私的感想:本/映画

映画や本の感想の個人的備忘録。ネタばれあり。

オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』

2015-10-13 21:31:48 | 小説(海外ミステリ等)
 
西暦2540年。人間の工場生産と条件付け教育、フリーセックスの奨励、快楽薬の配給によって、人類は不満と無縁の安定社会を築いていた。だが、時代の異端児たちと未開社会から来たジョンは、世界に疑問を抱き始め…驚くべき洞察力で描かれた、ディストピア小説の決定版!
黒原敏行 訳
出版社:光文社(光文社古典新訳文庫)




ディストピア小説の古典らしいが、その設定のいびつさは今読んでもなお色あせてなくて、びっくりする。



SFなので、最初はどうしても、物語の世界観から入るのだけど、その設定の何とおもしろく、何と不気味なことだろうか。
人工授精によって人類の誕生をコントロールする社会。
生まれた赤ん坊は最初から、階級別に生育され、消費活動を積極的に行なうなどの洗脳が、システマティックに行なわれている。

人間をいかに効率的に管理し、世界に都合のいい人間を生み出すか。
その考えのもとに運営される世界は、ただただおぞましい限りだった。
人間の自由意志がこれほど踏みにじられている社会はないだろう。


そうして人は「誰もがみんなのもの」という全体主義的な空気の中で、社会のためにかしずく人間として生きていくことになる。

そこには人間としての当たり前の感情はない。
鬱は全面的に否定され、暗い気持ちが湧いてくるときは、ソーマという精神安定剤で、心の安寧を保ち、刹那的な性生活や快楽を追求する。
孤独であることなど許されず、みんなで楽しむことを求められる。

コミュ障の僕としてはぞわぞわするほかにない。
多様性なんてものは絶対に許されないのだ。


とは言え、そんな中でもバーナードのように、除け者にされる者も少なからずいる。
バーナードみたいなタイプの人間は一人くらいいるものだけど、管理社会にあっては、より一層つまはじき者であるらしい。

本来なら、このゆがんだ世界に一つの風穴をあける役目は、バーナードのように既存の価値観を疑う者だろう。
しかしこの世界の倫理を受けて育った以上、それにも限界がある。
実際、バーナードはジョンと出会って後、この世界に迎合することに執心しているのだ。


では管理社会の埒外で育ったジョンは、世界に風穴をあけることはできるだろうか。
というとちょっと難しいから、世界は厄介だ。

ジョンはシェイクスピアに親しむなど教養もあり、管理社会の洗礼を受けず過ごしてきた。
だからこそ統制された社会に対して違和感を持ち、それに反抗する。
母や好きな女の性的にあけすけな状況に反発し、社会にも怒りを表す。実に人間らしい。

だが暴力で訴えることしかできず、論理性に乏しい彼では、世界を変えるに説得力に欠けることは否めない。
ムスタファ・モンドのゆがんではいるが、彼なりに説得力を持って語る言葉の前では及ばぬばかりだ。


結局ジョンは世界そのものに敗北せざるをえなかったのだろう。
そういう点、この小説には救いがない。
しかし救いがないからこそ、社会に対する警告がより強く立ちあがっているのだ。

何となく後のナチスをはじめとした全体主義に対する危機意識もうかがえるようで、心に残るばかりである。

評価:★★★★(満点は★★★★★)
コメント (1)
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ピエール・ルメートル『その女アレックス』

2015-02-10 20:56:34 | 小説(海外ミステリ等)

おまえが死ぬのを見たい―男はそう言ってアレックスを監禁した。檻に幽閉され、衰弱した彼女は、死を目前に脱出を図るが…しかし、ここまでは序章にすぎない。孤独な女アレックスの壮絶なる秘密が明かされるや、物語は大逆転を繰り返し、最後に待ち受ける慟哭と驚愕へと突進するのだ。イギリス推理作家協会賞受賞作。
橘明美 訳
出版社:文藝春秋(文春文庫)




さすがは「このミステリーがすごい」をはじめ、昨年のミステリ海外部門を独占した作品だけはある。
本当におもしろい。

最後まで一瞬も気を抜かせず、ラストまで持って行く様は圧巻であった。
加えて章ごとにアレックスに対する認識が変わっていく辺りも見せ方が上手かった。
そしてラストに待っていたどんでん返しには、いろいろあるが、思わず快哉を叫びたくなる。

心に深く突き刺さってくる見事な作品であった。


アレックスという若い女が突如として、拉致監禁される事件が発生する。
その展開を読んだときは、暴力的な男に閉じ込められた女性が、男の手から脱出する物語かと思ったのだが、そこからストーリーは違う角度へと転がっていく。
その展開の転がし方がすばらしい。

章立てとしては、第一部、第二部、第三部となっているが、それぞれの単位で、アレックスに対する見方がまったく変わっていくのだ。これは本当にすごかった。

最初のアレックスは、拉致監禁に依る純粋な被害者だった。
だが第二部のアレックスは身の毛もよだつような怖ろしいシリアスキラーに変じ、そして第三部で真相が明かされてからのアレックスは、地獄のような苦痛を浴びさせられた哀れな女性、という風に、印象も異なってくる。


特に第三部のアレックスには心を揺さぶられた。

彼女は本当にひどい目にあったのだなと思うと、ただただ苦しい。その体験は身の毛もよだつほどひどいものなのだ。
そんな彼女の苦痛や、悔しさや、恨みや、哀しさや、絶望はどれほどのものだったのだろう、と思うと切なくなる。
最終的には、警察に追いつめられているからというのもあるが、死を選択しているのだから、やるせない。

しかしそこで、彼女はかなり洗練された復讐劇を企てているのだ。
その内容に、僕はただただ快哉を上げたくなった。
もちろん死以外に方法はあったのじゃないか、という思いもなくはない。
彼女にはもっと幸せになる権利はあったはずだ。

しかし彼女にはそれができなかったのだろう。
ひどい体験を負ったものは、自分を大切にできないと聞くけれど、彼女もそのケースではないかと思ってしまう。

でも、アレックスは復讐だけは行なえた。
それだけでも少しは報われたのじゃないかな、という気もしなくはない。
そう考えると、そこには一片の救いがある。


アレックス以外では、刑事たちの面々もキャラが立っていて、非常に印象的である。
最後のアルマンなんか粋すぎるだろう、と喝采を浴びせたくなった。いいチームである。

彼らの活躍をもう少し見てみたいし、ほかのシリーズもぜひ訳してほしいし、読んでみたい。
そうすなおに思える一品だった。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)
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レイ・ブラッドベリ『華氏451度』

2014-12-05 20:44:04 | 小説(海外ミステリ等)

華氏451度──この温度で書物の紙は引火し、そして燃える。451と刻印されたヘルメットをかぶり、昇火器の炎で隠匿されていた書物を焼き尽くす男たち。モンターグも自らの仕事に誇りを持つ、そうした昇火士(ファイアマン)のひとりだった。だがある晩、風変わりな少女とであってから、彼の人生は劇的に変わってゆく……本が忌むべき禁制品となった未来を舞台に、SF界きっての抒情詩人が現代文明を鋭く風刺した不朽の名作、新訳で登場!
伊藤典夫 訳
出版社:早川書房(ハヤカワ文庫SF)




暗喩に満ち満ちたディストピア小説である。

文章は詩的と言えば聞こえは良いが、修飾語の多い文章が目立ち、ちょっともったりしていて読みづらい。
だから作品世界に入りこむまで少し時間がかかる。

しかし気がつけば、小説世界に没入していた。
それもこれも、その文章が、小説世界の暗さに拍車をかけているからだろう。
それこそブラッドベリの上手さかもしれない。



舞台は近未来で、本を読むことが禁じられている世界である。
この世界では知識を得て、自分で考えることが否定されており、政府から与えられる広告などを大量に受け取って、暗いことを考えない人間ばかりが育つように管理されている。

極端な設定だが、読んでいると、その設定のおぞましさが如実に立ちあがってくるのだ。

自分が前に何をやっていたのか、思い出せず、夫婦であっても、会話をするわけでもなく、理解し合うわけでもない。
そんな状況に陥ってしまう。

それもこれも、管理され尽くした画一化の世界であることが大きいのだろう。
平等と言えば聞こえはいいが、そこにあるのは個性の否定でしかない。


そんな中で本を燃やす昇火士のモンターグは画一化される世界に違和感を持ち、自分の頭で考えるためのツールである本に興味を持つようになる。
そこからの流れがストーリー的にスリリングであった。

特にベイティーがモンターグを追いつめていく過程がおもしろい。

ベイティー自身、積極的に焚書行為を行なっているにも関わらず、怖ろしいほど本に詳しい。
その分裂した態度が個人的には大きなインパクトを持った。

ベイティーはたぶん本当のところ、本が好きなのだろう。
だけどこの世界で生きていくために、ベイティーは徹底的に本を否定する。
そんなベイティーの姿に、少しせつない気分にさせられた。



ともあれ、独特の余韻を感じる一冊である。
物語としてもおもしろく、小説世界もすばらしい。楽しい読書の時間を堪能した次第である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)
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ジェームズ・M・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』

2014-12-04 21:20:36 | 小説(海外ミステリ等)

何度も警察のお世話になっている風来坊フランク。そんな彼がふらりと飛び込んだ道路脇の安食堂は、ギリシャ人のオヤジと豊満な人妻が経営していた。ひょんなことから、そこで働くことになった彼は、人妻といい仲になる。やがて二人は結託して亭主を殺害する完全犯罪を計画。一度は失敗するものの、二度目には見事に成功するが…。映画化7回、邦訳6回のベストセラーが新訳で。
田口俊樹 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)




展開の速さがともかく目を引く作品だった。

不倫関係にある男女が殺人に手を出すという話だが、夫のニックの目を盗んでフランクとコーラが関係を結ぶのもスピーディだし、ニックを殺害しようと計画する流れもスムースだ。
その後も、物語はサクサクと進んで行くのが良い。

しかも読み味も、不倫劇があり、殺害計画があり、法廷劇があり、男女の感情的なもつれあいがあり、で非常にバリエーションに富んでいる。
200ページ程度の短い作品だが、よくもこれだけのエピソードを盛り込んだものだと感心させられるばかりだった。



そんな物語を牽引する上で、キャラクターが立っていることも明らかだ。

根なし草のように、常にふらふらしていたいフランク、今いる場所から逃れたいと思っていながら、実のところ堅実な生き方を欲しているコーラ。
それぞれ現実にいそうな感じが出ていて、生々しさがある。

人として、彼ら二人は誉められたものじゃないのだけど、訳者も指摘しているように憎めないところが心に残る。


そうして二人に訪れるのは、予想通りの破局だ。
しかも、コーラはひょっとしたら、フランクが自分を殺したかもしれないと思いながら死んでいったのだ。
それを考えると、少しせつない気分になってしまう。

こんな凡庸な三面記事のような作品なのに、そこからせつなさを感じるとは思いもしなかった。これは本当に見事なことだ。


ともあれ設定はありきたりながら、心を持ってかれる作品である。
さすがは長きにわたり読まれているだけはある一冊だろう。

評価:★★★★(満点は★★★★★)
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S・S・ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』

2014-11-29 10:08:33 | 小説(海外ミステリ等)

だあれが殺したコック・ロビン?「それは私」とスズメが言った―。四月のニューヨーク、この有名な童謡の一節を模した不気味な殺人事件が勃発した。マザー・グース見立て殺人を示唆する手紙を送りつけてくる“僧正”の正体とは?史上類を見ない陰惨で冷酷な連続殺人に、心理学的手法で挑むファイロ・ヴァンス。江戸川乱歩が称讃し、後世に多大な影響を与えた至高の一品。
日暮雅通 訳
出版社:東京創元社(創元推理文庫)




本格推理らしい作品である。
当たり前ではあるけれど、非常に緻密に事実を積み上げていっていて、殺人解決に至っており、この手の推理小説を久しぶりに読んだ分、よけいおもしろく感じられた。


マザーグースの童謡に元にしたと思われる殺人が発生する。その事件を捜査する一同だったが、次々と童謡に基づいた事件が発生して……という流れだ。

見立て殺人の古典だけあり、そうした理由は今ひとつ、最後まで納得いかないのだけど(理由は説明される)、ガジェットとしては申し分ない。


そうして少しずつ犯人は誰なのか、探り当てていくのだが、そこから次々と殺人が起こる過程はおもしろかった。
特に追及劇などは二転三転して、非常にドキドキさせられる。
これぞ本格推理のだいご味だ。

ヴァンスのラストの行動はどうかと思うのだけど、物語のおもしろさは最後まで光っている。
よくできた推理作品と感心するばかりである。

評価:★★★(満点は★★★★★)



そのほかのS・S・ヴァン・ダイン作品感想
 『グリーン家殺人事件』
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ダシール・ハメット『ガラスの鍵』

2014-02-18 21:04:17 | 小説(海外ミステリ等)

賭博師ボーモントは友人の実業家であり市政の黒幕・マドヴィッグに、次の選挙で地元の上院議員を後押しすると打ち明けられる。その矢先、上院議員の息子が殺され、マドヴィッグの犯行を匂わせる手紙が関係者に届けられる。友人を窮地から救うためボーモントは事件の解明に乗り出す。
池田真紀子 訳
出版社:光文社(光文社古典新訳文庫)




訳者もあとがきで書いているが、『ガラスの鍵』は「無愛想でとっつきにくい小説」である。

まず海外小説なので、人物名がすんなり頭に入ってこないし、ミステリなので登場人物の数も多く、ときに混乱してしまう。
加えて本書はハードボイルド。主人公の内面を語らず行動のみを描くため、行動理由がすぐつかめないことが多い。
そのほかにも、説明描写はとことんそぎ落とされているため背景が見えづらいときもある。

だがそれも最初だけのことだ。
リズムに乗ってくると、それらの雰囲気が心地よくなるからふしぎである。
読み終えた後は、素直におもしろい、と思えた。


主人公は賭博師のネッド・ボーモント。
彼は自分の金を回収するため、そして友人の窮地を救うために行動する。
ネッドはとにかく動きまくる。その行動のおかげで、物語は起伏に富み、楽しめるのだ。

それに加え、黒幕然としたシャドや彼らの暴力にはノワールの雰囲気があるし、真相も二転三転して飽きさせない。
純粋にミステリとして優れている。


そしてキャラクターにも、特に主人公のネッドに、個人的には魅力を感じた。

彼は内面が語られないせいか、クールな雰囲気がある。まずそれが何よりも良い。
中盤で、彼は徹底的な暴力にさらされるが、そのとき見つけた剃刀で首を切ろうとする。
理由はまったく説明されないのだけど、そういった場面を見ると、虚無的な彼の人間性がうかがえるようで、心に響いた。


そして彼のクールさは最後の方で際立ってくる。
真犯人に向かって最後に言ったセリフもいいが、何と言ってもラストシーンがすてきだ。

ネッドはそこで相手を徹底的に突き放すような言葉を口にする。
見ようによっては、それは手ひどい裏切りとも言えるセリフだ。

もちろんその理由は語られない。
それだけに、読んでいると苦みすら感じてつらく、ずんと胸に突き刺さる。

そしてそれがつらく、苦いからこそ、本作は独特の深い余韻にあふれているのである。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかのダシール・ハメット作品感想
 『マルタの鷹』
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フェルディナント・フォン・シーラッハ『コリーニ事件』

2013-07-11 05:41:20 | 小説(海外ミステリ等)

2001年5月、ベルリン。67歳のイタリア人、コリーニが殺人容疑で逮捕された。被害者は大金持ちの実業家で、新米弁護士のライネンは気軽に国選弁護人を買ってでてしまう。だが、コリーニはどうしても殺害動機を話そうとしない。さらにライネンは被害者が少年時代の親友の祖父であることを知り…。公職と私情の狭間で苦悩するライネンと、被害者遺族の依頼で公訴参加代理人になり裁判に臨む辣腕弁護士マッティンガーが、法廷で繰り広げる緊迫の攻防戦。コリーニを凶行に駆りたてた秘めた想い。そして、ドイツで本当にあった驚くべき“法律の落とし穴”とは。刑事事件専門の著名な弁護士が研ぎ澄まされた筆で描く、圧巻の法廷劇。
出版社:東京創元社




いきなりネタばれでなんだが、この本を読んでいる最中、ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』を思い出した。
物語の出発点はもちろんちがうし、根っこにある本当に描きたいこともちがう。
それでもそう感じたのは、親しい人がナチスの戦争犯罪に加担していた事実を知ってしまうという点にある。

そういう意味、本作も『朗読者』も、ドイツという国と彼らのナチスに対する考えが浮き出た一品と言えるかもしれない。
そしてナチスの台頭が、ドイツにとっていかにトラウマであるかということを知らしめる作品でもある。


まずは物語を整理しよう。

駈けだしの弁護士ライネンは、ある犯罪人コリーニの国選弁護人を買って出る。しかしコリーニは若くして死んだ友人の祖父だった、というのが出だしだ。
なかなかいい出だしである。
主人公は被害者とも当然親しかったわけだし、同じく被害者の孫で死んだ友人の姉とは男女の関係にある。
そんな人間関係の中で被告の弁護を引き受けるのは厳しいことだろう。尻込みする気持ちも充分にわかる。

しかしライネンは最終的には被告の弁護を引き受けることになる。
結局それが弁護士というものなのだろう。
それらを含めた法廷劇の内容は物語として純粋におもしろかった。


だが被告であるコリーニはなかなか動機を語ろうとしない。
読んでいる途中まで、その理由はわからないのだが、すべての真実を知った後でふり返ると、コリーニが真実を語らなかった理由がわかるような気がした。
日本語で言うなら、それは武士の情けということになるのだろう。

なぜならコリーニの殺した男は、ナチスの戦争犯罪に加担していたからだ。
被告のコリーニは被害者のマイヤーのことを憎んでいた。
だがそれでも、コリーニが自らの憎悪の理由に対して口を閉ざしたのは、マイヤーがナチスに関わっていたことを被害者の家族に知らせたくなかったからだと思う。

彼が憎むのは、マイヤーであって、その親類まで、殺人という理由以外で苦しめたくはなかったのかもしれない。
マイヤーがライネンに謝罪した言葉を読み返すと、そう思う。


しかし真実と言うものは、それが裁判である以上、明らかにされざるをえない。
ライネンはマイヤーの過去を知り、マイヤーの戦争犯罪を告発することとなる。

正直なところ、その場面を読んだときは、『朗読者』を思い出して、既視感を覚えたことは否定しない。
けれどそのようにナチス犯罪を表に出すということは、それだけドイツ人がナチスの戦争犯罪に対してトラウマを持っているということの証なのだろう。

一般人でもナチスの台頭を許し、結果的に彼らに協力した。そして非人道的なこともした。
その事実をいかに清算するか、ドイツ人が強く意識していることがよく伝わる。
ある意味、物語の流れとしては必然だったのかもしれない。

そしてそれは著者の祖父がナチスの将校だったことも関係していよう。
子であり、孫の世代は、ごく普通の人としか見えない上の世代の罪に悩み、戸惑い、苦しんでもいる。
だからこそ、ドイツおよびドイツ人は時代と向き合う必要があるのだろう。

そのために、法を信じるか、社会を信じるかの別はあれ、法の不備を告発せざるをえない。


だがそれでも、上の世代の罪を、下の世代がすべてを背負って生きていく必要があるかといったらそういうわけではないのだ。
上の世代の罪は罪として清算しなくてはいけない。
しかし上の世代の罪は罪として、孫の世代は、自分の生き方をしていくほかないのだ。

社会は連続しており、それに対する向き合いも必要だが、個人は別個の人格なのだ。
そしてそれがドイツという国のありかたでもあるのだろう。

ともあれ、リーガルサスペンスかと思っていた内容が、どんどんと流れが変わっていく場面がおもしろい。
そしてそこからドイツの法律の不備と、ドイツの精神性すらあぶりだしている点に驚く。

『犯罪』ほどではないが、これもまた忘れがたい作品である。

評価:★★★(満点は★★★★★)



そのほかのフェルディナント・フォン・シーラッハ作品感想
 『罪悪』
 『犯罪』
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デイヴィッド・ゴードン『二流小説家』

2013-06-16 18:34:06 | 小説(海外ミステリ等)

残忍な手口で四人の女性を殺害したとして死刑判決を受けたダリアン・クレイから、しがない小説家のハリーに手紙が届く。死刑執行を目前にしたダリアンが事件の全貌を語る本の執筆を依頼してきたのだ。世間を震撼させた殺人鬼の告白本! ベストセラー間違いなし! だが刑務所に面会に赴いたハリーは思いもかけぬ条件を突きつけられ……アメリカで絶賛され日本でも年間ベストテンの第一位を独占した新時代のサスペンス!
青木千鶴 訳
出版社:早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫)




なかなか楽しいエンタテイメントである。

二流小説家を、主人公兼語り手にしているためか、純粋におもしろさを追求しているのが伝わってくる。
随所に盛り上がるポイントはあるし、エロもあれば、スプラッタもあり、ラブロマンスもあれば、サスペンスもある。さらに小説内小説にはSFやヴァンパイアものまで登場する。
いろいろな要素を一冊で楽しめる。そういう点、贅沢な作品なのだろう。
それゆえの冗長さはあるけれど、物語自体は楽しんで読むことができた。


ジャンルとしてのくくりは、一応ミステリということになる。
そしてそのミステリの部分も、単純におもしろかった。
ベタだな、と思うポイントもあるけれど(特に共犯者)、危機が迫りくる場面なんかは、ハラハラしながら読めるし、先の展開が気になり、ワクワクさせられた。


またこの小説は、キャラ小説としても魅力的なのである。
それは主人公の二流小説家、ハリーの生活の描写に依るところが大きい。

ハリーは生活のために、ポルノやSF、ヴァンパイアものなどのジャンル小説を、粗製濫造している。
売れないために、あらゆるジャンルを手掛けているし、生活に困って女子高校生の家庭教師をしなければいけないときもある。
見るからにしがない生活だ。
加えて女にもふられて、少し引きずっているように見えなくもない。

だがそんな冴えない作家でも、少数ながらファンがいて、彼の作品を愛していてくれる。
それを感じさせる場面が、どこか微笑ましくあった。

それにビジネスパートナーのクレアとのやり取りなんかも、読んでいるとおもしろい。
子供に使われるいい大人の姿がどこか滑稽でおかしくもある。
彼なりの創作理論も興味深い。


エンタテイメントゆえに後に残るものは少ない。
しかし読んでいる間は、楽しい時間を過ごすことができる。
『二流小説家』はそういう作品であるようだ。

評価:★★★(満点は★★★★★)
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トマス・H・クック『心の砕ける音』

2013-05-13 19:56:09 | 小説(海外ミステリ等)

ロマンチストの弟は「運命の女」がきっといると信じていた。リアリストの兄はそんな女がいるはずはないと思っていた。美しく謎めいた女が兄弟の住む小さな町に現れたとき、ふたりはたしかに「運命の女」にめぐりあったのだったが…。クックがミステリを超えて、またひとつ美しくも悲しい物語を紡ぎだした。
村松潔 訳
出版社:文藝春秋(文春文庫)




トマス・H・クックは『記憶』シリーズしか読んだことはないが、この作家の特徴は、薄皮を剥ぐようなストーリー展開にあると思っている。

一つの事件が起こり、その事実を語り手はゆっくりと語り上げていく。
その語りによって、サスペンス性を煽り立て、人間関係の心の襞に迫っていくというのが、クックのスタイルだ。

『心の砕ける音』でもそんなクック節は健在であった。
内容が内容だけに、地味という点は否定しようもないが、安心して読めて、しかも充分におもしろい作品となっているのはまちがいない。


主人公は、キャルとビリーの二人の兄弟だ。
二人の性格は父と母から別々に受け継いでいるせいか、大きく異なっている。

兄のキャルは、あくまで現実的に物事を考え、かなり醒めた人生観を持っているのに対し、弟のビリーはどこかロマンチストで、幻想を追い求めるのに夢中になっている。
兄は目の前に溺れている人がいても、危険だと思えば躊躇し、弟の方は迷いなく飛び込む。そんな感じだ。


そんな弟はあるとき刃物で刺されて死んでしまう。
その背後には、彼が恋した女の存在が見え隠れするが、、、といったところだ。

弟の死の真相が、どこにあるのか、そして兄弟と深く関わり、容疑者とも見なされているドーラは一体何者なのか、という点が大きな謎である。
その真相を描くのに、ジリジリと煽り立てるように物語を進めていくあたりは、さすがクック、堂に入っている。
ストーリーの運びは申し分なく、楽しんで読めるのが何よりも良い。


また兄弟の心理の描き方もおもしろい。

リアリストとして生きてきた兄のキャルだが、弟が恋した女に、彼も惚れることになる。
醒めた恋愛観を持つ男が恋をしたとき、殺人を犯すこともあるのかもしれない、そんな疑念をじわじわと掻き立てられるあたりはすばらしい。
そして彼の最終的な行動こそ、リアルな人間の動きだと思うのだ。

ドーラの人生もまた興味深かった。
なぜ彼女は素性をかくしつづけるのか、その事実が明らかになっていく過程は悲しくもあり、また一つの人生だと感じる。


相変わらず地味だし、押しも弱い。
しかしクックの煽り立てるような筆致はクセになるし、人の心にじっくりと迫っていくスタイルが僕は好きだ。
これからもクックを読み続けたい。そう感じさせる一冊であった。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかのトマス・H・クック作品感想
 『死の記憶』
 『夏草の記憶』
 『沼地の記憶』
 『緋色の記憶』
 『夜の記憶』
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ルシアン・ネイハム『シャドー81』

2013-05-08 20:35:38 | 小説(海外ミステリ等)

ロサンゼルスからハワイに向かう747ジャンボ旅客機が無線で驚くべき通告を受けた。たった今、この旅客機が乗っ取られたというのだ。犯人は最新鋭戦闘爆撃機のパイロット。だがその機は旅客機の死角に入り、決して姿を見せなかった。犯人は二百余名の人命と引き換えに巨額の金塊を要求、地上にいる仲間と連携し、政府や軍、FBIを翻弄する。斬新な犯人像と、周到にして大胆な計画―冒険小説に新たな地平を切り拓いた名作。
中野圭二 訳
出版社:早川書房(ハヤカワ文庫NV)




冷静に後からふり返ると、これはどうだろうかと感じる部分は多い。
しかし読んでいる間は、そんなことも気にせずに読み進めることができる。

裏を返せば、それだけストーリーテリングが巧みなのだろう。
そういう意味、『シャドー81』はエンターテイメントらしい作品と言えるのかもしれない。


物語は背表紙のあらすじとは裏腹に、ベトナム戦争の場面から始まる。
おかげで読み始めは、予備知識と内容が違いすぎて、いささか戸惑ってしまった。

しかし中身は状況がつかめないながらもおもしろい。
ベトナムの場面と香港のシーンはどうつながるのか、彼らは一体何がしたいのかなど、謎めいた行動の連続が興味深い。

船で飛行機を運ぶところは、手間とコストがかかりすぎる割に、リスクがでかい気もするが(ごまかす方法がマネキンって……)、つっこむのも野暮なのだろう。


そして、つっこむのを控えたくなるのは、ディテールを丁寧に積み重ねているのが大きい。
だから無理があるように見えても、変なリアリティがあり、素直に物語を受け入れられる。

第二部のハイジャック場面も興奮の連続だった。
こんなにうまくいくかなという疑念はあるが、ここでも細部描写が光っていて飽きさせない。
これは作者が元記者ということが大きいだろう。緻密な取材力の賜物である。

そして第三部で明かされる黒幕の正体の意外性もすばらしかった。


緻密な設定、手に汗握る緊迫感あるストーリー、思いもよらない展開の運びと、楽しい要素に満ち満ちている。
娯楽作品と呼ぶにふさわしい作品、そういう印象を強くした次第だ。

評価:★★★(満点は★★★★★)
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デュレンマット『失脚/巫女の死』

2013-04-19 20:16:48 | 小説(海外ミステリ等)

いつもの列車は知らぬ間にスピードを上げ……日常が突如変貌する「トンネル」、自動車のエンストのため鄙びた宿に泊まった男の意外な運命を描く「故障」、粛清の恐怖が支配する会議で閣僚たちが決死の心理戦を繰り広げる「失脚」など、本邦初訳を含む4編を収録。
増本浩子 訳
出版社:光文社(光文社古典新訳文庫)




デュレンマットは初めて読む作家だが、文学的な雰囲気と、エンタテイメントな雰囲気が適度に混じりあって、ユニークな作家だな、と感じた。
特にメタファーや元ネタの使い方の上手さも光っていたと思う。



たとえば冒頭所収の『トンネル』。

これはメタファーに満ちた作品である。
通学に使ういつもの列車のはずなのに、列車は知らない間に、暗く長いトンネルに入り込んでしまう。
非常にシュールで不可思議な小説だが、そのトンネルのメタファーがすてきだ。

個人的にそれは、理不尽な状況に人を追いやる時代の空気と読み取った。
それはともあれ、知らない間に、抜き差しならない場所に、入り込んでいく様を象徴的に描いていておもしろい。そしてぞくりとさせられるのだ。

「まだ何も変わったところはないような気がしたのに、そのときには本当はもう、僕たちは深みへと落ちていく穴の中に入り込んでしまっていたんだ」っていうところなどは、現実的にありえそうに思えるだけに、特に寒気を覚える。



『失脚』は、エンタテイメントと文学的な雰囲気がよく出た作品だと感じる。

内容は独裁国家を舞台にした心理劇である。
その心理的な駆け引きが非常に刺激的であった。

登場人物は政治局の委員たちだが、そこでくり広げられる、個人や派閥による対立、独裁者の機嫌を損ねないようとするゴマすり、互いを蹴落とそうとするための脚の引っ張り合いなどが展開されている。
そこでの政治的暗闘は醜悪そのもので、読んでいる分には楽しかった。

そして一人の委員が粛清されたとの疑惑から、粛清の恐怖もあり、混乱が起きる過程がおもしろい。
特に後半の、独裁者が作り上げたシステムに独裁者がはまり込んでいく展開にはゾクゾクさせられた。

ラストも皮肉が利いている。
その皮肉は、グロテスクな喜劇としか言いようがなく、苦笑を覚えるほかなかった。
ともあれ見事な一品である。



そのほかの2作品もおもしろい。

『故障』は、主人公の心理的な動きがおもしろい。
また引退した老人たちの裁判が、どこか不安な気持ちを誘うようで、こわくもあった。
ラストも衝撃的で、ドキリとさせられる。

『巫女の死』は、有名な物語に多様な解釈を提示していて、その点を興味深く読んだ。

評価:★★★★(満点は★★★★★)
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P・D・ジェイムズ 『女には向かない職業』

2013-03-20 20:01:11 | 小説(海外ミステリ等)

探偵稼業は女には向かない。ましてや、22歳の世間知らずの娘には―誰もが言ったけれど、コーデリアの決意はかたかった。自殺した共同経営者の不幸だった魂のために、一人で探偵事務所を続けるのだ。最初の依頼は、突然大学を中退しみずから命を断った青年の自殺の理由を調べてほしいというものだった。コーデリアはさっそく調査にかかったが、やがて自殺の状況に不審な事実が浮かび上がってきた…可憐な女探偵コーデリア・グレイ登場。イギリス女流本格派の第一人者が、ケンブリッジ郊外の田舎町を舞台に新米探偵のひたむきな活躍を描く。
小泉喜美子 訳
出版社:早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫)




裏表紙にも書いてあるが、女には向かない職業、とは探偵稼業のことである。
本書は、そんな女には向かない職業につこうとする、若い女コーデリア・グレイの最初の事件を描いている。

そういうこともあり、ジャンルはミステリだが、若い女の通過儀礼を描いた作品と何となく感じた。


話の内容は、自殺した息子の動機を探ってほしいと、ある富豪からの依頼を受けたコーデリアがその経緯を探る、というものだ。
言うまでもなく地味な話である。

事件の真相は地味で、意外と感じるほどでもなく、ショッキングでも、特に驚きがあるわけでもなかった。
筋は通っているが、あまりにパッとしなさ過ぎて、心に響くものは少ない。

お話そのものだけを見れば、僕の好みには合わなかった。


だが、ストーリーはともかくとしても、主人公のコーデリア自体は大層魅力的であった。

コーデリアは良くも悪くも小娘である。
「初めて面接にきた熱心な十七歳の少女みたいに見える」と自己評価しているが、それは読んでいても何となく伝わる。

実際世慣れていないと感じる部分はいくつか見られた。
それゆ男からは軽んじられるらしく、自殺の一件を扱った刑事からは、ショッキングな写真を見せられ、試されるような仕打ちを受けている。

しかしコーデリアは、共同経営者のバーニイの跡を継ぐ形で、探偵稼業というハードな職種につこうとする。
そして真摯に事件に向き合い、探偵としての仕事を続けていくのだ。
そんなコーデリアの姿は大層好ましい。


特に印象に残ったのは、最後のダルグリッシュとの対決場面だ。

そのとき、コーデリアは老練な刑事相手に精神的に追いつめられることになる。
けれど、彼女はそこでふんばり、客を売らず、あくまで私立探偵としての流儀を貫いている。

それを読んだとき僕は、コーデリアはその瞬間初めて探偵になれたのだ、と感じた。
言うなれば、それは探偵としてのイニシエーションなのだ、と僕は思う。それを潜り抜けた彼女の姿が忘れがたい。

お話そのものは確かに合わない。
しかしそんな一人の女の成長の姿自体は、何かと心に残る作品であった。

評価:★★(満点は★★★★★)
コメント (2)
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『エジプト十字架の謎』 エラリー・クイーン

2013-03-12 20:11:07 | 小説(海外ミステリ等)

ウェスト・ヴァージニアの田舎町アロヨで発生した殺人事件は、不気味なTに満ちていた。死体発見現場はT字路。T字形の道標にはりつけにされた、首なし死体の外貌もT。アロヨへ趣いたエラリーだったが、真相は不明のまま。そして半年後、類似の奇怪な殺人事件を知らせる恩師からの電報がエラリーのもとへ届いた…。スリリングな犯人追跡劇も名高き、本格ミステリの金字塔。
井上勇 訳
出版社:東京創元社(創元推理文庫)




ミステリの楽しさが味わえる一品である。

ストーリー展開は読み応え抜群でおもしろいし、メインである謎解きの方も、実にロジカルで大層説得力がある。
僕が今さら言うことでもないけれど、完成度の高い作品であった。


物語は、首を切られた死体が道標にはりつけにされるという事件から幕を開ける。
出だしの事件としてはなかなかショッキングだ。
そしてその後、第一の現場から遠く離れた別の場所でも、似た事件が起きることとなる。

そういったストーリー展開はおもしろい。
思わせぶりで怪しげな人物も多く、主筋とは関係のない部分もあるけれど、そういったところを含めて読ませる辺りはさすがであった。


そして本作で何よりすばらしかったのは、そんなショッキングで装飾的な殺人方法にも、ちゃんとした意味が与えられていることである。
その意味も論理的に解明される辺りが良い。
このフェアな謎解きは、読んでいても心地よいものがある。

また真犯人は誰かを疑うに至る理由も、非常に筋が通っていた。
論理は実に鮮やかだ。


物語の娯楽性は高く、本格推理らしいロジカルなつくりに感心させられる。すばらしい一品であった。

評価:★★★★(満点は★★★★★)
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『死の記憶』 トマス・H・クック

2013-02-18 20:45:33 | 小説(海外ミステリ等)

時雨の降る午後、9歳のスティーヴは家族を失った。父が母と兄姉を射殺し、そのまま失踪したのだ。あれから35年、事件を顧みることはなかった。しかし、ひとりの女の出現から、薄膜を剥ぐように記憶が次々と甦ってくる。隠されていた記憶が物語る、幸せな家族が崩壊した真相の恐ろしさ。クックしか書きえない、追憶が招く悲劇。
佐藤和彦 訳
出版社:文藝春秋(文春文庫)




トマス・H・クックは記憶シリーズしか読んだことはないが、そのシリーズ特有の、薄皮をはぐように真相に近づいていく語りは、今回も健在である。


母、兄、姉を銃で惨殺し逃亡した父親、父はなぜそのような凶行に走ったのか、一人のライターの登場から、唯一生き残った男が過去を追想する。

その語りの中から、徐々に家族の間の人間関係が紐解かれていく様が、相変わらず堂に入っている。
乱暴者の兄と彼の出生の秘密、陰鬱な母と彼女に襲い掛かる病魔、「私」の憧れだった姉と彼女への思慕、そしてそんな家族を眺める父の姿。

そういった家族の人間関係や抱えている状況をゆっくりゆっくり提示しながら、父親が殺人を行なうに至った動機に肉薄していく様がなかなかスリリングだ。


だがこの作品が真にすばらしいのは、そんな風にして、父の犯罪に肉薄しているように見せながら、記憶をさかのぼっていく「私」の心理をあぶりだしていっている点にあるだろう。

「私」は事件の真相を探るうちに、父親が犯罪を行なう至った理由を、ふとした瞬間に訪れる人生に対する虚しさではないか、と推測している。
だがそれは父親の犯罪に対する考察と見せながら、自分の心情を、父親に託しているだけでしかないのだ。
その重ね合わせの効果がなかなか印象深い。

やがて見えてくる事件の真相も、責任感の強い父親らしい行動だったと思う。
ローラとの親密さが最初から終始描かれていたけれど、それが結末とも結びついていてその丁寧な構成に感嘆とする。


解説にもある通り、クックの作品は、地味で暗い点は否めない。
本作だってはっきり言って派手さはないし、語りはゆるやかなためか、雰囲気は重めだ。

けれど、卓越した物語構造と、しんしんとした語り口は良い。
ゆるやかに心の中へと染入ってくるような思いがするのだ。

これで記憶シリーズはすべて読み終えたことになるが、本書は『夏草』『緋色』に次ぐレベルの作品であると感じた次第だ。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかのトマス・H・クック作品感想
 『夏草の記憶』
 『沼地の記憶』
 『緋色の記憶』
 『夜の記憶』
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『解錠師』 スティーヴ・ハミルトン

2012-12-20 20:54:29 | 小説(海外ミステリ等)

けっして動かないよう考え抜かれた金属の部品の数々。でも、力加減さえ間違えなければ、すべてが正しい位置に並んだ瞬間に、ドアは開く。そのとき、ついにその錠が開いたとき、どんな気分か想像できるかい? 八歳の時に言葉を失ったマイク。だが彼には才能があった。絵を描くことと、どんな錠も開くことが出来る才能だ。やがて高校生となったマイクは、ひょんなことからプロの金庫破りの弟子となり芸術的な腕前を持つ解錠師になる……
越前敏弥 訳
出版社:早川書房(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)




大甘な作品だとは思う。
けれど、全体的にジリジリした空気があり、エンタテイメントらしい楽しさに満ち溢れている。
『解錠師』に対する個人的な感想を述べるならそうなろう。


本書は犯罪ミステリであると同時に、ボーイミーツガールものでもある。
そして個人的には、そのボーイミーツガールの部分が、少し肌に合わなかった。

「ぼく」ことマイクルは過去の事件が原因で失語症になっている。
そして彼と出会うアメリアは母の自殺が原因で心に傷を負っている。そういう状況だ。
正直アメリアにそこまでのトラウマがあるようには伝わってこなかったが、情報としてはそういうことらしい。

そんな二人は互いに似たもの同士ということを感じ、やがては結ばれる。
二人が結ばれるのは、物語だから、それでもいい。
だけど、あまりに都合が良すぎないか、とも読んでいて感じた。

特にアメリアの部屋に忍び込んで、絵を置いていく展開には、軽く引いてしまう。
それ以降のマンガを通してのやり取りなどはおもしろいのだけど、最初のとき、よくアメリアも受け入れたよなと思ってしまうのだ。


しかしそんな引っかかる部分はあれど、メインのお話の方はおもしろいのである。

どんな錠も開ける才能に恵まれたマイクルはそれが原因で、それを利用しようとするやつらの手により犯罪に巻き込まれることとなる。
その錠を破るテクニックには関心してしまう。まさにプロの手口だな、と読みながら思った。

そしてマイクルが関わっていく犯罪の場面には、ハラハラしっ放しだった。
前半部の金庫破りの話や、四人組のチームと組んで行なう犯罪など、緊張感が適度に保たれており、普通におもしろい。

それに現在と過去が並行して語られる分、そのギャップにも驚かされるのだ。
アメリアとマイクルの間に何が起きたのだろう、とか、一年という短い間に、マイクルの立場がここまで変わってしまったのはなぜだろう、とか、読んでいるといろいろな謎が浮かぶ。
それだけに、期待をあおられてならないのだ。
加えて途中までどんな形で物語が収束するか、まったく読めないのもよい。

悪役もまたすばらしく、寝ぼけまなこの無慈悲なところは結構好きである。

エンタテイメントとして、これだけ楽しめる要素に満ちているのは、実に見事なことと思う。


本書は2013年版「このミステリーがすごい」の海外部門1位である。
1位にふさわしい作品かどうかはともかく、エンタテイメントとしてハイレベルにある作品と感じたのは確かだ。
大甘ではあるが、ミステリとしては確実に楽しめる作品と言い切ってもいいだろう。

評価:★★★★(満点は★★★★★)
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