工する事を発表し、同発電所の建屋4棟を囲むように凍土壁を作り、地下水が建屋に流入するのを防ぐ計画で、翌年の6月に本格的に着工された幻の技術(事業)」である。
 前述の通り、是が文字通りの〈幻の技術〉であり、「結局は、他の放射性物質汚染防止対策事業と同じように、単なる〈金喰い虫〉かつ〈汚染地区住民や国民の東電や政府への不満を隠蔽する為の似非放射性物質汚染防止対策事業〉のレベルで終わってしまうのではないか?」との懸念や疑問がマスコミのあちらこちらから示されたのは、2013年8月3日に、この計画が発表された当初からの事でありましたが、何と不思議な事に、是を題材にした短歌作品が、物見高く、反政府、反権力、反原発を事とする朝日歌壇の入選作として紙面に掲載された事はたったの一度としてありません。
 否、もしかして在ったのかも知れませんが、寡聞にして私はそうした事実を知りませんでした。
 そうした中にあって、「放射性物質塗れの土壌を凍らせて事に備へんとする尊き業よ」という、字余りにして、よれよれにして、文意不明瞭な一首を、マイブログ「臆病なビーズ刺繍」に私が掲載したのは、件の幻の事業が本格的に着工された二ヶ月後の2014年の真夏日最中のある早朝の事でありました。
 件の一首は、「神奈川の辺境からの叫び声」というタイトルの下に発表された、連作短歌三首の中の一首であり、その当時の私は、愚かな事に『去にし日に<或いは、藤原紀香讃>』などと称して、彼の莫連女・藤原紀香女史に対する追従歌紛いの戯作を詠まんと企んでいた時期でありましたので、前掲の一首の他に、「あのフクシマの地下千尺にして土壌は今し凍結すらむ」、「汚染対策とは土木業者への自民票取り纏め策ならむ」という、もう二首を加えた連作「神奈川の辺境からの叫び声」は、必ずしも私が全力投球し、私の国家権力に対する抵抗姿勢をまともに述べようとした作品ではありませんでしたが、それでも尚且つ、件の「凍土遮水壁」事業の今日の破綻を予見した内容の作品ではありました。
 そうした泥塗れ状態、汚染水塗れの状態の中に於いて、今日、私のかつての歌友・野上卓さんがお詠みになられた、掲出の一首に接する事を得た時の私の気持ちは、鳥羽省三流の大袈裟な言い方を以てすれば、恰も「ゴビの砂漠を彷徨していた彼の達磨大師が、絶っての望みのオアシスに巡り遇った時のような気持ち」でありました。
 今更、私如き若輩が、改めて申し上げるべき事ではありませんが、「凍土遮水壁」こそはまさしく「猿知恵のごとき」似非汚染水対策であり、自公政権と東電とが結託しての遮水策ならぬ隠蔽策であり、それが「猿も苦笑の結果となり」果ててしまったのは、慧眼の士・野上卓さんの仰せになられる通りであります。
 [反歌]  でかしたな!さすがは戯作者!野上さん!ここまで詠んだら打ち首覚悟!  鳥羽省三
 事が事だけに、上掲のような戯作を以て、野上卓さんの傑作へのオマージュとするのは、真に手前勝手な事であり、且つ、この道の大先輩に対して、真に失礼な事とは存じ上げますが、今の私にとっては、掲出の野上卓さん作に邂逅し得た事は、快哉事以外の何者でもありません。


○  将来のことわざ辞典に書かれようもんじゅの知恵は釣瓶落とし  (奥州市)及川和雄

 本作の良さは、前掲の野上卓作と同様に、作者が被災者の位置に居座っていないで歌を詠んでいる点、即ち、我が身を戯作者に窶した上で、批評的史眼を持って立ち、余裕ある態度で事に当たっている点にある。
 「将来のことわざ辞典に書かれようもんじゅの知恵は釣瓶落とし」とは、まさしく、江戸の戯作者・山東京伝や式亭三馬や為永春水や十返舎一九などの流儀であり、前述の伊東伸也さんのそれや、当朝日歌壇切っての常連作家・美原凍子さんのそれとは、その遣り方が厳然として異なっているのである。


○  枝豆の産地が北に向かうころさんまはぞろりと南へ下る  (新座市)稲葉 茂

 私・鳥羽省三は寡聞にして、「枝豆の産地」の北方移動に関わる説、即ち、「枝豆前線」の存在に就いての知識がありませんから、残念ながら、本作の鑑賞及び論評は割愛させていただきます。


○  ホスピスのコラムニストは何思ふ笑へるコラム笑はずに読む  (羽咋市)三宅立美

 作中の「ホスピスのコラムニスト」とは何ぞや?
 或いは、我が国には、「ホスピス」の住人にして「コラムニスト」を兼ねたる才人の存在が認められるのかも知れませんけれど…………!


○  お台場にポケモンGOをばらまいて姿は見せぬ笛吹き男  (愛知県)赤羽一郎

 不肖・私は、作中の「お台場」及び「ポケモンGO」に関わる知識は皆無でありますから、残念ながら、本作の鑑賞及び論評も亦、割愛させていただきたく存じます。


○  北の友茗荷を採りて送り来ぬ砂漠の我らにふるさと香る  (アメリカ)中條喜美子

 昨今に於ける、当朝日歌壇の国際化現象には、目を見張るべきものがある。
 毎週の朝日歌壇の入選作は、四選者併せて四十個の椅子が用意されているのであるから、その出来栄えはともかくとして、その裡の一個や二個は海外在住の方々や、日本国民以外の歌詠みの方々に譲り渡しても良かろうと、私は存じ上げている次第であります。
 [反歌]  佐倉より長島さんの生家廃墟とのニュース届いてどきっきり  鳥羽省三 


○  デンマーク・中国・イタリア・アメリカと秋蒔き種は遠方より来る  (佐倉市)三谷恵子

 私は、先日行われた「あさお区民まつり」なる定例の催しに、定例の如く、たった独りで見物に出掛けましたが、その折りに頂戴した「矮性向日葵の種」の袋にも、「MADE IN CHINA」なる表示が為されておりました。 

今週の「朝日歌壇」から(10月17日掲載分・其のⅡ)掲載遅延多謝!平身低頭!

2016年10月17日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]
○  〝ねじ式〟は今もなんだか解らぬが捨ててしまえば僕でなくなる  (松本市)牧野内英詩
○  秋風といつしよにけふ逐電の友がぼくの〈つげ義春〉を返しにくる  (京都市)森谷弘志

 「『ねじ式』は、漫画家・つげ義春により1968年『月刊漫画ガロ』6月増刊号〈つげ義春特集〉に発表された短編漫画作品」であり、「作者が千葉県の太海を旅行した経験に取材したとの伝承が為されているが、その作風が前衛的であり、シュールである点が多くの漫画(と言うよりも文学)ファンの好むところとなり、つげ義春を代表する作品として知られている」のである。
 従って、純文学が書かれなくなってから久しい我が国に於いては、つげ義春作の漫画『ねじ式』こそは、〈純文学中の純文学〉としても多くの文学ファンに愛読されているのである。 
 永田和宏選の一、二席を占めた掲出の二首の短歌は、漫画家・つげ義春や彼の代表作品『ねじ式』に関わる、そうした事情に取材した傑作であり、それを愛する二作品の作者、即ち、長野県松本市にお住まいの牧野内英詩さん及び京都府京都市にお住まいの森谷弘志さんの心情が十分に傾けられた秀作である。
 「〝ねじ式〟は今もなんだか解らぬが捨ててしまえば僕でなくなる」のは、作者の牧野内英詩さんにとっては当然のことでありましょうし、「秋風といつしよにけふ逐電の友がぼくの〈つげ義春〉を返しにくる」のも、作者・森谷弘志さんの友人としては、公金拐帯逐電の罪状で以て警察官に逮捕される云々を超えての当然の義務でありましょう。


○  漫画から抜け出たようにある時は現実感なき大谷翔平  (横浜市)森 秀人

 彼・大谷翔平は、何と驚いたことに昨日のソフトバンク戦で時速165kmの超超豪速球を投げたんですよ!
 あなた方、本ブログの読者諸氏は、彼・大谷翔平の投げる時速165kmの超超豪速球が、どれだけの猛スピードであるかご存じでありましょうか?
 斯く申す私・鳥羽省三は、かつて時速130km台の直球を投げる高校生投手と対決したことがありますが、彼・高校生投手が、敢えてホームベースのど真ん中を通してくれた、その投球でさえも、思わず腰が引けてしまって、私としては二度と再び硬式野球の打席に立ちたいとは思いません。
 その「超超豪速球を投げる大谷翔平が『漫画から抜け出たようにある時は現実感なき』存在である」とするのが、本作の趣旨である。
 そう言われてみれば、なんだかそんな気がして来るようにも、私・鳥羽省三には思われます。


○  出身は「京都です」少し間をおいて「府下ですけど」とあやまるように  (大和郡山市)四方 護

 「少し間をおいて『府下ですけど』」には、全く脱帽である!
 本作こそは、今週一番の傑作です!
 [反歌] 「出身は郡山だけど大和の方だから被災者でない!」


○  河童橋に姉妹五人で穂高みるまん中に母いた日のように  (松戸市)猪野富子

 私の偽らない気持ちを言わせていただきますと、少し不健康で嫌な気持ちのする作品である。
 大凡、この世の中で、兄弟や姉妹といった関係ほど複雑で煩わしい人間関係はありません。
 然るに、私の両親から生まれた女性や男性どもは、何か事ある毎に、温泉旅行に出掛けたり会食したりするのである。
 私は、現在、そうした煩わしい人間関係を厭うあまりに、兄弟姉妹や親戚縁戚関係とのお中元やお歳暮の贈答は勿論のこと、一年一度の年賀状の遣り取りさえもして居りません。
 従って、「まん中に母いた日のように」というのも女々しくて汚らわしい!


○  日本中豊洲の地下を騒ぎいて米軍機また美ら海に墜つ  (長野市)関 龍夫

 「豊洲の地下」騒動は、あの厚化粧の女を一躍スターダムにのし上げてしまったように見受けられる。 
 然るに、彼・厚化粧の女は、肝心要のところには何一つ触れずに、問題の落としどころを覗っているのでありましょう。


○  国連で米・ロが罵り合っている シリアの子らを血まみれにして  (近江八幡市)寺下吉則

 一旦ことが起こるや、世の歌詠みどもは、「詠歌の為の格好の題材が発生した」とばかりに大挙して押し寄せるのであるが、本作の作者の場合は如何なものでありましょうか?


○  「池上線」夜更けの風呂に口ずさむ今頃駅に降り立つ二人  (青梅市)山田京子

 作者のご氏名の「山田京子」こそは、「今頃駅に降り立つ二人」とはまるで無関係であり、「『池上線』夜更けの風呂に口ずさむ」ようなタイプの女性によくあるご氏名のように思われますが、事の真相は如何なものでありましょうか?


○  湖の底おもわせる駅裏の店に流れる中島みゆき  (横浜市)杉本恭子

 「湖の底おもわせる」のは、「駅裏」でありましょうか?
 それとも「駅裏の店」でありましょうか?
 その孰れにしろ、当代人気の彼女のヒット作「糸」の歌唱と歌詞の繊細さは、「湖の底」の静けさを「おもわせる」にしても、「湖の底おもわせる駅裏の店に流れる中島みゆき」と言うに相応しい曲とは、私・鳥羽省三には思われません。
 同じ「中島みゆき」作詞・作曲・歌唱の曲でも、例えば、あの名曲『時代』だとか『わかれうた』だとか『悪女』ならば「駅裏の店に流れる」に相応しい「中島みゆき」の歌でありましょうが! 

     なぜめぐり逢うのかを
     私たちはなにも知らない
     いつめぐり逢うのかを
     私たちはいつも知らない
     どこにいたの生きてきたの
     遠い空の下ふたつの物語

     縦の糸はあなた 横の糸は私
     織りなす布は いつか誰かを
     暖めうるかもしれない

     なぜ生きてゆくのかを
     迷よった日の跡のささくれ
     夢追いかけ走って
     ころんだ日ひの跡のささくれ
     こんな糸がなんになるの
     心許なくてふるえてた風の中

     縦の糸はあなた横の糸は私
     織りなす布はいつか誰かの
     傷をかばうかもしれない

     縦の糸はあなた横の糸は私
     逢うべき糸に出逢えることを
     人は仕合わせと呼びます


今週の「朝日歌壇」から(10月17日掲載分・其のⅠ)掲載遅延多謝!平身低頭!

2016年10月17日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]
○  いつか往ぬだけどいつかは明日じゃないそんな気持ちがふっ飛ぶ日がくる  (藤沢市)福田八重子

 イマイチ解らない一首である。
 「そんな気持ちがふっ飛ぶ日」とは、「死をが目前に迫っている日」なのでありましょうか?


○  最後まで頑張る人が吾は好き河野裕子の最後の一首  (東広島市)黒木和子

 「河野裕子の最後の一首」は、「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」という一首であるとか。
 「河野裕子の最後の一首」の下の句に「息が足りないこの世の息が」とあるが、これこそは「虫の息」ということであり、今は亡き歌人・河野裕子は「虫の息」の裡にも、夫・永田和宏の手を触れようとしたのでありましょう。
 本作の表現上の問題に就いてひとこと言い添えますと、「頑張る人が吾は好き」という二、三句目の表現は、勿論、このままでも問題はありませんが、「頑張る人を吾は好き」とした方が、もっと宜しいのかも知れません。


○  誰も出ぬ電話と知っているけれど消せないでいる短縮ダイヤル  (奈良市)山添聖子

 我が家にも、「消せないでいる短縮ダイヤル」が幾つかあります。
 例えば、〈私自身のかつての勤務先の電話番号〉とか、〈独身時代の一時期に関わり合った年上の女性宅のの携帯電話の番号〉とか、〈今となっては義絶したも同然の大阪の弟宅の電話番号〉とか、〈野村證券某支店の電話番号〉とか、がその一例である。


○  老妻はラジオ体操老生は気功まがいで朝が始まる  (立川市)植原 仁

 「老妻」の「朝」は「ラジオ体操」で始まり、「老生」即ち、本作の作者・植原仁さんの「朝」は「気功まがい」の運動で「始まる」のでありましょう。
 作者ご自身としては、朝一番の運動として「気功」を遣っているつもりなのでありましょうが、その様子を他人が見たならば、「あれは、『気功』ならぬ『気功まがい』の年寄りの冷水でしかない」とでも言うのかも知れません。
 ご自身がそのつもりになって行っている「気功」を、「気功」と言わずに「気功まがい」としたのは、一見すると〈謙譲の美徳の発揮〉とも思われますが、それはむしろ〈自虐趣味の発露〉でありましょう。


○  散歩中の顔見知りたる飼ひ主に会釈をすれば犬も尾を振る  (春日井市)松下三千男

 「犬」という動物は、飼い主に手綱を牽かれて散歩中に飼い主の知人と出会ったりしても、飼い主がやる様な「会釈」、即ち、顔を傾けたり手を振ったりしての「会釈」は出来ませんから、致し方なしに「尾を振る」のでありましょう。


○  遠慮なく花も葉も喰う芋虫はインパチェンスを生きる糧とす  (大洲市)村上明美

 ものの本に拠ると、「日本でも古くから親しまれているホウセンカも同じ仲間ですが、通常インパチェンスと呼ばれているのは、アフリカ東部(タンザニア、モザンビークなど)原産のアフリカホウセンカとその園芸品種である」とか。 
 ところで、本作の出来栄えの是非はともかくとして、私・鳥羽省三は、あの「インパチェンス」という花を好きになることは出来ませんし、あの花を好しとして買って行ったり、玄関先や庭の植え込みに植えていたりする人は馬鹿ではないか、などとさえも思っています。
 人の好みはそれぞれではありましょうが、あの花の何処が宜しくて、世間の人々は買って行ったり植えたりするのでありましょうか?


○  食材として一級の栗の実が限界集落にふくふく太る  (安中市)鬼形輝雄

 「栗の実」が「食材として一級」品であるか否かの判断は、前述の「インパチェンス」に対するそれと同様に、人さまざまでありましょう。
 それはともかくとして、「栗の実」や木通や毒茸の類が「限界集落にふくふく太る」様は、私も田舎暮らしをしていた頃にさんざん目にして居ります。
 今更に毒茸に巡り合いとは私は更更に思いませんが、私の父祖の故郷、かつての秋田県平鹿郡山内村字武道の地にもう一度足を踏み入れて、あの木通や山葡萄や山栗や山菜や松茸やシメジなどの食べられる茸などを目にしてみたいと思うこの頃であります。
 

○  いにしへの栄華のにほひ漂はせ萩の花散る毛越寺の庭  (仙台市)沼沢 修

 今でこそ「『毛越寺の庭』は極楽浄土をさながら顕現した庭園、即ち、浄土式庭園である」などと、岩手県当局の方々や寺院関係者の方々は、宣伝方是れお努めになられ、観光客の誘致にお努めになって居られるご様子であります。
 だが、今から約半世紀前、私が中尊寺の金堂を観た序でに立ち寄った時の「毛越寺の庭」は、「ただの荒地を年に一度の草刈を怠らなかった程度の荒涼とした有様」であり、その庭の中心を為す〈大泉が池〉などは、「雑草に囲まれ、泥水の溜まった大きな窪地」でしかありませんでした。
 従って、「いにしへの栄華のにほひ漂はせ萩の花散る毛越寺の庭」というこの一首に接した時、私は直ぐさま、私の記憶の中にある、前述の今から半世紀前の「毛越寺の庭」の様子を思い出してしまいました。
 テレビの画面や観光土産のカラー写真などで見る、現在の「毛越寺の庭」の様子は、あまりにも手入れが行き届き過ぎていて、「いにしへの栄華のにほひ漂はせ」といった感じとは、やや趣きを異にしているようにも、私には思われます。
 「名所旧跡にしろ、女性の顔にしろ、何でもかんでも手入れをすれば手入れをするほど具合が宜しい」という訳ではありません!
 

○  秋黴雨馬繋がれて鬣も睫毛も雫弾いて居りぬ  (朝霞市)青垣 進

 「秋黴雨」は「あきついり」と読み、〈秋の長雨〉を指して言うのである。
 ところで、本作を構成している文字数は僅かに二十文字であり、その裡の十一個は漢字である。
 因って、私は本作を、「漢字オタクの作者が、持ち前の衒学趣味を思う存分に発揮して詠んだ傑作」と評価する次第であります。


○  そそっかしい母と慎重すぎる父決定権はほぼ母にある  (富山市)松田梨子

 娘を持つ家庭の「母」は「そそっかしい」し、「父」は「慎重すぎる」のが一般的傾向である。
 また、そうした家庭では、愛娘の進学先や進路の判断は勿論のこと、その就職先や結婚相手の判断、更には「決定権」でさえも「ほぼ母にある」のが、我が国に於いては一般的かつ普遍的な傾向である。
 従って、何一つとして発見も無く、表現上の冒険も工夫も無いこの作品が、松田梨子さんの作品としては平均値以下のこの作品が、高野、永田、馬場の三選者の心を捉え、三選者共選入選作という異例の扱いを受けたことに対しては、私としては驚嘆せざるを得ません。
 朝日歌壇の選者諸氏よ!松田短歌姉妹贔屓もいい加減にして下さいよ!