臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

一首を切り裂く(078:卵・其のⅠ・宿の朝餉の嬉しくなりぬ・決定版)

2012年04月06日 | 題詠blog短歌
(西中眞二郎)
〇  黒ずみし温泉卵出ておれば宿の朝餉の嬉しくなりぬ

 大の大人が、しかもあの西中眞二郎氏が、「宿の朝餉」のお膳に「温泉卵」が一個乗っかっていたからという、あまりにもささやかな理由で以って「嬉しくなりぬ」とまで仰っているのである。
 この場面で「嬉しく」なったのは、何も作者の西中眞二郎さんお一人だけではありません。
 「宿の朝餉」のお膳に「温泉卵」が一個乗っかっていたからという、余りにもささやか過ぎる理由で以って、あの西中眞二郎さんが「嬉しくなりぬ」とまで仰って居られるのですから、私たち読者だって「嬉しく」なってしまいます。
 初句の「黒ずみし」は単なる音数合わせの為に添えられた五音ではありません。
 「黒ずみし温泉卵」と言えば、あの箱根の大涌谷などで食べる殻付きの「温泉卵」の色感や触感、そして周囲に漂っている硫黄の匂いまでが連想されて、「温泉卵」好きの者なら、思わず生唾を飲み込んでしまうような卓抜な表現なのである。
 優れた短歌に備わっている特質の一つは、作中の「われ」が働いている、という点にある。
 歌人・西中眞二郎さんは、「題詠短歌」の投稿者の中では格別に優れた存在であり、私・鳥羽省三は、彼の作品の殆どを傑作として鑑賞させていただきました。
 しかしながら、西中眞二郎さんの作品に接して居て、私がとても残念に感じることは、彼の作品中には、「考える人」としての「われ」や、「見る人」としての「われ」が登場することはあっても、「行動する人」としての「われ」、即ち「手足を動かしたり」「心を動かしたり」して「働いているわれ」が登場することが余りにも少ない、という点である。
 そうした作品群の中から極く最近鑑賞させていただいた二首を挙げさせていただきますと、「霧深く杉の木立に雨降れば根本大塔の朱のおぼろなる」「漫談にトリオはあれど狂言に三郎冠者の出番少なく」などは、その好例でありましょう。
 一首目の「霧深く」の中で働いているのは、作者の「われ」ではなく、「霧」や「雨」といった自然条件だけであり、作者の「われ」は、漫然としてその中に身を置いているだけである。
 二首目の「漫談に」に於いても、その点には何ら変わりが無く、「われ」即ち作者ご自身は、ただひたすら考えて居たり、思って居たりするだけなのである。
 然るに、本作即ち「黒ずみし温泉卵出ておれば宿の朝餉の嬉しくなりぬ」に於いての「われ」は、「嬉しくなりぬ」と思っているのであるから、体内の何処かの器官を微かながら動かしているのであり、詰まるところは、「働いている」のである。
 評者の私が、本作を取り立てて、西中眞二郎さんの傑作として称揚させていただく理由の一つは、そうした点に在るのである。
 我が国の政局の窮状も極端化した今日、私はテレビ画面で、たびたび国会中継の場面を目にするのであるが、その場面に於いて、野党側の質問に応える政府官僚の能面のような顔が大写しにされるのであるが、彼らは、只ひたすら六法全書に書かれているようなことを述べているだけであり、感情一つ動かしていないのである。
 つまり、彼ら政府官僚は、誰一人として、何一つとして、働いていないのである。
 野党側の質問に応えて、おろおろと身体を動かし、懸命に心を動かし、感情を剥き出しにするのは、ただ一人、田中真知子議員の「パパさん」だけでありましょうか?
 冗談はさて措いて、本作に対する、評者としての私の唯一の不満点を申し添えさせていただきますと、「温泉卵出ておれば」という二句目から三句目への渡りに、字余りを気にせずに、主格の格助詞「の」を入れて、「黒ずみし温泉卵の出ておれば宿の朝餉の嬉しくなりぬ」となさったらいかがでありましょうか?
 〔返〕  黒ずんだ温泉卵が目についてホテルの朝餉に嘔吐催す   鳥羽省三


(飯田彩乃)
〇  汝(うぬ)もまた儂を食うかと睨みくる卵としばし見つめ合いたり

 「汝」という漢字を「うぬ」と読ませようとなさったりもする。
 本作の作者・飯田彩乃さんは、何処かの「組」の若頭の方がご寵愛なさって居られる「お姐さん」でありましょうか?
 それにしても、朝餉の食卓の上に置かれた「卵」一個と「しばし」見つめ合うとは、ご立派な「お姐さん」らしくもない行状でありましょう。

 〔返〕  「うぬもまた儂を食うか!」と睨み来る鯱鉾を市長がしばし見詰める   鳥羽省三
 確か、河村さんと仰いましたっけ?
 あの方もなかなか眼光鋭く、舌鋒鋭い方でいらっしゃいますから、両者が名古屋城の上と下から睨み合ったとしたならば、警察車両が出動しなければならないような展開にもなりましょうかしら?
  

(新田瑛)
〇  困惑と期待の混在したものが卵大まで膨らんでいる

 「据え膳食わぬは男の恥」の、その「据え膳」が、本作の作者・新田瑛さんの御前にででんと据えられているのでありましょうか?
 で、あったとしたならば、「卵大まで膨らんでいる」のは、「困惑と期待の混在したもの」のみならず、臍下三寸の位置に鎮座まします逸物でもありましょうか?
 〔返〕  困惑と期待の混濁したものがバット大まで膨らんじゃった   鳥羽省三