(アンタレス)
〇 アンタレス緋色空しき情念の宿りし星よ吾が星とせむ
「アンタレス」とは、さそり座のα星であり、夏の南の空に赤く輝く1等星である。
作中に「緋色空しき情念の宿りし星よ」とあるが、この点については、本作の作者が「アンタレス」をご自身のペンネームとするに当たって、ご自身が療養生活を強いられている立場であることなどを考慮した上で、感情移入しての表現と思われる。
間然隙の無い作品と申せましょうか、作者の日頃の研鑽の結果と実力が遺憾無く発揮された一首である。
〔返〕 アンタレス真夏の夜空に輝きつ病身われは澪標とせむ 鳥羽省三
アンタレス汝が輝きの増さるとき我が情念の赫赫と燃ゆ
(tafots)
〇 ブラジャーの既成概念くつがえす脱がされ方を思い出す夜
この場面に於いては、本作の作者・tafotsさんに、是非、「ブラジャーの既成概念」について、また「ブラジャーの既成概念」を「くつがえす脱がされ方」について、とっくりとお伺い致したく存じ上げます。
〔返〕 ブラジャーの既成概念くつがえし外しもせずに入浴したい 鳥羽省三
ブラジャーの既成概念くつがえし装着せずにブラウスを着る
(西中眞二郎)
〇 とりどりの記念切手を貼り合わせ昨日の礼の手紙を出しぬ
本作の作者・西中眞二郎さんは「昨日の礼の手紙」を出すに際して、受取人の方に最大限の感謝の意を込め、在職当時蒐集していた「とりどりの記念切手」シートから切り離した切手を封筒の切手貼り付け箇所に「貼り合わせ」たうえで投函したのでありましょう。
〔返〕 5円のが1個と7円のが5個残りの分は10円切手 鳥羽省三
(野州)
〇 寄る猫の姿まばらに宵の寒念じて生える頭髪もなく
「寄る猫の姿」も「まばら」な「宵の寒」に、自分だけが禿げ頭で居るのも侘しくて寒くて辛いのであるが、禿げ頭を叩いてみて「念じて生える頭髪もなく」と、諦めてしまったのでありましょうか?
〔返〕 禿頭を叩いてみても詮無きに一、二度ならず五度も叩ける 鳥羽省三
(行方祐美)
〇 念珠藻の酢の物つつく箸さきのしづかにありき昨夜の夢には
フリー百科事典『ウィキペディア』の解説するところに拠ると、作中の「念珠藻」とは「ネンジュモ属(念珠藻属)Nostoc は藍藻の属の一つ。一列の細胞からなる分岐しない糸状体が共通の寒天質基質内で多数絡み合って藻塊(コロニー)を形成する」とある。
また、同事典の別の項目を参照したところ、「イシクラゲ」なる「ネンジュモ属に属する陸棲藍藻の一種」についての解説が為されており、それに拠ると、その利用法として、「日本で古来から食用にもされ、付着した土や枯れ葉などを丁寧に除去して湯通しし、酢の物などにして食べる。別名はイワキクラゲ(岩キクラゲ)や姉川クラゲ(滋賀県姉川に因む)。沖縄県ではモーアーサ(毛アオサ・毛は芝生の意)、ハタカサ(畑アオサ)などと呼ばれる」とある。
推してみるに、本作中の「念珠藻の酢の物」とは、「イシクラゲの酢の物」の謂いでありましょうか?
だとすれば、本作の作者は「行方」姓なるも、イシクラゲを酢の物にして食する食習慣を持つ地方の出身者であり、なるが故に、彼女の「昨夜の夢」に、「念珠藻の酢の物」を「箸さき」も「しずかに」「つつく」場面が登場したのでありましょうか?
ふるさとを離れて暮らす者にとって、ふるさと独自の食べ物は、すごく懐かしいものであると思われ、なるが故に、あの斎藤茂吉の著名な連作『死にたまふ母』にも、「ふるさとのわぎへの里にかへり來て白ふぢの花ひでて食ひけり」、「湯どころに二夜ねぶりて蓴菜を食へばさらさらに悲しみにけれ」、「山ゆゑに笹竹の子を食ひにけりははそはの母よははそはの母よ」という、山形県独自の食べ物を愛でた傑作が在り、未だに人々の口の端にも上るのでありましょう。
本作を鑑賞させていただいたお蔭で、私は「念珠藻の酢の物」なる、未だ口にしたことの無い食べ物についての知識を得ることが出来ました。
これも、短歌鑑賞者の役得の一つと存じ上げ、作者の行方祐美さんには、篤く篤く御礼申し上げます。
〔返〕 山菜はワラビ・ゼンマイ・ミズ・コゴミ・シドケ・タケノコ・タラノメ・アイコ 鳥羽省三
(鮎美)
〇 恒例の一族記念写真より一抜け従姉二に抜け従兄
ご両親共に、兄弟姉妹の少ないご家庭の出身者であればこそ、「恒例の一族記念写真」に、従兄弟や従姉妹の方までお写りになるのでありましょうか?
本作の趣旨は、「そうした少ない人数の中から『一抜け従姉』『二に抜け従兄』と、次々に親族たちがお亡くなりになられ、今年の『一族記念写真』はますます寂しくなって行くばかりである」といったものでありましょう。
因みに申し上げますと、私は「一族記念写真」なるものが大嫌いで、可能な限り、そうした場面には顔を出さないように心掛けております。
〔返〕 姉二人の葬儀にさえ行きませんでした血族同士の集まりは嫌い 鳥羽省三
(鳥羽省三)
〇 「八十吉は念珠の玉の一つ」とぞ『念珠集』の巻頭に在り
『念珠集』とは斎藤茂吉の随筆集であり、「1 八十吉」から「10 念珠集跋」まで、茂吉自身のウィーン留学中(大正十二年七月)に亡くなった実父についての思い出話である。
因みに、「1 八十吉」の全文は次の通りである。
僕は維也納の教室を引上げ、笈を負うて二たび目差すバヴアリアの首府民顕に行つた。そこで何や彼や未だ苦労の多かつたときに、故郷の山形県金瓶村で僕の父が歿した。真夏の暑い日ざかりに畑の雑草を取つてゐて、それから発熱してつひに歿した。それは大正十二年七月すゑで、日本の関東に大地震のおこる約一ヶ月ばかり前のことである。
僕は父の歿したことを知つてひどく寂しくおもつた。そして昼のうちも床のうへに仰向に寝たりすると、僕の少年のころの父の想出が一種の哀調を帯びて幾つも意識のうへに浮上つてくるのを常とした。或る時はそれを書きとどめておきたいなどと思つたこともあつて、ここに記入する『八十吉』の話も父に関するその想出の一つである。かういふ想出は、例へば念珠の珠の一つ一つのやうにはならぬものであらうか。
八十吉は父の『お師匠様』の孫で、僕よりも一つ年上の童であつたが、八十吉が僕のところに遊びに来ると父はひどく八十吉を大切にしたものである。読書がよく出来て、遊びでは根木を能く打つた。その八十吉は明治廿五年旧暦六月二十六日の午すぎに、村の西方をながれてゐる川の深淵で溺死した。
そのときのことを僕はいまだに想浮べることが出来る。その日は村人の謂ふ『酢川落ち』の日で、水嵩が大分ふえてゐた。川上の方から瀬をなしてながれて来る水が一たび岩石と粘土からなる地層に衝当つてそこに一つの淵をなしてゐたのを『葦谷地』と村人が称へて、それは幾代も幾代も前からの呼名になつてゐた。目をつぶつておもふと、日本の東北の山村であつても、徳川の世を超え、豊臣、織田、足利から遠く鎌倉の世までも溯ることが出来るであらう。『葦谷地』といふから、そのあたり一面に蘆荻の類が繁つてゐて、そこをいろいろの獣類が恣に子を連れたりなんかして歩いてゐる有様をも想像することが出来た。明治廿五年ごろには山川の鋭い水の為めにその葦原が侵蝕されて、もとの面影がなくなつてゐたのであらうが、それでもその片隅の方には高い葦が未だに繁つてゐて、そこに葦切がかしましく啼いてゐるこゑが今僕の心に蘇つて来ることも出来た。その広々とした淵はいつも黝ずんだ青い水を湛へて幾何深いか分からぬやうな面持をして居つた。
瞳を定めてよく見るとその奥の方にはゆつくりまはる渦があつて、そのうへを不断の白い水泡が流れてゐる。その渦の奥の奥が竜宮まで届いて居るといつて童どもの話し合ふのは、彼等の親たちからさう聞かされてゐるためであつて、それであるから縦ひ大人であつてもそこから余程川下の橋を渡るときに、信心ふかい者はいつもこの淵に向つて掌を合せたものである。その淵も瀬に移るところは浅くなつてその底は透き徹るやうな砂であるから、水遊する童幼は白い小石などを投げ入れて水中で目を明いてそれの拾競をしたりするのであつた。
旧暦の六月廿六日は『酢川落ち』の日であつたけれども、もう午過ぎであるから多くの人は散じてしまつて、恰も祭礼のあとの様な静かさが川の一帯を領して居た。弱くて小さい魚は死骸となつて川の底に沈み、なかには浮いて流れてゐるのもある。割合に身が大きく命を取留めた魚は川下に下れる限り下つたのもあり、あるものは真水の出づるところにかたまつて喘いでゐるのもある。さういふ午過ぎに十四ぐらゐを頭に十又は九つ八つぐらゐまでの童が淵の隅の割合浅いところに水遊をしてゐた。水遊と云つてもふだんの日の水遊とは違つて、一方には底に潜つて行つて死んだ小魚を拾ふのもその楽みの一つなのである。間が好くば弱つて喘いでゐる大きな魚をつかまへることが出来たりするので、童らは何時までも陸に上らうとはしない。
泳げるものは最も気味の悪い深いところまで泳いで行つて、渦のところを二まはり三まはりぐらゐ廻つて来るのが自慢の一番と謂つてよかつた。すると淵の向う岸に八十吉がたつたひとり浅瀬のところで何かしてゐるのが見えた。向う岸と云ふと童らの居るところからは平らな光つてゐる水面を中に置いて可なりの距りがある。八十吉は唯一人で小魚でも見つけて居るのかも知れんと思つてから五分間位も経つた頃であらうか。岸から少し淵に入つた鏡のやうな水面に人の両方の手が五寸ぐらゐひよいと出たのが見えた。童らの驚く間もなく、人の両方の手が二たび水面から五寸ばかり出た。ほんの刹那である。
そのとき十四になる童が水中に飛込んで泳ぎ出した。稍しばらく泳いでゐたが人の両手が水面から出たあたりに行著くと、頭の方を下にして水中ふかく潜つて行つた。その童の両の足の活溌な運動も見えなくなつて、いよいよ水中ふかく潜つて行つたことを観念すると、こんどはみんな息を屏めて、小さい心臓の鼓動をせはしくしてそこの水面を見てゐた。水面は全く水の動揺を収めてこの事件を毫しも暗指してゐる様な気色がない。やや暫くすると、童はつひに空しく水面に浮上つて来て、しきりに手掌で顔を撫でた。その時である、はじめて事の軽々しくないといふ一種の不安が僕らの心を圧して来て、そこに居たたまらないやうな気がした。童は二たび身を逆まにして水中に潜つて行つた。けれども暫くののちまた手を空しうして水面に浮上つたとき、水面にあつて、人を呼べとこゑを立てた。それから童らはひた走りに走つて田畑に働いてゐる大人を呼びに行つた。
村の人々が数十人集つて、かはるがはる淵の中に飛込んだのは、人の両手が見えてから三十分ぐらゐも経つてゐたであらうか。大人が息こんで水中に潜るのであるが、八十吉はなかなか見つからない。入りかはり立かはり水中にもぐつて、また三十分間ぐらゐも経つた頃であつたらうか。一人の若者がたうとう八十吉を肩にかついで水面に浮上つて来た。若者は何か鋭く叫んで、その肩には生白い人の体がぶらさがつて、首の方がだらりとして腕などは日にからびた葱の白いところを見るやうな、さういふ光景が電光のごとくに僕に見えた。
『お関の婿だ。あれあ』
『お関の婿あ八十吉を見つけた』
かういふこゑが聞こえた。お関は村はづれに小さい店を開いてそこで揚物だの蒟蒻煮などを売つてゐた。八十吉を引上げたお関の婿といふのはそこへ他村から入婿に来た若者のことであつた。この若者は其の数年後隣村の火事に消防に行つて身を挺んじて働いたとき倉の鉢巻が落ちてつひに死んだ。八十吉が水の中からやうやく上つてから暫くは、人間の重苦しい鋭い一種の叫びごゑがそのあたり一帯にきこえて居たが、間もなく元の静寂に帰つた。
蔵王山の麓に湧出る硫黄泉の湯尻が、一つの大きい滝瀬をなして流れてゐる。それが西に向つて里へ里へと流れ下つて、金瓶村の東境に出るとそこから急に折れて北へ向つて流れる。此の川の川原の石はいつも白い様な色合を帯びてゐて水苔一つ生えない。清く澄んだ流であるが味が酸いので魚も住まず虫のたぐひも卵一つ生むことをしない。又この水を田に引くと稲作に害があるので、百姓にとつて此の川は一つの毒川だと謂つてよい。これを酢川と何時の頃からか名づけて来た。それから、金瓶村の西方を流れる川は米沢境の分水嶺から出てくるもので、山形の平野に出てから遂に最上川に入るのであるが、これは淡水であつて多くの魚類を住まはせてゐる。然るに昔、雨降の後に洪水が出た時、村の東境まで西へ向つて流れて来た酢川が、北へ折れる処で北へ折れずにそこを突破したから、村の西方を北へ流れてゐる淡水の川に、酢川の水が混つてしまつた。いはば西洋文字のHの様な恰好になつたのである。すると其の川に住んでゐる魚族が一度にむらがり死ぬといふ現象が起つた。さういふ害のある水が淡水の川に混つては困るから、村では破れたところに堤防を築いてその混入を防いだのである。然るにいつの頃からであらうか。時代はずつとずつと溯るであらう。深夜人無きに乗じてその堤防を破つて、故意に酸い水を淡水の川に灑いだものがあつた。その酸い水が混じると、魚の族は真黒になるほど群がつて川下へ川下へとくだる。それを梁で取れるだけ取つて、暁にならぬうちに家に帰つて知らんふりしてゐるのである。これを『酢川落ち』と唱へる。
暁に先立つて草刈に行く農夫の一人二人がそれを見つけて、村役場へ届ける。村役場では人足を出して堤防の修理をする。然るに一方では村の老若男女童男童女が我先にと川へ出かけて行つて、弱り切つてゐる魚を捕まへるので、つまり余得にありつくのである。この『酢川落ち』はさうたびたびは無い。また村人も一種の楽みとおもふので、役場がそれを大目に見て、罪人を発見しようと努めるやうなことはない。『酢川おとし』の行為は法に触れるべきものであるが、『酢川おち』の現象は村民にとつては無くてはならぬ、謂はば一つの年中行事の如き観を呈するに至つた。それがずつとずつと古い代から続いて来たのである。泳(およぎ)を知らない、常には川遊などをしない八十吉が、この『酢川おち』の日に、ただのひとりで川に遊びに来てゐたのである。
八十吉は終に蘇らなかつたことを下男が来て話して呉れた。八十吉のこの事があつた時父は他村に用足しに行つて、日暮時に入つてやうやく帰つて来た。父の顔を見るや否や、あわてて僕は父の側に行き、八十吉の溺れる有様、それから八十吉を水から揚げてから、藁火をどんどん焚いて、身の皮のあぶれる程八十吉を温めたこと、八十吉の肛門から煙管を入れて煙草のけむりを骨折つて吹き込んだこと、さういふことを息をはずませながら話をした。
『八十吉の尻の穴さ煙管が五本も六本もずぼずぼ這入つたどつす。ほして、煙草の煙が口からもうもう出るまで吹いたどつす』
かういふ僕の話を聞いてゐた父は、どうしたのか一ことも云はずにいきなりと僕をにらめつけるやうな顔をして、僕は予期しない父の此の行為に驚愕するいとまもなく、父はあたふたと著物を著換へて出て行つてしまつた。祖母も母もみんな八十吉の家につめ切つてゐた時である。
僕は父の歿した時、民顕の仮寓にあつてこのことを想出して、その時の父の顔容を出来るだけおもひ浮べて見ようと努めたことがあつた。帰国以来僕は心に創痍を得て、いまだ父の墓参をも果さずにゐる。家兄の書信に拠ると八十吉は十二で死んでゐるから僕の十一のときであつた。八十吉は金瓶村宝泉寺に葬られてあつて、円阿香彩童子といふ戒名をもつてゐる。(大正十四年九月記)
〔返〕 「お関の婿あ八十吉を見つけた!」かういふこゑが僕に聞こえた 鳥羽省三
〇 アンタレス緋色空しき情念の宿りし星よ吾が星とせむ
「アンタレス」とは、さそり座のα星であり、夏の南の空に赤く輝く1等星である。
作中に「緋色空しき情念の宿りし星よ」とあるが、この点については、本作の作者が「アンタレス」をご自身のペンネームとするに当たって、ご自身が療養生活を強いられている立場であることなどを考慮した上で、感情移入しての表現と思われる。
間然隙の無い作品と申せましょうか、作者の日頃の研鑽の結果と実力が遺憾無く発揮された一首である。
〔返〕 アンタレス真夏の夜空に輝きつ病身われは澪標とせむ 鳥羽省三
アンタレス汝が輝きの増さるとき我が情念の赫赫と燃ゆ
(tafots)
〇 ブラジャーの既成概念くつがえす脱がされ方を思い出す夜
この場面に於いては、本作の作者・tafotsさんに、是非、「ブラジャーの既成概念」について、また「ブラジャーの既成概念」を「くつがえす脱がされ方」について、とっくりとお伺い致したく存じ上げます。
〔返〕 ブラジャーの既成概念くつがえし外しもせずに入浴したい 鳥羽省三
ブラジャーの既成概念くつがえし装着せずにブラウスを着る
(西中眞二郎)
〇 とりどりの記念切手を貼り合わせ昨日の礼の手紙を出しぬ
本作の作者・西中眞二郎さんは「昨日の礼の手紙」を出すに際して、受取人の方に最大限の感謝の意を込め、在職当時蒐集していた「とりどりの記念切手」シートから切り離した切手を封筒の切手貼り付け箇所に「貼り合わせ」たうえで投函したのでありましょう。
〔返〕 5円のが1個と7円のが5個残りの分は10円切手 鳥羽省三
(野州)
〇 寄る猫の姿まばらに宵の寒念じて生える頭髪もなく
「寄る猫の姿」も「まばら」な「宵の寒」に、自分だけが禿げ頭で居るのも侘しくて寒くて辛いのであるが、禿げ頭を叩いてみて「念じて生える頭髪もなく」と、諦めてしまったのでありましょうか?
〔返〕 禿頭を叩いてみても詮無きに一、二度ならず五度も叩ける 鳥羽省三
(行方祐美)
〇 念珠藻の酢の物つつく箸さきのしづかにありき昨夜の夢には
フリー百科事典『ウィキペディア』の解説するところに拠ると、作中の「念珠藻」とは「ネンジュモ属(念珠藻属)Nostoc は藍藻の属の一つ。一列の細胞からなる分岐しない糸状体が共通の寒天質基質内で多数絡み合って藻塊(コロニー)を形成する」とある。
また、同事典の別の項目を参照したところ、「イシクラゲ」なる「ネンジュモ属に属する陸棲藍藻の一種」についての解説が為されており、それに拠ると、その利用法として、「日本で古来から食用にもされ、付着した土や枯れ葉などを丁寧に除去して湯通しし、酢の物などにして食べる。別名はイワキクラゲ(岩キクラゲ)や姉川クラゲ(滋賀県姉川に因む)。沖縄県ではモーアーサ(毛アオサ・毛は芝生の意)、ハタカサ(畑アオサ)などと呼ばれる」とある。
推してみるに、本作中の「念珠藻の酢の物」とは、「イシクラゲの酢の物」の謂いでありましょうか?
だとすれば、本作の作者は「行方」姓なるも、イシクラゲを酢の物にして食する食習慣を持つ地方の出身者であり、なるが故に、彼女の「昨夜の夢」に、「念珠藻の酢の物」を「箸さき」も「しずかに」「つつく」場面が登場したのでありましょうか?
ふるさとを離れて暮らす者にとって、ふるさと独自の食べ物は、すごく懐かしいものであると思われ、なるが故に、あの斎藤茂吉の著名な連作『死にたまふ母』にも、「ふるさとのわぎへの里にかへり來て白ふぢの花ひでて食ひけり」、「湯どころに二夜ねぶりて蓴菜を食へばさらさらに悲しみにけれ」、「山ゆゑに笹竹の子を食ひにけりははそはの母よははそはの母よ」という、山形県独自の食べ物を愛でた傑作が在り、未だに人々の口の端にも上るのでありましょう。
本作を鑑賞させていただいたお蔭で、私は「念珠藻の酢の物」なる、未だ口にしたことの無い食べ物についての知識を得ることが出来ました。
これも、短歌鑑賞者の役得の一つと存じ上げ、作者の行方祐美さんには、篤く篤く御礼申し上げます。
〔返〕 山菜はワラビ・ゼンマイ・ミズ・コゴミ・シドケ・タケノコ・タラノメ・アイコ 鳥羽省三
(鮎美)
〇 恒例の一族記念写真より一抜け従姉二に抜け従兄
ご両親共に、兄弟姉妹の少ないご家庭の出身者であればこそ、「恒例の一族記念写真」に、従兄弟や従姉妹の方までお写りになるのでありましょうか?
本作の趣旨は、「そうした少ない人数の中から『一抜け従姉』『二に抜け従兄』と、次々に親族たちがお亡くなりになられ、今年の『一族記念写真』はますます寂しくなって行くばかりである」といったものでありましょう。
因みに申し上げますと、私は「一族記念写真」なるものが大嫌いで、可能な限り、そうした場面には顔を出さないように心掛けております。
〔返〕 姉二人の葬儀にさえ行きませんでした血族同士の集まりは嫌い 鳥羽省三
(鳥羽省三)
〇 「八十吉は念珠の玉の一つ」とぞ『念珠集』の巻頭に在り
『念珠集』とは斎藤茂吉の随筆集であり、「1 八十吉」から「10 念珠集跋」まで、茂吉自身のウィーン留学中(大正十二年七月)に亡くなった実父についての思い出話である。
因みに、「1 八十吉」の全文は次の通りである。
僕は維也納の教室を引上げ、笈を負うて二たび目差すバヴアリアの首府民顕に行つた。そこで何や彼や未だ苦労の多かつたときに、故郷の山形県金瓶村で僕の父が歿した。真夏の暑い日ざかりに畑の雑草を取つてゐて、それから発熱してつひに歿した。それは大正十二年七月すゑで、日本の関東に大地震のおこる約一ヶ月ばかり前のことである。
僕は父の歿したことを知つてひどく寂しくおもつた。そして昼のうちも床のうへに仰向に寝たりすると、僕の少年のころの父の想出が一種の哀調を帯びて幾つも意識のうへに浮上つてくるのを常とした。或る時はそれを書きとどめておきたいなどと思つたこともあつて、ここに記入する『八十吉』の話も父に関するその想出の一つである。かういふ想出は、例へば念珠の珠の一つ一つのやうにはならぬものであらうか。
八十吉は父の『お師匠様』の孫で、僕よりも一つ年上の童であつたが、八十吉が僕のところに遊びに来ると父はひどく八十吉を大切にしたものである。読書がよく出来て、遊びでは根木を能く打つた。その八十吉は明治廿五年旧暦六月二十六日の午すぎに、村の西方をながれてゐる川の深淵で溺死した。
そのときのことを僕はいまだに想浮べることが出来る。その日は村人の謂ふ『酢川落ち』の日で、水嵩が大分ふえてゐた。川上の方から瀬をなしてながれて来る水が一たび岩石と粘土からなる地層に衝当つてそこに一つの淵をなしてゐたのを『葦谷地』と村人が称へて、それは幾代も幾代も前からの呼名になつてゐた。目をつぶつておもふと、日本の東北の山村であつても、徳川の世を超え、豊臣、織田、足利から遠く鎌倉の世までも溯ることが出来るであらう。『葦谷地』といふから、そのあたり一面に蘆荻の類が繁つてゐて、そこをいろいろの獣類が恣に子を連れたりなんかして歩いてゐる有様をも想像することが出来た。明治廿五年ごろには山川の鋭い水の為めにその葦原が侵蝕されて、もとの面影がなくなつてゐたのであらうが、それでもその片隅の方には高い葦が未だに繁つてゐて、そこに葦切がかしましく啼いてゐるこゑが今僕の心に蘇つて来ることも出来た。その広々とした淵はいつも黝ずんだ青い水を湛へて幾何深いか分からぬやうな面持をして居つた。
瞳を定めてよく見るとその奥の方にはゆつくりまはる渦があつて、そのうへを不断の白い水泡が流れてゐる。その渦の奥の奥が竜宮まで届いて居るといつて童どもの話し合ふのは、彼等の親たちからさう聞かされてゐるためであつて、それであるから縦ひ大人であつてもそこから余程川下の橋を渡るときに、信心ふかい者はいつもこの淵に向つて掌を合せたものである。その淵も瀬に移るところは浅くなつてその底は透き徹るやうな砂であるから、水遊する童幼は白い小石などを投げ入れて水中で目を明いてそれの拾競をしたりするのであつた。
旧暦の六月廿六日は『酢川落ち』の日であつたけれども、もう午過ぎであるから多くの人は散じてしまつて、恰も祭礼のあとの様な静かさが川の一帯を領して居た。弱くて小さい魚は死骸となつて川の底に沈み、なかには浮いて流れてゐるのもある。割合に身が大きく命を取留めた魚は川下に下れる限り下つたのもあり、あるものは真水の出づるところにかたまつて喘いでゐるのもある。さういふ午過ぎに十四ぐらゐを頭に十又は九つ八つぐらゐまでの童が淵の隅の割合浅いところに水遊をしてゐた。水遊と云つてもふだんの日の水遊とは違つて、一方には底に潜つて行つて死んだ小魚を拾ふのもその楽みの一つなのである。間が好くば弱つて喘いでゐる大きな魚をつかまへることが出来たりするので、童らは何時までも陸に上らうとはしない。
泳げるものは最も気味の悪い深いところまで泳いで行つて、渦のところを二まはり三まはりぐらゐ廻つて来るのが自慢の一番と謂つてよかつた。すると淵の向う岸に八十吉がたつたひとり浅瀬のところで何かしてゐるのが見えた。向う岸と云ふと童らの居るところからは平らな光つてゐる水面を中に置いて可なりの距りがある。八十吉は唯一人で小魚でも見つけて居るのかも知れんと思つてから五分間位も経つた頃であらうか。岸から少し淵に入つた鏡のやうな水面に人の両方の手が五寸ぐらゐひよいと出たのが見えた。童らの驚く間もなく、人の両方の手が二たび水面から五寸ばかり出た。ほんの刹那である。
そのとき十四になる童が水中に飛込んで泳ぎ出した。稍しばらく泳いでゐたが人の両手が水面から出たあたりに行著くと、頭の方を下にして水中ふかく潜つて行つた。その童の両の足の活溌な運動も見えなくなつて、いよいよ水中ふかく潜つて行つたことを観念すると、こんどはみんな息を屏めて、小さい心臓の鼓動をせはしくしてそこの水面を見てゐた。水面は全く水の動揺を収めてこの事件を毫しも暗指してゐる様な気色がない。やや暫くすると、童はつひに空しく水面に浮上つて来て、しきりに手掌で顔を撫でた。その時である、はじめて事の軽々しくないといふ一種の不安が僕らの心を圧して来て、そこに居たたまらないやうな気がした。童は二たび身を逆まにして水中に潜つて行つた。けれども暫くののちまた手を空しうして水面に浮上つたとき、水面にあつて、人を呼べとこゑを立てた。それから童らはひた走りに走つて田畑に働いてゐる大人を呼びに行つた。
村の人々が数十人集つて、かはるがはる淵の中に飛込んだのは、人の両手が見えてから三十分ぐらゐも経つてゐたであらうか。大人が息こんで水中に潜るのであるが、八十吉はなかなか見つからない。入りかはり立かはり水中にもぐつて、また三十分間ぐらゐも経つた頃であつたらうか。一人の若者がたうとう八十吉を肩にかついで水面に浮上つて来た。若者は何か鋭く叫んで、その肩には生白い人の体がぶらさがつて、首の方がだらりとして腕などは日にからびた葱の白いところを見るやうな、さういふ光景が電光のごとくに僕に見えた。
『お関の婿だ。あれあ』
『お関の婿あ八十吉を見つけた』
かういふこゑが聞こえた。お関は村はづれに小さい店を開いてそこで揚物だの蒟蒻煮などを売つてゐた。八十吉を引上げたお関の婿といふのはそこへ他村から入婿に来た若者のことであつた。この若者は其の数年後隣村の火事に消防に行つて身を挺んじて働いたとき倉の鉢巻が落ちてつひに死んだ。八十吉が水の中からやうやく上つてから暫くは、人間の重苦しい鋭い一種の叫びごゑがそのあたり一帯にきこえて居たが、間もなく元の静寂に帰つた。
蔵王山の麓に湧出る硫黄泉の湯尻が、一つの大きい滝瀬をなして流れてゐる。それが西に向つて里へ里へと流れ下つて、金瓶村の東境に出るとそこから急に折れて北へ向つて流れる。此の川の川原の石はいつも白い様な色合を帯びてゐて水苔一つ生えない。清く澄んだ流であるが味が酸いので魚も住まず虫のたぐひも卵一つ生むことをしない。又この水を田に引くと稲作に害があるので、百姓にとつて此の川は一つの毒川だと謂つてよい。これを酢川と何時の頃からか名づけて来た。それから、金瓶村の西方を流れる川は米沢境の分水嶺から出てくるもので、山形の平野に出てから遂に最上川に入るのであるが、これは淡水であつて多くの魚類を住まはせてゐる。然るに昔、雨降の後に洪水が出た時、村の東境まで西へ向つて流れて来た酢川が、北へ折れる処で北へ折れずにそこを突破したから、村の西方を北へ流れてゐる淡水の川に、酢川の水が混つてしまつた。いはば西洋文字のHの様な恰好になつたのである。すると其の川に住んでゐる魚族が一度にむらがり死ぬといふ現象が起つた。さういふ害のある水が淡水の川に混つては困るから、村では破れたところに堤防を築いてその混入を防いだのである。然るにいつの頃からであらうか。時代はずつとずつと溯るであらう。深夜人無きに乗じてその堤防を破つて、故意に酸い水を淡水の川に灑いだものがあつた。その酸い水が混じると、魚の族は真黒になるほど群がつて川下へ川下へとくだる。それを梁で取れるだけ取つて、暁にならぬうちに家に帰つて知らんふりしてゐるのである。これを『酢川落ち』と唱へる。
暁に先立つて草刈に行く農夫の一人二人がそれを見つけて、村役場へ届ける。村役場では人足を出して堤防の修理をする。然るに一方では村の老若男女童男童女が我先にと川へ出かけて行つて、弱り切つてゐる魚を捕まへるので、つまり余得にありつくのである。この『酢川落ち』はさうたびたびは無い。また村人も一種の楽みとおもふので、役場がそれを大目に見て、罪人を発見しようと努めるやうなことはない。『酢川おとし』の行為は法に触れるべきものであるが、『酢川おち』の現象は村民にとつては無くてはならぬ、謂はば一つの年中行事の如き観を呈するに至つた。それがずつとずつと古い代から続いて来たのである。泳(およぎ)を知らない、常には川遊などをしない八十吉が、この『酢川おち』の日に、ただのひとりで川に遊びに来てゐたのである。
八十吉は終に蘇らなかつたことを下男が来て話して呉れた。八十吉のこの事があつた時父は他村に用足しに行つて、日暮時に入つてやうやく帰つて来た。父の顔を見るや否や、あわてて僕は父の側に行き、八十吉の溺れる有様、それから八十吉を水から揚げてから、藁火をどんどん焚いて、身の皮のあぶれる程八十吉を温めたこと、八十吉の肛門から煙管を入れて煙草のけむりを骨折つて吹き込んだこと、さういふことを息をはずませながら話をした。
『八十吉の尻の穴さ煙管が五本も六本もずぼずぼ這入つたどつす。ほして、煙草の煙が口からもうもう出るまで吹いたどつす』
かういふ僕の話を聞いてゐた父は、どうしたのか一ことも云はずにいきなりと僕をにらめつけるやうな顔をして、僕は予期しない父の此の行為に驚愕するいとまもなく、父はあたふたと著物を著換へて出て行つてしまつた。祖母も母もみんな八十吉の家につめ切つてゐた時である。
僕は父の歿した時、民顕の仮寓にあつてこのことを想出して、その時の父の顔容を出来るだけおもひ浮べて見ようと努めたことがあつた。帰国以来僕は心に創痍を得て、いまだ父の墓参をも果さずにゐる。家兄の書信に拠ると八十吉は十二で死んでゐるから僕の十一のときであつた。八十吉は金瓶村宝泉寺に葬られてあつて、円阿香彩童子といふ戒名をもつてゐる。(大正十四年九月記)
〔返〕 「お関の婿あ八十吉を見つけた!」かういふこゑが僕に聞こえた 鳥羽省三