(原田 町)
〇 延々とつづく鳥居をくぐり行く伏見稲荷の朱色の世界
(佐藤紀子)
〇 雪の舞ふ伏見稲荷の参道に朱の鮮やかな鳥居が続く
原田町さんの御作は、伏見稲荷大社の本殿裏から三ッ辻及び四ッ辻を通って御剱社に至るまでの「延々と」「朱の鳥居」が続く光景を詠んだだけの作品であり、また、佐藤紀子さんの御作は、それに雪景色を配しただけの作品である。
ご両者共に、お題の「朱」をクリアーしただけで良しとしているような感じである。
だが、ご両者のご力量から推してみるに、もう一工夫も二工夫もしなければならない場面でありましょう。
例えば、「朱の鳥居くぐり抜ければ目に映る大文字山また鳥居型山」といった詠み方も在り得ましょう。
「題詠短歌」に於ける御両者のお立場を慮ってみるとき、一首一首、手抜きすること無くくぐり抜けて行かなければならない場面でありましょう。
〔返〕 饅頭食ひの土人形を懐に御剱社までの鳥居をくぐる 鳥羽省三
(五十嵐きよみ)
〇 平凡な名前に飾りをつけるごと鮮やかな朱の印鑑を押す
「五十嵐きよみ」という本作の作者のお「名前」が「平凡な」お「名前」であるかどうかは別問題として、本作で謂うところの「朱の印鑑」即ち落款を「押す」ことは、確かに「平凡な名前」に「飾り」を付けたり、品格の感じられない氏名に品格を付与したりするような効果があるようだ。
一例を上げて説明すれば、加藤治郎という氏名は、奥羽山脈の山に囲まれた村で山仕事に従事している人によく居るような氏名、言わば、格別に品格といったものが感じられない名前、それだけに極く有り触れた名前である。
しかし、色紙に書いた一首の歌の後に「加藤治郎」とサインして落款を押せば、それらしくなるから不思議なものである。
〔返〕 荷車に三浦キャベツを積んで行く アメリカさんに媚びるみたいに 鳥羽省三
(紗都子)
〇 渾身の力をこめて押す印の朱肉の色はどこか悲しい
品格の感じられない名前に、少しでも品格を添えようという気持ちで「渾身の力をこめて」ハンコを押したとしたら、その結果としての目前の色紙の「朱肉の色」は、確かに「どこか悲しい」表情をしているに違いありません。
私は、つい先日、朝日新聞の購読勧誘員の強引な押しに負けて、本年七月から十二月までの六箇月間、朝日新聞を購読するという契約を結び、景品のビールがビール紛いの発泡酒であることを残念に思いながらシャチハタネームを押してしまいましたが、その時の「朱肉」紛いの「朱」の「色」も確かに「悲しい」ような表情をしておりました。
〔返〕 渾身の力を込めずに押す時もシャチハタネームは毅然としてる 鳥羽省三
(伊倉ほたる)
〇 喚び起こす記憶のページは破られて朱肉の匂いが残る指先
本作の作者の伊倉ほたるさんも亦、つい先日、朝日新聞の購読勧誘員の強引な押しに負けて、本年七月から来年の六月までの一年間、朝日新聞を購読するという契約を結び、景品のビールがビール紛いの発泡酒であることを切なく思いながらも印鑑を押してしまったのでありましょう。
だが、伊倉ほたるさんの場合は、そのショックから未だに立ち上がれずに、その時の記憶を呼び覚まそうとしても「記憶のページ」は「破られ」たような状態になって居て蘇えらず、「朱肉の匂い」が「指先」に微かに残っているのでありましょう。
〔返〕 千鳥ヶ淵の桜もそろそろ見頃だぜ お風呂に入って指先を洗え 鳥羽省三
(村木美月)
〇 父の背に負われて帰る遠い日の朱色に染まる夕陽をおもう
極めて有り触れた発想の作品である。
鑑賞に堪え得るような作品にするためには、題材や表現に今一つの工夫が必要かと存じます。
〔返〕 穢されし母を背負ひて帰る道くれなゐ燃ゆる西空に泣く 鳥羽省三
(今泉洋子)
〇 酸漿を噛めばすつぱし脳天ゆ朱夏がぐらり傾きはじむ
「酸漿を噛めばすつぱし」とは、二度と帰って来ない少女時代を回想する時の常套的な発想であり、表現でもある。
また、「朱夏」とは、陰陽五行説に基づいて「夏」を指して言う言葉であるが、俳人たちや歌人たちの中には、「朱夏」という漢語中の「朱」の字に着目して、「朱夏」という語を「真っ赤に燃える夏」、つまり「夏の真っ盛り」を意味する言葉として使うことも多いのであるが、必ずしも適切な使い方とは言えません。
何故ならば、「青春」の「青」が東の方位の守護神「青龍」の「青」であり、「白秋」の「白」が西の方位の守護神「白虎」の「白」であり、「玄冬」の「玄」が北の方位の守護神「玄武」の「玄(=黒)」であると同様に、「朱夏」の「朱」という文字は、南の方位の守護神「朱雀」の「朱」であり、一年十二箇月を四等分した場合の三箇月という長い期間を指して言う言葉であるからである。
こうした予備知識に基づいて本作に臨む場合、本作中の「酸漿を噛めばすつぱし」という上の句の表現はともかくとして、「脳天ゆ朱夏がぐらり傾きはじむ」という下の句の表現は、必ずしも季節感覚を捉え得た表現とは言えなくなるのである。
本作の作者・今泉洋子さんの「脳天」が「ぐらり」と「傾き」始めるのは、佐賀の銘酒「鍋島・大吟醸」を一升瓶で空けた場合ではありませんか?
〔返〕 評言を読めば酸っぱし!せめてもと鍋島・大吟醸を冷やで空けたり! 鳥羽省三
(理阿弥)
〇 荒神の視座に立たむと望む夜にわが糖衣錠まざまざと朱 ※朱=あか
私・鳥羽省三が、毎晩の食後に三錠ずつ服用中の「糖衣錠」も亦、「まざまざ」とした「朱」色の「糖衣錠」である。
よくよく熟慮してみると、病気持ちの者が毎日服用しなければならない「糖衣錠」が、金・銀色であったり、紫や赤や黒や灰色であったりしたら、まるで毒でも飲ませられているような気になり、治る病気も治らない結果となってしまいましょう。
したがって、「わが糖衣錠まざまざと朱」といったような考え方は、あまりにも被害感に満ちた考え方かと拝察致します。
それはそれとして、八百万の神が鎮座まします我が国に於ける神様を大まかに分類させていただきますと、「温和に福徳を保障する神」と、「極めて祟りやすく、彼に対して畏敬の誠を捧げなければ危害や不幸に遭うと思われた類の神」との二つに分類されるのである。
その中の後者が作中の「荒神」であり、言い方を替えて申せば、「荒神」とは「害悪を為す邪悪な神」とも申せましょう。
本作の作者・理阿弥さんは柄にも無く、とある「夜」に「荒神の視座に立たむ」ことを望んだということでありますが、毎晩「糖衣錠」を服用しなければならないような病持ちの人間が「荒神の視座に立たむ」としてはいけません。
何故ならば、荒ぶる神には荒ぶる神なりの肉体的な強靭さが必要とされるからである。
〔返〕 福神の視座に立たむとある時は真っ黒黒の煙突から入る 鳥羽省三
(飯田和馬)
〇 乱筆を朱墨はなぞる。さわがしい烏を森へいざなう夕日
本作の作者・飯田和馬さんは、ご自宅で書道教室を自営なさって居られるのでありましょうか?
だとしたら、「夕日」が「さわがしい烏」たちを「森へいざなう」頃になると、教習を終えた教え子たちが、三々五々自宅へと向かわれるのでありましょう。
〔返〕 騒がしき烏が杜へと向かう頃サッシを繰りて夕陽に祈る 鳥羽省三
〇 延々とつづく鳥居をくぐり行く伏見稲荷の朱色の世界
(佐藤紀子)
〇 雪の舞ふ伏見稲荷の参道に朱の鮮やかな鳥居が続く
原田町さんの御作は、伏見稲荷大社の本殿裏から三ッ辻及び四ッ辻を通って御剱社に至るまでの「延々と」「朱の鳥居」が続く光景を詠んだだけの作品であり、また、佐藤紀子さんの御作は、それに雪景色を配しただけの作品である。
ご両者共に、お題の「朱」をクリアーしただけで良しとしているような感じである。
だが、ご両者のご力量から推してみるに、もう一工夫も二工夫もしなければならない場面でありましょう。
例えば、「朱の鳥居くぐり抜ければ目に映る大文字山また鳥居型山」といった詠み方も在り得ましょう。
「題詠短歌」に於ける御両者のお立場を慮ってみるとき、一首一首、手抜きすること無くくぐり抜けて行かなければならない場面でありましょう。
〔返〕 饅頭食ひの土人形を懐に御剱社までの鳥居をくぐる 鳥羽省三
(五十嵐きよみ)
〇 平凡な名前に飾りをつけるごと鮮やかな朱の印鑑を押す
「五十嵐きよみ」という本作の作者のお「名前」が「平凡な」お「名前」であるかどうかは別問題として、本作で謂うところの「朱の印鑑」即ち落款を「押す」ことは、確かに「平凡な名前」に「飾り」を付けたり、品格の感じられない氏名に品格を付与したりするような効果があるようだ。
一例を上げて説明すれば、加藤治郎という氏名は、奥羽山脈の山に囲まれた村で山仕事に従事している人によく居るような氏名、言わば、格別に品格といったものが感じられない名前、それだけに極く有り触れた名前である。
しかし、色紙に書いた一首の歌の後に「加藤治郎」とサインして落款を押せば、それらしくなるから不思議なものである。
〔返〕 荷車に三浦キャベツを積んで行く アメリカさんに媚びるみたいに 鳥羽省三
(紗都子)
〇 渾身の力をこめて押す印の朱肉の色はどこか悲しい
品格の感じられない名前に、少しでも品格を添えようという気持ちで「渾身の力をこめて」ハンコを押したとしたら、その結果としての目前の色紙の「朱肉の色」は、確かに「どこか悲しい」表情をしているに違いありません。
私は、つい先日、朝日新聞の購読勧誘員の強引な押しに負けて、本年七月から十二月までの六箇月間、朝日新聞を購読するという契約を結び、景品のビールがビール紛いの発泡酒であることを残念に思いながらシャチハタネームを押してしまいましたが、その時の「朱肉」紛いの「朱」の「色」も確かに「悲しい」ような表情をしておりました。
〔返〕 渾身の力を込めずに押す時もシャチハタネームは毅然としてる 鳥羽省三
(伊倉ほたる)
〇 喚び起こす記憶のページは破られて朱肉の匂いが残る指先
本作の作者の伊倉ほたるさんも亦、つい先日、朝日新聞の購読勧誘員の強引な押しに負けて、本年七月から来年の六月までの一年間、朝日新聞を購読するという契約を結び、景品のビールがビール紛いの発泡酒であることを切なく思いながらも印鑑を押してしまったのでありましょう。
だが、伊倉ほたるさんの場合は、そのショックから未だに立ち上がれずに、その時の記憶を呼び覚まそうとしても「記憶のページ」は「破られ」たような状態になって居て蘇えらず、「朱肉の匂い」が「指先」に微かに残っているのでありましょう。
〔返〕 千鳥ヶ淵の桜もそろそろ見頃だぜ お風呂に入って指先を洗え 鳥羽省三
(村木美月)
〇 父の背に負われて帰る遠い日の朱色に染まる夕陽をおもう
極めて有り触れた発想の作品である。
鑑賞に堪え得るような作品にするためには、題材や表現に今一つの工夫が必要かと存じます。
〔返〕 穢されし母を背負ひて帰る道くれなゐ燃ゆる西空に泣く 鳥羽省三
(今泉洋子)
〇 酸漿を噛めばすつぱし脳天ゆ朱夏がぐらり傾きはじむ
「酸漿を噛めばすつぱし」とは、二度と帰って来ない少女時代を回想する時の常套的な発想であり、表現でもある。
また、「朱夏」とは、陰陽五行説に基づいて「夏」を指して言う言葉であるが、俳人たちや歌人たちの中には、「朱夏」という漢語中の「朱」の字に着目して、「朱夏」という語を「真っ赤に燃える夏」、つまり「夏の真っ盛り」を意味する言葉として使うことも多いのであるが、必ずしも適切な使い方とは言えません。
何故ならば、「青春」の「青」が東の方位の守護神「青龍」の「青」であり、「白秋」の「白」が西の方位の守護神「白虎」の「白」であり、「玄冬」の「玄」が北の方位の守護神「玄武」の「玄(=黒)」であると同様に、「朱夏」の「朱」という文字は、南の方位の守護神「朱雀」の「朱」であり、一年十二箇月を四等分した場合の三箇月という長い期間を指して言う言葉であるからである。
こうした予備知識に基づいて本作に臨む場合、本作中の「酸漿を噛めばすつぱし」という上の句の表現はともかくとして、「脳天ゆ朱夏がぐらり傾きはじむ」という下の句の表現は、必ずしも季節感覚を捉え得た表現とは言えなくなるのである。
本作の作者・今泉洋子さんの「脳天」が「ぐらり」と「傾き」始めるのは、佐賀の銘酒「鍋島・大吟醸」を一升瓶で空けた場合ではありませんか?
〔返〕 評言を読めば酸っぱし!せめてもと鍋島・大吟醸を冷やで空けたり! 鳥羽省三
(理阿弥)
〇 荒神の視座に立たむと望む夜にわが糖衣錠まざまざと朱 ※朱=あか
私・鳥羽省三が、毎晩の食後に三錠ずつ服用中の「糖衣錠」も亦、「まざまざ」とした「朱」色の「糖衣錠」である。
よくよく熟慮してみると、病気持ちの者が毎日服用しなければならない「糖衣錠」が、金・銀色であったり、紫や赤や黒や灰色であったりしたら、まるで毒でも飲ませられているような気になり、治る病気も治らない結果となってしまいましょう。
したがって、「わが糖衣錠まざまざと朱」といったような考え方は、あまりにも被害感に満ちた考え方かと拝察致します。
それはそれとして、八百万の神が鎮座まします我が国に於ける神様を大まかに分類させていただきますと、「温和に福徳を保障する神」と、「極めて祟りやすく、彼に対して畏敬の誠を捧げなければ危害や不幸に遭うと思われた類の神」との二つに分類されるのである。
その中の後者が作中の「荒神」であり、言い方を替えて申せば、「荒神」とは「害悪を為す邪悪な神」とも申せましょう。
本作の作者・理阿弥さんは柄にも無く、とある「夜」に「荒神の視座に立たむ」ことを望んだということでありますが、毎晩「糖衣錠」を服用しなければならないような病持ちの人間が「荒神の視座に立たむ」としてはいけません。
何故ならば、荒ぶる神には荒ぶる神なりの肉体的な強靭さが必要とされるからである。
〔返〕 福神の視座に立たむとある時は真っ黒黒の煙突から入る 鳥羽省三
(飯田和馬)
〇 乱筆を朱墨はなぞる。さわがしい烏を森へいざなう夕日
本作の作者・飯田和馬さんは、ご自宅で書道教室を自営なさって居られるのでありましょうか?
だとしたら、「夕日」が「さわがしい烏」たちを「森へいざなう」頃になると、教習を終えた教え子たちが、三々五々自宅へと向かわれるのでありましょう。
〔返〕 騒がしき烏が杜へと向かう頃サッシを繰りて夕陽に祈る 鳥羽省三