私的感想:本/映画

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井上靖『敦煌』

2014-02-12 21:54:11 | 小説(歴史小説)

官吏任用試験に失敗した趙行徳は、開封の町で、全裸の西夏の女が売りに出されているのを救ってやった。その時彼女は趙に一枚の小さな布切れを与えたが、そこに記された異様な形の文字は彼の運命を変えることになる…。西夏との戦いによって敦煌が滅びる時に洞窟に隠された万巻の経典が、二十世紀になってはじめて陽の目を見たという史実をもとに描く壮大な歴史ロマン。
出版社:新潮社(新潮文庫)




『敦煌』を読んで感じたのは、運命の変転というものだ。
人もそうだし、文字や文書、国でさえも、歴史の荒波の中では成すすべもなく飲み込まれてしまうのかもしれない。
そんなことを読んでいて感じた。

そんな運命の流れは、中国の歴史を背景にしていて、文章も硬質なためか、大層雄大に感じられた。


舞台は中国の西域だ。
正直、西夏も西夏文字のことも知らなかったので、こんな歴史もあったのだな、と知れて、それだけでもわくわくできる。知らない世界に触れられるのはなかなか楽しい。

その中で、宋の官吏を目指して失敗した行徳は西夏文字に触れたことで、西域を目指すこととなる。
解説にもある通り、ここらあたりは強引な流れと感じるし、ほかにも強引と感じるストーリー展開はあった。

しかし運命に導かれるまま流されていく行徳の姿は、歴史の流れにそのままどっぷりつかっているように見える。それが物語の世界観とマッチしているようにも感じた。
これはなかなかいいキャラクターではないだろうか。


この行徳に限らず、目を引くキャラクターは何人かいる。
特に朱王礼の血気盛んで義理に厚いところなどは好感が持てるし、尉遅光の盗賊然としたどこか不遜な姿も非常にキャラクターが立っていておもしろい。

そうした魅力的なキャラクターに導かれ、物語は紡がれていく。


そしてそこから見えてくるのは、歴史の大きな流れとも言えるのかもしれない。

人の運命の変転も、大きな流れの前では、抵抗すべくもなくくりこまれていっているように見えるのだ。
その描写の中に、この作品の大きさを見る思いがする。

本書は決して長い作品ではない。
しかしそこにある世界の大きさにはただただ感服するばかりであった。

評価:★★★(満点は★★★★★)



そのほかの井上靖作品感想
 『しろばんば』

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2023-05-15 17:03:39
史実をもとに描く壮大な歴史ロマンと紹介されている、井上靖の「敦煌」について、コメントしたいと思います。

かつて歴史学者の岡田彰雄は、歴史学者と小説家の歴史に対するアプローチの違いについて、「歴史学者が自分の吐く息をかける事によって、史料と史料との間の必然的な関係が乱される事を恐れて、つとめて自分を抑え、自分を殺して、歴史の中に入りこんで行こうとするのに対して、作家はむしろ手をのばして、自分の方に引き寄せる事に力を注いでいるように思われる。歴史家が不完全な史料の断片を繋ぎ合わせ、史実を探り、歴史の中の未知の分野に一歩でも近づこうと骨を折っているのに対して、例えばバルザックのような天才は、その深い洞察力と豊富な想像力によって、歴史の空白を補い、歴史家さえも感嘆させる程、見事な歴史を再現させる事が出来る。」と述べています。

作家の井上靖の歴史小説へのアプローチも、彼の歴史に対する深い洞察力と想像力によって、"歴史の空白"を補おうとしているように思われます。

「敦煌」は、千仏洞(敦煌)の物語です。20世紀の初めに、イギリスの探検家スタインや、フランスの探検家ペリオによって、世界的にその名を知られるようになった敦煌の石窟から現われた、膨大な史料は、世界文化史上のあらゆる分野の研究を改変するのに足る、画期的なものでした。

しかし、敦煌の石窟を小説家としての想像力で、構築してみせたのが、この「敦煌」という作品だと思います。
ですから、この小説は、今日の歴史的な学問の研究の成果の上に作られているのであり、小説の中身としての話そのものは、作者の純然たる想像の産物です。

作者はまず、趙行徳なる人物を創り出します。彼は居眠りをしたために進士の試験に落ちますが、自分が命を助けてやった西夏の女に促されて、都の開封を出発して辺土に入り、西夏軍の一兵士として、辺境の各地を転戦し、遂には反乱部隊に投じ、沙州の漢人と共に、西夏軍との間に最後の戦いを決しようとします。

「行徳は地上に立つと、自分の眼の前に高く聳え、南北に大きな拡がりを持っている丘の斜面に眼を注いだ。その丘の断面一面に、北から南へ、裾から頂きへかけて、夥しい数の四角な大小の洞窟が掘られてあるのが見えた。それらは幾重にも重なり合っているものもあれば、一つの穴だけで他の二層分の高さを持っているものもあった。----」言うまでもなく、千仏洞(敦煌)です。

趙行徳は、駱駝使いの人夫たちを督励して、経典、写経をはじめ、ありとあらゆる財宝を運び込み、出口を塗り込めて、城に火を放ちます。
敦煌石窟の秘密を明らかにした場面ですが、ここまで辿り着くためには、若い趙行徳の開封出発以来の、長い歳月と、幾つかの戦闘と、幾度かの砂漠の横断と、命を賭けての女の争奪とを巡って、作者は次々と幾つかの長い物語を展開しなければならなかったのです。

大部分が戦闘に明け暮れていただけに、大同小異の戦いの場面が重なっていて、若干、単調だなと感じる点もありましたが、歴史学の学問的な実証の枠の中の"空白"をこれだけ充実した大胆な想像力で、この"空白"を埋めた、井上靖の作家としての志の高さには、敬意を表したいと思います。

文豪バルザックは、「人間喜劇」の序の中で、歴史は在りしがままであり、そうあらねばならないが、小説は"荘厳なる虚偽"の世界を築き上げなければならないと書いていますが、全ての優れた小説とは、もともと"荘厳なる虚偽"-----けだし箴言だと思います。
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