9月14日(日)
この連休の土日、私用で東京へ行くことになりました。
用事そのものは、土曜の午後からでしたので、それまでの時間、私は、辰野金吾ゆかりの場所を見てこようと思いました。
なぜなら、今年は、坊主町で生まれ耐恒寮で学び、やがて明治・大正期を代表する建築家となった辰野金吾が、東京駅を建築してからちょうど百年目にあたるからです。
そして、大志小学校の5年生が、総合的な学習の時間で、「辰野金吾に学ぶ」学習を行うからです。
羽田空港からモノレールとJRを乗り継いで東京駅で降りた私は、荷物をコインロッカーに入れ、丸の内中央口へと向かいました。
途中、早くも、辰野金吾に出会いました。
中央停車場(東京駅)の歴史展が、駅構内の赤レンガをバックに開かれていたのです。
百年前の建築当時のレンガも残されていました。
数年前から東京駅の改修工事が始まり、東京駅は、すっかり百年前、1914(大正3)年当時の姿に戻っているのだそうです。
この姿が見られるのは、丸の内側です。
丸の内中央口前から、道幅100mはあろうかという広い道路がまっすぐに伸びていました。
ふり返って見ると、向こうの方に、こんもりとした森が見えました。
皇居です。
丸の内中央口は、本来、皇室専用の出入口として設計されたものでした。
東京駅の正面口は、まっすぐ皇居の方を向いていたのです。
庶民は、丸の内北口や南口、あるいは、反対側にある八重洲口から出入りするようになっていました。
これは、丸の内北口です。
南口も全く同じ見かけをしています。
もう一度、丸の内中央口に入りました。
そして、天井部分を見上げました。
正八角形にデザインされたドームには、様々な生き物のレリーフが施されていました。
中でも話題になっているのが、この十二支のレリーフです。
下の写真左は辰(たつ)、右は巳(み)。
それぞれ頭を持ち上げた、龍と蛇です。
八角形なので、当然十二支のうち8つしかありません。
残りの4つがなぜないのか、長年、東京駅の七不思議のひとつと言われていました。
ところが、昨年4月、同じ辰野金吾の設計による国重要文化財「武雄温泉楼門」の天井から、東京駅に欠けていた4つの干支、子(ね)、卯(う)、午(うま)、酉(とり)の絵が発見されたのです。
「東京と佐賀と合わせて十二支というのは、辰野金吾の遊び心では?」
と、多くの学者や専門家は語っているとのこと。
そうだとすれば、辰野金吾の人となりを知る、重要な手がかりの一つになりそうです。
後日、武雄に行って、そのことも確かめてみたいと思いました。
東京駅をあとにして、2つ目の目的地、日本銀行本店へと向かいました。
休日ということで、丸の内界隈はとても人通りが少なく、犬を連れて散歩をしたり、ジョギングをしたりして楽しむ人たちや、私と同じような観光客がうろうろしているくらいでした。
日銀本店は、東京駅よりさかのぼること18年、1896(明治29)年の建築とされています。
見た目は石造り。
しかし、実は、2・3階はレンガ造りの石貼り構造になっています。
これは、耐恒寮時代の恩師で、当時日本銀行に勤務していた高橋是清が、5年前に起きた濃尾大地震の教訓から、2・3階の軽量化を図るために指示したからだと言われています。
高橋是清の判断と辰野金吾の技が、関東大震災や第二次世界大戦を乗り越え、今では国重要文化財の指定を受けながらも供用され続けているという堅牢さ、物凄さ、威圧感を感じる建物でした。
2つの目的地をまわり、まだ時間があった私は、帰り道にちょっと寄り道をしました。
「東京市道路元標」と記してあります。
場所は日本橋。
ここを基準に、日本中の道路が東京から何kmと計測されています。
江戸時代から、交通の中心となっていた日本橋。
しかし、今では、橋の上を首都高速が通っていて、広重の浮世絵にあるような明るく元気な面影はありません。
橋の下を流れる日本橋川(しばらく行くと隅田川につながる)も、巨大な橋梁が何本も打ち込まれ、まるで昆虫採集の虫みたいな感じがして、とてもかわいそうに思えてしまいました。
日本橋に行って、ある映画を思い出しました。
それは、東野圭吾原作の映画「麒麟の翼」です。
確か、双頭の龍があった・・・。
そこで阿部寛さんが倒れる所から、映画が始まったんじゃなかったかな・・・。
ありました!
このロケーションだったことを確認しながら、日本橋ともお別れです。
おのぼりさんみたいに、写真を撮ってまわった半日でしたが、辰野金吾のことを思いながら歩いた半日でもありました。
あとで調べてみると、福岡や武雄など、近くにも辰野金吾の建築物はいくつも残っているようです。
後日、第二弾として、辰野金吾を巡る旅をしてみようと思いました。