臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

一首を切り裂く(088:湧・其のⅠ・わが町のはけより出づる湧水を)

2012年04月22日 | 題詠blog短歌
(梅田啓子)
○  わが町のはけより出づる湧水を飲みておりけむ志賀直哉氏は

 「土地の人はなぜそこが『はけ』と呼ばれるかを知らない」という書き出しで始まる、故・大岡昇平氏の小説『武蔵野夫人』は、評論家・福田恒存氏に拠って「失敗作」と評価され、今でこそ読もうとする者が殆ど居なくなった古めかしい恋愛小説である。
 しかし、昭和二十五年にこの作品が文芸誌『群像』に連載され、講談社から単行本として刊行された当時は、日本全国の青年男女が競い合うようにして読んだベストセラーであった。
 本作中に、「はけ」という語が用いられているが、その語は、恐らくは、未だ住宅地として開発される前の東京西部郊外に在る、清らかな地下水が湧き出している段丘崖を指して言う、特殊な“方言”であったように思われ、手元に在る辞書『大辞林』もこの語については何ら解説していない。
 本作の作者・梅田啓子さんは、千葉県我孫子市にお住いの方である。
 作者ご自身が、本作中に「わが町のはけ」という語句を用いている以上は、作者の居住地の安孫子市内にも「はけ」と言うべき湧水が湧き出している箇所が存在すると思われますが、その湧水を以って「はけ」と称するのは、本作の作者・梅田啓子さんの人並み以上の知性と読書歴の然らしむる所であり、千葉県我孫子地方の地付きの人々が、件の湧水を「はけ」と呼んでいるのではなかろうと思われる。
 短編小説の神様と謳われた志賀直哉が、大正時代に手賀沼の畔(今の我孫子市内)に居住していたことは、文学ファンなら何方でも知っていることである。
 「その『志賀直哉氏』が、手賀沼の畔に居住していた当時、梅田啓子さんの仰る『わが町のはけより出づる湧水』を飲んでいただろう」と推測するのが、本作の内容である。
 熱狂的な文学ファン、志賀直哉ファンの彼女であってみれば、時代こそ異なれ、同じ「はけ」から湧き出る水を、ご自身もご自身の尊敬してやまない志賀直哉氏も飲んでいただろうと思うと、一首の短歌に仕立て上げて満天下の人々に誇示したいような気持になったのも、人情として当然のことでありましょう。
 ところで、この傑作に突然水を射すようではありますが、作中の四句目「飲みておりけむ」は、「飲みてをりけむ」とするのが適当でありましょう。

 〔返〕  我が家の前の石段をハーモニカを吹きて往きけむ庄野潤三氏   鳥羽省三
 私の尊敬してやまない小説家・庄野潤三氏は、老境に達してからも、一日一万歩以上の散歩を欠かさなかったということであり、また、氏のご趣味の一つとしてハーモニカ演奏が上げられる。
 本返歌は、そうした戦後文学史的な事実に、作者自身の想像を加味して詠んだ作品である。


(原田 町)
○  「清正の井戸」と伝わる湧き水も飲用禁止になりて久しく

 作中の「清正の井戸」は、明治神宮の御苑内に湧いている「井戸」であるが、数年前から、件の「井戸」を巡る黒い噂が在り、今では管理者の手を拠って「飲用禁止」の措置が採られているのでありましょうか?
 〔返〕  弘法水といふ名の湧水の日本全国八十八箇所に在り   鳥羽省三


(小夜こなた)
○  復興を謳えば正義となるうねり熱波のごとく列島に湧く

 作中の二、三句目の語句「謳えば正義となるうねり」の「謳えば」に要注意。
 即ち「謳えば」とは、「謡えば・詠えば・唄えば・歌えば」などとは異なり、「讃美すれば」ということであり、作中に件の語句を用いている事を根拠として、私たち読者は、東日本大震災からの復興を主題とした短歌が雨後の竹の子のように盛んに詠まれているといった、昨今の歌壇の在り方に対する、本作の作者・小夜こなたさんの姿勢を窺がい知ることが可能なのである。
 〔返〕  震災を詠えば歌人と看做される熱波の如き風潮が湧く   鳥羽省三


(芳立)     〈温泉旅情〉 
○  来ぬひとをまつ浦亜弥の柔肌に湧くや熱海の湯もけぶりつつ

 格好付けて詞書を置き、掛詞や序詞を使ってはいるが、意味するところは、要するに「待ち人来たらずで、彼女の柔肌に恋い焦がれながら、ひとり淋しく熱海の湯に入って居る」、つまりは「振られた男の未練心を吐露している」というだけのことである。
 はっきり言って、「くだらん!勝手に得意になっていろ!」。
 〔返〕  来ぬ人と松浦あややと較べたら肌の柔らかさがかなり違うぞ   鳥羽省三 


(伊倉ほたる)
○  ふつふつと疑心暗鬼が湧き上がる貝のピアスをひとつ外せば

 江の島土産の「貝のピアスをひとつ」耳から外した瞬間、作者の胸中に「ふつふつと」昨今の彼の行状に対する「疑心暗鬼が湧き上が」ったのである。
 婚約時代の彼からプレゼントされた江の島土産の「貝のピアス」を、後生大事に耳に付けているような慎ましやかな妻でも、人生のとある瞬間、夫への激しい「疑心暗鬼」に駆られることがあるのである。
 〔返〕  をみなごは蛇千匹を飼ふといふ炎の如き舌持つ蛇を   鳥羽省三


(今泉洋子)
○  木洩れ日の濃淡君とわけ合ひて湧き出る水のかがやきを汲む

 「木洩れ日の濃淡」を「君とわけ合ひて」、「君」を「木洩れ日」があまり射さない所に押し遣り、われ自身は「木洩れ日」がかなり射す所に居て、「水のかがやきを汲む」と言うのでありましょうか?
 だとしたら、本作の作者は短歌創作や買い物や寺社詣でに感ける余り、演歌歌手・三船和子のヒット曲『だんな様』の歌詞さえ知らないものと判断される。
 三船和子は切なくも「わたしの大事なだんな様/あなたはいつでも/陽のあたる/表通りを歩いて欲しい」と、いつも歌っているではありませんか。
 〔返〕  あれこそは貞婦の鑑ばかにせず三船和子を見習いなさい   鳥羽省三
      そばかすの濃淡にさえ目を瞑り彼は貴女を愛してくれる


(鳥羽省三)
○  湧出量日本一の玉川の岩盤浴でも20ミリシーベルト/年

 作中の「20ミリシーベルト/年」の読みが問題である。
 〔返〕  ひと夏を春日井建の通ひにし玉川温泉の岩盤浴よ   鳥羽省三

一首を切り裂く(087:閉・其のⅠ・妻たる我よ盲目であれ)

2012年04月22日 | 題詠blog短歌
(紫苑)
○  厨辺のましろき湯気に閉ざされて妻たる我よ盲目であれ

 自分自身の美貌を鼻にかけているような女性なら誰しも、“盲目願望”に囚われる瞬間があるものだと言う。
 本作の作者・紫苑さんは、あるジゴロ風の男性の内縁の「妻」として夕餉の煮炊きをする為に「厨辺」に立っている時、琺瑯鍋から立ち込める「湯気に閉ざされて」いる自分の眼を擦りながら、ふと盲目願望に囚われたのでありましょうか?
 〔返〕  キッチンにましろき湯気の立ちこめて美しき妻女の姿見えずも


(西中眞二郎)
○  ペットショップと名を変えていし金魚屋もいつしか閉ざされ風の冷たき

 「金魚屋」が熱帯魚ショップに商売替えをし、熱帯魚ショップが「ペットショップ」に商売替えをして行った、我が日本国の愛玩動物小売店史の大きな流れ(少々大袈裟な言い方かしら?)は、私たちの年代の者の多くが直接的に接して知るところである。
 本作の作者・西中眞二郎さんは、私・鳥羽省三とほぼ同年代のご仁であり、加えるに、元・通産官僚として、我が国の産業振興の為に直接的に働いて来たご仁でありますから、「ペットショップと名を変えていし金魚屋」が「いつしか閉ざされ」た時に吹く「風の冷た」さを、人一倍強く感じたのでありましょうか?
 〔返〕  逆さクラゲがラブホテルと名を替えてからは一度も入ったことがない   鳥羽省三


(アンタレス)
○  格子無き牢獄なりやわが日々はドア閉ざされぬ歩けず籠る

 「格子無き牢獄なりや」などと、殊更なる大袈裟なポーズで考え込む必要はありません。
 人間なら誰しも、自分自身が現在置かれている状況をそのまま受け入れ、尚かつ希望を捨てずに生きて行くしか手段を持たない存在ではありませんか?
 それとも、それを解っている上で、往年の著名な閨秀歌人・柳原白蓮を気取ってみたかったんですか?
 〔返〕  娘らと笑へる日々の又もあらむ今の命を懸命に生く   鳥羽省三


(行方祐美)
○  反閉の踏み方さへもしらぬまま五月の約束象りてをり

 短歌総合誌や結社誌などに投稿し作品を発表する場合は、難しくそれらしい言葉を並べ立てて選者や読者を幻惑させるような作品、言い方を変えれば、“虚仮脅かし的な作品を寄せるに如かず”と、結社歴半世紀余りの著名な歌人から聴いたことがあります。
 本作が、それに類する作品であるとは思われませんが、殊更に「反閉の踏み方さへもしらぬまま」と言い、それに続けて「五月の約束象りてをり」と言うような言い方は、必ずしも参加者各位の解釈可能な表現であるとは思われません。
 〔返〕  反閉の足踏みさへも知らぬまま三番叟の直面を舞ふ   鳥羽省三


(廣田)
○  夕立が過ぎゆく空を仰ぎ見て傘を閉じればふたりに戻る

 「夕立」に降られている最中には、相合傘をしていたのでありましょうが、「夕立」が過ぎてしまえば、お互いに後ろ髪を引かれるような思いをしながらも、一本こっきりの「傘」を閉じて、元の「ふたりに戻る」しかありません。
 〔返〕  夕立よ遣らずの雨よまたも降れ二人で一つの傘を差したい   鳥羽省三


(新田瑛)
○  二年間閉まったままであるはずのドアが全く錆びついていない

 新田ワールドと申しましょうか?
 苦役列車風ミステリーと申しましょうか?
 何とも奇想天外な出来事と思われます。
 〔返〕  二年間閉まったままの扉でもトステム社製は錆び付きません   鳥羽省三


(矢野理々座)
○  「目を閉じて何も見えず」のフレーズをボヤいていたか人生幸朗...

 作中の「人生幸朗」は十八歳年下の女性「生恵幸子」との夫婦コンビで「ボヤキ漫才」を演じて、一世を風靡した漫才師であった。
 彼らの得意芸の一つとして、著名な流行歌の歌詞のワンフレーズを槍玉に挙げて、それをボヤキ茶化すというワンパターンの語り口が挙げられる。
 例えば、人生幸朗が「リンゴは何にも言わないけれどリンゴの気持ちはよく分かる」と呟くようにして歌い、かつ「リンゴが物言うか!リンゴが物言うたら果物屋のおっさんがうるそうてかなわんやないか」とボヤく。
 同じく「昼寝をすれば夜中に眠れないのはどういうわけだ」と歌い、「当たり前やないか!そんなら昼寝すな!」
 同じく「若葉が街に急に萌えだした」と歌い、「若葉が燃えるか!あんなもン燃えてみィ。消防署のオッサン忙しいてどもならん!」とボヤく。
 同じく「祭りも近いと汽笛は呼ぶが」と歌い、「汽笛が物言いまっか。汽笛が物言うてみ、駅の近くの人らやかまして夜ねられへんがな」とボヤく。
 同じく「君のひとみは10000ボルト」と歌い、「人間の目ン玉電気か!私この歳なるまで目の玉に電気代払うたことないわ」とボヤく。
 同じく「小さい部屋の窓から見える 空の青さはわかるけど 空を広さがわからない」と歌い、「当たり前やがな!お前何考えて生きてんねん!長生きせえよ!お前やろ、デパートのエスカレーターの階段の数かぞえて一日日暮らしてるんは」とボヤく。
 「涙なんているもんか、バカヤロー!」と歌い、「さよならなんて、言えないよ。バカヤロー!!」と歌った後、続いて「わてが言いたい台詞やないかい、バカヤローー!」とボヤくといった、ワンパターンのボヤキ芸である。
 谷村新司のヒット曲『昴』の中の「目を閉じて何も見えず」を歌ったら、彼はどんなボヤキ言葉を呟いたのでありましょうか?
 〔返〕  「目を閉じたら何も見えんのが当たり前じゃ!目をしっかり開けて見とけ!このどアホめ!」 鳥羽省三


(今泉洋子)
○  一日のあらすぢの良き事のみを膨らませつつけふを閉ぢゆく

 若い頃は、その若さ故に一日・二十四時間が「あらすぢ」もストーリーも無く、瞬く間に過ぎてしまうものである。
 本作に於いて作者の今泉洋子さんは、私たち読者に、凡そ次のような二つの事項を報告しようとしている。
 <報告事項・その1>  私の一日・二十四時間はそれなりに長く、かつそれなりに変化に富んだものである、ということ。
 <報告事項・その2>  一日の日課を「閉ぢ」るに当たって、私は私自身のそれなりに長く、それなりに変化に富んだ一日・二十四時間の「あらすぢ」の中から「良き事のみを膨らませ」ることを習慣としている、ということ。
 以上、二項目の報告事項から判断するに、本作の作者・今泉洋子さんは、既に還暦を過ぎた女性であり、それでも尚且つ、明日への希望を抱くことを忘れないような乙女チックな女性でありましょう。
 就寝前の彼女は、昨夜から今までの出来事を振り返ってみて、「自作について、鳥羽省三から難癖をつけられたことは“無し”にしよう。今日の午後の“コスモス短歌会佐賀支部”の例会を於いて、自作作品が予想外の高点を得たことは“有り”にしよう。また、今日の例会会場に着て行った着物の柄の斬新さについて、友人の方々から絶賛されたことについては“有り”にしよう」などと、いろいろさまざまに今日一日のストーリーを回顧しながら安らかな眠りに就くのでありましょう。
 〔返〕  デパ地下で目にしたおかずを二、三品買おうとしたがお金が無かった   鳥羽省三


(五十嵐きよみ)
○  猫が目を閉じている間にゆっくりと小春日和の午後が過ぎゆく

 「猫が目を閉じている間」とは、例えば、季節が晩秋の場合であったら、空気が澄んでからりと晴れ上がった午後一時頃から三時過ぎ辺りまでを指すのでありましょう。
 したがって、「猫が目を閉じている間にゆっくりと小春日和の午後が過ぎゆく」とは、真に以って、理屈に合った表現と申せましょう。
 〔返〕  像の目の動きの如く日が暮れて桜曇りの一日が過ぐ   鳥羽省三


(鳥羽省三)
○  岩手県下閉伊郡田野畑村吉村昭の取材せし羅賀

 今は亡き、作家の吉村昭氏は、代表作の一つに数えられている『三陸海岸大津波』を執筆するに当たって、「岩手県下閉伊郡田野畑村」の「羅賀」地区に於いて、件の大津波を経験した村の古老たちから聞き取り取材をしたと言う。
 〔返〕  岩手県下閉伊郡田野畑村机漁港も廃墟と化しつ   鳥羽省三

一首を切り裂く(086:貴・其のⅠ・アメジストセージ触れがたくゐる)

2012年04月22日 | 題詠blog短歌
(今泉洋子)
○  貴人(あてびと)の衣の彩なるむらさきのアメジストセージ触れがたくゐる

 文語のワ行上一段活用の動詞「居る」は、通常、「座る・しゃがむ・腰掛ける・(小鳥などが木の枝などに)止まる」といった意味で用いられ、口語の「居る」つまり「存在する」という意味で使われることは誤用から端を発した例外的な用法であり、口語の「居る」という意で用いる場合は、原則的に「居り(ラ行変格活用)」を用いる。
 本作の場合は、一首の意が、「高貴な方の着衣である紫色のアメジストセージはあまりにも気高い感じがして、作中の“われ”は、そのアメジストセージに触れ難い思いを抱いている」ということでありますから、五句目の七音を「触れがたく居り」とする方が適当な措置と申せましょう。
 また、いつもの事ながら、「貴人」を「きじん」と読むか「あてびと」と読むかの判断は、鑑賞者の常識や判断に任せるべきではありませんか?
 更に申せば、作者の今泉洋子さんは、二句目の冒頭の語「衣」を、字余りを構わずに「ころも」と読ませたいのでしょうか?
 それとも、七音に拘って「きぬ」と読ませたいのでしょうか?
 もしも、「きぬ」と読ませたいのであったならば、「貴人」に「あてびと」という振り仮名を施し、「衣」に「きぬ」という振り仮名を施さないのは、片手落ちと言うべきでありましょう。

 〔返〕  メキシカンセージの花が咲きました 炎のような情熱のむらさき   鳥羽省三
 「メキシカンセージ」即ち「アメジストセージ」の花言葉は「炎のような情熱」である。 


(飯田彩乃)
○  やんごとなき貴婦人の目をもつ犬が排泄を終え坂下りゆく

 作者の感じた期待感の反動としての意外感を詠んだのでありましょう。
 だが、人や犬の価値を見掛けで判断してはなりません。
 作者の主観的な判断に基づく「やんごとなき貴婦人の目をもつ犬」であろうが、貧乏たらしい「目をもつ犬」であろうが、「排泄」をするのは当然のことであり、犬自身が「坂」の上に居たなら、「坂」を「下りゆく」のも当然のことでありましょう。
 〔返〕  彩乃とふ呼ぶも妙なるをみなごが放屁をするわおねしょをするわ   鳥羽省三


(船坂圭之介)
○  貴種流離譚とも言へず流離譚とも言へず飛騨の山出でて瀬戸内海の陽を浴びつ

 「飛騨の山」を「出でて瀬戸内海の陽を浴び」ているご自身の行状を、「貴種流離譚とも言へず」とは仰って居られますが、本作の作者の胸中には、「もしかしたら、自分は『貴種』というべき人種なのかも知れない?」といった思いが有ってのことでありましょう。
 〔返〕  実を取りて胸に当つれば新たなる流離の想ひ浮かびては哭く   鳥羽省三


(原田 町)
○  貴重なる緑だったが相続で物納という名主の森は

  作中の「名主の森」は、山手線沿線の「(旧)名主」の所有地でありましょうか?
 私の学生時代の居住地・東京都大田区山王にも、私たちが勝手に「スズカさんの森」と呼んでいた広大なお屋敷がありましたが、あの「スズカさんの森」も、当時の世帯主が亡くなった後の相続人が相続税を払えないままに、東京都に「物納」されて、今頃は高層マンションでも建っているのでありましょうか?
 〔返〕  梟が夜毎鳴いてたスズカさんの森の当主の行方知れずも   鳥羽省三


(鳥羽省三)
○  貴乃花 親方としては痩せ過ぎでぶつかり稽古すると壊れる

 「貴乃花親方」にとっては、部屋付き親方候補の「貴ノ浪関(本名・浪岡貞博氏/現・音羽山親方)」が健康を損ねたことは、計算外の出来事であったのかも知れません。
 〔返〕  貴乃花 いつの間にやら協会で押しも押されぬ勢力を張る   鳥羽省三