9月25日(木)
朝7時45分。
まだ外は小雨模様だったので、室内での出発式となりました。
多久に入るころには、雨も上がり、晴れ間も見えてきました。
長崎へ向かう途中、多久芳の谷地層を見学しました。
多久ICから高速に乗り、川登SAで一度休憩し長崎へ。
原爆資料館には、ほぼ予定通り、11時前に着きました。
原爆資料館では、1時間たっぷり見学しました。
被爆した品々は、どれも壊れ、高熱で大きく歪んでいました。
時計は、原子爆弾の落とされた11時2分を差して止まっていました。
資料館の最後の展示コーナーには、長崎に投下された「ファットマン」ではなく、1991年の湾岸戦争以降使用されている「トマホーク」が展示されていました。
ちょっと意外な感じもしましたが、通常弾頭を核弾頭に付け替えれば強力な核兵器となりうる、極めて恐ろしい兵器です。
子どもたちには、もう一つの課題も出ていました。
それは、長崎にいる2日間のうちに、少なくとも3人の外国の人に積極的に話しかけ、サインをもらうというミッションです。
子どもたちは、最初はためらいながらも、勇気を出して話しかけていました。
「イングランドの人だった」
「わたしはオーストラリアから来たと言われた」
これも、国際都市長崎ならではの体験です。
平和公園の空。
今から69年前の8月9日、この長崎市松山町上空約500mの空中で、原子爆弾は炸裂しました。
その空の下、原子爆弾落下中心碑の前で、平和集会を開きました。
大志小学校の子どもたちの平和への願いがこもった千羽鶴を捧げました。
修学旅行の学生たちや外国からの観光客など、大勢の人々の前で、しっかりと平和への誓いを述べ、「青い空は」の歌を歌いました。
思いの伝わる平和集会でした。
集会を終えた子どもたちは、バスガイドさんの案内のもと、平和公園を歩いて見学して周りました。
平和の泉から見る平和祈念像です。
平和祈念像の前では、クラス写真も撮影しました。
昼食は、みらい長崎ココウォークという、ショッピングやグルメや映画などが楽しめるショッピングモールとバスセンターが一緒になった施設の4階「アレッタ」で、ランチバイキングを楽しみました。
中華料理やスペイン料理がまじったような品々とたくさんのスイーツにドリンクバー。
修学旅行も変わったものだなあと思いましたが、昼も夜も長崎ちゃんぽんを食べるより、こういう体験をすることも悪くはないと思います。
チョコレート・フォンデュにも挑戦したり、初めて食べるようなカタカナのいっぱい並んだメニューに舌鼓を打ったり、大満足の子どもたちでした。
昼食を終えても、平和学習は続きました。
爆心地から西に500mのところに位置する城山小学校です。
大正12年、九州で一番最初に鉄筋コンクリートで建築された校舎だったそうですが、原爆で校舎は吹き飛ばされ、ほとんどの先生と子どもたちが亡くなったのだそうです。
嘉代子桜の話を聞き、校地内にある平和祈念館を見学しました。
浦上天主堂です。
教会が建てられたのは、元治2年(1865年)ですから、9番曳山木綿町の武田信玄の兜より1年あとにできたことになります。
ここも爆心地から北東へ500mの距離にあったため、原爆により壊滅し、祭礼のため集まっていた多くの信徒が亡くなられたそうです。
新しく建て直された天主堂の前でグループごとに写真を撮り、如己堂へと向かいました。
如己堂は、被爆後にもかかわらず医療活動を続けられた永井博士が、療養し執筆活動を続けられたわずか2畳の小さな家です。
長崎学習をする中で、永井博士の生き様は必ず学んでほしいと思っています。
ですから、今回の見学コースにしっかりと位置づけられ、隣接する永井隆記念館の見学もできたのは嬉しいことでした。
最後は山里小学校。
爆心地から北へ700mに位置した小学校です。
1581名いた児童のうち、85%のおよそ1300名が、その日のうちに亡くなったそうです。
防空壕を掘る作業に来ていた先生たち32名のうち、生き残ったのはわずか4名だったそうです。
学校の中にある資料館を見学しました。
計画していた全ての見学が終わり、ホテルに向かうバスの中から、片足鳥居が見えました。
出発してから約9時間。
たっぷり勉強した1日となりました。
最近使うようになった万歩計を、学校を出る時にセットしておきました。
ホテルに着いた時に見ると・・・
すごい!
何と1万歩以上も歩いていました。
それでも、みんな元気いっぱいに学習を終えることができました。
今日の報告は、ここまで。
ホテルに着いてから明日の班別自主研修までの報告は、またあとのお楽しみに!