小林批評美学の集大成であり、批評という形式にひそむあらゆる可能性を提示する「モオツァルト」、自らの宿命のかなしい主調音を奏でて近代日本の散文中最高の達成をなした戦時中の連作「無常という事」など6編、骨董という常にそれを玩弄するものを全人的に験さずにはおかない狂気と平常心の入りまじった世界の機微にふれた「真贋」など8編、ほか「蘇我馬子の墓」を収録する。
出版社:新潮社(新潮文庫)
坂口安吾は『教祖の文学』で、小林秀雄を以下のように評していた。
「小林に曖昧さを弄ぶ性癖があり、気のきいた表現に自ら思いこんで取り澄している態度が根柢にある」
「彼の文学上の観念の曖昧さを彼自身それに就いて疑わしいものがないということで支えてきた這般の奥義を物語っている。全くこれは小林流の奥義なのである」
「つまり教祖は独創家、創作家ではないのである。教祖は本質的に鑑定人だ」
「彼は見えすぎる目で見て、鑑定したままを書くだけだ」
読み終えたときには、何となくそういった安吾の意見も理解できるのだ。
特に「曖昧さ」というところに共感する。
小林秀雄は内容自体はおもしろい。
取り上げるエピソードは目を引くし、文章も美しいため、さくさくと読み進めることができる。
しかし全体を通して見たとき、結局何が言いたいのかがわからないのだ。
僕の頭の悪さもあるが、それで? という結論しか見えず、曖昧模糊と感じる。
そのためおもしろいのだけど、読み終えた後は戸惑うことが多い。
たとえば『モオツァルト』。
モーツァルトが天才的で、自由な感性のまま曲を書いていることはよくわかる。
それを伝えるエピソードも豊富で、どれもなかなかおもしろい。はっとするものもある。
だが全体を通して見えてくるのは、自由でどこか子供じみたところのあるモーツァルト像でしかないのだ。
そこから曲の持つ自由闊達な雰囲気は伝わるのだが、それで?としか思えないのである。
すべては結論らしい結論をちゃんと書いてくれないことが原因なのだろう。
それがどうにももどかしい。
しかし内容自体はおもしろいから、どう評価していいのかに困ってしまう。
理屈で考えがちな理系の僕としては、少し苦手かもしれない。
おもしろいのだけど、ふしぎな作家だな、と感じる次第だ。
そのほかにも小林秀雄の個性を感じさせる作品が多い。
『当麻』
意図しての美の表現ではなく、行為することによって生まれる情感というものがある。
たとえ仮面をかぶっていても、そこから伝わる何かがある、ということか。
「美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない」という有名な文句からも伝わるが、そこに存在して、行為すること自体が美しいと感じる瞬間はあるのだろう。
『無常という事』
「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」とあるけれど、それが過去に対する追慕にもなっている。
過去は動じない美しい形しか現れぬとも言うが、それが現在生きている人間とは違うのは、そこにあらゆる感情や状況によって左右されるものが紛れ込まないかららしい。
はっきり言ってわかるようで、わからない言説だな、と思うのだが、ふしぎと心に響いた。
『西行』
この中で描かれる西行像はどこか近代人の影さえ見えるような気がする。
「如何にして己れを知ろうか」と考え、悲しみに向き合った西行の姿はまさに自我に苦悶する近代人のそれであると言っていい。
そこから新しい歌が生まれたとする見方はなかなか新鮮である。
『実朝』
青年の天才性と苦悩する姿が浮かぶようで、なかなかおもしろい。
『蘇我馬子の墓』
武内宿禰や聖徳太子のエピソードなどは楽しかった。
要するところ、歴史に思いをはせる話で、必ずしも蘇我馬子の墓を起点にする必要もない気がするのだが、エピソードの着眼点などもあって飽きずに読めた。
評価:★★★(満点は★★★★★)