私的感想:本/映画

映画や本の感想の個人的備忘録。ネタばれあり。

『民数記』感想

2024-07-08 21:33:36 | 本(人文系)
『民数記』で印象的なのは、モーセの二つの側面だ。

一つは、強権的方法で支配を確立させようとする老練な政治家としてのモーセの姿。
もう一つは、侵略を次々と成功させていく有能な軍司令官としてのモーセの姿だ。



まず、強権的方法で支配を確立させようとする老練な政治家の面から見てみよう。

『出エジプト記』では、民からたびたび不平を言われて対応に困っているモーセが描かれていたが、今回でもその姿は健在だ。
彼の民衆からの指示は必ずしも絶対ではなく、不平の声はたびたび上がる。

彼が大衆の指示を受けて指導者の位置にいられる根拠は、神の仲介者だからという点にある。
そしてその支配を明確にするため(と思う)、モーセは神の名のもとにいくつも規定を定めて、支配を確立しようとしている。そんな推論を『出エジプト記』の感想で書いた。

しかしそのように対策を講じたとしても、イスラエルの民は六十万人!もいるのだ。
それだけの人間がいれば、考えが異なる人が現れるのは避けられない。

だからだろう。神の言葉がモーセからのみ語られるのはおかしいと、明確な反乱も起こされている。
とりあえず最初に描かれる反乱を、モーセはミリアムの皮膚病を(おそらく)利用して乗り切った。
だがモーセとしては、自身の権力を明確にする緊急性を意識したのではないか。


その解決策としてモーセの取った対応は、恐怖の利用である。

モーセは神の罰をやたらに訴える。
そうして大衆に恐怖を植え付けることで、神に、つまりは神の代弁者であるモーセに従わねば、という意識を植え付けたのではないだろうか。そうしてモーセは自身の支配を有利にしたのではないか。

たとえば安息日に違反した者を撲ち殺したりするのは一つの恐怖支配の様相を呈しているように見える。
神の名のもとにそのような暴力も是認する。
そうしてモーセは大衆の心理的な支配を目指したのだと私には見えた。

だがそんな強引な方法では、人によってはよけいに反発したくもなろう。
コラ、ダタン、アビラムの反抗をその結果なのではないか。
そのときの最終的な勝者はモーセで、コラ、ダタン、アビラムは命を落とした。
けれど、彼らが命を落とした過程は描かれている以上にえぐかったのではないか、と推定してしまう。



さてそうして民衆を支配したモーセだが、彼には政治的な目標があった。
それこそ侵略である。
モーセはイスラエルには約束された土地がある、と神の言葉を考案し、それを大衆に向かって訴えかけて軍事行動を遂行している。

そしてもう一つの側面である有能な軍司令官のモーセは、次々と侵略を成功させていくのだ。

とは言え、侵略である以上、その場面は読んでいても気が滅入ってしまう。
たとえばカナンの場合、侵略した後はそこの住人を絶滅させているのだ。
はっきり言って、その行動は徹底的に過ぎる。現代の倫理観からすれば引いてしまう部分も多い。

一番ひどいのは31章18節だ。
男と男を知っている女は全員殺せ、と命じ、男を知らない女を戦利品として兵に与えると宣言するモーセの姿にはさすがにドン引きする。あまりにえぐい。

そういったイスラエルの軍事行動を見聞きしたからか、バラクとバラムは混乱をきたす始末。
その場面からは、イスラエルが周囲の民族から恐れられており、イスラエルからの被害をどう回避するかの選択を迫られていたのだろうことが推測される

しかしそうやって侵略を続けているモーセに民衆の中には疲れた者もいただろう。
ヨルダン川を渡ることを拒む民衆がいたことは、モーセの指導に疑問を持つ人がいた事実を伝えてくれる。
だがモーセはそこを同調圧力でもって乗り切り、侵略を民族の一大事業と位置づけ、それを行なう方向で行動を進めていく。。。



そんなモーセの政治家および軍司令官の姿に、帝国主義的ナショナリズムの姿を見るようでげんなりした。

そしてこんなモーセがイスラエルにとって聖人であり、英雄という事実が、現在のガザの風景とつながっているのだろう。その事実に暗澹たる思いがするのである。


 『聖書(旧約聖書) 新共同訳』
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『出エジプト記』感想

2024-06-24 22:04:29 | 本(人文系)
モーセは民衆と主との間に立つ中間管理職である。
主がいる前提で読むならば、それが『出エジプト記』の率直な感想だ。

と同時に、カリスマ性はありながらも、民衆を押さえつけるほどの権力までは持たない、やや弱い支持基盤の指導者モーセの苦労が感じ取れる内容でもあった。


モーセは緩やかな民族主義者だったのだろう、と読んでいて思う(民族主義という概念が近代的という指摘は置いておいて)。
かつてモーセは同胞を助けるため、支配者であるエジプト人を殺害した。
それは彼がエジプトに支配されていることに心のどこかで反発していたからだろう。そして同胞を助けたいと思う程度にユダヤ人としてのアイデンティティを持っていたのではないか。
そういう民族主義的な側面があるからこそ、モーセはユダヤ人を導く指導者となり、エジプト脱出という業をなせたのだと思う。


しかし指導者になったがゆえに、モーセは常に下からの批判にさらされる。
そして下からの批判をかわすために、上との交渉を常に余儀なくされているのだ。
エジプトの王を説得するところからして大変で、同情する他ない。

ファラオ目線で見れば、ユダヤ人解放はもってのほかだろう。下手をすれば反乱の危険が増すだけでしかない。

そんなモーセの説得に耳を傾けないファラオのもとに、数々の災厄が舞い降りる。
たぶんすべては偶然だったに違いない。
だがモーセはそういった不幸な自然現象を利用して、ユダヤ人解放をはかったのではないか。

けれどファラオはあくまで頑なでモーセの意見を撥ねつけていく。
初見だとファラオの頑固っぷりに苦笑するのだが、あるいはファラオは、災厄とユダヤ人の解放を不必要に結び付けたがるモーセにうさん臭さを感じていたのかもしれない。
ファラオは迷信におびえる家臣たちよりもよっぽど現実的に考えており、預言的な言葉をくり返すモーセを正確に観察していたのかもしれない。


そうしてなんやかんやあって、モーセはユダヤ人たちを率いてエジプトを脱出する。
しかし苦難は続くわけで、エジプトを出たところで、ユダヤ人が安住できる場所はなく民衆は不満を募らせていく。民衆の意見としては妥当なところだ。

モーセとしてはそんな民衆の不満は脅威だったに違いない。
いつか民衆たちの反逆を受け、指導者の立ち位置から引きずり下ろされるかもしれない。そんな怯えさえあっただろう。彼の支持基盤はおそらく弱かったであろうから。

そんなモーセが取った戦略こそ、主から選ばれたことの強調だったのではないだろうか。

エジプトを出て不満を募らせる民衆に、モーセは主の命をことさらに強調して十戒を定め、主を祀るための細かな規定を定めていく。
正直後半の細かすぎる規則には読んでいてうんざりしたし、何でここまでちまちま定めるのだろう、とあきれながら読んだ。
だけどそこにこそモーセの意図はあったのではないか、と今となっては思う。

そんな細則を積み重ね義務化し、長年にわたって維持するうちに、それは絶対的なものになっていったであろうからだ。
そうなれば主の権威は否応なく増したにちがいない。

つまり常に反抗しがちな民を結集するために、モーセたちは神という権威を利用し、その強制性を生み出すために規定を定めた。そう思うのだ。

そう考えると、モーセってのはやはりひとかどの人物と思うのだ。
自然現象を利用して、それをユダヤ人解放に利用したり、主の権威付けを行なうことで、民衆の結束を企図する。
それは並大抵の能力ではできっこない。相当程度のカリスマ性があったことだろう。


その解釈が正しいか、正しくないかは別としても、ユダヤ人の行動原理をここまで細かく定めた点は、当時の支配者層の苦労を見るようでもあった。
そしてこれだけの細かい規定を定めて、民衆を支配しようとする手法に、宗教が持つ危うさも見る思いがするのである。


 『聖書(旧約聖書) 新共同訳』
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『創世記』感想

2024-06-11 21:27:55 | 本(人文系)
久しぶりに聖書を読み直すことにしたので、文章としてなるべくまとめていきたい。


さて最初は『創世記』である。
以前読んだときも感じたが、今の倫理観で『創世記』を読むとなかなかきつい。

ロトの娘が父と近親相姦に及ぶ場面は軽く引くし、アブラハムがイサクをささげる場面では、なぜ試すようなことをするのかと腹立たしくなる。
リベカとヤコブの計略はあまりに身勝手でどん引きするし、これではあまりにエサウが気の毒だ。
また自分に子どもができないからと召使と夫を結ばせるラケルの選択は理解できず、シケムに対するヤコブの息子たちの報復も過剰すぎてちょっと怖い。
夢を読み解いたのにヨセフのことを忘れる給仕役も恩知らずで苦笑するし、冷たく扱った兄たちに対してヨセフが嫌がらせのような行動を取る様には嫌悪感を抱く。

それら疑問に思った点に関して、いろいろな教会の説教を検索したが、基本的にどこも善意の解釈を行なっていてもやもやする。非キリスト者の私としては納得しがたい。


そしてその納得しがたいという感情こそ、この場合は正しいのではないかと思えてならないのだ。

『創世記』は今の時代には合わず、その世界から善意で何かを読み取らなくても良い。
乱暴な意見かもしれないが、この感想こそ私にはもっともしっくり来る。

むしろこれは、当時の倫理観と価値観を記録した歴史的資料と見ればそれで良いのではないかと思うのだ。
当時の一神教的世界に生きていた者たちは、独善的で自分たちが選ばれた民と思い込み、女性を物のように扱っていた。
それを現在の価値観で断罪するのではなく、無理に好意的に解釈するのではなく、それをそのまま受け入れる。
その価値観の延長が今のパレスチナ問題の独善的行動と結びついているのだけど、『創世記』自体の価値観は『創世記』自体の価値観として、切り離して考えるしかない。

それが独りよがりな私の『創世記』の読み方である。


さて、そんな『創世記』で個人的に目を引いたのは、以下の文章だ。

「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」(3章22節)。

これは人間への戒めの言葉でもあるのだろうが、同時に神を脅かす人間の可能性を神の口から語らせた言葉と感じた。

キリスト教的倫理観からすれば、この節から、神の分を越えず謙虚にあれという説教を導くのだろう。
しかし非キリスト者の私は、そこに反逆児の姿を見るようで少しく小気味よさを感じるのである。


過去の感想
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中村元『原始仏典』

2015-12-02 20:49:56 | 本(人文系)
 
仏教経典を片端から読破するのはあまりに大変だが、重要な教えだけでも知りたい―本書は、そうした切実な希望にこたえるものである。なかでも、釈尊の教えをもっとも忠実に伝えるとされる、「スッタニパータ」「サンユッタニカーャ」「大パリニッバーナ経」など、原始仏教の経典の数々。それらを、多くの原典訳でも知られる仏教思想学の大家が、これ以上なく平明な注釈で解く。テレビ・ラジオ連続講義を中心に歴史的・体系的にまとめたシリーズから、『原始仏典1釈尊の生涯』『原始仏典2人生の指針』をあわせた一冊。
出版社:筑摩書房(ちくま学芸文庫)




仏典と書くと非常に難解な響きを持つものだが、中村元の文章は非常にわかりやすくて、すんなりと頭に入ってくる。それが本書の優れた点だ。
おかげで、特別難しいと感じることなく、原始仏教の世界とエッセンスを知ることができた。

素人としては本当にありがたい一冊である。


基本的に釈尊の思想の奥にあるのは、優しさなのだと思う。
他人に対して思いやりを持ち、謙虚であって、思想的に自分の方が勝っていると考えることをたしなめてもいる。

そんなスタンスを取るのは、あるいは、その考え自体が自己に対する執着だからかもしれない。
釈尊は、悩みの原因が自己に対する執着にあると考えた人だ。
それだけに、何かに囚われることのない、中道を生き、我執を離れた無我の境地を目指すことで、心の安寧をはかることを、ひたすらに説いている。

その姿勢は興味深く、共感を覚える面もあった。

そのほかにも形而上学に関する話題には沈黙をもって答えた、という話もおもしろく読んだ。
不可知論の立場を貫き、考えても仕様がないことにはかかずらわない。
そういった釈尊の姿勢は一貫していて、芯が通っているように見える。


個人的には釈尊の臨終の場面などは感動的で好きだ。
師匠の死を前に嘆くアーナンダに対する優しい言葉などは釈尊の優しい心根を見るようで、しんと胸に響いてならない。

「戦いで幾千の人々に打ち勝つよりは、一人の自己に打ち勝つものこそ最上の勝利者である」という『ダンマパダ』の言葉とか、ミリンダ王の問いのギリシア的価値観とインド的価値観との衝突なども興味深く読めた。


仏陀の思想について、素人なりに知ることのできる、優れた名著であろう。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)
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宮本武蔵『五輪書』

2015-08-04 21:22:28 | 本(人文系)
 
一切の甘えを切り捨て、ひたすら剣の道に生きた絶対不敗の武芸者宮本武蔵。武蔵は、「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」る何十年にも亙る烈しい朝鍛夕錬の稽古と自らの生命懸けの体験を通して「万里一空」の兵法の極意を究め、その真髄を『五輪書』に遺した。本書は、二天一流の達人宮本武蔵の兵法の奥儀や人生観を知りたいと思う人々のために、『五輪書』の原文に現代語訳と解説、さらに「兵法35箇条」「独行道」を付した。
鎌田茂雄 全訳注
出版社:講談社(講談社学術文庫)




剣豪と称えられる宮本武蔵が自身の戦いの体験をもとに、剣の極意を、五つに分けて書き記した書物である。

さすがは剣豪が書いただけあり、戦いに対して、臨場感のある記述が目立つ。
特に、技術論の展開されている、水之巻はその印象が強い。

打ちかかってくる敵に対しては、まず自分が打ちこむ姿勢になることが肝心で、太刀はその体勢に従って打つものだ、という点、
また、太刀を受けるとき、敵の目を突くようにして受ける、という点などなど。
どれも生々しい実感が伴っていて目を引く。

戦術面の記述された、火之巻も実際の体験に基づいて書いているためおもしろい。
戦いの場面でどう動くかの描写はさすがだ。
どこか孫子の兵法に通じる部分もあるように見えて興味深い。

どれもこれも、幾度となく死線を潜り抜けてきたからこその記述で、感銘を受ける。


そんな武蔵がもっとも強調しているのは、型にしろ何にしろ、一つのものに囚われてはいけない、という点に尽きるだろうか。

視線をどこかに固定したり、構え方に凝り固まったり、戦術を一つに定めるなど。
あらゆることに対して、ニュートラルにあることを強調している。

つまるところ、天然自然の中に自分を置き、当意即妙に対応することに尽きるのだろう。
そして当意即妙にぱっと動くようになるためには、鍛錬が必要であるらしい。

その結論は、禅的な世界と剣という戦いの世界を併せ持っており、まさに剣禅一如を地で行くような感じだ。


実際論としては、現代においても、通じるかはわからない。
だが根柢にある、一つのことに囚われることの危険さは、今も変わらぬ通じるものがあり、いろいろ考えさせられた次第である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)
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遠藤周作『キリストの誕生』

2015-06-13 09:38:43 | 本(人文系)
 
愛だけを語り、愛だけに生き、十字架上でみじめに死んでいったイエス。だが彼は、死後、弱き弟子たちを信念の使徒に変え、人々から“神の子”“救い主”と呼ばれ始める。何故か?―無力に死んだイエスが“キリスト”として生き始める足跡を追いかけ、残された人々の心の痕跡をさぐり、人間の魂の深奥のドラマを明らかにする。名作『イエスの生涯』に続く遠藤文学の根幹をなす作品。
出版社:新潮社(新潮文庫)




『イエスの生涯』の続編である。
というわけで、今回はイエスが死んだ後の弟子たちの姿に視点が移されている。

自分を裏切った弟子たちを恨まず、神への絶対的信仰と共に十字架にかかったイエス。
その死を、裏切った側の弟子たちはどう受け止めたのか。
著者は、彼らの心理をいろいろ推理していて読み応えがあった。



初期の原始キリスト教団の中には、ペトロたちのようにイエスを人間を越えた存在として見なすグループもあったし、ヤコブたちのようにユダヤ教の枠内で、イエスの教えを受け入れた者もいた。

基本的な前提知識である、こういった経緯は、使徒行伝を読んだだけの段階では、まったく理解できていなかった。それだけに、読んでいてもおもしろい。


ステファノを中心としたギリシャに元々いたユダヤ人のグループは、ヤコブたちのように、イエスをユダヤ教の枠内に押し込めることに反発をもっている。。
そんなステファノに対し、ヤコブ側でもステファノ側でもないペトロはあくまで慎重にふるまう。
そこにペトロの個性を見るようでおもしろかった。非常に人間くさい。


一方パウロはペトロと違い、直接の弟子でない分、大胆にイエスの教えを解釈できて、行動にも移すことができている。
そんなことができたのは、パウロのキャラクターもあるが、生前のイエスを知らなかったから、という点は興味深かった。

ペトロがイエスの生涯から何かを探ろうとしたのに対し、パウロはイエスを知らない分、彼の死と神の沈黙、そして復活というキリストとしての視点からイエスを見ている。

だからユダヤ教の枠を超えたもっと広い愛の教義に到達し得たのだろう。
その鮮やかさは読んでいてもワクワクしてしまう。

そしてそれゆえに、ヤコブらエルサレム教会と対立し、皮肉めいた目線を送る点には、彼のちょっと傲慢な姿を見るようで、忘れがたいものがあった。


ともあれ、彼らの活躍によって、キリスト教は世界に広がっていった。

だがその教えが現実を救うことはないのだ。
キリスト教は迫害され、ペトロは死に、パウロも死に、ヤコブも死に、ローマの攻撃でエルサレムは破壊される。
そんな中にあっても、神は沈黙し続ける。
それは皮肉とも言えるだろう。

しかしながら、その沈黙に神の不在を見るのではなく、神の意思を見て、その意味を追い求めることが、信仰のエネルギーとなっていくという点は、宗教に疎い僕には、どこか痛ましく見えてならなかった。

ともあれ、キリスト教史を大胆の推論の元に概括していて、ユニークな作品であった。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの遠藤周作作品感想
 『イエスの生涯』
 『わたしが・棄てた・女』
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遠藤周作『イエスの生涯』

2015-05-22 22:07:33 | 本(人文系)
 
英雄的でもなく、美しくもなく、人人の誤解と嘲りのなかで死んでいったイエス。裏切られ、見棄てられ、犬の死よりもさらにみじめに斃れたイエス。彼はなぜ十字架の上で殺されなければならなかったのか?―幼くしてカトリックの洗礼を受け、神なき国の信徒として長年苦しんできた著者が、過去に書かれたあらゆる「イエス伝」をふまえて甦らせたイエスの“生”の真実。
出版社:新潮社(新潮文庫)




福音書は、新共同訳聖書と岩波文庫で読んだことがある。
だからざっくりした流れは知っていたけれど、聖書にはそういう読み方もあったのかと、読んでいて驚かされる面も多かった。

そう感じたのはまず、イエスが生きてた頃の時代背景を知らなかったということにある。
けれどそれ以上に、本書では新しいイエス像が提示されていて、そのことに新鮮な印象を感じたからかもしれない。



イエスの教えの中心にあるのは、愛だ。
それまでの厳格なヤハウェと違い、イエスの示した神は、「哀しい人間に愛を注ぐ」存在だ。神という形而上学的存在に、新しい視点を示したとも言える。
そのことを、イエスの生涯と、彼が住んでいた土地のイメージと重ねて、著者は読みとろうとしている。

だがそんな新しい宗教を提示するイエスに対し、人々は、宗教的側面よりも、反ローマ運動の指導者、ユダヤ教の改革者としての姿を求めていく。この齟齬が悲しい。

というよりも、このような着眼点があったことを知らなかっただけに、驚きは大きかった。
なるほど当時の政治宗教の状況を鑑みればそういう推理も成り立つらしい。
目から鱗の思いだ。


それにつけても、イエスの愛の概念は、苛酷なことばかり起きる現実においては、非現実的なものなのだ。

それだけに、イエスは神の愛を証明することが困難だった。
だから弟子たちにもそれが伝わらなかったのだろう。民衆が求めるのは、結局のところ、現世利益的な「奇蹟」でしかないからだ。

だから離れていく弟子もいたし、反ローマ運動の指導者、つまりは「地上のメシア」たりえないと失望する者もいた。一方でその影響力を危険視し彼を監視する勢力もいた。
その情勢の描き方は、憶測まじりとは言え、やはり読み応えがある。


圧巻はやはり受難を巡る物語だろう。

そこに提示された物語も、この本の多くがそうであるように、憶測混じりではある。
しかしそのようなできごとも、ありえたかもしれないと思えるだけに、目を見開かれる思いがするのだ。

イエスは宗教者の死刑方法である石打ちではなく、政治犯として十字架刑に処せられる。
そのとき弟子たちは、イエスを裏切り、見捨てて逃げた。
にも関わらず、弟子たちがイエスの教えを命がけで伝道するのはなぜなのか。

その謎に対する著者の推理の鮮やかさはどうだろうか。
自分を裏切った者を決して憎まず、十字架の上でさえ、神への絶対的信頼をささげるイエスの姿は感動的でさえある。
弟子たちが自分を裏切った師の本当の偉大さを理解できたのも納得できるのだ。



ともあれ、イエスの生涯について、このような見方もあることを知らされ、感激した。
著者の読解力とイマジネーションと、偉大な人物に対する理解、とが深く胸に響く一品である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの遠藤周作作品感想
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池内恵『イスラーム国の衝撃』

2015-02-18 20:14:30 | 本(人文系)

既存の国境を越えて活動し、住民から徴税し、「国家樹立」をも宣言した「イスラーム国」―なぜ不気味なのか?どこが新しいのか?組織原理、根本思想、資金源、メディア戦略、誕生の背景から、その実態を明らかにする。
出版社:文藝春秋(文春文庫)




先日起きたイスラム国(ISIS or ISIL)による日本人人質事件は、実に衝撃的だった。
何でこんなことをするのだろう、、、とネットやテレビを見ながら不思議に思うことも多く、茫然ともさせられた。

そして同時に、自分がISISについて何も知らないことを思い知らされ、愕然としたものである。
イラク北部が、原理主義の過激派の侵攻を受けているというニュースは知っていたけれど、それがこのような形で日本に現れるとは思いもしなかった。

まさに自分の無関心っぷりを突き付けられた思いがした。
そして多くの日本人はそうであっただろう。


本書では、ISIS誕生の経緯から現在までを、実に丁寧に解説してくれている。

アフガン戦争によるアルカイダの離散、
イラク戦争で中央政府が弱体化したことによるアルカイダ勢力の流入、
アラブの春をきっかけにした中央政府の各所での弱体化によって、原理主義組織が勢力を盛り返していく様など、

ニュースである程度は知っているつもりだったけれど、こうやって改めて解説してもらえると非常にわかりやすい。


そんな中で、メディア戦略を駆使して、世のムスリムや、欧米勢力に訴えかけていく様など、実に巧妙だということに気づかされる。
それだけに怖ろしい組織というほかない。

そして「グローバル・ジハード」という新しいスローガンを元に、ゆるやかな組織関係を築いていく姿は、まさに現代的な戦争と見えて興味深かった。
そしてそれがいかに性質が悪いか、ということも同時に気づかされて、暗澹たる思いに駆られるのである。

そういった事情の解説は非常に読み応えがあって、勉強になる。


できれば、イスラム教では、なぜこのような原理主義が台頭しやすいのか。
ISISの詳しい統治機構など、さらなるイスラムの文化的背景や、つっこんだ内実なども知れたらよかったが、そこまで望むのは酷だろうか。

ともあれ、今現実に世界に存在する危機をよく知ることができて、満足である。
日本はもっと世界の悲惨に目を向けた方がいいのかもしれない。
幾ばくかの反省と共にそう感じる次第だ。

評価:★★★★(満点は★★★★★)
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吉野源三郎『君たちはどう生きるか』

2015-02-17 21:05:35 | 本(人文系)

著者がコペル君の精神的成長に託して語り伝えようとしたものは何か。それは、人生いかに生くべきかと問うとき、常にその問いが社会科学的認識とは何かという問題と切り離すことなく問われねばならぬ、というメッセージであった。著者の没後追悼の意をこめて書かれた「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」(丸山真男)を付載。
出版社:岩波書店(岩波文庫)




『君たちはどう生きるか』という題名からして、いかにも説教臭い内容、というイメージが湧いてしまう。

実際本書には倫理面を追及する感じの描写はある。
しかし実際読んでみると、まったく説教臭くはないのである。

それもこれも、説教(というかテーマ?)の語り方にあることはまちがいない。


主人公はコペルくんという中学生の生徒である。
本作は、彼視点の物語と、彼の叔父さんからの意見を並行して語る形で進んでいく。

コペルくんの観察力はなかなかすてきだ。

ビルの上から人々を見下ろすところから、自分を客体的に見ることをぼんやりと発見したり、粉ミルクから世界の人が何かしらの形でつながっていることを発見する。
こういった自身の体験から、世の中や自分の心の立ち位置を発見していく様はすばらしい。


それに叔父さんの意見も的確なのだ。

ビルの上から人々を見下ろすパートでは、地動説を持ちだして、人間は自分を中心に、とかく物事を判断してしまいがちだということを説得力をもって述べている。
またニュートンの林檎の説明でも、当たり前の問題を、どう意識を拡大して見ていくかについて説明している。
また人々がつながっている問題を論じながら、ヒューマニティの重要性を訴えるところなども感心して読んだ。
またナポレオンのところを述べるところでも、暗に戦争に傾斜していこうとする時局を批判しているようにも読めておもしろい。

叔父さんの意見には、知性が感じられ、非常に公正で極めて倫理的で、ヒューマニティにあふれている。
こんな内容の文章を、盧溝橋事件の起きた年に書いたということに驚くほかなかった。


物語としては「雪の日の出来事」に心を動かされる。
保身のため、友達のために行動することができず、罪悪感に苦しむところなんかは、非常に理解できるために、心に響いた。

この中で訴える内容は実にすばらしく、読み物としてもおもしろい。

本書は内容的に、子供向けだが、大人になってから読んでも充分に心に届く。
そんな見事な一品と思った次第である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)
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『読書について』ショーペンハウアー

2014-12-22 20:36:06 | 本(人文系)

読書好きのみなさんにとって、本書の内容は耳の痛い話ではありませんか?なにを、どう読むか。あるいは読まずにすませるか。読書の達人であり一流の文章家だったショーペンハウアーが贈る知的読書法。
鈴木芳子 訳
出版社:光文社(光文社古典新訳文庫)




耳に痛い言葉のオンパレードであった。

「読書は自分で考えることの代わりにしかならない。自分の思索の手綱を他人にゆだねることだ」
「本を読むとは、自分の頭でなく、他人の頭で考えることだ」
「ひっきりなしに次々と本を読み、後から考えずにいると、せっかく読んだものもしっかりと根を下ろさず、ほとんどが失われてしまう」

っていうところは、自分でも納得する面があるだけに恥じ入るばかりであった。

他人の理路整然とした説を受け入れても、知識がふえるだけでしかない。自分の頭で考えてこそ意味があるのだ、っていうことだとは思うが、まさにそうです、としか言うほかないのである。

実際、現実の面で、僕たちは自分で考えていることなどどれほどあるのだろう。
結局思考の多くは、他人の受け売りではないのか。
そんなことを思ってしまう。
ともあれ、身につまされるものがあった。


そのほかにも、匿名での文章を否定したり、派手な素材に頼っただけの文章を否定するなど、納得するポイントはいくつもある。
特に文章に、「主張すべきものがある」ことを要求する、ショーペンハウアーの姿勢には共感するものがあった。
それだけに匿名で、こんな駄文を書き散らしている自分を恥じ入るほかない。

何はともあれ、読書人なら、一度は読んでみる作品かもしれない。
きっと己の読書や文章について、省みる良い機会となるだろう。

評価:★★★★(満点は★★★★★)
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『イスラーム文化 ―その根柢にあるもの―』井筒俊彦

2014-12-11 22:01:51 | 本(人文系)

イスラーム文化を真にイスラーム的ならしめているものは何か。―著者はイスラームの宗教について説くことからはじめ、その実現としての法と倫理におよび、さらにそれらを支える基盤の中にいわば顕教的なものと密教的なものとの激しいせめぎ合いを認め、イスラーム文化の根元に迫ろうとする。世界的な権威による第一級の啓豪書。
出版社:岩波書店(岩波文庫)




イスラム教を少し知りたくて手にした本だが、非常に刺激的な内容で、楽しい読書となった。
文章も一般人を対象にした講演をまとめているだけに、平易で読みやすく、理解しやすい。
初心者向けの良質な一冊と言ってもいいだろう。



著者が文中でも述べているように、文化は「その文化の成員のものの考え方、感じ方、行動の仕方をあらかじめ決定する」ものだ。
それはイスラムでも顕著に表れているらしい。


イスラームでは、聖なる領域と俗なる領域を区別しておらず、「生活の全部が宗教」という点。
イスラームはすなわち、『コーラン』とムハンマドの業績や言行をまとめた「ハディース」のテキスト解釈と結びついた文化であるという点。
神と人との関係において、イスラームには、キリスト教の父と子のような親しさはなく、主人と奴隷という契約関係となっている点。
イスラームという語源自体、絶対帰依を意味している点。
因果律が否定され、神が無条件で全能的であり、人の関与する余地がないという点。
『コーラン』に基づいてつくられたイスラーム法は命令という形式を取っている点。
などなど。


それはとかく峻厳なイメージのあるイスラーム世界と合致していて興味深い。
傍目的に厳しそうな彼らの宗教的態度にはそのような背景があったのか、と驚くばかりだ。



またそんなイスラームの問題点にもいくつか気付かされる。

たとえば構造的に、イスラーム国家は世俗の分離ができていないことから、近代化に必要な世俗国家としての形態を持ちえず、近代化に苦労することとなった点。
聖典解釈の自由「イジュティハード」が9世紀に禁止されたことで、「活発な論理的思考の生命の根を切られてしま」い、「文化的生命の枯渇という重大な危険に身をさらすことにな」ったこと、そしてそれが「近世におけるイスラーム文化の凋落の大きな原因の一つ」となったという点、
などなど。

それらには宗教の根深い問題を見るようで、興味深い。


また現世重視的なスンニー派や、内面への道へと深化したシーア派など、それぞれの違いも見られておもしろかった。
大概、両者はムハンマドの後継者をどう見なすか、という分け方で述べられることが多い印象なので、細かな違いの説明はおもしろい。
特に、両者が聖典解釈で、大きく異なっているという点が何より印象的だった。
そりゃ衝突するだろうな、と読んでいて納得もした。



ともあれ、知らないことばかりで、どのページを読んでも刺激に富んだ内容だった。
イスラーム世界とその宗教について、多くを知ることのできる、初心者にもわかりやすい一冊である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)
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『マホメット』井筒俊彦

2014-12-11 22:01:00 | 本(人文系)

イスラームとは何か。マホメットとは誰か?根源的な謎に答えるため著者はマホメット出現以前のアラビアの異教的文化状況から説き起す。沙漠を吹暴する烈風、蒼天に縺れて光る星屑、厳しくも美しい自然に生きる剽悍不覇の男たちの人生像と世界像。魅力つきぬこの前イスラーム的文化パラダイムに解体を迫る激烈な意志としてマホメットは出現する。今なお世界史を揺がし続ける沙漠の宗教の誕生を、詩情豊かに描ききる名著の中の名著。
出版社:講談社(講談社学術文庫)




「冷い客観的な態度でマホメットを取扱うことは私には到底できそうもない」

そう若い時分の著者が語っているだけあり、非常に思いに溢れた内容となっている。
確かに文章は硬いのだが、その分、マホメットが登場する前のアラブの状況や、マホメットが誕生した意義を解き明かそうと、筆を走らせているのがわかり、心に響いた。



マホメットが登場する前の状況は興味深い。

当時のアラビアのベドウィンたちは、血のつながりである部族を大事にしていて、時に優しく気前のいい態度も見せている。
だが部族以外の者には苛烈に接し、殺戮を行なっても、罪悪感を抱かない。
そしていずれ全員に訪れる死を前に、刹那的快楽主義に陥っている。そんな状況だ。

そんな中で部族単位を越えた宗教を打ち出したマホメットことムハンマドは革命的なことを成し遂げたと言えるらしい。
はびこる刹那的快楽主義には、神への懼れを訴え、周囲の人間の軽薄さを責めている。
イスラム教誕生にはそんな経緯があったらしい。


またムハンマドの人間的側面も、本書からはうかがえ目を引いた。

たとえば孤児として成長し、そのことが後々まで傷を残しているらしいこと。
宗教者として立つことを悩んでいたムハンマドを妻が励ましたこと、など。
有名な宗教者も普通の人だということを教えてくれる。

そうして既存宗教の改革をうちたてながら、やがて反発が強くなり、ヒジュラを経て、政治家としての側面が露わになる過程。
ユダヤ教とキリスト教との対立していく様などの、後期の彼もおもしろい面は多い。
特にユダヤ教との対立で、宗教者としての危機意識を覚えるところは、良くも悪くも生身の人間らしさを感じる。



ともあれ、ムハンマドの簡単な事績と登場以前の状況を学べて良かった。
短いが、イスラム教を知るとっかかりとしては充分かもしれない。

評価:★★★★(満点は★★★★★)
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ダン・アリエリー『予想どおりに不合理』

2014-11-24 21:00:21 | 本(人文系)

「現金は盗まないが鉛筆なら平気で失敬する」「頼まれごとならがんばるが安い報酬ではやる気が失せる」「同じプラセボ薬でも高額なほうが効く」―。人間は、どこまでも滑稽で「不合理」。でも、そんな人間の行動を「予想」することができれば、長続きしなかったダイエットに成功するかもしれないし、次なる大ヒット商品を生み出せるかもしれない!行動経済学ブームに火をつけたベストセラーの文庫版。
熊谷淳子 訳
:早川書房(ハヤカワノンフィクション文庫)




行動経済学という言葉を今回初めて知ったのだが、こんなジャンルの学問があることに驚くばかりだ。
どれも自分の身に重ねると納得のいくことばかりで、非常に勉強になる。

合理的な行動を取らないが、一貫した行動を取る人間の「予想どおりに不合理」な姿に、読んでためになった。
何より楽しく読めたのが大きな収穫。非常にすばらしい一冊だった。



本書は15の章にわかれているが、どれも自分の身をふり返るに当てはまるものばかりだ。

  • 選択肢が二つだけならば選ばないのに、比較対象の商品があると魅力的に見えてしまう相対性を利用した、おとりの効果。

  • 最初に設定された価格がいったん意識に定着すると、その商品に対する未来の価格まで決定する、恣意の一貫性の原理。

  • 無料と提示されると、非合理的だとしても無料の方を選択してしまうゼロの効果。

  • 社交のような社会的な行為に数字などの市場感覚を持ち込むと、社会規範がゆらぐという問題。

  • 無料にすると、客が多く集まるが、その分自分の取り分を少なくしようとする人間の社会規範性。

  • 性的興奮に陥ると冷静な判断が下せなくなる人間の心理。

  • 人間は先延ばししたがる傾向にあり、外から課された締め切りは守るという現実を生かした自制心を掻き立てる方法論。

  • 一旦所有意識を持ったものに対しては過大に評価したがる人間心理。

  • 合理的ではないのに、選択肢の扉を消さずに残しておきたいと考える人間の決断の難しさ。

  • 知識を基にした予測を立てると、味覚などの人間の判断は予測に引きずられてしまう現実。

  • 値段など高い価値を感じさせるものほどプラセボ効果が高いという実験。

  • 不信の輪が生まれると、互いに利己的となり、それまで存在していた長期的なお互いのメリットが失われていく共有地の悲劇。

  • 不正が可能な状況だと内的あるいは外的な監視の目がないと不正直にふるまいかねない人間の弱さ。

  • 現金だと拝借はできないが、それが一旦物品に変わると罪悪感が軽減される効果。

  • 商品を選択するときでも、周囲の影響を受けやすい人間の移ろいやすさ。


どれも自分にも身に覚えがあるだけに楽しくて仕様がない。
これは本当に勉強になる。しかも内容も文章も読みやすくて、初心者にもうってつけだ。

行動経済学というもののおもしろさと、人間の心理の奇妙さを見つけることができる一冊である。まさに読む価値のある作品だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)
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『天皇陛下の全仕事』山本雅人

2014-11-12 21:00:18 | 本(人文系)
 
天皇陛下はどんな日常生活を送られているのか?
国事行為、宮中祭祀、宮中晩餐会、地方訪問、稲作など知られざる毎日を、元宮内記者がやさしく解説。 この一冊で皇室記事が10倍面白くなる!
出版社:講談社(講談社現代新書)




タイトル通り、天皇陛下の仕事についてまとめられたものだ。

天皇の仕事についてざっくりと全体像が見渡せるものとなっており、ありがたい限り。
読み物としてのおもしろさはあまりないが、読む価値はあったと言えよう。


天皇の仕事は儀式的なものが多い。

大使との引見や書類の決裁、数々の神事や式典への参加など、日本の国事に絡む仕事が多く、種類も多くて煩雑だ。
人と会うため事前の知識を入れねばならないし、言葉にも当然気を遣う。しかも周囲の注目を否応なく浴びざるを得ない。
ずいぶんとストレスフルな仕事だなと読んでいて何度も感じた。

しかもそんな天皇という立場に、定年というものはないのだ。

今上天皇はすでに80を超えている。
それでも仕事に励み、ときには休日の仕事もこなすなど、どう考えてもハードな内容だ。
地方行幸などは老齢の人間にやらせるにはあわただしい仕事である。大変なことだ。


しかし今上天皇は、そんな天皇としての仕事をひたすら真摯にこなしている。
周囲への気配りも欠かさず、現代において求めらている天皇像を崩さないようにしている。

正直な話、こんな苛酷な仕事を、一人の人間に課すのは、制度的に問題があると思う。
皇族の面々がどう思っているかは知らないが、もっとどうにかならないものかと思ってしまう。

ともかく、現代の天皇制は、今上天皇のまじめで真摯な個人の人徳に支えられているように思えてならない。
読み終えた後には、そんな思いを強くするばかりであった。

評価:★★★(満点は★★★★★)
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須原一秀『自死という生き方 覚悟して逝った哲学者』

2014-11-11 20:59:12 | 本(人文系)

65歳の春。晴朗で健全で、そして平常心で決行されたひとつの自死。著者は自殺を肯定し、本書を書き、それを実践して自死した。2008年に単行本として刊行し、出版界に衝撃を与えた話題の本がついに新書化。「積極的な死の受容」の記録がここに。
出版社:双葉社(双葉新書)




本書は自身の哲学的事業を達成するために、自死を選択した哲学書の遺著である。

著者が一人称の立場での死の認識論とうたっているように、共感できるポイントもあるが、牽強付会としか思えない、納得いかないポイントもある。
しかし一人の人間の個人的な死に対する考え方に触れていると、何かと死について思いをはせることができる。

賛同できるか否かはともかく、自分の死生観、倫理観、共同体意識などを問われる作品かもしれない。



本書は三島由紀夫、伊丹十三、ソクラテスという自死を決行した人物に注目して、自死についての論を書き起している。

著者は彼らの自死は「老醜の忌避」か「病気と老衰と自然死」の拒否ではないかという風に見なしている。
その結果、彼らはある程度のことをやり尽し、「人生の高」や「自分自身の高」が見え、人生に対する未練があまり強くなくなったと、著者は考えているのだ。

この意見が、彼らに当てはまるかはわからないが、そのような心情が、人間に生まれる理由は理解できる。
特に彼らは成功者だったからこそ、そのように自身の最期を主体的に選択した(かもしれない)気持ちもよくわかるのだ。

その辺りの認識は、推察ながら卓見ではないかと思う。



だがそれ以外の部分には「?」と感じる面もある。

たとえば死への恐怖を、死のことを考えているうちに、人生への未練など考える気にもならなくなったのだと語っている。
それを読んで、本当にそうか? と思う気持ちもなくはない。人間はもっと生物的欲求によって生を希求せざるを得ない生き物とも思うのだが。。。

そのほかの部分でも、著者の考え方は、どこか観念的な面もあって、個人的にはしっくり来なかった。

著者は、死について考えている人について、「三人称の死」でとらえている人が多く、観念的だと言っている。
しかし死以外の部分についての考え方などは、著者も充分に観念的である。



とは言え、著書が述べる、自然死や老衰に対する忌避感は僕にも理解できるのだ。
それに自死した後の共同体について遠慮する気持ちもよくわかる。

だから、彼の意見にしっくり来ない部分があっても、彼の行動に対して否定する気持ちに、僕はどうもなれそうにない。

著者の考えや死への行動は、世間的にはともかく、僕には割りにすんなり受け入れられる。

もちろん家族はつらいだろうが、少なくとも家族は著者の自死を理解しているようだし、そんな著者の普段の考えを知っているようだ。
たぶん彼の意見を拒否する人は少なからずいよう。
しかしわかる人にだけわかればいい。少なくとも家族が理解してくれるのなら充分だ。そんな気がする。


そして自分ならば、実際彼の立場に立ったら、どうするだろう、と思わずにいられないのだ。
少なくとも自身の死生観を問われるような気分になる。

ともあれ、死について考えさせられる一冊であった。

評価:★★★★(満点は★★★★★)
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